イトーヨーカ堂 の歴史

創業

1958年

創業者

伊藤雅俊

創業地

東京都足立区

直近売上高(2008/2)

16,779億円

長期業績と転換点(1979/2〜2008/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1958年に設立された後発のスーパーが、業界屈指の高収益企業になれたのか
A 大量販売方式のため1958年に設立された株式会社ヨーカ堂は、1960年に10億円だった売上高を1976年度に3,200億円へ伸ばした。支えたのは二つの出店基準である。ひとつは店舗規模を商圏に比例させ、過大投資を避けること。もうひとつが低地価政策で、衣料品の専門店が坪当り200万円以上の売上を必要とした時代に、坪当り20万円から30万円の土地へ大型店を建てて採算を作った。狙いは首都圏郊外の31歳前後のヤングファミリーだった。1976年の総売場面積は約41万平方メートルに達し、三越の27万平方メートルを上回った
Q なぜ1982年にイトーヨーカ堂は、子会社で生まれた手法を本体へ持ち込む業務改革を始めたのか
A 1983年2月期、イトーヨーカ堂は上場以来初の経常減益を記録した。これを契機に、当時副社長の鈴木敏文氏が業務改革(業革)を始めた。中身は会議の形式にあった。現場の情報を出し、分析し、仮説を立て、店頭で検証する。この循環を20年以上繰り返した。原型は子会社セブン-イレブン・ジャパンで毎週開かれていたフィールドカウンセラー会議にあり、子会社で確立した手法を親会社が輸入した。開始当初の鈴木敏文氏は「鬼」と呼ばれ、現場の店長を怒鳴りつけて反発を招き、会社を去る者まで出た。
Q なぜ2005年にイトーヨーカ堂は、持株会社の傘下に入って上場企業としての歴史を終えたのか
A 2005年9月、イトーヨーカ堂・セブン-イレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社は共同株式移転により株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し、イトーヨーカ堂は完全子会社となった。背景には二つの不整合があった。1979年に上場したセブン-イレブン・ジャパンを、イトーヨーカ堂は62.54%を保有したまま26年にわたり親子上場のもとに置いていた。しかも1998年度の経常増益は、そのセブン-イレブンからの130億円の配当に依存していた。1972年9月の上場から33年で、上場企業としての歴史を終えている。

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1920年〜 羊華堂の暖簾から、大量販売のための株式会社へ

  1. 1948年伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立
  2. 1956年伊藤譲の死去にともない伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承
  3. 1958年大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の店舗を増改築して営業を開始
  4. 1962年本店を東京都台東区入谷に移転
  5. 1965年株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更

イトーヨーカ堂の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

東京の下町で洋品店を営んだ伊藤家

イトーヨーカ堂の商いは、大正期から東京の下町で続いた洋品店にさかのぼる。法人としての形が整うのは戦後で、1948年8月、伊藤譲を代表者とする合資会社羊華堂が設立された。伊藤譲の弟にあたる伊藤雅俊氏は、この店で商人としての作法を母から教わったと後年に語っている。最初に教わったのは、母が客の前で見せた表情の切り替えである。夫婦げんかで涙を流していても、客が入ってくると笑顔に変わる。泣き顔を見せれば「あの店は暗い」と言われ、次から客は来ない。伊藤雅俊氏はこれを「商売とはそういうもの」と受け取った。 [1][2][3]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [1]1948年8月、伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立した
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [2]「母親はけんかして涙を流していても、お客様の前に出ると一転して笑顔になりました。もしお客様に泣き顔なんか見せると、『あの店は暗い』と言って次から買いに来てくれない。商売とはそういうものだというのを教わりました」
  • 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
    • [3]イトーヨーカ堂には大正期の20年代から東京の下町を基盤に洋品店を営んだ歴史があり、戦後に衣料品中心のスーパーへ転換し、のちに食品を加えて総合スーパーとなった

母から受け取ったもうひとつの教えを、伊藤雅俊氏は「ないない尽くしのプレゼント」と呼んだ。客は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という内容である。これは処世訓ではなく、当時のスーパーが置かれた状況をそのまま言い表していた。1950年代半ばから1970年代半ばごろまで、スーパーには卸してもらえない商品が数多くあった。宅配が当たり前だった牛乳がそうで、化粧品もそうで、ブランド品は問題にもならなかった。担保がないから銀行も貸さない。ようやく借りられるようになり、不況の時期も返済を続けていたところ、銀行の担当者から「伊藤さんのところはちゃんと返済していただいて助かります」と言われた。借りた金を返さない会社があることを、伊藤雅俊氏はそのとき初めて知ったという。 [4][5]

  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [4]「お客様は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という教えです」
    • [5]「昭和30年から40年代くらいまでは、スーパーに卸してもらえない商品というのはたくさんありました。宅配が当たり前だった牛乳をはじめ、化粧品もそうだし、もちろんブランド品なんかとんでもなかった」
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [1]1948年8月、伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立した
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [2]「母親はけんかして涙を流していても、お客様の前に出ると一転して笑顔になりました。もしお客様に泣き顔なんか見せると、『あの店は暗い』と言って次から買いに来てくれない。商売とはそういうものだというのを教わりました」
    • [4]「お客様は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という教えです」
    • [5]「昭和30年から40年代くらいまでは、スーパーに卸してもらえない商品というのはたくさんありました。宅配が当たり前だった牛乳をはじめ、化粧品もそうだし、もちろんブランド品なんかとんでもなかった」
  • 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
    • [3]イトーヨーカ堂には大正期の20年代から東京の下町を基盤に洋品店を営んだ歴史があり、戦後に衣料品中心のスーパーへ転換し、のちに食品を加えて総合スーパーとなった

大量販売方式を実行するための会社

1956年7月、伊藤譲の死去により伊藤雅俊氏が合資会社羊華堂の経営を継いだ。その2年後の1958年4月、大量販売方式を実行するために株式会社ヨーカ堂が設立され、東京都足立区千住の建物を増改築して営業が始まった。有価証券報告書はこの設立の目的を「大量販売方式を実行するため」と一行で書いている。洋品店の看板をそのまま大きくしたのではなく、売り方を変えるために別の法人を用意した。同じころ、日本のスーパーは相次いで名乗りを上げていた。ダイエーが1957年、イトーヨーカ堂が1958年、西友ストアーが1963年である。 [6][7]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [6]1956年7月に伊藤譲が死去し伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承、1958年4月に大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の建物を増改築して営業を開始した
    • [7]スーパーはダイエー(昭和32年)、イトーヨーカ堂(昭和33年)、西友ストアー(昭和38年)と相次いで名乗りを上げ、昭和40年代に総合スーパーが躍進した

チェーンストアとしての展開が始まったのは1960年である。当時の売上高は10億円にすぎず、店舗はまだ1店もなかった。それでも伊藤雅俊社長は、1度のアメリカ視察だけを手に銀行の重役を集めてチェーンストアの構想を説き、融資を取り付けた。後にこれを「盲蛇に怖じず」と評している。1960年に開いた500坪の店舗は、当時としては関東周辺で最も大きな店だった。売上高は1966年に100億円、1971年に500億円へ伸びた。この間の1962年に本店を台東区入谷へ移し、1965年6月には社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に改めた。 [8][9][10]

    • [8]「当社は昭和35年からチェーン・ストアを始め、当時の売上げはわずか10億円であったが、41年100億円、46年500億円、51年3,200億円と上がってきた」
    • [9]「私は昭和35年当時、まだ1店も出店していない時に、1回アメリカへ行った経験だけで、銀行の重役を集めてチェーン・ストアの話をし、融資を受けた。まさに『盲蛇に怖じず』である」
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [10]1962年11月に本店を東京都台東区入谷へ移転し、1965年6月に株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更した
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [6]1956年7月に伊藤譲が死去し伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承、1958年4月に大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の建物を増改築して営業を開始した
    • [10]1962年11月に本店を東京都台東区入谷へ移転し、1965年6月に株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更した
    • [7]スーパーはダイエー(昭和32年)、イトーヨーカ堂(昭和33年)、西友ストアー(昭和38年)と相次いで名乗りを上げ、昭和40年代に総合スーパーが躍進した
    • [8]「当社は昭和35年からチェーン・ストアを始め、当時の売上げはわずか10億円であったが、41年100億円、46年500億円、51年3,200億円と上がってきた」
    • [9]「私は昭和35年当時、まだ1店も出店していない時に、1回アメリカへ行った経験だけで、銀行の重役を集めてチェーン・ストアの話をし、融資を受けた。まさに『盲蛇に怖じず』である」

1966年〜 商圏に比例させた店と、坪二十万円の土地

  1. 1967年本店を東京都港区麻布十番に移転
  2. 1971年株式の額面変更のため、川越倉庫を前身とする株式会社イトーヨーカ堂に吸収合併され、実質上の存続会社として営業を継続
  3. 1972年東京証券取引所市場第二部に株式を上場
  4. 1973年米国のコンビニエンスストア大手 THE SOUTHLAND CORPORATION(現 7-Eleven, Inc.)と提携し、株式会社ヨークセブン(現 株式会社セブン-イレブン・ジャパン)を設立
  5. 1973年株式会社ヨークベニマルと業務提携
  6. 1973年米国レストランチェーンのデニーズ社と提携し、外食事業に参入
  7. 1973年デニーズ社との提携にもとづき株式会社デニーズジャパンを設立

イトーヨーカ堂の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

店の大きさを商圏の大きさに合わせる

店舗の規模は、1960年の500坪から1966年に1,000坪、1972年には3,000坪へと大きくなった。ただし規模の拡大それ自体を方針とはしなかった。「店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない」というのが伊藤雅俊社長の言葉である。狙う客層も具体的に定めていた。首都圏を取り巻く商圏には、勤めの経験を持つ女性が作る世帯、つまり31歳前後のヤングファミリーの市場がある。この年齢層は男女とも購買力が旺盛で、同時に商品への不満を抱く年齢でもある。「不満のあるところマーケットあり」というのが伊藤雅俊社長の持論だった。狙いを不満の所在に置いたことで、出店の判断は人口の多寡だけでは決まらなくなった。 [11][12]

    • [11]「35年に開店した500坪の店舗は当時としては関東周辺で最も大きな店であったが、41年には1,000坪、現在では3,000坪が普通になり、さらに拡大の傾向にある。しかし店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない」
    • [12]「ヤングファミリーの年令は31才位であるが、この年令層は男女とも消費購買力が非常に旺盛である。また、商品に不満をもつ年令でもある。不満のあるところマーケットありというのが私の持論である」

出店地の選び方は、より直接に採算と結びついていた。衣料品の専門店を出すには、当時の相場で坪当り200万円以上の売上がなければ経営が成り立たない。イトーヨーカ堂の店舗の多くは、坪当り20万円から30万円の土地にあった。伊藤雅俊社長はこれを「当社独特の低地価政策」と呼んでいる。地価の高い立地で高い売上を取るのではなく、地価の安い立地に大きな店を建てて採算を作る。あわせて、モータリゼーションが進めば郊外の広い土地に店が必要になるとも読んでいた。食料品の取扱いを始めたのは1967年で、衣料品だけの店から総合スーパーへ移る変化も同じ時期に起きている。 [13][14]

    • [13]「いま衣料品の専門店を出店する場合、坪当り200万円以上の売上げがないと経営は成りたたない。当社の店舗の多くは坪当り20万~30万円の場所にある。これは当社独特の低地価政策によるものであるが、今後日本でもモータリゼーションが盛んになると郊外の広い地域に店舗が必要になってくる」
    • [14]「当社が食料品を扱ったのは5年前である」(1972年11月時点の発言。食料品の取扱い開始は1967年にあたる)
    • [11]「35年に開店した500坪の店舗は当時としては関東周辺で最も大きな店であったが、41年には1,000坪、現在では3,000坪が普通になり、さらに拡大の傾向にある。しかし店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない」
    • [12]「ヤングファミリーの年令は31才位であるが、この年令層は男女とも消費購買力が非常に旺盛である。また、商品に不満をもつ年令でもある。不満のあるところマーケットありというのが私の持論である」
    • [13]「いま衣料品の専門店を出店する場合、坪当り200万円以上の売上げがないと経営は成りたたない。当社の店舗の多くは坪当り20万~30万円の場所にある。これは当社独特の低地価政策によるものであるが、今後日本でもモータリゼーションが盛んになると郊外の広い地域に店舗が必要になってくる」
    • [14]「当社が食料品を扱ったのは5年前である」(1972年11月時点の発言。食料品の取扱い開始は1967年にあたる)

上場と、量より質を選んだ自己規律

1972年9月、イトーヨーカ堂は東京証券取引所市場第二部に上場した。公開価格は880円である。上場に際して伊藤雅俊社長は幹事証券会社の担当者に「あまり高い株価をつけてくれるな」と頼み、「上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて」とあきれられている。使い道のない資金を持っていても仕方がない、という理由だった。資本市場から調達した資金も無償ではなく、税金と配当を考えればそれ以上の利益を上げ続けなければならない。銀行から借りたほうが安くつくこともある、とも説明している。上場前に13%だった自己資本比率は上場後に20%となり、1976年には約35%へ上がった。 [15][16]

  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [15]「イトーヨーカ堂が1972(昭和47)年に上場した時、私は幹事証券会社の担当者に『あまり高い株価をつけてくれるな』と頼みました。『上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて』とあきれられました」
    • [16]「当社の場合は、上場前は13%であったが上場後は20%となり、今後時価発行を行なえば自己資本比率は30%台になって、欧米の小売店に近づく」/1976年時点で自己資本比率は約35%、上場時880円で公開

同じ時期、伊藤雅俊社長は自社の経営を「量より質の経営」と表現していた。その具体例として挙げたのが支払条件である。チェーンストアは一般に60日から90日の手形で決済していたが、イトーヨーカ堂はすべて現金決済にしていた。手形で仕入れれば自社の運転資金は軽くなるが、負担は取引先の資金繰りへ移る。現金決済は、その負担を自社に残す。経営の物差しも数値で定めていた。1株当り税引利益60円、利益成長率20%、自己資本利益率は税引きで15%、総資本利益率5%の4つで、増資を行うのは1株当り利益60円以上を維持できる場合に限るという方針を通した。 [17][18]

1972年2月期の売上高は約498億円だった。スーパーチェーン業界のなかでの位置を、伊藤雅俊社長は売上高で5位前後、利益ではダイエー・丸井に次ぐ3位と説明している。もっとも、この順位は関連会社やフランチャイザー会社を含む場合があり正確とはいえないと自ら断っている。母集団を小売業全体に広げれば位置は変わる。日経流通新聞の小売業調査によれば、ダイエーが三越を抜いて小売業の首位に立った1972年度、イトーヨーカ堂の売上高は826億円で15位だった。首位のダイエーは3,052億円で、3.7倍の開きがある。 [19]

  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [15]「イトーヨーカ堂が1972(昭和47)年に上場した時、私は幹事証券会社の担当者に『あまり高い株価をつけてくれるな』と頼みました。『上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて』とあきれられました」
    • [16]「当社の場合は、上場前は13%であったが上場後は20%となり、今後時価発行を行なえば自己資本比率は30%台になって、欧米の小売店に近づく」/1976年時点で自己資本比率は約35%、上場時880円で公開
    • [17]「代金の支払にしてもチェーンストアは一般に60日~90日の手形で決済しているが、当社はすべて現金決済である。これも質の経営に対する当社の姿勢である」
    • [19]「業界における当社の地位は、売上げで第5位程度、利益はダイエー、丸井に次いで第3位である。ただこれには、関連会社、フランチャイザー会社などを含めている場合があるので、あまり正確とはいえないようだ」
    • [18]「1株当たりの税引利益60円、利益成長率20%、総資本利益率(税引き)5%を一つの経営のモノサシとして、いままで経営してきた」「自己資本利益率は税引きで15%にしなければいけない」/1972年2月期の売上高は49,829百万円

一年に三つの提携を決めた1973年

1973年、イトーヨーカ堂は3件の提携を相次いで決めた。3月に株式会社ヨークベニマルと業務提携し、5月に米国のレストランチェーンであるデニーズ社と提携して外食に参入している。7月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、11月には米国のコンビニエンスストア最大手 THE SOUTHLAND CORPORATION との提携にもとづいて株式会社ヨークセブンを設立した。提携契約そのものの正式な成立を同年12月とする記録もある。サウスランド社は前年度の売上高が約12億ドル、店舗数は4,458店に達していた。日本経済新聞は1973年8月28日の朝刊一面で「イトーヨーカ堂、コンビニエンスストアで米の最大手と提携」と報じ、コンビニエンスストアという当時の読者に耳慣れない言葉を、住宅地に立地して営業時間が長く、少人数で経営する小売店だと解説している。 [20][21]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [20]1973年3月にヨークベニマルと業務提携、5月に米国レストランチェーンのデニーズ社と提携、7月に東証第一部上場、11月に THE SOUTHLAND CORPORATION と提携して株式会社ヨークセブンを設立し、同月デニーズ社との提携にもとづき株式会社デニーズジャパンを設立した
    • [21]昭和48年8月28日の日本経済新聞朝刊が一面で「イトーヨーカ堂、コンビニエンスストアで米の最大手と提携」と報じた。サウスランド社の前年度売上高は約12億ドル、店舗数は4,458店だった

提携から3年後の1976年、傍系会社の顔ぶれは本体とは別の速度で増えていた。コンビニエンスストアのヨークセブンは135店を数え、翌年2月末までに200店とする計画が立てられている。従来からの大型店は8月末で63店、レストランチェーンのデニーズが13店、スーパーマーケットのヨークマートが2店だった。1店あたりの年間売上規模は、大型店が50億円から100億円であるのに対し、コンビニエンスストアは1億3,000万円である。桁が2つ違う業態を、同じ会社が同時に動かしていた。同じ1976年、イトーヨーカ堂の総売場面積は約41万平方メートルに達し、三越の27万平方メートル、高島屋・大丸・松坂屋の15万から18万平方メートルを上回った。 [22][23]

    • [22]「店舗数は、傍系企業のヨークセブン(米国サウスランド社と提携)では、コンビニエンス・ストアとして135店あるが、これは来年2月末までには200店舗にする予定である。そして、従来からの大型店が8月末で63店ある。年間売上規模としては、大型店が1店舗50~100億円、コンビニエンス・ストアは1億3,000万円クラスである」
    • [23]「当社の総売場面積は、伝統ある三越の27万平方米、高島屋、大丸、松坂屋の15~18万平方米、伊勢丹の10万平方米を凌駕し、この数年間で約41万平方米の大きな店が建てられた」

子会社が伸びた理由を、伊藤雅俊社長は加盟する側の事情から説明している。経営の行き詰まりに悩んでいた酒屋がヨークセブンに加わり、年間1億2,000万円を売り上げて1,000万円の収入を得るようになった。それでも小売商がこれに踏み切れないのは、異業種へ単独で飛び込めないことと、中心になるノウハウがなかったことによる。この2つが逆にヨークセブンの伸びた背景になったと見ていた。1979年、そのヨークセブンから改称したセブン-イレブン・ジャパンが東京証券取引所市場第二部に上場する。親会社が過半の株式を持ったままの上場で、この関係は2005年の株式移転まで26年間続いた。 [24][25]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [20]1973年3月にヨークベニマルと業務提携、5月に米国レストランチェーンのデニーズ社と提携、7月に東証第一部上場、11月に THE SOUTHLAND CORPORATION と提携して株式会社ヨークセブンを設立し、同月デニーズ社との提携にもとづき株式会社デニーズジャパンを設立した
    • [21]昭和48年8月28日の日本経済新聞朝刊が一面で「イトーヨーカ堂、コンビニエンスストアで米の最大手と提携」と報じた。サウスランド社の前年度売上高は約12億ドル、店舗数は4,458店だった
    • [22]「店舗数は、傍系企業のヨークセブン(米国サウスランド社と提携)では、コンビニエンス・ストアとして135店あるが、これは来年2月末までには200店舗にする予定である。そして、従来からの大型店が8月末で63店ある。年間売上規模としては、大型店が1店舗50~100億円、コンビニエンス・ストアは1億3,000万円クラスである」
    • [23]「当社の総売場面積は、伝統ある三越の27万平方米、高島屋、大丸、松坂屋の15~18万平方米、伊勢丹の10万平方米を凌駕し、この数年間で約41万平方米の大きな店が建てられた」
    • [24]「経営の行き詰まりで悩んでいた酒屋がヨークセブンに入り、現在年間1億2,000万円を売上げ、収入は1,000万円にもなった。しかし、小売商がなぜこれに踏み切れないか。一つは異業種へ単独で飛び込めないこと、中心になるノウ・ハウがなかったことが原因で、これが逆にヨークセブンが伸びた背景となっている」
    • [25]株式会社セブン-イレブン・ジャパン(設立 昭和48年11月20日)の上場年月日は昭和54年10月15日、所属部は市場第二部。上場時の大株主は株式会社イトーヨーカ堂62.54%、株式会社ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%で、親会社が過半を保有したままの上場であった

1980年〜 初の減益から始めた業務改革と、含みに頼らない財務

  1. 1981年本店を東京都港区芝公園に移転
  2. 1981年パリ証券取引所(現 ユーロネクスト(パリ))に上場
  3. 1982年1983年2月期の上場以来初の経常減益を受けて業務改革(業革)に着手し、セブン-イレブンで確立した単品管理と仮説検証の手法を総合スーパー本体へ導入
  4. 1985年POSレジスターを全店に導入
  5. 1991年株式会社セブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得
  6. 1992年地価上昇を前提とする不動産投資と時価発行増資を見送り、手元現金を積み増す財務方針を継続(アンチ“含み”経営)
  7. 1992年総会屋への利益供与事件の責任をとり伊藤雅俊が社長を辞任、鈴木敏文が社長に就任

イトーヨーカ堂の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

上場以来初の経常減益が引き金になった

1983年2月期、イトーヨーカ堂は上場以来初の経常減益を記録した。この危機感を契機に始まったのが、以後20年以上続く「業務改革」、社内で業革と呼ばれる取り組みである。主導したのは当時副社長の鈴木敏文氏で、開始当初は「鬼」と呼ばれた。業革の会議で現場のたたき上げの店長を怒鳴りつけ、「これまでの売れていた時代の価値観、発想、やり方をすべて捨てろ」と迫った。店長にとっては身もふたもない話で、反発は強く、会社を去る者まで出た。1970年代前半までのイトーヨーカ堂は、業界で中堅上位に甘んじる企業だった。当時トップだったダイエーの中内㓛社長からは「イトーヨーカ堂はないない尽くしの経営、学ぶところは何もない」とまで評されている。ただし1970年代後半の伸びは速く、1979年度には売上高4,985億円でダイエーに次ぐ2位へ上がった。減益は、その位置を得た直後に起きている。 [26][27][28]

  • 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
    • [26]「イトーヨーカ堂は、83年2月期に上場以来初の経常減益となった。『業革』は、その危機感を契機として開始された」
    • [27]「70年代にはトップ企業だったダイエーの中内(当時=社長)から、『イトーヨーカ堂はないない尽くしの経営、学ぶところは何もない』とまで酷評されたものである」
    • [28]「そんなこともわからないのか」「これまでの“売れていた時代”の価値観、発想、やり方をすべて捨てろ」と鈴木敏文は業革の会議で現場の店長クラスを叱責し、反発から会社を去る者も出た

業革の中身は、会議の形式そのものにあった。最初に店舗などの現場情報が出され、情報が分析され、仮説が打ち出される。その仮説は店舗の現場で実行され、検証される。「市場の変化→情報→仮説→検証」というこの循環を20年以上繰り返した。原型になったのは、子会社セブン-イレブン・ジャパンで毎週開かれていたフィールドカウンセラー会議である。親会社の改革手法を子会社が学んだのではなく、子会社で確立した手法を親会社が輸入した。1985年12月にはPOSレジスターが全店に導入され、売れた商品を1品目ずつ把握する土台が本体側にも整った。 [29][30][31]

  • 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
    • [29]「『業革』会議では、最初に店舗などの現場情報が出される。情報が分析され、仮説が打ち出される。そして、その仮説は、店舗の現場で実行され、検証がなされる。『市場の変化→情報→仮説→検証』、これを二〇年以上も続けている」
    • [30]セブン-イレブンで毎週行われるFC(フィールドカウンセラー)会議は、イトーヨーカ堂の「業革」の原型と見なされている
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [31]1985年12月にPOSレジスターを全店に導入した
  • 週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」
    • [26]「イトーヨーカ堂は、83年2月期に上場以来初の経常減益となった。『業革』は、その危機感を契機として開始された」
    • [27]「70年代にはトップ企業だったダイエーの中内(当時=社長)から、『イトーヨーカ堂はないない尽くしの経営、学ぶところは何もない』とまで酷評されたものである」
    • [28]「そんなこともわからないのか」「これまでの“売れていた時代”の価値観、発想、やり方をすべて捨てろ」と鈴木敏文は業革の会議で現場の店長クラスを叱責し、反発から会社を去る者も出た
    • [29]「『業革』会議では、最初に店舗などの現場情報が出される。情報が分析され、仮説が打ち出される。そして、その仮説は、店舗の現場で実行され、検証がなされる。『市場の変化→情報→仮説→検証』、これを二〇年以上も続けている」
    • [30]セブン-イレブンで毎週行われるFC(フィールドカウンセラー)会議は、イトーヨーカ堂の「業革」の原型と見なされている
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [31]1985年12月にPOSレジスターを全店に導入した

含みに頼らない財務と、本家の救済

バブル期のイトーヨーカ堂は、不動産の含み益を当てにする経営を選ばなかった。理由として伊藤雅俊氏が挙げるのは、借りた金は必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員の給料は毎月払うものと考えれば、経営は生やさしいものではないと分かる、という一点である。「頼りになるのは現金しかないということが骨身に染みていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった」と述べている。同じ時期、日本の小売業の多くは地価の上昇を前提に借入を重ねていた。1972年の講演で伊藤雅俊社長は、日本のチェーンストアが資金を商品ではなく不動産に向けてしまうことを「チェーン経営の大きな問題点」と呼んでいる。バブル期に投資話へ乗らなかった判断は、20年前に語ったこの見方の延長にあった。 [32][33]

  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [32]「借りたカネは必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員の給料は毎月払うものと考えたら、経営とはそんな生やさしいものではないことがわかる。(中略)頼りになるのは現金しかないということが骨身に染みていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった」
    • [33]「過去のわが国のチェーンストアの実情はどちらかといえば不動産への投資が中心になりがちだった(中略)商品中心の経営でなく、これはチェーン経営の大きな問題点である」

1991年3月、イトーヨーカ堂はセブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得した。18年前にコンビニエンスストアの運営ノウハウを供与した側の米国本社を、供与された側の日本法人が傘下に収めた。翌1992年、イトーヨーカ堂は総会屋への利益供与事件に直面し、伊藤雅俊社長は引責辞任した。1958年の会社設立から34年にわたって経営の中心にいた創業者が退き、業革を率いてきた鈴木敏文氏が本体の経営を担った。後年の記事は、この辞任と伊藤家が事件に深く関わったことが伊藤雅俊氏にとって心の傷となった、と書いている。 [34][35][36][37]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [34]1991年3月、株式会社セブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得した
  • 週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」
    • [35]「伊藤名誉会長には、総会屋事件で社長を引責辞任したこと、また、伊藤家が事件に深くかかわっていたことが心の傷となっている」
  • 週刊東洋経済 2023年4月1日号「追悼/伊藤雅俊 セブン&アイ・HD名誉会長 変化を恐れぬ商人」
    • [36]「1992年に幹部による総会屋への利益供与の責任を取って伊藤氏はヨーカ堂社長を辞任した」(辞任年は1992年。週刊東洋経済 1999年5月1・8日号には辞任の年月の記載がない)
  • 週刊東洋経済 2023年5月20日号「【特集 漂流するセブン&アイ】PART3 不全 『資本と経営の分離』の真実」
    • [37]「ヨーカ堂の社長に鈴木が昇格したのは92年に起きた総会屋事件がきっかけだが、その前に、実質的には権力は移行していた」(鈴木敏文の社長昇格は1992年、契機は総会屋事件)
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊
    • [32]「借りたカネは必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員の給料は毎月払うものと考えたら、経営とはそんな生やさしいものではないことがわかる。(中略)頼りになるのは現金しかないということが骨身に染みていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった」
    • [33]「過去のわが国のチェーンストアの実情はどちらかといえば不動産への投資が中心になりがちだった(中略)商品中心の経営でなく、これはチェーン経営の大きな問題点である」
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [34]1991年3月、株式会社セブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得した
  • 週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」
    • [35]「伊藤名誉会長には、総会屋事件で社長を引責辞任したこと、また、伊藤家が事件に深くかかわっていたことが心の傷となっている」
  • 週刊東洋経済 2023年4月1日号「追悼/伊藤雅俊 セブン&アイ・HD名誉会長 変化を恐れぬ商人」
    • [36]「1992年に幹部による総会屋への利益供与の責任を取って伊藤氏はヨーカ堂社長を辞任した」(辞任年は1992年。週刊東洋経済 1999年5月1・8日号には辞任の年月の記載がない)
  • 週刊東洋経済 2023年5月20日号「【特集 漂流するセブン&アイ】PART3 不全 『資本と経営の分離』の真実」
    • [37]「ヨーカ堂の社長に鈴木が昇格したのは92年に起きた総会屋事件がきっかけだが、その前に、実質的には権力は移行していた」(鈴木敏文の社長昇格は1992年、契機は総会屋事件)

1997年〜 独り勝ちと呼ばれた会社の死角と、持株会社への幕引き

  1. 1997年中国に華糖洋華堂商業有限公司を設立
  2. 2001年株式会社アイワイバンク銀行(現 株式会社セブン銀行)を設立
  3. 2001年株式会社アイワイ・カード・サービスを設立
  4. 2005年3社共同株式移転により株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し、同社の完全子会社となる
  5. 2005年イトーヨーカ堂・セブン-イレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社が共同株式移転により持株会社を設立することを取締役会で決議し、株式移転契約書を締結
  6. 2005年3社の株主総会において株式移転による持株会社設立を承認
  7. 2005年東京証券取引所市場第一部およびユーロネクスト(パリ)の上場を廃止

イトーヨーカ堂の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

郊外へ動く商圏と、駅前に立ち続けた店

競合各社が業態を組み替えた契機は、1980年の出来事にあった。この年、世界のスーパーの手本だったシアーズ・ローバックの経営が傾き、以後10年ほど低迷した。消費者の好みが変わって専門店へ客が集まり、総合スーパーという形態では新しい需要を満たせなくなったためである。このシアーズショックに驚いた日本のスーパーは、一斉に新しい戦略の構築に乗り出した。マイカルは商品を格上げして店舗をニチイからサティ・ビブレへ変え、ジャスコは郊外型ショッピングセンターの開発を軸に据えて専門店を育て、西友も同じ方向へ動いた。 [38]

  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」鈴木孝之
    • [38]マイカルは商品をグレードアップしてサティ・ビブレへ、ジャスコは郊外型ショッピングセンター開発と専門店育成へ、西友もアップ・スケール戦略へ動いたのに対し、ヨーカ堂はマーチャンダイジングの改善を軸に据え続けた

1990年の日米構造協議を境に、出店の環境も変わった。大店法が緩和され、地価と建築コストが下がり、郊外型ショッピングセンターが全国に作られた。シアーズショックと構造協議という二つの変化をはさんでも、イトーヨーカ堂だけは仕入れ販売戦略の改善による利益率の向上に取り組み続け、駅前を重視する出店方針も変えなかった。1997年、メリルリンチ証券のアナリスト鈴木孝之氏はこれを「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」と題した論考で問うている。駅前近くでは十分な売り場面積が取れず、高コストになる。それでも出店にこだわる理由はあるのか、という問いだった。 [39][40]

  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」鈴木孝之
    • [39]「1990年の日米構造協議を境に、日本の小売業の環境はガラリと変わった。しかし、大手スーパーの中でイトーヨーカ堂だけは、構造協議前と後で経営の方向をほとんど変えていない」
    • [40]「大店法の緩和、地価・建築コストの下落により、郊外型ショッピングセンターが全国で作られている。(中略)にもかかわらず、ヨーカ堂は今も昔も駅前を重視して店舗を出している。駅前近くでは必ずしも十分な売り場面積を取れず、高コスト。それでも出店にこだわる理由はあるのだろうか」

株価の動きも、この批判を裏づけていた。ジャスコが専門店子会社を積極的に設立し、1996年に米国最大のスポーツ専門店チェーンであるスポーツ・オーソリティーと合弁会社を作って3店を開いていたのに対し、イトーヨーカ堂には専門店戦略と呼べる動きが見られない。ショッピングセンター内に専門店を置けば本体で集めた客が回遊し、テナント収入も増える。イトーヨーカ堂はショッピングセンターを持たなかった。株式市場ではヨーカ堂株からジャスコ株への資金移動が1996年から始まり、同じ日にジャスコが80円高でヨーカ堂が30円安という値動きが何度も起きた。日本の小売業を代表する2社の株価がこう動くのは異例である。ただし同じ論考は、商品力と店舗管理の仕組みではヨーカ堂が勝るとも書いている。批判の的は商いの巧拙ではなく、店の形にあった。 [41][42]

  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」鈴木孝之
    • [41]「株式市場ではヨーカ堂株からジャスコ株へのシフトが昨年から始まったようだ。(中略)去年は同じ日にジャスコ八〇円高、ヨーカ堂三〇円安という動きが何回もあった。日本の小売業を代表する二社の株価がこういう動きをすることは異例だ」
    • [42]「もちろん、ヨーカ堂とジャスコ本体を比べれば、商品力も店舗を効率的に管理する仕組み作りも、ヨーカ堂が勝る。マーチャンダイジング改善の努力は極めて高く評価したい。しかし、それだけで集客競争に勝てるのか」
  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」鈴木孝之
    • [38]マイカルは商品をグレードアップしてサティ・ビブレへ、ジャスコは郊外型ショッピングセンター開発と専門店育成へ、西友もアップ・スケール戦略へ動いたのに対し、ヨーカ堂はマーチャンダイジングの改善を軸に据え続けた
    • [39]「1990年の日米構造協議を境に、日本の小売業の環境はガラリと変わった。しかし、大手スーパーの中でイトーヨーカ堂だけは、構造協議前と後で経営の方向をほとんど変えていない」
    • [40]「大店法の緩和、地価・建築コストの下落により、郊外型ショッピングセンターが全国で作られている。(中略)にもかかわらず、ヨーカ堂は今も昔も駅前を重視して店舗を出している。駅前近くでは必ずしも十分な売り場面積を取れず、高コスト。それでも出店にこだわる理由はあるのだろうか」
    • [41]「株式市場ではヨーカ堂株からジャスコ株へのシフトが昨年から始まったようだ。(中略)去年は同じ日にジャスコ八〇円高、ヨーカ堂三〇円安という動きが何回もあった。日本の小売業を代表する二社の株価がこういう動きをすることは異例だ」
    • [42]「もちろん、ヨーカ堂とジャスコ本体を比べれば、商品力も店舗を効率的に管理する仕組み作りも、ヨーカ堂が勝る。マーチャンダイジング改善の努力は極めて高く評価したい。しかし、それだけで集客競争に勝てるのか」

親会社の利益が子会社の配当で立つ

1999年2月期、イトーヨーカ堂は3期連続の営業減益となった。10店の出店で人件費と店舗費が増え、167億円増えた経費が利益を食っている。粗利率は0.7ポイント上がって31.4%と大手小売業では最高水準にあり、スーパー業界では他の大手5社の経常利益を合計しても及ばない収益力を保っていた。それでもグループの内側で見ると、位置は違って見える。イトーヨーカ堂は子会社のセブン-イレブン・ジャパンに利益で圧倒的な差をつけられており、1998年度の経常増益もセブン-イレブンからの130億円の配当に依存する形だった。1999年3月、鈴木敏文社長は全部門に経費の3割削減を指令した。1999年度の予算がすでに動き出した後の指示で、現場は混乱した。 [43][44][45]

  • 週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」
    • [43]「小売業界の優等生、イトーヨーカ堂も99年2月期では三期連続での営業減益を喫した。一〇店もの出店によって、人件費と店舗費が増加したためだ。品切れや値下げのロスが減ったことで、大手小売業では最高水準の粗利率を、〇・七ポイント引き上げ三一・四%としたものの、一六七億円増えた経費に利益が食われた」
    • [44]「スーパー業界ではヨーカ堂は、ほかの大手五社の経常利益を足しても及ばない超高収益企業だ。だが、グループ内で見れば、ヨーカ堂は子会社のセブン‐イレブン・ジャパンに利益で圧倒的な差をつけられている。98年度決算の経常増益も、セブン‐イレブンからの一三〇億円の配当に依存した格好だ」
    • [45]「『全部門で、経費を三割減らせ』。鈴木敏文社長の緊急指令が飛び、イトーヨーカ堂に衝撃が走ったのは、3月初旬のことだった」

同じ記事は、この会社の弱さを経営者個人の資質ではなく組織の依存構造に求めている。「変化対応」を行動原理とするマネジメントは鈴木敏文社長のカリスマがあって成り立つもので、トップへの依存度が高すぎる。幹部はイエスマン化し、事なかれ主義に陥る。鈴木敏文社長自身も「人が育たない。俺が育てなかったと言われれば、一言もないが」と漏らしていた。創業家は別の位置にいた。伊藤家はヨーカ堂株の22%を握り、長男の伊藤裕久氏はある時期まで将来の社長と目されていたが、1999年時点では関係会社統括室長にとどまっていた。経営中枢では「ヨーカ堂はすでにオーナー経営の規模を超えた」という判断が固まりつつあった。指揮する者と株を持つ者が分かれ、どちらにも次の代が見えないまま、会社は2000年代に入った。 [46][47]

  • 週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」
    • [46]「『変化対応』を行動原理とするマネジメントは、鈴木社長のカリスマあってのもので、トップへの依存度が高すぎる」「『人が育たない。俺が育てなかったと言われれば、一言もないが』。最近、鈴木社長はそう漏らしている」
    • [47]「伊藤家はヨーカ堂株の二二%を掌握しており、『オーナー』としての存在感は大きい」/伊藤裕久専務の当時の肩書きは関係会社統括室長で、経営中枢では「ヨーカ堂はすでに、オーナー経営の規模を超えた。裕久氏は後継社長たりえない」との判断が固まりつつあった
  • 週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」
    • [43]「小売業界の優等生、イトーヨーカ堂も99年2月期では三期連続での営業減益を喫した。一〇店もの出店によって、人件費と店舗費が増加したためだ。品切れや値下げのロスが減ったことで、大手小売業では最高水準の粗利率を、〇・七ポイント引き上げ三一・四%としたものの、一六七億円増えた経費に利益が食われた」
    • [44]「スーパー業界ではヨーカ堂は、ほかの大手五社の経常利益を足しても及ばない超高収益企業だ。だが、グループ内で見れば、ヨーカ堂は子会社のセブン‐イレブン・ジャパンに利益で圧倒的な差をつけられている。98年度決算の経常増益も、セブン‐イレブンからの一三〇億円の配当に依存した格好だ」
    • [45]「『全部門で、経費を三割減らせ』。鈴木敏文社長の緊急指令が飛び、イトーヨーカ堂に衝撃が走ったのは、3月初旬のことだった」
    • [46]「『変化対応』を行動原理とするマネジメントは、鈴木社長のカリスマあってのもので、トップへの依存度が高すぎる」「『人が育たない。俺が育てなかったと言われれば、一言もないが』。最近、鈴木社長はそう漏らしている」
    • [47]「伊藤家はヨーカ堂株の二二%を掌握しており、『オーナー』としての存在感は大きい」/伊藤裕久専務の当時の肩書きは関係会社統括室長で、経営中枢では「ヨーカ堂はすでに、オーナー経営の規模を超えた。裕久氏は後継社長たりえない」との判断が固まりつつあった

三社共同株式移転による上場企業としての幕

2000年代に入っても、イトーヨーカ堂は本体の外側へ事業を広げ続けた。1997年9月に中国で華糖洋華堂商業有限公司を設立し、2001年4月には株式会社アイワイバンク銀行を、同年10月には株式会社アイワイ・カード・サービスを設立している。海外市場での上場は逆に整理へ向かい、2002年3月にルクセンブルグ証券取引所の上場を、2003年5月に米国ナスダックにおける預託証券の登録を廃止した。総合スーパーの本体が伸び悩む一方、金融とコンビニエンスストアが利益を稼いだ。子会社のほうが稼ぐ状態は続いたが、資本関係は親会社が子会社を抱えたままだった。 [48]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [48]1997年9月に中国に華糖洋華堂商業有限公司を設立、2001年4月に株式会社アイワイバンク銀行(現 株式会社セブン銀行)を、同年10月に株式会社アイワイ・カード・サービスを設立した。2002年3月にルクセンブルグ証券取引所の上場を、2003年5月に米国ナスダックにおけるADRの登録を廃止した

2005年4月、イトーヨーカ堂・セブン-イレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社は、共同株式移転により完全親会社となる持株会社を設立することを取締役会で決議し、株式移転契約書を締結した。5月に3社の株主総会が承認し、8月に東京証券取引所市場第一部とユーロネクスト(パリ)の上場を廃止した。9月1日、株式会社セブン&アイ・ホールディングスが設立され、イトーヨーカ堂はその完全子会社となった。1972年9月の上場から33年、1958年の会社設立から47年で、イトーヨーカ堂は上場企業としての歴史を終えた。 [49]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [49]2005年4月に3社が共同株式移転による持株会社設立を取締役会で決議して株式移転契約書を締結、5月に3社の株主総会が承認、8月に東証第一部およびユーロネクスト(パリ)の上場を廃止、9月に株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立した

持株会社の設立から半年後の2006年3月1日、旧株式会社イトーヨーカ堂は商号を株式会社イトーヨーカ堂SHCに変更したうえでスーパーストア事業を新会社へ承継させる会社分割を行い、同日付でセブン&アイ・ホールディングスに吸収合併されて解散・消滅した。法人としての旧イトーヨーカ堂はここで途切れる。消えたのは上場と、独立した親会社としての立場だった。残ったのは、店の大きさを商圏に比例させ、地価の安い土地に大きな店を建て、含みに頼らず現金で払うという商いの型と、その型を検証し続けるために作られた業革の会議である。どちらも創業者が去った後の組織に引き継がれた。 [50]

  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第2期)【沿革】
    • [50]2006年3月1日、旧株式会社イトーヨーカ堂は商号を株式会社イトーヨーカ堂SHC(分割会社)に変更のうえスーパーストア事業を承継させる会社分割を行い、同日付で親会社である株式会社セブン&アイ・ホールディングスに吸収合併され、解散・消滅した
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第48期)【沿革】
    • [48]1997年9月に中国に華糖洋華堂商業有限公司を設立、2001年4月に株式会社アイワイバンク銀行(現 株式会社セブン銀行)を、同年10月に株式会社アイワイ・カード・サービスを設立した。2002年3月にルクセンブルグ証券取引所の上場を、2003年5月に米国ナスダックにおけるADRの登録を廃止した
    • [49]2005年4月に3社が共同株式移転による持株会社設立を取締役会で決議して株式移転契約書を締結、5月に3社の株主総会が承認、8月に東証第一部およびユーロネクスト(パリ)の上場を廃止、9月に株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立した
  • 有価証券報告書(株式会社イトーヨーカ堂・第2期)【沿革】
    • [50]2006年3月1日、旧株式会社イトーヨーカ堂は商号を株式会社イトーヨーカ堂SHC(分割会社)に変更のうえスーパーストア事業を承継させる会社分割を行い、同日付で親会社である株式会社セブン&アイ・ホールディングスに吸収合併され、解散・消滅した

イトーヨーカ堂の沿革1948〜2005年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
伊藤譲を代表者として法人組織の合資会社羊華堂を設立★★
伊藤譲の死去にともない伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承★★★
大量販売方式を実行するため株式会社ヨーカ堂を設立し、東京都足立区千住の店舗を増改築して営業を開始★★★
本店を東京都台東区入谷に移転
株式会社ヨーカ堂の社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に変更★★
本店を東京都港区麻布十番に移転
川越倉庫株式会社が株式会社イトーヨーカ堂に社名を変更
株式の額面変更のため、川越倉庫を前身とする株式会社イトーヨーカ堂に吸収合併され、実質上の存続会社として営業を継続★★
新マーク採用にあたり、ロゴタイプをイトーヨーカ堂からイトーヨーカドーに変更
東京証券取引所市場第二部に株式を上場★★★
株式会社ヨークフードサービス(後の株式会社ファミール)を設立
本店を東京都千代田区三番町に移転
株式会社ヨークベニマルと業務提携★★
米国レストランチェーンのデニーズ社と提携し、外食事業に参入★★
東京証券取引所市場第一部に指定替え
米国のコンビニエンスストア大手 THE SOUTHLAND CORPORATION(現 7-Eleven, Inc.)と提携し、株式会社ヨークセブン(現 株式会社セブン-イレブン・ジャパン)を設立★★★
デニーズ社との提携にもとづき株式会社デニーズジャパンを設立★★
食品スーパーマーケットの株式会社ヨークマートを設立
コンチネンタル預託証券(CDR)発行に伴いルクセンブルグ証券取引所に上場
米国ナスダック(NASDAQ)へ登録
本店を東京都港区芝公園に移転
パリ証券取引所(現 ユーロネクスト(パリ))に上場
1983年2月期の上場以来初の経常減益を受けて業務改革(業革)に着手し、セブン-イレブンで確立した単品管理と仮説検証の手法を総合スーパー本体へ導入★★★
POSレジスターを全店に導入★★
米国ナスダック市場ナショナルマーケットシステムへ指定替え
株式会社セブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得★★★
地価上昇を前提とする不動産投資と時価発行増資を見送り、手元現金を積み増す財務方針を継続(アンチ“含み”経営)★★★
総会屋への利益供与事件の責任をとり伊藤雅俊が社長を辞任、鈴木敏文が社長に就任★★★
中国に華糖洋華堂商業有限公司を設立★★
株式会社アイワイバンク銀行(現 株式会社セブン銀行)を設立★★
株式会社アイワイ・カード・サービスを設立
ルクセンブルグ証券取引所の上場を廃止
米国ナスダックにおけるイトーヨーカ堂の米国預託証券(ADR)の登録を廃止
本店を東京都千代田区二番町に移転
イトーヨーカ堂・セブン-イレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社が共同株式移転により持株会社を設立することを取締役会で決議し、株式移転契約書を締結★★
3社の株主総会において株式移転による持株会社設立を承認★★
東京証券取引所市場第一部およびユーロネクスト(パリ)の上場を廃止★★
3社共同株式移転により株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し、同社の完全子会社となる★★★
出典・参考

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