ダイエーの法人としての始まりは、1957年4月に神戸市長田区で設立された大栄薬品工業株式会社[1]にさかのぼる。設立日は同年4月10日[2]で、近畿一円へ薬品を卸す零細な販売会社として出発した。同年9月23日、創業者の中内㓛氏[3]は大阪市旭区の千林商店街に1号店『主婦の店ダイエー薬局』を開いた[4]。中内㓛氏は『よい品をどんどん安く』を掲げ[5]、薬品や化粧品、日用品を大量に仕入れて安く売る手法で客を集めた。翌1958年12月には神戸市生田区の三宮へ進出[6]し、以後はチェーン展開へ舵を切っている。会社は1959年に商号を主婦の店へ、1962年7月には主婦の店ダイエーへと改めた[7]。
当時の日本ではメーカーが建値を決め、小売はそれに従って売るのが商慣行[8]だった。中内㓛氏はこの仕組みに挑み、価格の決定権を小売と消費者の側へ移すこと[9]を事業の存在意義に据えた。常務取締役の加古豊彦氏[10]は1971年の講演で、社長が全社員に一貫して示してきた言葉として『消費者のために、より良い品をより安く』[引用元]という社是[11]を挙げた。中内㓛氏はメーカーの寡占に対抗する力をチェーンストアの結集力に求め[12]、扱いシェアが1割あればメーカーへの発言力を持てる[13]として自社ブランドの育成を進めた。1971年2月期の自社ブランド比率は衣料品で75%、日用品で42%に達し、全体でも20%前後[14]を占めている。加古氏はこれを50%まで引き上げ、単価を上げずに粗利を得る方針[15]を示した。
ダイエーの安売りを象徴したのが生鮮食品、とりわけ牛肉の値下げ[16]だった。100グラム100円が相場だった牛肉を39円まで下げる[17]と、売り場には主婦が押し寄せ、品切れが続いた。中内㓛氏はこうした値下げを『価格破壊』と呼び[18]、既存の価格を壊すことにダイエーの存在価値があると説いた。食品を安く売って客を集め、衣料品や日用品もあわせて買ってもらう売り場づくり[19]が、多店舗化を支える収益の柱となった。1971年2月期の商品別売上構成は食料品が40.9%と最も高く、衣料品27.5%、日用品10.1%、電気製品8.2%[20]が続いた。単体の売上高は782億円で、うち食料品だけで320億円[21]を占めている。
店舗網の拡大は地域ごとに販売会社を設けて進められ、1963年2月に福岡市でフクオカダイエーを設立[22]し、1964年1月には一徳を買収して首都圏へ、同年2月に四国ダイエーを設けて四国へ広げた[23]。買収によって大消費地の首都圏へ一気に入り込む手法[24]は、その後の拡大を貫く特徴となった。1969年8月にはトウキョウダイエー・フクオカダイエー・四国ダイエーの3社を本体へ吸収合併[25]し、同年11月に本部を大阪市大淀区中津へ移して経営組織を整えている[26]。1970年2月には神奈川一帯にチェーン網を持ち、後にマルエツへつながるサンコーと業務提携[27]し、関東の食品スーパー網へも手を伸ばした。地域ごとの販売会社を通じた進出は、地元の商習慣に合わせて素早く売り場を根づかせる工夫[28]でもあった。
急成長するダイエーは資本市場から成長資金を集める枠組みを整え、1971年3月に資本金12億円で大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場[29]した。翌1972年1月に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年3月1日には東京証券取引所市場第一部にも上場[30]している。上場時の資本金は19億2,500万円[31]、店舗は全国75店で、うち近畿が39店、関東が14店[32]を占めた。従業員は11,715人[33]、取引金融機関は東海・神戸・三和・住友の4行[34]である。株主構成は個人が70.93%と大半を占め、外国法人が17.36%[35]で続いた。集めた資金は出店と用地取得へ向かい、1971年度の設備資金は215億円[36]に達している。
1972年、ダイエーは売上高で三越を抜き、小売業の日本一に立った[37]。前年の講演で加古豊彦氏は、1972年8月期か1973年2月期には三越と肩を並べるとの見通し[38]を示し、追い抜くことが従業員12,000名の念願[39]だと述べている。江戸期から続く老舗百貨店を、創業から15年の量販店が追い越したことは、消費の主役が一部の富裕層から一般家庭へ移ったこと[40]を映していた。一方、拡大を支えた財務は上場の時点ですでに借入へ傾いており、長期・短期を合わせた借入金は1970年2月期の255億円から1971年2月期には423億円へ膨らんだ[41]。年間約200億円に上る設備投資の大半は借入金でまかなわれ[42]、自己資本は75億円、自己資本比率は10%前後[43]にとどまる。
首位に立ったダイエーは1970年代を通じて出店と売上を伸ばし続け、1979年度には単体の売上高が1兆69億円に達した[44]。小売業として年間売上高1兆円を超えたのは、これが初めて[45]である。戦後に創業した会社で1兆円へ到達したのは当時ダイエーと本田技研工業だけ[46]であり、ダイエーは本田より9年早くこの水準へ届いた。中内㓛氏は早くから年間売上高1兆円を経営目標に掲げており[47]、到達は宣言の実現でもあった。安く大量に売るという一つの商法を全国の店舗網へ広げる[48]ことで、ダイエーは日本を代表する巨大小売企業へ膨らんだ。
規模の拡大を支えたのが、食品から衣料、家電までを一つの店で売る総合スーパーの業態[49]だった。ダイエーは自社で企画する割安な商品を店頭に並べ、メーカー品より安い選択肢[50]を消費者へ示している。中内㓛氏は加速するインフレのなかで、新規出店にあたり用地の50%を自社所有する方針[51]を掲げた。一方、大型店の出店は地元商店街との摩擦を招き、1970年代に整備された大規模小売店舗法による出店規制が拡大の制約[52]となった。それでもダイエーは全国の主要都市へ大型店を構え続け、総合スーパーという業態を日本の消費生活へ定着[53]させた。
本業の総合スーパーが全国へ広がるのと並行して、ダイエーは小売以外の分野へも事業を広げた[54]。加古豊彦氏は1971年の時点で、1975年ころには目ぼしい都市への店舗展開が物理的に終わると見通し[55]、その対策として小型のコンビニエンスストアの展開とレジャーへの進出[56]を挙げていた。1975年4月には米国企業との提携でダイエーローソンを設立し、同年6月に大阪府豊中市へ1号店を開いて[57]コンビニエンスストア事業へ参入した。この事業は後にコンビニ大手のローソンへ育った[58]。1983年2月には信販会社の丸興と提携してクレジット・信販の金融事業[59]を手がけ、店舗網を土台に商品の販売だけでなく決済や小口金融までを取り込もうとした。
多角化は非小売の分野へも及び、1985年6月には生活情報誌オレンジページを創刊[60]して出版・情報事業へ進んだ。1988年11月にはプロ野球の南海ホークスを買収して福岡ダイエーホークスを発足させ、翌1989年に本拠地を福岡へ移している[61]。1993年には福岡ドームを本拠地として開き[62]、球団と商業施設を組み合わせた大規模な都市開発を福岡で進めた。
拡大路線の総仕上げが、バブル期に買収した地域スーパーの統合だった。1994年3月、ダイエーは忠実屋、ユニードダイエー、ダイナハの3社を本体へ合併[63]し、食品スーパーを含む店舗網を全国へ張り巡らせている。
ダイエーの拡大を貫いたのは、店舗用地や不動産を自ら保有して規模を追う経営[64]だった。意思決定も中内㓛氏へ集中し、1975年の時点で10万円を超える決済には社長の判が要り、役員が『伝書鳩』と化すほど権限が一点に集まっている[65]。1970年に資本参加したクラウンは、松下電器など家電メーカーの価格支配に挑む垂直統合の第一号として『ブブ』ブランドのカラーテレビを出した[66]が、ニクソン・ショックと石油危機に見舞われて赤字が続いた[67]。
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|---|---|---|---|---|
| 1957〜1972年神戸の薬品会社から始まった主婦の店と流通革命の出発 | 大栄薬品工業として設立 | ★ | ||
| 1号店「主婦の店・ダイエー薬局」を開店 | ★ | |||
| 商号を主婦の店ダイエーに変更 | ★ | |||
| フクオカダイエーを設立 | ★ | |||
| 一徳(後のトウキョウダイエー)を子会社化 | ★ | |||
| 四国ダイエーを設立 | ★ | |||
| トウキョウダイエー・フクオカダイエー・四国ダイエーを合併 | ★ | |||
| サンコー(後にマルエツと合併)と業務提携 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | |||
| 価格破壊と多店舗チェーンで三越を抜き小売業日本一へ 『よい品をどんどん安く』を掲げた中内㓛氏が、多店舗チェーンとストアブランドで定価販売に挑み、牛肉の安売りに始まる価格破壊を面的な事業モデルへ育てて、1972年に三越を抜き小売業の売上高日本一に立った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★ | |||
| 1973〜1994年小売業初の売上高1兆円と拡大・多角化の頂点 | ダイエーローソンを設立しコンビニエンスストア事業へ参入 | ★★ | ||
| 九州地区の店舗17店等の営業を九州ダイエー(同年9月にユニードと合併)へ譲渡 | ★ | |||
| 十字屋と業務提携 | ★ | |||
| 丸興と業務提携 | ★ | |||
| 生活情報誌「オレンジページ」を創刊 | ★ | |||
| プロ野球・南海ホークスを買収し「福岡ダイエーホークス」が発足 | ★★ | |||
| リクルートの株式の3分の1を取得し子会社化、役員を派遣 | ★★ | |||
| 忠実屋・ユニードダイエー・ダイナハを合併 | ★★ | |||
| 1995〜2004年過剰債務の噴出と創業者の退場、産業再生機構へ | 中内㓛氏が引責退任 | ★★ | ||
| 産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を申請しリストラを推進 | ★★ | |||
| 自力再建の断念と産業再生機構による再生 2004年、二度の金融支援を経ても営業力を取り戻せなかったダイエーが、民間ファンドによる自主再建を断念し、産業再生機構の支援を受け入れた経営判断。高木邦夫社長が最後までこだわった自主再建案は、同業の傘下入りを避ける狙いから練られたが、10月13日に支援要請を決断した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2005〜2015年産業再生機構から丸紅・イオンへ、そして上場廃止 | 丸紅と資本提携 | ★ | ||
| 西見徹 | イオン・丸紅と資本・業務提携 | ★ | ||
| 村井正平 | 村井正平氏が社長に就任 | ★ | ||
| 村井正平 | イオンによる完全子会社化と「ダイエー」の上場廃止 2013年、産業再生機構の管理下を経て丸紅とイオンの二頭体制で再建を続けてきたダイエーが、イオンの株式公開買付け(TOB)で議決権44%超を握られて連結子会社となり、2014年にはイオンが完全子会社化を決め、2015年1月にダイエーが上場廃止となった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村井正平 | 株式が上場廃止 | ★★ |
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事実根拠:出所(ダイエー)