複合小売から薬粧専門・都心駅前チェーンへの転換とマツキヨのブランド化

1996年実施

松戸の複合小売はなぜ薬局一本に絞り、都心の駅前と化粧品とテレビCMに賭けたのか

時期 1996
意思決定者 国行清(副社長)・松本和那(社長)
論点 業態転換と都心出店戦略
概要
1996年、マツモトキヨシが食品スーパーやコンビニも抱える複合小売から、医薬品と化粧品を売る薬粧専門店へ集中投資を切り替えた業態転換。都心駅前の一等地に化粧品を前面に出した大型店を並べ、年10億円規模のテレビCMで社名を広めた。国行清副社長と松本和那社長が主導した。
背景
千葉・松戸を本拠に1988年で計174店のドミナントを築いたマツモトキヨシは、薬局のほかスーパーやコンビニも営む複合小売だった。1987年の上野アメ横店で若い女性と化粧品の手応えを得て都心へ向かい、1991年に始まった医薬品・化粧品の再販価格維持制度の廃止議論が、安売りの薬粧チェーンの追い風になった。
内容
1996年、国行清副社長がスーパーやホームセンターではなく薬粧専門店への集中投資を宣言した。渋谷・六本木など都心の一等地に化粧品を厚く並べた大型店を開き、年10億円規模のテレビCMで「マツモトキヨシ」の名を消費者に刷り込んだ。化粧品は定価販売の有名メーカー品から価格自由の一般化粧品へ移した。
含意
1996〜1998年に年70店・ほぼ5日に1店の速さで出店し、5期連続の増収増益を重ねて「マツキヨ神話」と呼ばれた。都心駅前×化粧品×テレビCMの型は業界の手本になり、のちに他社の模倣で差別化を失う一方、現在に続くマツキヨのブランドを形づくった。
筆者の見解

場所と品ぞろえと名前を組み替えた決断

この判断の核心は、複合小売を薬粧専門へ絞り込み、店を売る場所を松戸から都心の駅前へ移したところにある。上野アメ横店の当たりは偶然に近かったが、そこで見えた「若い女性は化粧品を安く買う」という手応えを、国行清副社長と松本和那社長は会社の将来へつなげた。多角化を捨てて一事業に賭ける決断は、当たれば大きいが外せば戻りにくい。再販価格維持制度の廃止という追い風を読み、価格の自由な一般化粧品と都心の集客を組み合わせた点に、この時期のマツモトキヨシの選択があった。

テレビCMで社名そのものを商品の手前に置いた発想も、この転換と地続きだった。棚に並ぶメーカー品はどの店も似ている。ならば「マツキヨ」という呼び名で選ばれる店をつくる、広告はその一手だった。もっとも、都心駅前と化粧品とCMを束ねた型は、分かりやすいがゆえに他社の模倣も招いた。2001年ごろには競争の激化で成長に陰りが差し、次の一手をどこに求めるかが課題になる。それでも、薬局を薬粧専門の駅前チェーンへ組み替え、社名をブランドに育てたこの選択が、現在のマツキヨの姿を形づくった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

複合小売のなかの薬局と松戸ドミナント

マツモトキヨシは千葉県松戸を本拠に、薬局のほか食品スーパー、コンビニ、モスバーガーのフランチャイズまで手がける複合小売だった。薬局事業の現場を切り回したのは、創業家ではなく外様の国行清副社長である。国行氏は「薬局は立地条件の良し悪しに売り上げが比例する」という見方で千葉県内へ集中して店を出し、配送や広告の効率を高めながら店舗網を広げた。1988年4月には松戸37店・柏25店・都内27店を軸に計174店の関東ドミナントを築いている。それでも1980年代の同社は、薬局を事業群の一つとする複合小売にとどまっていた[1]

上野アメ横店の手応えと価格自由化の予兆

1987年、店舗開発担当者がたまたま見つけた上野アメ横の物件に、マツモトキヨシは初めて都心へ店を出した。ビルの賃貸料は約4億円と重く、松本和那社長も元さえ取れればいいという軽い気持ちだったという。ところがこの一店が当たる。千葉の主婦客と違ってアメ横には若い女性が多く、和那社長は品ぞろえを化粧品とヘアケアへ寄せ、入りやすいよう入口のドアを外した。化粧品も、有名メーカー品の定価販売をやめ、価格を自由に決められる一般化粧品へ移した。上野店はこの一店だけで月商2億円を売り上げた[2][3]

折しも価格の枠組みが動き始めた。1991年、日米構造協議を背景に、政府は独占禁止法の適用除外制度を見直し、医薬品・化粧品の再販価格維持制度の廃止を検討し始めた。1993年には一般医薬品と化粧品の指定品目を1998年までに全廃する方針が固まる。定価販売に縛られてきた街の薬局に対し、安く売る薬粧チェーンには追い風だった。国行氏は140店を超える店舗数のスケールメリットを頼みに、価格競争にも耐えられると見ていた[4]

決断

多角化を捨てた薬粧専門への集中投資

1996年、国行清副社長は本業への集中を明言した。「今後はドラッグストアの出店数を年間30店、場合によっては40店まで増やしていく」「毎年100億円ずつ増やし、2000年3月期には千億円を突破させる」。スーパーやホームセンターといった多角化部門ではなく、医薬品と化粧品を売る薬粧専門店へ投資を集めるという宣言だった。松戸で複合小売を束ねてきた会社が、薬局という一事業に将来を賭ける選択である[5]

化粧品中心の都心大型店とテレビCM

都心の店づくりは、松戸の薬局とは別物だった。松本和那社長は、街ごとに売り方を変える発想を持っていた。渋谷では「薬中心ではなく、化粧品中心にファンシーグッズを多く集める」と述べ、口コミの伝わる若い女性を狙った。1995年の渋谷店に続き、1996年7月には東京・六本木の一等地を買い、渋谷店を上回る売場に化粧品を厚く並べた大型店を開いた。都心の一等地に化粧品を前面に出す、薬局の常識から外れた店が、次々と姿を現した[6][7]

あわせて、テレビCMにも資金を振り向けた。1996年から年間10億円規模をCMに充て、創業者の名がそのまま社名になった珍しさを前面に出した。松本和那社長は、その狙いを「消費者がドラッグストアといえばマツモトキヨシだと連想するように社名を前面に出した[9]」と語る。商品はどの店も似たメーカー品でも、社名の想起で選ばれる店をつくる。広告は、そのためのブランドづくりだった[8]

結果

快進撃と「マツキヨ神話」、都心方程式の確立

型が定まると、出店の速度が上がった。1996年から1998年にかけて年70店、ほぼ5日に1店の速さで店を増やし、1999年3月期まで5期連続の増収増益を見込んだ。日経流通新聞は「マツモトキヨシの快進撃が続いている」と伝え、業界では「マツキヨ神話」という言葉が交わされた。松本和那社長は2000年度末に500店・売上2000億円という数字を掲げ、関東でのシェア拡大を出店の目標に据えていた[10]

都心型店の成功は、業界の手本になった。1990年代の末、新宿・渋谷・池袋・銀座といった繁華街の真ん中にこれだけ店を構えるドラッグストアはほかに見当たらず、若者が集まる店になった。日用品や雑貨、化粧品を厚くして薬を目当てにしない客まで取り込む売り方も広まり、マツモトキヨシは他店にない自社商品を増やして差別化を図る方向へ進んだ。都心駅前に化粧品を前面に出し、社名をCMで刷り込む、この型を、のちにほかのチェーンも倣った[11]

出典・参考
  • 千葉の中堅130社(日本経済新聞社, 1988年4月)
  • 実業往来 (543)(実業往来社, 1997年9月)
  • 日本経済新聞 1991年7月
  • 日経流通新聞 1996年8月22日
  • 長銀総研L 15(1)(168)(長銀総合研究所, 1998年1月)
  • 日経ビジネス(2000年1月3日号)「マツモトキヨシ(ドラッグストアチェーン)ユニークなCM攻勢で都心に積極出店」
  • 日経流通新聞 1998年12月8日
  • マツモトキヨシの歴史/国行清(2017)