イトーヨーカ堂の商いは、大正期から東京の下町で続いた洋品店にさかのぼる。法人としての形が整うのは戦後で、1948年8月、伊藤譲を代表者とする合資会社羊華堂が設立された。伊藤譲の弟にあたる伊藤雅俊氏は、この店で商人としての作法を母から教わったと後年に語っている。最初に教わったのは、母が客の前で見せた表情の切り替えである。夫婦げんかで涙を流していても、客が入ってくると笑顔に変わる。泣き顔を見せれば『あの店は暗い』と言われ、次から客は来ない。伊藤雅俊氏はこれを『商売とはそういうもの』[引用元]と受け取った。 [1][2]
母から受け取ったもうひとつの教えを、伊藤雅俊氏は『ないない尽くしのプレゼント』[引用元]と呼んだ。客は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という内容である。これは処世訓ではなく、当時のスーパーが置かれた状況をそのまま言い表していた。1950年代半ばから1970年代半ばごろまで、スーパーには卸してもらえない商品が数多くあった。宅配が当たり前だった牛乳がそうで、化粧品もそうで、ブランド品は問題にもならなかった。担保がないから銀行も貸さない。ようやく借りられるようになり、不況の時期も返済を続けていたところ、銀行の担当者から『伊藤さんのところはちゃんと返済していただいて助かります』[引用元]と言われた。借りた金を返さない会社があることを、伊藤雅俊氏はそのとき初めて知ったという。 [3][4]
1956年7月、伊藤譲の死去により伊藤雅俊氏が合資会社羊華堂の経営を継いだ。その2年後の1958年4月、大量販売方式を実行するために株式会社ヨーカ堂が設立され、東京都足立区千住の建物を増改築して営業が始まった。有価証券報告書はこの設立の目的を『大量販売方式を実行するため』と一行で書いている。洋品店の看板をそのまま大きくしたのではなく、売り方を変えるために別の法人を用意した。同じころ、日本のスーパーは相次いで名乗りを上げていた。ダイエーが1957年、イトーヨーカ堂が1958年、西友ストアーが1963年である。 [5][6]
チェーンストアとしての展開が始まったのは1960年である。当時の売上高は10億円にすぎず、店舗はまだ1店もなかった。それでも伊藤雅俊社長は、1度のアメリカ視察だけを手に銀行の重役を集めてチェーンストアの構想を説き、融資を取り付けた。後にこれを『盲蛇に怖じず』[引用元]と評している。1960年に開いた500坪の店舗は、当時としては関東周辺で最も大きな店だった。売上高は1966年に100億円、1971年に500億円へ伸びた。この間の1962年に本店を台東区入谷へ移し、1965年6月には社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に改めた。 [7][8][9]
店舗の規模は、1960年の500坪から1966年に1,000坪、1972年には3,000坪へと大きくなった。ただし規模の拡大それ自体を方針とはしなかった。『店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない』[引用元]というのが伊藤雅俊社長の言葉である。狙う客層も具体的に定めていた。首都圏を取り巻く商圏には、勤めの経験を持つ女性が作る世帯、つまり31歳前後のヤングファミリーの市場がある。この年齢層は男女とも購買力が旺盛で、同時に商品への不満を抱く年齢でもある。『不満のあるところマーケットあり』[引用元]というのが伊藤雅俊社長の持論だった。狙いを不満の所在に置いたことで、出店の判断は人口の多寡だけでは決まらなくなった。 [10][11]
出店地の選び方は、より直接に採算と結びついていた。衣料品の専門店を出すには、当時の相場で坪当り200万円以上の売上がなければ経営が成り立たない。イトーヨーカ堂の店舗の多くは、坪当り20万円から30万円の土地にあった。伊藤雅俊社長はこれを『当社独特の低地価政策』と呼んでいる。地価の高い立地で高い売上を取るのではなく、地価の安い立地に大きな店を建てて採算を作る。あわせて、モータリゼーションが進めば郊外の広い土地に店が必要になるとも読んでいた。食料品の取扱いを始めたのは1967年で、衣料品だけの店から総合スーパーへ移る変化も同じ時期に起きている。 [12][13]
1972年9月、イトーヨーカ堂は東京証券取引所市場第二部に上場した。公開価格は880円である。上場に際して伊藤雅俊社長は幹事証券会社の担当者に『あまり高い株価をつけてくれるな』[引用元]と頼み、『上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて』[引用元]とあきれられている。使い道のない資金を持っていても仕方がない、という理由だった。資本市場から調達した資金も無償ではなく、税金と配当を考えればそれ以上の利益を上げ続けなければならない。銀行から借りたほうが安くつくこともある、とも説明している。上場前に13%だった自己資本比率は上場後に20%となり、1976年には約35%へ上がった。 [14][15]
同じ時期、伊藤雅俊社長は自社の経営を『量より質の経営』と表現していた。その具体例として挙げたのが支払条件である。チェーンストアは一般に60日から90日の手形で決済していたが、イトーヨーカ堂はすべて現金決済にしていた。手形で仕入れれば自社の運転資金は軽くなるが、負担は取引先の資金繰りへ移る。現金決済は、その負担を自社に残す。経営の物差しも数値で定めていた。1株当り税引利益60円、利益成長率20%、自己資本利益率は税引きで15%、総資本利益率5%の4つで、増資を行うのは1株当り利益60円以上を維持できる場合に限るという方針を通した。 [16][17]
1972年2月期の売上高は約498億円だった。スーパーチェーン業界のなかでの位置を、伊藤雅俊社長は売上高で5位前後、利益ではダイエー・丸井に次ぐ3位と説明している。もっとも、この順位は関連会社やフランチャイザー会社を含む場合があり正確とはいえないと自ら断っている。母集団を小売業全体に広げれば位置は変わる。日経流通新聞の小売業調査によれば、ダイエーが三越を抜いて小売業の首位に立った1972年度、イトーヨーカ堂の売上高は826億円で15位だった。首位のダイエーは3,052億円で、3.7倍の開きがある。 [18]
1973年、イトーヨーカ堂は3件の提携を相次いで決めた。3月に株式会社ヨークベニマルと業務提携し、5月に米国のレストランチェーンであるデニーズ社と提携して外食に参入している。7月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、11月には米国のコンビニエンスストア最大手 THE SOUTHLAND CORPORATION との提携にもとづいて株式会社ヨークセブンを設立した。提携契約そのものの正式な成立を同年12月とする記録もある。サウスランド社は前年度の売上高が約12億ドル、店舗数は4,458店に達していた。日本経済新聞は1973年8月28日の朝刊一面で『イトーヨーカ堂、コンビニエンスストアで米の最大手と提携』[引用元]と報じ、コンビニエンスストアという当時の読者に耳慣れない言葉を、住宅地に立地して営業時間が長く、少人数で経営する小売店だと解説している。 [19][20]
提携から3年後の1976年、傍系会社の顔ぶれは本体とは別の速度で増えていた。コンビニエンスストアのヨークセブンは135店を数え、翌年2月末までに200店とする計画が立てられている。従来からの大型店は8月末で63店、レストランチェーンのデニーズが13店、スーパーマーケットのヨークマートが2店だった。1店あたりの年間売上規模は、大型店が50億円から100億円であるのに対し、コンビニエンスストアは1億3,000万円である。桁が2つ違う業態を、同じ会社が同時に動かしていた。同じ1976年、イトーヨーカ堂の総売場面積は約41万平方メートルに達し、三越の27万平方メートル、高島屋・大丸・松坂屋の15万から18万平方メートルを上回った。 [21][22]
子会社が伸びた理由を、伊藤雅俊社長は加盟する側の事情から説明している。経営の行き詰まりに悩んでいた酒屋がヨークセブンに加わり、年間1億2,000万円を売り上げて1,000万円の収入を得るようになった。それでも小売商がこれに踏み切れないのは、異業種へ単独で飛び込めないことと、中心になるノウハウがなかったことによる。この2つが逆にヨークセブンの伸びた背景になったと見ていた。1979年、そのヨークセブンから改称したセブン-イレブン・ジャパンが東京証券取引所市場第二部に上場する。親会社が過半の株式を持ったままの上場で、この関係は2005年の株式移転まで26年間続いた。 [23][24]
1983年2月期、イトーヨーカ堂は上場以来初の経常減益を記録した。この危機感を契機に始まったのが、以後20年以上続く『業務改革』、社内で業革と呼ばれる取り組みである。主導したのは当時副社長の鈴木敏文氏で、開始当初は『鬼』と呼ばれた。業革の会議で現場のたたき上げの店長を怒鳴りつけ、『これまでの売れていた時代の価値観、発想、やり方をすべて捨てろ』[引用元]と迫った。店長にとっては身もふたもない話で、反発は強く、会社を去る者まで出た。1970年代前半までのイトーヨーカ堂は、業界で中堅上位に甘んじる企業だった。当時トップだったダイエーの中内㓛社長からは『イトーヨーカ堂はないない尽くしの経営、学ぶところは何もない』[引用元]とまで評されている。ただし1970年代後半の伸びは速く、1979年度には売上高4,985億円でダイエーに次ぐ2位へ上がった。減益は、その位置を得た直後に起きている。
業革の中身は、会議の形式そのものにあった。最初に店舗などの現場情報が出され、情報が分析され、仮説が打ち出される。その仮説は店舗の現場で実行され、検証される。『市場の変化→情報→仮説→検証』というこの循環を20年以上繰り返した。原型になったのは、子会社セブン-イレブン・ジャパンで毎週開かれていたフィールドカウンセラー会議である。親会社の改革手法を子会社が学んだのではなく、子会社で確立した手法を親会社が輸入した。1985年12月にはPOSレジスターが全店に導入され、売れた商品を1品目ずつ把握する土台が本体側にも整った。 [25]
バブル期のイトーヨーカ堂は、不動産の含み益を当てにする経営を選ばなかった。理由として伊藤雅俊氏が挙げるのは、借りた金は必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員の給料は毎月払うものと考えれば、経営は生やさしいものではないと分かる、という一点である。『頼りになるのは現金しかないということが骨身に染みていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった』[引用元]と述べている。同じ時期、日本の小売業の多くは地価の上昇を前提に借入を重ねていた。1972年の講演で伊藤雅俊社長は、日本のチェーンストアが資金を商品ではなく不動産に向けてしまうことをチェーン経営の大きな問題点と呼んでいる。バブル期に投資話へ乗らなかった判断は、20年前に語ったこの見方の延長にあった。 [26][27]
1991年3月、イトーヨーカ堂はセブン-イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得した。18年前にコンビニエンスストアの運営ノウハウを供与した側の米国本社を、供与された側の日本法人が傘下に収めた。翌1992年、イトーヨーカ堂は総会屋への利益供与事件に直面し、伊藤雅俊社長は引責辞任した。1958年の会社設立から34年にわたって経営の中心にいた創業者が退き、業革を率いてきた鈴木敏文氏が本体の経営を担った。後年の記事は、この辞任と伊藤家が事件に深く関わったことが伊藤雅俊氏にとって心の傷となった、と書いている。 [28]
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|---|---|---|---|---|
| 1920〜1965年羊華堂の暖簾から、大量販売のための株式会社へ | 伊藤譲を代表者として法人組織の羊華堂を設立 | ★ | ||
| 伊藤譲の死去にともない伊藤雅俊が羊華堂の経営を継承 | ★ | |||
| ヨーカ堂を設立 | ★ | |||
| 東京都足立区千住の店舗を増改築し営業開始 | ★ | |||
| 本店を移転 | ★ | |||
| ヨーカ堂の社名を伊藤ヨーカ堂に変更 | ★ | |||
| 1966〜1979年商圏に比例させた店と、坪20万円の土地 | 本店を移転 | ★ | ||
| 商圏規模に比例させた店舗規模と、坪二十万〜三十万円の立地への出店 1972年11月、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、店舗の規模を商圏の大きさに比例させ、坪当り20万〜30万円の土地に出店するという投資基準を、自社独特の低地価政策として公表した。売上高で業界5〜6位にとどまっていた会社が、1店ごとの採算を作るために選んだ出店の型である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 外食事業に参入 | ★ | |||
| THE SOUTHLAND CORPORATIONと業務提携 | ★★ | |||
| ヨークセブンを設立 | ★★ | |||
| 食品スーパーマーケットのヨークマートを設立 | ★ | |||
| 1980〜1996年初の減益から始めた業務改革と、含みに頼らない財務 | 本店を移転 | ★ | ||
| パリ証券取引所(現 ユーロネクスト(パリ))に上場 | ★ | |||
| 業務改革(業革)の開始と、セブン-イレブン方式の単品管理・仮説検証の本体への導入 1983年2月期の上場以来初の経常減益を受け、イトーヨーカ堂が1982年から着手した社内呼称『業革』(業務改革)。当時副社長の鈴木敏文氏が主導し、子会社セブン-イレブン・ジャパンで確立した単品管理と仮説検証の手順を、総合スーパー本体の商品政策と組織へ移した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| セブン-イレブンの単品管理と仮説検証の手法を総合スーパーに導入 | ★ | |||
| POSレジスターを全店に導入 | ★ | |||
| セブン-イレブン・ジャパンとともに7-Eleven, Inc.に資本参加 | ★★ | |||
| バブル期の不動産投資とエクイティファイナンスの見送り、手元現金の積み増し 1980年代後半から1990年代を通じて、イトーヨーカ堂が不動産の含み益に依存する経営を採らず、バブル期の投資話に乗らず、新株発行を伴う資金調達も見送って、手元現金を厚く保った資本・財務上の選択。1992年10月の伊藤雅俊社長のインタビューで、その考え方が対外的に示された。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 総会屋への利益供与事件の責任をとり伊藤雅俊氏が社長を辞任 | ★★ | |||
| 鈴木敏文氏が社長に就任 | ★ | |||
| 1997〜2005年独り勝ちと呼ばれた会社の死角と、持株会社への幕引き | 華糖洋華堂商業有限公司を設立 | ★ | ||
| アイワイバンク銀行を設立 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部・ユーロネクスト(パリ)を上場廃止 | ★ | |||
| 3社共同株式移転によるセブン&アイ・ホールディングスの設立と親子上場の解消 2005年4月20日、イトーヨーカ堂は子会社のセブン-イレブン・ジャパン、デニーズジャパンとの共同株式移転により、9月1日付で持株会社セブン&アイ・ホールディングスを設立すると発表した。3社は同日付で上場を廃止し、持株会社が東京証券取引所市場第一部へ上場した。26年続いた親子上場が解消された経営判断である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(イトーヨーカ堂)