第2章 年〜年

マイカル:東京・大阪・名古屋の1部上場と天神ビブレの開業

3市場への上場から1000日作戦による売場転換へ

1974年〜3年で大阪2部から3市場1部へ

ニチイが株式を公開したのは、発足から11年目の1974年だった。大阪証券取引所2部への上場を機に資本金は16億円となり、翌1975年8月21日には東京証券取引所2部へ、1976年には東京・大阪・名古屋の3市場で1部へ移っている。西端氏は上場の意味を、資金の調達ではなく会社の性格の転換として説明した。限られた人の資本で会社を営めば主体性はあるが客観的な見方が弱くなる、公の資金を預かってこそ主体と客観が調和して大きな力になる、というのがその論理である。合併を重ねて店舗網を広げてきた会社は、合併先の元経営者が大株主に並ぶ構成でもあった。上場直前の株主は3,978名にすぎず、所有株式の65.92%を個人とその他が持っていた。

  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [1]ニチイは1974年に大阪証券取引所2部へ上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [2]西端行雄氏は1974年10月の講演で、資本金は今回の上場を機に16億円になったと述べた
    • [4]西端行雄氏は、限られた人たちの資本で企業を営むと主体性はあるが客観的なものの見方が弱くなり、上場によって公の資金を運営することで主体的なものと客観性が調和して大きな力になると述べた
  • 証券 1975年27巻9号
    • [3]ニチイの東京証券取引所2部への上場年月日は1975年8月21日。資本金23億円、銘柄コード8269
    • [5]1975年6月30日現在の大株主はサンガ株式会社11.46%、岡本常男7.08%、小林敏峯3.62%、武田貞助3.47%、三藤八重子3.16%、武田慶吉2.45%
    • [6]1975年6月30日現在の株主総数は3,978名で、個人・その他が所有株式数の65.92%、その他の法人が28.44%を占めた

上場時のニチイは、規模と財務の強度が釣り合っていなかった。1975年2月期の店舗は全国117店、売上高は2,030億円で、スーパー業界4位である。翌1975年度の売上高は2,290億円となり、7,060億円のダイエーには遠く及ばないものの、イトーヨーカ堂の2,538億円、ジャスコの2,410億円とは並ぶ位置にいた。しかし自己資本比率は同業他社の半分、ダイエー・西友ストアー・ジャスコの3社平均と比べても3分の2の水準にとどまり、借入金比率は高いまま推移していた。当期純利益率は2期続けて低下している。1972年11月に営業譲受で取得した店舗の地盤が地方で店舗効率が悪かったこと、1973年度25.1%、1974年度32.6%という高率のベースアップで人件費の伸びが売上の伸びを上回ったこと、新規出店と大型化のための借入増で支払利息が急増したことが、その理由に挙げられた。

  • 証券 1975年27巻9号
    • [7]1975年2月期の従業員数は8,419名(パートを除く)、取引金融機関は第一勧業銀行、富士銀行、三和銀行、協和銀行ほか
    • [8]1975年2月期時点で全国117店舗(近畿72、中国21、九州8、関東7、四国6、中部3)を配し、年間売上は2,030億円でスーパー業界第4位だった
    • [10]ニチイの自己資本比率は同業他社の2分の1、ダイエー・西友ストアー・ジャスコ3社平均と比較しても3分の2程度と低水準にとどまり、借入金比率が高水準で推移していた
    • [11]粗利益率の改善にもかかわらず、当期純利益率は最近2期間低下していた
    • [12]純利益率低下の理由は、1972年11月の営業譲受で取得した店舗の地盤が比較的地方で店舗効率がよくないこと、1973年度25.1%・1974年度32.6%という高率ベースアップによる人件費上昇が売上の伸び率を上回ったこと、新店舗の出店・大型化のための増設・関係会社への貸付等による借入金の増大で支払利息が急増したことによる
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [9]1975年度の売上高はダイエーが単独7,060億円・連結7,532億円、イトーヨーカ堂が2,538億円・2,569億円、ジャスコが2,410億円・2,512億円、ニチイが2,290億円・2,849億円だった

上場で得た資金の向け先は、地盤の薄かった関東だった。ニチイは1976年度から第8次3か年計画に入り、新設と増設を合わせて13店舗、投資額330億円を計画している。内実の強化を掲げた第7次計画に対し、第8次はスケールの拡大に重点を置いた。1976年3月に群馬県の高崎店、4月に神奈川県の大船店を開設し、いずれも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店とした。関東地区の売上高は1975年度の144億円から1976年度に360億円、1977年度に550億円へ伸びる見通しで、全社に占める比率も6.9%から14.5%へ上がる計算である。1971年に提携した尾張屋は1976年8月30日付でニチイと改称し、店舗数は126店になった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [13]第8次3か年計画では、これまで地盤の弱かった関東地区に積極的に進出する方針を掲げた
    • [14]第8次3か年計画は店舗の新設・増設をあわせて13店舗、投資額330億円だった
    • [15]第7次3か年計画が内実強化を中心に進めたのに対し、第8次計画はスケールの拡大に重点を置いた
    • [16]1976年3月に高崎店(群馬県)、4月に大船店(神奈川県)を開設した。両店とも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店舗である
    • [17]関東地区の売上高とシェアは1975年度144億円・6.9%、1976年度360億円・12.9%、1977年度550億円・14.5%を予想し、1978年度は20%のシェア確保を期待していた
    • [18]1972年5月に合併した尾張屋は年間売上高200億円の中堅チェーンストアで、一体化の調整期間を経て1976年8月30日付でニチイと改称した。これによりニチイの店舗数は126店となった
参考文献[1]-[18]
    • [1]ニチイは1974年に大阪証券取引所2部へ上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [2]西端行雄氏は1974年10月の講演で、資本金は今回の上場を機に16億円になったと述べた
    • [4]西端行雄氏は、限られた人たちの資本で企業を営むと主体性はあるが客観的なものの見方が弱くなり、上場によって公の資金を運営することで主体的なものと客観性が調和して大きな力になると述べた
  • 証券 1975年27巻9号
    • [3]ニチイの東京証券取引所2部への上場年月日は1975年8月21日。資本金23億円、銘柄コード8269
    • [5]1975年6月30日現在の大株主はサンガ株式会社11.46%、岡本常男7.08%、小林敏峯3.62%、武田貞助3.47%、三藤八重子3.16%、武田慶吉2.45%
    • [6]1975年6月30日現在の株主総数は3,978名で、個人・その他が所有株式数の65.92%、その他の法人が28.44%を占めた
    • [7]1975年2月期の従業員数は8,419名(パートを除く)、取引金融機関は第一勧業銀行、富士銀行、三和銀行、協和銀行ほか
    • [8]1975年2月期時点で全国117店舗(近畿72、中国21、九州8、関東7、四国6、中部3)を配し、年間売上は2,030億円でスーパー業界第4位だった
    • [10]ニチイの自己資本比率は同業他社の2分の1、ダイエー・西友ストアー・ジャスコ3社平均と比較しても3分の2程度と低水準にとどまり、借入金比率が高水準で推移していた
    • [11]粗利益率の改善にもかかわらず、当期純利益率は最近2期間低下していた
    • [12]純利益率低下の理由は、1972年11月の営業譲受で取得した店舗の地盤が比較的地方で店舗効率がよくないこと、1973年度25.1%・1974年度32.6%という高率ベースアップによる人件費上昇が売上の伸び率を上回ったこと、新店舗の出店・大型化のための増設・関係会社への貸付等による借入金の増大で支払利息が急増したことによる
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [9]1975年度の売上高はダイエーが単独7,060億円・連結7,532億円、イトーヨーカ堂が2,538億円・2,569億円、ジャスコが2,410億円・2,512億円、ニチイが2,290億円・2,849億円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [13]第8次3か年計画では、これまで地盤の弱かった関東地区に積極的に進出する方針を掲げた
    • [14]第8次3か年計画は店舗の新設・増設をあわせて13店舗、投資額330億円だった
    • [15]第7次3か年計画が内実強化を中心に進めたのに対し、第8次計画はスケールの拡大に重点を置いた
    • [16]1976年3月に高崎店(群馬県)、4月に大船店(神奈川県)を開設した。両店とも売場面積1万平方メートルのフルラインの拠点店舗である
    • [17]関東地区の売上高とシェアは1975年度144億円・6.9%、1976年度360億円・12.9%、1977年度550億円・14.5%を予想し、1978年度は20%のシェア確保を期待していた
    • [18]1972年5月に合併した尾張屋は年間売上高200億円の中堅チェーンストアで、一体化の調整期間を経て1976年8月30日付でニチイと改称した。これによりニチイの店舗数は126店となった

1974年〜資本を持たない外周としてのNACと百貨店連合

ニチイは株式会社という枠の外側に、資本関係を持たない小売店の組織を置いた。1971年ごろから小売店に呼びかけて組織づくりを始め、1972年7月にニチイ・アライド・チェーン、略称NACが発足している。加盟店は地区ごとの協同組合に属し、その上に地域協議会と、法人格を持つ連合会が置かれた。西端氏は連合会の名誉会長に就任したが、運営は連合会の指示ではなく各会員の横のつながりを重んじる方式をとった。加盟の条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上である。参加企業は1975年2月末の152社335店・売上880億円から、1976年8月には224社445店・1,300億円へ増えた。資金面では商工中金が加盟店への融資に協力した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [19]西端行雄氏は、ニチイ本体は株式会社として制約を受けるが、その外側に自由に参画できるNACのような組織体を持っていることが発展に大きなプラスをもたらしていると述べた
    • [22]西端行雄氏はNAC連合会の名誉会長に就任した。根本的な運営は連合会の指示によるのではなく、各会員個々の価値を生かした横のつながりを重視した
    • [25]NACの資金援助的な運営については商工中金が協力し、出店の資金調達やメンバーへの資金援助を受けた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [20]西端行雄氏は1971年(昭和46年)ごろから小売店に呼びかけてニチイ・アライド・チェーン(NAC)の組織づくりを始めたと述べた。NACは1972年(昭和47年)7月に発足した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [21]NACはすべて協同組合組織で、地区ごとの協同組合の上に地域協議会があり、その総体としてNAC連合会が置かれた。連合会は法人化されていた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [23]NACの入会条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [24]NACのメンバーは1975年2月末で参加企業152社・335店・売上880億円。1976年8月時点では224社・445店・売上1,300億円になった

ニチイがNACで狙ったのは、加盟店への卸売りで利ざやを稼ぐことではなかった。副社長の小林敏峯氏の構想は、加盟店がまとめて仕入れる量を膨らませて問屋段階の原価を押し下げ、その効果でニチイの仕入原価も下げることにあった。『100や200の店数では、たとえ1兆円の売り上げでもリスクの大きい商品を発注できない。ところが、店数が1000店もあれば1店当たりの商品数は少なくて済むから、リスクの大きい商品、言い換えれば利幅の大きい商品を扱える』。数字の上では、NACへの商品供給額は1974年度で70億円、1975年度の目標でも100億円にとどまり、加盟店の売上高1,300億円に比べて小さかったが、加盟店の伸び率はニチイ既存店を上回っていた。小林氏は、売上規模が6,000億円から7,000億円まで膨らめば世間の反発を呼ぶので、自社だけで伸ばすより加盟店を含めた全体で利益を分かち合うほうが得だと見ていた。

  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [26]小林敏峯副社長は、ニチイの商品を加盟店に売ることは本意ではない、ニチイは問屋ではないと述べた
    • [27]小林敏峯副社長は、加盟店がノウハウを蓄積してニチイの取引先である全国の問屋から共同で大量に仕入れる力をつければ、問屋の段階でコストダウンが図れ、ひいてはニチイの仕入原価が下がると説明した
    • [28]小林敏峯副社長は、店数が増えれば1店当たりの商品数が少なくて済むため、リスクの大きい商品すなわち利幅の大きい商品を扱えるようになると述べた
    • [31]小林敏峯副社長は、売上規模が6,000億円から7,000億円になるとどうしても社会的ジェラシーを受けるようになる、自分1人で頑張るよりグループ全体で利益を生み出すほうが得だと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [29]ニチイからNACへの商品供給は1974年度70億円、1975年度は100億円を目標としており、NAC全体の売上1,300億円のなかでは小さい比重だった
    • [30]西端行雄氏は、ニチイのレギュラー店の売上高が15%程度伸びているのに対し、NACメンバー店は最低でも140%、ほとんどが180〜200%の伸びを示していると述べた

小売の形態ごとに別の事業体を置く分業が、この時期に形を見せた。ニチイは小売部門を、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメなどの専門店、NACの小売店という4つに分けて構想している。1977年10月に地方百貨店5社の連合が動き出し、翌1978年に百貨店連合として設立された。資本でも関係を結び、川崎市の小美屋に24.95%、新潟市のイチムラに18%を出資している。NACの会員企業との合弁による中核企業も置かれ、米沢ファミリーデパート、丸三、九州サンマート、福岡ニチイ、丸吉百貨店の5社が、その地域の中核店舗とニチイからの商品供給の拠点を兼ねた。将来は各都道府県に1店ずつ配置する構想だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [32]西端行雄氏は、量販店・百貨店・専門店・小売店それぞれのよさを組み合わせ、生活産業的な形で国民のニーズに応えるべきだと述べた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [33]ニチイは小売部門について、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメその他の専門店、NACの小売店という4つの分業を考えていた
    • [35]ニチイは地方百貨店の小美屋(川崎市)に24.95%、イチムラ(新潟市)に18%を出資していた
    • [36]NAC中核企業はNAC会員企業とニチイとの合弁企業で、その地域の中核店舗およびニチイからの商品供給ステーションの役割を果たした。米沢ファミリーデパート80%、丸三80%、九州サンマート60%、福岡ニチイ51%、丸吉百貨店50%の5社があった
    • [37]広崎清一専務は、NAC中核企業を将来は各都道府県に1店舗ずつ配置したいと述べた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [34]1977年(昭和52年)10月に地方百貨店5社からなる連合がスタートした
参考文献[19]-[37]
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
    • [19]西端行雄氏は、ニチイ本体は株式会社として制約を受けるが、その外側に自由に参画できるNACのような組織体を持っていることが発展に大きなプラスをもたらしていると述べた
    • [22]西端行雄氏はNAC連合会の名誉会長に就任した。根本的な運営は連合会の指示によるのではなく、各会員個々の価値を生かした横のつながりを重視した
    • [25]NACの資金援助的な運営については商工中金が協力し、出店の資金調達やメンバーへの資金援助を受けた
    • [29]ニチイからNACへの商品供給は1974年度70億円、1975年度は100億円を目標としており、NAC全体の売上1,300億円のなかでは小さい比重だった
    • [30]西端行雄氏は、ニチイのレギュラー店の売上高が15%程度伸びているのに対し、NACメンバー店は最低でも140%、ほとんどが180〜200%の伸びを示していると述べた
    • [32]西端行雄氏は、量販店・百貨店・専門店・小売店それぞれのよさを組み合わせ、生活産業的な形で国民のニーズに応えるべきだと述べた
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
    • [20]西端行雄氏は1971年(昭和46年)ごろから小売店に呼びかけてニチイ・アライド・チェーン(NAC)の組織づくりを始めたと述べた。NACは1972年(昭和47年)7月に発足した
    • [34]1977年(昭和52年)10月に地方百貨店5社からなる連合がスタートした
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [21]NACはすべて協同組合組織で、地区ごとの協同組合の上に地域協議会があり、その総体としてNAC連合会が置かれた。連合会は法人化されていた
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
    • [23]NACの入会条件は年商1億円以上、売上利益率3%以上だった
    • [26]小林敏峯副社長は、ニチイの商品を加盟店に売ることは本意ではない、ニチイは問屋ではないと述べた
    • [27]小林敏峯副社長は、加盟店がノウハウを蓄積してニチイの取引先である全国の問屋から共同で大量に仕入れる力をつければ、問屋の段階でコストダウンが図れ、ひいてはニチイの仕入原価が下がると説明した
    • [28]小林敏峯副社長は、店数が増えれば1店当たりの商品数が少なくて済むため、リスクの大きい商品すなわち利幅の大きい商品を扱えるようになると述べた
    • [31]小林敏峯副社長は、売上規模が6,000億円から7,000億円になるとどうしても社会的ジェラシーを受けるようになる、自分1人で頑張るよりグループ全体で利益を生み出すほうが得だと述べた
    • [33]ニチイは小売部門について、本体のレギュラーチェーン、地方百貨店、エルメその他の専門店、NACの小売店という4つの分業を考えていた
    • [35]ニチイは地方百貨店の小美屋(川崎市)に24.95%、イチムラ(新潟市)に18%を出資していた
    • [36]NAC中核企業はNAC会員企業とニチイとの合弁企業で、その地域の中核店舗およびニチイからの商品供給ステーションの役割を果たした。米沢ファミリーデパート80%、丸三80%、九州サンマート60%、福岡ニチイ51%、丸吉百貨店50%の5社があった
    • [37]広崎清一専務は、NAC中核企業を将来は各都道府県に1店舗ずつ配置したいと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
    • [24]NACのメンバーは1975年2月末で参加企業152社・335店・売上880億円。1976年8月時点では224社・445店・売上1,300億円になった

1979年〜衣料品の不振と1000日作戦による売場の組み替え

1970年代の終わりに、ニチイの主力である衣料品が伸びなくなった。1979年度の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品売上は、新店の増加分を含めても前年比8.7%増にとどまっている。同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店分を除いた衣料品の実質はマイナスと見られていた。ニチイの衣料品構成比は50%と高く、業界の不振がそのまま業績に響いた。上場時に62.3%あった構成比は日用品と食料品の伸びで下がってきたが、それでも同業他社の1.5倍から2.5倍である。付加価値を上げやすく原価を下げやすいという理由で選んだ主力商品が、この時期は重荷に転じた。

  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [38]スーパーの衣料品はここ数年来低迷状態にあった
    • [39]1979年度(昭和54年度)の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品の前年伸び率は、新店増加分を含めて8.7%増にとどまった
    • [40]同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店増加分を除くと衣料品の実質はマイナスと見られた
    • [41]ニチイは衣料品の売上構成比が50%と高く、衣料品不振の影響が大きかった
  • 証券 1975年27巻9号
    • [42]1975年2月期の売上構成は衣料品62.3%、日用品20.8%、食料品5.1%、その他7.9%、不動産賃貸収入等3.9%で、衣料品比率は同業他社の約1.5〜2.5倍と高かった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [43]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられ、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出せる商品だと説明した

1980年、ニチイは衣料品の売場を組み替える1000日作戦を始めた。当時の衣料品売場の85%は、生活必需品を主体とするバジェットゾーンが占めていた。これを3年後に55%まで縮め、空いた面積をインショップ方式へ振り向ける計画である。インショップの売場は、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つに分けられた。3.3平方メートル当たり223万円という売上を、この作戦で引き上げる方針だった。必需品を安く大量に売る売場を削減し、専門店の集合体へ寄せる方向である。

  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [44]ニチイは不振の衣料品の浮揚策としてインショップ方式を大幅に導入する1000日作戦を1980年に開始した
    • [45]当時、ニチイの衣料品売場の85%は生活必需品主体のバジェットゾーンが占めていた
    • [46]バジェットゾーンを3年後(1000日後)に55%まで縮小し、余った分をインショップ方式で展開する計画だった
    • [47]インショップ方式の売場として、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つを設置した
    • [48]ニチイはこの作戦により3.3平方メートル当たり223万円の売上を拡大する方針だった
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [49]ニチイは1980年にインショップ路線を本格展開した

ニチイは売場の組み替えと同時に、取引先との関係の立て直しにも本部主導で乗り出した。すでにメーカーと卸店には不当な返品をなくすと確約していたため、1981年に商品部員全員へ配った取引上の心得書は、取引正常化の第2弾にあたる。心得書が禁じたのは、筋の通らない協賛金の要求、取引先が望まない物品購入の押しつけ、相手の了承がないままの値引き・返品・リベートの要求である。同じ文面は取引先の社長にも届け、違反を見つけたらすぐに知らせるよう頼んだ。1982年には福岡・天神に高感度専門店ビブレの1号店を出し、ニチイ・クレジット・サービスの設立で金融サービス業にも足を踏み入れた。

  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
    • [50]大手スーパーのニチイは取引関係の正常化を掲げ、不当返品行為の絶滅をメーカー・卸店に対して確約していた
    • [51]ニチイは1981年、社内の商品部員全員に取引先との間で厳守すべき事項を明記した心得書を配布した
    • [52]心得書の配布は取引関係正常化の第2弾にあたり、メーカーや卸店からは業界の模範生という声が上がった
    • [53]心得書の内容は、合理的理由のない協賛金を要請するな、取引先の意思に反して物品などの購入を迫るな、納得が得られないのに返品・値引き・リベートなどの要求をするな、などだった
    • [54]ニチイは心得書を取引先の社長あてにも送り、不心得者が出たら直ちに通告してほしいと呼びかけた
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
    • [55]ニチイは1982年に高感度専門店ビブレ1号店「天神ビブレ」を開業し、ニチイ・クレジット・サービスを設立して金融サービス業へ進出した
参考文献[38]-[55]
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [38]スーパーの衣料品はここ数年来低迷状態にあった
    • [39]1979年度(昭和54年度)の日本チェーンストア協会加盟社の衣料品の前年伸び率は、新店増加分を含めて8.7%増にとどまった
    • [40]同じ期間に加盟社の総売上高は13.3%伸びており、新店増加分を除くと衣料品の実質はマイナスと見られた
    • [41]ニチイは衣料品の売上構成比が50%と高く、衣料品不振の影響が大きかった
    • [44]ニチイは不振の衣料品の浮揚策としてインショップ方式を大幅に導入する1000日作戦を1980年に開始した
    • [45]当時、ニチイの衣料品売場の85%は生活必需品主体のバジェットゾーンが占めていた
    • [46]バジェットゾーンを3年後(1000日後)に55%まで縮小し、余った分をインショップ方式で展開する計画だった
    • [47]インショップ方式の売場として、生活向上型のライフスタイルゾーン、個性化商品のニューライフスタイルゾーン、特殊な商品を集めたカントリーショップの3つを設置した
    • [48]ニチイはこの作戦により3.3平方メートル当たり223万円の売上を拡大する方針だった
  • 証券 1975年27巻9号
    • [42]1975年2月期の売上構成は衣料品62.3%、日用品20.8%、食料品5.1%、その他7.9%、不動産賃貸収入等3.9%で、衣料品比率は同業他社の約1.5〜2.5倍と高かった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
    • [43]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられ、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出せる商品だと説明した
    • [49]ニチイは1980年にインショップ路線を本格展開した
    • [55]ニチイは1982年に高感度専門店ビブレ1号店「天神ビブレ」を開業し、ニチイ・クレジット・サービスを設立して金融サービス業へ進出した
  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
    • [50]大手スーパーのニチイは取引関係の正常化を掲げ、不当返品行為の絶滅をメーカー・卸店に対して確約していた
    • [51]ニチイは1981年、社内の商品部員全員に取引先との間で厳守すべき事項を明記した心得書を配布した
    • [52]心得書の配布は取引関係正常化の第2弾にあたり、メーカーや卸店からは業界の模範生という声が上がった
    • [53]心得書の内容は、合理的理由のない協賛金を要請するな、取引先の意思に反して物品などの購入を迫るな、納得が得られないのに返品・値引き・リベートなどの要求をするな、などだった
    • [54]ニチイは心得書を取引先の社長あてにも送り、不心得者が出たら直ちに通告してほしいと呼びかけた

筆者考察

ニチイにとって上場は、資金の調達であると同時に、借入で伸びてきた体質の手直しでもあった。1975年2月期の売上2,030億円はスーパー業界4位だが、自己資本比率は同業他社の半分にとどまり、支払利息の急増が純利益率を2期続けて押し下げている。合併と出店を借入で賄い、譲り受けた地方の店は効率が低い。1974年の大阪2部から1976年の3市場1部まで3年で駆け上がったのは、この構造を外部の資本で組み替えるためだった。西端行雄氏が上場を、限られた人の資本から公の資金へ移る転換として語ったのも、同じ事情の別の言い方である。

一方で、外へ広げるほうにニチイは資本を使わなかった。NACの加盟店は1976年に224社445店を数えたが、ニチイとの資本関係はなく、供給する商品も加盟店の売上1,300億円のうち100億円ほどにすぎない。副社長の小林敏峯氏が狙ったのは卸売の利幅ではなく、加盟店を含めた発注量で問屋段階の原価を下げることだった。仕入れる量を自社の店舗数から切り離す仕掛けである。だが1979年には主力の衣料品が伸びを失い、構成比50%の高さがそのまま重荷に変わった。必需品売場を85%から55%へ削減する1000日作戦は、合併で集めた売場の中身を本部の側から書き換える最初の試みだった。

NAC加盟店の店舗数 1975年2月末から1977年3月まで(店)

335 152社 445 224社 513 227社
  • 各時点の加盟企業数と店舗数。出所は証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号・1976年14巻9号、日経ビジネス 1977年3月28日号。

1974年〜1983年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1974年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年02月期 単体 2,290 n/a 54 25 1.1% n/a
1977年02月期 単体 2,830 +23.6% 66 34 1.2% n/a
1978年02月期 単体 3,134 +10.7% 74 40 1.3% n/a
1979年02月期 単体 3,496 +11.5% 102 57 1.6% n/a
1980年02月期 単体 3,969 +13.5% 114 63 1.6% n/a
1981年02月期 単体 4,553 +14.7% 136 70 1.5% n/a
1982年02月期 単体 4,909 +7.8% 146 72 1.5% n/a
1983年02月期 単体 5,046 +2.8% 117 59 1.2% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
  • 証券 1975年27巻9号
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(西端行雄)
  • 日経ビジネス 1977年3月28日号
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
  • 日経ビジネス 1981年2月9日号
  • 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」

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