マイカル の歴史

更新:

創業

1963年

創業者

西端行雄

創業地

大阪府大阪市

最終年度の売上高(2000/2)

18,558億円

長期業績の推移 1974〜2001年
マイカル:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1976年2月期〜2000年2月期

第1章 1963年〜 同業合併による総合小売業化セルフハトヤ4社の合併による近畿外への店舗網取得

筆者考察y.sugiura, author

ニチイは、店を作って増やした会社ではなく、店を持つ会社を集めて大きくなった会社である。1963年に合併した4社はいずれも中小の衣料品店と問屋で、合わせても12店・売上28億円にすぎない。西端行雄氏が3坪の店で得たのは、接客の巧拙ではなく店の構造を変えれば売上が3倍にも5倍にもなるという確信であり、それを企業そのものの組み合わせへ延長したのが4社合併だった。以後の10年で22社を吸収し、1975年の117店のうち九州では8店中7店までが合併で得た店である。自前で土地を探して店を建てる速さでは、この広がり方には追いつかない。合併は規模を買う手段であると同時に、出店の時間を買う手段でもあった。

合併を続けられた理由は、合併の後に何もそろえなかったところにある。ニチイは店名も仕入れの権限も当面そのまま残し、合併先の経営者を本社の役員と地域の責任者に据えた。1977年の役員32人のうち27人が合併先の元オーナーで、会社は経営者の連合体に近い形をとっている。標準的な店を作って単純化と規格化を積み上げるチェーンストアの定石からは外れており、名前だけの全国チェーンだという批判も受けた。それでも一国一城の主を動かすには、理念だけでなく権限とポストが要る。10年で年商1,000億円を超える速さは、この譲歩と引き換えに買ったものだった。

ニチイの年間売上高 1963年の4社合併時から1973年度まで(億円)

28 合併時 70 1965年 100 1966年 300 1968年 1,659 1973年度
  • 1963年から1968年は西端行雄氏の講演(証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号)による各年の売上高。1973年度は1974年2月期の実績。

1950年〜3坪の衣料品店から衣料品のセルフサービスへ

ニチイの創業者である西端行雄氏は、商家に生まれながら、いったんは商売と別の道を選んだ人物である。1916年10月に神戸の餅菓子屋に生まれた西端氏は、家業を手伝って旧制中学の休学を繰り返し、卒業しないまま20歳で徴兵検査を受けた。1938年に中国の戦地で全身27か所を負傷し、左足に砲弾の破片が残る体で帰国している。傷痍軍人向けの教員養成所が和歌山師範に置かれていることを知って受験し、1942年に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった。学力の不足を案じて夜間中学にも通い、昼は教壇に立ち夜は生徒として学んだ。敗戦を境に西端氏は教員をやめ、素麺や衣料品の行商で生計を立て直した。

  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [1]西端行雄氏の生家は神戸・長田神社の一の鳥居前で餅菓子屋を開いていたが、商いは振るわなかった
    • [2]西端行雄氏は1916年(大正5年)10月に神戸で生まれ、旧制中学に通うころから家業を手伝わされて休学を繰り返し、卒業していない。20歳の徴兵検査を経て兵役に入った
    • [3]西端行雄氏は1938年(昭和13年)に中国で実戦に遭い、全身27か所を負傷した。左足に砲弾の破片が3つ食い込み、不自由な体になった
    • [4]西端行雄氏は和歌山師範内に置かれた傷痍軍人の国民学校教員養成所の試験に合格し、1942年(昭和17年)に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった
    • [5]西端行雄氏は自らの学力不足を心配し、勤務先に近い府立市岡夜間中学校に入学した。昼間は教員、夜は中学生という生活だった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [6]西端行雄氏は小学校教師だったが、終戦を契機に生き方を転換して商売の道に入った

西端氏が1950年3月1日に構えたのは、大阪の天満橋近くに友人と持った3坪ほどの衣料品店だった。共同経営は不振で行き詰まり、店は西端氏ひとりに任される。始発電車の前から終電の通過まで営業し、顧客の側に立つ姿勢で信用を得たが、店の広さと手の数が売上の上限を決めてしまう。西端氏は、小売業を変えるのは接客という機能よりも店の構造のほうだと考え、東京・青山に開店した紀伊国屋のセルフサービスに解を求めた。嗜好性の強い衣料品はセルフサービスに向かないとされていたが、肌着や靴下の類は生活必需品だと判断し、1955年7月7日に衣料品のセルフサービス店を開店している。売上は一挙に3倍から5倍に伸びた。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [7]西端行雄氏は1950年(昭和25年)3月1日に小さな衣料品店を開店した。3坪ほどの店だった
    • [9]3坪ほどの店だったが、朝は始発電車の通る前から夜は終電車が通過するまで店を開け、顧客の側に立って考える経営姿勢で顧客の信頼を得た
    • [10]西端行雄氏は、小売業は機能的なものよりも構造的な問題のほうが大きな転換要素になると考えていた。東京・青山の紀伊国屋がセルフサービスという販売形態で開店したことに着目した
    • [11]衣料品は嗜好性が強くセルフサービスに適さないとされていたが、西端行雄氏は肌着・靴下の類は生活必需品だと判断してセルフサービスに踏み切り、1955年(昭和30年)7月7日に日本で初めての衣料品セルフサービス店を開いた
    • [12]衣料品のセルフサービス店は開店以来の盛況で、売上は一挙に3倍から5倍に増えた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [8]西端行雄氏は衣料品の行商に転じたのち、大阪の国電天満橋の近くに友人と3人で共同の店を持ったが、不振のどん底で店は彼一人に任された。その店がハトヤである

セルフサービスで注目を集めたハトヤを中心に、衣料品店の経営を学ぶ日本衣料共同研究会が1960年に発足した。翌年には日本衣料研究所へ組織を替え、同業者が仕入れと店舗運営の方法を持ち寄る場になっている。西端氏は、衣料品という1つの業種だけで事業を営むより、異なる業種を組み合わせて相乗効果を出したほうが新しい業態が生まれると考えていた。研究所の有力メンバーだったハトヤ、岡本商店、ヤマト小林商店、そして仕入先の問屋エルピスの4社は、1年以上をかけて極秘に協議を重ね、合併を決めた。小売業の魅力は自分の自由と個性を誰にも遠慮せずに通せるところにあり、それを手放してグループを組むことは、西端氏自身の言葉でも一見矛盾していた。

  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [13]セルフサービスで脚光を浴びたハトヤを中心に、衣料品店の経営を勉強する日本衣料共同研究会が1960年(昭和35年)に発足した
    • [14]日本衣料共同研究会は翌1961年に日本衣料研究所へ組織替えし、一段と強化された
    • [16]日本衣料研究所の有力メンバーであるハトヤ、岡本商店、ヤマト小林、エルピスの4社が、極秘のうちに1年以上かけて話し合った末に合併を決めた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [15]西端行雄氏は、衣料品という1つの業種だけで企業を営むのではなく、いろいろな業種をうまく組み合わせ、それぞれが持つ本質的な力の相乗効果によって新しい業態を生み出せると考えた
    • [17]西端行雄氏は、小売業は自分自身の自由・個性・独創性を誰に遠慮もなく思いどおりにできるところに大きな魅力があり、それをグループ化・協業化することは一見矛盾しているようだと述べた
参考文献[1]-[17]
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [1]西端行雄氏の生家は神戸・長田神社の一の鳥居前で餅菓子屋を開いていたが、商いは振るわなかった
    • [2]西端行雄氏は1916年(大正5年)10月に神戸で生まれ、旧制中学に通うころから家業を手伝わされて休学を繰り返し、卒業していない。20歳の徴兵検査を経て兵役に入った
    • [3]西端行雄氏は1938年(昭和13年)に中国で実戦に遭い、全身27か所を負傷した。左足に砲弾の破片が3つ食い込み、不自由な体になった
    • [4]西端行雄氏は和歌山師範内に置かれた傷痍軍人の国民学校教員養成所の試験に合格し、1942年(昭和17年)に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった
    • [5]西端行雄氏は自らの学力不足を心配し、勤務先に近い府立市岡夜間中学校に入学した。昼間は教員、夜は中学生という生活だった
    • [8]西端行雄氏は衣料品の行商に転じたのち、大阪の国電天満橋の近くに友人と3人で共同の店を持ったが、不振のどん底で店は彼一人に任された。その店がハトヤである
    • [13]セルフサービスで脚光を浴びたハトヤを中心に、衣料品店の経営を勉強する日本衣料共同研究会が1960年(昭和35年)に発足した
    • [14]日本衣料共同研究会は翌1961年に日本衣料研究所へ組織替えし、一段と強化された
    • [16]日本衣料研究所の有力メンバーであるハトヤ、岡本商店、ヤマト小林、エルピスの4社が、極秘のうちに1年以上かけて話し合った末に合併を決めた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [6]西端行雄氏は小学校教師だったが、終戦を契機に生き方を転換して商売の道に入った
    • [7]西端行雄氏は1950年(昭和25年)3月1日に小さな衣料品店を開店した。3坪ほどの店だった
    • [9]3坪ほどの店だったが、朝は始発電車の通る前から夜は終電車が通過するまで店を開け、顧客の側に立って考える経営姿勢で顧客の信頼を得た
    • [10]西端行雄氏は、小売業は機能的なものよりも構造的な問題のほうが大きな転換要素になると考えていた。東京・青山の紀伊国屋がセルフサービスという販売形態で開店したことに着目した
    • [11]衣料品は嗜好性が強くセルフサービスに適さないとされていたが、西端行雄氏は肌着・靴下の類は生活必需品だと判断してセルフサービスに踏み切り、1955年(昭和30年)7月7日に日本で初めての衣料品セルフサービス店を開いた
    • [12]衣料品のセルフサービス店は開店以来の盛況で、売上は一挙に3倍から5倍に増えた
    • [15]西端行雄氏は、衣料品という1つの業種だけで企業を営むのではなく、いろいろな業種をうまく組み合わせ、それぞれが持つ本質的な力の相乗効果によって新しい業態を生み出せると考えた
    • [17]西端行雄氏は、小売業は自分自身の自由・個性・独創性を誰に遠慮もなく思いどおりにできるところに大きな魅力があり、それをグループ化・協業化することは一見矛盾しているようだと述べた

1963年〜型をそろえない合併と、総合小売業への品目拡大

4社が合併して株式会社ニチイが発足したのは1963年11月25日である。中心になったのは、すでにセルフサービス方式で衣料品を売っていたセルフハトヤだった。西端氏のセルフハトヤに、同業の岡本商店と、大型店と小型店の中間を行くヤマト小林商店、そして仕入先の問屋エルピスが加わっている。岡本商店は岡本常男氏、ヤマト小林商店は小林敏峯氏、エルピスは福田博之氏が率いており、4人はいずれも合併後のニチイの役員となった。合併時の店舗は12店、売上高は28億円にすぎない。社名は、税務の問題で助言を仰いでいた日本化薬会長の原安三郎氏が、分散した小売業が1つになれという意味を込めて付けたものである。

  • 証券 1975年27巻9号
    • [18]株式会社ニチイの設立は1963年(昭和38年)11月25日(形式上の設立は1947年4月26日)
    • [19]ニチイは1963年11月、当時すでにセルフサービス方式による衣料品販売を行っていた株式会社セルフハトヤを中心に、同業の岡本商店、ヤマト小林商店、仕入先のエルピスの4社が合併して設立された
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [20]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
    • [22]ニチイ設立時の店舗数は12、売上高は28億円だった
    • [23]社名のニチイは日本化薬の原安三郎会長が命名した。日本が1つになれ、分散している小売業が1つになってこそ本当の小売業が生まれるという意味が込められていた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [21]1963年11月に合併したのはハトヤ(西端行雄氏)、岡本商店(岡本常男氏)、ヤマト小林(小林敏峯氏)、エルピス(福田博之氏)の4社で、4氏はいずれもニチイの社長・副社長となった

合併した4社は、店の型がそれぞれ違っていた。チェーンストアでは標準店を先に作り、単純化・規格化を進めるのが定石である。ニチイはそれをあえてとらず、都心型のセルフハトヤ、郊外型の岡本商店、中間型のヤマト小林商店という3つの型を抱えたまま歩み出した。違う性格のものにはそれぞれ役割があり、型を1つに統一させる理由はない、とするのが西端氏の原則であった。合併に加わった経営者は本社役員の席を得て、その多くが出身地域の責任者を続け、仕入れの権限も各店へ大幅に下ろされていたため、後には名ばかりの全国チェーンと批判された。

  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [24]チェーンオペレーションの展開は標準的なものをつくって単純化・規格化するのが在来のあり方だが、ニチイは合併当初から3つの型の会社が集まった形で出発した
    • [25]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [26]当初の合併にあたり、従来のチェーンオペレーションの展開方法とは異なり、あえて標準化・規格化を避け、都心型の店、その中間、小さな商店街の店という3つの形態を持った会社が集まった
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [27]西端行雄氏は、異質なものが存在するということはそれぞれに存在価値があるのであって、無理に1つのパターンを押しつける必要はないと述べた
    • [28]合併した会社の以前の経営者はニチイの役員に登用され、加えてその地域の担当責任者にするのが通例だった
    • [29]個性尊重の建前から各店に仕入れ権限などを大きく委譲していたことで、名前だけの全国チェーンという批判もあった

衣料品だけの品ぞろえは、合併から3年目に広がり始めた。1966年に日用品の取扱いを始め、1969年までに食料品、家具類、家電製品を順に加えて総合小売業の形を整えている。それでも衣料品を主体に据え続けたのは、ファッション性を高めれば付加価値が上がり、ロス率を下げれば成果が出る、流通段階で最も効率よく原価を下げられる商品だと西端氏が見ていたからである。1968年には外食事業に入り、初の専門店エルメを梅田に出した。店舗は文化性と情報の集積度が高い場所に置くという考えから大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパート型の店舗が多くを占めた。

  • 証券 1975年27巻9号
    • [30]ニチイは1966年(昭和41年)に日用品の取扱いを始めた
    • [31]1966年の日用品を皮切りに、1969年(昭和44年)までに食料品、家具類、家電製品と逐次取扱商品を増やし、総合小売業の形態を整えた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [32]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられる商品であり、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出し、ロス率を下げることで大きな成果が上がると説明した
    • [34]西端行雄氏は、衣料品中心の会社であるため文化性が高く情報の集積度の高いところという意味で大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパートという形の店が多いと述べた
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [33]ニチイは1968年に外食事業を開始し、初の専門店「エルメ」を梅田に出店した
参考文献[18]-[34]
  • 証券 1975年27巻9号
    • [18]株式会社ニチイの設立は1963年(昭和38年)11月25日(形式上の設立は1947年4月26日)
    • [19]ニチイは1963年11月、当時すでにセルフサービス方式による衣料品販売を行っていた株式会社セルフハトヤを中心に、同業の岡本商店、ヤマト小林商店、仕入先のエルピスの4社が合併して設立された
    • [30]ニチイは1966年(昭和41年)に日用品の取扱いを始めた
    • [31]1966年の日用品を皮切りに、1969年(昭和44年)までに食料品、家具類、家電製品と逐次取扱商品を増やし、総合小売業の形態を整えた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [20]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
    • [22]ニチイ設立時の店舗数は12、売上高は28億円だった
    • [23]社名のニチイは日本化薬の原安三郎会長が命名した。日本が1つになれ、分散している小売業が1つになってこそ本当の小売業が生まれるという意味が込められていた
    • [24]チェーンオペレーションの展開は標準的なものをつくって単純化・規格化するのが在来のあり方だが、ニチイは合併当初から3つの型の会社が集まった形で出発した
    • [25]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
    • [32]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられる商品であり、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出し、ロス率を下げることで大きな成果が上がると説明した
    • [34]西端行雄氏は、衣料品中心の会社であるため文化性が高く情報の集積度の高いところという意味で大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパートという形の店が多いと述べた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [21]1963年11月に合併したのはハトヤ(西端行雄氏)、岡本商店(岡本常男氏)、ヤマト小林(小林敏峯氏)、エルピス(福田博之氏)の4社で、4氏はいずれもニチイの社長・副社長となった
    • [27]西端行雄氏は、異質なものが存在するということはそれぞれに存在価値があるのであって、無理に1つのパターンを押しつける必要はないと述べた
    • [28]合併した会社の以前の経営者はニチイの役員に登用され、加えてその地域の担当責任者にするのが通例だった
    • [29]個性尊重の建前から各店に仕入れ権限などを大きく委譲していたことで、名前だけの全国チェーンという批判もあった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [26]当初の合併にあたり、従来のチェーンオペレーションの展開方法とは異なり、あえて標準化・規格化を避け、都心型の店、その中間、小さな商店街の店という3つの形態を持った会社が集まった
    • [33]ニチイは1968年に外食事業を開始し、初の専門店「エルメ」を梅田に出店した

1969年〜合併で取得した店舗網と、10年で超えた年商1,000億円

ニチイが近畿の外へ出る手段は、自前の出店ではなく合併だった。1969年11月にニューニチイなど5社を吸収合併したのを皮切りに、1971年に7社、1972年に4社と合併を重ね、上場前までに22社を吸収している。1972年11月には営業譲受によって40店舗を一度に取得した。1975年2月末の117店のうち、主力の近畿では72店中30店、進出の足掛かりとなった中国・四国では27店中24店、九州に至っては8店中7店が合併で得た店舗である。中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を押さえ、企業規模を短期間で拡大した。

  • 証券 1975年27巻9号
    • [35]ニチイは1969年11月に株式会社ニューニチイ等5社を吸収合併したのを手始めに、22社にも上る会社との合併を重ねて近畿地方の店舗網を強化する一方、中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を確保した
    • [37]1972年(昭和47年)11月に営業譲受により40店舗を取得した
    • [38]近畿地方では72店舗のうち30店舗、中国・四国地方では27店舗のうち24店舗、九州地方では8店舗のうち7店舗が合併により取得したものだった(1975年2月期時点、全国117店舗)
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [36]ニチイは1969年から1972年(昭和44年から47年)にかけて全国各地の小売業者約20社を合併した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [39]西端行雄氏は、4社で始まったニチイに現在では23社が集まり、118の店舗を有するようになったと述べた(1975年9月時点)

一国一城の主を合併に応じさせる仕掛けは、時間とポストだった。埼玉県の中堅スーパー尾張屋は、店舗数8、年商67億円だった1971年10月にニチイと提携し、折半出資の地域法人埼玉ニチイを設立している。1年後に尾張屋はニチイと合併したが、旧尾張屋系の店はニチイが全額出資する新会社が引き継ぎ、名実ともに一本化されたのは1976年8月だった。合併先の経営者が育ててきた店名への執着は人間として当然のものとして扱われ、屋号も仕入れの仕組みも当面そのまま残された。尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務として関東・東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏は副社長に就任した。1977年時点の役員32人のうち、銀行や警察の出身者を除く27人が合併先の元経営者である。

  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [40]合併した会社の経営者はみなそれぞれ一国一城の主であり、合併後も本当に一本化するまでに相当長い時間をかけていた
    • [41]埼玉県に本拠を置く中堅スーパー尾張屋は当時店舗数8、年間67億円の売上で、1971年(昭和46年)10月にニチイと提携し、折半出資で地域法人の埼玉ニチイを設立した
    • [42]提携の1年後にニチイと尾張屋が合併したが、ニチイ100%出資の新尾張屋が発足して旧尾張屋系の店を統括し、1976年(昭和51年)8月にニチイが新尾張屋を再合併して一本化が完了した
    • [43]西端行雄氏は、自分が大事に育ててきたもの、たとえば店名などを大切に思うのは人間なら当然であり、そういった執着心は大事にしなければいけないと述べた
    • [44]尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務・関東東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏はニチイ副社長となった
    • [45]ニチイの役員は1977年時点で32人おり、銀行出身者や元警察署長を除く27人が合併先の元オーナー経営者だった

発足時に28億円だった売上高は、10年で桁が2つ変わった。1963年度に32億円、1965年度に70億円、1966年度に100億円、1968年度に300億円と積み上がり、創立10年目には長期計画に掲げた1,000億円をはるかに超えている。1973年度にあたる1974年2月期の売上高は1,659億円で、前年比63%増だった。事業の裾野も広がり、1972年には総合ビル管理のニチイメンテナンスを設立し、1973年には香港に駐在事務所を置いて英国のアパレルメーカーであるターン社と業務提携している。合併で店舗網を取得し、衣料品で稼ぐ体制が、この10年でひと通り出来上がった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [46]西端行雄氏は、当初28億円という小規模な売上が1963年(昭和38年)には32億円、1965年(昭和40年)は不況にもめげず70億円、1966年(昭和41年)は100億円、1968年(昭和43年)は300億円と増加したと述べた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [47]西端行雄氏が長期計画で年商1,000億円を掲げたときは正気を疑われたが、会社創立10年目には目標額の1,000億円をはるかに超えた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [48]1973年度(1974年2月期)の売上高は1,659億円で、前年対比63%増だった
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [49]ニチイは1972年に総合ビル管理会社ニチイメンテナンスを設立し、1973年に香港駐在事務所を設置、英国のアパレルメーカー「ターン」社と業務提携した
参考文献[35]-[49]
  • 証券 1975年27巻9号
    • [35]ニチイは1969年11月に株式会社ニューニチイ等5社を吸収合併したのを手始めに、22社にも上る会社との合併を重ねて近畿地方の店舗網を強化する一方、中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を確保した
    • [37]1972年(昭和47年)11月に営業譲受により40店舗を取得した
    • [38]近畿地方では72店舗のうち30店舗、中国・四国地方では27店舗のうち24店舗、九州地方では8店舗のうち7店舗が合併により取得したものだった(1975年2月期時点、全国117店舗)
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [36]ニチイは1969年から1972年(昭和44年から47年)にかけて全国各地の小売業者約20社を合併した
    • [40]合併した会社の経営者はみなそれぞれ一国一城の主であり、合併後も本当に一本化するまでに相当長い時間をかけていた
    • [41]埼玉県に本拠を置く中堅スーパー尾張屋は当時店舗数8、年間67億円の売上で、1971年(昭和46年)10月にニチイと提携し、折半出資で地域法人の埼玉ニチイを設立した
    • [42]提携の1年後にニチイと尾張屋が合併したが、ニチイ100%出資の新尾張屋が発足して旧尾張屋系の店を統括し、1976年(昭和51年)8月にニチイが新尾張屋を再合併して一本化が完了した
    • [43]西端行雄氏は、自分が大事に育ててきたもの、たとえば店名などを大切に思うのは人間なら当然であり、そういった執着心は大事にしなければいけないと述べた
    • [44]尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務・関東東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏はニチイ副社長となった
    • [45]ニチイの役員は1977年時点で32人おり、銀行出身者や元警察署長を除く27人が合併先の元オーナー経営者だった
    • [47]西端行雄氏が長期計画で年商1,000億円を掲げたときは正気を疑われたが、会社創立10年目には目標額の1,000億円をはるかに超えた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [39]西端行雄氏は、4社で始まったニチイに現在では23社が集まり、118の店舗を有するようになったと述べた(1975年9月時点)
    • [46]西端行雄氏は、当初28億円という小規模な売上が1963年(昭和38年)には32億円、1965年(昭和40年)は不況にもめげず70億円、1966年(昭和41年)は100億円、1968年(昭和43年)は300億円と増加したと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [48]1973年度(1974年2月期)の売上高は1,659億円で、前年対比63%増だった
    • [49]ニチイは1972年に総合ビル管理会社ニチイメンテナンスを設立し、1973年に香港駐在事務所を設置、英国のアパレルメーカー「ターン」社と業務提携した

第2章 1974年〜 株式公開による資本調達の多様化3市場への上場から1000日作戦による売場転換へ

筆者考察y.sugiura, author

ニチイにとって上場は、資金の調達であると同時に、借入で伸びてきた体質の手直しでもあった。1975年2月期の売上2,030億円はスーパー業界4位だが、自己資本比率は同業他社の半分にとどまり、支払利息の急増が純利益率を2期続けて押し下げている。合併と出店を借入で賄い、譲り受けた地方の店は効率が低い。1974年の大阪2部から1976年の3市場1部まで3年で駆け上がったのは、この構造を外部の資本で組み替えるためだった。西端行雄氏が上場を、限られた人の資本から公の資金へ移る転換として語ったのも、同じ事情の別の言い方である。

一方で、外へ広げるほうにニチイは資本を使わなかった。NACの加盟店は1976年に224社445店を数えたが、ニチイとの資本関係はなく、供給する商品も加盟店の売上1,300億円のうち100億円ほどにすぎない。副社長の小林敏峯氏が狙ったのは卸売の利幅ではなく、加盟店を含めた発注量で問屋段階の原価を下げることだった。仕入れる量を自社の店舗数から切り離す仕掛けである。だが1979年には主力の衣料品が伸びを失い、構成比50%の高さがそのまま重荷に変わった。必需品売場を85%から55%へ削減する1000日作戦は、合併で集めた売場の中身を本部の側から書き換える最初の試みだった。

NAC加盟店の店舗数 1975年2月末から1977年3月まで(店)

335 152社 445 224社 513 227社
  • 各時点の加盟企業数と店舗数。出所は証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号・1976年14巻9号、日経ビジネス 1977年3月28日号。

1974年〜3年で大阪2部から3市場1部へ

ニチイが株式を公開したのは、発足から11年目の1974年だった。大阪証券取引所2部への上場を機に資本金は16億円となり、翌1975年8月21日には東京証券取引所2部へ、1976年には東京・大阪・名古屋の3市場で1部へ移っている。西端氏は上場の意味を、資金の調達ではなく会社の性格の転換として説明した。限られた人の資本で会社を営めば主体性はあるが客観的な見方が弱くなる、公の資金を預かってこそ主体と客観が調和して大きな力になる、というのがその論理である。合併を重ねて店舗網を広げてきた会社は、合併先の元経営者が大株主に並ぶ構成でもあった。上場直前の株主は3,978名にすぎず、所有株式の65.92%を個人とその他が持っていた。

  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [50]ニチイは1974年に大阪証券取引所2部へ上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [51]西端行雄氏は1974年10月の講演で、資本金は今回の上場を機に16億円になったと述べた
    • [53]西端行雄氏は、限られた人たちの資本で企業を営むと主体性はあるが客観的なものの見方が弱くなり、上場によって公の資金を運営することで主体的なものと客観性が調和して大きな力になると述べた
  • 証券 1975年27巻9号
    • [52]ニチイの東京証券取引所2部への上場年月日は1975年8月21日。資本金23億円、銘柄コード8269
    • [54]1975年6月30日現在の大株主はサンガ株式会社11.46%、岡本常男7.08%、小林敏峯3.62%、武田貞助3.47%、三藤八重子3.16%、武田慶吉2.45%
    • [55]1975年6月30日現在の株主総数は3,978名で、個人・その他が所有株式数の65.92%、その他の法人が28.44%を占めた

上場時のニチイは、規模と財務の強度が釣り合っていなかった。1975年2月期の店舗は全国117店、売上高は2,030億円で、スーパー業界4位である。翌1975年度の売上高は2,290億円となり、7,060億円のダイエーには遠く及ばないものの、イトーヨーカ堂の2,538億円、ジャスコの2,410億円とは並ぶ位置にいた。しかし自己資本比率は同業他社の半分、ダイエー・西友ストアー・ジャスコの3社平均と比べても3分の2の水準にとどまり、借入金比率は高いまま推移していた。当期純利益率は2期続けて低下している。1972年11月に営業譲受で取得した店舗の地盤が地方で店舗効率が悪かったこと、1973年度25.1%、1974年度32.6%という高率のベースアップで人件費の伸びが売上の伸びを上回ったこと、新規出店と大型化のための借入増で支払利息が急増したことが、その理由に挙げられた。

  • 証券 1975年27巻9号
    • [56]1975年2月期の従業員数は8,419名(パートを除く)、取引金融機関は第一勧業銀行、富士銀行、三和銀行、協和銀行ほか
    • [57]1975年2月期時点で全国117店舗(近畿72、中国21、九州8、関東7、四国6、中部3)を配し、年間売上は2,030億円でスーパー業界第4位だった
    • [59]ニチイの自己資本比率は同業他社の2分の1、ダイエー・西友ストアー・ジャスコ3社平均と比較しても3分の2程度と低水準にとどまり、借入金比率が高水準で推移していた
    • [60]粗利益率の改善にもかかわらず、当期純利益率は最近2期間低下していた
    • [61]純利益率低下の理由は、1972年11月の営業譲受で取得した店舗の地盤が比較的地方で店舗効率がよくないこと、1973年度25.1%・1974年度32.6%という高率ベースアップによる人件費上昇が売上の伸び率を上回ったこと、新店舗の出店・大型化のための増設・関係会社への貸付等による借入金の増大で支払利息が急増したことによる
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [58]1975年度の売上高はダイエーが単独7,060億円・連結7,532億円、イトーヨーカ堂が2,538億円・2,569億円、ジャスコが2,410億円・2,512億円、ニチイが2,290億円・2,849億円だった

上場で得た資金の向け先は、地盤の薄かった関東だった。ニチイは1976年度から第8次3か年計画に入り、新設と増設を合わせて13店舗、投資額330億円を計画している。内実の強化を掲げた第7次計画に対し、第8次はスケールの拡大に重点を置いた。1976年3月に群馬県の高崎店、4月に神奈川県の大船店を開設し、いずれも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店とした。関東地区の売上高は1975年度の144億円から1976年度に360億円、1977年度に550億円へ伸びる見通しで、全社に占める比率も6.9%から14.5%へ上がる計算である。1971年に提携した尾張屋は1976年8月30日付でニチイと改称し、店舗数は126店になった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [62]第8次3か年計画では、これまで地盤の弱かった関東地区に積極的に進出する方針を掲げた
    • [63]第8次3か年計画は店舗の新設・増設をあわせて13店舗、投資額330億円だった
    • [64]第7次3か年計画が内実強化を中心に進めたのに対し、第8次計画はスケールの拡大に重点を置いた
    • [65]1976年3月に高崎店(群馬県)、4月に大船店(神奈川県)を開設した。両店とも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店舗である
    • [66]関東地区の売上高とシェアは1975年度144億円・6.9%、1976年度360億円・12.9%、1977年度550億円・14.5%を予想し、1978年度は20%のシェア確保を期待していた
    • [67]1972年5月に合併した尾張屋は年間売上高200億円の中堅チェーンストアで、一体化の調整期間を経て1976年8月30日付でニチイと改称した。これによりニチイの店舗数は126店となった
参考文献[50]-[67]
    • [50]ニチイは1974年に大阪証券取引所2部へ上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [51]西端行雄氏は1974年10月の講演で、資本金は今回の上場を機に16億円になったと述べた
    • [53]西端行雄氏は、限られた人たちの資本で企業を営むと主体性はあるが客観的なものの見方が弱くなり、上場によって公の資金を運営することで主体的なものと客観性が調和して大きな力になると述べた
  • 証券 1975年27巻9号
    • [52]ニチイの東京証券取引所2部への上場年月日は1975年8月21日。資本金23億円、銘柄コード8269
    • [54]1975年6月30日現在の大株主はサンガ株式会社11.46%、岡本常男7.08%、小林敏峯3.62%、武田貞助3.47%、三藤八重子3.16%、武田慶吉2.45%
    • [55]1975年6月30日現在の株主総数は3,978名で、個人・その他が所有株式数の65.92%、その他の法人が28.44%を占めた
    • [56]1975年2月期の従業員数は8,419名(パートを除く)、取引金融機関は第一勧業銀行、富士銀行、三和銀行、協和銀行ほか
    • [57]1975年2月期時点で全国117店舗(近畿72、中国21、九州8、関東7、四国6、中部3)を配し、年間売上は2,030億円でスーパー業界第4位だった
    • [59]ニチイの自己資本比率は同業他社の2分の1、ダイエー・西友ストアー・ジャスコ3社平均と比較しても3分の2程度と低水準にとどまり、借入金比率が高水準で推移していた
    • [60]粗利益率の改善にもかかわらず、当期純利益率は最近2期間低下していた
    • [61]純利益率低下の理由は、1972年11月の営業譲受で取得した店舗の地盤が比較的地方で店舗効率がよくないこと、1973年度25.1%・1974年度32.6%という高率ベースアップによる人件費上昇が売上の伸び率を上回ったこと、新店舗の出店・大型化のための増設・関係会社への貸付等による借入金の増大で支払利息が急増したことによる
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [58]1975年度の売上高はダイエーが単独7,060億円・連結7,532億円、イトーヨーカ堂が2,538億円・2,569億円、ジャスコが2,410億円・2,512億円、ニチイが2,290億円・2,849億円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [62]第8次3か年計画では、これまで地盤の弱かった関東地区に積極的に進出する方針を掲げた
    • [63]第8次3か年計画は店舗の新設・増設をあわせて13店舗、投資額330億円だった
    • [64]第7次3か年計画が内実強化を中心に進めたのに対し、第8次計画はスケールの拡大に重点を置いた
    • [65]1976年3月に高崎店(群馬県)、4月に大船店(神奈川県)を開設した。両店とも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店舗である
    • [66]関東地区の売上高とシェアは1975年度144億円・6.9%、1976年度360億円・12.9%、1977年度550億円・14.5%を予想し、1978年度は20%のシェア確保を期待していた
    • [67]1972年5月に合併した尾張屋は年間売上高200億円の中堅チェーンストアで、一体化の調整期間を経て1976年8月30日付でニチイと改称した。これによりニチイの店舗数は126店となった

1974年〜資本を持たない外周としてのNACと百貨店連合

ニチイは株式会社という枠の外側に、資本関係を持たない小売店の組織を置いた。1971年ごろから小売店に呼びかけて組織づくりを始め、1972年7月にニチイ・アライド・チェーン、略称NACが発足している。加盟店は地区ごとの協同組合に属し、その上に地域協議会と、法人格を持つ連合会が置かれた。西端氏は連合会の名誉会長に就任したが、運営は連合会の指示ではなく各会員の横のつながりを重んじる方式をとった。加盟の条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上である。参加企業は1975年2月末の152社335店・売上880億円から、1976年8月には224社445店・1,300億円へ増えた。資金面では商工中金が加盟店への融資に協力した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [68]西端行雄氏は、ニチイ本体は株式会社として制約を受けるが、その外側に自由に参画できるNACのような組織体を持っていることが発展に大きなプラスをもたらしていると述べた
    • [71]西端行雄氏はNAC連合会の名誉会長に就任した。根本的な運営は連合会の指示によるのではなく、各会員個々の価値を生かした横のつながりを重視した
    • [74]NACの資金援助的な運営については商工中金が協力し、出店の資金調達やメンバーへの資金援助を受けた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [69]西端行雄氏は1971年(昭和46年)ごろから小売店に呼びかけてニチイ・アライド・チェーン(NAC)の組織づくりを始めたと述べた。NACは1972年(昭和47年)7月に発足した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [70]NACはすべて協同組合組織で、地区ごとの協同組合の上に地域協議会があり、その総体としてNAC連合会が置かれた。連合会は法人化されていた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [72]NACの入会条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [73]NACのメンバーは1975年2月末で参加企業152社・335店・売上880億円。1976年8月時点では224社・445店・売上1,300億円になった

ニチイがNACで狙ったのは、加盟店への卸売りで利ざやを稼ぐことではなかった。副社長の小林敏峯氏の構想は、加盟店がまとめて仕入れる量を膨らませて問屋段階の原価を押し下げ、その効果でニチイの仕入原価も下げることにあった。『100や200の店数では、たとえ1兆円の売り上げでもリスクの大きい商品を発注できない。ところが、店数が1000店もあれば1店当たりの商品数は少なくて済むから、リスクの大きい商品、言い換えれば利幅の大きい商品を扱える』。数字の上では、NACへの商品供給額は1974年度で70億円、1975年度の目標でも100億円にとどまり、加盟店の売上高1,300億円に比べて小さかったが、加盟店の伸び率はニチイ既存店を上回っていた。小林氏は、売上規模が6,000億円から7,000億円まで膨らめば世間の反発を呼ぶので、自社だけで伸ばすより加盟店を含めた全体で利益を分かち合うほうが得だと見ていた。

  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [75]小林敏峯副社長は、ニチイの商品を加盟店に売ることは本意ではない、ニチイは問屋ではないと述べた
    • [76]小林敏峯副社長は、加盟店がノウハウを蓄積してニチイの取引先である全国の問屋から共同で大量に仕入れる力をつければ、問屋の段階でコストダウンが図れ、ひいてはニチイの仕入原価が下がると説明した
    • [77]小林敏峯副社長は、店数が増えれば1店当たりの商品数が少なくて済むため、リスクの大きい商品すなわち利幅の大きい商品を扱えるようになると述べた
    • [80]小林敏峯副社長は、売上規模が6,000億円から7,000億円になるとどうしても社会的ジェラシーを受けるようになる、自分1人で頑張るよりグループ全体で利益を生み出すほうが得だと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [78]ニチイからNACへの商品供給は1974年度70億円、1975年度は100億円を目標としており、NAC全体の売上1,300億円のなかでは小さい比重だった
    • [79]西端行雄氏は、ニチイのレギュラー店の売上高が15%程度伸びているのに対し、NACメンバー店は最低でも140%、ほとんどが180〜200%の伸びを示していると述べた

小売の形態ごとに別の事業体を置く分業が、この時期に形を見せた。ニチイは小売部門を、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメなどの専門店、NACの小売店という4つに分けて構想している。1977年10月に地方百貨店5社の連合が動き出し、翌1978年に百貨店連合として設立された。資本でも関係を結び、川崎市の小美屋に24.95%、新潟市のイチムラに18%を出資している。NACの会員企業との合弁による中核企業も置かれ、米沢ファミリーデパート、丸三、九州サンマート、福岡ニチイ、丸吉百貨店の5社が、その地域の中核店舗とニチイからの商品供給の拠点を兼ねた。将来は各都道府県に1店ずつ配置する構想だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [81]西端行雄氏は、量販店・百貨店・専門店・小売店それぞれのよさを組み合わせ、生活産業的な形で国民のニーズに応えるべきだと述べた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [82]ニチイは小売部門について、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメその他の専門店、NACの小売店という4つの分業を考えていた
    • [84]ニチイは地方百貨店の小美屋(川崎市)に24.95%、イチムラ(新潟市)に18%を出資していた
    • [85]NAC中核企業はNAC会員企業とニチイとの合弁企業で、その地域の中核店舗およびニチイからの商品供給ステーションの役割を果たした。米沢ファミリーデパート80%、丸三80%、九州サンマート60%、福岡ニチイ51%、丸吉百貨店50%の5社があった
    • [86]広崎清一専務は、NAC中核企業を将来は各都道府県に1店舗ずつ配置したいと述べた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [83]1977年(昭和52年)10月に地方百貨店5社からなる連合がスタートした
参考文献[68]-[86]
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [68]西端行雄氏は、ニチイ本体は株式会社として制約を受けるが、その外側に自由に参画できるNACのような組織体を持っていることが発展に大きなプラスをもたらしていると述べた
    • [71]西端行雄氏はNAC連合会の名誉会長に就任した。根本的な運営は連合会の指示によるのではなく、各会員個々の価値を生かした横のつながりを重視した
    • [74]NACの資金援助的な運営については商工中金が協力し、出店の資金調達やメンバーへの資金援助を受けた
    • [78]ニチイからNACへの商品供給は1974年度70億円、1975年度は100億円を目標としており、NAC全体の売上1,300億円のなかでは小さい比重だった
    • [79]西端行雄氏は、ニチイのレギュラー店の売上高が15%程度伸びているのに対し、NACメンバー店は最低でも140%、ほとんどが180〜200%の伸びを示していると述べた
    • [81]西端行雄氏は、量販店・百貨店・専門店・小売店それぞれのよさを組み合わせ、生活産業的な形で国民のニーズに応えるべきだと述べた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [69]西端行雄氏は1971年(昭和46年)ごろから小売店に呼びかけてニチイ・アライド・チェーン(NAC)の組織づくりを始めたと述べた。NACは1972年(昭和47年)7月に発足した
    • [83]1977年(昭和52年)10月に地方百貨店5社からなる連合がスタートした
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [70]NACはすべて協同組合組織で、地区ごとの協同組合の上に地域協議会があり、その総体としてNAC連合会が置かれた。連合会は法人化されていた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [72]NACの入会条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上だった
    • [75]小林敏峯副社長は、ニチイの商品を加盟店に売ることは本意ではない、ニチイは問屋ではないと述べた
    • [76]小林敏峯副社長は、加盟店がノウハウを蓄積してニチイの取引先である全国の問屋から共同で大量に仕入れる力をつければ、問屋の段階でコストダウンが図れ、ひいてはニチイの仕入原価が下がると説明した
    • [77]小林敏峯副社長は、店数が増えれば1店当たりの商品数が少なくて済むため、リスクの大きい商品すなわち利幅の大きい商品を扱えるようになると述べた
    • [80]小林敏峯副社長は、売上規模が6,000億円から7,000億円になるとどうしても社会的ジェラシーを受けるようになる、自分1人で頑張るよりグループ全体で利益を生み出すほうが得だと述べた
    • [82]ニチイは小売部門について、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメその他の専門店、NACの小売店という4つの分業を考えていた
    • [84]ニチイは地方百貨店の小美屋(川崎市)に24.95%、イチムラ(新潟市)に18%を出資していた
    • [85]NAC中核企業はNAC会員企業とニチイとの合弁企業で、その地域の中核店舗およびニチイからの商品供給ステーションの役割を果たした。米沢ファミリーデパート80%、丸三80%、九州サンマート60%、福岡ニチイ51%、丸吉百貨店50%の5社があった
    • [86]広崎清一専務は、NAC中核企業を将来は各都道府県に1店舗ずつ配置したいと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [73]NACのメンバーは1975年2月末で参加企業152社・335店・売上880億円。1976年8月時点では224社・445店・売上1,300億円になった

1979年〜衣料品の不振と1000日作戦による売場の組み替え

1970年代の終わりに、ニチイの主力である衣料品が伸びなくなった。1979年度の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品売上は、新店の増加分を含めても前年比8.7%増にとどまっている。同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店分を除いた衣料品の実質はマイナスと見られていた。ニチイの衣料品構成比は50%と高く、業界の不振がそのまま業績に響いた。上場時に62.3%あった構成比は日用品と食料品の伸びで下がってきたが、それでも同業他社の1.5倍から2.5倍である。付加価値を上げやすく原価を下げやすいという理由で選んだ主力商品が、この時期は重荷に転じた。

  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [87]スーパーの衣料品はここ数年来低迷状態にあった
    • [88]1979年度(昭和54年度)の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品の前年伸び率は、新店増加分を含めて8.7%増にとどまった
    • [89]同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店増加分を除くと衣料品の実質はマイナスと見られた
    • [90]ニチイは衣料品の売上構成比が50%と高く、衣料品不振の影響が大きかった
  • 証券 1975年27巻9号
    • [91]1975年2月期の売上構成は衣料品62.3%、日用品20.8%、食料品5.1%、その他7.9%、不動産賃貸収入等3.9%で、衣料品比率は同業他社の約1.5〜2.5倍と高かった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [92]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられ、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出せる商品だと説明した

1980年、ニチイは衣料品の売場を組み替える1000日作戦を始めた。当時の衣料品売場の85%は、生活必需品を主体とするバジェットゾーンが占めていた。これを3年後に55%まで縮め、空いた面積をインショップ方式へ振り向ける計画である。インショップの売場は、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つに分けられた。3.3平方メートル当たり223万円という売上を、この作戦で引き上げる方針だった。必需品を安く大量に売る売場を削減し、専門店の集合体へ寄せる方向である。

  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [93]ニチイは不振の衣料品の浮揚策としてインショップ方式を大幅に導入する1000日作戦を1980年に開始した
    • [94]当時、ニチイの衣料品売場の85%は生活必需品主体のバジェットゾーンが占めていた
    • [95]バジェットゾーンを3年後(1000日後)に55%まで縮小し、余った分をインショップ方式で展開する計画だった
    • [96]インショップ方式の売場として、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つを設置した
    • [97]ニチイはこの作戦により3.3平方メートル当たり223万円の売上を拡大する方針だった
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [98]ニチイは1980年にインショップ路線を本格展開した

ニチイは売場の組み替えと同時に、取引先との関係の立て直しにも本部主導で乗り出した。すでにメーカーと卸店には不当な返品をなくすと確約していたため、1981年に商品部員全員へ配った取引上の心得書は、取引正常化の第2弾にあたる。心得書が禁じたのは、筋の通らない協賛金の要求、取引先が望まない物品購入の押しつけ、相手の了承がないままの値引き・返品・リベートの要求である。同じ文面は取引先の社長にも届け、違反を見つけたらすぐに知らせるよう頼んだ。1982年には福岡・天神に高感度専門店ビブレの1号店を出し、ニチイ・クレジット・サービスの設立で金融サービス業にも足を踏み入れた。

  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
    • [99]大手スーパーのニチイは取引関係の正常化を掲げ、不当返品行為の絶滅をメーカー・卸店に対して確約していた
    • [100]ニチイは1981年、社内の商品部員全員に取引先との間で厳守すべき事項を明記した心得書を配布した
    • [101]心得書の配布は取引関係正常化の第2弾にあたり、メーカーや卸店からは業界の模範生という声が上がった
    • [102]心得書の内容は、合理的理由のない協賛金を要請するな、取引先の意思に反して物品などの購入を迫るな、納得が得られないのに返品・値引き・リベートなどの要求をするな、などだった
    • [103]ニチイは心得書を取引先の社長あてにも送り、不心得者が出たら直ちに通告してほしいと呼びかけた
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [104]ニチイは1982年に高感度専門店ビブレ1号店「天神ビブレ」を開業し、ニチイ・クレジット・サービスを設立して金融サービス業へ進出した
参考文献[87]-[104]
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [87]スーパーの衣料品はここ数年来低迷状態にあった
    • [88]1979年度(昭和54年度)の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品の前年伸び率は、新店増加分を含めて8.7%増にとどまった
    • [89]同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店増加分を除くと衣料品の実質はマイナスと見られた
    • [90]ニチイは衣料品の売上構成比が50%と高く、衣料品不振の影響が大きかった
    • [93]ニチイは不振の衣料品の浮揚策としてインショップ方式を大幅に導入する1000日作戦を1980年に開始した
    • [94]当時、ニチイの衣料品売場の85%は生活必需品主体のバジェットゾーンが占めていた
    • [95]バジェットゾーンを3年後(1000日後)に55%まで縮小し、余った分をインショップ方式で展開する計画だった
    • [96]インショップ方式の売場として、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つを設置した
    • [97]ニチイはこの作戦により3.3平方メートル当たり223万円の売上を拡大する方針だった
  • 証券 1975年27巻9号
    • [91]1975年2月期の売上構成は衣料品62.3%、日用品20.8%、食料品5.1%、その他7.9%、不動産賃貸収入等3.9%で、衣料品比率は同業他社の約1.5〜2.5倍と高かった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [92]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられ、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出せる商品だと説明した
    • [98]ニチイは1980年にインショップ路線を本格展開した
    • [104]ニチイは1982年に高感度専門店ビブレ1号店「天神ビブレ」を開業し、ニチイ・クレジット・サービスを設立して金融サービス業へ進出した
  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
    • [99]大手スーパーのニチイは取引関係の正常化を掲げ、不当返品行為の絶滅をメーカー・卸店に対して確約していた
    • [100]ニチイは1981年、社内の商品部員全員に取引先との間で厳守すべき事項を明記した心得書を配布した
    • [101]心得書の配布は取引関係正常化の第2弾にあたり、メーカーや卸店からは業界の模範生という声が上がった
    • [102]心得書の内容は、合理的理由のない協賛金を要請するな、取引先の意思に反して物品などの購入を迫るな、納得が得られないのに返品・値引き・リベートなどの要求をするな、などだった
    • [103]ニチイは心得書を取引先の社長あてにも送り、不心得者が出たら直ちに通告してほしいと呼びかけた

第3章 1984-1995 (気が向いたら執筆します!) 生活百貨店サティとマイカル本牧、ワーナー・マイカルとリゾート開発

第4章 1996-2001 (気が向いたら執筆します!) マイカルへの改称と明石・小樽の開業、民事再生申請と会社更生

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1963〜2011年

マイカルの沿革1963〜2011年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1963〜1973年同業合併による総合小売業化西端行雄セルフハトヤ・ヤマト小林商店・岡本商店・エルピスの4社合併によりニチイを設立★★★
西端行雄外食事業に参入★
西端行雄初の専門店「エルメ」を梅田に出店★
西端行雄全国小売業との協業ネットワークNAC(ニッポンアライドチェーン)を設立★
西端行雄総合ビル管理会社ニチイメンテナンス(現イオンディライト)を設立★
西端行雄英国のアパレルメーカー「ターン」社と業務提携★
1974〜1983年株式公開による資本調達の多様化西端行雄大阪証券取引所2部に上場★
西端行雄東京証券取引所2部に上場★
西端行雄東京・大阪・名古屋各証券取引所1部に上場★
西端行雄地方百貨店との協業により百貨店連合を設立★
西端行雄アスレチック事業を分離しピープルを設立★
西端行雄インショップ路線を本格展開★★
小林敏峯高感度専門店ビブレ1号店「天神ビブレ」を開業★★
小林敏峯金融サービス業を担うニチイ・クレジット・サービスを設立★
1984〜1995年生活百貨店サティとマイカル本牧、ワーナー・マイカルとリゾート開発小林敏峯生活百貨店サティ1号店「サティ学園前」を開業★★★
小林敏峯MYCALグループ宣言を発表し国際MDを推進★★
小林敏峯マイカルタウン1号「マイカル本牧」を開業★★
小林敏峯ニチイ店舗のサティ・ビブレへの業態転換を推進★★
小林敏峯米国タイムワーナーグループと提携しワーナー・マイカルを設立★★
小林敏峯リゾート施設「リゾナーレビブレクラブ小淵沢」を開業★
小林敏峯中国事業を担うマイカル(大連)有限公司を設立★
小林敏峯マイカルタウン2号「マイカル桑名」を開業★
1996〜2001年マイカルへの改称と明石・小樽の開業、民事再生申請と会社更生宇都宮浩太郎商号をニチイからマイカルに変更★★★
宇都宮浩太郎マイカルタウン3号「マイカル明石」を開業★
宇都宮浩太郎中国大連市に「マイカル大連商場」を開業★
宇都宮浩太郎大規模街づくり型商業施設「マイカル小樽」を開業★★
宇都宮浩太郎有利子負債圧縮と店舗閉鎖を柱とする中期5ヶ年経営計画を策定★★
宇都宮浩太郎新中期3ヶ年経営計画「チャレンジングマイカル改革プラン」を策定★★
宇都宮浩太郎四方修氏が社長に就任★★
山下幸三民事再生法の適用を申請し経営破綻★★★
山下幸三山下幸三氏が社長に就任★★
山下幸三会社更生手続開始が決定★★
山下幸三各証券取引所で上場廃止★★
トップバリュと新ハウスカード「サティ・ビブレカード」を導入★
更生計画案が認可され、イオンの出資を受けて連結子会社化★★★
更生手続を7年前倒しで終結★★
イオンリテールに吸収合併され解散★★
出典・参考 9件
出典・参考
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
  • 証券 1975年27巻9号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」

免責事項およびポリシー