1932年〜 政治家一族の薬局から駅前ドラッグストアの原型へ
マツキヨココカラ&カンパニーの業績推移:単体
- 1932年 松本清が松戸市小金に薬種商「松本薬舗」を個人創業
- 1954年 個人経営から法人組織へ改組
- 1987年 都市型ドラッグストアの先駆け・上野アメ横店をオープン
創業者・松本清氏と政治家一族の薬局
1932年、松本清氏は千葉県松戸市小金で薬種商「松本薬舗」を個人創業した。[1]小学校卒業後に独学で薬種商の免許を取った松本清氏は[2]、人通りはあるのに薬局のない通りを選び、店にない品は他店へ買いに走ってでも注文に応え、数少ない在庫の空箱まで棚に並べて品揃えの豊富さを演出した。社名は誰でも読めるよう創業者名のカタカナとし、「日本に一つしかない名前を」[3]との考えから「マツモトキヨシ」と名付けた。屋号は1951年に「マツモトキヨシ」へ統一され、1954年に法人化した[4]。
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/有価証券報告書
- [1]1932年(昭和7年)松本清が松戸市小金で薬種商「松本薬舗」を個人創業
- 長銀総研L 15(1)(168)(長銀総合研究所, 1998年1月)
- [2]松本清は小学校卒業後に独学で薬種商の免許を取得した
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)/マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [3]社名は「日本に一つしかない名前」を狙いカタカナで「マツモトキヨシ」とした
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [4]1954年に個人経営から法人組織へ改組した
松本清氏は薬種商の実業家であると同時に地方政治家でもあった。町議・千葉県議会議員を経て、1969年に松戸市長へ就いた[5]。市長就任にあたっては市職員に「私は株式会社松戸市の社長で、君たち職員は社員、市民はお客さまだ。市役所というのは、市民に役立つ人のいる所という意味だ」と説き、住民の求めに即応する「すぐやる課」を同年に新設した。[6]市長就任後の松本家は政治を本業とし、薬局は親族が担う家業に置かれ、創業から40年近く、会社としての薬局の位置づけははっきりしなかった。
- 有価証券報告書/長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [5]松本清は千葉県議会議員などを経て1969年に松戸市長へ就任
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [6]市長就任時に「私は株式会社松戸市の社長で…」と市職員に説き、同年(昭和44年=1969年)「すぐやる課」を新設
松本清氏は「良い品をより安く」「親切なお店」を掲げ、「品切れを絶対起こすな」を商いの信条とした。「先着五〇名様」のような売り出しを嫌い、来店客全員に応じるため、売場面積よりストック場の広い店も多かった。安さについて松本清氏は「貧しい人は貧しいから安いものが好きである。金持ちはけちだから安いものが好きである。だから金持ちになったのである」と語ったと、長男の松本和那氏は振り返る。[7]1970年代の松戸では食品スーパー、コンビニ[8]、モスバーガーのフランチャイズなど多角的な小売も手がけ、薬局は事業群の一つにすぎなかった。
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [7]松本清の安さの哲学「貧しい人は…だから金持ちになったのである」
- マツモトキヨシの歴史/国行清(2017)
- [8]1970年代の松戸で食品スーパー・コンビニ・モスバーガーFCなど多角的小売を手がけた
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/有価証券報告書
- [1]1932年(昭和7年)松本清が松戸市小金で薬種商「松本薬舗」を個人創業
- 長銀総研L 15(1)(168)(長銀総合研究所, 1998年1月)
- [2]松本清は小学校卒業後に独学で薬種商の免許を取得した
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)/マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [3]社名は「日本に一つしかない名前」を狙いカタカナで「マツモトキヨシ」とした
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [4]1954年に個人経営から法人組織へ改組した
- 有価証券報告書/長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [5]松本清は千葉県議会議員などを経て1969年に松戸市長へ就任
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [6]市長就任時に「私は株式会社松戸市の社長で…」と市職員に説き、同年(昭和44年=1969年)「すぐやる課」を新設
- [7]松本清の安さの哲学「貧しい人は…だから金持ちになったのである」
- マツモトキヨシの歴史/国行清(2017)
- [8]1970年代の松戸で食品スーパー・コンビニ・モスバーガーFCなど多角的小売を手がけた
国行清氏の現場経営と松戸ドミナント
1975年、松本清氏の長男・松本和那氏が2代目社長[9]を継いだ。松本和那氏は千葉県議[10]、のちに国会議員として政治にも身を置き、薬局事業の現場運営は外様の専門経営者・国行清氏が副社長として担った。国行氏は陸軍士官学校に在学中に終戦を迎え、化粧品・雑貨販売など各種の職を経てマツモトキヨシに採用された実務家で[11]、政治色の薄い現場の指揮官として薬局事業の拡大を牽引した。
- 有価証券報告書(役員の状況)
- [9]1975年に松本清の長男・松本和那が2代目社長を継いだ
- 政界 23(7)(政界出版社, 2001年7月)
- [10]松本和那は千葉県議、のちに衆議院議員を務めた
- マツモトキヨシの歴史/国行清(2017)
- [11]国行清は陸軍士官学校在学中に終戦を迎え、各種職を経てマツモトキヨシに採用された
松本和那氏は大学を出た年に松本清氏とアメリカの流通経営セミナーに参加し、当時の日本にほとんど浸透していなかったチェーンストア理論を学んだ。「いろんな情報はグローバルに集めろ、しかし実際の商売は地域に密着したローカルでやれ」という教えを「グローカル」と称し[12]、千葉県松戸への一点集中出店を進めた。松戸が東京のベッドタウンとして発展する歩みと出店のペースがかみ合い、チラシの配布が一度で済み、人と商品のやりくりも容易になるという一点集中の利点を引き出した。
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [12]松本和那は渡米セミナーでチェーンストア理論を学び「グローカル」を実践した
1980年代を通じて千葉県内に集中出店して配送効率を高め、県内有力のドラッグストアへと育てた。1988年4月時点の店舗網は松戸37店・柏25店・我孫子[13]7店・都内27店を軸に、神奈川・埼玉・茨城などへも広がって計174店に達し、松戸を本拠とする関東のドミナントを築いた。国行氏は「薬局は立地条件の良し悪しに売り上げが比例する」とし、「スーパーは商品の豊富さで売り上げが決まる。あそこへ行けば何でもそろうという評判を広めたい」と、業態ごとに成功の条件を見分けて店舗網を組み立てた。[14]
- 千葉の中堅130社(日本経済新聞社, 1988年4月)
- [13]1988年4月時点の店舗網は松戸37・柏25・我孫子7・都内27など計174店
- [14]国行清の業態観「薬局は立地…」「スーパーは商品の豊富さで…」
- 有価証券報告書(役員の状況)
- [9]1975年に松本清の長男・松本和那が2代目社長を継いだ
- 政界 23(7)(政界出版社, 2001年7月)
- [10]松本和那は千葉県議、のちに衆議院議員を務めた
- マツモトキヨシの歴史/国行清(2017)
- [11]国行清は陸軍士官学校在学中に終戦を迎え、各種職を経てマツモトキヨシに採用された
- 長銀総研L 15(1)(168)(1998年1月)
- [12]松本和那は渡米セミナーでチェーンストア理論を学び「グローカル」を実践した
- 千葉の中堅130社(日本経済新聞社, 1988年4月)
- [13]1988年4月時点の店舗網は松戸37・柏25・我孫子7・都内27など計174店
- [14]国行清の業態観「薬局は立地…」「スーパーは商品の豊富さで…」
上野アメ横店と薬粧専門への胎動
1987年7月、マツモトキヨシは上野アメ横へ進出[15]した。店舗開発担当者が見つけた物件で、ビルの賃貸料は約4億円と重かったが、上野[16]は創業者・松本清氏の代から縁の深い常磐線の始発駅でもあった。米国のドラッグストアに学び、照明が暗く入りにくい当時の薬局像を、明るい照明・開放的な間口・豊富な品揃え・化粧品のテスター[17]設置で塗り替え、楽しく買い物ができる店をつくった。
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/有価証券報告書
- [15]1987年7月にマツモトキヨシは上野アメ横へ進出した
- 実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
- [16]上野アメ横店のビル賃貸料は約4億円
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [17]米国DSに学び明るい照明・化粧品テスターなどで店づくりを刷新
アメ横の客層はそれまでの千葉県内の主婦層と異なって若い女性が多く、松本和那社長は店づくりを一変させた。当時ブームだった「朝シャン」に合わせてヘアケア商品を厚く揃え、入りやすいよう入口のドアを撤去した。化粧品も、チェーン店契約に基づく有名メーカーの定価販売[18]をやめ、価格を自由に設定できる一般化粧品へ重点を移して若い女性の需要に応えた。上野アメ横店はこの一店だけで月商2億円[19]を売り上げた。
- 実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
- [18]化粧品をチェーン店契約の定価販売から価格自由の一般化粧品へ重点を移した
- [19]上野アメ横店は1店だけで月商2億円を売り上げた
上野店の成功は、医薬品中心の薬局から「都心駅前×化粧品×若年女性」へ向かう転機だった。同社はこの手応えをもとに、1990年8月に日本証券業協会へ店頭登録して株式を公開し[20]、調達資金を池袋・渋谷・新宿など都心の一等地への出店に振り向けた。折しも1991年には日米貿易摩擦を背景に医薬品・化粧品の再販価格維持制度の廃止が議論にのぼり[21]、価格自由化を見据えて薬粧専門へ資源を集めるマツモトキヨシの針路が定まった。
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
- [20]1990年8月に日本証券業協会へ店頭登録し株式を公開
- 日本経済新聞 1991年7月
- [21]1991年に医薬品・化粧品の再販価格維持制度の廃止が議論された
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/有価証券報告書
- [15]1987年7月にマツモトキヨシは上野アメ横へ進出した
- 実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
- [16]上野アメ横店のビル賃貸料は約4億円
- [18]化粧品をチェーン店契約の定価販売から価格自由の一般化粧品へ重点を移した
- [19]上野アメ横店は1店だけで月商2億円を売り上げた
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)
- [17]米国DSに学び明るい照明・化粧品テスターなどで店づくりを刷新
- マツモトキヨシ公式サイト(沿革)/実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
- [20]1990年8月に日本証券業協会へ店頭登録し株式を公開
- 日本経済新聞 1991年7月
- [21]1991年に医薬品・化粧品の再販価格維持制度の廃止が議論された