ミズノ の歴史

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創業 1906年
創業者 水野利八
創業地 大阪市北区
創業
1906年4月、水野利八氏が大阪市北区で水野兄弟商会を創業し、運動用服装品などの製造販売を始めた。1912年5月に東京支店、1921年7月に大阪工場を開設し、1923年7月には美津濃運動用品株式会社へ改組している。社名を美津濃株式会社へ改めたのは1942年1月で、1943年3月には岐阜県養老郡に養老工場(現・ミズノテクニクス株式会社)を建てた。株式は1961年10月に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1972年7月に両取引所の一部銘柄へ指定されている。
決断
用具を売る前に、その用具を使う競技のほうを主催した。輸入品が中心で市場そのものが小さい段階にあった1911年、水野利八氏は大阪実業団野球大会を開催し、1913年8月には関西学生連合野球大会を主催した。関西一円の25校が参加したこの大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の全国高等学校野球選手権大会へつながっている。1945年8月の敗戦で軍需生産が止まり、グラブの原料となる皮革が闇にしか無くなると、利八氏は闇取引を全面的に禁じた。水野健次郎氏は上京して帆布10万6千ヤールの有償支給を受け、リュックサックを公定価格だけで販売した。軍需の資材を民生品へ転用したことが、統制価格のもとでの再開を可能にしている。
現況
海外へ出て40年たっても、利益の7割弱は国内から出ている。2026年3月期の連結売上高は2,590億円、営業利益は226億円、親会社株主に帰属する当期純利益は184億円である。地域別の報告セグメントは日本が売上1,552億円・利益152億円、米州377億円・24億円、アジア・オセアニア354億円・36億円、欧州308億円・14億円で、国内が売上の6割とセグメント利益の67%を占める。1986年の台湾を皮切りに現地法人を置き、2025年にはインドとカンボジアへも設立した。2016年2月に街着向けのミズノスポーツスタイルを投入して以降、営業利益は2020年3月期の62億円から226億円へ伸びたが、稼ぐ場所は国内から移っていない。
競合
競技の数を絞った相手に対し、この会社は絞らない側を選んだ。アシックスは1977年に3社合併でアシックスを発足させ、ランニングへ資源を集めて海外が売上の8割を占める構成へ移った。ゴールドウインは1995年にザ・ノース・フェイスの日本・韓国の商標権を取得し、預かる立場から持つ立場へ変わり、売上の8割弱を1ブランドで作っている。ミズノは野球・ゴルフ・陸上競技・水泳と競技別の用具をそのまま抱え、2026年3月期も海外は売上の4割にとどまる。用具を作る競技の数を減らさなかったことが、海外で8割を売る同業との地域構成の差をそのまま残している。
ミズノ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年3月期2026年3月期

創業ストーリー 丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで (1906年〜)

京都の織物問屋で商売を覚えた創業者

水野利八氏の生家は大垣で建築業を営んでいた[1]。利八氏が9歳のときに父が急逝し[2]、家業は傾いた。利八氏は小学校高等科1年で学業を断念[3]し、家を再興するには商人になるほかないと考えて、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公[4]に出た。4年の修業を経て京都の織物問屋・小堀商店へ移り、17歳で番頭格に抜擢[5]された。三井呉服店京都仕入店へは56回足を運んでも取り合ってもらえず、57回目にようやく商談を許された[6]。以後この店は小堀商店の最大の得意先となった。商売とは根気と努力だ[7]というのが、利八氏が後年まで繰り返した言葉である。奉公のかたわら利八氏は英語とアメリカの商法を独学[8]した。機会をつかんでアメリカへ渡りたいという望み[9]があったからである。

    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した

商用で第三高等学校のグラウンド近くを通りかかった利八氏は、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合[10]を目にした。外国人と知り合う機会になるかもしれないという軽い気持ちで見物の仲間入りをしたが、打球へ飛びつく選手と高く舞い上がる白球に引き込まれ[11]、以後は三高のグラウンドへ通った。1904年に日露戦争が起こる[12]と利八氏も従軍したものの、病に倒れて帰還し、金沢の陸軍病院で5カ月の治療[13]を受けて除隊した。そして1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業[14]し、運動用の服装品などの製造販売を始めた[15]。4月1日は現在もミズノの創立記念日[16]である。

    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った
    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した
    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った

大会の主催と用具販売を結びつけた商法

1912年5月、東京・神田区に東京支店[17]を設けた。この頃の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋[18]にあった。1910年に利八氏は大阪・北浜の紙問屋の娘[19]、一色いち氏と結婚した。同志社女専英文科を卒業したいち氏[20]は、語学力を生かしてアメリカのファッション雑誌やカタログを翻訳し、利八氏に海外の最新情報をもたらした。1913年10月には次男の健次郎氏[21]が生まれた。同じ年の8月、美津濃は関西学生連合野球大会を主催[22]した。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎[23][24]となった。1936年のベルリン・オリンピックに役員として参加した人物は後年、現地でも美津濃の名はよく知られていた[25]と健次郎氏に語っている。

  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は1913年8月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

利八氏は商品そのものも考案した。当時のワイシャツは襟と袖が分離[26]しており、着用のたびに取り付ける必要があった。利八氏は襟と袖を一体化したシャツを作り[27]、日露戦争の勝利にちなんで『勝ったシャツ』からカッターシャツと名付けた。スポーツ用の鞄をボストンバッグと呼んだのも利八氏で、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンといった名称も同氏の考案[28]による。製造と資本の備えも進め、1921年7月に大阪市福島区[29]で大阪工場が操業[30]を始め、1923年7月には美津濃運動用品へ改組して資本金を150万円[31]とした。1927年7月には大阪市東区に鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋[32]が完成した。大阪で7番目の百尺ビル[33]だった。

    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は1913年8月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

グライダーの技術が呼び込んだ軍需

美津濃はグライダーを製作しており、九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーは滞空時間と飛行高度で日本記録[34]を立てた。この事業歴から美津濃は軍部の目に留まり、工場は軍需品の生産へ[35]振り向けられた。国策に沿って大陸にも会社を置き、満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立[36]した。1942年1月、社名を美津濃へ[37]改めた。同年5月1日、健次郎氏は取締役として入社[38]し、尼崎北工場長に就いた。工場ではスポーツ用品を作る余地はなく、飛行機のエンジン予熱用の覆い、搭乗員待機用の大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産[39]した。

    • [34]九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーが滞空時間と飛行高度で日本記録を樹立した
    • [35]グライダーの実績から軍部に注目され、工場は軍需品の生産に充てられた
    • [36]満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立した
    • [38]1942年5月1日に水野健次郎が取締役として入社し尼崎北工場長となった
    • [39]工場ではエンジン予熱用覆い、大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年1月に社名を美津濃へ変更した

三菱重工製の九六陸攻を将官用の輸送機に改造せよという命令[40]が下り、兵員輸送用のグライダーの製造も命じられた。グライダーを曳航するには幅約100メートル、長さ1000メートルの滑走路[41]が必要だった。そこで岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成[42]した。ここでプロペラの製造と九六陸攻の改造[43]にあたった。1機あたりの受注費用は1660円[44]で、採算は合わなかった。1945年5月、健次郎氏が監督していた尼崎北工場は約80発の焼夷弾を受け[45]、目の前で全焼した。資材も人手もなく工場は閉鎖された。同年8月15日、美津濃は操業を全面停止[46]した。

    • [40]三菱重工製の九六陸攻を将官用輸送機へ改造する命令を受けた
    • [41]グライダー曳航のため幅約100メートル・長さ1000メートルの滑走路が必要だった
    • [42]岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成した
    • [43]養老工場でプロペラの製造と九六陸攻の改造を行った
    • [44]九六陸攻改造の受注費用は1機1660円で赤字となった
    • [45]1945年5月に尼崎北工場が約80発の焼夷弾で全焼した
    • [46]再建の資材も人手もなく尼崎北工場は閉鎖され、1945年8月15日に操業を全面停止した
    • [34]九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーが滞空時間と飛行高度で日本記録を樹立した
    • [35]グライダーの実績から軍部に注目され、工場は軍需品の生産に充てられた
    • [36]満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立した
    • [38]1942年5月1日に水野健次郎が取締役として入社し尼崎北工場長となった
    • [39]工場ではエンジン予熱用覆い、大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産した
    • [40]三菱重工製の九六陸攻を将官用輸送機へ改造する命令を受けた
    • [41]グライダー曳航のため幅約100メートル・長さ1000メートルの滑走路が必要だった
    • [42]岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成した
    • [43]養老工場でプロペラの製造と九六陸攻の改造を行った
    • [44]九六陸攻改造の受注費用は1機1660円で赤字となった
    • [45]1945年5月に尼崎北工場が約80発の焼夷弾で全焼した
    • [46]再建の資材も人手もなく尼崎北工場は閉鎖され、1945年8月15日に操業を全面停止した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年1月に社名を美津濃へ変更した

闇を断ち、公定価格で商いを戻した再建

終戦の夜、利八氏は『日本は終わった』と涙を流した[47]。それでも1週間のうちに態勢を立て直し、業務再開を決めた[48]。だが売る物がなく、グラブもミットも製造技術は世界水準にありながら[49]、原料の皮革が入手できなかった。闇に手を出せば材料は手に入るが、利八氏は全社員を前に[50]、美津濃は闇商売には一切手を染めてはならない[51]と宣言した。健次郎氏は軍需品の材料だった帆布や絹の羽二重、グライダーの主材である台桧の転用許可を求めて上京[52]した。監督官庁での申請は即座に認められ、帆布10万6千ヤールの有償支給[53]を受けた。これで作ったリュックサックを公定価格で売り[54]、食糧の買い出しに必需品となって飛ぶように売れた。

    • [47]終戦の夜に利八が日本は終わったと述べて涙を流した
    • [48]終戦後1週間のうちに利八が業務再開を決めた
    • [49]製造技術はあったが原料の皮革が入手できず売る物がなかった
    • [50]闇に手を出せば材料は入手できたが、利八はこれを禁じた
    • [51]原料の皮革が入手できず、利八は闇商売を全社員に禁じた
    • [52]帆布・絹羽二重・台桧の転用許可を求めて上京し認可を得た
    • [53]帆布10万6千ヤールの有償支給を受けた
    • [54]帆布製リュックサックを公定価格で販売した

次に配給の再生毛糸で硬式野球ボールを作った[55]。1946年、中学野球が復活する[56]と、主催者の朝日新聞社は美津濃にボールの納入を求めた。用具のない時代であり、投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会へ[57]供された。本業以外の仕事も引き受けた。財閥解体で三菱商事の機械部が宙に浮き[58]、その依頼を受けて美津濃産業機械を設立し[59]、工作機械を淀屋橋の本店に並べて売った。進駐軍のPXからは三越の4階にボウリング場を作れ[60]という注文が来た。当時の日本にボウリング場はなく、担当した社員の知識は英語の教材で読んだ一章だけだったが、養老工場での製材から始めて2レーンを納期ぎりぎりで仕上げた[61]

    • [55]配給の再生毛糸で硬式野球ボールを製造した
    • [56]1946年の中学野球復活にあたり朝日新聞社が美津濃へボール納入を依頼した
    • [57]用具不足のため投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会に供された
    • [58]本業以外に三菱商事機械部の在庫販売も引き受けた
    • [59]財閥解体で行き場を失った三菱商事機械部の依頼で美津濃産業機械を設立した
    • [60]進駐軍PXの発注で三越4階にボウリング2レーンを製作した
    • [61]養老工場での製材から始めて2レーンを納期直前に完成させた

労使の関係は難航し、1946年5月に大阪工場[62]、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成[63]された。1948年の憲法記念日をめぐる対立[64]では、組合が所定の手続きを踏まないまま24時間のストライキに入った。健次郎氏は法に基づいて1日分の賃金カットを通告し、組合は大阪地方労働委員会へ提訴したが、会社側の陳述が正当と判定された[65]。対立のあと健次郎氏は労使の協調へ方針を定めた[66]。400人の社員をいったん全員退職の形式[67]として勤務年限に応じた退職金を支給し、その資金で1人50株ずつ株式を取得させて全社員を株主にした。フェアプレー、フレンドシップ、ファイティングスピリットの3F[68]が、この時から全社の方針となった。

    • [62]戦後の労使関係は難航し、各拠点で労働組合が結成された
    • [63]1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された
    • [64]1948年の憲法記念日をめぐり組合が手続きを欠いた24時間ストに入った
    • [65]大阪地方労働委員会は会社側の陳述を正当と判定した
    • [66]対立を経て健次郎は労使協調を方針とした
    • [67]400人の社員を全員退職の形式にして退職金を支給し、1人50株ずつ株式を取得させて全社員株主とした
    • [68]フェアプレー・フレンドシップ・ファイティングスピリットの3Fが全社方針となった
    • [47]終戦の夜に利八が日本は終わったと述べて涙を流した
    • [48]終戦後1週間のうちに利八が業務再開を決めた
    • [49]製造技術はあったが原料の皮革が入手できず売る物がなかった
    • [50]闇に手を出せば材料は入手できたが、利八はこれを禁じた
    • [51]原料の皮革が入手できず、利八は闇商売を全社員に禁じた
    • [52]帆布・絹羽二重・台桧の転用許可を求めて上京し認可を得た
    • [53]帆布10万6千ヤールの有償支給を受けた
    • [54]帆布製リュックサックを公定価格で販売した
    • [55]配給の再生毛糸で硬式野球ボールを製造した
    • [56]1946年の中学野球復活にあたり朝日新聞社が美津濃へボール納入を依頼した
    • [57]用具不足のため投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会に供された
    • [58]本業以外に三菱商事機械部の在庫販売も引き受けた
    • [59]財閥解体で行き場を失った三菱商事機械部の依頼で美津濃産業機械を設立した
    • [60]進駐軍PXの発注で三越4階にボウリング2レーンを製作した
    • [61]養老工場での製材から始めて2レーンを納期直前に完成させた
    • [62]戦後の労使関係は難航し、各拠点で労働組合が結成された
    • [63]1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された
    • [64]1948年の憲法記念日をめぐり組合が手続きを欠いた24時間ストに入った
    • [65]大阪地方労働委員会は会社側の陳述を正当と判定した
    • [66]対立を経て健次郎は労使協調を方針とした
    • [67]400人の社員を全員退職の形式にして退職金を支給し、1人50株ずつ株式を取得させて全社員株主とした
    • [68]フェアプレー・フレンドシップ・ファイティングスピリットの3Fが全社方針となった

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ミズノの沿革1906〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1936年丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで大阪市北区で水野利八氏が水野兄弟商会を創業★★★
運動用服装品などの製造販売を開始
東京都神田区に東京支店を開設
関西学生連合野球大会の主催と、全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲

大阪の洋品雑貨店であった美津濃商店が、1911年の大阪実業団野球大会に続いて1913年8月に関西学生連合野球大会を主催し、1915年には朝日新聞社の要請を受けて中等学校野球大会の開催権を手放した経営判断。店主の水野利八氏が主導し、運動用具を売る前に競技そのものを広げる道を選んだ。

詳細を読む
★★★
中等学校野球大会の開催権を朝日新聞社へ移譲★★
大阪市福島区に大阪工場を建設し操業を開始★★
美津濃運動用品へ改組し資本金150万円に★★
大阪市東区に地上8階地下1階の本社屋が竣工
1937〜1948年軍需工場への転換と、闇商売を断って公定価格で再建した戦後社名を美津濃に変更★★
岐阜県養老郡に養老工場を建設し操業を開始★★
闇取引の全面禁止と、軍需資材の転用による公定価格での事業再開

1945年8月15日に軍需生産を全面停止した美津濃が、1週間のうちに業務再開を決め、その際に水野利八社長が全社員へ闇商売への関与を禁じた経営判断。統制下の公定価格による商いだけで会社を立て直す方針を取り、資材は軍需品の転用許可と配給によって調達した。

詳細を読む
★★★
1949〜1987年輸入枠が開いたゴルフと株式上場、そして二代目が定めた国際化の方針大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
大阪市福島区に大阪営業センターが完成
水野スポーツ振興会を設立
東京・大阪両証券取引所の市場第一部銘柄に指定
東京都千代田区に東京営業センターが完成
水野国際スポーツ交流財団を設立
兵庫県宍粟郡にミズノランバードを設立
大阪市鶴見区に大阪流通センターを開設
台湾台北に海外初の現地子会社を設立★★
1988〜2025年競技用品への依存が招いた首位陥落と、製造の分社を経た業績の立て直し水野正人東京店エスポートミズノを新築し営業を開始
水野正人カナダ オンタリオ州に MIZUNO CANADA を設立
水野正人大阪市住之江区に地上31階の新本社ミズノクリスタが完成★★
水野正人名古屋市北区に名古屋支社を開設
水野正人香港に MIZUNO CORPORATION OF HONG KONG を設立
水野正人中国上海に SHANGHAI MIZUNO CORPORATION を設立
水野正人英国バークシャーにイギリス支店を開設
水野正人ドイツ ミュンヘンにドイツ支店を開設
水野正人米国ジョージア州に MIZUNO USA を設立★★
水野正人フランス ジャンティにフランス支店を開設
水野正人福岡市博多区に九州支社を設立
水野正人養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業を承継★★
水野正人中国上海に MIZUNO (CHINA) CORPORATION を設立
水野明人オーストラリア メルボルンに現地子会社を設立
水野明人ミズノウエルネスなど2社を統合しミズノスポーツサービスに商号変更
水野明人ミズノインダストリー四国と氷上を統合しミズノアパレルテクニクスに商号変更
水野明人セノーの全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人ミズノインダストリー波賀など製造子会社3社をミズノテクニクスに統合
水野明人イタリア旧代理店の全持分を取得し MIZUNO ITALIA に商号変更
水野明人韓国ソウルに MIZUNO KOREA を設立
水野明人スペイン バルセロナに MIZUNO IBERIA を設立
水野明人シンガポールに MIZUNO SINGAPORE を設立
水野明人ノルウェーに MIZUNO NORGE を設立
水野明人MIZUNO (CHINA) を SHANGHAI MIZUNO に統合
水野明人ミズノアパレルテクニクスをミズノテクニクスに統合
水野明人街着向けブランド「ミズノスポーツスタイル」の投入と、競技用品偏重からカジュアル領域への商品展開

2016年2月、ミズノが街着用のカジュアルシューズブランド『ミズノスポーツスタイル』を投入し、3月には『M|line』を加えた経営判断。野球とゴルフを中心とする競技用品偏重の商品構成とマーケティングを改め、競技者以外の一般消費者へ売場を広げる内容で、社長は創業家4代目の水野明人氏であった。

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★★★
水野明人MIZUNO OSAKA CHAYAMACHI を新築し営業を開始
水野明人シャープ産業の全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人フランス シャビーユに MIZUNO FRANCE を設立
水野明人オランダに欧州事業統括子会社 MIZUNO EUROPE を設立★★
水野明人東京証券取引所プライム市場に移行
水野明人イギリス・ドイツ・オランダの支店事業を MIZUNO CORPORATION UK へ移管
水野明人インドに現地子会社を設立
水野明人カンボジアに現地子会社を設立
出典・参考

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