{"title":"イトーヨーカ堂の歴史概略","sections":[{"start_year":1920,"end_year":1965,"main_title":"羊華堂の暖簾から、大量販売のための株式会社へ","subsections":[{"title":"東京の下町で洋品店を営んだ伊藤家","text":"イトーヨーカ堂の商いは、大正期から東京の下町で続いた洋品店にさかのぼる。法人としての形が整うのは戦後で、1948年8月、伊藤譲を代表者とする合資会社羊華堂が設立された。伊藤譲の弟にあたる伊藤雅俊氏は、この店で商人としての作法を母から教わったと後年に語っている。最初に教わったのは、母が客の前で見せた表情の切り替えである。夫婦げんかで涙を流していても、客が入ってくると笑顔に変わる。泣き顔を見せれば「あの店は暗い」と言われ、次から客は来ない。伊藤雅俊氏はこれを「商売とはそういうもの」と受け取った。\n\n母から受け取ったもうひとつの教えを、伊藤雅俊氏は「ないない尽くしのプレゼント」と呼んだ。客は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という内容である。これは処世訓ではなく、当時のスーパーが置かれた状況をそのまま言い表していた。1950年代半ばから1970年代半ばごろまで、スーパーには卸してもらえない商品が数多くあった。宅配が当たり前だった牛乳がそうで、化粧品もそうで、ブランド品は問題にもならなかった。担保がないから銀行も貸さない。ようやく借りられるようになり、不況の時期も返済を続けていたところ、銀行の担当者から「伊藤さんのところはちゃんと返済していただいて助かります」と言われた。借りた金を返さない会社があることを、伊藤雅俊氏はそのとき初めて知ったという。","references":[{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点 ないない尽くしの贈り物」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）通史 1962-1973「流通革命の進展」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大量販売方式を実行するための会社","text":"1956年7月、伊藤譲の死去により伊藤雅俊氏が合資会社羊華堂の経営を継いだ。その2年後の1958年4月、大量販売方式を実行するために株式会社ヨーカ堂が設立され、東京都足立区千住の建物を増改築して営業が始まった。有価証券報告書はこの設立の目的を「大量販売方式を実行するため」と一行で書いている。洋品店の看板をそのまま大きくしたのではなく、売り方を変えるために別の法人を用意した。同じころ、日本のスーパーは相次いで名乗りを上げていた。ダイエーが1957年、イトーヨーカ堂が1958年、西友ストアーが1963年である。\n\nチェーンストアとしての展開が始まったのは1960年である。当時の売上高は10億円にすぎず、店舗はまだ1店もなかった。それでも伊藤雅俊社長は、1度のアメリカ視察だけを手に銀行の重役を集めてチェーンストアの構想を説き、融資を取り付けた。後にこれを「盲蛇に怖じず」と評している。1960年に開いた500坪の店舗は、当時としては関東周辺で最も大きな店だった。売上高は1966年に100億円、1971年に500億円へ伸びた。この間の1962年に本店を台東区入谷へ移し、1965年6月には社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に改めた。","references":[{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点 ないない尽くしの贈り物」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）通史 1962-1973「流通革命の進展」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1966,"end_year":1979,"main_title":"商圏に比例させた店と、坪二十万円の土地","subsections":[{"title":"店の大きさを商圏の大きさに合わせる","text":"店舗の規模は、1960年の500坪から1966年に1,000坪、1972年には3,000坪へと大きくなった。ただし規模の拡大それ自体を方針とはしなかった。「店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない」というのが伊藤雅俊社長の言葉である。狙う客層も具体的に定めていた。首都圏を取り巻く商圏には、勤めの経験を持つ女性が作る世帯、つまり31歳前後のヤングファミリーの市場がある。この年齢層は男女とも購買力が旺盛で、同時に商品への不満を抱く年齢でもある。「不満のあるところマーケットあり」というのが伊藤雅俊社長の持論だった。狙いを不満の所在に置いたことで、出店の判断は人口の多寡だけでは決まらなくなった。\n\n出店地の選び方は、より直接に採算と結びついていた。衣料品の専門店を出すには、当時の相場で坪当り200万円以上の売上がなければ経営が成り立たない。イトーヨーカ堂の店舗の多くは、坪当り20万円から30万円の土地にあった。伊藤雅俊社長はこれを「当社独特の低地価政策」と呼んでいる。地価の高い立地で高い売上を取るのではなく、地価の安い立地に大きな店を建てて採算を作る。あわせて、モータリゼーションが進めば郊外の広い土地に店が必要になるとも読んでいた。食料品の取扱いを始めたのは1967年で、衣料品だけの店から総合スーパーへ移る変化も同じ時期に起きている。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年12月号「スーパーチェーン業界とイトーヨーカ堂」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）通史 1962-1973「流通革命の進展」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上場と、量より質を選んだ自己規律","text":"1972年9月、イトーヨーカ堂は東京証券取引所市場第二部に上場した。公開価格は880円である。上場に際して伊藤雅俊社長は幹事証券会社の担当者に「あまり高い株価をつけてくれるな」と頼み、「上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて」とあきれられている。使い道のない資金を持っていても仕方がない、という理由だった。資本市場から調達した資金も無償ではなく、税金と配当を考えればそれ以上の利益を上げ続けなければならない。銀行から借りたほうが安くつくこともある、とも説明している。上場前に13%だった自己資本比率は上場後に20%となり、1976年には約35%へ上がった。\n\n同じ時期、伊藤雅俊社長は自社の経営を「量より質の経営」と表現していた。その具体例として挙げたのが支払条件である。チェーンストアは一般に60日から90日の手形で決済していたが、イトーヨーカ堂はすべて現金決済にしていた。手形で仕入れれば自社の運転資金は軽くなるが、負担は取引先の資金繰りへ移る。現金決済は、その負担を自社に残す。経営の物差しも数値で定めていた。1株当り税引利益60円、利益成長率20%、自己資本利益率は税引きで15%、総資本利益率5%の4つで、増資を行うのは1株当り利益60円以上を維持できる場合に限るという方針を通した。\n\n1972年2月期の売上高は約498億円だった。スーパーチェーン業界のなかでの位置を、伊藤雅俊社長は売上高で5位前後、利益ではダイエー・丸井に次ぐ3位と説明している。もっとも、この順位は関連会社やフランチャイザー会社を含む場合があり正確とはいえないと自ら断っている。母集団を小売業全体に広げれば位置は変わる。日経流通新聞の小売業調査によれば、ダイエーが三越を抜いて小売業の首位に立った1972年度、イトーヨーカ堂の売上高は826億円で15位だった。首位のダイエーは3,052億円で、3.7倍の開きがある。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年12月号「スーパーチェーン業界とイトーヨーカ堂」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）通史 1962-1973「流通革命の進展」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"一年に三つの提携を決めた1973年","text":"1973年、イトーヨーカ堂は3件の提携を相次いで決めた。3月に株式会社ヨークベニマルと業務提携し、5月に米国のレストランチェーンであるデニーズ社と提携して外食に参入している。7月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、11月には米国のコンビニエンスストア最大手 THE SOUTHLAND CORPORATION との提携にもとづいて株式会社ヨークセブンを設立した。提携契約そのものの正式な成立を同年12月とする記録もある。サウスランド社は前年度の売上高が約12億ドル、店舗数は4,458店に達していた。日本経済新聞は1973年8月28日の朝刊一面で「イトーヨーカ堂、コンビニエンスストアで米の最大手と提携」と報じ、コンビニエンスストアという当時の読者に耳慣れない言葉を、住宅地に立地して営業時間が長く、少人数で経営する小売店だと解説している。\n\n提携から3年後の1976年、傍系会社の顔ぶれは本体とは別の速度で増えていた。コンビニエンスストアのヨークセブンは135店を数え、翌年2月末までに200店とする計画が立てられている。従来からの大型店は8月末で63店、レストランチェーンのデニーズが13店、スーパーマーケットのヨークマートが2店だった。1店あたりの年間売上規模は、大型店が50億円から100億円であるのに対し、コンビニエンスストアは1億3,000万円である。桁が2つ違う業態を、同じ会社が同時に動かしていた。同じ1976年、イトーヨーカ堂の総売場面積は約41万平方メートルに達し、三越の27万平方メートル、高島屋・大丸・松坂屋の15万から18万平方メートルを上回った。\n\n子会社が伸びた理由を、伊藤雅俊社長は加盟する側の事情から説明している。経営の行き詰まりに悩んでいた酒屋がヨークセブンに加わり、年間1億2,000万円を売り上げて1,000万円の収入を得るようになった。それでも小売商がこれに踏み切れないのは、異業種へ単独で飛び込めないことと、中心になるノウハウがなかったことによる。この2つが逆にヨークセブンの伸びた背景になったと見ていた。1979年、そのヨークセブンから改称したセブン－イレブン・ジャパンが東京証券取引所市場第二部に上場する。親会社が過半の株式を持ったままの上場で、この関係は2005年の株式移転まで26年間続いた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1972年12月号「スーパーチェーン業界とイトーヨーカ堂」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社）通史 1962-1973「流通革命の進展」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1996,"main_title":"初の減益から始めた業務改革と、含みに頼らない財務","subsections":[{"title":"上場以来初の経常減益が引き金になった","text":"1983年2月期、イトーヨーカ堂は上場以来初の経常減益を記録した。この危機感を契機に始まったのが、以後20年以上続く「業務改革」、社内で業革と呼ばれる取り組みである。主導したのは当時副社長の鈴木敏文氏で、開始当初は「鬼」と呼ばれた。業革の会議で現場のたたき上げの店長を怒鳴りつけ、「これまでの売れていた時代の価値観、発想、やり方をすべて捨てろ」と迫った。店長にとっては身もふたもない話で、反発は強く、会社を去る者まで出た。1970年代前半までのイトーヨーカ堂は、業界で中堅上位に甘んじる企業だった。当時トップだったダイエーの中内㓛社長からは「イトーヨーカ堂はないない尽くしの経営、学ぶところは何もない」とまで評されている。ただし1970年代後半の伸びは速く、1979年度には売上高4,985億円でダイエーに次ぐ2位へ上がった。減益は、その位置を得た直後に起きている。\n\n業革の中身は、会議の形式そのものにあった。最初に店舗などの現場情報が出され、情報が分析され、仮説が打ち出される。その仮説は店舗の現場で実行され、検証される。「市場の変化→情報→仮説→検証」というこの循環を20年以上繰り返した。原型になったのは、子会社セブン－イレブン・ジャパンで毎週開かれていたフィールドカウンセラー会議である。親会社の改革手法を子会社が学んだのではなく、子会社で確立した手法を親会社が輸入した。1985年12月にはPOSレジスターが全店に導入され、売れた商品を1品目ずつ把握する土台が本体側にも整った。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"含みに頼らない財務と、本家の救済","text":"バブル期のイトーヨーカ堂は、不動産の含み益を当てにする経営を選ばなかった。理由として伊藤雅俊氏が挙げるのは、借りた金は必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員の給料は毎月払うものと考えれば、経営は生やさしいものではないと分かる、という一点である。「頼りになるのは現金しかないということが骨身に染みていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった」と述べている。同じ時期、日本の小売業の多くは地価の上昇を前提に借入を重ねていた。1972年の講演で伊藤雅俊社長は、日本のチェーンストアが資金を商品ではなく不動産に向けてしまうことを「チェーン経営の大きな問題点」と呼んでいる。バブル期に投資話へ乗らなかった判断は、20年前に語ったこの見方の延長にあった。\n\n1991年3月、イトーヨーカ堂はセブン－イレブン・ジャパンとともに IYG Holding Company を通じて 7-Eleven, Inc. へ資本参加し、経営権を取得した。18年前にコンビニエンスストアの運営ノウハウを供与した側の米国本社を、供与された側の日本法人が傘下に収めた。翌1992年、イトーヨーカ堂は総会屋への利益供与事件に直面し、伊藤雅俊社長は引責辞任した。1958年の会社設立から34年にわたって経営の中心にいた創業者が退き、業革を率いてきた鈴木敏文氏が本体の経営を担った。後年の記事は、この辞任と伊藤家が事件に深く関わったことが伊藤雅俊氏にとって心の傷となった、と書いている。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 2002年1月21日号「有訓無訓 母親に教わった商人の原点」伊藤雅俊","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1997,"end_year":2005,"main_title":"独り勝ちと呼ばれた会社の死角と、持株会社への幕引き","subsections":[{"title":"郊外へ動く商圏と、駅前に立ち続けた店","text":"競合各社が業態を組み替えた契機は、1980年の出来事にあった。この年、世界のスーパーの手本だったシアーズ・ローバックの経営が傾き、以後10年ほど低迷した。消費者の好みが変わって専門店へ客が集まり、総合スーパーという形態では新しい需要を満たせなくなったためである。このシアーズショックに驚いた日本のスーパーは、一斉に新しい戦略の構築に乗り出した。マイカルは商品を格上げして店舗をニチイからサティ・ビブレへ変え、ジャスコは郊外型ショッピングセンターの開発を軸に据えて専門店を育て、西友も同じ方向へ動いた。\n\n1990年の日米構造協議を境に、出店の環境も変わった。大店法が緩和され、地価と建築コストが下がり、郊外型ショッピングセンターが全国に作られた。シアーズショックと構造協議という二つの変化をはさんでも、イトーヨーカ堂だけは仕入れ販売戦略の改善による利益率の向上に取り組み続け、駅前を重視する出店方針も変えなかった。1997年、メリルリンチ証券のアナリスト鈴木孝之氏はこれを「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ」と題した論考で問うている。駅前近くでは十分な売り場面積が取れず、高コストになる。それでも出店にこだわる理由はあるのか、という問いだった。\n\n株価の動きも、この批判を裏づけていた。ジャスコが専門店子会社を積極的に設立し、1996年に米国最大のスポーツ専門店チェーンであるスポーツ・オーソリティーと合弁会社を作って3店を開いていたのに対し、イトーヨーカ堂には専門店戦略と呼べる動きが見られない。ショッピングセンター内に専門店を置けば本体で集めた客が回遊し、テナント収入も増える。イトーヨーカ堂はショッピングセンターを持たなかった。株式市場ではヨーカ堂株からジャスコ株への資金移動が1996年から始まり、同じ日にジャスコが80円高でヨーカ堂が30円安という値動きが何度も起きた。日本の小売業を代表する2社の株価がこう動くのは異例である。ただし同じ論考は、商品力と店舗管理の仕組みではヨーカ堂が勝るとも書いている。批判の的は商いの巧拙ではなく、店の形にあった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ イトーヨーカ堂VSジャスコ論」鈴木孝之（メリルリンチ証券）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角『鈴木カリスマ経営』後の大いなる不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"親会社の利益が子会社の配当で立つ","text":"1999年2月期、イトーヨーカ堂は3期連続の営業減益となった。10店の出店で人件費と店舗費が増え、167億円増えた経費が利益を食っている。粗利率は0.7ポイント上がって31.4%と大手小売業では最高水準にあり、スーパー業界では他の大手5社の経常利益を合計しても及ばない収益力を保っていた。それでもグループの内側で見ると、位置は違って見える。イトーヨーカ堂は子会社のセブン－イレブン・ジャパンに利益で圧倒的な差をつけられており、1998年度の経常増益もセブン－イレブンからの130億円の配当に依存する形だった。1999年3月、鈴木敏文社長は全部門に経費の3割削減を指令した。1999年度の予算がすでに動き出した後の指示で、現場は混乱した。\n\n同じ記事は、この会社の弱さを経営者個人の資質ではなく組織の依存構造に求めている。「変化対応」を行動原理とするマネジメントは鈴木敏文社長のカリスマがあって成り立つもので、トップへの依存度が高すぎる。幹部はイエスマン化し、事なかれ主義に陥る。鈴木敏文社長自身も「人が育たない。俺が育てなかったと言われれば、一言もないが」と漏らしていた。創業家は別の位置にいた。伊藤家はヨーカ堂株の22%を握り、長男の伊藤裕久氏はある時期まで将来の社長と目されていたが、1999年時点では関係会社統括室長にとどまっていた。経営中枢では「ヨーカ堂はすでにオーナー経営の規模を超えた」という判断が固まりつつあった。指揮する者と株を持つ者が分かれ、どちらにも次の代が見えないまま、会社は2000年代に入った。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ イトーヨーカ堂VSジャスコ論」鈴木孝之（メリルリンチ証券）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角『鈴木カリスマ経営』後の大いなる不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年2月22日号「イトーヨーカ堂の『業革』と『カイゼン』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三社共同株式移転による上場企業としての幕","text":"2000年代に入っても、イトーヨーカ堂は本体の外側へ事業を広げ続けた。1997年9月に中国で華糖洋華堂商業有限公司を設立し、2001年4月には株式会社アイワイバンク銀行を、同年10月には株式会社アイワイ・カード・サービスを設立している。海外市場での上場は逆に整理へ向かい、2002年3月にルクセンブルグ証券取引所の上場を、2003年5月に米国ナスダックにおける預託証券の登録を廃止した。総合スーパーの本体が伸び悩む一方、金融とコンビニエンスストアが利益を稼いだ。子会社のほうが稼ぐ状態は続いたが、資本関係は親会社が子会社を抱えたままだった。\n\n2005年4月、イトーヨーカ堂・セブン－イレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社は、共同株式移転により完全親会社となる持株会社を設立することを取締役会で決議し、株式移転契約書を締結した。5月に3社の株主総会が承認し、8月に東京証券取引所市場第一部とユーロネクスト（パリ）の上場を廃止した。9月1日、株式会社セブン＆アイ・ホールディングスが設立され、イトーヨーカ堂はその完全子会社となった。1972年9月の上場から33年、1958年の会社設立から47年で、イトーヨーカ堂は上場企業としての歴史を終えた。\n\n持株会社の設立から半年後の2006年3月1日、旧株式会社イトーヨーカ堂は商号を株式会社イトーヨーカ堂SHCに変更したうえでスーパーストア事業を新会社へ承継させる会社分割を行い、同日付でセブン＆アイ・ホールディングスに吸収合併されて解散・消滅した。法人としての旧イトーヨーカ堂はここで途切れる。消えたのは上場と、独立した親会社としての立場だった。残ったのは、店の大きさを商圏に比例させ、地価の安い土地に大きな店を建て、含みに頼らず現金で払うという商いの型と、その型を検証し続けるために作られた業革の会議である。どちらも創業者が去った後の組織に引き継がれた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「ヨーカ堂よ、なぜ憶病なのだ イトーヨーカ堂VSジャスコ論」鈴木孝之（メリルリンチ証券）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1・8日号「独り勝ちイトーヨーカ堂の死角『鈴木カリスマ経営』後の大いなる不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（株式会社イトーヨーカ堂・第48期）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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