1858年〜 近江商人から戦時統合を経て戦後再独立へ
- 1858年 丸紅創業——15歳の近江商人が開いた「紅忠」から、伊藤忠と分かれ再独立するまで 初代伊藤忠兵衛氏の麻布行商と「紅忠」に遡る家業を、二代忠兵衛氏はなぜ1921年に伊藤忠商店から分けて丸紅商店として独立させたか
- 1872年 伊藤忠兵衛が大阪本町に「紅忠」を開店
- 1918年 伊藤忠商事と丸紅商店が分離設立
- 1941年 三興が発足
- 1944年 大建産業に商号変更
- 1949年 過度経済力集中排除法により大建産業が分割
- 1949年 丸紅として再発足
近江商人一家から二つの商社に割れた1918年の分岐
丸紅と伊藤忠商事の共通の源流は、1858年に初代伊藤忠兵衛が大阪で始めた麻布の持下り商いにある。1968年刊の社史『企業の歴史 明治百年』は、この家業が滋賀県犬上郡豊郷村の伊藤家に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下りに端を発したと記す。1872年に大阪本町で開いた「紅忠」は東区本町二丁目に店舗を構えた呉服太物卸で、関東呉服・尾濃織物・近江麻布を扱いながらラシャやビロードなど洋品にも手を広げ、家業は近江商人系の商業を近代商業へ接続する役割を担った。1918年、二代伊藤忠兵衛のもとで伊藤忠商事と丸紅商店が分離し、同じ出自の商号が二つに分かれた。分離は敵対ではなく家業の継承方法の選択であり、近江商人の家業を株式会社制度へ載せ替える再編であったと市川忍氏の回想は伝える。繊維卸を軸にした貿易商社として独自の道を歩む丸紅の輪郭が、この分離の時点で定まった。 [1][2][3][4]
- 丸紅 有価証券報告書【沿革】
- [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が大阪で麻布の持下り商いを開始(丸紅・伊藤忠の共通源流)
- [2]1872年 大阪本町で「紅忠」を開店(呉服太物卸)
- [4]1918年 伊藤忠商事と丸紅商店が分離(二代伊藤忠兵衛のもと)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]伊藤家は滋賀県犬上郡豊郷村に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下りに端を発したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
1918年に分かれた丸紅商店は、社史『企業の歴史 明治百年』によれば1921年3月に株式会社丸紅商店として設立され、糸や織物に繊維雑貨・金物・薬品・食糧品を加え、営業所は朝鮮・満州・中国にも及び直営工場を持つ規模に育った。1941年の戦時統制下で丸紅商店は岸本商店・伊藤忠商事と合併して三興株式会社となり、1944年には呉羽紡績・大同貿易を加えた合併で大建産業へ再編され、支配下の子会社は内外45社に達した。繊維商社としての自律性は戦時経済の動員のなかで失われ、企業の連続性は商号の連続性から切り離された。戦時の巨大商社の輪郭は、戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義する枠組みとなった。商号の継承と経営主体の連続性のずれが戦後の再独立交渉の出発点を規定し、一度ひとつにまとまった家業がもう一度分けられる奇妙な往復を生んだ。戦後の丸紅が抱えた繊維中心の構造は、この再編の過程でかたちをとった。 [5][6][7][8]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]1921年3月 株式会社丸紅商店が設立(社史『企業の歴史 明治百年』記載。沿革の系譜は㈱丸紅商店を経て大建産業に至るとし矛盾しない)
- [7]大建産業時代に30%以上の支配率を持つ子会社が内外計45社に達したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
- 丸紅 有価証券報告書【沿革】
- [6]1941年 丸紅商店・岸本商店・伊藤忠商事が合併し三興株式会社が発足
- [8]戦時の巨大商社の輪郭が戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義した
- 丸紅 有価証券報告書【沿革】
- [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が大阪で麻布の持下り商いを開始(丸紅・伊藤忠の共通源流)
- [2]1872年 大阪本町で「紅忠」を開店(呉服太物卸)
- [4]1918年 伊藤忠商事と丸紅商店が分離(二代伊藤忠兵衛のもと)
- [6]1941年 丸紅商店・岸本商店・伊藤忠商事が合併し三興株式会社が発足
- [8]戦時の巨大商社の輪郭が戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]伊藤家は滋賀県犬上郡豊郷村に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下りに端を発したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
- [5]1921年3月 株式会社丸紅商店が設立(社史『企業の歴史 明治百年』記載。沿革の系譜は㈱丸紅商店を経て大建産業に至るとし矛盾しない)
- [7]大建産業時代に30%以上の支配率を持つ子会社が内外計45社に達したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
財産・のれん分けの交渉現場と再独立
1949年の過度経済力集中排除法により大建産業は丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割され、同年12月に丸紅株式会社として再発足した。分割交渉の内実は当時の役員の記憶に残る。市川忍氏は「私と伊藤忠の小菅氏とは商事部門の財産分けについて直接交渉のテーブルにつくことになった。なんといっても最大の焦点は不動産の分割だった」(日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1)と振り返り、旧丸紅由来の不動産を折半にした経緯を綴った。のれんについては「綿ののれんは伊藤忠、その他の絹、毛、麻、化繊は丸紅ということに落ち着いた」(日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1)と明かし、綿が最も収益性の高い繊維商材であった時代に、丸紅は綿以外を受け持つ形で再出発する条件を抱え込んだ。 [9][10][11]
- 丸紅 有価証券報告書【沿革】
- [9]1949年 過度経済力集中排除法により大建産業が丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割
- [10]1949年12月 丸紅株式会社として再発足
- 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
- [11]市川忍が伊藤忠の小菅氏と商事部門の財産分け(最大の焦点は不動産分割)を直接交渉
1950年4月に東京証券取引所へ上場し、再独立の初期は綿糸相場の急落と向き合った。1952年11月、読売新聞は「世界的綿花相場の暴落をうつして繊維市況はついに恐慌状態に陥り、21日も寄付きから大量の投げ物が殺到して商内は前日に引き続いての大混乱」(読売新聞 1952/11/21)と書いた。市川忍氏はこの朝鮮動乱後の綿業不況を「丸紅も例外ではない。大ピンチだった。私は銀行、紡績会社をかけずり回り、借金をタナ上げしてもらうよう頼み込んだ」(日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1)と記している。綿以外を受け持った分割条件が、皮肉にも綿価暴落の直撃を相対的に軽くしたとも読めた。丸紅は綿の主流から外された不利を、綿暴落の被害軽減としてわずかに取り戻した格好となった。 [12]
- 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
- [12]市川忍が朝鮮動乱後の綿業不況を『大ピンチ』と回想(借金のタナ上げ依頼)
- 丸紅 有価証券報告書【沿革】
- [9]1949年 過度経済力集中排除法により大建産業が丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割
- [10]1949年12月 丸紅株式会社として再発足
- 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
- [11]市川忍が伊藤忠の小菅氏と商事部門の財産分け(最大の焦点は不動産分割)を直接交渉
- [12]市川忍が朝鮮動乱後の綿業不況を『大ピンチ』と回想(借金のタナ上げ依頼)
1955年・高島屋飯田吸収が生んだ総合商社の芽
1955年2月、丸紅は高島屋飯田を吸収した。読売新聞は「丸紅は取扱い高140、150億円となり羊毛部門では丸紅の商い高4%と高島屋の12%を合算すると羊毛関係では業界第一といわれた兼松(月商推定30億円)をしのぎ、機械、金属部門も合わせて総合商社への基盤が繊維商社の中で真先に確立された」(読売新聞 1955/2/19)と書いた。「今度の合併を契機に関西五綿、船場6社間では新合併の検討を進めるものとみられ、丸紅がテスト・ケースとなり急速に総合商社への発展がみられよう」(読売新聞 1955/2/19)とも記され、戦後商社の再編の口火を丸紅が切った事実を同時代に記録した。分割交渉で綿のれんを譲った裏返しとして、丸紅は綿以外の商権拡大を急いでおり、高島屋飯田の羊毛と機械・金属は、綿の不在を補う経営判断の延長線上にあった。 [13]
- 読売新聞(1955年2月19日)
- [13]高島屋飯田の羊毛・機械・金属取り込みで総合商社への基盤が繊維商社で真先に確立したと当時報道
合併の狙いは、1956年の市川忍氏の言葉に残る。「現在のところ売上高の3分の2は繊維関係で占めていますが、これからは、その他の商品にも大いに力を入れて伸ばしていかねばならんと思っています」「単に有力な貿易商社としての発展をはかるだけでなく、同時にそこに停滞することなく常に時代の趨勢を見極めて大所高所から事業の伸展をはからねばならんと考えています」(経済展望 1956/10)。繊維3分の2の収益構造を変える意志は、吸収した高島屋飯田由来の機械・金属部門を土台に、綿以外の商権拡大として具体化した。1950年代後半の丸紅の歩みは、綿を失った出発点を機械と羊毛で埋め直す反転の記録として読める。 [14]
- 経済展望(1956年10月)
- [14]市川忍が1956年に繊維3分の2の収益構造の脱却意志を表明(高島屋飯田由来の機械・金属を土台に)
- 読売新聞(1955年2月19日)
- [13]高島屋飯田の羊毛・機械・金属取り込みで総合商社への基盤が繊維商社で真先に確立したと当時報道
- 経済展望(1956年10月)
- [14]市川忍が1956年に繊維3分の2の収益構造の脱却意志を表明(高島屋飯田由来の機械・金属を土台に)