1906年〜 丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで
- 1906年 大阪市北区で水野利八氏が水野兄弟商会を創業
- 1906年 運動用服装品などの製造販売を開始
- 1912年 東京都神田区に東京支店を開設
- 1913年 関西学生連合野球大会の主催と、全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲 用具を売るのが先か、競技を広めるのが先か——洋品雑貨店が野球大会に投じた費用
- 1915年 中等学校野球大会の開催権を朝日新聞社へ移譲
- 1921年 大阪市福島区に大阪工場を建設し操業を開始
- 1923年 美津濃運動用品へ改組し資本金150万円に
京都の織物問屋で商売を覚えた創業者
水野利八氏の生家は大垣で建築業を営んでいた[1]。利八氏が9歳のときに父が急逝し[2]、家業は傾いた。利八氏は小学校高等科1年で学業を断念[3]し、家を再興するには商人になるほかないと考えて、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公[4]に出た。4年の修業を経て京都の織物問屋・小堀商店へ移り、17歳で番頭格に抜擢[5]された。三井呉服店京都仕入店へは56回足を運んでも取り合ってもらえず、57回目にようやく商談を許された[6]。以後この店は小堀商店の最大の得意先となった。商売とは根気と努力だというのが、利八氏が後年まで繰り返した言葉である。奉公のかたわら利八氏は英語とアメリカの商法を独学[8]した。機会をつかんでアメリカへ渡りたいという望み[9]があったからである。 [7]
- [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
- [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
- [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
- [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
- [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
- [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
- [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
- [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
- [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した
商用で第三高等学校のグラウンド近くを通りかかった利八氏は、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合[10]を目にした。外国人と知り合う機会になるかもしれないという軽い気持ちで見物の仲間入りをしたが、打球へ飛びつく選手と高く舞い上がる白球に引き込まれ[11]、以後は三高のグラウンドへ通った。1904年に日露戦争が起こる[12]と利八氏も従軍したものの、病に倒れて帰還し、金沢の陸軍病院で5カ月の治療[13]を受けて除隊した。そして1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業[14]し、運動用の服装品などの製造販売を始めた[15]。4月1日は現在もミズノの創立記念日[16]である。
- [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
- [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
- [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
- [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
- [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
- [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
- 美津濃 有価証券報告書【沿革】
- [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った
- [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
- [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
- [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
- [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
- [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
- [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
- [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
- [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
- [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した
- [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
- [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
- [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
- [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
- [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
- [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
- 美津濃 有価証券報告書【沿革】
- [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った
大会の主催と用具販売を結びつけた商法
1912年5月、東京・神田区に東京支店[17]を設けた。この頃の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋[18]にあった。1910年に利八氏は大阪・北浜の紙問屋の娘[19]、一色いち氏と結婚した。同志社女専英文科を卒業したいち氏[20]は、語学力を生かしてアメリカのファッション雑誌やカタログを翻訳し、利八氏に海外の最新情報をもたらした。1913年10月には次男の健次郎氏[21]が生まれた。同じ年の8月、美津濃は関西学生連合野球大会を主催[22]した。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎[23]となった。1936年のベルリン・オリンピックに役員として参加した人物は後年、現地でも美津濃の名はよく知られていた[25]と健次郎氏に語っている。 [24]
- 美津濃 有価証券報告書【沿革】
- [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
- [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
- [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
- [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
- [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
- [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
- [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
- [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は大正二年八月と3箇所で記す)
- [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった
利八氏は商品そのものも考案した。当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付ける必要があった。利八氏は襟と袖を一体化したシャツを作り[27]、日露戦争の勝利にちなんで「勝ったシャツ」からカッターシャツと名付けた。スポーツ用の鞄をボストンバッグと呼んだのも利八氏で、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンといった名称も同氏の考案[28]による。製造と資本の備えも進め、1921年7月に大阪市福島区[29]で大阪工場が操業を始め、1923年7月には美津濃運動用品へ改組して資本金を150万円[31]とした。1927年7月には大阪市東区に鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋[32]が完成した。大阪で7番目の百尺ビル[33]だった。 [26][30]
- [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
- [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
- [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
- [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
- 美津濃 有価証券報告書【沿革】
- [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
- [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
- [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
- [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
- 美津濃 有価証券報告書【沿革】
- [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
- [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
- [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
- [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
- [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
- [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
- [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
- [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
- [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
- [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
- [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
- [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
- [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
- [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
- [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
- [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は大正二年八月と3箇所で記す)
- [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった