丸井の創業者である青井忠治(当時27歳)は、勤務先の月賦販売商・丸二商会の東京・中野店を買い取る形で独立を果たす。当時の月賦業界では家具類の販売が中心であり、青井忠治は「東京一の家具店」に発展させることを目指す。なお、月賦業界は儲かる商売として知られ、当時の大卒の初任給が60円だったのに対し、青井忠治は11,000円の貯金が創業時点であったという(現在換算3600万円)。

丸井の創業者である青井忠治(当時27歳)は、勤務先の月賦販売商・丸二商会の東京・中野店を買い取る形で独立を果たす。当時の月賦業界では家具類の販売が中心であり、青井忠治は「東京一の家具店」に発展させることを目指す。なお、月賦業界は儲かる商売として知られ、当時の大卒の初任給が60円だったのに対し、青井忠治は11,000円の貯金が創業時点であったという(現在換算3600万円)。
青井忠治は商号を暖簾分けされた「丸二」から「丸井」に変更。背景には、急成長を遂げる富山県出身の青井忠治に対して、愛媛県出身の丸二の経営者が快く思わず、商号を変換することを求めたためであった。
丸井は東京中野が創業の地である関係上、中野と同じく中央線沿線の阿佐ヶ谷に視点を開業した。以後、丸井は中央線沿線に店舗網を充実させ、社員は愛媛県出身者はなく、青井忠治郎の故郷である富山県出身者によって固められた。
第二次世界大戦中に丸井の中野本店は休業していたが、終戦直後に中国人の王氏によってある日突然不法占拠され、中華料理屋兼結婚式場に様変わりした。これに対して、丸井の創業者・青井忠治は返還交渉を開始。終戦直後は中国人に対して日本人の立場は弱く、交渉は命がけであったが、青井忠治は粘り強く交渉を継続する。
交渉を経て青井忠治は中国人に対する立ち退き要求に成功した。だが、不法占拠した中国人は現在換算1億円を要求したため、青井忠治は自らの自宅(杉並区和田本町)を売却して、中野店を取り戻した。
丸井の創業者・青井忠治は渡米し、現地でコンピューターを活用したクレジットカードが普及している事実に驚愕。以後、青井忠治は丸井におけるクレジットカードの導入を模索する。
丸井の主力事業は月賦販売であったため、欧米で普及しつつあったクレジットカードに着目して日本初のクレジットカードを導入した。発行初年度に5万枚のカードを発行し、うち30%が丸井の店舗に来店してカードを作成した。
丸井は小規模の月賦専門店を統廃合し、新宿などの都心部に大型店を出店することで「百貨店」に業態を近づける方針を決断して「月賦業界の三越」を目指す。1966年から1971年にかけて丸井は10店舗を閉鎖し、代わりに大型店の出店を最重要課題に据えることで、スクラップアンドビルドを急いだ。
丸井は店舗大型化を本格化させるために新宿進出を決断。当時、丸井の資本金が3.6億円出会ったのに対して、4億円を投資して新宿店(のちの新宿店ヤング館)を開業した。それまで丸井の最大の店舗だった吉祥寺店の2倍の店舗面積であり、丸井の旗艦店となる。社運をかけた投資について、青井忠治は「今後の当社の命運を決するものでありまして、誠に責任の重大さを痛感しています」と述べている。
システム投資を重視し、月賦業界で先駆けてコンピューターを導入。集金業務の効率化を図る。
1960年代まで月賦百貨店No.1の売上高を誇ったのは緑屋(東京)であったが、都心部を中心に大型店を出店した丸井が徐々に追い上げ、1970年には緑屋の売り上げを凌駕。月賦百貨店では丸井がNo.1の地位を確保する。
青井忠雄(当時39歳)で丸井の社長に就任。なお、創業者の青井忠治は社長を退任し、1975年に71歳で逝去している。
丸井は新宿での店舗をさらに充実するために、1973年に伊勢丹新宿本店の真向かいに存在した日活帝都座跡地を47億円で買収する。土地の買収交渉にあたっては、青井忠治が戸田建設(キーマン)に対して毎日電話をかけるなど、土地取得に対して尋常ではないほどの熱意をかけていた。
丸井はクレジットカードの発行スピードを向上させるためにオンライン信用照会システムを稼働。クレジットカードの発行コストの低下を目論む。なお、店舗向けにIBM3650、コンピューターセンタにIBM370を導入し、顧客の収入やの支払い状況を即時に把握できた。
丸井はクレジットカードの収益を増大させるために、クレジットカードの店舗即時発行を開始。主に若者をターゲットにクレジットカードを発行することで、金融収入を確保する。
クレジットカードによる収益源を多様化するために、貸金業(キャッシング)に新規参入。若者向けのキャッシングを拡大し、1987年に貸付残高800億円を突破。小額の貸し付けが中心であり、貸倒率は低かったと言われている
1987年に丸井は26年連続増収増益を達成。新宿や池袋など、東京都心部に出店することによって若者顧客を獲得し、DCブランド(イッセイミヤケなど、デザイナーズ・ブランド)の充実によって高収益を確保する。
1993年1月期に丸井は前年の売上高6014億円に対して、売上高5760億円の減収決算を計上。バブル崩壊によって若者による高級品に対する消費が低迷し、小売業界では無印良品やユニクロといった「安くて品質の良いもの」を扱う業態が支持される時代が到来し、丸井の順調な急成長は幕を閉じた。
北千住マルイは、丸井で最大の店舗となった。2020年3月期の北千住店の売上高は389億円で、丸井の店舗でNo.1を誇る
従来のハウスカードではなく、VISA提携カードとして他の加盟店で利用可能なクレジットカードの発行を開始。店舗での即時発行を可能にするために、VISAと提携して実現
2006年12月に改正貸金業法が施行され、利息がグレーゾーン金利から14.6%へと引き下げられた。この結果、丸井はキャッシング事業において莫大な利息返還に応じる必要が生じ、引当金の状況によっては財務危機に陥る可能性もあった。改正貸金業法の施行を受けて、丸井はキャッシング事業(営業貸付金)を縮小する道を選択した
ほぼ全社員を子会社に出向させて組織改革を目論むが、結果は「惨憺たる結果」(2019/2/21nikkei style「青井浩社長」)に終わり、従業員と会社の信頼関係が低下した
草加マルイ&アウトレット(東武線草加駅前)において約55億円、マルイ水戸店(2018年9月閉鎖)で約26億円の減損損失を計上
貸金業法が改正されたことを受け、クレジットカードを通じてキャッシングを行なっていた丸井に大きな打撃となった。2007年時点で丸井はキャッシング残高2500億円であり、貸出金利が1%低下するだけで年間利益が25億円失われることが想定され、キャッシングを収益源とした丸井にとって大打撃となった。2011年に丸井は470億円の特別損失(うち利息返還損失引当金繰入額249億円・)を計上
FY2011におけるエポスカードの新規会員数が70万名を突破。累計会員数は454万となり、旧カード(ハウスカード)からの転換がほぼ完了。発行カードの新規会員数が70万名を突破するのは、1975年度以来の36年ぶり。脱ハウスカードに目処を立てた
BASEの第三者割当増資の引受先として出資を実行
2010年代を通じて丸井は青井浩社長のトップダウンによって経営再建に着手。小売業では仕入れ販売から賃貸型への転換、金融業では家賃保証などの手広いサービスを展開することによって収益を確保