ダイエーの法人としての始まりは、1957年4月に神戸市長田区で設立された大栄薬品工業株式会社にさかのぼる。設立日は同年4月10日で、近畿一円へ薬品を卸す零細な販売会社として出発した。同年9月23日、創業者の中内㓛氏は大阪市旭区の千林商店街に1号店"主婦の店ダイエー薬局"を開店した。中内㓛氏は"よい品をどんどん安く"を掲げ、薬品や化粧品、日用品を大量に仕入れて安く売る手法で客を集めた。翌1958年12月には神戸市生田区の三宮へ進出し、以後はチェーン展開へ舵を切っている。会社は1959年に商号を主婦の店へ、1962年7月には主婦の店ダイエーへと改めた。
当時の日本ではメーカーが建値を決め、小売はそれに従って売るのが商慣行だった。中内㓛氏はこの仕組みに挑み、価格の決定権を小売と消費者の側へ移すことを事業の存在意義に据えた。常務取締役の加古豊彦氏は1971年の講演で、社長が全社員に一貫して示してきた言葉として『消費者のために、より良い品をより安く』という社是を挙げた。中内㓛氏はメーカーの寡占に対抗する力をチェーンストアの結集力に求め、扱いシェアが1割あればメーカーへの発言力を持てるとして自社ブランドの育成を進めた。1971年2月期の自社ブランド比率は衣料品で75%、日用品で42%に達し、全体でも20%前後を占めている。加古氏はこれを50%まで引き上げ、単価を上げずに粗利を得る方針を示した。
中内㓛氏が選んだ売り場の形は、当時の規制の隙間に生まれたものだった。1956年に施行された百貨店法は、企業ごとに基準を超える売り場面積の出店を規制した。スーパーはフロアごとに別会社を設立して全体で大型店を運営し、この網をくぐる手段をとっている。衣食住すべてを備えたこの売り場は疑似百貨店と呼ばれ、後発の小売が大型店を開く道となった。保護された百貨店が事業拡大の意欲を失う一方、新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の研究に熱心だった。中内㓛氏も後年、小売業の産業化には資本を投下してレギュラー・チェーンを築く道と、多数の小売商を結集してボランタリー・チェーンをつくる道の二つがあると整理している。
ダイエーの安売りを象徴したのが生鮮食品、とりわけ牛肉の値下げだった。100グラム100円が相場だった牛肉を39円まで下げると、売り場には主婦が押し寄せ、品切れが続いた。中内㓛氏はこうした値下げを"価格破壊"と呼んだ。食品を安く売って客を集め、衣料品や日用品もあわせて買ってもらう売り場づくりが、多店舗化を支える収益源となった。1971年2月期の商品別売上構成は食料品が40.9%と最も高く、衣料品27.5%、日用品10.1%、電気製品8.2%が続いた。単体の売上高は782億円で、うち食料品だけで320億円を占めている。
店舗網の拡大は地域ごとに販売会社を設立して進められ、1963年2月に福岡市でフクオカダイエーを設立し、1964年1月には一徳を買収して首都圏へ、同年2月に四国ダイエーを設けて四国へ広げた。買収によって大消費地の首都圏へ一気に入り込む手法は、その後の拡大を貫く特徴となった。1969年8月にはトウキョウダイエー・フクオカダイエー・四国ダイエーの3社を本体へ吸収合併し、同年11月に本部を大阪市大淀区中津へ移して経営組織を構築している。1970年2月には神奈川一帯にチェーン網を持ち、後にマルエツへつながるサンコーと業務提携し、関東の食品スーパー網へも手を伸ばした。地域ごとの販売会社を通じた進出は、地元の商習慣に合わせて素早く売り場を根づかせる工夫でもあった。
安売りは、値崩れを嫌うメーカーとの衝突を伴った。1953年に医薬品や化粧品へ導入された再販売価格維持制度は、メーカーが小売の売価を指示することを認め、その価格支配を後押ししていた。ダイエーは創業当初から医薬品を市価の3割から4割引きで売り、1965年前後には松下電器産業と取引が停止し、同年3月には花王から出荷を止められた。資生堂とも再販商品の値段をめぐって対立している。中内㓛氏は正面から押し返す手として自社ブランドを選び、1970年にブブの名でカラーテレビなどの家電を売り出した。価格はメーカー品より3割前後安く、翌1971年には生産元の中堅家電メーカー、クラウンへ資本参加した。小売がメーカーの経営へ入り込んだこの資本参加は、ダイエーにとって本格的な垂直統合の第1号だった。
急成長するダイエーは資本市場から成長資金を集める枠組みを整え、1971年3月に資本金12億円で大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。翌1972年1月に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年3月1日には東京証券取引所市場第一部にも上場している。上場時の資本金は19億2,500万円、店舗は全国75店で、うち近畿が39店、関東が14店を占めた。従業員は11,715人、取引金融機関は東海・神戸・三和・住友の4行である。株主構成は個人が70.93%と大半を占め、外国法人が17.36%で続いた。集めた資金は出店と用地取得へ向かい、1971年度の設備資金は215億円に達している。
1972年、ダイエーは売上高で三越を抜き、小売業の日本一に立った。ダイエーは前年の時点で1972年8月期か1973年2月期に三越と並ぶと見込み、追い抜くことを従業員12,000名の念願に掲げていた。江戸期から続く老舗百貨店を、創業から15年の量販店が追い越したことは、消費の主役が一部の富裕層から一般家庭へ移ったことを映していた。一方、拡大を支えた財務は上場の時点ですでに借入へ傾いており、長期・短期を合わせた借入金は1970年2月期の255億円から1971年2月期には423億円へ膨らんだ。年間約200億円に上る設備投資の大半は借入金でまかなわれ、自己資本は75億円、自己資本比率は10%前後にとどまる。
借入に頼ってでも出店を急いだ背景には、二つの期限があった。ひとつは出店規制である。1970年代の初めには疑似百貨店を取り締まる声が強まり、後の大規模小売店舗法の成立は時間の問題と見られていた。先に店を構えておけば、規制が成立した後は競合が近隣へ出店できず、その地域で大きな販売シェアを確保できる。もうひとつは小売業の資本自由化で、1969年の第二次資本自由化以降、段階的に進められた。欧米の小売業は日本とは桁違いの規模とチェーンストアの仕組みを持ち、上陸されればひとたまりもないという恐れが業界に強かった。外資が入る前に体力をつけるという読みが、各社の出店を加速させている。ダイエーが1969年に高知の地場スーパーと手を結び、1970年2月に神奈川のサンコーと業務提携したのも、この流れの中にあった。
1兆円という数字は、ダイエーにとって到達点ではなく手段だった。中内㓛氏の筋道では、売上高が1兆円に届くことは一部の単品で市場シェア1割を握ることを意味し、その1割が価格の決定権を小売の側へ移す梃子になるはずだった。ところが1976年2月期の実績は、最も高いマヨネーズで5.5%、インスタントコーヒー4.1%、ラーメン2.2%にとどまり、1割へ届いた単品はない。規模の側だけが先に膨らみ、単品ごとの交渉力は後からついてこなかった。3年で41店を開き1,100億円を投じる出店が続くかぎり、金利負担が先に立ち、シェアが後から追う関係は固定される。
首位に立った直後のダイエーを揺らしたのは、需要の側の変化だった。1970年代半ばの不況は、個人消費が伸びないという前例の少ない形をとった。1975年2月期の売上高は3,323億4,600万円と前年同期を595億円上回った一方、経常利益は47億5,900万円と4億3,800万円減り、上場後で初めての減益となった。落ち込みは百貨店や他のチェーンストアより浅かった。弱みは組織にあり、10万円以上の決裁にはすべて社長の印が要った。1974年9月に米国のコンサルタント会社の診断を受けて権限を下ろす新組織を発表しながら、8カ月後には中内㓛氏が商品統括本部長を兼ね、自ら売り場の指揮へ戻った。それでも出店は緩めず、1973年からの3年間に41店を開いて売り場を9万7,000坪広げ、1,100億円を投じた。
1980年2月、ダイエーは年間売上高1兆円に達した。小売業で年商1兆円を超えたのは、これが最初である。1976年7月の講演で中内㓛氏は『1兆円の売上げに意味があるのではなく、1兆円の売上げを支える仕組みに意味があるのだ』と語っていた。1兆円の売上高は一部の単品で市場の1割を押さえることを意味し、その1割が価格の決定権を小売の手元へ移すというのが中内㓛氏の筋道だった。ただ1976年2月期の全国シェアはマヨネーズ5.5%、インスタントコーヒー4.1%、ラーメン2.2%にとどまった。業態の順位のほうは先に入れ替わっており、1974年度の小売販売額に占めるスーパーの比率は12.7%と、百貨店の11.0%を上回っていた。売上高の総額は単品の交渉力より早く伸び、目標の数字だけが先に届いたとみられる。
価格の決定権へ近づく実際の手段は、自社で企画するストア・ブランドだった。1976年2月期の構成比は衣料品で40%・4,840品目、日用雑貨で25.4%・2,730品目、食料品で8.5%・213品目に及び、全体では20.5%を占めた。売値はナショナル・ブランドより1割から3割低く置いた。一方、製造にまで踏み込んだブブは販売が続かず、1976年に店頭から退いた。1983年にはクラウンの株式を売却し、以後は工場を持たないメーカーを掲げて、生産の現場へ直接関わることを控えた。安さを作る場所として、ダイエーが手元に残したのは工場ではなく仕入れと売り場だったとみられる。
1975年度のダイエーは、売上高の42%を食料品部門で上げていた。その売価が他店より本当に低いかを社内で点検する部署として、1974年に消費者サービス室が発足した。販売促進部の担っていた価格調べを引き取り、阪神の6地域で食品50・日用品10の計60品目を毎月調べ、結果を店と商品部へ返し、委員会を経て経営会議へ上げた。1977年3月からは全国15地域・53店へ対象を広げ、品目も65に増やした。1980年2月の調べでは、ダイエーの売価を100とした他社の水準は101.8から107.2、平均102.9で、ダイエーを下回る地域はなかった。1976年に同志社大学の研究室が神戸市内で比べた結果では、ダイエーで食料をそろえる家計の支出は一般の小売店を使う場合より約10%、ストア・ブランドを使えば12%少なかった。
品質の側でも、売り手が自前の基準を持つ体制が組まれた。新たに扱う商品は品質管理センターの検査に合格しなければ店に並ばず、基準の一部は法定より厳しく、合成着色料の赤色104号・105号などを使用禁止とした。資生堂やカネボウ、大正製薬とは共同で商品を開発し、1976年7月には男性化粧品のアドミナールとバンガード5を発売した。同じ1976年、消費者団体の反発を受けてサッカリンの使用をやめ、砂糖に替えた沢庵の売上高が大きく落ちる代償を引き受けた。1975年9月からの1年間に寄せられた食品の苦情6,849件のうち1,894件が異物の混入で、ダイエーは取引先への改善要請と工場の立ち入り検査を強めた。
1兆円の次に中内㓛氏が置いたのは、1985年にグループで売上高4兆円という目標だった。流通業界が優劣のはっきり分かれる競争期へ入ったとの判断に立ち、新型の安売り店を含む新業態の開発と外資との提携を1980年代の柱に据えた。出店の空白として残ったのは首都圏である。1972年に碑文谷店を開いた後、西武流通グループをはじめ東京の同業の抵抗で要所への出店が進まなかった。1981年11月に開いた埼玉の所沢店では、西武が予定地の中央の数十坪を最後まで譲らず、ダイエーはそこへの進入路を残したコの字形の建物を建てるほかなかった。
1988年、ダイエーは南海ホークスを買収し、プロ野球の球団を持った。中内㓛氏は10年来この構想を温めており、先例は1978年に球団を買った西武だった。西武グループを率いる堤義明氏は、膨らんだ企業集団をまとめる軸に野球を選び、鉄道・ホテル・不動産に分かれていた西武の名を一つのグループとして全国へ通した。1993年に本拠地の福岡ドームが完成すると、中内㓛氏はその規模を『戦艦大和、戦艦武蔵を作ったような気分ですな』とたとえた。本業では1992年10月、神戸に会員制の安売り店コウズ・ホールセールメンバーシップクラブを開き、品目を総合スーパーの4分の1以下の約5,000に絞り、常駐社員を店長を含め3人とした。同じ1992年にはリクルートの株式も取得したが、拡大の元手としてきた含み資産による資金調達は限界に近づいていた。
拡大の締めくくりは同業の吸収だった。1991年、ダイエーは不動産会社の秀和と組んで忠実屋の株式を買い集め、3割を超えた段階で中内㓛氏は『約三十四%の株を買い集められては、会社として体をなしていないのではないか』と評した。忠実屋は自主独立を掲げ、1991年2月に百貨店と外食の子会社を清算し、1992年2月期中に残る赤字の子会社5社も整理するとして抵抗を続けた。ただ秀和に株式の3分の1を握られた状態では、増資による資金調達も、値上がりした自社株の買い戻しも封じられていた。1994年3月1日、忠実屋はダイエーに合併された。この合併でダイエーは忠実屋が持っていた松下電器産業との取引を引き継ぎ、同月から松下との正式な取引を始めた。ただし契約上、松下が商品を納める先は旧忠実屋の店舗に限られた。価格の決定権をめぐる四半世紀の対立は、取引先ごと相手の会社を取り込む形で区切りを迎えた。
1995年1月の阪神・淡路大震災で、ダイエーは被害の最も大きかった企業の一つになった。当時は兵庫県内に47店と従業員7,000人を抱えており、三宮第一店は建物が倒れ、社員とパートの計5人が亡くなった。それでも地震の当日夜には24店が店を開けていた。中内㓛氏は発生から4日目の20日に現地対策本部の神戸ハーバーランド店へ入り、被害の大きい店を見て回るより商品の供給を先に立てるよう求めた。震災の打撃で、1995年の決算は単独で最終赤字となった。損害額は約500億円に及び、中内㓛氏はのちに、これが構造改革への着手を遅らせたと振り返っている。本業の手直しに充てるはずの数年が、復旧に費やされたとみられる。
本業の失速が決算に表れたのは1997年2月期である。売上高は2兆5,050億円と前期並みを保ったが、経常利益は5億円にとどまった。黒字を残せたのは、保有する高島屋株をすべて関連会社のプランタン銀座へ売ったためだった。1994年の4社合併で膨らんだ販売管理費を抑えようと、翌年に出向などで約4,800人を本体から外すと、売り場では品出しや接客が回らなくなった。1996年秋には500人を本体へ呼び戻している。同じ時期に常時低価格を掲げたハイパーマートの出店を重ねたが赤字が続き、既存の総合スーパーの改装は後回しにされた。売上高の約7割を占める総合スーパーの不振は、震災と違って本業の仕組みそのものから生じていた。
拡大の原資だった借入れは、やがて返済を求められる重荷に変わった。主力の東海・住友・三和・富士の4行は、1994年ごろには債務の圧縮をダイエーへ要請していたという。1997年3月時点の有利子負債は単独6,600億円、連結1兆4,300億円に膨らんでおり、ダイエーは1997年3月、単独分を2001年度までの5年間で1,600億円圧縮して5,000億円に抑える計画を出した。返済には関連会社の上場で得る利益も一部あてるとし、グループ企業の上場に後ろ向きだった従来の姿勢を転換した。同年12月にはローソンの株式公開による4,000億円の調達を加え、有利子負債を1兆円減らす計画へ広げた。
1998年2月期、ダイエーは1971年の上場以来はじめて経常赤字に転じた。主因は総合スーパー部門で、165億円の営業赤字を出した。中内㓛氏は赤字店の閉鎖と、遊休不動産や関連会社株式のグループ外への売却を打ち出した。1994年の合併後も近くの自社店と並べて残してきた旧忠実屋の相模原駅前店を4月末に閉じ、3年で50店を閉める方針も示した。規模と逆向きの選択を迫ったのは、グループで2兆6,000億円に積み上がった有利子負債だった。金融機関は金利の支払いだけでは満足せず、元本の返済まで求めるようになっていた。主力4行と第一生命保険からの借入れは全体の4割弱で、残る約1兆5,000億円は主力以外の金融機関に頼っていた。
中内㓛氏は1998年5月、総合スーパーという業態について『今のGMSは「何でもあって何にも買いたくない店」の代名詞になっている』と語った。店舗網を7つの地域カンパニーに分けて品ぞろえを地域ごとに決め、持ち株会社のもとで事業会社を自立させる構想も示した。売上高を何より重んじてきた方針も、利益を合わせて見る形へ改めるとした。ただしリクルートについては、その情報を商品化する相手と位置づけ、手放さない考えだった。1999年1月、中内㓛氏は社長を退くと発表し、後任には長男の中内潤副社長ではなく、1996年12月に味の素から招いた財務担当の鳥羽董副社長を充てた。1998年12月の既存店売上高は前年同月より約4%少なく、主力4行に約束した損益3カ年計画の初年度目標は達成が危ぶまれていた。
資産の売却は、中内㓛氏が残すとしていた株にも及んだ。鳥羽董氏は1999年8月31日、発行済み株式の35%を持つリクルート株を2000年2月期中に売ると表明した。有利子負債を1兆円減らす再生3カ年計画を前倒しで進めるためである。外部への売却は、経営の独立を保ちたいリクルート側の反発で難航した。12月には、リクルートが取引銀行の資金支援を受け、ダイエー側の持つ35.2%の全部か大半を買い戻す方向で合意に至った。2000年7月にはローソンが東京・大阪両証券取引所の第一部に上場し、ダイエーはこれに合わせて保有株の一部を売った。拡大期に抱えた2つの有力子会社は、この2年で負債返済の原資に回ったことになる。
2000年11月、ダイエーは修正再生3カ年計画、通称フェニックスプランをまとめた。単体の収益力の改善と連結経営の構築を柱に据えた計画で、東海・三和・住友・富士の主力4行を相手に、2001年2月28日を払込期日とする約1,200億円の優先株の第三者割当増資を行った。2001年2月期の当期損失は1,921億8,200万円に達し、配当は前期に続いて見送った。創業者の中内㓛氏は2001年1月30日、最高顧問取締役を退いた。同年5月の株主総会の招集通知で、代表取締役社長に名を連ねたのは高木邦夫氏である。所有と経営を一人で担った創業者が退いたことで、再建の主導権は債権者の側へ移り始めたとみられる。
2002年2月の新3カ年計画は、2度目の金融支援を前提に組まれた。グループの有利子負債をダイエーオーエムシーなどを除いて9,000億円まで減らし、復配できる体質へ戻すことを目標に置いた。リクルート株式や、ホークスを除く福岡事業の売却を盛り込み、計画の遂行で見込む損失は4,650億円にのぼった。計画は同年4月26日、産業活力再生特別措置法にもとづく事業再構築計画として経済産業省の認定を受けた。UFJ・三井住友・みずほコーポレートの主力3行は1,700億円の債務免除と約2,300億円の借入金の株式化に応じ、1,115億円の無償減資と合わせて前期末の債務超過を解いた。
財務の手当てに対し、本業の回復は計画に追いつかなかった。2003年2月期の既存店売上高は前期比98%にとどまり、家電部門の不振もあって期初の計画に届かなかった。取締役会が主力3行との協議を経て機構の活用を決議し、方針を転じたのは10月13日で、それ以前の2004年8月27日に主力3行から産業再生機構の活用を持ちかけられた際には、ダイエーはその考えはないと返して自力での中期計画策定を続けていた。12月28日にはグループ12社で申し込んだ支援がその日のうちに決定され、4,050億円の債務免除を盛り込んだ事業再生計画は、窮境に陥った原因を、店舗を自社で保有する方式と全国展開に固執したこと、多角化と拡大に走ったこと、低価格に頼りすぎたことに求めた。
産業再生機構の支援決定を受け、ダイエーは2005年4月に事業再生計画の中身を公表した。計画はまず、会社を行き詰まらせた原因を4つに絞っている。店舗の土地と建物を自前で持つ方式、全国へ店を張ることへのこだわり、多角化と拡大の路線、そして安さへの過度の依存である。いずれも、かつてダイエーを小売の首位へ押し上げた手立てそのものだった。そのうえで小売を中核に据え、赤字店からの撤退と自前売場の縮小を進め、余った床には外部のテナントを呼び込み、首都圏と近畿では食品スーパーを軸に店を組み直すとした。目標は2008年2月期に、金融子会社などを除いた連結で営業収益1兆4,800億円、営業利益400億円と置かれた。規模を追う方式を否定しながら、なお1兆円台半ばの売上を前提にした点に、計画の甘さがのぞいていた。
財務では、損失をいったん表に出してから穴を埋める順序が取られた。2005年2月期末の連結株主資本は4,121億円の債務超過に陥っていた。3月31日に取引金融機関が4,004億円の債権を放棄し、1,195億円あった資本金を5億円まで減らし、普通株式は10株を1株にまとめた。そこへ産業再生機構、丸紅、アドバンテッジパートナーズの3者が、約400億円の債務の株式化を含めて1,120億円を出資した。丸紅は全額出資の丸紅リテールインベストメントを受け皿とし、普通株式と甲種類株式を995万1,950株ずつ引き受けている。経済産業省は5月9日にこの計画を産業活力再生特別措置法の事業再構築計画として認め、実施期間を2008年2月までとした。
経営陣も外から入れ替えた。計画は本社を細くして店の現場へ判断を寄せ、スポンサーと再生機構から取締役を迎える体制を求めていた。日本ヒューレット・パッカードにいた樋口泰行氏は、5月20日付でまず顧問として迎えられた。5月26日の定時株主総会で林文子氏、樋口泰行氏ら4人が取締役に選ばれ、続く取締役会で林文子氏が代表取締役会長兼CEOに、樋口泰行氏が代表取締役社長兼COOに就いた。10月には新しいグループのミッションとロゴ、スローガンを定め、看板の掛け替えを社の内外へ示している。小売の外から社長を招いた人選は、創業者の時代の意思決定と縁を切ることを、株主と従業員の双方へ目に見える形で伝える役目を負っていた。
閉じる店は、個店ごとの収益と地域の戦略を見比べながら、何度かに分けて決められた。2005年9月29日の取締役会が14店の営業終了を決め、これで事業再生計画での撤退は計54店に確定した。全国に点在した店網のうち、収益や配送の効率が低い地域からは原則として引くというのが、線引きの基準だった。1977年に開いた苫小牧店や1995年開業のいわき店も、閉鎖の対象に入っている。人の面では、30歳以上60歳未満の一般職に向けて11月7日から2日間だけ募った希望退職に、1,268人が応じた。ダイエー単体の従業員数は、2003年2月期の10,314人から2007年2月期には5,763人まで減った。全国に旗を立てることで大きくなった会社が、旗を降ろす地域を自ら選んだことになる。
残した店と事業には手を入れ直した。2006年7月には不動産事業を営む連結子会社11社を本体へ合併し、ロイヤルクックなど3社を清算して、グループの枝を払った。資産の売却も進み、2005年9月中間期の連結経常利益は、4月に示した20億円の予想を85億円へ引き上げる見込みとなった。一方で売場の立て直しには、人と仕組みの両方から当たった。全国5カ所に総合トレーニングセンターを開き、1年間で延べ3万3千人の従業員が販売や加工の研修を受けた。2006年3月には加工食品の新ブランド「おいしくたべたい!」を出し、新しいPOSシステムを2007年2月までにグループの178店へ入れている。値引きで客を呼ぶ代わりに、売場の技量と商品の中身で呼ぶ方向へ、舵は切られていた。
再建の途中で、後ろ盾の顔ぶれが入れ替わった。2006年8月4日、丸紅が産業再生機構の持つ甲種類株式をすべて買い取り、主要株主の座は再生機構から丸紅へ移った。同月30日には丸紅の持ち株売却と提携をめぐる報道が出たが、ダイエーは特定の相手と協議している事実はないと打ち消している。それから半年あまりの2007年3月9日、ダイエー、イオン、丸紅の3社は資本と業務の提携契約を結んだ。3月16日には丸紅が甲種類株式のうち2,986万株をイオンへ譲り、イオンが新たな主要株主に加わった。事業再構築計画の期限を1年後に控えて、支えの構図は公的機関から総合商社へ、さらに同業の最大手を加えた二頭体制へと移っていた。
2007年5月にまとめた新中期経営計画は、再生を仕上げる最後の段階と位置づけられ、安定して稼げる体質づくりと財務のいっそうの改善を掲げた。提携先のイオンとは規模を生かした共同の取り組みを進め、両社と取引の深い丸紅には商社としての提案を仰ぐとした。借り換えで財務の課題はほぼ片づき、2008年3月からはイオンの自主企画商品トップバリュを本格的に売場へ並べ、仕入れや調達、販促も共同で行う範囲を広げた。事業再構築計画の最終年度にあたる2008年2月期の連結売上高は9,723億円、経常利益は86億円だった。営業収益1兆4,800億円・営業利益400億円という当初の目標と見比べれば、財務は立て直せても、売上の規模と稼ぐ力は計画に遠く及ばなかった。
その後、損益は再び赤字へ沈んだ。2009年2月期から2013年2月期まで最終損益は5期続けて赤字となり、その間に連結売上高は9,650億円から7,728億円へ縮んだ。手は店の単位で打たれていた。2012年2月期には食品スーパーとその大型版の業態で店内作業の割り振りを部門横断で組み直し、食品加工センターを使って人時あたりの生産性を上げる取り組みを広げた。近畿ではイオングループと組んで物流の効率化も進めた。しかし資本の構図は動かず、イオンの所有割合19.85%に対し、丸紅は丸紅リテールインベストメントと合わせて29.28%を持ち、どちらも過半に届いていなかった。改善策は現場で積み上がる一方、再建の最終責任を誰が負うのかは定まらないまま、赤字の年数だけが重なった。
2013年3月27日、取締役会はイオンによる公開買付けへの賛同を表明した。価格は1株270円で、買付けの下限は丸紅が応募に合意した48,360,820株、所有割合24.34%と同じ数に置かれ、上限は設けられなかった。ダイエーは、イオンの連結子会社になれば損益の改善が早まり、事業の展開も速まると賛同の理由を説いている。8月27日付でイオンは議決権の40%以上を握り、取締役の過半もイオンの役員・使用人が占めて親会社となった。それでも2014年2月期は固定資産の減損損失121億円を含む243億円の最終赤字に終わった。イオンは同年9月に完全子会社化を決め、ダイエーは12月26日に上場を廃止し、2015年1月1日の株式交換でイオンの完全子会社となった。
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| 1957〜1972年神戸の薬品会社から始まった主婦の店と流通革命の出発 | 中内㓛 | 大栄薬品工業として設立 | ★ | |
| 中内㓛 | 1号店「主婦の店・ダイエー薬局」を開店 | ★ | ||
| 中内㓛 | 商号を主婦の店ダイエーに変更 | ★ | ||
| 中内㓛 | フクオカダイエーを設立 | ★ | ||
| 中内㓛 | 一徳(後のトウキョウダイエー)を子会社化 | ★ | ||
| 中内㓛 | 四国ダイエーを設立 | ★ | ||
| 中内㓛 | トウキョウダイエー・フクオカダイエー・四国ダイエーを合併 | ★ | ||
| 中内㓛 | サンコー(後にマルエツと合併)と業務提携 | ★ | ||
| 中内㓛 | 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 中内㓛 | 安売りと多店舗チェーン化による小売業日本一の座の獲得 "よい品をどんどん安く"を掲げた中内㓛氏が、多店舗チェーンとストアブランドで定価販売に挑み、牛肉の安売りに始まる価格破壊を面的な事業モデルへ育てて、1972年に三越を抜き小売業の売上高日本一に立った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中内㓛 | 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★ | ||
| 1973〜1994年小売業初の売上高1兆円と拡大・多角化の頂点 | 中内㓛 | ダイエーローソンを設立しコンビニエンスストア事業へ参入 | ★★ | |
| 中内㓛 | 九州地区の店舗17店等の営業を九州ダイエー(同年9月にユニードと合併)へ譲渡 | ★ | ||
| 中内㓛 | 十字屋と業務提携 | ★ | ||
| 中内㓛 | 丸興と業務提携 | ★ | ||
| 中内㓛 | 生活情報誌「オレンジページ」を創刊 | ★ | ||
| 中内㓛 | プロ野球・南海ホークスを買収し「福岡ダイエーホークス」が発足 | ★★ | ||
| 中内㓛 | リクルートの株式の3分の1を取得し子会社化、役員を派遣 | ★★ | ||
| 中内㓛 | 忠実屋・ユニードダイエー・ダイナハを合併 | ★★ | ||
| 1995〜2004年過剰債務の噴出と創業者の退場、産業再生機構へ | 中内㓛氏が引責退任 | ★★ | ||
| 産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を申請しリストラを推進 | ★★ | |||
| 自力での再建を断念し、公的な枠組みに委ねた経営の立て直し 2004年、二度の金融支援を経ても営業力を取り戻せなかったダイエーが、民間ファンドによる自主再建を断念し、産業再生機構の支援を受け入れた経営判断。高木邦夫社長が最後までこだわった自主再建案は、同業の傘下入りを避ける狙いから練られたが、10月13日に支援要請を決断した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2005〜2015年産業再生機構から丸紅・イオンへ、そして上場廃止 | 丸紅と資本提携 | ★ | ||
| 西見徹 | イオン・丸紅と資本・業務提携 | ★ | ||
| 村井正平 | 村井正平氏が社長に就任 | ★ | ||
| 村井正平 | 独立した上場企業としての歴史の終わりと、上場廃止の受け入れ 2013年3月27日、ダイエーの取締役会はイオンによる株式公開買付けに賛同の意見を表明し、応募するか否かは株主の判断に委ねると4月12日に決議した。8月27日付でイオンが議決権の40%以上を持ち、イオンの役員・使用人が取締役の過半を占めたことでイオンが親会社となり、2014年12月の上場廃止を経て2015年1月に完全子会社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村井正平 | 株式が上場廃止 | ★★ |
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事実根拠:出所(ダイエー)