ミズノ の歴史

創業

1906年

創業者

水野利八

創業地

大阪市北区

直近売上高(2025/3)

2,403億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1913年に運動具商が自ら野球大会を主催したのか
A 用具を売る前に、競技人口そのものを増やす必要があったためである。当時の日本では野球のボールもグラブも輸入品が中心で、美津濃商店は仕入れた用具を店頭に並べる立場にあった。水野利八氏は1911年の大阪実業団野球大会に続き、1913年8月1日に関西学生連合野球大会を主催した。関西一円の25校が参加し、優勝は大阪商業だった。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎となった。競技を広げた先に用具の需要が生まれるという順序を、創業から7年で選んだことになる。
Q なぜ1945年の物資難のなかで闇取引を断ったのか
A 公定価格の商いだけで立て直すほうが、積み上げてきた信用を保てると判断したためである。1945年8月15日に軍需生産を止めた美津濃には売る物がなく、グラブやミットの原料となる皮革は闇にしか無かった。水野利八氏は全社員を前に、闇商売への関与を禁じた。水野健次郎氏は軍需資材の転用許可を求めて上京し、帆布10万6千ヤールの有償支給を受けてリュックサックを作り、公定価格で販売した。戦前からの取引先が用具を送れと催促しても、利八氏は動かなかった
Q なぜ2016年に競技用品偏重を改めてカジュアル領域へ広げたのか
A 野球とゴルフに偏った事業構成では、縮む国内の競技人口を支えきれなくなったためである。野球の参加者は2005年の1250万人から10年で680万人へ減り、ゴルフ場でプレーする人口も10年間で3分の2になった。アシックスは2001年にゴルフ事業から撤退してランニングへ資源を集め、売上高でミズノを上回っていた。ミズノは2016年2月に街着向けのミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを発売し、競技者以外へ売場を広げた。海外売上高比率が37%にとどまっていたことも、方針転換を促した

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1906年〜 丁稚奉公から始めた運動具商が、学生野球の主催と結んで販路を広げるまで

  1. 1906年 大阪市北区で水野利八氏が水野兄弟商会を創業
  2. 1906年 運動用服装品などの製造販売を開始
  3. 1912年 東京都神田区に東京支店を開設
  4. 1913年 関西学生連合野球大会の主催と、全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲 用具を売るのが先か、競技を広めるのが先か——洋品雑貨店が野球大会に投じた費用
  5. 1915年 中等学校野球大会の開催権を朝日新聞社へ移譲
  6. 1921年 大阪市福島区に大阪工場を建設し操業を開始
  7. 1923年 美津濃運動用品へ改組し資本金150万円に

京都の織物問屋で商売を覚えた創業者

水野利八氏の生家は大垣で建築業を営んでいた[1]。利八氏が9歳のときに父が急逝し[2]、家業は傾いた。利八氏は小学校高等科1年で学業を断念[3]し、家を再興するには商人になるほかないと考えて、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公[4]に出た。4年の修業を経て京都の織物問屋・小堀商店へ移り、17歳で番頭格に抜擢[5]された。三井呉服店京都仕入店へは56回足を運んでも取り合ってもらえず、57回目にようやく商談を許された[6]。以後この店は小堀商店の最大の得意先となった。商売とは根気と努力だというのが、利八氏が後年まで繰り返した言葉である。奉公のかたわら利八氏は英語とアメリカの商法を独学[8]した。機会をつかんでアメリカへ渡りたいという望み[9]があったからである。 [7]

    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した

商用で第三高等学校のグラウンド近くを通りかかった利八氏は、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合[10]を目にした。外国人と知り合う機会になるかもしれないという軽い気持ちで見物の仲間入りをしたが、打球へ飛びつく選手と高く舞い上がる白球に引き込まれ[11]、以後は三高のグラウンドへ通った。1904年に日露戦争が起こる[12]と利八氏も従軍したものの、病に倒れて帰還し、金沢の陸軍病院で5カ月の治療[13]を受けて除隊した。そして1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業[14]し、運動用の服装品などの製造販売を始めた[15]。4月1日は現在もミズノの創立記念日[16]である。

    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った
    • [1]水野家は大垣で建築業を営んでいた
    • [2]水野利八の生家は大垣で建築業を営み、利八が9歳のときに父が急逝した
    • [3]小学校高等科1年で学業を断念し、商人になる道を選んだ
    • [4]大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た
    • [5]京都の織物問屋・小堀商店で17歳のときに番頭格へ抜擢された
    • [6]三井呉服店京都仕入店へ56回通い、57回目で商談が成立した
    • [7]三井呉服店は小堀商店の最大の得意先となり、利八は商売は根気と努力だと後年まで語った
    • [8]奉公のかたわら英語とアメリカの商法を独学し、渡米を望んでいた
    • [9]渡米の望みから英語とアメリカの商法を独学した
    • [10]第三高等学校のグラウンドで三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見たことが野球との接点になった
    • [11]試合に引き込まれ、以後は三高のグラウンドへ通うようになった
    • [12]1904年の日露戦争に従軍したが病で帰還した
    • [13]金沢の陸軍病院で5カ月の治療を受けて除隊した
    • [14]1906年4月1日に大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開業した
    • [16]4月1日は現在もミズノの創立記念日である
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [15]創業時から運動用服装品などの製造販売を行った

大会の主催と用具販売を結びつけた商法

1912年5月、東京・神田区に東京支店[17]を設けた。この頃の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋[18]にあった。1910年に利八氏は大阪・北浜の紙問屋の娘[19]、一色いち氏と結婚した。同志社女専英文科を卒業したいち氏[20]は、語学力を生かしてアメリカのファッション雑誌やカタログを翻訳し、利八氏に海外の最新情報をもたらした。1913年10月には次男の健次郎氏[21]が生まれた。同じ年の8月、美津濃は関西学生連合野球大会を主催[22]した。この大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、現在の高校野球大会の母胎[23]となった。1936年のベルリン・オリンピックに役員として参加した人物は後年、現地でも美津濃の名はよく知られていた[25]と健次郎氏に語っている。 [24]

  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は大正二年八月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

利八氏は商品そのものも考案した。当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付ける必要があった。利八氏は襟と袖を一体化したシャツを作り[27]、日露戦争の勝利にちなんで「勝ったシャツ」からカッターシャツと名付けた。スポーツ用の鞄をボストンバッグと呼んだのも利八氏で、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンといった名称も同氏の考案[28]による。製造と資本の備えも進め、1921年7月に大阪市福島区[29]で大阪工場が操業を始め、1923年7月には美津濃運動用品へ改組して資本金を150万円[31]とした。1927年7月には大阪市東区に鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋[32]が完成した。大阪で7番目の百尺ビル[33]だった。 [26][30]

    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1912年5月に東京・神田区へ東京支店を開設した
    • [29]1921年以降、工場建設と改組・増資を進めた
    • [30]1921年7月に大阪市福島区で大阪工場が操業を開始した
    • [31]1923年7月に美津濃運動用品へ改組し資本金150万円とした
    • [32]1927年7月に大阪市東区へ鉄筋コンクリート造地上8階地下1階の本社屋が完成した
    • [18]当時の店舗は梅田新道から南へ約100メートルの蜆橋にあった
    • [19]1910年に大阪・北浜の紙問屋の娘、一色いちと結婚した
    • [20]1910年に一色いちと結婚し、いちは同志社女専英文科の出身で海外雑誌を翻訳した
    • [21]1913年10月に次男の健次郎が生まれた
    • [24]関西学生連合野球大会は現在の高校野球大会の母胎となった
    • [25]1936年ベルリン五輪に役員として参加した日本体育協会の小川勝次が、現地でも美津濃の名は知られていたと後年に語った
    • [26]当時のワイシャツは襟と袖が分離しており、着用のたびに取り付けていた
    • [27]襟と袖を一体化したシャツを考案し、日露戦争の勝利にちなんでカッターシャツと命名した
    • [28]ボストンバッグ、オーバーセーター、ポロシャツ、ランパンの名称は水野利八の考案による
    • [33]1927年7月に大阪市東区へ地上8階地下1階の本社屋が完成し、大阪で7番目の百尺ビルだった
    • [22]1913年8月に関西学生連合野球大会を主催した(社史は大正二年八月と3箇所で記す)
    • [23]大会は1915年に朝日新聞社へ引き継がれ、全国中等学校優勝野球大会(現・高校野球大会)の母胎となった

1937年〜 軍需工場への転換と、闇商売を断って公定価格で再建した戦後

グライダーの技術が呼び込んだ軍需

美津濃はグライダーを製作しており、九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーは滞空時間と飛行高度で日本記録[34]を立てた。この事業歴から美津濃は軍部の目に留まり、工場は軍需品の生産へ[35]振り向けられた。国策に沿って大陸にも会社を置き、満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立[36]した。1942年1月、社名を美津濃へ[37]改めた。同年5月1日、健次郎氏は取締役として入社[38]し、尼崎北工場長に就いた。工場ではスポーツ用品を作る余地はなく、飛行機のエンジン予熱用の覆い、搭乗員待機用の大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産[39]した。

    • [34]九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーが滞空時間と飛行高度で日本記録を樹立した
    • [35]グライダーの実績から軍部に注目され、工場は軍需品の生産に充てられた
    • [36]満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立した
    • [38]1942年5月1日に水野健次郎が取締役として入社し尼崎北工場長となった
    • [39]工場ではエンジン予熱用覆い、大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年1月に社名を美津濃へ変更した

三菱重工製の九六陸攻を将官用の輸送機に改造せよという命令[40]が下り、兵員輸送用のグライダーの製造も命じられた。グライダーを曳航するには幅約100メートル、長さ1000メートルの滑走路[41]が必要だった。そこで岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成[42]した。ここでプロペラの製造と九六陸攻の改造[43]にあたった。1機あたりの受注費用は1660円[44]で、採算は合わなかった。1945年5月、健次郎氏が監督していた尼崎北工場は約80発の焼夷弾を受け[45]、目の前で全焼した。資材も人手もなく工場は閉鎖された。同年8月15日、美津濃は操業を全面停止した。 [46]

    • [40]三菱重工製の九六陸攻を将官用輸送機へ改造する命令を受けた
    • [41]グライダー曳航のため幅約100メートル・長さ1000メートルの滑走路が必要だった
    • [42]岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成した
    • [43]養老工場でプロペラの製造と九六陸攻の改造を行った
    • [44]九六陸攻改造の受注費用は1機1660円で赤字となった
    • [45]1945年5月に尼崎北工場が約80発の焼夷弾で全焼した
    • [46]再建の資材も人手もなく尼崎北工場は閉鎖され、1945年8月15日に操業を全面停止した
    • [34]九州帝国大学の佐藤博教授が設計した美津濃301型ソアラーが滞空時間と飛行高度で日本記録を樹立した
    • [35]グライダーの実績から軍部に注目され、工場は軍需品の生産に充てられた
    • [36]満州の吉林に満州美津濃工業、上海に美津濃運動用品を設立した
    • [38]1942年5月1日に水野健次郎が取締役として入社し尼崎北工場長となった
    • [39]工場ではエンジン予熱用覆い、大型テント、パラシュート、無線操縦機などを生産した
    • [40]三菱重工製の九六陸攻を将官用輸送機へ改造する命令を受けた
    • [41]グライダー曳航のため幅約100メートル・長さ1000メートルの滑走路が必要だった
    • [42]岐阜県養老町の町有グラウンドの払い下げを受け、総面積約15万坪の養老工場が1943年3月に完成した
    • [43]養老工場でプロペラの製造と九六陸攻の改造を行った
    • [44]九六陸攻改造の受注費用は1機1660円で赤字となった
    • [45]1945年5月に尼崎北工場が約80発の焼夷弾で全焼した
    • [46]再建の資材も人手もなく尼崎北工場は閉鎖され、1945年8月15日に操業を全面停止した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年1月に社名を美津濃へ変更した

闇を断ち、公定価格で商いを戻した再建

終戦の夜、利八氏は「日本は終わった」と涙を流した[47]。それでも1週間のうちに態勢を立て直し、業務再開を決めた[48]。だが売る物がなく、グラブもミットも製造技術は世界水準にありながら[49]、原料の皮革が入手できなかった。闇に手を出せば材料は手に入るが、利八氏は全社員を前に[50]、美津濃は闇商売には一切手を染めてはならない[51]と宣言した。健次郎氏は軍需品の材料だった帆布や絹の羽二重、グライダーの主材である台桧の転用許可を求めて上京[52]した。監督官庁での申請は即座に認められ、帆布10万6千ヤールの有償支給[53]を受けた。これで作ったリュックサックを公定価格で売り[54]、食糧の買い出しに必需品となって飛ぶように売れた。

    • [47]終戦の夜に利八が日本は終わったと述べて涙を流した
    • [48]終戦後1週間のうちに利八が業務再開を決めた
    • [49]製造技術はあったが原料の皮革が入手できず売る物がなかった
    • [50]闇に手を出せば材料は入手できたが、利八はこれを禁じた
    • [51]原料の皮革が入手できず、利八は闇商売を全社員に禁じた
    • [52]帆布・絹羽二重・台桧の転用許可を求めて上京し認可を得た
    • [53]帆布10万6千ヤールの有償支給を受けた
    • [54]帆布製リュックサックを公定価格で販売した

次に配給の再生毛糸で硬式野球ボールを作った[55]。1946年、中学野球が復活する[56]と、主催者の朝日新聞社は美津濃にボールの納入を求めた。用具のない時代であり、投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会へ[57]供された。本業以外の仕事も引き受けた。財閥解体で三菱商事の機械部が宙に浮き、その依頼を受けて美津濃産業機械を設立し[59]、工作機械を淀屋橋の本店に並べて売った。進駐軍のPXからは三越の4階にボウリング場を作れ[60]という注文が来た。当時の日本にボウリング場はなく、担当した社員の知識は英語の教材で読んだ一章だけだったが、養老工場での製材から始めて2レーンを納期ぎりぎりで仕上げた[61][58]

    • [55]配給の再生毛糸で硬式野球ボールを製造した
    • [56]1946年の中学野球復活にあたり朝日新聞社が美津濃へボール納入を依頼した
    • [57]用具不足のため投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会に供された
    • [58]本業以外に三菱商事機械部の在庫販売も引き受けた
    • [59]財閥解体で行き場を失った三菱商事機械部の依頼で美津濃産業機械を設立した
    • [60]進駐軍PXの発注で三越4階にボウリング2レーンを製作した
    • [61]養老工場での製材から始めて2レーンを納期直前に完成させた

労使の関係は難航し、1946年5月に大阪工場[62]、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された。1948年の憲法記念日をめぐる対立[64]では、組合が所定の手続きを踏まないまま24時間のストライキに入った。健次郎氏は法に基づいて1日分の賃金カットを通告し、組合は大阪地方労働委員会へ提訴したが、会社側の陳述が正当と判定された[65]。対立のあと健次郎氏は労使の協調へ方針を定めた[66]。400人の社員をいったん全員退職の形式[67]として勤務年限に応じた退職金を支給し、その資金で1人50株ずつ株式を取得させて全社員を株主にした。フェアプレー、フレンドシップ、ファイティングスピリットの3F[68]が、この時から全社の方針となった。 [63]

    • [62]戦後の労使関係は難航し、各拠点で労働組合が結成された
    • [63]1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された
    • [64]1948年の憲法記念日をめぐり組合が手続きを欠いた24時間ストに入った
    • [65]大阪地方労働委員会は会社側の陳述を正当と判定した
    • [66]対立を経て健次郎は労使協調を方針とした
    • [67]400人の社員を全員退職の形式にして退職金を支給し、1人50株ずつ株式を取得させて全社員株主とした
    • [68]フェアプレー・フレンドシップ・ファイティングスピリットの3Fが全社方針となった
    • [47]終戦の夜に利八が日本は終わったと述べて涙を流した
    • [48]終戦後1週間のうちに利八が業務再開を決めた
    • [49]製造技術はあったが原料の皮革が入手できず売る物がなかった
    • [50]闇に手を出せば材料は入手できたが、利八はこれを禁じた
    • [51]原料の皮革が入手できず、利八は闇商売を全社員に禁じた
    • [52]帆布・絹羽二重・台桧の転用許可を求めて上京し認可を得た
    • [53]帆布10万6千ヤールの有償支給を受けた
    • [54]帆布製リュックサックを公定価格で販売した
    • [55]配給の再生毛糸で硬式野球ボールを製造した
    • [56]1946年の中学野球復活にあたり朝日新聞社が美津濃へボール納入を依頼した
    • [57]用具不足のため投球専用と但し書きを付けたボールが全国大会に供された
    • [58]本業以外に三菱商事機械部の在庫販売も引き受けた
    • [59]財閥解体で行き場を失った三菱商事機械部の依頼で美津濃産業機械を設立した
    • [60]進駐軍PXの発注で三越4階にボウリング2レーンを製作した
    • [61]養老工場での製材から始めて2レーンを納期直前に完成させた
    • [62]戦後の労使関係は難航し、各拠点で労働組合が結成された
    • [63]1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、1947年1月に大阪本社で労働組合が結成された
    • [64]1948年の憲法記念日をめぐり組合が手続きを欠いた24時間ストに入った
    • [65]大阪地方労働委員会は会社側の陳述を正当と判定した
    • [66]対立を経て健次郎は労使協調を方針とした
    • [67]400人の社員を全員退職の形式にして退職金を支給し、1人50株ずつ株式を取得させて全社員株主とした
    • [68]フェアプレー・フレンドシップ・ファイティングスピリットの3Fが全社方針となった

1949年〜 輸入枠が開いたゴルフと株式上場、そして二代目が定めた国際化の方針

  1. 1961年 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
  2. 1962年 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
  3. 1968年 大阪市福島区に大阪営業センターが完成
  4. 1970年 水野スポーツ振興会を設立
  5. 1972年 東京・大阪両証券取引所の市場第一部銘柄に指定
  6. 1974年 東京都千代田区に東京営業センターが完成
  7. 1986年 台湾台北に海外初の現地子会社を設立

ドル割当が開いたゴルフ事業と上場

1949年、美津濃は資本金を1000万円へ増資[69]した。研究の体制も改め、セレクト科学研究所[70]を技術研究部へ改組し、代表権を持つ副社長となっていた健次郎氏がその担当を兼ねた。健次郎氏は将来の命運を決めるのは研究部門だと考え[72]、大阪大学の後輩や東京大学出身者を集めた。大阪大学を退官した仁田勇氏を最高顧問に、篠田軍治氏を顧問[73]に迎えて指導を受けた。それまでスポーツ用品は古参の競技者の経験と勘に頼って作られてきた[74]が、その上に科学を重ねれば、より良い物ができるという判断だった。良い物を作れというのが利八氏の口癖だった。研究部門の拡充は、その言葉に組織の形を与えるものだった。 [71][75]

    • [69]1949年に資本金を1000万円へ増資した
    • [70]1949年に研究体制を改め、セレクト科学研究所を技術研究部へ改組した
    • [71]セレクト科学研究所を技術研究部へ改組した
    • [72]健次郎は将来を決めるのは研究部門だと考え、大阪大学・東京大学出身者を集めた
    • [73]大阪大学を退官した仁田勇を最高顧問、篠田軍治を顧問に迎えた
    • [74]従来は競技者の経験と勘に頼っていた用具づくりに科学を重ねる方針をとった
    • [75]良い物を作れというのが利八の口癖だった

戦後の一時期、淀屋橋の本社ビルは米軍に接収され[76]、ドルだけが通用するPXとなっていた。1953年、輸入品を円で販売できるオーバーシーズ・サプライ・ストア[77]の制度が通産省で認定されると、健次郎氏はただちに申請した。戦前の実績と戦後の業態が審査でAランクと評価され、16万6千ドルの輸入枠が認められた[78]。この割当でゴルフのシャフトを大量に輸入したことが、後年のゴルフ事業への道を開いた[79]。販売の側では上場が続き、1961年10月[80]に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、1972年7月には東京・大阪両取引所の市場第一部銘柄に指定された。このとき資本金は12億円[82]だった。 [81]

    • [76]淀屋橋の本社ビルは戦後に米軍へ接収されPXとなっていた
    • [77]1953年にオーバーシーズ・サプライ・ストアが通産省で認定され、美津濃が申請した
    • [78]審査でAランクと評価され16万6千ドルの輸入枠を得てゴルフシャフトを輸入した
    • [79]ドル割当によるゴルフシャフトの輸入が後年のゴルフ事業への道を開いた
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [80]1961年から市場第二部への上場が続いた
    • [81]1961年10月に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [82]1972年7月に東京・大阪両取引所の市場第一部銘柄へ指定され、資本金は12億円だった
    • [69]1949年に資本金を1000万円へ増資した
    • [70]1949年に研究体制を改め、セレクト科学研究所を技術研究部へ改組した
    • [71]セレクト科学研究所を技術研究部へ改組した
    • [72]健次郎は将来を決めるのは研究部門だと考え、大阪大学・東京大学出身者を集めた
    • [73]大阪大学を退官した仁田勇を最高顧問、篠田軍治を顧問に迎えた
    • [74]従来は競技者の経験と勘に頼っていた用具づくりに科学を重ねる方針をとった
    • [75]良い物を作れというのが利八の口癖だった
    • [76]淀屋橋の本社ビルは戦後に米軍へ接収されPXとなっていた
    • [77]1953年にオーバーシーズ・サプライ・ストアが通産省で認定され、美津濃が申請した
    • [78]審査でAランクと評価され16万6千ドルの輸入枠を得てゴルフシャフトを輸入した
    • [79]ドル割当によるゴルフシャフトの輸入が後年のゴルフ事業への道を開いた
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [80]1961年から市場第二部への上場が続いた
    • [81]1961年10月に大阪証券取引所市場第二部、1962年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [82]1972年7月に東京・大阪両取引所の市場第一部銘柄へ指定され、資本金は12億円だった

二代目への交代と創業者が遺した基金

1968年4月1日の創立記念日[83]、恒例の表彰式で利八氏は、今年は社長である自分が表彰するが来年からは副社長が行うと述べた。社長交代を内外へ示した言葉だった。役員会議でも利八氏は健次郎氏を議長席に着かせ、自分は脇の席へ移った。1969年の決算役員会議で利八氏は社長を退いて会長となり[85]、株主総会で健次郎氏の社長就任が正式に決まった。このとき利八氏は83歳、健次郎氏は56歳[86]である。健次郎氏は社内機構と人事の急な変革を避けた[87]。父の代からの役員と社員が経営の近代化を急がれるのではないかと不安を抱くことを見越し、方針に馴染むまで刷新の速度を落とす道を選んだ[88][84]

    • [83]1968年4月1日の表彰式で利八が来年からは副社長が表彰すると述べ社長交代を示唆した
    • [84]表彰式での発言は社長交代を示すもので、役員会議でも利八は健次郎を議長席に着かせた
    • [85]1969年の株主総会で水野健次郎の社長就任が決まり、利八は会長となった
    • [86]交代時に利八は83歳、健次郎は56歳だった
    • [87]健次郎は社内機構と人事の急激な変革を避け、刷新の速度を落とした
    • [88]旧来の役員・社員が方針に馴染むまで刷新の速度を落とした

健次郎氏は経営の目標を国際化に置いた。国内の基盤を固めながらミズノのスポーツ品を五大陸へ広げるという方針を掲げ、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、メキシコに生産と販売の拠点[90]を設け、東南アジアにも生産基地を置いた。役員と社員を国際人として育てることにも力を注ぎ、後年の役員にはアメリカ人が加わった[91]。1970年3月9日、利八氏が84歳で死去[92]した。3月25日に東本願寺難波別院で社葬が営まれ、住友銀行頭取の堀田庄三氏が葬儀委員長[93]を務めた。自分の遺産を国のために使ってほしい[94]というのが利八氏の遺言だった。持株260万株を基金として、1970年9月1日に財団法人水野スポーツ振興会[95]が発足した。1977年2月9日には健次郎氏が自らの持株200万株を拠出[96]し、財団法人水野国際スポーツ交流財団を設けた。 [89]

    • [89]健次郎は経営の目標を国際化に置き、五大陸への展開を方針として掲げた
    • [90]健次郎はアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・メキシコに生産販売拠点を設けた
    • [91]役員と社員の国際化に努め、後年の役員にはアメリカ人が加わった
    • [92]1970年3月9日に水野利八が84歳で死去した
    • [93]社葬は東本願寺難波別院で営まれ、住友銀行頭取の堀田庄三が葬儀委員長を務めた
    • [94]利八は自分の遺産を国のために使うよう遺言した
    • [95]利八の持株260万株を基金として1970年9月1日に財団法人水野スポーツ振興会が発足した
    • [96]1977年2月9日に健次郎が持株200万株を拠出して財団法人水野国際スポーツ交流財団を設立した

社長を退く際の取締役会で、利八氏は動議を求めた[97]。経営の実権はすべて社長に委ねるが、野球の硬式ボールだけは会長の仕事にしてほしい[98]という内容だった。硬式球について利八氏には積年の関わりがある。各社の球でバウンドが一定しないと新聞記者に指摘され、バウンドの基準を考案[100]して長くルールとして使われた。全国大会の関係者から地方の高校はボールを潤沢に使えないと訴えられると、業界に横行していた闇値を排し、物価統制令に基づく公定価格で供給し続けた[101]。硬式球は戦後1個350円、1950年に450円へ改訂されたのち、物価が高騰するなかで23年間据え置かれた[102]。利益は出ず、不採算部門の見直しは社長の職務であり[103]、健次郎氏の頭には価格改訂がよぎっていた。利八氏はそれを見越して先手を打った[104][99]

    • [97]社長退任時の取締役会で利八が動議を求めた
    • [98]利八は社長退任時の取締役会で硬式ボールだけは会長の仕事にしたいと動議した
    • [99]利八は硬式球に長く関わり、各社の球のバウンドが一定しない問題に取り組んだ
    • [100]各社の球でバウンドが一定しないと指摘され、利八がバウンドの基準を考案した
    • [101]闇値を排し物価統制令に基づく公定価格でボールを供給し続けた
    • [102]硬式球は戦後1個350円、1950年に450円へ改訂され、以後23年間据え置かれた
    • [103]硬式球に利益はなく、不採算部門の見直しは社長の職務だった
    • [104]利八は価格改訂の動きを見越して先手を打った
    • [83]1968年4月1日の表彰式で利八が来年からは副社長が表彰すると述べ社長交代を示唆した
    • [84]表彰式での発言は社長交代を示すもので、役員会議でも利八は健次郎を議長席に着かせた
    • [85]1969年の株主総会で水野健次郎の社長就任が決まり、利八は会長となった
    • [86]交代時に利八は83歳、健次郎は56歳だった
    • [87]健次郎は社内機構と人事の急激な変革を避け、刷新の速度を落とした
    • [88]旧来の役員・社員が方針に馴染むまで刷新の速度を落とした
    • [89]健次郎は経営の目標を国際化に置き、五大陸への展開を方針として掲げた
    • [90]健次郎はアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・メキシコに生産販売拠点を設けた
    • [91]役員と社員の国際化に努め、後年の役員にはアメリカ人が加わった
    • [92]1970年3月9日に水野利八が84歳で死去した
    • [93]社葬は東本願寺難波別院で営まれ、住友銀行頭取の堀田庄三が葬儀委員長を務めた
    • [94]利八は自分の遺産を国のために使うよう遺言した
    • [95]利八の持株260万株を基金として1970年9月1日に財団法人水野スポーツ振興会が発足した
    • [96]1977年2月9日に健次郎が持株200万株を拠出して財団法人水野国際スポーツ交流財団を設立した
    • [97]社長退任時の取締役会で利八が動議を求めた
    • [98]利八は社長退任時の取締役会で硬式ボールだけは会長の仕事にしたいと動議した
    • [99]利八は硬式球に長く関わり、各社の球のバウンドが一定しない問題に取り組んだ
    • [100]各社の球でバウンドが一定しないと指摘され、利八がバウンドの基準を考案した
    • [101]闇値を排し物価統制令に基づく公定価格でボールを供給し続けた
    • [102]硬式球は戦後1個350円、1950年に450円へ改訂され、以後23年間据え置かれた
    • [103]硬式球に利益はなく、不採算部門の見直しは社長の職務だった
    • [104]利八は価格改訂の動きを見越して先手を打った

1988年〜 競技用品への依存が招いた首位陥落と、製造の分社を経た業績の立て直し

ミズノの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1992年 大阪市住之江区に地上31階の新本社ミズノクリスタが完成
  2. 1996年 米国ジョージア州に MIZUNO USA を設立
  3. 2002年 養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業を承継
  4. 2012年 セノーの全株式を取得し完全子会社化
  5. 2016年 街着向けブランド「ミズノスポーツスタイル」の投入と、競技用品偏重からカジュアル領域への商品展開 契約選手を軸にした商いを続けるか、競技場の外の消費者へ売場を広げるか——縮む競技人口の前でミズノが選んだ道
  6. 2020年 シャープ産業の全株式を取得し完全子会社化
  7. 2021年 オランダに欧州事業統括子会社 MIZUNO EUROPE を設立

三代目のもとで進んだ拠点整備と海外展開

1988年5月、健次郎氏の長男である正人氏が3代目[105]の社長に就いた。拠点の整備が続き、1986年5月に台湾・台北へ[106]戦後初の海外現地子会社を設け、1991年10月にカナダ、1992年9月に香港、1994年4月に中国・上海へ現地法人を置いた。1996年11月には米国ジョージア州にMIZUNO USAを設立[108]した。1992年3月、大阪市住之江区に地上31階地下3階の新本社ミズノクリスタが完成[109]し、事業を始めた。1995年1月に英国バークシャーとドイツ・ミュンヘン、1998年4月にフランス・ジャンティへ支店[110]を開き、欧州の販売網を自前で持つ形をとった。 [107]

  • 美津濃 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】水野正人 略歴
    • [105]1988年5月に水野正人が代表取締役社長へ就任した(健次郎は1987年の株主総会を前に退任を宣言していた)
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [106]1986年以降、海外拠点の整備が続いた
    • [107]1986年5月に台湾・台北へ戦後初の海外現地子会社を設立した
    • [108]1996年11月に米国ジョージア州でMIZUNO USAを設立した
    • [109]1992年3月に大阪市住之江区へ地上31階地下3階の新本社ミズノクリスタが完成した
    • [110]1995年1月に英国とドイツ、1998年4月にフランスへ支店を開設した

2002年4月、養老工場を会社分割し[111]、ミズノテクニクスへ事業を承継させた。戦時下に軍需のために建てられた工場が、60年を経て別法人の手に移った[112]ことになる。製造子会社の再編はその後も続き、2010年に[113]ミズノウエルネスなど2社を統合してミズノスポーツサービスへ商号変更し、同年にミズノインダストリー四国と氷上を統合した。2013年1月にはミズノインダストリー波賀など製造子会社3社をミズノテクニクスへ統合[115]し、2015年4月にミズノアパレルテクニクスも同社へ統合[116]した。分散していた製造機能は、10年あまりをかけて1社へまとめられた[117][114]

  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [111]2002年4月に養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業承継した
    • [113]2010年以降も製造子会社の再編が続いた
    • [114]2010年にミズノウエルネスなど2社を統合しミズノスポーツサービスへ商号変更した
    • [115]2013年1月に製造子会社3社をミズノテクニクスへ統合した
    • [116]2015年4月にミズノアパレルテクニクスをミズノテクニクスへ統合した
    • [117]分散していた製造機能は2002年から2015年にかけてミズノテクニクスへ集約された
    • [112]養老工場は戦時下に軍需のために建てられ、2002年に別法人へ承継された
  • 美津濃 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】水野正人 略歴
    • [105]1988年5月に水野正人が代表取締役社長へ就任した(健次郎は1987年の株主総会を前に退任を宣言していた)
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [106]1986年以降、海外拠点の整備が続いた
    • [107]1986年5月に台湾・台北へ戦後初の海外現地子会社を設立した
    • [108]1996年11月に米国ジョージア州でMIZUNO USAを設立した
    • [109]1992年3月に大阪市住之江区へ地上31階地下3階の新本社ミズノクリスタが完成した
    • [110]1995年1月に英国とドイツ、1998年4月にフランスへ支店を開設した
    • [111]2002年4月に養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業承継した
    • [113]2010年以降も製造子会社の再編が続いた
    • [114]2010年にミズノウエルネスなど2社を統合しミズノスポーツサービスへ商号変更した
    • [115]2013年1月に製造子会社3社をミズノテクニクスへ統合した
    • [116]2015年4月にミズノアパレルテクニクスをミズノテクニクスへ統合した
    • [117]分散していた製造機能は2002年から2015年にかけてミズノテクニクスへ集約された
    • [112]養老工場は戦時下に軍需のために建てられ、2002年に別法人へ承継された

野球とゴルフへの偏りが生んだ停滞

2006年6月、正人氏の弟である明人氏が4代目の社長に就任[118]した。米国イリノイ州のウエスレイアン大学を出て1975年に入社し、宣伝部から直営店、名古屋営業所長、経理本部、海外担当と各部門を経て、1994年から副社長として兄を支えた[119]。創業100周年の年の交代[120]である。明人氏は、規模が会社の価値を決めるわけではなく[121]、なくなってはみんなが困る存在でいたいと語った。だが競技用品に偏った事業構成は、この時期すでに負担となっていた[122]。国内のスポーツ人口が縮み、野球とゴルフの用品市場は横ばいのまま[123]伸びを欠いた。

  • 週刊東洋経済 2006年9月30日号「トップの履歴書 ミズノ社長 水野明人」
    • [118]2006年6月に水野明人が4代目社長へ就任した
    • [119]明人は米国ウエスレイアン大学を卒業し1975年に入社、1994年に副社長となった
    • [120]社長交代は創業100周年にあたる2006年に行われた
    • [121]明人は規模が会社の価値を決めるわけではないと語った
  • 週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」
    • [122]競技用品に偏った事業構成がこの時期すでに負担となっていた
    • [123]国内の野球・ゴルフ用品市場は横ばいで伸びが期待できない状態にあった

競合は先に手を打っており、アシックスは2001年[124]にゴルフ事業から撤退し、経営資源の大半をランニングへ集中させた。広告塔となる選手を置かず、世界各地のマラソン大会のスポンサーとなって市民ランナーへブランドを訴えた[126]。デサントは街着用のアパレルとシューズを強化し、現地企画・生産品で韓国部門を収益の柱に育てた[127]。ミズノは日本のトッププロから支持を集めた分、裾野の広い一般層をつかみ切れなかった[128]。同社幹部は、有名選手やチームとの契約を重視し、それ以外はタブー視された感覚があった[129]と振り返っている。野球の参加者は2005年の1250万人が10年で680万人まで減り[130]、ゴルフ場でプレーする人口も10年間で3分の2になった[131][125]

  • 週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」
    • [124]競合は先に手を打っており、アシックスは2001年にゴルフから撤退した
    • [125]アシックスは2001年にゴルフ事業から撤退しランニングへ経営資源を集中させた
    • [126]アシックスは広告塔となる選手を置かず各地のマラソン大会のスポンサーとなって市民ランナーへ訴求した
    • [127]デサントは街着用アパレルとシューズを強化し韓国部門を収益柱に育てた
    • [128]ミズノは裾野の広い一般選手向け市場をとらえきれなかった
    • [129]ミズノ幹部は有名選手やチームとの契約を重視しそれ以外はタブー視された感覚があったと述べた
    • [130]野球の参加者は2005年の1250万人から10年で680万人へ減少した
    • [131]ゴルフ場でプレーする人口は10年間で3分の2になった

2016年時点で、かつて国内2強を競ったアシックスの売上高は4000億円を超え、ミズノは2000億円程度[132]にとどまった。海外売上高比率はミズノの37%に対し、アシックスは76%、デサントは53%[133]だった。野球用品の市場が米国と日本に限られるため生産地の選択肢が狭く、原価を下げにくい[134]という指摘も業界内から出ていた。ミズノは同年2月に街着用のカジュアルシューズ「ミズノスポーツスタイル」[135]、3月に「M|line」を投入した。ただし直営店を含む販売拠点は3月末で約50店[136]にとどまった。総合企画室部長の佐野治氏は、事業ポートフォリオを見直す時期に来ており投資の転換を進める必要がある[137]と述べた。

  • 週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」
    • [132]2016年時点でアシックスの売上高は4000億円超、ミズノは2000億円程度だった
    • [133]海外売上高比率はミズノ37%、アシックス76%、デサント53%だった
    • [134]野球用品市場が米国と日本に限られ生産地の選択肢が狭く原価低減が進めにくいと指摘された
    • [135]2016年2月にミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを投入した
    • [136]2016年2月にミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを投入したが販売拠点は約50店だった
    • [137]総合企画室部長の佐野治は事業ポートフォリオの見直しと投資の転換が必要だと述べた
  • 週刊東洋経済 2006年9月30日号「トップの履歴書 ミズノ社長 水野明人」
    • [118]2006年6月に水野明人が4代目社長へ就任した
    • [119]明人は米国ウエスレイアン大学を卒業し1975年に入社、1994年に副社長となった
    • [120]社長交代は創業100周年にあたる2006年に行われた
    • [121]明人は規模が会社の価値を決めるわけではないと語った
  • 週刊東洋経済 2016年4月16日号「核心リポート04 国内と野球に執着 時代遅れの名門ミズノ」
    • [122]競技用品に偏った事業構成がこの時期すでに負担となっていた
    • [123]国内の野球・ゴルフ用品市場は横ばいで伸びが期待できない状態にあった
    • [124]競合は先に手を打っており、アシックスは2001年にゴルフから撤退した
    • [125]アシックスは2001年にゴルフ事業から撤退しランニングへ経営資源を集中させた
    • [126]アシックスは広告塔となる選手を置かず各地のマラソン大会のスポンサーとなって市民ランナーへ訴求した
    • [127]デサントは街着用アパレルとシューズを強化し韓国部門を収益柱に育てた
    • [128]ミズノは裾野の広い一般選手向け市場をとらえきれなかった
    • [129]ミズノ幹部は有名選手やチームとの契約を重視しそれ以外はタブー視された感覚があったと述べた
    • [130]野球の参加者は2005年の1250万人から10年で680万人へ減少した
    • [131]ゴルフ場でプレーする人口は10年間で3分の2になった
    • [132]2016年時点でアシックスの売上高は4000億円超、ミズノは2000億円程度だった
    • [133]海外売上高比率はミズノ37%、アシックス76%、デサント53%だった
    • [134]野球用品市場が米国と日本に限られ生産地の選択肢が狭く原価低減が進めにくいと指摘された
    • [135]2016年2月にミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを投入した
    • [136]2016年2月にミズノスポーツスタイル、3月にM|lineを投入したが販売拠点は約50店だった
    • [137]総合企画室部長の佐野治は事業ポートフォリオの見直しと投資の転換が必要だと述べた

買収と再編を重ねた近年の業績回復

買収と再編も続き、2012年6月に体育器具のセノーを完全子会社化[138]し、2020年5月にはシャープ産業の全株式を取得した。欧州の体制も組み直し、2021年1月に[140]オランダへ統括会社MIZUNO EUROPEを設け、2025年1月にはイギリス・ドイツ・オランダで営んでいた支店事業をMIZUNO CORPORATION UKへ移した。支店を並べる形から、統括会社を置いて束ねる形へ改めた[142]ことになる。国内では2022年4月に東京証券取引所プライム市場へ移行[143]した。海外拠点の設置は1986年の台湾に始まり、2021年のオランダまで[144]35年にわたって続いた。 [139][141]

  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [138]2012年6月にセノー、2020年5月にシャープ産業を完全子会社化した
    • [139]2012年以降も買収と再編が続いた
    • [140]2021年に欧州の体制を統括会社へ組み直した
    • [141]2021年1月にオランダへ欧州統括会社MIZUNO EUROPEを設立した
    • [142]支店を並べる体制から統括会社が束ねる体制へ改めた
    • [143]2022年4月に東京証券取引所プライム市場へ移行した
    • [144]海外拠点の設置は1986年の台湾から2021年のオランダまで続いた

連結売上高は2016年3月期の1960億円を頂点に減り[145]、2020年3月期は1697億円[146]、コロナ禍の2021年3月期は1504億円まで落ちた[147]。ここが底となり、2022年3月期は1727億円、2023年3月期は2120億円[149]と戻し、2024年3月期に2297億円、2025年3月期は2403億円[150]となった。1960億円を最初に上回ったのは2023年3月期[151]で、以後は3期続けて過去の水準を更新した。この間、2018年4月には大阪・茶屋町でMIZUNO OSAKA CHAYAMACHIが営業を始め[152]、直営の売り場を通じて一般の消費者に接する経路も広げた。 [148]

  • 美津濃 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [145]連結売上高は2016年3月期に1960億円で頂点となった
    • [146]連結売上高は2020年3月期に1697億円となった
    • [147]連結売上高は2021年3月期に1504億円まで落ち込んだ
    • [148]2021年3月期の1504億円が底となった
    • [149]連結売上高は2022年3月期1727億円、2023年3月期2120億円へ回復した
    • [150]連結売上高は2024年3月期2297億円、2025年3月期2403億円となった
    • [151]2016年3月期の1960億円を最初に上回ったのは2023年3月期の2120億円で、以後2025年3月期まで更新が続いた
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [152]2018年4月にMIZUNO OSAKA CHAYAMACHIを新築し営業を開始した
  • 美津濃 有価証券報告書【沿革】
    • [138]2012年6月にセノー、2020年5月にシャープ産業を完全子会社化した
    • [139]2012年以降も買収と再編が続いた
    • [140]2021年に欧州の体制を統括会社へ組み直した
    • [141]2021年1月にオランダへ欧州統括会社MIZUNO EUROPEを設立した
    • [142]支店を並べる体制から統括会社が束ねる体制へ改めた
    • [143]2022年4月に東京証券取引所プライム市場へ移行した
    • [144]海外拠点の設置は1986年の台湾から2021年のオランダまで続いた
    • [152]2018年4月にMIZUNO OSAKA CHAYAMACHIを新築し営業を開始した
  • 美津濃 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [145]連結売上高は2016年3月期に1960億円で頂点となった
    • [146]連結売上高は2020年3月期に1697億円となった
    • [147]連結売上高は2021年3月期に1504億円まで落ち込んだ
    • [148]2021年3月期の1504億円が底となった
    • [149]連結売上高は2022年3月期1727億円、2023年3月期2120億円へ回復した
    • [150]連結売上高は2024年3月期2297億円、2025年3月期2403億円となった
    • [151]2016年3月期の1960億円を最初に上回ったのは2023年3月期の2120億円で、以後2025年3月期まで更新が続いた

ミズノの沿革1906〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
大阪市北区で水野利八氏が水野兄弟商会を創業★★★
運動用服装品などの製造販売を開始
東京都神田区に東京支店を開設
関西学生連合野球大会の主催と、全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲用具を売るのが先か、競技を広めるのが先か——洋品雑貨店が野球大会に投じた費用 詳細を読む★★★
中等学校野球大会の開催権を朝日新聞社へ移譲★★
大阪市福島区に大阪工場を建設し操業を開始★★
美津濃運動用品へ改組し資本金150万円に★★
大阪市東区に地上8階地下1階の本社屋が竣工
社名を美津濃に変更★★
岐阜県養老郡に養老工場を建設し操業を開始★★
闇取引の全面禁止と、軍需資材の転用による公定価格での事業再開材料は闇にしかない——それでも公定価格の商いだけで会社を立て直せるか 詳細を読む★★★
大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
大阪市福島区に大阪営業センターが完成
水野スポーツ振興会を設立
東京・大阪両証券取引所の市場第一部銘柄に指定
東京都千代田区に東京営業センターが完成
水野国際スポーツ交流財団を設立
兵庫県宍粟郡にミズノランバードを設立
大阪市鶴見区に大阪流通センターを開設
台湾台北に海外初の現地子会社を設立★★
水野正人東京店エスポートミズノを新築し営業を開始
水野正人カナダ オンタリオ州に MIZUNO CANADA を設立
水野正人大阪市住之江区に地上31階の新本社ミズノクリスタが完成★★
水野正人名古屋市北区に名古屋支社を開設
水野正人香港に MIZUNO CORPORATION OF HONG KONG を設立
水野正人中国上海に SHANGHAI MIZUNO CORPORATION を設立
水野正人英国バークシャーにイギリス支店を開設
水野正人ドイツ ミュンヘンにドイツ支店を開設
水野正人米国ジョージア州に MIZUNO USA を設立★★
水野正人フランス ジャンティにフランス支店を開設
水野正人福岡市博多区に九州支社を設立
水野正人養老工場を会社分割しミズノテクニクスへ事業を承継★★
水野正人中国上海に MIZUNO (CHINA) CORPORATION を設立
水野明人オーストラリア メルボルンに現地子会社を設立
水野明人ミズノウエルネスなど2社を統合しミズノスポーツサービスに商号変更
水野明人ミズノインダストリー四国と氷上を統合しミズノアパレルテクニクスに商号変更
水野明人セノーの全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人ミズノインダストリー波賀など製造子会社3社をミズノテクニクスに統合
水野明人イタリア旧代理店の全持分を取得し MIZUNO ITALIA に商号変更
水野明人韓国ソウルに MIZUNO KOREA を設立
水野明人スペイン バルセロナに MIZUNO IBERIA を設立
水野明人シンガポールに MIZUNO SINGAPORE を設立
水野明人ノルウェーに MIZUNO NORGE を設立
水野明人MIZUNO (CHINA) を SHANGHAI MIZUNO に統合
水野明人ミズノアパレルテクニクスをミズノテクニクスに統合
水野明人街着向けブランド「ミズノスポーツスタイル」の投入と、競技用品偏重からカジュアル領域への商品展開契約選手を軸にした商いを続けるか、競技場の外の消費者へ売場を広げるか——縮む競技人口の前でミズノが選んだ道 詳細を読む★★★
水野明人MIZUNO OSAKA CHAYAMACHI を新築し営業を開始
水野明人シャープ産業の全株式を取得し完全子会社化★★
水野明人フランス シャビーユに MIZUNO FRANCE を設立
水野明人オランダに欧州事業統括子会社 MIZUNO EUROPE を設立★★
水野明人東京証券取引所プライム市場に移行
水野明人イギリス・ドイツ・オランダの支店事業を MIZUNO CORPORATION UK へ移管
水野明人インドに現地子会社を設立
水野明人カンボジアに現地子会社を設立
出典・参考

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