三井物産 の歴史

更新:

創業

1876年

創業者

益田孝

創業地

東京都

直近売上高(2026/3)

139,952億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ明治期の三井物産は、一つの商品を極める専門商社ではなく、商品を横断して扱う総合商社の型を選んだのか
A 一つの商品の市況に経営を預ければ、その品目の不振がそのまま会社の浮沈を決めてしまう。そこで益田孝氏は、扱う品目を増やして一品目の不調を他で補い、各地に張った取引網と信用を共有させるほうが商社として強いと考えた。1876年に官営三池炭の一手販売権を握って上海・香港・シンガポールへ輸出し、その足がかりから綿花・機械・鉱産物・絹織物へ取扱を広げる。明治後期には扱う品目が数百種に及び、取扱高は日本の貿易総額の約2割を占めるまでになった
Q なぜ1947年に財閥解体で約180社へ分割された三井物産が、10年あまりで同じ看板のもとに再結集できたのか
A 商社の資産は工場や生産設備ではなく、取引先・商品知識・海外人脈という人に宿る無形の資源である。会社を法的に解体しても、その縁までは消せなかった。1947年7月の過度経済力集中排除法でGHQ指導のもと約180社へ分割された後も、旧三井物産出身者は取引や商品の知識を個人の関係として引き継いだ。約180社の一つだった第一物産が互洋貿易・三井木材工業・国際物産交易などを次々に統合し、1959年の「物産大合同」を経て三井物産の商号を取り戻した
Q なぜ2016年に戦後初の赤字を出した三井物産が、近年は稼ぐ前に株主還元の比率を約束する資本政策へ転じたのか
A 資源権益に偏った収益構造は市況の上下で利益が振れやすく、チリ銅・米シェールガスの減損で2016年3月期に戦後初の通期赤字となった。この反省から、資源高で積み上がった自己資本を成長投資へ抱え込んで滞らせるより、稼ぐ前に還元の比率を約束して資本効率を自ら縛るほうが市場の信頼を得やすいと判断した。中期経営計画2026では累進配当を導入し、3年累計の基礎営業キャッシュ・フローの約37%を株主還元に充てると定め、その後の好調を受けて還元割合を54%まで引き上げた

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1876年〜 益田孝の無資本創業と、日本の貿易の二割を扱う商社へ

先収会社で覚えた実務と、三池炭から広げた取扱

1876年7月、益田孝氏は東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を発足[1]させた。当時28歳の益田氏は大蔵省を辞したのち、井上馨が1873年に興した先収会社で、洋式簿記や船積、代理店制度の実務[2]を身につけていた。1876年に井上が三井組の顧問へ復帰すると、洋式商社の経営に通じた人材として商事部門の責任者に迎えられた[3]。三井家は銀行業への転換を控えており、商事の損失を別法人へ切り離す必要から公式の資本金を計上しなかった[4]。商品売買の運転資金は三井組から借りて精算する身代り資本の方式[5]をとり、元手を持たないまま商社を興している。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [1]1876年7月 旧三井物産会社が三井組ハウス内で発足
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
    • [2]益田孝 1873年設立の先収会社で洋式簿記・船積・代理店制度の実務を体得
    • [3]1876年 井上馨の三井組顧問復帰にともない益田孝が商事部門の責任者に抜擢
    • [4]三井家の銀行業転換を控え商事の損失を別法人へ切り離す方針
    • [5]身代り資本方式 三井組から運転資金を借り受けて精算

発足の直後、三井物産会社は官営三池炭鉱の石炭販売を受託し、上海向けの汽船燃料[6]で安定した収入を確保した。益田孝氏は「商業の道は人にあり」として若手の登用と海外派遣[7]を急ぎ、設立の翌年から上海・パリ・ロンドン・ニューヨークへ社員を送って支店網の整備[8]に着手した。取扱品目は三池炭を足場に広がり、明治10年代後半には英国製紡績機械の輸入と国産綿糸の中国向け輸出[9]、明治20年代には鉄道資材・鉱産物・肥料へと増えた。1893年12月、三井物産合名会社へ改組[10]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [6]創業初年 官営三池炭鉱の石炭販売受託と上海向け汽船燃料
    • [9]明治10年代後半 英国紡績機械輸入と国産綿糸の中国向け輸出/明治20年代 鉄道資材・鉱産物・肥料へ拡張
    • [10]1893年12月 三井物産合名会社へ改組
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
    • [7]益田孝「商業の道は人にあり」若手登用と海外派遣
    • [8]設立翌年 上海・パリ・ロンドン・ニューヨークへ社員派遣
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [1]1876年7月 旧三井物産会社が三井組ハウス内で発足
    • [6]創業初年 官営三池炭鉱の石炭販売受託と上海向け汽船燃料
    • [9]明治10年代後半 英国紡績機械輸入と国産綿糸の中国向け輸出/明治20年代 鉄道資材・鉱産物・肥料へ拡張
    • [10]1893年12月 三井物産合名会社へ改組
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
    • [2]益田孝 1873年設立の先収会社で洋式簿記・船積・代理店制度の実務を体得
    • [3]1876年 井上馨の三井組顧問復帰にともない益田孝が商事部門の責任者に抜擢
    • [4]三井家の銀行業転換を控え商事の損失を別法人へ切り離す方針
    • [5]身代り資本方式 三井組から運転資金を借り受けて精算
    • [7]益田孝「商業の道は人にあり」若手登用と海外派遣
    • [8]設立翌年 上海・パリ・ロンドン・ニューヨークへ社員派遣

株式会社への改組と、財閥攻撃のなかの三井物産

1909年10月、資本金2,000万円で株式会社三井物産が発足[11]した。戦前の三井物産は海外支店網と商品知識、長期の取引関係を蓄え[12]、日本企業が国際取引を行ううえでの基盤となった。その規模は貿易統計に表れており、1937年から1943年までの平均で日本の貿易総額の18.3%[13]を占めた。分身にあたる東洋棉花を合わせると、比率は4分の1[14]に達した。事業部門の分離も進み、1942年12月28日には船舶部が三井船舶として独立[15]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [11]1909年10月 株式会社三井物産が資本金2,000万円で発足
    • [15]1942年12月28日 三井物産船舶部が三井船舶として分離独立
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
    • [12]戦前の三井物産 海外支店網・商品知識・長期取引関係の蓄積
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [13]1937〜1943年平均 日本の貿易総額に占める三井物産の比率 18.3%
    • [14]東洋棉花を加えた比率 貿易総額の4分の1

規模の大きさは、不況下で攻撃の的にもなった。英国が1931年9月に金本位制を停止すると、円売りドル買いをめぐって三井への批判が高まった。同年11月5日には与党の民政党が糾弾声明[17]を出している。声明は「三井財閥は金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた」[18]と難じている。三井物産は12月に『中外商業新報』へ声明を掲載し、思惑買いの事実はない[19]と釈明した。批判は収まらず、1932年3月9日には団琢磨三井合名理事長が三井本館の入り口で血盟団員に射殺[20]された。 [16]

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [16]1931年9月 英国の金本位制停止と三井へのドル買い批判
    • [17]1931年11月5日 民政党がドル買いをめぐり三井を糾弾する声明
    • [18]民政党声明の文言「金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた」
    • [19]1931年12月 三井物産が中外商業新報へ釈明の声明を掲載
    • [20]1932年3月9日 団琢磨三井合名理事長が三井本館入口で血盟団員に射殺
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [11]1909年10月 株式会社三井物産が資本金2,000万円で発足
    • [15]1942年12月28日 三井物産船舶部が三井船舶として分離独立
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
    • [12]戦前の三井物産 海外支店網・商品知識・長期取引関係の蓄積
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [13]1937〜1943年平均 日本の貿易総額に占める三井物産の比率 18.3%
    • [14]東洋棉花を加えた比率 貿易総額の4分の1
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [16]1931年9月 英国の金本位制停止と三井へのドル買い批判
    • [17]1931年11月5日 民政党がドル買いをめぐり三井を糾弾する声明
    • [18]民政党声明の文言「金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた」
    • [19]1931年12月 三井物産が中外商業新報へ釈明の声明を掲載
    • [20]1932年3月9日 団琢磨三井合名理事長が三井本館入口で血盟団員に射殺

1937年〜 解散命令と、二〇〇社に分かれた戦後の再結集

  1. 1945年 終戦により旧三井物産の海外資産・取引を喪失
  2. 1947年 過度経済力集中排除法により旧三井物産が解散
  3. 1947年 新会社群へ分割、現・三井物産の前身となる企業が発足
  4. 1949年 東京証券取引所再開時に上場
  5. 1959年 室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた一九五九年の大合同 解散させられた三井物産の商号を、なぜ第一物産は自ら名乗らず、鉄鋼専門商社との争いを経て取り戻したのか

統制経済のもとでの商社と、GHQが下した解散命令

1937年7月の盧溝橋事件で日中戦争が始まる[21]と、戦時経済統制が強められた。同年9月には軍需工業動員法の適用に関する法律、輸出入品等の臨時措置に関する法律、臨時資金調整法の三法[22]が公布され、翌1938年4月の国家総動員法で全面的な統制経済[23]に入った。輸入には輸出実績に基づく外貨割当が必要となり[24]、商社が自由に動ける範囲は狭まった。市場も世界のブロック化でアメリカや英連邦向けの輸出が頭打ち[25]となり、輸出入は軍需関連が増えた。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [21]1937年7月 盧溝橋事件と日中戦争開始にともなう戦時経済統制の強化
    • [22]1937年9月 軍需工業動員法の適用に関する法律・輸出入品等の臨時措置に関する法律・臨時資金調整法の公布
    • [23]1938年4月 国家総動員法公布
    • [24]輸入時の外貨割当制 輸出実績に基づく割当
    • [25]世界市場のブロック化でアメリカ・英連邦向け輸出が頭打ち

敗戦後、三井本社は1945年11月6日に三菱・住友・安田の各本社とともに解散指令[26]を受け、翌1946年に持株をすべて持株会社整理委員会へ引き渡したうえで、9月30日に解散を決議[27]した。三井物産も傘下に多数の子会社を抱えていたことから、1946年12月に三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定[28]を受け、同月28日に持株会社へ指定[29]された。独占禁止法と過度経済力集中排除法が公布施行されるなかで、自らの手で改組・分割を実行しなければ存続できない[30]と判断し、1946年12月4日付で分割再建案の作成に着手[31]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [26]1945年11月6日 三井・三菱・住友・安田の各本社が解散指令
    • [27]1946年9月30日 三井本社の解散決議
    • [29]1946年12月28日 三井物産が持株会社に指定
    • [30]独占禁止法・過度経済力集中排除法の公布施行を受けた自主改組の判断
    • [31]1946年12月4日付 分割再建案の作成着手
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [28]1946年12月 三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定

改組案は商品別に分けるか地域別に分けるかで社内の意見が割れ[32]、最終的に複数案を示して連合国軍総司令部の選択に委ねる形をとった。当初提示した10分割案に対しては、担当官から5、6社にとどまる可能性[33]も示唆されていた。ところが1947年7月5日、大蔵省へ呼び出された担当者が手渡された[34]のは、7月3日付の覚書の写しであり、そこには三井物産と三菱商事の解散命令が記されていた[35]。覚書は数社への分割も認めず、あらゆる形での存続を許さない[36]内容だった。解散を受けて旧三井物産は約180の会社に分かれ[37]、社員が各地で興した物産系の新会社は200社を超えた[38]

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [32]改組案をめぐる商品別・地域別の対立と複数案提示
    • [33]当初提示は10分割案 担当官は5、6社にとどまる可能性を示唆
    • [34]1947年7月5日 大蔵省で7月3日付GHQ覚書の写しを手交
    • [35]覚書の内容 三井物産・三菱商事の解散命令
    • [36]覚書は数社への分割も認めずあらゆる形での存続を不許可
    • [38]物産系の新会社は200社を超えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [37]旧三井物産は約180の会社に分割
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [21]1937年7月 盧溝橋事件と日中戦争開始にともなう戦時経済統制の強化
    • [22]1937年9月 軍需工業動員法の適用に関する法律・輸出入品等の臨時措置に関する法律・臨時資金調整法の公布
    • [23]1938年4月 国家総動員法公布
    • [24]輸入時の外貨割当制 輸出実績に基づく割当
    • [25]世界市場のブロック化でアメリカ・英連邦向け輸出が頭打ち
    • [26]1945年11月6日 三井・三菱・住友・安田の各本社が解散指令
    • [27]1946年9月30日 三井本社の解散決議
    • [29]1946年12月28日 三井物産が持株会社に指定
    • [30]独占禁止法・過度経済力集中排除法の公布施行を受けた自主改組の判断
    • [31]1946年12月4日付 分割再建案の作成着手
    • [32]改組案をめぐる商品別・地域別の対立と複数案提示
    • [33]当初提示は10分割案 担当官は5、6社にとどまる可能性を示唆
    • [34]1947年7月5日 大蔵省で7月3日付GHQ覚書の写しを手交
    • [35]覚書の内容 三井物産・三菱商事の解散命令
    • [36]覚書は数社への分割も認めずあらゆる形での存続を不許可
    • [38]物産系の新会社は200社を超えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [28]1946年12月 三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定
    • [37]旧三井物産は約180の会社に分割

三七人で発足した第一物産と、株式上場による信用力

解散命令には復活を防ぐための条件が付され、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ[39]、100名を超える従業員が新会社を組織することも認めず[40]、従来の事務所の占有と商号の使用も禁じたうえ、この指令は向こう10年間有効[41]とされた。解散時に男子職員だけで3,000人あまりを抱えており[42]、社員はそれぞれに進路を探した。非鉄・食料・肥料・化学品・建材・企画の各部門にいた37人が集まり、1947年7月25日[43]、資本金19万5,000円で第一物産が発足[44]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [39]解散命令の付帯条件 過去10年間の役員・部長を2名以上雇用禁止
    • [40]100名超の従業員による新会社組織の禁止/事務所占有・商号使用の禁止
    • [41]解散指令の有効期間 向こう10年間
    • [42]解散時の男子職員 3,000人あまり 社員は各自で進路を模索
    • [43]1947年7月25日 資本金19万5,000円で第一物産設立 発起人37人
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1947年7月 資本金195,000円をもって第一物産株式会社を設立

本社は堀留にある元昭和銀行支店の建物を借り[45]、吹抜けを中二階に仕切って使った。家賃は月額6,000円[46]だった。発足から2年たたない1949年5月、第一物産は再開した東京証券取引所へ株式を上場[47]した。当時の上場商社は高島屋飯田のみで、第一物産は2番目[48]にあたる。1949年1月払込の第三回増資では初めて一般公募[49]を行い、三井生命と富国生命を皮切りに有力生保7社、ついで損保各社が株主となった。1951年にはベーチェ社との提携で5,000万円の外資を導入し、資本金を2億円[50]とした。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [45]本社事務所 堀留の元昭和銀行支店 家賃月額6,000円
    • [46]第一物産本社の家賃 月額6,000円
    • [48]当時の上場商社は高島屋飯田のみ 第一物産は2番目の上場
    • [49]1949年1月払込の第三回増資で初の一般公募 三井生命・富国生命ほか有力生保7社が株主に
    • [50]1951年 ベーチェ社との提携で5,000万円の外資導入 資本金2億円へ
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [39]解散命令の付帯条件 過去10年間の役員・部長を2名以上雇用禁止
    • [40]100名超の従業員による新会社組織の禁止/事務所占有・商号使用の禁止
    • [41]解散指令の有効期間 向こう10年間
    • [42]解散時の男子職員 3,000人あまり 社員は各自で進路を模索
    • [43]1947年7月25日 資本金19万5,000円で第一物産設立 発起人37人
    • [45]本社事務所 堀留の元昭和銀行支店 家賃月額6,000円
    • [46]第一物産本社の家賃 月額6,000円
    • [48]当時の上場商社は高島屋飯田のみ 第一物産は2番目の上場
    • [49]1949年1月払込の第三回増資で初の一般公募 三井生命・富国生命ほか有力生保7社が株主に
    • [50]1951年 ベーチェ社との提携で5,000万円の外資導入 資本金2億円へ
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1947年7月 資本金195,000円をもって第一物産株式会社を設立
    • [47]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場

室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた大合同

1952年4月の講和条約発効で財閥商号の復活が可能[51]になると、旧物産系新会社14社の社長が三井本館に集まり[52]、「三井物産」の商号を他社に取られないよう日東倉庫建物へ預けることを決めた。適当な時期に旧物産系商社が合併してこの社名を継ぐという合意だったが、文書は残されなかった[53]。1953年7月、鉄鋼を扱う室町物産がその日東倉庫建物を合併[54]し、三井物産を名乗った。第一物産側はこれを申し合わせ違反とみなし、対抗して三井木材工業を合併[55]している。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [51]1952年4月 講和条約発効による財閥商号の復活
    • [52]旧物産系新会社14社の社長が商号を日東倉庫建物へ預けることを決定
    • [53]合意文書が残されずのちの紛糾の因に
    • [54]1953年7月 室町物産が日東倉庫建物を合併し三井物産を名乗る
    • [55]第一物産が対抗して三井木材工業を合併

両社の合併交渉は1955年8月30日深夜に合意へ達し、合併比率を1対1[56]、合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日とする11項目の覚書[57]を交わした。しかし直前の8月25日に室町物産が予告なく半額無償増資を発表[58]しており、交渉はそこから紛糾した。最大の争点は、どちらを存続会社とするか[59]であった。第一物産は売上高で室町物産の6倍の規模を持ち、決算書に明記した22億円の不良債権[60]を税務上処理するうえでも存続会社となる必要があった。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [56]1955年8月30日深夜 合併比率1対1・商号三井物産・期日1956年4月1日の11項目覚書
    • [57]覚書は合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日と定めた
    • [58]1955年8月25日 室町物産が予告なく半額無償増資を発表
    • [59]最大の争点は存続会社をどちらにするか
    • [60]第一物産の売上高は室町物産の6倍/不良債権22億円の税務処理

交渉は平行線をたどり、1956年4月の合併は実現しなかった[61]。事態を動かしたのは市況で、1956年10月のスエズ動乱による商品相場の急騰のあとに反動[62]が訪れ、鉄鋼メーカーの操短で大量に買い付けたスクラップの手形が落ちず[63]、室町物産は金融難に陥った。メインバンクの東京銀行と富士銀行はいずれも第一物産とも取引が深く[64]、かねて大合同を望んでいた。1959年2月16日、第一物産を存続会社として合併が成立し、商号を三井物産へ変更[65]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [61]1956年4月の合併不成立
    • [62]1956年10月 スエズ動乱による商品相場の急騰と反動
    • [63]鉄鋼メーカーの操短でスクラップ手形が不渡り 室町物産が金融難
    • [64]東京銀行・富士銀行が両社の主力行として大合同を後押し
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1959年2月 三井物産株式会社に商号変更
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [51]1952年4月 講和条約発効による財閥商号の復活
    • [52]旧物産系新会社14社の社長が商号を日東倉庫建物へ預けることを決定
    • [53]合意文書が残されずのちの紛糾の因に
    • [54]1953年7月 室町物産が日東倉庫建物を合併し三井物産を名乗る
    • [55]第一物産が対抗して三井木材工業を合併
    • [56]1955年8月30日深夜 合併比率1対1・商号三井物産・期日1956年4月1日の11項目覚書
    • [57]覚書は合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日と定めた
    • [58]1955年8月25日 室町物産が予告なく半額無償増資を発表
    • [59]最大の争点は存続会社をどちらにするか
    • [60]第一物産の売上高は室町物産の6倍/不良債権22億円の税務処理
    • [61]1956年4月の合併不成立
    • [62]1956年10月 スエズ動乱による商品相場の急騰と反動
    • [63]鉄鋼メーカーの操短でスクラップ手形が不渡り 室町物産が金融難
    • [64]東京銀行・富士銀行が両社の主力行として大合同を後押し
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1959年2月 三井物産株式会社に商号変更

1960年〜 資源権益への傾斜と、イラン石油化学という蹉跌

三井物産の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1963年 Moura炭鉱開発への参画
  2. 1963年 米国預託証券(ADR)を発行(1971年2月に米国NASDAQに登録)
  3. 1965年 Robe River鉄鉱山への参画
  4. 1966年 Mount Newman鉄鉱石長期契約締結
  5. 1971年 アブダビ・ダス島LNG開発基本協定調印
  6. 1976年 イラン石油化学(IJPC)への参画と、撤退できなかった巨大プロジェクト 石油部門で三菱商事に後れを取った三井物産は、なぜ採算が崩れ撤退論が出てもイランの石化事業から引けなかったのか
  7. 1990年 イラン化学開発の清算完了によりイラン石油化学プロジェクトが終結

豪州とブラジルで押さえた原料の権益

大合同で再出発した三井物産は高度成長期の素材需要に合わせて原料の供給源そのものを押さえにかかり、1963年1月に豪州のMoura炭鉱の開発へ参画[66]した。1965年2月には豪州Robe River鉄鉱山に加わって[67]いる。1966年10月には豪州Mount Newmanの鉄鉱石長期契約[68]を結んでいる。1971年2月にはブラジルのMBRへ参画[69]し、この権益は企業買収と統合による再編を経て現在のValeにつながった[70]。販売先の確保から一歩進んで、鉱山の持分を握る取引形態へ移った[71]時期にあたる。

  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1963年1月 豪州Moura炭鉱(現Dawson炭鉱)開発への参画
    • [67]1965年2月 豪州Robe River鉄鉱山への参画
    • [68]1966年10月 豪州Mount Newman鉄鉱石長期契約締結
    • [69]1971年2月 ブラジルMBRへの参画(再編を経て現在のValeに至る)
    • [70]MBR権益は企業買収・統合などの再編を経てValeに至る
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [71]商権確保から鉱山持分の取得へ移行した資源取引の形態変化

エネルギーでも同じ形をとり、1971年9月にアブダビ・ダス島LNGの開発基本協定へ調印[72]した。国内では1971年3月にリース事業部を分離して三井リース事業を設立[73]し、金融機能を別会社へ切り出している。1966年4月には米国三井物産を設立[74]した。米国三井物産はのちに輸出貢献度で米国企業の上位5社に入る規模[75]となり、日米の経済摩擦が争点となった時期に日本側の輸出基盤を支えた。1976年11月、本店を東京都千代田区大手町へ移した[76]

  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [72]1971年9月 アブダビ・ダス島LNG(現ADNOC LNG)開発基本協定調印
    • [73]1971年3月 リース事業部を分離し三井リース事業を設立
    • [74]1966年4月 米国三井物産株式会社を設立
    • [76]1976年11月 本店を東京都千代田区大手町に移転
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [75]米国三井物産は米国で輸出貢献度が上位5社に入る企業
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1963年1月 豪州Moura炭鉱(現Dawson炭鉱)開発への参画
    • [67]1965年2月 豪州Robe River鉄鉱山への参画
    • [68]1966年10月 豪州Mount Newman鉄鉱石長期契約締結
    • [69]1971年2月 ブラジルMBRへの参画(再編を経て現在のValeに至る)
    • [70]MBR権益は企業買収・統合などの再編を経てValeに至る
    • [72]1971年9月 アブダビ・ダス島LNG(現ADNOC LNG)開発基本協定調印
    • [73]1971年3月 リース事業部を分離し三井リース事業を設立
    • [74]1966年4月 米国三井物産株式会社を設立
    • [76]1976年11月 本店を東京都千代田区大手町に移転
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [71]商権確保から鉱山持分の取得へ移行した資源取引の形態変化
    • [75]米国三井物産は米国で輸出貢献度が上位5社に入る企業

イラン石油化学への参画と、撤退できなかった一〇年

石油部門で三菱商事に後れを取っていた[77]三井物産にとって、エネルギー部門の強化は急務だった。イランのロレスタン鉱区の獲得を狙って動くなかで、イラン側から鉱区取得の必須条件として[78]三井グループによる石油化学プロジェクトの実行を提示され、企業化調査が十分でないまま石化事業を引き受ける[79]方向へ傾いた。1971年10月、日本とイランの折半出資による基本協定に調印[80]した。日本側は三井物産ほか5社で投資会社ICDCを設立し、三井物産が60%を持つ筆頭株主[81]となった。

  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」
    • [77]石油部門で三菱商事に後れエネルギー強化が急務
    • [78]イラン側が鉱区取得の必須条件として石化プロジェクトの実行を提示
    • [79]企業化調査が不十分なまま石化事業の引き受けへ傾斜
    • [80]1971年10月 日イ折半出資の基本協定調印
    • [81]投資会社ICDCを5社で設立 三井物産が60%の筆頭株主

石油ショックで建設予算は当初の約1,300億円から7,400億円へ膨らみ、のちに5,500億円へ圧縮[82]された。社内には凍結論と撤収論があったが、池田芳蔵社長は不退転の覚悟として退けた[83]。創業100周年にあたる1976年、池田社長は勇断を持って実行すべきだと表明[84]している。ロレスタン鉱区で原油は十分に出ず、石油生産と石化事業の二本立てで始めた計画は石化だけの片肺飛行[85]となり、三井物産が建設責任を負う形になった[86]

  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」
    • [82]建設予算は当初1300億円から7400億円へ膨張しのち5500億円へ圧縮
    • [83]池田芳蔵社長が凍結論・撤収論を「不退転の覚悟」で退けた
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号「三井物産。-第2次商社斜陽論への挑戦者-」
    • [84]1976年 創業100周年に池田芳蔵社長が「勇断を持って実行すべきだ」と表明
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [85]ロレスタン鉱区で原油が出ず石化のみの片肺飛行に
    • [86]三井物産が建設責任を負う立場に

1979年2月のイラン革命で工事は中断した。重量ベースで85%、工程で66%まで進んだ段階だった。再開の約束を取り付けたものの、1980年9月に始まったイラン・イラク戦争で現場は被爆[88]し、1981年4月に日本側は出資の送金を停止[89]した。同年7月にはイラン側との交渉を始め、1983年7月に日本側の技術協力とイラン側の全額資金負担を定めた補完契約書[90]を結んだが、イラン国会で否決された。日本側5社の年間経費負担は177億円に達し、2日で1億円[91]が出ていく状態が続いた。1990年12月、イラン化学開発の清算完了により、イラン石油化学プロジェクトは終結[92]した。 [87][93]

  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」
    • [87]1979年2月 イラン革命で工事中断 重量85%・工程66%まで進捗
    • [88]1980年9月 イラン・イラク戦争勃発と現場被爆
    • [89]1981年4月 日本側が出資送金を停止
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [90]1981年7月 対イラン交渉開始/1983年7月 補完契約書締結もイラン国会で否決
    • [91]日本側5社の年間経費負担 177億円(2日で1億円)
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1990年12月 イラン化学開発清算完了によりイラン石油化学プロジェクト終結
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
    • [93]八尋俊邦氏「油乞いの時代に締結した基本協定が足かせとなった」
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」
    • [77]石油部門で三菱商事に後れエネルギー強化が急務
    • [78]イラン側が鉱区取得の必須条件として石化プロジェクトの実行を提示
    • [79]企業化調査が不十分なまま石化事業の引き受けへ傾斜
    • [80]1971年10月 日イ折半出資の基本協定調印
    • [81]投資会社ICDCを5社で設立 三井物産が60%の筆頭株主
    • [82]建設予算は当初1300億円から7400億円へ膨張しのち5500億円へ圧縮
    • [83]池田芳蔵社長が凍結論・撤収論を「不退転の覚悟」で退けた
    • [87]1979年2月 イラン革命で工事中断 重量85%・工程66%まで進捗
    • [88]1980年9月 イラン・イラク戦争勃発と現場被爆
    • [89]1981年4月 日本側が出資送金を停止
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号「三井物産。-第2次商社斜陽論への挑戦者-」
    • [84]1976年 創業100周年に池田芳蔵社長が「勇断を持って実行すべきだ」と表明
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [85]ロレスタン鉱区で原油が出ず石化のみの片肺飛行に
    • [86]三井物産が建設責任を負う立場に
    • [90]1981年7月 対イラン交渉開始/1983年7月 補完契約書締結もイラン国会で否決
    • [91]日本側5社の年間経費負担 177億円(2日で1億円)
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1990年12月 イラン化学開発清算完了によりイラン石油化学プロジェクト終結
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
    • [93]八尋俊邦氏「油乞いの時代に締結した基本協定が足かせとなった」

二度の石油危機と、商社「冬の時代」

石油危機は同業他社にも及び、安宅産業はカナダのニューファウンドランド島の製油所[94]をめぐって、米国法人を通じて1973年秋から1975年末までの2年間に合計33隻・総額5億2,000万ドルの原油を供給した。しかしその代金の回収が滞り、経営危機に陥っている。1975年12月7日の報道で表面化[96]した問題は、住友銀行を中心とする再建策の検討を経て、伊藤忠商事による救済合併[97]へ進んだ。住友銀行と協和銀行など銀行団16行が、総額2,000億円にのぼる損失を全面的に負担[98]した。その傷は深く、単純な吸収合併とはならず、いくつかの営業部門を切り離したうえでの合併[99]となった。 [95]

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [94]安宅アメリカが1973年秋〜1975年末の2年間に33隻・総額5億2000万ドルの原油を供給
    • [95]1973年秋〜1975年末に33隻・総額5億2000万ドルを供給し代金回収が滞る
    • [96]1975年12月7日 毎日新聞のスクープで安宅問題が表面化
    • [97]住友銀行主導の再建策を経て伊藤忠商事による救済合併へ
    • [98]銀行団16行が総額2000億円の損失を全面負担
    • [99]安宅の傷が深く単純な吸収合併とならず営業部門を切り離して合併

1960年代の総合商社は取扱高を国民総生産の伸びより2割ほど高い速度で伸ばして[100]いたが、1970年代に低成長経済へ移ると、その伸びは国民総生産並み[101]にとどまった。商社の将来を疑う見方が現れ、報道では「冬の時代」と書かれる[102]ようになった。三井物産はこれに対し、石油開発に関わる機械を扱い、それまで手薄だった原油部門へ取扱を広げる[103]形で応じた。開発した石油を第三国へ売る三国間貿易[104]も、精製会社にはない商社の立場から手がけた。国内へ運ぶ選択しか持たない精製会社に対し、商社は販売先を国際市場から選べる点が違った[105]

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [100]1960年代の商社取扱高はGNPの伸びを2割ほど上回った
    • [101]1970年代の低成長移行で取扱高の伸びはGNP並みに
    • [102]報道が総合商社を「冬の時代」と評した
    • [103]石油開発機械の取扱と原油部門への拡張
    • [104]開発原油を第三国へ販売する三国間貿易
    • [105]精製会社は国内搬入のみ 商社は販売先を国際市場から選択できた
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [94]安宅アメリカが1973年秋〜1975年末の2年間に33隻・総額5億2000万ドルの原油を供給
    • [95]1973年秋〜1975年末に33隻・総額5億2000万ドルを供給し代金回収が滞る
    • [96]1975年12月7日 毎日新聞のスクープで安宅問題が表面化
    • [97]住友銀行主導の再建策を経て伊藤忠商事による救済合併へ
    • [98]銀行団16行が総額2000億円の損失を全面負担
    • [99]安宅の傷が深く単純な吸収合併とならず営業部門を切り離して合併
    • [100]1960年代の商社取扱高はGNPの伸びを2割ほど上回った
    • [101]1970年代の低成長移行で取扱高の伸びはGNP並みに
    • [102]報道が総合商社を「冬の時代」と評した
    • [103]石油開発機械の取扱と原油部門への拡張
    • [104]開発原油を第三国へ販売する三国間貿易
    • [105]精製会社は国内搬入のみ 商社は販売先を国際市場から選択できた

1991年〜 不祥事の連鎖と、資源益に支えられた利益1兆円

三井物産の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1991年 営業本部長制導入
  2. 1993年 三井物産鉄鋼建材を設立
  3. 1994年 サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印
  4. 2001年 自動車販売・総合ソリューション事業Penske Automotive Groupに出資
  5. 2002年 国後島の不正入札と排ガスデータ捏造を受けた、内部統制の作り直し 総額四〇億円の案件で社員三人が逮捕された三井物産は、なぜ二年後にも子会社ぐるみの捏造を出したのか
  6. 2016年 当期純損失834億円を計上
  7. 2025年 Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定

国後島の不正入札と、排ガス装置のデータ捏造

1991年10月に営業本部長制を導入[106]し、1993年4月には三井物産鉄鋼建材を設立[107]した。1994年6月にはサハリンⅡの石油・天然ガス開発契約に調印[108]している。一方で、口銭商売を否定する商社不要論に追われた各社は自前で発掘した事業への投資に傾き、バブル期の不動産やサービス業、情報・通信への投資の多くは実を結ばなかった[109]。格付けの維持を課題として、旧財閥系3社を除く総合商社が投資不適格に落ちる[110]なかで、三井物産は連結自己資本比率を二桁に保った。

  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [106]1991年10月 営業本部長制導入
    • [107]1993年4月 三井物産鉄鋼建材株式会社(現三井物産スチール)を設立
    • [108]1994年6月 サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 総合商社 三井物産、三菱商事、住友以外は命がけ」
    • [109]商社不要論に追われた自前事業への投資と、バブル期の不動産・サービス・情報通信投資の不振
    • [110]旧財閥系3社を除く総合商社は投資不適格 連結自己資本比率は二桁を維持

2001年6月1日、17番目の営業本部としてリテール本部を発足[111]させ、イトーヨーカドーグループとの取引に特化させた。核となったのはセブン‐イレブン・ジャパン向けに資材納入と物流管理を担ってきた化学品部隊で、全国77の物流拠点[112]を運営していた。年間3,000億円ほどの取引実績を3年後に1兆円へ広げる目標[113]を掲げ、資本関係をともなわない提携という点で、ローソンに2,100億円を投じた三菱商事やファミリーマートに1,350億円を投じた伊藤忠商事[114]とは形が異なった。同じ時期に統治の緩みが表面化した。2002年7月3日、東京地方検察庁特別捜査部が国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札で社員3人を逮捕している。 [115]

  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「三菱商事、伊藤忠の苦戦尻目に三井物産がヨーカ堂と提携した1兆円構想の気になる中身」
    • [111]2001年6月1日 17番目の営業本部としてリテール本部を発足
    • [112]リテール本部の核は化学品部隊 セブン‐イレブン向けに全国77の物流拠点を運営
    • [113]イトーヨーカドーグループとの取引を年間3000億円から3年後1兆円へ
    • [114]三菱商事はローソンへ2100億円、伊藤忠商事はファミリーマートへ1350億円を投資
  • 週刊東洋経済 2002年7月20日号「不正入札事件 名門・三井物産をむしばむ“失語症”の病魔」
    • [115]2002年7月3日 東京地検特捜部が国後島ディーゼル発電施設の不正入札で三井物産社員3人を逮捕

受注は2000年4月で、総額40億円の案件に社長賞[116]が出ていた。7月24日に社員2人が偽計業務妨害で起訴されると、清水慎次郎社長は役員報酬の20%を3か月自主返上[117]する処分にとどめ、引責辞任を否定した。社内調査を担ったのは全社のコンプライアンス委員会ではなく営業部門単位の委員会[118]であり、説明の乏しさが批判を招いた。その後まもなく清水社長は退き、槍田松瑩社長がコンプライアンスの徹底を最重要課題に掲げて内部監査制度を拡充[119]した。3年から4年に一度は子会社の内部監査を行い、現場の社員と語り合う車座集会[120]も重ねている。

  • 週刊東洋経済 2002年8月10日号「国後発電所談合事件で「不遜な沈黙」続けた三井物産会長・社長の居直りは続くか」
    • [116]国後案件の受注は2000年4月 総額40億円で社長賞
    • [117]2002年7月24日 社員2人が偽計業務妨害で起訴 清水慎次郎社長は役員報酬20%を3か月自主返上
  • 週刊東洋経済 2002年7月20日号「不正入札事件 名門・三井物産をむしばむ“失語症”の病魔」
    • [118]社内調査は全社のコンプライアンス委員会でなく営業部門単位の委員会が実施
  • 週刊東洋経済 2004年12月4日号「三井物産・排ガスデータねつ造 槍田改革いまだ浸透せず 限られた市場で功を焦ったお粗末」
    • [119]清水慎次郎社長の引責辞任後 槍田松瑩社長がコンプライアンス徹底と内部監査制度の拡充を掲げた
    • [120]3〜4年に一度の子会社内部監査と現場社員との車座集会
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [106]1991年10月 営業本部長制導入
    • [107]1993年4月 三井物産鉄鋼建材株式会社(現三井物産スチール)を設立
    • [108]1994年6月 サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 総合商社 三井物産、三菱商事、住友以外は命がけ」
    • [109]商社不要論に追われた自前事業への投資と、バブル期の不動産・サービス・情報通信投資の不振
    • [110]旧財閥系3社を除く総合商社は投資不適格 連結自己資本比率は二桁を維持
  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「三菱商事、伊藤忠の苦戦尻目に三井物産がヨーカ堂と提携した1兆円構想の気になる中身」
    • [111]2001年6月1日 17番目の営業本部としてリテール本部を発足
    • [112]リテール本部の核は化学品部隊 セブン‐イレブン向けに全国77の物流拠点を運営
    • [113]イトーヨーカドーグループとの取引を年間3000億円から3年後1兆円へ
    • [114]三菱商事はローソンへ2100億円、伊藤忠商事はファミリーマートへ1350億円を投資
  • 週刊東洋経済 2002年7月20日号「不正入札事件 名門・三井物産をむしばむ“失語症”の病魔」
    • [115]2002年7月3日 東京地検特捜部が国後島ディーゼル発電施設の不正入札で三井物産社員3人を逮捕
    • [118]社内調査は全社のコンプライアンス委員会でなく営業部門単位の委員会が実施
  • 週刊東洋経済 2002年8月10日号「国後発電所談合事件で「不遜な沈黙」続けた三井物産会長・社長の居直りは続くか」
    • [116]国後案件の受注は2000年4月 総額40億円で社長賞
    • [117]2002年7月24日 社員2人が偽計業務妨害で起訴 清水慎次郎社長は役員報酬20%を3か月自主返上
  • 週刊東洋経済 2004年12月4日号「三井物産・排ガスデータねつ造 槍田改革いまだ浸透せず 限られた市場で功を焦ったお粗末」
    • [119]清水慎次郎社長の引責辞任後 槍田松瑩社長がコンプライアンス徹底と内部監査制度の拡充を掲げた
    • [120]3〜4年に一度の子会社内部監査と現場社員との車座集会

資源への傾斜と、二〇一六年三月期の戦後初の赤字

拡充した内部監査は次の不正を掘り当て、2004年11月22日[121]、ディーゼル排ガス中の粒子状物質を除去する装置DPF[122]について、東京都へ虚偽のデータを提出して指定承認を受けていた[123]と発表した。不正は3度にわたり、2002年2月18日の指定申請では別の自社製品で得たデータを提出[124]し、2003年1月の測定実験では立ち会う都の職員に実際より高い数値を読み上げて[125]いた。販売済みの約2万1,500台は都の基準値の7割から8割しか除去できておらず[126]、2万台超・総額194億円でシェア首位に立っていた事業は、交換費用が売上高の約200億円を超えうる[127]負担へ転じた。

  • 週刊東洋経済 2004年12月4日号「三井物産・排ガスデータねつ造 槍田改革いまだ浸透せず 限られた市場で功を焦ったお粗末」
    • [121]2004年11月22日 DPFで東京都へ虚偽データを提出し指定承認を受けていたと発表
    • [122]DPF ディーゼル排ガス中の粒子状物質を除去する装置
    • [123]東京都への虚偽データ提出による指定承認の取得
    • [124]2002年2月18日の指定申請で別製品のデータを提出/2003年1月の測定実験で虚偽の数値を読み上げ
    • [125]2003年1月 排気ガス測定実験で都職員に実際より高い数値を読み上げ
    • [126]販売済み約2万1500台が都の基準値の7〜8割しか除去できず
    • [127]2万台超・総額194億円でシェア首位 関連費用が売上高約200億円を超える可能性

2010年2月に米国Marcellusシェールガスの開発生産へ参画[128]し、2013年12月には米国Fairway Methanol[129]、2014年10月には米国Cameron LNGへ加わった。資源価格の上昇を受けて2006年3月期は連結収益4兆1,154億円・当期利益2,024億円[130]、2008年3月期は連結収益5兆7,388億円・当期利益4,100億円[131]と利益規模を広げ、2012年3月期には当期利益4,344億円[132]を計上した。しかし2016年3月期はチリの銅事業の減損と米国のシェールガス関連の評価損が重なり、当期損失834億円[133]を計上した。第一物産の設立以来はじめての通期赤字で、2015年に飯島彰己氏から社長を引き継いだ安永竜夫[134]の就任直後にあたる。

  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [128]2010年2月 米国Marcellusシェールガス開発生産プロジェクトへの参画
    • [129]2013年12月 米国Fairway Methanolへの参画/2014年10月 米国Cameron LNGプロジェクトへの参画
  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [130]2006年3月期 連結収益4兆1,154億円・当期利益2,024億円
    • [131]2008年3月期 連結収益5兆7,388億円・当期利益4,100億円
    • [132]2012年3月期 当期利益4,344億円
    • [133]2016年3月期 当期損失834億円(チリ銅事業の減損・米シェールガス関連の評価損)
  • 三井物産 有価証券報告書(役員の状況)
    • [134]2015年 飯島彰己氏から安永竜夫氏へ社長交代 その直後の通期赤字
  • 週刊東洋経済 2004年12月4日号「三井物産・排ガスデータねつ造 槍田改革いまだ浸透せず 限られた市場で功を焦ったお粗末」
    • [121]2004年11月22日 DPFで東京都へ虚偽データを提出し指定承認を受けていたと発表
    • [122]DPF ディーゼル排ガス中の粒子状物質を除去する装置
    • [123]東京都への虚偽データ提出による指定承認の取得
    • [124]2002年2月18日の指定申請で別製品のデータを提出/2003年1月の測定実験で虚偽の数値を読み上げ
    • [125]2003年1月 排気ガス測定実験で都職員に実際より高い数値を読み上げ
    • [126]販売済み約2万1500台が都の基準値の7〜8割しか除去できず
    • [127]2万台超・総額194億円でシェア首位 関連費用が売上高約200億円を超える可能性
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [128]2010年2月 米国Marcellusシェールガス開発生産プロジェクトへの参画
    • [129]2013年12月 米国Fairway Methanolへの参画/2014年10月 米国Cameron LNGプロジェクトへの参画
  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [130]2006年3月期 連結収益4兆1,154億円・当期利益2,024億円
    • [131]2008年3月期 連結収益5兆7,388億円・当期利益4,100億円
    • [132]2012年3月期 当期利益4,344億円
    • [133]2016年3月期 当期損失834億円(チリ銅事業の減損・米シェールガス関連の評価損)
  • 三井物産 有価証券報告書(役員の状況)
    • [134]2015年 飯島彰己氏から安永竜夫氏へ社長交代 その直後の通期赤字

基礎収益力の積み上げと、利益1兆円を超えた資源益

赤字を受けて、安永竜夫氏は市況変動に左右されにくい収益を基礎収益力として切り出し[135]、積み上げを管理する方式へ改めた。2017年3月期には当期利益3,061億円へ戻し、2019年3月期は4,142億円[136]を計上した。2019年3月にはマレーシアのIHH Healthcareへ追加出資して筆頭株主[137]となり、鉄鉱石とLNGの上流を保ちながら、ヘルスケアや食料、インフラといった非資源分野を厚くした[138]。2020年5月に新社屋が完成[139]し、2021年4月には堀健一氏が社長へ就いた。堀氏は安永時代に組み上げた基礎収益力の管理を引き継ぎ[140]、部門をまたぐ案件の推進を強めた。

  • 三井物産 有価証券報告書(経営方針、経営環境及び対処すべき課題等)
    • [135]安永竜夫氏が基礎収益力を切り出し積み上げを管理する方式へ
    • [138]鉄鉱石・LNGの上流を維持しつつヘルスケア・食料・インフラの非資源分野を拡充
    • [140]堀健一氏が基礎収益力の管理を引き継ぎ部門横断の案件推進を強化
  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [136]2017年3月期 当期利益3,061億円/2019年3月期 4,142億円
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [137]2019年3月 マレーシアIHH Healthcareへの追加出資により筆頭株主化
    • [139]2020年5月 新社屋完成

2022年3月期の当期利益は9,147億円となり、2023年3月期には売上収益14兆3,064億円・当期利益1兆1,306億円[141]で初めて1兆円を超えた。2024年3月期も当期利益1兆636億円[142]と2年続けて1兆円台を保った。2022年4月には東京証券取引所の市場第一部からプライム市場へ移り[143]、2023年4月には給食事業のエームサービスを完全子会社[144]とした。資源価格の反落を受けて2025年3月期の当期利益は9,003億円、2026年3月期は8,339億円[145]へ戻した。売上収益も2026年3月期は13兆9,952億円[146]となっている。2025年3月期末の親会社所有者帰属持分は7兆5,466億円[147]だった。

  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [141]2022年3月期 当期利益9,147億円/2023年3月期 売上収益14兆3064億円・当期利益1兆1306億円
    • [142]2024年3月期 当期利益1兆636億円
    • [145]2025年3月期 当期利益9,003億円/2026年3月期 8,339億円
    • [146]2026年3月期 売上収益13兆9,952億円
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [143]2022年4月 東京証券取引所市場第一部からプライム市場へ移行
    • [144]2023年4月 エームサービス株式会社の完全子会社化
  • 三井物産 有価証券報告書(主要な経営指標等の推移)
    • [147]2025年3月期末 親会社所有者帰属持分 7兆5,466億円

2025年2月、豪州Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決めた[148]。20年におよぶ交渉を経た案件で、年間1億トンの生産体制を見込む長期の開発にあたる。創業から数えて、原料の供給源を押さえる形は三池炭以来変わっていない[149]。一方で、解散命令で一度は消えた商号と組織を、第一物産という別法人の側から取り戻した[150]経緯は、この会社を戦前商社の解散と戦後商社の創業という二つの出発点[151]から説明せざるをえないものにしている。

  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [148]2025年2月 豪州Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [149]創業時の三池炭以来続く 原料供給源を押さえる取引形態
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [150]解散命令で消えた商号と組織を第一物産の側から回復した経緯
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [151]戦前商社の解散と戦後商社の創業という二つの出発点
  • 三井物産 有価証券報告書(経営方針、経営環境及び対処すべき課題等)
    • [135]安永竜夫氏が基礎収益力を切り出し積み上げを管理する方式へ
    • [138]鉄鉱石・LNGの上流を維持しつつヘルスケア・食料・インフラの非資源分野を拡充
    • [140]堀健一氏が基礎収益力の管理を引き継ぎ部門横断の案件推進を強化
  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
    • [136]2017年3月期 当期利益3,061億円/2019年3月期 4,142億円
    • [141]2022年3月期 当期利益9,147億円/2023年3月期 売上収益14兆3064億円・当期利益1兆1306億円
    • [142]2024年3月期 当期利益1兆636億円
    • [145]2025年3月期 当期利益9,003億円/2026年3月期 8,339億円
    • [146]2026年3月期 売上収益13兆9,952億円
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [137]2019年3月 マレーシアIHH Healthcareへの追加出資により筆頭株主化
    • [139]2020年5月 新社屋完成
    • [143]2022年4月 東京証券取引所市場第一部からプライム市場へ移行
    • [144]2023年4月 エームサービス株式会社の完全子会社化
    • [148]2025年2月 豪州Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定
  • 三井物産 有価証券報告書(主要な経営指標等の推移)
    • [147]2025年3月期末 親会社所有者帰属持分 7兆5,466億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [149]創業時の三池炭以来続く 原料供給源を押さえる取引形態
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [150]解散命令で消えた商号と組織を第一物産の側から回復した経緯
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [151]戦前商社の解散と戦後商社の創業という二つの出発点

三井物産の沿革1876〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三井物産創業——益田孝氏が無資本で興した商社と、解体・再結集の二層構造大蔵省を辞した28歳・益田孝氏は、資本金を持たない別法人でどう総合商社の業態を築いたか 詳細を読む★★★
三井合名会社の子会社として三井物産に改組
終戦により旧三井物産の海外資産・取引を喪失
新関八洲太郎過度経済力集中排除法により旧三井物産が解散★★
新関八洲太郎新会社群へ分割、現・三井物産の前身となる企業が発足
新関八洲太郎東京証券取引所再開時に上場
新関八洲太郎室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた一九五九年の大合同解散させられた三井物産の商号を、なぜ第一物産は自ら名乗らず、鉄鋼専門商社との争いを経て取り戻したのか 詳細を読む★★
水上達三Moura炭鉱開発への参画
水上達三米国預託証券(ADR)を発行(1971年2月に米国NASDAQに登録)
水上達三Robe River鉄鉱山への参画
水上達三米国三井物産を設立
水上達三Mount Newman鉄鉱石長期契約締結★★
若杉末雪MBRへの参画(企業買収・統合などの再編を経て、現在のValeに至る)
若杉末雪三井リース事業を設立
若杉末雪アブダビ・ダス島LNG開発基本協定調印★★
池田芳蔵イラン石油化学(IJPC)への参画と、撤退できなかった巨大プロジェクト石油部門で三菱商事に後れを取った三井物産は、なぜ採算が崩れ撤退論が出てもイランの石化事業から引けなかったのか 詳細を読む★★★
池田芳蔵モザンビークのLNG事業への関与開始(長期視点)
熊谷直彦イラン化学開発の清算完了によりイラン石油化学プロジェクトが終結★★
熊谷直彦営業本部長制導入
熊谷直彦三井物産鉄鋼建材を設立
熊谷直彦サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印★★
清水愼次郎自動車販売・総合ソリューション事業Penske Automotive Groupに出資
槍田松瑩執行役員制を導入
槍田松瑩国後島の不正入札と排ガスデータ捏造を受けた、内部統制の作り直し総額四〇億円の案件で社員三人が逮捕された三井物産は、なぜ二年後にも子会社ぐるみの捏造を出したのか 詳細を読む★★★
槍田松瑩社外取締役1名を初めて選任
槍田松瑩連結収益4兆1154億円、当期利益2024億円
槍田松瑩連結収益5兆7388億円、当期利益4100億円
飯島彰己NASDAQ上場廃止(同年7月に米国証券取引委員会(SEC)登録廃止)
飯島彰己IFRS適用初年度、収益11兆1554億円
安永竜夫安永竜夫氏が社長に就任
安永竜夫当期純損失834億円を計上★★
安永竜夫当期利益3061億円でV字回復
堀健一堀健一氏が社長に就任
堀健一連結収益14兆3064億円、当期利益1兆1306億円
堀健一モザンビークLNG建設が4年間の不可抗力宣言解消を経て再開
堀健一Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定★★
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号「三井物産。-第2次商社斜陽論への挑戦者-」
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 総合商社 三井物産、三菱商事、住友以外は命がけ」
  • 週刊東洋経済 2001年6月9日号「三菱商事、伊藤忠の苦戦尻目に三井物産がヨーカ堂と提携した1兆円構想の気になる中身」
  • 週刊東洋経済 2002年7月20日号「不正入札事件 名門・三井物産をむしばむ“失語症”の病魔」
  • 週刊東洋経済 2002年8月10日号「国後発電所談合事件で「不遜な沈黙」続けた三井物産会長・社長の居直りは続くか」
  • 週刊東洋経済 2004年12月4日号「三井物産・排ガスデータねつ造 槍田改革いまだ浸透せず 限られた市場で功を焦ったお粗末」
  • 三井物産 有価証券報告書(連結損益計算書)
  • 三井物産 有価証券報告書(役員の状況)
  • 三井物産 有価証券報告書(経営方針、経営環境及び対処すべき課題等)
  • 三井物産 有価証券報告書(主要な経営指標等の推移)

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