1920年〜 羊華堂の暖簾から、大量販売のための株式会社へ
- 1948年伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立
- 1956年伊藤譲の死去にともない伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承
- 1958年大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の店舗を増改築して営業を開始
- 1962年本店を東京都台東区入谷に移転
- 1965年株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更
イトーヨーカ堂の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
東京の下町で洋品店を営んだ伊藤家
イトーヨーカ堂の商いは、大正期から東京の下町で続いた洋品店にさかのぼる。法人としての形が整うのは戦後で、1948年8月、伊藤譲を代表者とする合資会社羊華堂が設立された。伊藤譲の弟にあたる伊藤雅俊氏は、この店で商人としての作法を母から教わったと後年に語っている。最初に教わったのは、母が客の前で見せた表情の切り替えである。夫婦げんかで涙を流していても、客が入ってくると笑顔に変わる。泣き顔を見せれば「あの店は暗い」と言われ、次から客は来ない。伊藤雅俊氏はこれを「商売とはそういうもの」と受け取った。 [1][2][3]
- 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
- [1]1948年8月、伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立した
- 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
- [2]「母親はけんかして涙を流していても、お客様の前に出ると一転して笑顔になりました。もしお客様に泣き顔なんか見せると、『あの店は暗い』と言って次から買いに来てくれない。商売とはそういうものだというのを教わりました」
- 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
- [3]イトーヨーカ堂には大正期の20年代から東京の下町を基盤に洋品店を営んだ歴史があり、戦後に衣料品中心のスーパーへ転換し、のちに食品を加えて総合スーパーとなった
母から受け取ったもうひとつの教えを、伊藤雅俊氏は「ないない尽くしのプレゼント」と呼んだ。客は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という内容である。これは処世訓ではなく、当時のスーパーが置かれた状況をそのまま言い表していた。1950年代半ばから1970年代半ばごろまで、スーパーには卸してもらえない商品が数多くあった。宅配が当たり前だった牛乳がそうで、化粧品もそうで、ブランド品は問題にもならなかった。担保がないから銀行も貸さない。ようやく借りられるようになり、不況の時期も返済を続けていたところ、銀行の担当者から「伊藤さんのところはちゃんと返済していただいて助かります」と言われた。借りた金を返さない会社があることを、伊藤雅俊氏はそのとき初めて知ったという。 [4][5]
- 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
- [4]「お客様は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という教えです」
- [5]「昭和30年から40年代くらいまでは、スーパーに卸してもらえない商品というのはたくさんありました。宅配が当たり前だった牛乳をはじめ、化粧品もそうだし、もちろんブランド品なんかとんでもなかった」
- 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
- [1]1948年8月、伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立した
- 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
- [2]「母親はけんかして涙を流していても、お客様の前に出ると一転して笑顔になりました。もしお客様に泣き顔なんか見せると、『あの店は暗い』と言って次から買いに来てくれない。商売とはそういうものだというのを教わりました」
- [4]「お客様は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という教えです」
- [5]「昭和30年から40年代くらいまでは、スーパーに卸してもらえない商品というのはたくさんありました。宅配が当たり前だった牛乳をはじめ、化粧品もそうだし、もちろんブランド品なんかとんでもなかった」
- 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
- [3]イトーヨーカ堂には大正期の20年代から東京の下町を基盤に洋品店を営んだ歴史があり、戦後に衣料品中心のスーパーへ転換し、のちに食品を加えて総合スーパーとなった
大量販売方式を実行するための会社
1956年7月、伊藤譲の死去により伊藤雅俊氏が合資会社羊華堂の経営を継いだ。その2年後の1958年4月、大量販売方式を実行するために株式会社ヨーカ堂が設立され、東京都足立区千住の建物を増改築して営業が始まった。有価証券報告書はこの設立の目的を「大量販売方式を実行するため」と一行で書いている。洋品店の看板をそのまま大きくしたのではなく、売り方を変えるために別の法人を用意した。同じころ、日本のスーパーは相次いで名乗りを上げていた。ダイエーが1957年、イトーヨーカ堂が1958年、西友ストアーが1963年である。 [6][7]
- 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
- [6]1956年7月に伊藤譲が死去し伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承、1958年4月に大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の建物を増改築して営業を開始した
- [7]スーパーはダイエー(昭和32年)、イトーヨーカ堂(昭和33年)、西友ストアー(昭和38年)と相次いで名乗りを上げ、昭和40年代に総合スーパーが躍進した
チェーンストアとしての展開が始まったのは1960年である。当時の売上高は10億円にすぎず、店舗はまだ1店もなかった。それでも伊藤雅俊社長は、1度のアメリカ視察だけを手に銀行の重役を集めてチェーンストアの構想を説き、融資を取り付けた。後にこれを「盲蛇に怖じず」と評している。1960年に開いた500坪の店舗は、当時としては関東周辺で最も大きな店だった。売上高は1966年に100億円、1971年に500億円へ伸びた。この間の1962年に本店を台東区入谷へ移し、1965年6月には社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に改めた。 [8][9][10]
- [8]「当社は昭和35年からチェーン・ストアを始め、当時の売上げはわずか10億円であったが、41年100億円、46年500億円、51年3,200億円と上がってきた」
- [9]「私は昭和35年当時、まだ1店も出店していない時に、1回アメリカへ行った経験だけで、銀行の重役を集めてチェーン・ストアの話をし、融資を受けた。まさに『盲蛇に怖じず』である」
- 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
- [10]1962年11月に本店を東京都台東区入谷へ移転し、1965年6月に株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更した
- 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
- [6]1956年7月に伊藤譲が死去し伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承、1958年4月に大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の建物を増改築して営業を開始した
- [10]1962年11月に本店を東京都台東区入谷へ移転し、1965年6月に株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更した
- [7]スーパーはダイエー(昭和32年)、イトーヨーカ堂(昭和33年)、西友ストアー(昭和38年)と相次いで名乗りを上げ、昭和40年代に総合スーパーが躍進した
- [8]「当社は昭和35年からチェーン・ストアを始め、当時の売上げはわずか10億円であったが、41年100億円、46年500億円、51年3,200億円と上がってきた」
- [9]「私は昭和35年当時、まだ1店も出店していない時に、1回アメリカへ行った経験だけで、銀行の重役を集めてチェーン・ストアの話をし、融資を受けた。まさに『盲蛇に怖じず』である」