創業1758年、三重県四日市の呉服商「篠原屋」から暖簾分けした岡田屋を源流とする家業が、戦後の総合小売へ業態を切り替えた。1969年に兵庫のフタギ、大阪のシロと共同で仕入会社を作り、翌1970年の4社合併でジャスコが生まれる。岡田卓也氏は、吸収合併で売上を積み上げるダイエーとは逆に、地元の社長を残したまま地域スーパーをゆるく連ねる連邦経営を選んだ。地元の反対を受けにくい出店を進めながら、家業的な小売を次々に束ねていった。
決断岡田卓也氏は1988年から大店法の撤廃を業界の多数派に先んじて唱え、2000年の大店立地法施行で郊外SCの出店余地が開けた。2002年にイオンモールを上場させ、商業開発を独立した収益源に切り出す。2008年には純粋持株会社へ移り、ミニストップやイオンクレジットなど事業会社ごとに上場させた。マイカル・ダイエー・ウエルシアと買収を重ね、上場子会社を増やしながら全国網を作った。
- 創業経緯
創業時の課題と初期の判断
- 歴史詳細 3章・7,227字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 41件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1970〜2026年(57カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2005〜2025年(21カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 2名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2019〜2025年(7カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1973〜2025年(53カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1970年の合併で、岡田卓也氏は吸収合併ではなく地域会社を残す連邦経営を選んだのか
- A 小売は地域産業であり、地元の信頼・人材・出店時の調整は土地ごとに事情が異なる。地元の社長と店名を残し本部機能だけを被せるほうが、現地の経営者の能力を引き出せ、出店でも地元の反対を受けにくいと岡田卓也氏は読んだ。1969年に岡田屋・フタギ・シロが共同仕入会社を設け、翌1970年3月の5社合併でジャスコが発足する。山陽ジャスコ・福岡ジャスコなど地域会社を各地に置き、地方の経営者に責任を持たせた。売上を積み上げても吸収合併でなければ意味がないと批判するダイエーの中内功氏とは逆の方式を、岡田氏は連邦経営と名づけた。
- Q なぜ岡田卓也氏は1988年から大店法撤廃を業界に先んじて唱え、2002年に商業開発を切り出したのか
- A 大店法は既存の大型店を守る保護法になって流通業の革新意欲を薄れさせていると岡田卓也氏は見て、規制が外れた後の自由競争を前提に出店戦略を組み直した。客は道さえよければ遠くの郊外SCへ足を運ぶため、駅前ではなく高速道路やインターチェンジ沿いにこそ出店余地があると読んだ。1988年から撤廃を唱え、2000年6月の大規模小売店舗立地法施行で郊外SCの前提が整う。2002年7月にイオンモールを東証一部へ上場させ、店舗運営とは別に商業施設を開発・賃貸する事業を独立した収益源に切り出した。
- Q なぜ2024年にツルハを連結子会社化しウエルシアと統合させ、ヘルス&ウエルネスを第二の柱に据えたのか
- A GMSや食品スーパーの集客力が落ちるなか、調剤・医薬と食品を併せ持つドラッグストアが食品スーパーの客を取り込む業態として強まり、規模を買い集めるだけでは伸びにくくなっていた。北海道・東北・中四国に強いツルハと関東・関西に強いウエルシアは出店地域が補い合い、一つにまとめれば医薬・調剤と日用品でGMSの落ち込みを埋められる。2024年2月にイオン・ツルハ・ウエルシアが統合協議の資本業務提携を結び、ツルハがウエルシアを株式交換で完全子会社化、イオンがツルハを連結子会社化する再編で、売上2兆円・5,000店を超える国内最大のドラッグストアグループを作る道を選んだ。吉田昭夫氏は健康寿命の延伸を社会課題と結び付け、これを総合スーパーに次ぐ柱に据えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1758年〜1984年 江戸期の呉服商からジャスコ誕生までの連邦経営
四日市の呉服商から近代企業・岡田屋への切り替え
イオンの源流は、1758年に三重県四日市で岡田惣左衛門氏が呉服商「篠原屋」の暖簾分けとして開いた呉服太物商にある。江戸中期から伊勢街道沿いで続いた家業を、1926年9月21日に株式会社岡田屋呉服店として資本金25万円で法人化した[1]。岡田卓也氏は後年、父が小売業の近代化を早くに考え、大正末期に株式会社へ改組したと振り返っている[2]。太平洋戦争の戦災で店舗を焼かれ、配給制の時代を経て、1950年代にはセルフサービス方式の総合小売へ業態を変えた。1959年11月には商号を株式会社岡田屋に改め、同月に四日市店が百貨店法の適用を受けて営業を始めた[3]。
家業から近代企業への脱皮は、岡田家に受け継がれた家訓と一体だった。岡田卓也氏は「大黒柱に車をつけよ」「お客の変化に柔軟に対応すべし」(日経新聞・岡田卓也私の履歴書 2004/03/06)という二つの戒めを店舗戦略の基礎に据えた[4]。商店の立地は時代とともに動く。岡田氏は「戦前の地方の商店は街道や宿場町にあったが、戦後は人の流れが多くなった駅前に移り商店街を形成した。その駅前商店街も今では閑散としている。ここ十数年は本格的な車社会の到来で役所や住居が郊外に移った」(日経新聞・岡田卓也私の履歴書 2004/03/06)と立地観を語った[5]。東海の地場商人の家業は、消費者の生活様式の変化に合わせて近代的な流通業へと姿を変えた。
1969年2月、岡田屋はフタギ、シロと共同出資で仕入会社(旧)ジャスコ株式会社を設立した[6]。3社の共同仕入で合理化を図り、地域ごとの家業的な小売企業がゆるやかに連合して本部機能を共有する試みだった。当時の業界ではダイエーが全国チェーン化を加速し、中内功氏は「グループ化といって売上を積み上げる方式では意味がない。吸収合併でないと実効はない」(日経ビジネス 1995/8/21)と、ジャスコ方式を批判していた[7]。西友・ニチイ・ヨーカ堂が大手として並び立つなか、中堅の地方スーパーが単独で生き残るのは難しかった。3社連合はこの競争下の生き残り策で、1年後の1970年3月に本格的な合併へと進んだ[8]。
当社の前身である株式会社岡田屋は、父が日本の小売業の中では比較的早く近代化を考えたせいで、大正末期に25万円の資本金で株式会社組織になった。岡田屋は三重県の四日市で200年ほど続いた呉服屋で、当時は地方百貨店をつくる構想もあったが、父の急逝でさたやみとなり、私は学生時代から商売を始めた。 戦後は、店舗も全部戦災で焼け、どん底の状態を経験したが、その後徐々に立ち直り、拡大の方向に向かった。ここで個人企業から脱皮して近代的な流通業に生れかわることが私どもの念願となり、その手段として合併という戦略が考えられ、これが昭和45年、ジャスコ株式会社となって実現し、わが国小売業界再編成の口火を切る形になった。
地域連合からジャスコ合併と東証一部指定までの拡大
1970年3月、岡田屋はフタギ・オカダヤチェーン・カワムラ・(旧)ジャスコと合併し、5社が一つになって本店を大阪市に移した[9]。同年4月にジャスコ株式会社へ商号を変え、資本金は6億8,844万円となった[10]。社名は「Japan United Stores Company」の頭文字に由来し、地域企業の寄せ集めではなく全国チェーンを志向する命名だった。1972年8月に京阪ジャスコ・やまてや産業・やまてやの3社、1973年2月に三和商事・福岡大丸・かくだい食品など6社を合併し、資本金10億円規模に拡大した[11][12]。1975年2月の100%出資会社7社合併、1976年8月の扇屋・東北ジャスコ合併、1977年8月の伊勢甚百貨店など6社合併と、1970年代を通じて家業的な地域スーパーを次々に吸収した[13][14][15]。
岡田卓也氏は合併の動機を、同族企業の殻を破って近代的な企業へ成長するための革新だと考えた。合併で生まれた地域企業は、それぞれ別組織の地域会社として運営した。山陽ジャスコ・大分ジャスコ・福岡ジャスコ・カクダイジャスコ・西奥羽ジャスコといった地域会社を各地に置き、地方のトップ経営者に責任を持たせる体制をとった[16]。ダイエーの吸収合併型とは異なるこの方式を、岡田氏は「連邦経営」と名づけた[17]。各地域の自主性に任せつつ本部が機能を束ねる仕組みは、出店時に地元との調整をしやすくする実利も備えていた。1979年の日経ビジネスは、連邦経営を旗印に流通業界の一大勢力になったジャスコと評している[18]。
1974年9月、ジャスコは東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第二部に株式を上場し、1976年8月に市場第一部へ指定された[19]。三取引所への同時上場は、当時の地場流通業者として突出した資本戦略だった。さらに1976年12月にルクセンブルク証券取引所へ欧州預託証券を上場し、1977年6月に米ドル建転換社債を欧州で発行、1978年12月にはデュッセルドルフとフランクフルトの2取引所でマルク建転換社債と株式を上場した[20][21][22]。日本の小売業としては早くから欧州資本市場で資金を調達した企業となった。1979年3月には同業他社4社と共同で海外商品調達の輸入専門会社アイク株式会社(現・イオントップバリュ)を設立し、後のプライベートブランド事業の源流が生まれた[23]。
合併については、人事問題をはじめ困難な問題がたくさんあるが、長年続いた同族企業のからを破り、近代的な企業として大きく成長するには、製造メーカーにおける新技術、新製品の開発にも等しい革新が必要であるという意味で(封建的な小売業界の中にあって、革命といってもよい)、合併に踏み切った。 合併の最初は、まずジャスコを設立し、その後中国地方で1社、九州で2社、東北で2社という形で合併を重ね、それぞれの地域で合併した企業をさらに別組織にして、山陽ジャスコ、大分ジャスコ、福岡ジャスコ、カクダイジャスコ、西奥羽ジャスコという地域会社をつくっている。これは各地方のトップ経営者に責任を持って仕事をしてもらうほうが能力が発揮できること、また多店舗展開の上で量販店に対する問題が起こった場合、この形のほうが有利だという考えによるものである。
つまり、岡田卓也社長の言葉をかりると「当社は会社設立の当初から連邦経営を根底にしている。これは小売業は地域産業であるという思想にもとづいて、各地域ごとの商売はそれぞれの地域法人の自主性、独自性にまかせていくとの考え方だ」としている。すなわち、ジャスコ本体は本部機能の役割を果たし、グループ会社は地元密着の営業活動に専念する。 ジャスコの連邦経営が成功した原因は、地域分権単位にあるとみてよい。この方式は企業活動の自治権を与えるかわりに、会社の目標利益を実現する責任が与えられている。これは、自立分権単位の総和が会社の利益になるという発想からきているのだ。
海外1号店マレーシアと子会社上場による分権経営の準備
1983年6月、ジャスコは本店を大阪市福島区から東京都千代田区へ移した[24]。1985年6月にはマレーシアに海外1号店ジャヤ・ジャスコストアーズ(現・イオンマレーシア)ダヤブミ店を開き、日系総合スーパーによるASEAN進出の先駆けとなった[25]。後にタイ・ベトナム・中国・カンボジアへ広がる海外店舗網は、この1店から始まった。同年8月にはオーナーズカード(株主優待制度)を導入し、個人株主層を小売の顧客基盤と重ねる方針を早くから掲げた[26]。1988年6月には米国の婦人服専門店タルボット社を子会社経由で買収し、1993年11月にニューヨーク証券取引所へ上場させた(同社は2010年に売却)[27]。海外資本政策と海外事業の両輪を先んじて試した時期だった。
マレーシアのダヤブミ店は後にイオンマレーシア本体へ発展し、1996年12月にクアラルンプール証券取引所へ上場した[28]。国内でも子会社の独立上場が相次ぐ。1986年10月に信州ジャスコが名古屋証券取引所市場第二部へ、1988年9月にウエルマート(後の株式会社フジ)、1990年8月にコックス、1996年8月にジャスフォート、同年12月にイオンクレジットサービスが上場・登録した[29]。事業会社ごとに独自の経営判断とIR活動を認める分権経営の枠組みである。日本の総合スーパー各社が海外事業で苦戦するなか、イオンのASEAN拠点は2020年代まで海外成長の柱として残り、日系小売業の海外展開では数少ない継続成功例となった。国内の不採算店閉鎖と海外新規出店を並行させる判断が、子会社分権の下で可能になった。
1985年〜2013年 イオンブランドへの統一とM&Aによる全国制覇
イオングループ化とホールディングス体制の確立、幕張移転
1989年9月、会社はグループ名称を「イオングループ」と定めた[30]。岡田卓也氏は持論の「企業20年周期説」から、ジャスコの社名にも刷新が要ると考えた[31]。1970年に発足したジャスコがその年で20周年を迎え、岡田氏は周期説に従えば既に危険な領域へ入ったとの危機感を語っている。同氏は岡田屋・フタギ・シロの最初の合併でも、その後の地域会社の合併でも、創業家の名前を社名に残さない原則を貫いた[32]。家業から企業へ変わった証しを求めたからであり、社名が変われば経営者がこだわりを捨てて店舗のスクラップ・アンド・ビルドを決断しやすくなるという実利もあった。
イオングループへの改称は、総合スーパー1社を核とする体制を超えて事業を広げる動きと同時に進んだ。郊外大型ショッピングセンターの時代を見据え、岡田氏はジャスコの単一業態から、デベロッパー事業やサービス事業を含む多角的なグループへ広げる構想を描いた。1989年10月の日経新聞は、全国各地で大型の商業施設を開発するデベロッパー事業を始めるというイオンの方針を伝え、商業施設開発へ向かう計画が公になった[33]。社名の刷新と、総合スーパーから商業施設開発への事業の広がりが、同じ時期に重なって進んだ。ラテン語に由来するという「イオン」の屋号は、ジャスコ以外の子会社も含めた広がりを表す名として選ばれた。
1991年1月に財団法人イオングループ環境財団(現・公益財団法人イオン環境財団)を設立し、環境活動を制度として組み込んだ[34]。1993年7月にミニストップが東京証券取引所市場第二部へ、1994年2月に香港のジャスコストアーズ(香港)、同年12月にイオンクレジットサービス(現・イオンフィナンシャルサービス)が上場・登録するなど、事業会社ごとの独立上場が広がった[35]。1994年5月には千葉県幕張に本社屋が完成し、本社機能を移した[36]。2001年5月、本店を東京都千代田区から千葉市美浜区へ正式に移し、同年8月にイオン株式会社へ社名を変え、グループ名称もイオンとなった[37]。1970年のジャスコ誕生から31年を経て、ジャスコ時代の看板が正式に外れた。
岡田家の家訓に「大黒柱に車をつける」というのがある。今様に言えば、小売業は変化対応業。世の中の変化に遅れるなという戒めである。この家訓と自分の体験から、私は「企業20年周期説」を奉している。 そのジャスコも今年で20周年を迎える。私は岡田屋とフタギとシロの最初の合併でも、その後の地域会社の合併でも、オーナー家の名前は社名として残さない原則を貫いた。家業から企業に変わることの証(あかし)を求めたのだ。結果的にはこうした区切りの付け方は、店舗のスクラップ・アンド・ビルドにも役立った。 今度、グループ名を「ジャスコ」から新しい名称に変えてイメージを一新しようと決心した背景には、持論の「20年周期説」に従うと、既に危険領域に入ったという私の危機感がある。
大店法撤廃論と郊外型ショッピングセンターの本格展開
岡田氏は大規模小売店舗法の撤廃を繰り返し主張し、業界団体の多数派とは距離を置いた。1988年には製造業が世界で一流なのに流通業がそうでないのは、大店法が既存大型店の保護法になって革新の意欲を薄れさせているからだと述べた。1990年6月には「大店法はいずれ撤廃せざるを得なくなるだろう」(日経流通新聞 1990/06/23)と踏み込んだ[38]。日米構造協議を控えた1988年、米通商代表部も大店法を非効率だと名指しした。1990年4月の日経新聞によれば、米側の求める撤廃は困難として、1992年度に大都市圏など特定地域の規制を撤廃する法改正を行う方針が固まった[39]。岡田氏の主張は、こうした規制緩和の流れと重なっていた。
規制緩和を前提に、岡田氏は郊外型ショッピングセンターの本格展開を構想した。日本にはまだ本当のショッピングセンターがなく、出店の余地はいくらでもあるとの読みである。高速道路や空港、インターチェンジを「かつての特急停車駅」と見立てる立地観は、後のイオンモールの出店判断へ直結する設計思想だった[40]。岡田氏は店対店ではなくショッピングセンター間の競争の時代が来ると見て、出店投資をリース化して身軽に増やす方針も示した。1997年には、大店法が掲げた中小商店の近代化が実際に進んだのかと、規制の実効性そのものに疑問を投げかけている。
2000年6月、大規模小売店舗立地法の施行で大店法が廃止された。岡田氏が10年以上主張してきた線に沿う制度変更であり、イオンモールのデベロッパー事業が伸びる前提が整った。2002年7月、子会社イオンモール株式会社が東京証券取引所市場第一部へ上場し、商業開発事業が独立した収益源となった[41]。2002年1月の日経産業新聞は、いすゞ大和工場跡地に開いたイオンモール大和では、いすゞ時代の最盛期並みの2000人以上が働き、正社員は2割以下でほとんどが女性のパート・アルバイトだと伝えた[42]。工業から商業へ雇用が移る変化と、ショッピングセンターの出店が重なった事例だった。
日本には本当のSCはないのだから、出す余地はいくらでもある。今後は店対店ではなく、SC間競争の時代だ。高速道路や空港ができると、商業施設に適当な場所もどんどん増える。大店法の運用緩和や地価下落、低金利がSC出店の追い風だ。 かつては、駅前に人が集まり、商店街ができたが、今後は地方空港やインターチェンジがかつての「特急停車駅」だ。お客は、近くて渋滞に巻き込まれる店より、道さえよければ遠くにある他県のSCに足を運ぶ。これからは数多くのSCを作ることが先決だから、投資の考え方も変えた。出店投資はどんどんリース化していく。
マイカル救済・ダイエー買収を経た上場子会社ネットワーク
2003年11月、イオンは更生会社のマイカル及びマイカル九州を子会社化した[43]。マイカルはサティ・ビブレ・ポップタウンの屋号を持つ中堅総合スーパーで、2001年に経営破綻していた。イオンは再建支援で傘下に収め、2011年3月にイオンリテールが吸収合併して統合を終えた。2005年3月にはイオンマルシェ(旧カルフール・ジャパン)を子会社化し、外資カルフールの日本撤退の受け皿にもなった[44]。2006年3月のオリジン東秀・ダイヤモンドシティ、2007年4月のポスフール(現・イオン北海道)と買収は続き、2013年1月にイオン銀行、同年8月に株式会社ダイエーを子会社化、2015年1月にダイエーを完全子会社化した[45][46]。ダイエー屋号は2018年頃までに消えた。
岡田元也社長は、大店法の撤廃後に訪れる自由競争に夢を抱いていたと振り返る。1980年代後半に策定した「21世紀ビジョン」では、大店法がなくなり自由競争になるとの想定を掲げ、シンクタンクと一時決裂しながらも計画をまとめた[47]。岡田氏は小売業の生産性で欧米に後れをとっていると率直に認め、唯一成果を出してきたイトーヨーカ堂を意識しつつ、需要予測に基づく半自動の受発注システムを武器と位置づけた[48]。連結売上高は2002年2月期の2兆7,269億円から2008年2月期の4兆6,500億円へ6年で1.7倍に拡大し、買収主導の規模拡大が続いた。
2009年2月期、リーマンショックによる消費減退で連結純損失28億円を計上し、営業利益も前年比20.3%減の1,243億円まで落ちた。それでも翌2010年2月期は純利益311億円で黒字へ戻り、2012年2月期には純利益667億円まで回復した。背後では2009年2月のツルヤ靴店(現・ジーフット)、2010年5月のCFSコーポレーションなど買収が続き、不況下でも買収を止めないのがイオンの企業行動として定着した[49]。2011年11月には四国のマルナカ及び山陽マルナカ(いずれも現・株式会社フジ)を子会社化して中四国の食品スーパー基盤を押さえた。1985年から2013年のおよそ30年は、ジャスコ単体から連結5兆円規模のイオングループへ買収主導で拡大した時期にあたる。
これまでの日本のGMS(総合スーパー)は、大店法(大規模小売店舗法)の規制にすっぽりはまり込んで競争らしい競争はしてこなかった。新店を出せば、8年間は何もしなくても売り上げを伸ばせたのです。改革に取り組むという発想すらなかった。そうした中で1社だけ成果を出してきたのがヨーカ堂さんです。 ただ、いずれ大店法が撤廃され、日本の小売業も本格的な自由競争に突入するとは考えていました。そこに私自身、大きな夢を抱いていたのです。1980年代の後半に、我々は「21世紀ビジョン」という長期的な展望を策定しました。 我々には強力な武器があります。需要予測に基づいた半自動の受発注システムで、これによって今までできなかった画期的なことができます。例えば、この6月で130億円あったメンズ衣料の在庫が、昨年に比べて50億円近くも減ったのです。
2014年〜2023年 ヘルス&ウエルネスと首都圏再編、コロナ赤字への正面対峙
ウエルシア子会社化とドラッグストア事業の戦略軸化
2014年11月、イオンはウエルシアホールディングスを子会社化した[50]。2000年代後半以降、日本のドラッグストア業界は調剤併設型へのシフトと大手チェーンの寡占化が進み、マツモトキヨシ・スギ薬局・ツルハ・ココカラファイン・ウエルシアが上位5社として鎬を削っていた。イオンはこのタイミングでドラッグストアを「ヘルス&ウエルネス事業」と位置づけ、GMS・SMの店舗網とドラッグストアを組み合わせた複合小売モデルに転じた。食品スーパーとドラッグストアの業態境界は2010年代から曖昧になり、ドラッグストアが食品取扱比率を高めて食品スーパーの客を奪う構図が目立ち始めた。週刊東洋経済は同時期のGMS事業について、価格競争の激しい地方部に多く立地するイオンのGMSが地場スーパーとの顧客争奪で苦戦していると整理した。
ウエルシアの調剤と食品を組み合わせた店舗運営は、既存GMSの集客力低下を補う役割を期待された。2023年度の決算説明会で吉田社長は、健康寿命を延ばさなければ日本の税制が厳しくなるとの問題意識を示したうえで、「両社(ツルハ・ウエルシア)のスケールを活用する必要がある」(決算説明会 FY2023)と述べ、2030年頃を視野にツルハとの統合を進める方針を明言した。2024年にはツルハホールディングスとウエルシアの経営統合が正式に議論され、国内小売業界の再編となった。ドラッグストアチャネルはヘルスケアとグロサリーの結節点として今後10年間のイオンの基幹事業である。2014年の子会社化から10年を経て、グループ内でウエルシアが戦略上の中核にまで格上げされた。
首都圏SM統合と地域事業会社の業態横断再編
2015年1月、株式会社マルエツ、株式会社カスミを子会社化し、3月にユナイテッド・スーパーマーケット・ホールディングス(U.S.M.H)を子会社化した[51]。首都圏の中堅SMをU.S.M.H傘下に集約する枠組みで、マルエツ・カスミ・マックスバリュ関東の3社が並列するホールディングス体制として運営された。まいばすけっととも併存する形で、首都圏SM事業の統合基盤が形式的には整った。ただし後に2026年IR DAYで井出武美執行役(SM担当)は「これまでの取り組みは、まさに個社最適であり、危機感の共有も十分ではなかった」(決算説明会 FY2026-IRDAY)と振り返っており、U.S.M.H設立後10年間は各事業会社の横串連携が十分に働かない状態が続いた。5つの本社機能が並立し、情報システムインフラが分断されたことが主な原因として指摘されている。
2019年9月にマックスバリュ東海とマックスバリュ中部が統合、2020年3月にイオン東北・イオン北海道・イオン九州の各地域会社がマックスバリュ各社を吸収合併し、地域事業会社の業態横断統合を集中して行った[52][53]。2020年9月にイオン九州とマックスバリュ九州・イオンストア九州の3社統合も実施された[54]。地域ごとのGMS・SM・DSを単一の事業会社にまとめる再編で、地域密着型経営と固定費コントロールの基盤となった。米国では2017年にJCペニー・シアーズ・ホールディングス・メーシーズが100店舗規模の閉鎖を発表した。日経新聞2017年6月14日付には「米国型消費の象徴、ショッピングモール(SM)の苦戦が国内全土で広がっている。拡大するインターネット通販に押されて店舗の閉鎖が相次ぎ、集客力を失ったためだ」と記された。上場子会社を増やし続けた2000年代とは逆方向へ転じた転換点にあたる。
岡田元也氏から吉田昭夫氏への社長交代とコロナ赤字
2020年6月、1997年から23年にわたって社長(後半はグループCEO)を務めた岡田元也氏が退任し、吉田昭夫氏が代表執行役社長に就任した[55][56]。岡田時代はマイカル・ダイエー・ウエルシア・マルエツ・カスミなど買収を連続させる拡大期で、連結売上高は2002年2月期の2兆7,269億円から2020年2月期の7兆5,054億円へ2.75倍に拡大していた。吉田氏は就任前のインタビューで、顧客と現場の商品・サービスの間にギャップが顕在化しているとの認識を示し、現場と本部の距離を経営課題として最初から掲げた経営者である。規模の論理から現場主導のオペレーション改革へと経営テーマの重心が動き始めた。岡田時代の拡大を否定するのではなく、買い集めた会社群を横に結び直す補完的な任務を帯びた体制だった。
就任1年目の2021年2月期、イオンはコロナ禍による客足急減と減損損失を受け、連結純損失710億円(特別損失1,128億円)を計上した。過去最大の赤字である。それでも吉田体制は縮小均衡を選ばず、2022年1月に株式会社キャンドゥを子会社化して100円ショップ事業に参入、3月に株式会社フジを子会社化して中四国SM事業を統合、2022年4月に東証プライム市場へ移行、2023年11月にはさらに株式会社いなげやを子会社化した[57][58]。コロナ禍の赤字の年でも、むしろ赤字を逆手に取って買収で規模を増やしたのが吉田体制初期の特徴で、守りと攻めを同時に走らせる経営だった。赤字のさなかに止めずに積み増した投資が、後の2024〜2025年の売上10兆円達成へと直結し、結果として有効な選択だった[59]。