マイカル:4社合併によるニチイの設立と総合小売業化
セルフハトヤ4社の合併による近畿外への店舗網取得
1950年〜3坪の衣料品店から衣料品のセルフサービスへ
ニチイの創業者である西端行雄氏は、商家に生まれながら、いったんは商売と別の道を選んだ人物である。1916年10月に神戸の餅菓子屋に生まれた西端氏は、家業を手伝って旧制中学の休学を繰り返し、卒業しないまま20歳で徴兵検査を受けた。1938年に中国の戦地で全身27か所を負傷し、左足に砲弾の破片が残る体で帰国している。傷痍軍人向けの教員養成所が和歌山師範に置かれていることを知って受験し、1942年に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった。学力の不足を案じて夜間中学にも通い、昼は教壇に立ち夜は生徒として学んだ。敗戦を境に西端氏は教員をやめ、素麺や衣料品の行商で生計を立て直した。
- 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
- [1]西端行雄氏の生家は神戸・長田神社の一の鳥居前で餅菓子屋を開いていたが、商いは振るわなかった
- [2]西端行雄氏は1916年(大正5年)10月に神戸で生まれ、旧制中学に通うころから家業を手伝わされて休学を繰り返し、卒業していない。20歳の徴兵検査を経て兵役に入った
- [3]西端行雄氏は1938年(昭和13年)に中国で実戦に遭い、全身27か所を負傷した。左足に砲弾の破片が3つ食い込み、不自由な体になった
- [4]西端行雄氏は和歌山師範内に置かれた傷痍軍人の国民学校教員養成所の試験に合格し、1942年(昭和17年)に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった
- [5]西端行雄氏は自らの学力不足を心配し、勤務先に近い府立市岡夜間中学校に入学した。昼間は教員、夜は中学生という生活だった
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [6]西端行雄氏は小学校教師だったが、終戦を契機に生き方を転換して商売の道に入った
西端氏が1950年3月1日に構えたのは、大阪の天満橋近くに友人と持った3坪ほどの衣料品店だった。共同経営は不振で行き詰まり、店は西端氏ひとりに任される。始発電車の前から終電の通過まで営業し、顧客の側に立つ姿勢で信用を得たが、店の広さと手の数が売上の上限を決めてしまう。西端氏は、小売業を変えるのは接客という機能よりも店の構造のほうだと考え、東京・青山に開店した紀伊国屋のセルフサービスに解を求めた。嗜好性の強い衣料品はセルフサービスに向かないとされていたが、肌着や靴下の類は生活必需品だと判断し、1955年7月7日に衣料品のセルフサービス店を開店している。売上は一挙に3倍から5倍に伸びた。
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [7]西端行雄氏は1950年(昭和25年)3月1日に小さな衣料品店を開店した。3坪ほどの店だった
- [9]3坪ほどの店だったが、朝は始発電車の通る前から夜は終電車が通過するまで店を開け、顧客の側に立って考える経営姿勢で顧客の信頼を得た
- [10]西端行雄氏は、小売業は機能的なものよりも構造的な問題のほうが大きな転換要素になると考えていた。東京・青山の紀伊国屋がセルフサービスという販売形態で開店したことに着目した
- [11]衣料品は嗜好性が強くセルフサービスに適さないとされていたが、西端行雄氏は肌着・靴下の類は生活必需品だと判断してセルフサービスに踏み切り、1955年(昭和30年)7月7日に日本で初めての衣料品セルフサービス店を開いた
- [12]衣料品のセルフサービス店は開店以来の盛況で、売上は一挙に3倍から5倍に増えた
- 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
- [8]西端行雄氏は衣料品の行商に転じたのち、大阪の国電天満橋の近くに友人と3人で共同の店を持ったが、不振のどん底で店は彼一人に任された。その店がハトヤである
セルフサービスで注目を集めたハトヤを中心に、衣料品店の経営を学ぶ日本衣料共同研究会が1960年に発足した。翌年には日本衣料研究所へ組織を替え、同業者が仕入れと店舗運営の方法を持ち寄る場になっている。西端氏は、衣料品という1つの業種だけで事業を営むより、異なる業種を組み合わせて相乗効果を出したほうが新しい業態が生まれると考えていた。研究所の有力メンバーだったハトヤ、岡本商店、ヤマト小林商店、そして仕入先の問屋エルピスの4社は、1年以上をかけて極秘に協議を重ね、合併を決めた。小売業の魅力は自分の自由と個性を誰にも遠慮せずに通せるところにあり、それを手放してグループを組むことは、西端氏自身の言葉でも一見矛盾していた。
- 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
- [13]セルフサービスで脚光を浴びたハトヤを中心に、衣料品店の経営を勉強する日本衣料共同研究会が1960年(昭和35年)に発足した
- [14]日本衣料共同研究会は翌1961年に日本衣料研究所へ組織替えし、一段と強化された
- [16]日本衣料研究所の有力メンバーであるハトヤ、岡本商店、ヤマト小林、エルピスの4社が、極秘のうちに1年以上かけて話し合った末に合併を決めた
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [15]西端行雄氏は、衣料品という1つの業種だけで企業を営むのではなく、いろいろな業種をうまく組み合わせ、それぞれが持つ本質的な力の相乗効果によって新しい業態を生み出せると考えた
- [17]西端行雄氏は、小売業は自分自身の自由・個性・独創性を誰に遠慮もなく思いどおりにできるところに大きな魅力があり、それをグループ化・協業化することは一見矛盾しているようだと述べた
参考文献[1]-[17]
- 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」
- [1]西端行雄氏の生家は神戸・長田神社の一の鳥居前で餅菓子屋を開いていたが、商いは振るわなかった
- [2]西端行雄氏は1916年(大正5年)10月に神戸で生まれ、旧制中学に通うころから家業を手伝わされて休学を繰り返し、卒業していない。20歳の徴兵検査を経て兵役に入った
- [3]西端行雄氏は1938年(昭和13年)に中国で実戦に遭い、全身27か所を負傷した。左足に砲弾の破片が3つ食い込み、不自由な体になった
- [4]西端行雄氏は和歌山師範内に置かれた傷痍軍人の国民学校教員養成所の試験に合格し、1942年(昭和17年)に大阪市西成区の南津守国民学校の教員となった
- [5]西端行雄氏は自らの学力不足を心配し、勤務先に近い府立市岡夜間中学校に入学した。昼間は教員、夜は中学生という生活だった
- [8]西端行雄氏は衣料品の行商に転じたのち、大阪の国電天満橋の近くに友人と3人で共同の店を持ったが、不振のどん底で店は彼一人に任された。その店がハトヤである
- [13]セルフサービスで脚光を浴びたハトヤを中心に、衣料品店の経営を勉強する日本衣料共同研究会が1960年(昭和35年)に発足した
- [14]日本衣料共同研究会は翌1961年に日本衣料研究所へ組織替えし、一段と強化された
- [16]日本衣料研究所の有力メンバーであるハトヤ、岡本商店、ヤマト小林、エルピスの4社が、極秘のうちに1年以上かけて話し合った末に合併を決めた
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [6]西端行雄氏は小学校教師だったが、終戦を契機に生き方を転換して商売の道に入った
- [7]西端行雄氏は1950年(昭和25年)3月1日に小さな衣料品店を開店した。3坪ほどの店だった
- [9]3坪ほどの店だったが、朝は始発電車の通る前から夜は終電車が通過するまで店を開け、顧客の側に立って考える経営姿勢で顧客の信頼を得た
- [10]西端行雄氏は、小売業は機能的なものよりも構造的な問題のほうが大きな転換要素になると考えていた。東京・青山の紀伊国屋がセルフサービスという販売形態で開店したことに着目した
- [11]衣料品は嗜好性が強くセルフサービスに適さないとされていたが、西端行雄氏は肌着・靴下の類は生活必需品だと判断してセルフサービスに踏み切り、1955年(昭和30年)7月7日に日本で初めての衣料品セルフサービス店を開いた
- [12]衣料品のセルフサービス店は開店以来の盛況で、売上は一挙に3倍から5倍に増えた
- [15]西端行雄氏は、衣料品という1つの業種だけで企業を営むのではなく、いろいろな業種をうまく組み合わせ、それぞれが持つ本質的な力の相乗効果によって新しい業態を生み出せると考えた
- [17]西端行雄氏は、小売業は自分自身の自由・個性・独創性を誰に遠慮もなく思いどおりにできるところに大きな魅力があり、それをグループ化・協業化することは一見矛盾しているようだと述べた
1963年〜型をそろえない合併と、総合小売業への品目拡大
4社が合併して株式会社ニチイが発足したのは1963年11月25日である。中心になったのは、すでにセルフサービス方式で衣料品を売っていたセルフハトヤだった。西端氏のセルフハトヤに、同業の岡本商店と、大型店と小型店の中間を行くヤマト小林商店、そして仕入先の問屋エルピスが加わっている。岡本商店は岡本常男氏、ヤマト小林商店は小林敏峯氏、エルピスは福田博之氏が率いており、4人はいずれも合併後のニチイの役員となった。合併時の店舗は12店、売上高は28億円にすぎない。社名は、税務の問題で助言を仰いでいた日本化薬会長の原安三郎氏が、分散した小売業が1つになれという意味を込めて付けたものである。
- 証券 1975年27巻9号
- [18]株式会社ニチイの設立は1963年(昭和38年)11月25日(形式上の設立は1947年4月26日)
- [19]ニチイは1963年11月、当時すでにセルフサービス方式による衣料品販売を行っていた株式会社セルフハトヤを中心に、同業の岡本商店、ヤマト小林商店、仕入先のエルピスの4社が合併して設立された
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [20]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
- [22]ニチイ設立時の店舗数は12、売上高は28億円だった
- [23]社名のニチイは日本化薬の原安三郎会長が命名した。日本が1つになれ、分散している小売業が1つになってこそ本当の小売業が生まれるという意味が込められていた
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [21]1963年11月に合併したのはハトヤ(西端行雄氏)、岡本商店(岡本常男氏)、ヤマト小林(小林敏峯氏)、エルピス(福田博之氏)の4社で、4氏はいずれもニチイの社長・副社長となった
合併した4社は、店の型がそれぞれ違っていた。チェーンストアでは標準店を先に作り、単純化・規格化を進めるのが定石である。ニチイはそれをあえてとらず、都心型のセルフハトヤ、郊外型の岡本商店、中間型のヤマト小林商店という3つの型を抱えたまま歩み出した。違う性格のものにはそれぞれ役割があり、型を1つに統一させる理由はない、とするのが西端氏の原則であった。合併に加わった経営者は本社役員の席を得て、その多くが出身地域の責任者を続け、仕入れの権限も各店へ大幅に下ろされていたため、後には名ばかりの全国チェーンと批判された。
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [24]チェーンオペレーションの展開は標準的なものをつくって単純化・規格化するのが在来のあり方だが、ニチイは合併当初から3つの型の会社が集まった形で出発した
- [25]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [26]当初の合併にあたり、従来のチェーンオペレーションの展開方法とは異なり、あえて標準化・規格化を避け、都心型の店、その中間、小さな商店街の店という3つの形態を持った会社が集まった
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [27]西端行雄氏は、異質なものが存在するということはそれぞれに存在価値があるのであって、無理に1つのパターンを押しつける必要はないと述べた
- [28]合併した会社の以前の経営者はニチイの役員に登用され、加えてその地域の担当責任者にするのが通例だった
- [29]個性尊重の建前から各店に仕入れ権限などを大きく委譲していたことで、名前だけの全国チェーンという批判もあった
衣料品だけの品ぞろえは、合併から3年目に広がり始めた。1966年に日用品の取扱いを始め、1969年までに食料品、家具類、家電製品を順に加えて総合小売業の形を整えている。それでも衣料品を主体に据え続けたのは、ファッション性を高めれば付加価値が上がり、ロス率を下げれば成果が出る、流通段階で最も効率よく原価を下げられる商品だと西端氏が見ていたからである。1968年には外食事業に参入し、初の専門店エルメを梅田に出した。店舗は文化性と情報の集積度が高い場所に置くという考えから大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパート型の店舗が多くを占めた。
- 証券 1975年27巻9号
- [30]ニチイは1966年(昭和41年)に日用品の取扱いを始めた
- [31]1966年の日用品を皮切りに、1969年(昭和44年)までに食料品、家具類、家電製品と逐次取扱商品を増やし、総合小売業の形態を整えた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [32]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられる商品であり、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出し、ロス率を下げることで大きな成果が上がると説明した
- [34]西端行雄氏は、衣料品中心の会社であるため文化性が高く情報の集積度の高いところという意味で大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパートという形の店が多いと述べた
- マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
- [33]ニチイは1968年に外食事業を開始し、初の専門店「エルメ」を梅田に出店した
参考文献[18]-[34]
- 証券 1975年27巻9号
- [18]株式会社ニチイの設立は1963年(昭和38年)11月25日(形式上の設立は1947年4月26日)
- [19]ニチイは1963年11月、当時すでにセルフサービス方式による衣料品販売を行っていた株式会社セルフハトヤを中心に、同業の岡本商店、ヤマト小林商店、仕入先のエルピスの4社が合併して設立された
- [30]ニチイは1966年(昭和41年)に日用品の取扱いを始めた
- [31]1966年の日用品を皮切りに、1969年(昭和44年)までに食料品、家具類、家電製品と逐次取扱商品を増やし、総合小売業の形態を整えた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [20]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
- [22]ニチイ設立時の店舗数は12、売上高は28億円だった
- [23]社名のニチイは日本化薬の原安三郎会長が命名した。日本が1つになれ、分散している小売業が1つになってこそ本当の小売業が生まれるという意味が込められていた
- [24]チェーンオペレーションの展開は標準的なものをつくって単純化・規格化するのが在来のあり方だが、ニチイは合併当初から3つの型の会社が集まった形で出発した
- [25]合併当初、セルフハトヤは都心型、岡本商店は郊外型、ヤマト小林商店は大型店と小型店の中間型だった
- [32]西端行雄氏は、衣料品はファッション性を高めて付加価値を上げられる商品であり、流通段階で最も効率的に原価低減の力を出し、ロス率を下げることで大きな成果が上がると説明した
- [34]西端行雄氏は、衣料品中心の会社であるため文化性が高く情報の集積度の高いところという意味で大都市中心主義をとり、駅前のショッピングデパートという形の店が多いと述べた
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [21]1963年11月に合併したのはハトヤ(西端行雄氏)、岡本商店(岡本常男氏)、ヤマト小林(小林敏峯氏)、エルピス(福田博之氏)の4社で、4氏はいずれもニチイの社長・副社長となった
- [27]西端行雄氏は、異質なものが存在するということはそれぞれに存在価値があるのであって、無理に1つのパターンを押しつける必要はないと述べた
- [28]合併した会社の以前の経営者はニチイの役員に登用され、加えてその地域の担当責任者にするのが通例だった
- [29]個性尊重の建前から各店に仕入れ権限などを大きく委譲していたことで、名前だけの全国チェーンという批判もあった
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [26]当初の合併にあたり、従来のチェーンオペレーションの展開方法とは異なり、あえて標準化・規格化を避け、都心型の店、その中間、小さな商店街の店という3つの形態を持った会社が集まった
- [33]ニチイは1968年に外食事業を開始し、初の専門店「エルメ」を梅田に出店した
1969年〜合併で取得した店舗網と、10年で超えた年商1,000億円
ニチイが近畿の外へ出る手段は、自前の出店ではなく合併だった。1969年11月にニューニチイなど5社を吸収合併したのを皮切りに、1971年に7社、1972年に4社と合併を重ね、上場前までに22社を吸収している。1972年11月には営業譲受によって40店舗を一度に取得した。1975年2月末の117店のうち、主力の近畿では72店中30店、進出の足掛かりとなった中国・四国では27店中24店、九州に至っては8店中7店が合併で得た店舗である。中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を押さえ、企業規模を短期間で拡大した。
- 証券 1975年27巻9号
- [35]ニチイは1969年11月に株式会社ニューニチイ等5社を吸収合併したのを手始めに、22社にも上る会社との合併を重ねて近畿地方の店舗網を強化する一方、中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を確保した
- [37]1972年(昭和47年)11月に営業譲受により40店舗を取得した
- [38]近畿地方では72店舗のうち30店舗、中国・四国地方では27店舗のうち24店舗、九州地方では8店舗のうち7店舗が合併により取得したものだった(1975年2月期時点、全国117店舗)
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [36]ニチイは1969年から1972年(昭和44年から47年)にかけて全国各地の小売業者約20社を合併した
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [39]西端行雄氏は、4社で始まったニチイに現在では23社が集まり、118の店舗を有するようになったと述べた(1975年9月時点)
一国一城の主を合併に応じさせる仕掛けは、時間とポストだった。埼玉県の中堅スーパー尾張屋は、店舗数8、年商67億円だった1971年10月にニチイと提携し、折半出資の地域法人埼玉ニチイを設立している。1年後に尾張屋はニチイと合併したが、旧尾張屋系の店はニチイが全額出資する新会社が引き継ぎ、名実ともに一本化されたのは1976年8月だった。合併先の経営者が育ててきた店名への執着は人間として当然のものとして扱われ、屋号も仕入れの仕組みも当面そのまま残された。尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務として関東・東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏は副社長に就任した。1977年時点の役員32人のうち、銀行や警察の出身者を除く27人が合併先の元経営者である。
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [40]合併した会社の経営者はみなそれぞれ一国一城の主であり、合併後も本当に一本化するまでに相当長い時間をかけていた
- [41]埼玉県に本拠を置く中堅スーパー尾張屋は当時店舗数8、年間67億円の売上で、1971年(昭和46年)10月にニチイと提携し、折半出資で地域法人の埼玉ニチイを設立した
- [42]提携の1年後にニチイと尾張屋が合併したが、ニチイ100%出資の新尾張屋が発足して旧尾張屋系の店を統括し、1976年(昭和51年)8月にニチイが新尾張屋を再合併して一本化が完了した
- [43]西端行雄氏は、自分が大事に育ててきたもの、たとえば店名などを大切に思うのは人間なら当然であり、そういった執着心は大事にしなければいけないと述べた
- [44]尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務・関東東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏はニチイ副社長となった
- [45]ニチイの役員は1977年時点で32人おり、銀行出身者や元警察署長を除く27人が合併先の元オーナー経営者だった
発足時に28億円だった売上高は、10年で桁が2つ変わった。1963年度に32億円、1965年度に70億円、1966年度に100億円、1968年度に300億円と積み上がり、創立10年目には長期計画に掲げた1,000億円をはるかに超えている。1973年度にあたる1974年2月期の売上高は1,659億円で、前年比63%増だった。事業の裾野も広がり、1972年には総合ビル管理のニチイメンテナンスを設立し、1973年には香港に駐在事務所を置いて英国のアパレルメーカーであるターン社と業務提携している。合併で店舗網を取得し、衣料品で稼ぐ体制が、この10年でひと通り出来上がった。
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [46]西端行雄氏は、当初28億円という小規模な売上が1963年(昭和38年)には32億円、1965年(昭和40年)は不況にもめげず70億円、1966年(昭和41年)は100億円、1968年(昭和43年)は300億円と増加したと述べた
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [47]西端行雄氏が長期計画で年商1,000億円を掲げたときは正気を疑われたが、会社創立10年目には目標額の1,000億円をはるかに超えた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [48]1973年度(1974年2月期)の売上高は1,659億円で、前年対比63%増だった
- マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
- [49]ニチイは1972年に総合ビル管理会社ニチイメンテナンスを設立し、1973年に香港駐在事務所を設置、英国のアパレルメーカー「ターン」社と業務提携した
参考文献[35]-[49]
- 証券 1975年27巻9号
- [35]ニチイは1969年11月に株式会社ニューニチイ等5社を吸収合併したのを手始めに、22社にも上る会社との合併を重ねて近畿地方の店舗網を強化する一方、中国、四国、九州、関東の順に営業地盤を確保した
- [37]1972年(昭和47年)11月に営業譲受により40店舗を取得した
- [38]近畿地方では72店舗のうち30店舗、中国・四国地方では27店舗のうち24店舗、九州地方では8店舗のうち7店舗が合併により取得したものだった(1975年2月期時点、全国117店舗)
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- [36]ニチイは1969年から1972年(昭和44年から47年)にかけて全国各地の小売業者約20社を合併した
- [40]合併した会社の経営者はみなそれぞれ一国一城の主であり、合併後も本当に一本化するまでに相当長い時間をかけていた
- [41]埼玉県に本拠を置く中堅スーパー尾張屋は当時店舗数8、年間67億円の売上で、1971年(昭和46年)10月にニチイと提携し、折半出資で地域法人の埼玉ニチイを設立した
- [42]提携の1年後にニチイと尾張屋が合併したが、ニチイ100%出資の新尾張屋が発足して旧尾張屋系の店を統括し、1976年(昭和51年)8月にニチイが新尾張屋を再合併して一本化が完了した
- [43]西端行雄氏は、自分が大事に育ててきたもの、たとえば店名などを大切に思うのは人間なら当然であり、そういった執着心は大事にしなければいけないと述べた
- [44]尾張屋の代表取締役だった大岩俊雄氏はニチイ常務・関東東海本部長を務め、みとうの社長だった三藤茂氏はニチイ副社長となった
- [45]ニチイの役員は1977年時点で32人おり、銀行出身者や元警察署長を除く27人が合併先の元オーナー経営者だった
- [47]西端行雄氏が長期計画で年商1,000億円を掲げたときは正気を疑われたが、会社創立10年目には目標額の1,000億円をはるかに超えた
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- [39]西端行雄氏は、4社で始まったニチイに現在では23社が集まり、118の店舗を有するようになったと述べた(1975年9月時点)
- [46]西端行雄氏は、当初28億円という小規模な売上が1963年(昭和38年)には32億円、1965年(昭和40年)は不況にもめげず70億円、1966年(昭和41年)は100億円、1968年(昭和43年)は300億円と増加したと述べた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- [48]1973年度(1974年2月期)の売上高は1,659億円で、前年対比63%増だった
- [49]ニチイは1972年に総合ビル管理会社ニチイメンテナンスを設立し、1973年に香港駐在事務所を設置、英国のアパレルメーカー「ターン」社と業務提携した
筆者考察
ニチイは、店を作って増やした会社ではなく、店を持つ会社を集めて大きくなった会社である。1963年に合併した4社はいずれも中小の衣料品店と問屋で、合わせても12店・売上28億円にすぎない。西端行雄氏が3坪の店で得たのは、接客の巧拙ではなく店の構造を変えれば売上が3倍にも5倍にもなるという確信であり、それを企業そのものの組み合わせへ延長したのが4社合併だった。以後の10年で22社を吸収し、1975年の117店のうち九州では8店中7店までが合併で得た店である。自前で土地を探して店を建てる速さでは、この広がり方には追いつかない。合併は規模を買う手段であると同時に、出店の時間を買う手段でもあった。
合併を続けられた理由は、合併の後に何もそろえなかったところにある。ニチイは店名も仕入れの権限も当面そのまま残し、合併先の経営者を本社の役員と地域の責任者に据えた。1977年の役員32人のうち27人が合併先の元オーナーで、会社は経営者の連合体に近い形をとっている。標準的な店を作って単純化と規格化を積み上げるチェーンストアの定石からは外れており、名前だけの全国チェーンだという批判も受けた。それでも一国一城の主を動かすには、理念だけでなく権限とポストが要る。10年で年商1,000億円を超える速さは、この譲歩と引き換えに買ったものだった。
- 1963年から1968年は西端行雄氏の講演(証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号)による各年の売上高。1973年度は1974年2月期の実績。
出典・参考
6件
- マイカル公式サイト「マイカルのあゆみ」(2006年11月時点)
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻10号(西端行雄)
- 証券アナリストジャーナル 1975年13巻9号(西端行雄)
- 証券 1975年27巻9号
- 日経ビジネス 1977年3月28日号
- 政経人 1978年「関西経営者評伝(5) 西端行雄ニチイ社長」