前身ジャスコ・岡田屋から現在まで
岡田屋の200年は、一つの店を育てた歴史ではなく、店を置く場所を替え続けた歴史である。四日市の久六町で天秤棒を担いだ篠原屋は、明治20年に繁華街の辻へ移り、戦後は焼け野原へ建て直し、1974年の四日市店は3度目の立地になっていた。岡田卓也氏の父は地方百貨店を構想したが、卓也氏が選んだのはその逆である。一地区に巨大な店を構えれば、客が移ったときに店は動かせない。多店舗化であれば、客の移動に合わせて店の側を動かせる。大黒柱に車をつけよという家訓は、商家の心構えではなく、立地が変わることを前提に置いた事業の設計であった。
店数を増やす道には、一店あたりの利益が薄くなるという代償がついた。岡田屋が1955年ごろにセルフサービスを入れたのは、人件費がまだ安く、客にも馴染みのない時期である。当座の原価は下がらず、投資としては早すぎた。それでも先に据えたのは、店が10店、20店と増えたときにだけ効いてくる仕組みだった。小嶋千鶴子氏が管理者の育成に十数年をかけたのも同じ理屈で、店を増やせる速さは、店を任せられる人の数で決まる。1969年にフタギ・シロと仕入会社を作ったとき、岡田屋が外から得たのは商品ではなく、大量発注によるコストダウンという仕入れ面における武器であった。
イオンの源流は、1758年(宝暦8年)に岡田惣左衛門氏が三重県四日市で始めた太物・小間物の小売にある。ただし店を構えたわけではない。天秤棒の両端にもっこをつるして商品をかついで歩く行商であり、屋号は岡田家が自ら名乗った篠原屋であった。創業の地は、西町に直交する久六町である。屋号が岡田屋へ改まるのは明治20年(1887年)、5代惣右衛門氏が四日市最大の繁華街で通称"辻"とよばれた南町一番屋敷へ店を移した時であった。岡田家には『大黒柱に車をつけよ』という家訓が受け継がれ、人の流れが変われば店の場所も動かすという指針になった。
岡田屋は四日市で200年ほど続いた家業で、岡田卓也氏はこれを呉服屋と呼んでいる。衣料品販売を目的とする株式会社岡田屋呉服店の設立は1926年9月21日である。卓也氏の父は国内の小売業としては早い時期に近代化を志し、大正末期に資本金25万円で株式会社へ組織を改めていた。地方百貨店を築く考えも当時あったものの、父が急に世を去り立ち消えとなった。卓也氏がのちに選んだ進路はこの一地区の百貨店とは逆向きで、1地区で巨大な百貨店を目指しがちな小売業者のなかで、消費者の動きに沿うなら多くの店を持つほうが成長できると考えた。
岡田卓也氏は1925年(大正14年)に三重県で生まれ、1946年(昭和21年)、早稲田大学の在学中に岡田屋呉服店の代表取締役となった。戦災で岡田屋の店はすべて焼け落ち、戦後の歩みは底からの再出発となった。家業を守ったのは、両親と長女を亡くして経営を担うことになった岡田屋の二女、姉の小嶋千鶴子氏で、弟の卓也氏を支えた。千鶴子氏は戦時中に名古屋の丸善で昭和研究会のパンフレットを入手し、第一次大戦に敗れたドイツのインフレとその収め方を知って、同じ事態が敗戦後の日本にも来ると見込んでいた。預金封鎖と新円切り替えの前に、手元の金を集められるだけ集めて商品に換えている。卓也氏がまず焼け跡に店を建て直したとき、その元手になったのはこの買い置きだった。
人件費がまだそれほど高くなく、客もセルフサービスに慣れていなかったため、導入してもすぐに原価が下がるとは限らなかった。岡田屋が1955年(昭和30年)ごろにSSDDS方式と呼ばれる形でこれを取り入れたのは、岡田卓也氏が先進国の例に学び、行く先を読んだうえでの判断で、後年本人はそれがのちの伸びを生む力になったと振り返った。1地区に巨大な百貨店を構えるのではなく多店舗化の道を取るからには、集中管理とセルフサービスで原価を下げることが欠かせなかった。商号は1959年(昭和34年)11月、岡田屋呉服店から岡田屋に変わった。
小売業ではよい立地に店を出せるかどうかが肝心で、不動産業に近いとさえいわれる。岡田家には、立地のよい所や将来伸びそうな場所があればためらわず店を移せという家訓が伝わり、岡田屋はそれに従って店を動かしてきた。昔の商家に伝わる『土蔵の下には車をつけておけ』という言葉を、岡田卓也氏は引き合いに出した。1974年(昭和49年)時点の四日市店は、戦後の焼け野原に建てた店から数えて3度目の場所にあたり、1959年11月には百貨店法の適用を受けて営業を始めていた。売場は法の網にかかる規模へ達していた。
多店舗化を進めるには集中管理が欠かせない、と岡田卓也氏は述べていた。小嶋千鶴子氏も1978年に、小売業を近代化する近道はチェーン化であり、その担い手となる有能な管理者を大勢そろえるため十数年にわたり人づくりを続けてきたと語っている。チェーン展開の土台は、店舗より人材の側にあったことになる。千鶴子氏はジャスコの人事・教育の仕組みを組み上げ、人事担当常務として女性の大学卒業者をまとめて採る方針を打ち出した。合併で生まれた連邦経営の会社だけに人事から感情を排することが求められ、千鶴子氏も公正を軸に、客観的な資料のほかは当てにしないという考えを通した。
岡田卓也氏の考えでは、チェーンストアの使命は価値ある商品を大量に売り、メーカー本位の流通を消費者本位へ切り替える橋渡しにあった。それには末端の小売業を再編し、店数を増やしつつ合併で規模を大きくしなければならない。この理屈のもとで、1969年(昭和44年)2月、岡田屋はフタギ・シロとの共同出資で(旧)ジャスコを設立し、仕入れと本部の中枢を3社で共有する器とした。いきなり合併せず共同仕入れから入ったのは、まず規模の利益だけを確保する形を選んだためである。後年の小嶋千鶴子氏は、ナショナルチェーンは条件がそろえばおのずと現れるもので、残っていたのは担い手が誰になるかという点だけだったと回顧し、『小売業が力を合わせてそれをやろうというのがジャスコの考え方だし、自分でやろうというのがダイエーの中内さんのやり方』と述べている。
量販店への対策を三菱商事が練り始めたのは1962年(昭和37年)ごろだった。1969年1月には西友ストアーと業務提携を結び、翌2月にはジャスコとの提携にまで進んでいる。ジャスコとの提携では、ショッピングセンターを建てて運営する会社として、両社がともに出資したダイヤモンドシティが同じ1969年2月に生まれた。それ以前、総合商社と量販店が手を結ばずにきたのは、消費者に向き合う知見が商社に欠けていたうえ、系列に組み込まれて商社の支配下に置かれることを量販店が嫌ったからだった。状況を変えたのは、店舗網を急いで広げる量販店の側の資金事情である。建物の建設費を分割で後払いにする、リースを使う、商品をまとめて大量に仕入れる、といった手立てのために商社と組むほうが得だと、量販店は見るようになった。
岡田卓也氏が合併へ進んだ理由は、個人企業からの脱皮にあった。長く続いた同族経営の殻を破り近代的な企業へ大きく育つには、メーカーが新しい技術や製品を生み出すのに匹敵するほどの変革が必要だった。戦後、岡田屋は少しずつ立ち直って拡大へ転じ、個人企業を抜け出して近代的な流通業へ生まれ変わることが念願となっていた。そのために選ばれたのが合併という道で、1970年(昭和45年)のジャスコ株式会社の誕生として形になり、岡田氏はそれを『封建的な小売業界の中にあって、革命といってもよい』と言い表した。仕入を共同にするだけでは規模の利点に限界があり、それでは越えられない壁が残っていた。
ジャスコの合併が異例だったのは回数ではなく、合併したあとに何を残したかにある。1970年から1977年までに岡田屋は20を超える地方スーパーを取り込み、資本金を6億8,844万円から47億1,510万円へ増やした。それでも合併した会社は本部へ吸収されず、山陽ジャスコ・大分ジャスコ・西奥羽ジャスコとして別の会社のまま残る。社名から岡田の名を外したのも同じ設計であり、対等であることを形で示さなければ、地元の経営者は自分の会社を差し出さない。岡田卓也氏が企業内容よりも相手の経営者の質を見たのは、対等の形でしか集まらない相手がいたからである。
連邦経営は、出店の交渉の道具でもあった。大手が地方へ出れば地元の商店街が反対し、商業活動調整協議会にかかる。だが地元に社長がいれば話は通り、出店は進んだ。1974年に大型小売店法が議論になったとき、岡田卓也氏が規制の影響を少ないと見ていたのは、規制を避ける経路を組織の形そのものが持っていたからである。この形は資金の側にも効いた。1974年に三市場の二部へ上場し、1976年に東証一部とルクセンブルク、1978年にデュッセルドルフとフランクフルトへと市場を広げる。発足から8年の会社が欧州で起債できたのは、毎年の合併で担保になる店舗と資本を積み上げていたからであった。
ジャスコという社名はJapan United Stores Company の頭文字を取ったもので、合併をきっかけに社員の意欲を高めてまとまりをつくろうと全社員から募り、2,000件余りの案から選ばれた。その合併は1970年(昭和45年)3月のことで、岡田屋は兵庫県下に27店舗をもつフタギなど3社と一緒になり、本店を大阪市へ移した。資本金は合併後6億8,844万円となり、同年4月に商号をジャスコ株式会社へ変えた。最初の合併に限らず、その後に地域会社と合併したときも、オーナー家の名は社名に入れないという原則が守られた。創業家の名を外すことで、合併が対等であることを示したのである。
大きくなった組織はこわばりやすい。国家はこの弊害を地方分権で、企業は事業部制で抑えるという発想から、米国やスイスの国家形態にならって連邦経営の名が付けられた。小売業は地域に根ざす産業であり、組織と業態を照らし合わせて地域主体の連邦制が採られた。地方のトップに責任を持たせて仕事を任せれば力を引き出しやすく、店数が増えて量販店との摩擦が生じたときにも手を打ちやすいとの判断である。こうして合併先は別組織の地域会社として残り、山陽ジャスコ・大分ジャスコ・福岡ジャスコ・カクダイジャスコ・西奥羽ジャスコが並ぶ形になった。仕入れも、本部から回す分と、各地域がその土地柄に合わせて自ら手当てする分の2本立てとした。
発足10年の節目に岡田卓也氏が挙げた合併の要は、資産ではなく人、なかでも相手側の経営者であり、『企業内容よりも経営者の質の方が大問題です』と語っている。店舗のほうは10年たてば建て替えの要る設備にすぎず、大きな論点ではないとみていた。地域化は、合併後の最初の3年を基盤づくりに充ててから始めた。本部は業績が順調なら人事に手を入れない原則を守り、無理に人を送り込まなかった。地元出身の社長がいることは出店でも効き、大手の進出が地元商店街の反発を買って商調協の案件になりがちな場面でも、話が通って比較的円滑に進んだ。
毎年のように合併を重ねる会社は、当時の日本ではまれだった。ジャスコの設立を出発点に、合併は地域ごとに積み重ねられ、中国地方で1社、九州で2社、東北で2社と続いた。1972年(昭和47年)8月にはやまてや、やまてや産業、京阪ジャスコの3社と合併して資本金が7億7,550万円に、翌1973年2月には三和商事、福岡大丸、かくだい食品ほか6社との合併で10億760万円に増えた。金融や管理のように集めたほうが効く機能は本部がまとめて受け持ち、地域会社は営業だけに力を注ぐ仕組みであった。
合併は1970年代の後半も止まらなかった。1975年(昭和50年)2月、100%出資会社のジャスコチェーンほか7社を合併し、ジェーフードから米穀販売を除く営業の全部を譲り受けている。ジャスコがグループ化を急いだのは、まとめて安く買い付けることで規模の利点を得るためだった。当時としては例のない広範な再編である。資本金は発足時の6億8,844万円から、1976年8月に扇屋・東北ジャスコの2社を合併して31億5,000万円へ、1977年に伊勢甚百貨店など6社を合わせて47億1,510万円へと増えた。7年で7倍近い膨張であった。
規模の拡大は、店舗の持ち方にも表れた。1974年(昭和49年)時点で直営店は93店、地域会社を入れると153店あり、その70%がジャスコの自己所有であった。当時もっとも多かったのは、郊外に駐車場を備えて日用品を主に扱うファミリーニーズ・ショッピングセンターで、立地の3つの型のうち2番目にあたる。残る型は、都心型に近いアンカーストアと、ショッピングセンターである。建設費は規格品をなるべく使って切り詰め、冷暖房・空調を含めて坪25万円前後に収め、土地はリース物件に頼って保証金だけの負担にとどめる、というのが岡田卓也氏の考えだった。1974年時点で部門別の売上は衣料品が51%、食料品が31%、その他が16〜17%を占めた。
岡田卓也氏が上場に込めた狙いは、流通業を近代化し、過小資本を改めることにあった。ジャスコが東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第二部へ株を上場したのは1974年(昭和49年)9月で、なかでも東証への上場は、全国チェーンを築く建前のもと、まだ名の通っていない東日本に足場をつくる意味を持っていた。1975年2月期は売上1,900億円(前期比135%)、税引後利益18億円(前期比150%)を目標とし、2割の安定配当に上場記念の1割増配を加えた。東北地方では合併した2社を起点に20店舗を構え、1つの地域チェーンとしてまとまりつつあった。
国内の上場は地方の取引所へ広がった。1975年(昭和50年)11月、京都・広島・福岡・新潟の各証券取引所に上場している。扇屋・東北ジャスコとの合併は1976年8月のことで、同じ8月の2日には東京証券取引所市場第一部への指定替えも果たし、合併と市場での格上げが時期を同じくした。チェーンストアの弱点とされた財務の立て直しは1978年でひと区切りつき、設備投資を止めなかったぶん担保になる物件がたまって、その後の資金集めは楽になった。大型小売店法をめぐる議論も同じころに起きていたが、岡田卓也氏は面積・営業時間・休日の規制が従来の出店のやり方と大きく違わないため、影響は小さいと見ていた。
資金調達は国内にとどまらなかった。日本経済がどの面でも国際化へ向かう以上、資金の出どころも早めに海外へ広げておくべきだ、というのがジャスコの判断であった。最初の一手は1976年(昭和51年)の欧州預託証券(EDR)形式による株式発行とルクセンブルク証券取引所への上場で、1977年6月に欧州で米ドル建転換社債を出し、1978年にはドイツマルク建転換社債と株式をデュッセルドルフ・フランクフルト両取引所に上場した。西独やスイスでも機を見て外債を発行し、その手法を社内にため込んでいる。発足8年目の企業が欧州で資金を集められたのは、毎年重ねた合併で積み増してきた資本と担保が裏付けになったためであった。
イオンにとって、ジャスコという名称からの変更は、業態転換を意味した。岡田卓也氏が1989年にグループの通称をイオンへ改めたのは、二度目の改名であった。一度目は1969年、四日市で200年続いた岡田屋の屋号を捨ててジャスコを名乗った時で、旧習を打ち破って脱皮するために必要な手段だったと本人が語っている。オーナー家の名を社名に残さない原則も、家業から企業へ変わった証を形で示すために置かれた。ジャスコという名は Japan United Stores Company の頭文字であり、小売を共同で仕入れる会社の名である。スケールメリットによる仕入れ価格の低減で生き残りを図ったが、イオン(ラテン語で永遠)への改名は、さらに小売業を進化させることを意図し、1990年代後半から本格化した郊外ロードサイドの大型ショッピングセンターの本格展開に結びついた。
ただし1989年の改名は、事業の実態が先にあって名が追いついたのではない。順序は逆であった。創業家の岡田卓也氏は持論の企業20年周期説に立ち、ジャスコが20周年を迎えた時点で既に危険領域に入ったという危機感から、ジャスコからイオンへの名称変更に踏み切った。改名の時点でグループの理念は定まっておらず、社長の二木英徳氏は内部における混乱を認め、5年〜10年で作り上げる指針を示している。中身が伴ってきたのは1990年代であり、法人としての商号がイオンに変更するのは、通称変更から12年が経過した2001年8月21日であった。この頃には、ロードサイド大型店の展開が本格化し、イオンとしての名称が受け入れられる土壌が整ったのであろう。
1979年(昭和54年)3月、ジャスコは同業他社4社と共同で輸入専門会社アイク株式会社を設立した。店を増やすことと、店に並べる商品をどこから引くかは別の問題である。1980年2月期に創立十周年を迎えた時点で、地域法人の子会社は全国17社、店舗数は144店に達していた。売上高は1979年2月期の4,448億円から1980年2月期の5,024億円へ伸びた。売場は毎年の合併で積み上がったが、仕入は国内の取引先に依存したままであった。岡田卓也氏は1980年、80年代の展望の第一に国際化の進展を挙げ、チェーンストアもこの波を避けて通ることはできないと社内へ説いた。輸入会社の設立は、売る場所ではなく仕入れる先を国外へ開く手であった。
店舗中心の地域連邦から企業グループとしての多角化へ動きが強まったのは、1982年からであった。本店は1983年6月に大阪市から東京都へ移っている。証券調査が1984年に出した会社研究によれば、経営の柱は量販店、専門店、外食、無店舗販売、レジャーサービスの5つで、量販店部門と新規事業の利益の比率を当時の9対1から10年後には1対1にする目標が掲げられていた。店舗だけでなく業態そのものを入れ替える構えで、上場企業も含め、自立できる会社を5、6社ほど5年のうちに育てる考えも示した。同じ研究は、育てる業種を絞り込むイトーヨーカ堂と比べ、より多様な業種・業態へ踏み出す進み方を革新的だと評価した。
海外への出店と買収は、1980年代の半ばから続いた。1984年9月にマレーシアでジャヤ・ジャスコストアーズを設立し、同年10月に英国のローラアシュレイ社と業務提携、12月にはタイにサイアムジャスコを設けた。1985年6月、海外1号店のジャヤ・ジャスコストアーズ ダヤブミ店が開店した。1988年6月には米国の婦人服専門店チェーン、タルボット社を子会社を通じて買収している。買収額はおよそ420億円で、全米150店を5年で250店へ増やす計画であった。国内で総合スーパーを営む会社が、海外では婦人服の専門店チェーンを抱える。ジャスコという名は、この広がりを覆わなくなっていた。
1989年9月28日、千葉県浦安市のNKホールに、ジャスコグループの係長以上およそ3,500人の社員が集まった。壇上の岡田卓也会長は、20年前に流通革命という理想を掲げて出発した日を振り返ったうえで、『20年前、流通革命という理想に燃え、夢とロマンを持ってスタートを切った。あの時と同じように、今新しいグループの理想と使命に向けて一致団結していこうではないか』と呼びかけ、20周年を機にグループ名をイオンへ変えると告げた。イオンはラテン語で永遠を意味する語であり、消費者にはいつまでも尽くし、企業としてもいつまでも発展し続けたいという願いを込めて選ばれた名であった。ジャスコが Japan United Stores Company の頭文字であったことを思えば、新しい名前には小売という限定がなくなっていた。ただし、これは通称の変更にとどまり、法人格上の商号変更は12年後の2001年に行われている。
通称を変えた理由を、岡田卓也会長はグループの核の数で説明した。郊外の大型ショッピングセンターの時代が到来したと考え、スーパーを核として専門店や外食など、多角化が必要な趨勢になったと判断。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でよかったが、不動産デベロッパー事業及びサービス事業を含め、多角化しなければ成長は望めないと説明した。1989年2月期のジャスコの連結売上高は1兆1,550億円、単体では8,617億円で、スーパー業界の4位であり、子会社は99社、孫会社まで含めれば150社に達している。同年10月には、全国各地で大型の商業施設を開発するデベロッパー事業を始めると表明し、さらに多角化を加速させた。
従来のブランドを手放すことについて、岡田卓也氏には先例があった。1974年の時点で、長年続いた同族経営の殻を破る改革と位置づけて商号変更を活用しており、1969年に岡田屋という屋号をやめてジャスコを社名としたのも、旧来のやり方を断ち切るための手段であった。岡田屋・フタギ・シロによる最初の合併のときも、その後に続いた地域会社との合併のときも、社名にオーナー家の名前を残さない原則を貫いたのは、家業から企業へ変わったことの証として、旧来のブランドに対する執着を断つためであった。"大黒柱に車をつけろ"という岡田家の家訓と自身の経験から企業20年周期説を信じていた岡田氏は、ジャスコが20周年を迎えた時点で危機感を強め、『成功体験を捨てろと言うのはたやすいが、実行は難しい。(中略)企業経営も同じで、新しく創ることよりも、大事なことは捨てることだと思う』と述べている。
新しい名の下で進んだのは、本社への中央集権化であった。それまで連邦経営は、地域性に考慮するために、各地域法人の自主性と独自性に任せる思想を踏襲していたが、1989年11月、伊勢甚ジャスコの社長にジャスコの常務が就き、オーナー一族は相談役へ退いた。九州ジャスコや山陽ジャスコ、大分ジャスコでもかつてのオーナーは会長や相談役へ移り、ジャスコ本体の取締役に残る元オーナーは4名となった。ジャスコ社長の二木英徳氏は、グループ経営の混乱を認めつつ、5年〜10年でまとめ上げる指針を表明するなど、内部の混乱を伴いつつも、ジャスコからイオンへの転換を進めた。
イオンの確立にあたっては、小売以外の側面からも進んだ。1990年6月、英国のザ・ボディショップを国内で展開するイオンフォレストを設立し、1991年1月には財団法人イオングループ環境財団を設けた。同年10月、マレーシアのジャヤ・ジャスコストアーズ マラッカ店で「イオン ふるさとの森づくり」の植樹が始まる。1994年9月には自主企画商品のトップバリューの販売を開始。グループ各社の資本市場への登場も続き、1993年7月にミニストップが東京証券取引所市場第二部へ、同年11月に米国タルボット社がニューヨーク証券取引所へ、1994年2月にジャスコストアーズ(香港)が香港証券取引所へ上場した。多角経営の推進によって、グループの収益源は小売の外側へも広がった。
そして、1995年8月、ジャスコは郊外型の大型ショッピングセンターの本格展開を決断。これは、ジャスコが大型ショッピングセンターを展開する上でイオンとして業態転換する転機となった。岡田卓也氏は、SC間の競争を予見し、政治面において大店法における運用緩和、経済面では地価下落と低金利が出店の追い風になると捉えた。法人としての商号が変わったのが、2001年8月21日であり、ジャスコ誕生30周年にあたるこの日、ジャスコ株式会社はイオン株式会社へ商号を変更した。同時にイオングループ1%クラブもイオン1%クラブへ名を改めている。グループの名を変えてから12年、ショッピングセンターの本格展開によって売上を拡大し、2001年2月期の連結営業収益は2兆7,386億円に達していた。
2003年5月15日、イオンは委員会等設置会社へ移り、取締役による監督と執行役による業務執行を分けた。この機関設計は、同年4月の商法改正で初めて選べるようになったものであった。会長の常盤敏時氏は移行の理由を問われ、『ÆON aims to be one of the top 10 retail groups in the world.』(訳:イオンは世界の小売業で上位10グループの一つになることを目指している)と答えた。米国子会社のタルボットがすでに同じ仕組みで運営されており、その長所と短所を時間をかけて見極めたうえでの選択であった。同じ年報で経営陣は、世界中の株主と投資家から直に評価される経営が欠かせない時代に入ったとの認識を示している。規模の拡大に先立ち、外部から測られる統治の形を先に整えたものとみられる。
移行と同時に社長の岡田元也氏が進めたグループ経営改革は、本体をグループ全体の最適化を担う立場に置き直すものであった。岡田氏は相乗効果の源を、規模の利益、間接部門の集約、成功事例の共有、地域戦略の4つに整理した。規模の利益では、2003年4月から本体と総合スーパー子会社2社、スーパーマーケット子会社8社で加工食品と日用品の仕入を一本化した。その土台として、ナショナルブランド商品の共同調達と、グループ共通の情報網・物流網の整備を進めていた。出店地もそれまで各社が個別に決めていたが、会社と業態の境を越えて地域ごとの首位を狙う方針に改めた。岡田氏は改革の狙いを『The goal of our group management reforms is to create value that is greater than the sum of the parts that make up ÆON.』(訳:グループ経営改革の目標は、イオンを構成する各部分の総和を上回る価値を生み出すことにある)と語った。
改革の足場となる財務では、有利子負債の削減を最優先に据え、在庫の圧縮と固定資産の見直しで営業キャッシュ・フローを厚くする方針を採った。2003年2月期の連結売上高は3兆410億円、連結営業利益は1,260億円で、連結子会社111社を合わせていずれも過去最高となった。この間、2002年7月にはショッピングセンター開発のイオンモールが東京証券取引所市場第一部に上場した。本体も2002年6月11日に売買単位を1,000株から100株へ下げ、消費者を株主に迎える取り組みを始めた。単元株を持つ個人株主は、2002年2月の7,681人から2005年2月には7万6,580人へ増えた。資本市場との接点を広げたこの数年が、のちの大型増資を受け止める素地になったと思われる。
2003年の最大の案件は、会社更生手続き中のマイカルを傘下に収めることであった。マイカルはイオンの支援のもとで更生を進めており、2003年9月30日に東京地方裁判所が同社と子会社8社の更生計画を、福岡地方裁判所がマイカル九州の更生計画を認可した。これを受けてイオンは同年11月、マイカルの発行済株式の100%とマイカル九州の66.7%を取得し、5月に取得したマイカル・イストと合わせて206億90百万円を投じた。受け入れた純資産が取得額を上回ったため、957億63百万円の負ののれんが生じ、更生計画上の担保付債務の返済期間に合わせて9年で償却することになった。更生会社の店舗網を小さな出資で抱え込み、再建の成否をそのまま自社の収益に結びつけた判断であったとみられる。
成長の資金は株式市場から取った。2004年8月、イオンは1,000億円の公募増資を行い、年報はこれを国内の小売業として過去最大の規模と記した。資本金は1,017億98百万円となった。資金の使い道は、モール型ショッピングセンターと新業態スーパーセンターの出店であった。2005年4月の決算短信は、総合スーパーをモール型ショッピングセンターの核店舗として出し直し、スーパーセンターを次の世代の核店舗に育てて地域での圧倒的なシェアを取るという中期の方針を掲げた。2005年2月期にはグループでモール型12か所、総合スーパー20店、スーパーマーケット54店、スーパーセンター3店を開き、連結営業収益は4兆1,960億円と国内の小売業で初めて4兆円を超えた。増資で得た資金を出店に回し、売上規模で国内首位を固めた局面であった。
マイカルの再建は、計画を前倒しで終えた。マイカル九州は2005年2月に更生手続きを全て終え、マイカル本体も2005年12月31日に更生手続きを終結した。終結は当初の計画より7年早く、最終年度は3店を閉じる一方でシステムと既存店に投資し、営業利益120億13百万円を計上した。その間の2005年3月には、フランスのカルフールと戦略的な事業提携を結び、同社が持つカルフール・ジャパンの株式を譲り受けてイオンマルシェに改めた。会社側は再建の意味を『約6,500億円規模の企業グループの事業の更生を果たした事実は、今後イオンが提携・買収戦略を推進していくうえで大きな力となると確信しております。』と総括した。更生会社の立て直しを、次の買収を進める際の実績として位置づけていた。
2006年2月期の連結営業収益は4兆4,302億85百万円、連結営業利益は1,661億5百万円で、ともに6期続けて過去最高を更新した。一方で減損会計を前倒しで適用し、833億35百万円の減損損失を計上したため、連結当期純利益は289億32百万円に落ちた。同年4月、イオンは国内でさらに伸びるには新規出店だけでは足りないとして、他社との提携で新しい事業を起こす方針を打ち出した。岡田氏も株主あてのメッセージで『To grow further, ÆON aims to build a new foundation through self-growth and partnership strategy.』(訳:さらなる成長に向け、イオンは自力成長と提携戦略によって新たな土台をつくる)と述べた。出店を柱としてきた成長の型に、提携と買収という二本目の柱を加えた転換であった。
提携の方針は、すぐに買収として形になった。2006年3月20日、総菜と持ち帰り弁当の大手オリジン東秀を友好的な公開買付けで連結子会社とした。同年4月3日には、持分法を適用していたショッピングセンター開発のダイヤモンドシティについても公開買付けによる株式取得を決め、5月に成立させて連結に加えた。3月末にはイオンの子会社6社とマイカルの子会社4社を統合し、グループ内のサービス事業を組み直すことも発表した。資金面では、2006年11月の一般募集と12月の第三者割当で資本金を1,985億28百万円まで積み増した。2007年4月には、ジャスコ・サティと並ぶ総合スーパーの屋号としてグループの共同販促に加わっていた北海道のポスフールを子会社とした。
買収と並行して、イオンは金融と決済を商業施設の機能に組み込んだ。2005年12月に東日本旅客鉄道と包括的な業務提携を結び、2006年3月にはNTTドコモと携帯電話によるクレジット決済の導入で合意した。同じ3月10日、イオンは銀行業への参入を表明した。岡田氏は、こうした新しい事業で買い物をより便利にし、ショッピングモールの魅力を高めると説明した。2007年1月には店舗で「Suica」と「iD」の取り扱いを始め、4月には独自の電子マネーWAONを導入した。同年10月にイオン銀行が開業し、年報は国内の小売業が持つ銀行として初めて銀行業務を一通り扱うと記した。2008年2月時点の店舗内の支店は13、口座は25万、預金は約1,400億円であった。
2008年8月21日、イオンは持株会社機能を除く一切の事業をイオンリテールへ吸収分割で承継させ、純粋持株会社へ移行した。切り出した総合小売事業は2008年2月期で387店舗・売上高1兆8,228億円に及び、提出会社の従業員は1万4,031人から380人になった。直前の2008年2月期、連結営業収益は初めて5兆円を超えた一方、営業利益は1,560億円と10年ぶりの減益に沈んだ。岡田元也社長は、利益の大半を担うGMS(総合スーパー)の低収益がグループ全体の効率を押し下げたと分析し、『We see the reform of the GMS business as an urgent priority.』(訳:GMS事業の改革は急務である)と位置づけた。戦略を担う本体と事業を担う会社を分けたのは、最大の事業の都合から資源の配分を切り離すためだったとみられる。
同じ2008年4月に公表した中期経営計画は、2011年2月期に営業利益2,500億円、当期純利益1,000億円、ROE10%超を目標に掲げた。道筋は国内GMSの収益構造の抜本的な改革と、海外展開への軸足の移動に置かれた。ところが初年度の2009年2月期、連結営業利益は1,243億円へ落ち込み、当期純損失を計上した。岡田社長は翌年の年報で、消費者が支出を絞るなか『we did not respond fast enough or sufficiently enough to the changes and the needs of our customers in terms of merchandise, prices and services.』(訳:商品・価格・サービスの面で、顧客の変化とニーズに十分な速さで応えられなかった)と認めた。イオンは2009年3月から日用品を中心に5,100品目を値下げし、トップバリュの売上高を2年で7,500億円へほぼ倍増させる目標を立てた。
2010年2月期の連結営業収益は5兆543億円と3.4%減ったが、営業利益は1,301億円と4.7%の増益に転じた。増益の主因は販売費及び一般管理費を前年から771億円削ったことで、岡田社長はコスト構造の改革を1年限りの施策にしないと表明した。岡田社長は同じ年報で、『We have announced a policy to shift investment emphasis on three levels: 1) from domestic to overseas businesses, 2) from large stores to small and medium-size stores, and 3) from new store openings to reinforcement of competitiveness at existing stores.』(訳:投資の重点を、国内から海外へ、大型店から中小型店へ、新規出店から既存店の競争力強化へと3つの面で移す)と述べた。2010年4月には米タルボット社の株式を売却して連結から外し、北米の事業から撤退した。フリー・キャッシュ・フローは6年ぶりに黒字となった。計画の数字に届かないなかで、出店の数から既存資産の効率へと経営の物差しを持ち替えた年だったといえる。
持株会社の下で業態ごとに会社を束ね直す再編が続き、2011年3月にはイオンリテールがマイカルを吸収合併し、営業収益2兆円を超える事業会社になった。2012年4月の決算説明会で会社側は、持株会社への移行から商品・IT機能会社の設立、マックスバリュ事業の分離、GMS3社の統合までを一連のグループ構造改革として並べ、その狙いを『強い業態が集合した「総合」への進化』と表した。連結営業利益は2009年2月期の1,243億円を底に、2012年2月期には1,986億円まで戻った。会社側はこの回復を、グループ構造改革がもたらしたV字回復と総括した。1業態を1社に集めて専業化させ、総合スーパーの内側にあった業態を独立の経営単位へ切り出したとみられる。
2011年11月、イオンは中国・四国で食品スーパーを営むマルナカと山陽マルナカの株式を創業家から取得し、議決権のそれぞれ94.96%と100.00%を握った。2社とは2010年8月に三菱商事を交えた4社で包括業務提携を結んでおり、提携から1年余りで資本の取得へ進んだ。マルナカ他20社の株式の取得価額は519億35百万円で、連結開始時に204億97百万円ののれんを計上した。2012年4月の決算説明会で、国内のSM(スーパーマーケット)は売上高1.2兆円・1,000店舗の規模として示された。5割未満の出資で相手の経営を残してきたダイエーやマルエツとの関係と比べ、株式のほぼ全てを握る買収は経営の主導権を取る側へ踏み込んだ手であった。
2011年度からの3カ年の中期経営計画は、中国とアセアンで飛躍的な成長を目指すアジアシフトをグループ共通戦略の一つに掲げた。2012年3月に北京で中国本社が営業を始め、11月にクアラルンプールでアセアン本社が始動して、日本・中国・アセアンの3本社体制が整った。アセアン本社には戦略策定の機能を置き、6カ国で営む小売・ディベロッパー・金融・サービスの事業を横断して自ら迅速に決める役を持たせた。岡田社長は2010年の年報で、長期の成長余地は中国とアセアンにあるとし、2008年11月開業の北京のモールで日本のモール運営の手法を移せたと評していた。2013年1月にはイオン銀行も子会社とした。海外を国内事業の延長ではなく、地域ごとに意思決定を持つ成長の柱として組み立てた3年間だったといえる。
ダイエーを連結子会社に組み入れる理由として、イオンは中期経営計画にある大都市シフトの推進と首都圏でのシェア拡大を挙げていた。その手段が2013年8月の公開買付けによるダイエー株の買い増しで、議決権比率は19.89%から44.24%へ上がった。取得原価は264億76百万円だった。時価純資産がこれを上回ったため、差額の138億20百万円は負ののれん発生益として利益に計上された。ダイエー改革の方向性について、会社側は2014年4月の決算説明会で『既存店舗の活性化とグループインフラの徹底活用により黒字化へ』とし、大都市の立地を生かして店舗を再生すること、電子マネーWAONを導入すること、イオンとの共同調達を広げることを具体策とした。かつて小売業の首位にあった会社が純資産を下回る値で引き取られたことは、流通の主役の交代を示したとみられる。
2014年度からの中期経営計画は、アジア・都市・シニア・デジタルの4シフトをグループ共通戦略に据えた。2014年11月には、都市とシニアの2つのシフトを牽引する国内首位のドラッグストアチェーンを築くとして、ウエルシアホールディングスを連結子会社とした。2015年1月にダイエーを株式交換で完全子会社とし、3月にはマルエツ・カスミ・マックスバリュ関東の3社が統合したユナイテッド・スーパーマーケット・ホールディングスを連結子会社とした。会社側はその狙いを首都圏で首位のSM企業の確立と説明した。ダイエーは首都圏と京阪神の食品へ絞られ、2015年9月に59店舗、2016年3月に29店舗をグループ各社へ移した。2017年4月の決算説明会で会社側は、移管による損益の改善を50億円超と示した。
買収で規模は広がったが、2016年2月期の親会社株主に帰属する当期純利益は60億円にとどまった。計画の最終年度の2017年2月期、連結営業収益は2013年度比128.4%へ伸び、8事業のうち6事業が増益となった。2017年12月には2020年に向けた中期経営方針としてリージョナル・デジタル・アジアの3シフトを掲げ、連結営業収益10兆円・営業利益3,400億円を目標に据えた。2019年4月、連結子会社イオンディライトの子会社カジタクで不正会計が判明し、純資産への影響総額は96億円にのぼった。イオンは過年度を遡って訂正せず、累積影響額を2020年2月期の第1四半期に一括計上した。300社を超える連結の末端まで統治をどう届かせるかが、次の経営陣へ持ち越されたと思われる。
2020年、吉田昭夫氏がイオンの代表執行役社長に就任した。吉田氏は1983年にジャスコへ入社し、イオンモールの中国本部長や社長を歴任した。2019年からはディベロッパー事業とデジタル事業を担う副社長であった。就任と同じ2020年3月、イオンは株式交換でイオン東北を完全子会社とし、北海道ではイオン北海道がマックスバリュ北海道を吸収合併した。9月には九州でも、イオン九州がマックスバリュ九州とイオンストア九州を合併した。吉田氏は、同じ地域で並走していた総合スーパーと食品スーパーを1社に束ねる意味を投資の負担に置いた。物流やプロセスセンター、DXのように1社では抱えきれない投資も、地域単位の規模があれば担えるという考えである。吉田氏は2024年4月、北海道・東北・中四国・九州の統合がすでに効果を生んでいると説明した。
中期経営計画は吉田氏の社長就任時に立案され、2021年度から2025年度までの5カ年で実行に移された。その初年度からコロナ禍が重なり、吉田氏が社長を務めたイオンモールは休業を強いられた。集客を制限されたイオンモールは、グループで最も大きな打撃を受けた会社のひとつとなった。財務・経営管理担当の江川敬明執行役は、計画の最初の3年間で設備投資が遅れ、海外投資も思うように進まなかったと認めた。投資の成果を計画の4〜5年目に得る設計だったため、有利子負債をEBITDAの2.5倍以下に抑える目標は遠のいた。江川氏は、目標の時期を後ろへずらして財務の健全性を保つ考えを示した。店舗と商業施設を併せ持つグループにとって、コロナは小売と不動産の両方を同時に冷やす逆風であった。
計画の柱のうち最も進んだのは商品の改革で、プライベートブランドへの意識が全社で変わったと吉田氏は総括した。吉田氏は2025年7月、『就任時から小売事業の改善は大きな課題でした。』と振り返った。ディベロッパー、ドラッグストア、総合金融で得た利益を小売の低い収益が相殺し、グループの営業利益率が伸びない構造が続いていたからである。この構造への手当てが「トップバリュ」の拡販である。売上は長く7,000億円規模で足踏みしていたが、1兆円を上回るまでになった。トップバリュを含めたPB全体では2024年度の売上高が1.6兆円に達し、2025年度は2兆円の規模を狙うとした。吉田氏は、PBの品質向上でナショナルブランドとの差が縮まった結果、PBを手に取る客が増え、それが利益の押し上げにつながったとみていた。
2021年9月1日、イオンは中四国のフジ、および連結子会社のマックスバリュ西日本と経営統合の基本合意書を結んだ。イオンは2018年10月の資本業務提携を機にフジの議決権の15.07%を持ち、持分法適用関連会社としていた。2022年3月1日、フジを親会社、マックスバリュ西日本を完全子会社とする株式交換が効力を生じた。イオンの議決権比率は51.56%に上がり、フジ他14社が連結子会社に加わった。統合の目的は、地域の環境変化と競争の激化に備え、中国・四国エリアで最大の事業連合体を築くことに置かれた。2024年3月にはフジがフジ・リテイリングとマックスバリュ西日本を吸収合併し、新生フジが発足した。吉田氏は、物流の再設計でコストを下げ、全国展開のトップバリュを導入すれば収益が改善するとの見通しを示した。
首都圏では、イオンは2022年1月にキャンドゥを株式取得で子会社とし、2023年11月にはいなげやを子会社とした。いなげやの連結は、2024年度に小売事業の売上を5%伸ばす計画の前提に組み込まれた。2024年10月の決算説明会では、いなげやの合流を控えたU.S.M.Hについて、傘下各社の収益力の差にどう手を打つのかが問われた。吉田氏は、地域への適応を重んじつつも、物流と商品で規模の経済を働かせるには束ねることが要ると答えた。トップバリュの構成比が会社により25%から10%まで開いている点も、持株会社が詰める余地に挙げた。そのうえで、食品事業の約6兆円の売上を一つの束にする考えを次の中計に織り込むとした。
計画の後半は、インフレという重荷を抱えた。2024年4月の決算説明会で吉田氏は『インフレは想定外で、人件費増加も予算には盛り込まれていませんでした。』と語り、状況に応じて手直ししつつ計画を遂行していると述べた。営業収益10兆円についても、2024年度に到達すべき目標ではなく途中の通過点だと同氏は位置づけた。実際には2024年度上期の小売事業が計画を下回り、その穴を埋めたのは上場子会社が受け持つ総合金融とディベロッパーの両事業だった。下期に荒利総額の確保と経費構造の改革を進めたことで、2024年度は増益基調へ戻った。それでも2025年の吉田氏は、コロナの長期化やインフレ、コスト上昇による数千億円規模の減益要因を挙げた。そのうえで、5カ年計画の利益目標には届いていないと認めた。
2025年2月28日、イオンは上場子会社のイオンモールを株式交換で、イオンディライトを公開買付けで、それぞれ完全子会社とする方針を説明した。国内16社・海外5社の上場会社を抱え、自主自立を基本に育ってきたグループにとっては、原則の変更を問われる判断であった。吉田氏は、コロナ後のインフレであらゆるコストが上がり、グループの横軸を強める必要が生じたと理由を述べた。不動産については『20~30 年前のデフレ期に取得した多くのアセットが現在のインフレ環境では価値が上昇しています。』と語り、完全子会社化で眠っている資産を収益に変える考えを示した。一方で、単一事業を営む子会社の非公開化は考えていないとして、上場子会社を持つ方針そのものは残した。2社の完全子会社化は2025年7月に完了した。施設と管理の機能をグループの共通基盤として取り込み、子会社の独立性よりも規模の効き目を優先した判断とみられる。
2025年4月11日、イオン、ツルハホールディングス、ウエルシアホールディングスの3社は経営統合の説明会を開いた。統合の日程は当初の設計より短くなった。米国証券取引委員会にForm F-4を出す必要がなくなったためである。前倒しの利点について吉田氏は、PB・DX・物流の効率化は事業規模が伴わないと効果が上がらないと指摘し、『1 兆円規模の企業 2 社が統合することで、より効率的にスケールメリットを得やすくなります。』と語った。ツルハの加入により、北海道や東北などイオンが手薄だった地域の店舗が補われ、売上高2兆円の国内首位のドラッグストア連合が生まれる。シナジーについて3社は3年で500億円を見込み、統合6年後にあたる2031年度に売上高3兆円、営業利益2,100億円を計画した。当初の計画より2年早い統合の実現で、ヘルス&ウエルネス事業の比重はさらに増した。
2025年12月22日、イオンはダイエーの関東のスーパーマーケット事業をマックスバリュ関東へ吸収分割で移す契約を結んだ。イオンマーケットも同じ日に、マックスバリュ関東への合併が決まった。2026年3月1日、マックスバリュ関東はイオンフードスタイルへ改称し、U.S.M.Hの完全子会社となった。近畿ではダイエーが光洋を吸収合併し、食品スーパーとして存続した。事業構造改革担当の四方基之執行役は、この再編をリージョナルシフトの一環に位置づけた。U.S.M.Hの社長に就いた井出執行役は『過去 5 年間で約束を果たせなかった点も踏まえ、これまでとは異なるアプローチが必要だと考えている。』と述べ、5つの本社機能の並立と情報インフラの未整備を連携が進まなかった理由に挙げた。2026年5月、イオンは2030年度までの新しい中計で営業利益5,300億円を掲げた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/8267/company.json https://the-shashi.com/api/8267/history.json https://the-shashi.com/api/8267/ceo.json https://the-shashi.com/api/8267/financials.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/8267/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/8267/financials.csv https://the-shashi.com/api/8267/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1758〜1969年四日市の行商から始まった岡田屋と、規模の劣位が呼んだ三社の共同仕入 | 四日市の天秤棒行商として始まり、屋号を変更して構えた店の出発点 1758年(宝暦8年)、岡田惣左衛門氏が四日市で太物・小間物の小売を始めた。店舗は構えず、天秤棒の両端にもっこをつるして商品をかついで歩く行商であり、屋号は岡田家が自ら名乗った篠原屋である。創業の地は久六町であった。明治20年、東海道と浜往還が交わる"辻"の南町一番屋敷へ店を移した時に屋号を岡田屋へ改め、以後"見競勘定""店規則""正札販売"と商いの仕組みを構築していった。昭和24年に辻から新道へ、昭和33年には近鉄四日市駅前へと、家訓『大黒柱に車をつけよ』のとおり店の場所を動かし続けた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 店規則を制定 | ★ | |||
| 岡田屋呉服店を設立 | ★ | |||
| 岡田卓也氏が7代目当主として岡田屋呉服店の社長に就任 | ★★ | |||
| 岡田屋に商号変更 | ★ | |||
| 四日市店が百貨店法の適用を受けて営業開始 | ★ | |||
| フタギ・シロとの共同出資で(旧)ジャスコを設立 | ★★ | |||
| 三菱商事との合弁でダイヤモンドシティを設立 | ★★ | |||
| 1970〜1978年ジャスコ発足と相次ぐ地方スーパーとの合併、国内外の証券取引所への上場 | 吸収ではなく対等合併という形の選択と、「連邦経営」の設計 1970年3月、三重の岡田屋を中心に兵庫・大阪などの中堅スーパー5社が対等合併し、ジャスコが発足した。岡田卓也社長は大手の吸収合併型と一線を画し、旧経営陣を各地域会社の社長として残す"連邦経営"で、規模の統合と地域の自律を両立させようとした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本店を移転 | ★ | |||
| 岡田卓也 | ジャスコに商号変更 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 京阪ジャスコなど3社を合併 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 三和商事・福岡大丸など6社を合併 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 岡田卓也 | ジャスコチェーンなど8社を合併 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 京都・広島・福岡・新潟の各証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | ||
| 岡田卓也 | 扇屋・東北ジャスコを合併 | ★ | ||
| 岡田卓也 | ルクセンブルク証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岡田卓也 | 伊勢甚百貨店など6社と合併 | ★ | ||
| 岡田卓也 | デュッセルドルフ・フランクフルト両証券取引所に上場 | ★ | ||
| 1979〜2001年ジャスコからイオンへのグループ名称変更と、五つの柱への多角化 | 岡田卓也 | 同業4社との共同出資で輸入専門会社アイクを設立 | ★ | |
| 岡田卓也 | 本店を移転 | ★ | ||
| 二木英徳 | 海外1号店のジャヤ・ジャスコストアーズを開業 | ★★ | ||
| 二木英徳 | 株主優待制度のオーナーズカードを導入 | ★ | ||
| 二木英徳 | 信州ジャスコが名古屋証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 二木英徳 | 婦人服専門店チェーンのタルボット社を子会社化 | ★★ | ||
| 二木英徳 | ウエルマートが株式を店頭登録 | ★ | ||
| 二木英徳 | グループ名称を「イオングループ」と制定 | ★★ | ||
| 二木英徳 | コックスが株式を店頭登録 | ★ | ||
| 二木英徳 | イオングループ環境財団を設立 | ★ | ||
| 二木英徳 | ミニストップが東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 二木英徳 | タルボット社がニューヨーク証券取引所に上場 | ★ | ||
| 二木英徳 | ジャスコストアーズ(香港)が香港証券取引所に上場 | ★ | ||
| 二木英徳 | 本社を移転 | ★ | ||
| 二木英徳 | イオンクレジットサービスが株式を店頭登録 | ★ | ||
| 二木英徳 | 郊外大型ショッピングセンターの本格展開とデベロッパー事業への多角化 1995年、ジャスコは郊外の大型ショッピングセンターを数多く出すことを成長の主力に定め、店舗を自ら保有せずリースで賄うデベロッパー事業を本格化させた。大規模小売店舗法の運用緩和・地価下落・低金利を背景に、総合スーパー1店ごとの競争から、専門店を集めたSC同士の競争へと事業の枠組みを移した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田中賢二 | 田中賢二氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 田中賢二 | ジャヤ・ジャスコストアーズがクアラルンプール証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岡田元也 | 田中賢二氏が総会屋への利益供与事件で逮捕 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 岡田元也氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 岡田元也 | ヤオハンジャパンの再建支援を表明 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 本店を移転 | ★ | ||
| 岡田元也 | イオンに商号変更 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 会社更生手続下のマイカルの再建スポンサーに決定 | ★★ | ||
| 2002〜2007年マイカル再建とイオン銀行の開業、岡田元也による事業の再編 | 岡田元也 | イオンモールが東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |
| 岡田元也 | 委員会等設置会社に移行 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 更生会社マイカル・マイカル九州を子会社化 | ★★ | ||
| 岡田元也 | イオンマルシェを子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | オリジン東秀を子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | ダイヤモンドシティを子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | ポスフールを子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | イオン銀行が営業免許を取得 | ★★ | ||
| 2008〜2019年純粋持株会社化とマルナカ・ダイエー・ウエルシア・マルエツの子会社化 | 岡田元也 | 総合スーパー事業を丸ごと会社分割で切り出し、戦略と事業を分けた純粋持株会社体制への移行 2008年4月7日、イオンの取締役会は、株式を保有する会社の事業活動に対する支配・管理およびグループ運営に関する事業を除く一切の事業を、会社分割によりイオンリテール㈱へ承継させ、純粋持株会社へ移行することを決議し、同日付で吸収分割契約を締結した。 契約は同年5月15日の第83期定時株主総会で承認され、8月21日に効力が生じている。事業を承継する対価として、イオンリテールが発行する普通株式99,800株の全てがイオンへ割り当てられた。 詳細を読む | ||
| 岡田元也 | 会社分割により純粋持株会社に移行 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 連結純損失28億円を計上 | ★ | ||
| 岡田元也 | ツルヤ靴店を子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | 小売子会社3社の統合と店名の「イオン」統一を決定 | ★★ | ||
| 岡田元也 | タルボット社の全株式を売却し連結対象から除外 | ★★ | ||
| 岡田元也 | CFSコーポレーションを子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | イオンリテールがマイカルを吸収合併 | ★ | ||
| 岡田元也 | 中四国トップの食品スーパーの取り込みによる地盤の獲得 2011年10月、イオンが、中国・四国エリアで211店を展開する食品スーパー、株式会社マルナカと株式会社山陽マルナカ(香川県高松市・岡山市南区)の株式を創業者一族から取得し子会社化すると発表した経営判断。同年11月に取得を実行し、マルナカの議決権94.96%、山陽マルナカの議決権100.00%を握った。両社の資本金は1億円と2,500万円で、株式は上場されず創業家が握ったままだった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡田元也 | イオン銀行を子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | 完全子会社化が示した流通の世代交代 2013年8月31日、公開買付けでダイエー株を追加取得し、議決権比率を19.89%から44.24%へ引き上げて連結子会社とした。取得原価は26,476百万円。企業結合時の時価純資産が取得原価を上回り、13,820百万円の負ののれん発生益を計上している。 2014年9月に株式交換による完全子会社化を決め、2015年1月1日に新株25,527,786株を発行してダイエー株主へ割り当て、議決権比率は100.00%となった。ダイエー株は2014年12月に上場を廃止し、約60年続いた上場企業ダイエーが資本の面でイオンに一体化した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡田元也 | ウエルシアHDを子会社化 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 株式交換によりダイエーを完全子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | マルエツを子会社化 | ★ | ||
| 岡田元也 | ユナイテッド・スーパーマーケットHD・カスミを子会社化 | ★★ | ||
| 岡田元也 | 孫会社の過年度の誤りを遡及修正せず、当期の損益で受け止めたグループの判断 2019年4月11日、イオンの連結子会社であるイオンディライトは、その連結子会社である㈱カジタクの不正会計について、外部の専門家により構成される特別調査委員会を設置した。委員会からは同年5月24日付で「カジタクの不正会計に関する調査結果中間報告書」を、6月27日付で「株式会社カジタクの不正会計に関する調査結果最終報告書」を受領している。 中間報告の時点で判明したカジタクの財務諸表の純資産に与える影響総額は96億円で、この額はイオンの連結財務諸表へ2020年2月期第1四半期に一括計上する方針が、同年5月の時点で示されていた。 詳細を読む | |||
| 2020〜2026年吉田昭夫の社長就任とフジ・いなげや子会社化、ツルハとの統合とダイエー分割 | 吉田昭夫 | 吉田昭夫氏が社長に就任 | ★ | |
| 吉田昭夫 | 連結純損失710億円を計上 | ★★ | ||
| 吉田昭夫 | キャンドゥを子会社化 | ★ | ||
| 吉田昭夫 | 中四国最大手との共同持株会社の設立による地域スーパーの再編 2021年9月1日、イオンは中四国最大手の流通企業フジ、および傘下のマックスバリュ西日本との経営統合の基本合意書を締結した。フジが会社分割で共同持株会社となり、株式交換でマックスバリュ西日本を完全子会社とする枠組みで、イオンはフジの議決権51.56%を取得して連結子会社とした。企業結合日は2022年3月1日。この日はイオンの第98期の期首にあたり、フジ他14社が連結の範囲に加わって初年度から通期が連結されている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉田昭夫 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 吉田昭夫 | いなげやを子会社化 | ★ | ||
| 吉田昭夫 | ツルハHD・ウエルシアHDと経営統合で合意 | ★★ | ||
| 吉田昭夫 | 関東の事業を吸収分割で切り出し、近畿は光洋との合併で残した食品スーパーの再編 2025年12月22日、イオンは完全子会社のダイエーを東西へ分ける4つの契約を締結した。首都圏では、ダイエーが関東で営むスーパーマーケット事業を吸収分割でマックスバリュ関東へ承継させ、同社はイオンマーケットを吸収合併したうえで商号をイオンフードスタイルへ改め、株式交換でU.S.M.Hの完全子会社となった。近畿では、ダイエーが完全子会社の光洋を吸収合併した。効力発生日はいずれも2026年3月1日で、協議開始に向けた6社の基本合意書は2025年8月4日付で結ばれていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉田昭夫 | 連結売上高9兆3554億円・純利益726億円を計上 | ★ | ||
| 吉田昭夫 | ダイエーの首都圏事業をイオンフードスタイルへ承継 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(イオン)