ミズノ の歴史

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創業 1906年
創業者 水野利八
創業地 大阪市北区
創業 1906年4月、水野利八氏が大阪市北区で水野兄弟商会を創業し、運動用服装品などの
1906年4月、水野利八氏が大阪市北区で水野兄弟商会を創業し、運動用服装品などの製造販売を開始した。1912年5月に東京支店、1921年7月に大阪工場を開設し、1923年7月には美津濃運動用品株式会社へ改組している。社名を美津濃株式会社へ改めたのは1942年1月で、1943年3月には岐阜県養老郡に養老工場(現・ミズノテクニクス株式会社)を建てた。株式は1961年10月に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1972年7月に両取引所の一部銘柄へ指定されている。
決断 用具を売る前に、その用具を使う競技のほうを主催した。輸入品が中心で市場そのものが
用具を売る前に、その用具を使う競技のほうを主催した。輸入品が中心で市場そのものが小さい段階にあった1911年、水野利八氏は大阪実業団野球大会を開催し、1913年8月には関西学生連合野球大会を主催した。関西一円の25校が参加したこの大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の全国高等学校野球選手権大会へつながっている。1945年8月の敗戦で軍需生産が止まり、グラブの原料となる皮革が闇にしか無くなると、利八氏は闇取引を全面的に禁じた。水野健次郎氏は上京して帆布10万6千ヤールの有償支給を受け、リュックサックを公定価格だけで販売した。軍需の資材を民生品へ転用したことが、統制価格のもとでの再開を可能にしている。
現況 海外へ出て40年たっても、利益の7割弱は国内から出ている。2026年3月期の連結
海外へ出て40年たっても、利益の7割弱は国内から出ている。2026年3月期の連結売上高は2,590億円、営業利益は226億円、親会社株主に帰属する当期純利益は184億円である。地域別の報告セグメントは日本が売上1,552億円・利益152億円、米州377億円・24億円、アジア・オセアニア354億円・36億円、欧州308億円・14億円で、国内が売上の6割とセグメント利益の67%を占める。1986年の台湾を皮切りに現地法人を設立し、2025年にはインドとカンボジアへも設立した。2016年2月に街着向けのミズノスポーツスタイルを投入して以降、営業利益は2020年3月期の62億円から226億円へ伸びたが、稼ぐ場所は国内から移っていない。
競合 競技の数を絞った相手に対し、この会社は絞らない側を選んだ。アシックスは1977年
競技の数を絞った相手に対し、この会社は絞らない側を選んだ。アシックスは1977年に3社合併でアシックスを発足させ、ランニングへ資源を集中して海外が売上の8割を占める構成へ移った。ゴールドウインは1995年にザ・ノース・フェイスの日本・韓国の商標権を取得し、預かる立場から持つ立場へ変わり、売上の8割弱を1ブランドで作っている。ミズノは野球・ゴルフ・陸上競技・水泳と競技別の用具をそのまま抱え、2026年3月期も海外は売上の4割にとどまる。用具を作る競技の数を減らさなかったことが、海外で8割を売る同業との地域構成の差をそのまま残している。
長期業績の推移 1950〜2026年
ミズノ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年3月期2026年3月期

第1章 1906年〜 丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで

1906年〜京都の織物問屋で商売を覚えた創業者

水野利八氏の生家は大垣で建築業を営んでいた。利八氏が9歳のときに父が急逝し、家業は傾いた。利八氏は小学校高等科1年で学業を断念し、家を再興するには商人になるほかないと考えて、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た。4年の修業を経て京都の織物問屋・小堀商店へ移り、17歳で番頭格に抜擢された。三井呉服店京都仕入店へは56回足を運んでも取り合ってもらえず、57回目にようやく商談を許された以後この店は小堀商店の最大の得意先となった。商売とは根気と努力だというのが、利八氏が後年まで繰り返した言葉である。奉公のかたわら利八氏は英語とアメリカの商法を独学した。機会をつかんでアメリカへ渡りたいという望みがあったからである。

    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した

商用で第三高等学校のグラウンド近くを通りかかった利八氏は、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を目にした。外国人と知り合う機会になるかもしれないという軽い気持ちで見物の仲間入りをしたが、打球へ飛びつく選手と高く舞い上がる白球に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通った。1904年に日露戦争が起こると利八氏も従軍したものの、病に倒れて帰還し、金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した。そして1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業し、運動用の服装品などの製造販売を開始した。4月1日は現在もミズノの創立記念日である。

    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った
参考文献[1]-[16]
    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した
    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った

1912年〜大会の主催と用具販売を結びつけた商法

1912年5月、東京・神田区に東京支店を設けた。この頃の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった。1910年に利八氏は大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いち氏と結婚した。同志社女専英文科を卒業したいち氏は、語学力を生かしてアメリカのファッション雑誌やカタログを翻訳し、利八氏に海外の最新情報をもたらした。1913年10月には次男の健次郎氏が生まれた。同じ年の8月、美津濃は関西学生連合野球大会を主催した。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎となった。1936年のベルリン・オリンピックに役員として参加した人物は後年、現地でも美津濃の名はよく知られていたと健次郎氏に語っている。

  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は1913年8月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

利八氏は商品そのものも考案した。当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付ける必要があった。利八氏は襟と袖を一体化したシャツを作り、日露戦争の勝利にちなんで"勝ったシャツ"からカッターシャツと名付けた。スポーツ用の鞄をボストンバッグと呼んだのも利八氏で、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンといった名称も同氏の考案による。製造と資本の備えも進め、1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を始め、1923年7月には美津濃運動用品へ改組して資本金を150万円とした。1927年7月には大阪市東区に鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した。大阪で7番目の百尺ビルだった。

    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
参考文献[17]-[33]
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は1913年8月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

第2章 1937-1960 (気が向いたら執筆します!) 美津濃への改称と養老工場、闇取引を禁じた戦後の事業再開

第3章 1961-1991 (気が向いたら執筆します!) 大証・東証上場と東西の営業センター、台湾子会社とエスポートミズノ

第4章 1992-2026 (気が向いたら執筆します!) 新本社ミズノクリスタと欧米アジアの現地法人、製造子会社の統合とミズノスポーツスタイル

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歴史年表 1906〜2025年

ミズノの沿革1906〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1936年丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで大阪市北区で水野利八氏が水野兄弟商会を創業★★★
運動用服装品などの製造販売を開始
東京都神田区に東京支店を開設
全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲

大阪の洋品雑貨店であった美津濃商店が、1911年の大阪実業団野球大会に続いて1913年8月に関西学生連合野球大会を主催し、1915年には朝日新聞社の要請を受けて中等学校野球大会の開催権を手放した経営判断。店主の水野利八氏が主導し、運動用具を売る前に競技そのものを広げる道を選んだ。

詳細を読む
★★★
中等学校野球大会の開催権を朝日新聞社へ移譲★★
大阪市福島区に大阪工場を建設し操業を開始★★
美津濃運動用品へ改組し資本金150万円に★★
大阪市東区に地上8階地下1階の本社屋が竣工
1937〜1960年美津濃への改称と養老工場、闇取引を禁じた戦後の事業再開社名を美津濃に変更★★
岐阜県養老郡に養老工場を建設し操業を開始★★
軍需資材の転用による公定価格での事業再開

1945年8月15日に軍需生産を全面停止した美津濃が、1週間のうちに業務再開を決め、その際に水野利八社長が全社員へ闇商売への関与を禁じた経営判断。統制下の公定価格による商いだけで会社を立て直す方針を取り、資材は軍需品の転用許可と配給によって調達した。

詳細を読む
★★★
1961〜1991年大証・東証上場と東西の営業センター、台湾子会社とエスポートミズノ大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
大阪市福島区に大阪営業センターが完成
水野スポーツ振興会を設立
東京・大阪両証券取引所の市場第一部銘柄に指定
東京都千代田区に東京営業センターが完成
水野国際スポーツ交流財団を設立
兵庫県宍粟郡にミズノランバードを設立
大阪市鶴見区に大阪流通センターを開設
台湾台北に海外初の現地子会社を設立★★
水野正人東京店エスポートミズノを新築し営業を開始
水野正人カナダ オンタリオ州に MIZUNO CANADA を設立
1992〜2026年新本社ミズノクリスタと欧米アジアの現地法人、製造子会社の統合とミズノスポーツスタイル水野正人大阪市住之江区に地上31階の新本社ミズノクリスタが完成★★
水野正人名古屋市北区に名古屋支社を開設
水野正人香港に MIZUNO CORPORATION OF HONG KONG を設立
水野正人中国上海に SHANGHAI MIZUNO CORPORATION を設立
水野正人英国バークシャーにイギリス支店を開設
水野正人ドイツ ミュンヘンにドイツ支店を開設
水野正人米国ジョージア州に MIZUNO USA を設立★★
水野正人フランス ジャンティにフランス支店を開設
水野正人福岡市博多区に九州支社を設立
水野正人養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業を承継★★
水野正人中国上海に MIZUNO (CHINA) CORPORATION を設立
水野明人オーストラリア メルボルンに現地子会社を設立
水野明人ミズノウエルネスなど2社を統合しミズノスポーツサービスに商号変更
水野明人ミズノインダストリー四国と氷上を統合しミズノアパレルテクニクスに商号変更
水野明人セノーの全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人ミズノインダストリー波賀など製造子会社3社をミズノテクニクスに統合
水野明人イタリア旧代理店の全持分を取得し MIZUNO ITALIA に商号変更
水野明人韓国ソウルに MIZUNO KOREA を設立
水野明人スペイン バルセロナに MIZUNO IBERIA を設立
水野明人シンガポールに MIZUNO SINGAPORE を設立
水野明人ノルウェーに MIZUNO NORGE を設立
水野明人MIZUNO (CHINA) を SHANGHAI MIZUNO に統合
水野明人ミズノアパレルテクニクスをミズノテクニクスに統合
水野明人競技用品偏重からの脱却と、街着向けブランドによるカジュアル領域への展開

2016年2月、ミズノが街着用のカジュアルシューズブランド"ミズノスポーツスタイル"を投入し、3月には"M|line"を加えた経営判断。野球とゴルフを中心とする競技用品偏重の商品構成とマーケティングを改め、競技者以外の一般消費者へ売場を広げる内容で、社長は創業家4代目の水野明人氏であった。

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★★★
水野明人MIZUNO OSAKA CHAYAMACHI を新築し営業を開始
水野明人シャープ産業の全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人フランス シャビーユに MIZUNO FRANCE を設立
水野明人オランダに欧州事業統括子会社 MIZUNO EUROPE を設立★★
水野明人東京証券取引所プライム市場に移行
水野明人イギリス・ドイツ・オランダの支店事業を MIZUNO CORPORATION UK へ移管
水野明人インドに現地子会社を設立
水野明人カンボジアに現地子会社を設立
出典・参考 3件

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