1876年7月1日、三井組は井上馨氏の先収会社の残務と自前の国産方を合わせ、三井物産会社を開業した。総括(社長)には先収会社で副社長を務めた益田孝氏を迎えた。職員は発足時16人で、数カ月後に国産方の51人を移して67人となった。三井家は新会社に1円も出資せず、互いに独立した存在とする方針を採った。元手は三井銀行からの借入金5万円だけで、益田孝氏自身も三井家の社員ではなく3年の雇用契約だった。益田孝氏は、商社は手数料で稼ぎ、自ら相場の危険を負ってはならないと考えていた。監督役の三野村利左衛門氏はこの考えを受け入れ、経営を一任する代わりに資本金は出さないと念を押した。三井家にとって無資本の別会社は、失敗しても本体の信用を損なわずに済む試しの事業だったとみられる。
開業から1876年12月末までの半年間に、三井物産の取扱高は54万5,000円、純益は約8,000円に達した。取扱高の55%が輸出入、45%が国内取引だった。輸入の最大品目は陸軍に納めるラシャで、国内の最大品目は大蔵省に納めるコメだった。いずれも先収会社と三井組国産方から引き継いだ官庁との取引である。1877年に西南戦争が起きると陸軍への納入が急増し、純益は20万円に達した。この戦争による利益を50万円とする記録もある。政府の勧奨を受け、横浜正金銀行ができるまでの1877〜1880年には海外荷為替も扱った。陸軍省が自前のラシャ製造工場を操業させると、この官需は長く続かなかった。無資本の会社が初年から利益を出せたのは、井上馨氏の政治的信用と官庁の注文に依存した面が大きかったと思われる。
三井物産は1876年6月、工部省所管の官営三池炭の委託販売を政府に願い出て、一手販売を認められた。この一手販売権の獲得には、井上馨氏や伊藤博文氏の尽力があった。政府は国内で販売すれば民業を圧迫すると考え、損失さえ出なければ輸出を増やす方針を採った。契約は販売代金をいったん政府に納め、売上高の2.5%の手数料と利益の半分を受け取る条件だった。益田孝氏は遠浅の大牟田港に代えて口ノ津港を積替港に定め、長崎・兵庫・三池に店を設けた。社員は外国船に火夫を乗せ、横浜までの航海で三池炭の焚き方を指導した。益田孝氏は上海にも渡り、スイス人の商社を代理店として海運会社やガス局に三池炭を販売した。
1881年、大蔵卿の松方正義氏は益田孝氏と三池を訪れ、出炭を2倍以上に増やす新坑の建設可否を視察した。三井が新坑の出炭を売り切れるかという松方正義氏の問いに、益田孝氏は『香港市場を開拓することで、十分に売りさばけます』と即答した。三池炭の輸出量は1881年を境に三菱の高島炭を上回った。高島炭は外商のジャーディン・マセソンが買付けから販売まで担っていた。三井物産は1882年、上海での代理店経由の販売を直輸出に切り替え、香港にも本格的に進出した。香港での買い手は海運会社にとどまらず、製糖工場も三池炭を燃料に使った。上海と香港には支店を置き、ロンドン・ニューヨークと並ぶ海外の拠点とした。赤字の官営炭坑が外貨を稼ぐ輸出品に変わったことで、新坑への投資を決める根拠が生まれたと推察される。
三井物産の海外の店は、コメと石炭の取引に沿って設けられた。輸出米を英国へ運ぶ際に英国人のリチャード・アーウィン氏をロンドンに派遣して代理店とし、1880年9月に支店とした。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ送られた。ニューヨークには1879年に店を設けたものの、生糸輸出のために再開したのは1896年だった。1889年の大凶作では香港支店の社員をサイゴンとビルマへ出張させ、ラングーン米・シャム米・サイゴン米を大量に買い付けた。1891年7月にはシンガポールに出張店を開設し、舶用炭の輸出を1891年の2万8,000トン余から1893年の7万トンへ増やした。資力の乏しい三井物産にとって、海外の店を保てるかどうかは、石炭やコメの大口の取引を常に流せるかで決まったのだろう。
三井物産のアジアの支店網は、三池炭の輸出で維持されていた。1888年4月、政府は三池炭坑の払下げを閣議決定し、競争入札で指値400万円、年内に100万円の納付という条件を付けた。益田孝氏は三井家同族の承諾を得たうえで、三池炭を失えば海外支店を閉じるほかないと三井銀行の副長に説き、100万円の融資を取り付けた。三井は455万5,000円で入札し、455万2,700円の三菱を2,300円上回って落札した。三池炭坑は1889年1月に大蔵省から払い下げられ、1892年6月に資本金200万円の三井鉱山合資へ移った。三池では技師の団琢磨氏の意見に基づいて最新の機械と技術を導入し、日清戦争後に生産力を高めた。三井物産は銀行借入と払下げの年賦金を石炭輸出の利益で返し、1902年に完済した。
1893年、商法の一部施行を機に三井物産は資本金100万円の三井物産合名会社へ改組した。同じ年に銀行・鉱山・呉服店も合名会社に改組され、10月には三井家同族会と三井元方が設けられた。再編を率いたのは、1891年に井上馨氏の推薦で三井銀行の理事となった中上川彦次郎氏だった。1898年11月の定款改正で、三井家からの出資社員はそれまでの三井武之助氏・三井養之助氏の2人から同族11人全員に広がった。これにより三井物産は、銀行・鉱山・呉服店と並ぶ三井直系の4社の一つとなった。合名会社となってからは高等商業や大学の卒業生を積極的に採用した。1891年ごろからは上海支店を訓練の場として、若い修業生を中国へ送り出した。1876年に1円も出資しなかった三井家の扱いは、20年余りで一変したと考えられる。
1882年に大阪紡績が設立されると、三井物産はプラット社のミュール精紡機16台(1万500錘)を納めた。1886年にはプラット社と代理店契約を結び、20社が輸入した紡績機の85%を扱った。原綿も当初は中国綿を輸入し、1892年に鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿の一手販売契約を結んだ。契約先の鐘渕紡績は、1890年の恐慌後に三井銀行の救済融資を受けて三井の傘下に入っていた。これらの注文にこたえるため、1893年2月にボンベイ出張所を開設した。インド綿は国産綿・中国綿より繊維が長く安価で、輸入綿花の主力となった。1897年ごろからボンベイ支店は英国系の綿花商を介さずに買い付け、ナグポール地方では産地から直接買い付けた。1897年の綿花輸入は1,382万円となり、石炭を上回る最大の取扱商品となった。
日露戦争のころ、三井物産は日本の輸出入に加え、外国と外国を結ぶ取引を広げた。上海支店の山本条太郎氏は1895年ごろから中国生糸の欧州向け輸出を手がけ、1905年には国際銅市場で大口の取引を担った。日露戦争後には、ロンドンの銀行や株式仲買商から300万〜400万円の戦時国債の取次を任された。欧州で油脂・飼料原料の綿実が不足すると、三井物産は中国の各支店と連携して大豆を英国へ送り、3カ月で8万5,000トンの成約を得た。1908年には外国間貿易が総取扱高の16%に達した。日本の輸出に占める三井物産の比率は1897年ごろの6.4%から1909年の26%へ上昇した。1909年10月、三井物産は資本金2,000万円の株式会社に改組した。大豆の外国間貿易は、日本の産物を扱う創業時の商いの範囲を越える一歩だったのではないか。
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|---|---|---|---|---|
| 1876〜1908年益田孝氏らによる旧三井物産の設立と明治期の貿易商社としての成長 | 資本を持たずに興した商社と、解体と再結集を重ねた二層構造 1876年7月1日、大蔵省を辞して先収会社で商社実務を積んだ28歳の益田孝氏が、東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を開業した。掲げた目的は国内国外にわたる物品の売買で、公式の資本金は計上せず、商品売買の運転資金を三井組から借り受けて利益で精算する「身代り資本」の方式をとった。自社の建物は持たず、社員は数十名。創立以来の取扱品は石炭・米・官用品の三品で、なかでも官営三池炭鉱の石炭販売受託を主力に据え、上海向けの汽船燃料として産炭を一手に海外へ送り出した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1909〜1944年三井合名傘下の株式会社への改組、第一次大戦ブームから戦時体制まで | 三井合名会社の子会社として三井物産に改組 | ★ | ||
| 1945〜1958年敗戦による海外資産の喪失と旧三井物産の解散、分散した後継商社群 | 終戦により旧三井物産の海外資産・取引を喪失 | ★ | ||
| 新関八洲太郎 | 過度経済力集中排除法により旧三井物産が解散 | ★★ | ||
| 新関八洲太郎 | 新会社群へ分割、現・三井物産の前身となる企業が発足 | ★ | ||
| 新関八洲太郎 | 東京証券取引所再開時に上場 | ★ | ||
| 1959〜1979年大合同による三井物産の再発足と豪州鉄鉱石・LNGなど資源開発への参画 | 新関八洲太郎 | 分散していた旧三井物産系商社を統合し現在の三井物産が発足 | ★★ | |
| 水上達三 | Moura炭鉱開発への参画 | ★ | ||
| 水上達三 | 米国預託証券(ADR)を発行(1971年2月に米国NASDAQに登録) | ★ | ||
| 水上達三 | Robe River鉄鉱山への参画 | ★ | ||
| 水上達三 | 米国三井物産を設立 | ★ | ||
| 水上達三 | Mount Newman鉄鉱石長期契約締結 | ★★ | ||
| 若杉末雪 | MBRへの参画(企業買収・統合などの再編を経て、現在のValeに至る) | ★ | ||
| 若杉末雪 | 三井リース事業を設立 | ★ | ||
| 若杉末雪 | アブダビ・ダス島LNG開発基本協定調印 | ★★ | ||
| 池田芳蔵 | 凍結論を退けて続けた末に、1,300億円の計画は7,400億円へ膨らんだ 三井物産は1971年10月、イランと石油化学プロジェクト(IJPC=イラン・ジャパン石油化学)の基本協定を締結した。石油ショックで投資額は当初の1,300億円から1974年10月の試算で7,400億円へ跳ね上がる。それでも創業100周年の1976年、池田芳蔵社長は社内の凍結論・撤収論を退け、総額5,000億円規模の計画の本格推進に踏み切った。 1979年1月のイラン革命で工事は組立重量ベース85%まで進んだところで中断し、1980年9月のイラン・イラク戦争で建設現場は被爆する。1981年4月に日本側投資会社ICDCが資金供給を止め、1982年3月期にはIJPC関連の投融資395億円を引き当てて151億円の欠損を計上した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 池田芳蔵 | モザンビークのLNG事業への関与開始(長期視点) | ★ | ||
| 1980〜2001年イラン石油化学プロジェクトの終結と営業本部長制、サハリンⅡへの参画 | 熊谷直彦 | イラン化学開発の清算完了によりイラン石油化学プロジェクトが終結 | ★★ | |
| 熊谷直彦 | 営業本部長制導入 | ★ | ||
| 熊谷直彦 | 三井物産鉄鋼建材を設立 | ★ | ||
| 熊谷直彦 | サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印 | ★★ | ||
| 清水愼次郎 | 自動車販売・総合ソリューション事業Penske Automotive Groupに出資 | ★ | ||
| 2002〜2026年国後島不正入札事件後のガバナンス改革と資源高の最高益、減損赤字からの回復 | 清水愼次郎 | 執行役員制を導入 | ★ | |
| 清水愼次郎 | DPFの虚偽データと併せて突きつけられた、内部統制の作り直しと360億円の補償 2002年7月3日、東京地方検察庁特別捜査部が国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札で三井物産の社員3人を逮捕した。7月24日に社員2人が偽計業務妨害で起訴されると、清水愼次郎社長は役員報酬の20%を3か月自主返上する処分にとどめ、引責辞任を否定した。同年10月、槍田松瑩氏が後任の社長に就任し、コンプライアンスの徹底を最重要課題に掲げて内部監査制度を拡充する。その内部監査が2004年11月、100%子会社のピュアース株式会社が製造し自社が販売していたディーゼル車向け粒子状物質減少装置DPFで、試験データが偽って作られ、そのまま提出されていたことを掘り当てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 槍田松瑩 | 社外取締役1名を初めて選任 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 連結収益4兆1154億円、当期利益2024億円 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 連結収益5兆7388億円、当期利益4100億円 | ★ | ||
| 飯島彰己 | 財務報告に係る内部統制を有効と報告した期に、二つの営業部署で判明した架空取引と再発防止策 最初に発覚したのは九州支社である。2008年7月、同支社の営業部署が地元の取引先と農業資材などを回す循環取引に加わり、その一部は架空の取引だったとわかった。9か月後の2009年4月には機能化学品本部の営業部署でも、インドネシアなど東南アジアへの輸出として計上した取引に、実際の売買が伴っていなかったことが明らかになった。 2009年6月、社長から三井物産グループの全役職員へコンプライアンス意識の再徹底を指示するとともに、営業現場での管理の再徹底、業務プロセス上のコントロール強化、人材流動化の促進を再発防止策として決定した。 詳細を読む | |||
| 飯島彰己 | NASDAQ上場廃止(同年7月に米国証券取引委員会(SEC)登録廃止) | ★ | ||
| 飯島彰己 | IFRS適用初年度、収益11兆1554億円 | ★ | ||
| 安永竜夫 | 安永竜夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 安永竜夫 | 当期純損失834億円を計上 | ★★ | ||
| 安永竜夫 | 当期利益3061億円でV字回復 | ★ | ||
| 堀健一 | 堀健一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 堀健一 | 連結収益14兆3064億円、当期利益1兆1306億円 | ★ | ||
| 堀健一 | モザンビークLNG建設が4年間の不可抗力宣言解消を経て再開 | ★ | ||
| 堀健一 | 20年交渉した未開発鉱床の権益40%を約8,000億円で取得し、豪州鉄鉱石を積み増した 三井物産は2025年2月、豪州の未開発鉄鉱床Rhodes Ridgeの権益40%を取得する譲渡契約を締結した。VOC Group Limitedが保有する全持分権益25%を約5,000億円、AMB Holdings Pty Ltd.の権益15%を約3,000億円で譲り受ける2つの取引からなり、合計額は約8,000億円(5,342百万米ドル、1米ドル=150円)となる。関連当局の承認等の先行要件を充たして2025年10月に参画し、2026年3月期に7,238億円を支出した。 詳細を読む | |||
| 堀健一 | Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三井物産)