ユニー の歴史

創業

1971年

創業者

西川俊男

創業地

愛知県名古屋市

直近売上高(2016/2)

8,647億円

長期業績と転換点(2002/2〜2016/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1971年に中京の同業二社は合併し、ユニーが発足したのか
A 外資が来る前に規模を確保する必要があった。小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年の完全自由化まで日程が決まっていた。欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強く、各社が提携と合併へ動いている。1969年8月に西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーが共同仕入会社を設立し、1971年2月21日に4社が合併してユニーが発足した。ただし西川俊男社長が語った当面の課題は国際企業ではなく、地元同士が一緒になって中部圏で早く首位に立つことであった
Q なぜ1984年にユニーはコンビニエンスストアを本体でなく別会社で始めたのか
A 主力の大型店が規制で出しにくくなったためである。1974年3月施行の大規模小売店舗法は売場面積で大型店の出店を規制し、1979年5月施行の改正でさらに強まった。日本産業史はコンビニ成長の背景の第一に、規制の枠外の小型店へ大手スーパーが向かったことを挙げている。ユニーは1984年1月にサークルケイ・ジャパンを設立した。別会社に置いたのは、さが美やユーストアと同じである。この事業は2012年2月期に営業収益1,878億円で203億円のセグメント利益を上げ、8,003億円を売る総合小売業の181億円を超えた
Q なぜ2015年にユニーは自主独立を捨て、ファミリーマートとの統合を選んだのか
A 総合スーパーとコンビニの二本柱がそろって崩れ、単独では立て直せなくなったためである。地盤の東海ではイオンが大型ショッピングセンターを相次いで開き、岐阜が地盤のバローが価格で攻めてきた。サークルKサンクスは加盟店の離反が続き、1店1日当たりの売上高でセブン-イレブンに約20万円の差をつけられていた。2015年1月に創業家出身の西川俊男氏が死去し、3期連続の減益が確定的となるなかで前村哲路会長と中村元彦社長が退く。3月に就任した佐古則男社長は伊藤忠商事とのつながりを使い、同月10日の取締役会で協議開始を決議した

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1927年〜 横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで

  1. 1949年 前身の一つである西川屋を設立
  2. 1950年 前身の一つであるほていやを設立(登記上の年月)

呉服専門店として始まり、扱う品を広げて量販店になる

ユニーの登記上の前身にあたるほていやは、1927年に横浜の伊勢佐木町で呉服専門店として開店[1]した。戦後の1950年3月に株式会社ほていや呉服店となり[2]、有価証券報告書はこの年月をユニーの登記上の設立として記す[3]。1962年には商号を株式会社ほていやへ改める[4]とともに、扱う品目を呉服から食料品、化粧品、薬品、日用雑貨へと広げた。呉服一品目の専門店が、生活必需品を並べる量販店へ業態を変えた[5]のはこの時期である。もう一方の前身である西川屋は、1949年12月に設立された[6]。両社はのちに株式会社ほていや、株式会社西川屋チエンとして中京圏で並び立つ[7]

  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」
    • [1]ほていやの発祥は1927年、横浜の伊勢佐木町の呉服専門店
    • [2]1950年に株式会社ほていや呉服店となった
    • [4]1962年に商号を株式会社ほていやへ変更し、取扱品目を呉服のほか食料品・化粧品・薬品・日用雑貨へ拡大
    • [5]1962年の商号変更と同時に取扱品目を拡大し量販店としての道を歩み始めた
  • 有価証券報告書
    • [3]有報はほていやの昭和25年3月を「当社の登記上の年月」と記す
    • [6]西川屋は昭和24年12月設立
    • [7]合併前の法人名は株式会社ほていやと株式会社西川屋チエン

量販店に転じたほていやは、販売部門を地域ごとに切り出した[8]。1967年に株式会社関東ほていや、翌1968年に株式会社中部ほていやを設立[9]し、それぞれへ営業を譲渡した。販売の責任を地域会社に持たせ、経営規模の拡大に対応[10]するねらいであった。この2社は1971年に関東ユニー、中部ユニーへ商号を変える[11]。尾張を地盤とする西川屋も、株式会社西川屋チエンとしてチェーン経営[12]を進めた。名古屋六番町店のような直営店を構え[13]、衣料品と食品を扱う店舗網を中京圏に築いた。前身の2社はこうして、呉服商から出発しながら同じ総合小売の業態へ近づいた[14]

  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」
    • [8]ほていやは販売部門を関東・中部の地域会社へ切り出した
    • [9]1967年に関東ほていや、1968年に中部ほていやを設立し営業を譲渡
    • [10]販売部門の強化と責任体制確立が地域会社設立の理由
    • [11]関東ほていやは1971年に関東ユニー、中部ほていやは中部ユニーへ商号変更
    • [14]ほていやは1927年開業の呉服専門店、さが美はユニーの呉服部門から分離独立した
  • 有価証券報告書
    • [12]西川屋の法人名は株式会社西川屋チエン
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」
    • [13]西川屋チエンには名古屋六番町店があり、ドライ食品などを扱っていた
  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」
    • [1]ほていやの発祥は1927年、横浜の伊勢佐木町の呉服専門店
    • [2]1950年に株式会社ほていや呉服店となった
    • [4]1962年に商号を株式会社ほていやへ変更し、取扱品目を呉服のほか食料品・化粧品・薬品・日用雑貨へ拡大
    • [5]1962年の商号変更と同時に取扱品目を拡大し量販店としての道を歩み始めた
    • [8]ほていやは販売部門を関東・中部の地域会社へ切り出した
    • [9]1967年に関東ほていや、1968年に中部ほていやを設立し営業を譲渡
    • [10]販売部門の強化と責任体制確立が地域会社設立の理由
    • [11]関東ほていやは1971年に関東ユニー、中部ほていやは中部ユニーへ商号変更
    • [14]ほていやは1927年開業の呉服専門店、さが美はユニーの呉服部門から分離独立した
  • 有価証券報告書
    • [3]有報はほていやの昭和25年3月を「当社の登記上の年月」と記す
    • [6]西川屋は昭和24年12月設立
    • [7]合併前の法人名は株式会社ほていやと株式会社西川屋チエン
    • [12]西川屋の法人名は株式会社西川屋チエン
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」
    • [13]西川屋チエンには名古屋六番町店があり、ドライ食品などを扱っていた

百貨店法の網をくぐった総合スーパーが小売業の上位に並ぶ

二つの前身が量販店へ移っていた1960年代は、日本の小売業で主役が入れ替わった時期[15]にあたる。1956年に施行された百貨店法[16]は、基準を超える売場面積の百貨店出店を企業単位で規制した。スーパーはフロアごとに別会社を設立し、全体で大型店を運営する方法でこの規制を避け、疑似百貨店と呼ばれる総合スーパーを広げた[17]。1960年度の小売業売上高上位10社は三越、高島屋などすべて百貨店[18]だったが、1967年度にはダイエーが580億円で5位、西友が320億円で10位に入った[19]。百貨店は同法の保護のもとで拡大の意欲を失い[20]、新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の研究に熱心[21]であった。

  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [15]1960年代に小売業売上高上位の顔ぶれが百貨店からスーパーへ入れ替わった
    • [16]百貨店法は1956年施行、企業主義で基準以上の売場面積の出店を規制
    • [17]スーパーはフロアごとに別会社を設立して規制を回避し、疑似百貨店としてGMSを展開した
    • [18]昭和35年度の小売業売上高上位10社はすべて百貨店
    • [19]昭和42年度にダイエーが売上高580億円で5位、西友が320億円で10位
    • [20]百貨店法の保護でライバルの進出が減り、百貨店はかつての事業拡大意欲が衰えた
    • [21]新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の勉強・研究に熱心だった

規模を急ぐ理由は規制のほかにもあり[22]、小売業の資本自由化が1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年に完全自由化される日程[23]が決まっていた。当時の欧米の小売業は日本と桁の違う売上規模とチェーンストアの仕組みを持ち、上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強かった[24]。外資が来る前に規模を大きくして体力をつける[25]。この判断が各社を提携と合併へ向かわせ、1969年2月には岡田屋、フタギ、シロの合併でジャスコが設立された[26]。中京の二社が合併を考えたのも同じ流れ[27]のなかにある。

  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [22]出店規制に加え、資本自由化への備えが規模拡大の理由だった
    • [23]小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降順次進み、1975年に完全自由化
    • [24]欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐怖感が強かった
    • [25]外資進出前に規模を拡大して体力をつけるため提携・合併が盛んになった
    • [26]1969年2月に岡田屋・フタギ・シロが合併しジャスコが設立された
    • [27]日本産業史は昭和46年のユニー設立を資本自由化期の再編の一例として挙げる
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [15]1960年代に小売業売上高上位の顔ぶれが百貨店からスーパーへ入れ替わった
    • [16]百貨店法は1956年施行、企業主義で基準以上の売場面積の出店を規制
    • [17]スーパーはフロアごとに別会社を設立して規制を回避し、疑似百貨店としてGMSを展開した
    • [18]昭和35年度の小売業売上高上位10社はすべて百貨店
    • [19]昭和42年度にダイエーが売上高580億円で5位、西友が320億円で10位
    • [20]百貨店法の保護でライバルの進出が減り、百貨店はかつての事業拡大意欲が衰えた
    • [21]新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の勉強・研究に熱心だった
    • [22]出店規制に加え、資本自由化への備えが規模拡大の理由だった
    • [23]小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降順次進み、1975年に完全自由化
    • [24]欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐怖感が強かった
    • [25]外資進出前に規模を拡大して体力をつけるため提携・合併が盛んになった
    • [26]1969年2月に岡田屋・フタギ・シロが合併しジャスコが設立された
    • [27]日本産業史は昭和46年のユニー設立を資本自由化期の再編の一例として挙げる

1969年〜 資本自由化に備えて四社が合併し、郊外と低層に賭ける

  1. 1969年 西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの共同出資で共同仕入会社ユニーを設立
  2. 1971年 西川屋チエンとほていやの合併によるユニーの発足 資本自由化を前に、中京の同業二社はなぜ対等合併という道を選んだのか
  3. 1972年 稲沢配送センターが完成
  4. 1974年 高級呉服の専門店チェーンさが美を設立
  5. 1975年 系列販売会社の関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーを吸収合併
  6. 1975年 郊外型大型店の一宮店を開店
  7. 1976年 名古屋証券取引所第二部に上場

共同仕入会社を先に置き、二年後に四社を一つにする

合併はいきなり実行されたわけではない[28]。1969年8月、西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同出資し、共同仕入会社として株式会社ユニーを設立[29]した。仕入を先に束ね、そのうえで1971年2月21日、西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社となる[30]。本店は名古屋市中区栄に置き[31]、同時に系列販売会社として関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーの3社を設立[32]した。合併時に掲げた経営ポリシーは3点で、その第一が資本の自由化に対処して国際企業を完成させること[33]であった。

  • 有価証券報告書
    • [28]1969年に共同仕入会社を設立したうえで1971年に4社が合併した
    • [29]1969年8月に西川屋チエン・ほていや・タキヒヨーの3社共同出資で共同仕入会社ユニーを設立
    • [30]1971年2月21日に西川屋チエン・ほていや・ユニー・新名浜の4社が合併しユニー株式会社が発足
    • [31]合併時の本店は名古屋市中区栄二丁目10番19号
    • [32]合併と同時に系列販売会社の関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーを設立
    • [33]経営ポリシー第1項は「資本の自由化に対処して強力な国際企業の完成を目的とする」

ユニーという社名は、ユニークとユニバーサルの頭を取ったもので、国際企業としての発展を願って[34]付けられた。もっとも当面の課題はそこには置かれず、まず地元で一番になることに据えられた[35]。合併当時の売上規模は年間840億円[36]だった。合併の理由も同じところにあり、地元同士が一緒になれば中部圏でいち早く首位に立てるという計算[37]による。実際、日本産業史はほていやと西川屋チェーンの合併によるユニー設立[38]を、この時期に相次いだ小売業の再編の一例に挙げる。経営ポリシーの残る2点は、流通近代化と国民生活の向上に寄与すること、中部圏を基盤に広く同志とともにナショナルチェーン化を図る[39]ことであった。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [34]社名はユニーク・ユニバーサルの頭を取ったもので国際企業としての発展を願った
    • [35]国際的発展より前に、まず地元でナンバー・ワンになることを当面の課題にした
    • [36]合併当時の売上規模は年間840億円
    • [37]合併のねらいは地元同士が一緒になって中部圏で早く首位になること
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [38]日本産業史は昭和46年の「ほていや、西川屋チェーンの合併によるユニー設立」を再編の動きとして挙げる
  • 有価証券報告書
    • [39]経営ポリシーの第2項は流通近代化と国民生活の向上、第3項は中部圏を基盤としたナショナルチェーン化
  • 有価証券報告書
    • [28]1969年に共同仕入会社を設立したうえで1971年に4社が合併した
    • [29]1969年8月に西川屋チエン・ほていや・タキヒヨーの3社共同出資で共同仕入会社ユニーを設立
    • [30]1971年2月21日に西川屋チエン・ほていや・ユニー・新名浜の4社が合併しユニー株式会社が発足
    • [31]合併時の本店は名古屋市中区栄二丁目10番19号
    • [32]合併と同時に系列販売会社の関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーを設立
    • [33]経営ポリシー第1項は「資本の自由化に対処して強力な国際企業の完成を目的とする」
    • [39]経営ポリシーの第2項は流通近代化と国民生活の向上、第3項は中部圏を基盤としたナショナルチェーン化
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [34]社名はユニーク・ユニバーサルの頭を取ったもので国際企業としての発展を願った
    • [35]国際的発展より前に、まず地元でナンバー・ワンになることを当面の課題にした
    • [36]合併当時の売上規模は年間840億円
    • [37]合併のねらいは地元同士が一緒になって中部圏で早く首位になること
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [38]日本産業史は昭和46年の「ほていや、西川屋チェーンの合併によるユニー設立」を再編の動きとして挙げる

郊外の低層店と広い駐車場で他社と違う道を選ぶ

合併後のユニーが立てた方針は、社内で差別化戦略と呼ばれた。他社と同じことを避けるという一点で貫かれており、柱は3つある。第一は中部圏を固める店舗戦略、第二は郊外立地と低層店舗、第三は25歳から35歳への顧客層の絞り込み[41]であった。とくに第二の柱は同業との違いが際立ち[42]、地価の高い都心では効率のために高層ビルにせざるをえないが、地価の安い郊外なら1階から2階建てで広い売場が取れ[43]、建築費も安く済む。西川俊男社長はその差を顧客の利益に還元する考え[44]だと説明した。郊外を最も早く打ち出した結果、業界で最も多くの郊外店を持つに至った[45][40]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [40]新しい戦略を社内で「差別化戦略」と呼び、他社と同じことは避ける方針だった
    • [41]差別化戦略の3本柱は店舗戦略・郊外立地と低層店舗・顧客層を25〜35歳に絞ること
    • [42]郊外立地と低層店舗はユニーが業界で最も早く打ち出した方針だった
    • [43]都心は地価が高く高層化せざるをえないが、郊外なら1〜2階の低層店で広い売場が取れコストも安い
    • [44]西川俊男氏は当時のユニー社長で、コスト差を顧客の利益に還元する考えを示した
    • [45]最も早く郊外指向を打ち出し、業界で一番多く郊外店舗を持っていた

店舗と資本の整備は合併から数年[46]で進み、1975年2月に系列販売会社3社を吸収合併し[47]、同年6月には郊外型大型店の一宮店を開いた[48]。1976年12月に名古屋証券取引所第二部、1977年10月に東京証券取引所第二部へ上場[49]し、1978年8月には両取引所の市場第一部へ移った[50]。この間、1974年に高級呉服の専門店チェーンさが美を、1977年6月にスーパーマーケットチェーンのユーストアを設立[51]した。ユーストアの店舗は450坪と、主力店の4分の1程度の規模[52]であった。1977年2月には昇る太陽と暖かい心を象徴する新しいシンボルマークを採用[53]した。

  • 有価証券報告書
    • [46]1975年の系列販社合併から1978年の一部指定まで店舗と上場の整備が続いた
    • [47]1975年2月に関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーの3社を吸収合併
    • [48]1975年6月に郊外型大型店「一宮店」を開店
    • [50]1978年8月に東京・名古屋両証券取引所の市場第一部へ昇格
    • [51]1974年4月にさが美、1977年6月にユーストアを設立
    • [53]1977年2月に「昇る太陽と暖かい心」を象徴する新しいシンボルマークを採用
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [49]1976年12月1日に名証二部、1977年10月21日に東証二部へ上場
    • [52]ユーストアの店舗は450坪程度で、主流の1,500〜2,500坪の4分の1ほど

1977年の売上高は2,840億円[54]で、合併時の3倍を超えた。店舗数は88店、うち東海三県と北陸で60数店[55]を占め、売上の約70%が中部圏から上がった。関東は神奈川と群馬に16店[56]でシェアは14から15%にとどまった。借入金は1976年2月期の770億円から翌期720億円へ減り、1978年2月期には600億円程度まで下がる見込み[57]だった。当時の流通業界では大手による中小の吸収合併が進んでいたが、西川俊男氏(社長)は「小さいところは小さいなりに自主独立の体制を確立することが必要だ[58]」(証券アナリストジャーナル 1978年1月号)と述べた。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [54]1977年の売上高は2,840億円
    • [55]店舗数88店、愛知・岐阜・三重と北陸で60数店、売上の約70%が中部圏
    • [56]関東は神奈川・群馬に16店、売上シェアは14〜15%で約440億円
    • [57]借入金は1976年2月期770億円、1977年2月期720億円、1978年2月期は600億円程度の見込み
    • [58]西川俊男社長は流通再編のなかで自主独立の体制を確立する必要を説いた
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
    • [40]新しい戦略を社内で「差別化戦略」と呼び、他社と同じことは避ける方針だった
    • [41]差別化戦略の3本柱は店舗戦略・郊外立地と低層店舗・顧客層を25〜35歳に絞ること
    • [42]郊外立地と低層店舗はユニーが業界で最も早く打ち出した方針だった
    • [43]都心は地価が高く高層化せざるをえないが、郊外なら1〜2階の低層店で広い売場が取れコストも安い
    • [44]西川俊男氏は当時のユニー社長で、コスト差を顧客の利益に還元する考えを示した
    • [45]最も早く郊外指向を打ち出し、業界で一番多く郊外店舗を持っていた
    • [49]1976年12月1日に名証二部、1977年10月21日に東証二部へ上場
    • [52]ユーストアの店舗は450坪程度で、主流の1,500〜2,500坪の4分の1ほど
    • [54]1977年の売上高は2,840億円
    • [55]店舗数88店、愛知・岐阜・三重と北陸で60数店、売上の約70%が中部圏
    • [56]関東は神奈川・群馬に16店、売上シェアは14〜15%で約440億円
    • [57]借入金は1976年2月期770億円、1977年2月期720億円、1978年2月期は600億円程度の見込み
    • [58]西川俊男社長は流通再編のなかで自主独立の体制を確立する必要を説いた
  • 有価証券報告書
    • [46]1975年の系列販社合併から1978年の一部指定まで店舗と上場の整備が続いた
    • [47]1975年2月に関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーの3社を吸収合併
    • [48]1975年6月に郊外型大型店「一宮店」を開店
    • [50]1978年8月に東京・名古屋両証券取引所の市場第一部へ昇格
    • [51]1974年4月にさが美、1977年6月にユーストアを設立
    • [53]1977年2月に「昇る太陽と暖かい心」を象徴する新しいシンボルマークを採用

1980年〜 コンビニを第二の柱に据え、アピタで郊外の店をつくり直す

  1. 1984年 サークルケイ・ジャパンの設立によるコンビニエンスストアへの参入 大店法で総合スーパーの出店が詰まるなか、なぜ小型店を別会社に委ねたのか
  2. 1987年 香港に海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
  3. 1992年 東京都区内初の店舗、生活創庫UNYイースト21店を開店
  4. 1995年 本店を愛知県稲沢市へ移転
  5. 1997年 家田美智雄氏が会長に退き、佐々木孝治氏が社長に就任
  6. 1998年 サンクスアンドアソシエイツ株式の51%を400億円で公開買付け
  7. 2000年 サークルケイ・ジャパンとサンクスが持株会社の設立を発表

コンビニエンスストアを別会社として立ち上げる

1984年1月、ユニーはコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立[59]した。総合スーパーの出店は1974年に施行された大規模小売店舗法によって売場面積で規制され[60]、開店までに調整の時間を要するようになっていた。小型店で店舗数を増やす道は、本体ではなく別会社に持たせた[61]。ほていやが販売会社を地域ごとに設け、ユニーがユーストアやさが美を別に立てた[62]のと同じやり方で、新しい業態もまた独立した会社に委ねられた。この積み重ねが、2008年時点で子会社16社、うち上場6社というグループの姿[63]につながる。

  • 有価証券報告書
    • [59]1984年1月にコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパンを設立
    • [61]コンビニ事業はサークルケイ・ジャパンという別会社が担った
    • [62]ユニーは1974年にさが美、1977年にユーストアを別会社として設立した
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [60]大規模小売店舗法は1973年成立・1974年施行で、売場面積により大型店の出店を規制した
  • 週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」
    • [63]2008年時点でユニーには子会社16社があり、うち6社が上場していた

店舗は海外にも出て[64]、1987年6月にはUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗[65]としてUNY・CITYPLAZAを香港に開いた。1989年7月には世界デザイン博覧会[66]に出展した。1992年9月、東京都区内で初の店舗となる生活創庫UNYイースト21店[67]を開く。本社の所在もこの時期[68]に動き、1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町へそれぞれ移し[69]、1995年6月には本店も稲沢へ移した[70]。名古屋の中心部から、郊外型の店舗を並べてきた尾張の地へ本拠を移した[71]形である。

  • 有価証券報告書
    • [64]1987年6月に香港で海外初の店舗を開店した
    • [65]1987年6月にUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
    • [66]1989年7月に世界デザイン博覧会へ出展
    • [67]1992年9月に東京都区内初の店舗「生活創庫UNYイースト21店」を開店
    • [68]1993年11月と1995年6月の二度にわたり本店・本社事務所を移転した
    • [69]1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目26番8号へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町1番地へ移転
    • [70]1995年6月に本店を愛知県稲沢市天池五反田町へ移転
    • [71]移転先の稲沢市は1975年に郊外型大型店の一宮店を開いた尾張地方にあたる
  • 有価証券報告書
    • [59]1984年1月にコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパンを設立
    • [61]コンビニ事業はサークルケイ・ジャパンという別会社が担った
    • [62]ユニーは1974年にさが美、1977年にユーストアを別会社として設立した
    • [64]1987年6月に香港で海外初の店舗を開店した
    • [65]1987年6月にUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
    • [66]1989年7月に世界デザイン博覧会へ出展
    • [67]1992年9月に東京都区内初の店舗「生活創庫UNYイースト21店」を開店
    • [68]1993年11月と1995年6月の二度にわたり本店・本社事務所を移転した
    • [69]1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目26番8号へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町1番地へ移転
    • [70]1995年6月に本店を愛知県稲沢市天池五反田町へ移転
    • [71]移転先の稲沢市は1975年に郊外型大型店の一宮店を開いた尾張地方にあたる
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [60]大規模小売店舗法は1973年成立・1974年施行で、売場面積により大型店の出店を規制した
  • 週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」
    • [63]2008年時点でユニーには子会社16社があり、うち6社が上場していた

アピタが業界の評価を集め、戦後世代へ社長が代わる

1990年代のスーパー業界では既存店の売上が前年を下回る月が続いた[72]が、そのなかでユニーの新業態アピタは同業から高い評価を受けた。稲沢店では商品の70%を従来のユニーの品ぞろえが占め、残る30%[73]にブランドショップなど若い客向けの品を並べた。食品では黒豚や産地表示した牛、ムロアジの開きなど総合スーパーより一段上の品を扱いながら、粗利は18%に抑えた[74]。仕入れも見切りも担当者の判断で決める運用に改めた[75]ことも、大手スーパーの幹部から評価された。業界関係者は口をそろえてアピタはいいと評し[76]、稲沢店は土曜日で7分の入りであった[77]

  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」
    • [72]1990年代半ばのスーパー業界は既存店で前年を上回る月が少なかった
    • [73]アピタ稲沢店は商品の70%が従来のユニーの品ぞろえ、30%が若い人向け
    • [74]食品は総合スーパーよりワンランク上の品ぞろえで粗利は18%
    • [75]仕入れも見切りも担当者の判断で決めるよう改めた
    • [76]業界関係者は「アピタ(ユニーの新業態)はいい」と口を揃えた
    • [77]アピタ稲沢店は土曜日で七分の入りだった

評価は高くとも、当時の社長だった家田美智雄氏は周囲に「大手スーパーの中で一番先に潰れたっていわれるのだけはよそう[78]」(週刊東洋経済 1997年2月8日号)と漏らしていた。1997年10月、その家田氏は会長に退き、51歳の佐々木孝治氏が社長に就いた[79]。役員9人を抜く人事で、大手スーパー業界では初の戦後生まれの社長[80]となる。佐々木氏は西川屋チエンに入社し、名古屋六番町店でドライ食品を担当した。入社6年目の28歳から店長を務め、社長就任の直前は住関本部長としてアピタの採算改善に取り組んでいる[82][81]

  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」
    • [78]家田美智雄社長は「大手スーパーの中で一番先に潰れたっていわれるのだけはよそう」と周囲に漏らしていた
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」
    • [79]1997年10月に家田美智雄氏が会長へ、51歳の佐々木孝治氏が社長に就任
    • [80]役員9人抜きの抜擢で、大手スーパー業界初の戦後世代社長
    • [81]佐々木孝治氏は西川屋チエンに入社し名古屋六番町店でドライ食品に配属、28歳から店長
    • [82]社長就任直前の住関本部長時代にアピタの採算改善に取り組んだ
  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」
    • [72]1990年代半ばのスーパー業界は既存店で前年を上回る月が少なかった
    • [73]アピタ稲沢店は商品の70%が従来のユニーの品ぞろえ、30%が若い人向け
    • [74]食品は総合スーパーよりワンランク上の品ぞろえで粗利は18%
    • [75]仕入れも見切りも担当者の判断で決めるよう改めた
    • [76]業界関係者は「アピタ(ユニーの新業態)はいい」と口を揃えた
    • [77]アピタ稲沢店は土曜日で七分の入りだった
    • [78]家田美智雄社長は「大手スーパーの中で一番先に潰れたっていわれるのだけはよそう」と周囲に漏らしていた
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」
    • [79]1997年10月に家田美智雄氏が会長へ、51歳の佐々木孝治氏が社長に就任
    • [80]役員9人抜きの抜擢で、大手スーパー業界初の戦後世代社長
    • [81]佐々木孝治氏は西川屋チエンに入社し名古屋六番町店でドライ食品に配属、28歳から店長
    • [82]社長就任直前の住関本部長時代にアピタの採算改善に取り組んだ

サンクスの株式を買い、コンビニ第四勢力をつくる

1998年11月、ユニーと子会社のサークルケイ・ジャパンは、コンビニ業界6位のサンクスアンドアソシエイツの株式51%を総額400億円で公開買付け[83]した。当時のコンビニ業界はセブン-イレブン・ジャパン、ローソン、ファミリーマートの3社が抜けており[84]、5位と6位のままでは先細りが避けられないという読みがあった。買付けが成れば、エリア・フランチャイズを含む店舗数は4,650店となり、ファミリーマートに迫る[85]。仲介したのはM&A仲介会社の野村企業情報で、同年4月の提案をサークルケイが受けた[86]ものであった。

  • 週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」
    • [83]1998年11月にユニーとサークルケイ・ジャパンがサンクス株51%を総額400億円でTOB
    • [84]コンビニ業界はセブン-イレブン・ジャパン、ローソン、ファミリーマートの3社が突出していた
    • [85]両社の店舗数はエリアFCを含め4,650店(1998年9月末)でファミリーマートに迫る
    • [86]M&A仲介会社の野村企業情報が1998年4月にサークルケイへサンクス買収を提案した

ただし両社は合併へ進まなかった[87]。コンビニは加盟店とのフランチャイズ契約で成り立っており、契約内容の違いを埋める作業に膨大な時間と手間がかかる[88]ためである。統合の形は2000年9月に発表された持株会社[89]に落ち着いた。両社を合わせた店舗数は5,334店[90]で、3位ファミリーマートの5,685店に近づく。狙いは仕入交渉と物流にあり[91]、支払いを一本化して値入れ率を改善[92]し、物流センターを統廃合する。先行するセブン-イレブンとの物流費率の差はおよそ2ポイントあり[93]、放置すれば売るほど利益差が開く状態にあった。

  • 週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルK サンクス 合従連衡に賭ける」
    • [87]合併は見送られ、持株会社方式へ方向転換した
    • [89]2000年9月に翌年7月をめどとする持株会社の設立を発表
    • [90]両社合計の店舗数は5,334店(2000年8月末)、ファミリーマートは5,685店
    • [91]持株会社のねらいはメーカーとの仕入交渉と物流センターの統廃合だった
    • [92]取引先への支払いを一本化して値入れ率を改善し、物流センターを統廃合する計画だった
    • [93]セブン-イレブンとの売上高物流費率の差は2ポイント程度あった
  • 週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」
    • [88]合併には加盟店やエリアFCとの契約内容の違いを埋める膨大な作業が必要だった
  • 週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」
    • [83]1998年11月にユニーとサークルケイ・ジャパンがサンクス株51%を総額400億円でTOB
    • [84]コンビニ業界はセブン-イレブン・ジャパン、ローソン、ファミリーマートの3社が突出していた
    • [85]両社の店舗数はエリアFCを含め4,650店(1998年9月末)でファミリーマートに迫る
    • [86]M&A仲介会社の野村企業情報が1998年4月にサークルケイへサンクス買収を提案した
    • [88]合併には加盟店やエリアFCとの契約内容の違いを埋める膨大な作業が必要だった
  • 週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルK サンクス 合従連衡に賭ける」
    • [87]合併は見送られ、持株会社方式へ方向転換した
    • [89]2000年9月に翌年7月をめどとする持株会社の設立を発表
    • [90]両社合計の店舗数は5,334店(2000年8月末)、ファミリーマートは5,685店
    • [91]持株会社のねらいはメーカーとの仕入交渉と物流センターの統廃合だった
    • [92]取引先への支払いを一本化して値入れ率を改善し、物流センターを統廃合する計画だった
    • [93]セブン-イレブンとの売上高物流費率の差は2ポイント程度あった

2001年〜 自主独立を掲げ続けた会社が、統合で幕を下ろすまで

ユニーの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2004年 サークルケイ・ジャパンとサンクスの統合によるサークルKサンクスの発足 業界5位と6位を束ねて第四勢力をつくった判断は、なぜ加盟店の離反を招いたのか
  2. 2006年 伊藤忠商事と衣料品、食品の共同開発などで業務提携
  3. 2008年 ユーストアを吸収合併
  4. 2009年 伊藤忠商事から3%の出資を受け入れ、同社が実質的な筆頭株主に
  5. 2012年 サークルKサンクスの完全子会社化を目的に株式公開買付けを実施
  6. 2013年 純粋持株会社ユニーグループ・ホールディングスへ移行
  7. 2016年 ユニーグループ・ホールディングスの吸収合併と、サークルK・サンクスのファミリーマートへのブランド統一 3位のまま縮むか、4位と組んで1万8,000店を取るか——上田準二会長が10年越しで動かした経営統合

二つのコンビニを合併させたが、加盟店が離れていく

2004年、サークルケイ・ジャパンとサンクスアンドアソシエイツは合併し、株式会社サークルKサンクスとなった[94]。ところが二つのブランドは残され、中京圏を地盤とするサークルKと関東中心のサンクスが同じエリアで出店を続けた[95]ため、加盟店にとって相手は競合他社のままだった。加盟店からは合併以降に意思決定が遅くなった[96]という声が上がる。エリアフランチャイズの一部は本部の出資比率が低く、経営の実権を本部が握れていない[97]点も、後年の離反を招く条件となった。四国では旧サンクスと旧サークルKのエリアフランチャイズが同じ地域に併存[98]し、顧客の混乱も招いた。

  • 週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルKサンクス 止まらないFC離反」
    • [94]2004年にサークルケイ・ジャパンとサンクスアンドアソシエイツが合併しサークルKサンクスとなった
    • [95]二つのブランドを残したため、統合後も同じエリアで出店が続き加盟店には競合と映った
    • [96]加盟店から「合併以降、急激に意思決定が遅くなった」との声が上がった
    • [97]サンクス東四国への出資比率は31%と低く、本部が経営の実権を握れていなかった
    • [98]四国にはサンクス東四国とサークルケイ四国の2つのエリアFCがあり、統合後も同じエリアで出店して顧客の混乱を招いた

離反は2010年から続き[99]、サンクスアンドアソシエイツ富山がローソンへの転換を表明して事業を譲渡し[100]、千葉と東京で店舗を運営したシー・ヴイ・エス・ベイエリアも訴訟を経て15億円を支払って和解し、2012年5月に全店をローソンへ替えた[101]。2012年には香川と徳島でサンクス123店を運営するサンクスアンドアソシエイツ東四国がセブン-イレブンへの鞍替えを表明する[102]。1店1日当たりの売上高でセブン-イレブンとは約20万円の差[103]がついていた。ユニーは2012年4月にサークルKサンクスの完全子会社化を目的とする公開買付け[104]を実施し、同年8月に完全子会社とした。

  • 週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルKサンクス 止まらないFC離反」
    • [99]2010年のサンクス富山を皮切りにエリアFCの離反が相次いだ
    • [100]2010年にサンクス富山、2011年にCVSベイエリアがローソンへの転換を表明した
    • [101]CVSベイエリアは15億円を支払って和解し、2012年5月に全店をローソンへ転換した
    • [102]サンクス東四国は香川・徳島でサンクス123店を展開し、セブン-イレブンとの契約方針を表明した
    • [103]1店1日当たり売上高でセブン-イレブンとの差は約20万円
  • 有価証券報告書
    • [104]2012年4月にサークルKサンクスの完全子会社化を目的とする公開買付けを実施、同年8月に完全子会社化
  • 週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルKサンクス 止まらないFC離反」
    • [94]2004年にサークルケイ・ジャパンとサンクスアンドアソシエイツが合併しサークルKサンクスとなった
    • [95]二つのブランドを残したため、統合後も同じエリアで出店が続き加盟店には競合と映った
    • [96]加盟店から「合併以降、急激に意思決定が遅くなった」との声が上がった
    • [97]サンクス東四国への出資比率は31%と低く、本部が経営の実権を握れていなかった
    • [98]四国にはサンクス東四国とサークルケイ四国の2つのエリアFCがあり、統合後も同じエリアで出店して顧客の混乱を招いた
    • [99]2010年のサンクス富山を皮切りにエリアFCの離反が相次いだ
    • [100]2010年にサンクス富山、2011年にCVSベイエリアがローソンへの転換を表明した
    • [101]CVSベイエリアは15億円を支払って和解し、2012年5月に全店をローソンへ転換した
    • [102]サンクス東四国は香川・徳島でサンクス123店を展開し、セブン-イレブンとの契約方針を表明した
    • [103]1店1日当たり売上高でセブン-イレブンとの差は約20万円
  • 有価証券報告書
    • [104]2012年4月にサークルKサンクスの完全子会社化を目的とする公開買付けを実施、同年8月に完全子会社化

初の営業赤字を機に伊藤忠の出資を受け入れる

自前でやるという方針は、2000年代の後半までは維持されていた[105]。2006年に伊藤忠商事と衣料品や食品の共同開発で業務提携[106]し、年に4回の経営協議会を開いていたが、この時点では資本関係を結んでいない。2008年8月にはスーパーマーケットのユーストアを吸収合併[107]した。当時の前村哲路社長はその理由を、自主独立というか任せる経営をやってきたがグループ力が評価される時代では通用しなくなってきた[108]、と説明した。同社の考え方については「覇権主義ではなく、共存共栄[109]」(週刊東洋経済 2008年8月2日号)とも語った。

  • 週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」
    • [105]2006年の業務提携では資本関係を結ばず、協力関係という表現にとどめていた
    • [106]2006年から伊藤忠商事と衣料品・食品の共同開発などで業務提携し、年4回経営協議会を開いた
  • 有価証券報告書
    • [107]2008年8月にユーストアを吸収合併した
  • 週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」
    • [108]前村哲路氏は2007年に社長就任、ユーストア吸収の理由を「自主独立というか、任せる経営をやってきたが、グループ力が評価される時代では通用しなくなってきた」と述べた
    • [109]前村哲路社長は自社の戦い方を「覇権主義ではなく、共存共栄」と表現した

方針が変わったのは業績が崩れてから[110]で、地元を襲った自動車不況で業績が急速に悪化し、2009年8月中間決算では単独で初の営業赤字[111]に転落した。強みだったはずの価格でも地元スーパーに負けるようになった[112]と前村社長は認めた。2009年11月、ユニーは伊藤忠商事から2010年3月末までに3%の出資を受け入れると決めた。伊藤忠は実質的な筆頭株主となる。八丁みそに代表される東海の食習慣は地域外のチェーンには扱いにくく、そこに築いた地盤の強さが自前路線を支えてきた[114]が、その前提が崩れた形である。 [113]

  • 週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」
    • [110]業績悪化を受けて資本提携という保険をかけざるをえなくなった
    • [111]地元を襲った自動車不況で業績が急悪化し、2009年8月中間決算で単独初の営業赤字に転落した
    • [112]前村哲路社長は「強みである価格で地元スーパーに負けるようになった」と述べた
    • [113]2009年11月、伊藤忠商事から2010年3月末までに3%の出資を受け入れることを決め、伊藤忠が実質的筆頭株主となった
    • [114]八丁みそなど東海の独特の食習慣は地域外のチェーンには扱いにくく、ユニーの牙城は強固だった

2012年2月に持株会社体制へ移る準備会社としてユニーグループ・ホールディングス株式会社を設立し、2013年2月に純粋持株会社へ移行[115]した。連結売上高は2007年2月期の1兆617億円を最後に1兆円を割り込み、2013年2月期には8,589億円[116]まで下がる。連結経常利益も同じ期間に449億円から334億円[117]へ減った。2010年12月には中国の食品大手である頂新国際集団[118]と、中国本土での営業を主な目的とする合弁会社を設立した。国内で伸びない分を海外に求める動き[119]であった。連結の従業員数も2007年2月期の11,099人から2013年2月期の9,075人[120]へ減った。

  • 有価証券報告書
    • [115]2012年2月に準備会社としてユニーグループ・ホールディングスを設立、2013年2月に純粋持株会社へ移行
    • [116]連結売上高は2007年2月期1兆617億円、2013年2月期8,589億円
    • [117]連結経常利益は2007年2月期449億円、2013年2月期334億円
    • [118]2010年12月に中国の頂新国際集団と中国本土での営業を主目的とする合弁会社を設立
    • [120]連結従業員数は2007年2月期11,099人、2013年2月期9,075人
  • 週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」
    • [119]中国本土への出店はユニーの念願で、伊藤忠との提携により具体化した
  • 週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」
    • [105]2006年の業務提携では資本関係を結ばず、協力関係という表現にとどめていた
    • [106]2006年から伊藤忠商事と衣料品・食品の共同開発などで業務提携し、年4回経営協議会を開いた
    • [110]業績悪化を受けて資本提携という保険をかけざるをえなくなった
    • [111]地元を襲った自動車不況で業績が急悪化し、2009年8月中間決算で単独初の営業赤字に転落した
    • [112]前村哲路社長は「強みである価格で地元スーパーに負けるようになった」と述べた
    • [113]2009年11月、伊藤忠商事から2010年3月末までに3%の出資を受け入れることを決め、伊藤忠が実質的筆頭株主となった
    • [114]八丁みそなど東海の独特の食習慣は地域外のチェーンには扱いにくく、ユニーの牙城は強固だった
    • [119]中国本土への出店はユニーの念願で、伊藤忠との提携により具体化した
  • 有価証券報告書
    • [107]2008年8月にユーストアを吸収合併した
    • [115]2012年2月に準備会社としてユニーグループ・ホールディングスを設立、2013年2月に純粋持株会社へ移行
    • [116]連結売上高は2007年2月期1兆617億円、2013年2月期8,589億円
    • [117]連結経常利益は2007年2月期449億円、2013年2月期334億円
    • [118]2010年12月に中国の頂新国際集団と中国本土での営業を主目的とする合弁会社を設立
    • [120]連結従業員数は2007年2月期11,099人、2013年2月期9,075人
  • 週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」
    • [108]前村哲路氏は2007年に社長就任、ユーストア吸収の理由を「自主独立というか、任せる経営をやってきたが、グループ力が評価される時代では通用しなくなってきた」と述べた
    • [109]前村哲路社長は自社の戦い方を「覇権主義ではなく、共存共栄」と表現した

三期連続の減益のあと、統合が決まって上場が消える

地盤の東海では、イオンが大型ショッピングセンターを相次いで開き、岐阜が地盤の食品スーパーであるバローが価格で攻めてきた[121]。アピタとピアゴで高価格帯の自主企画商品を増やして応じたが、競合各社からは安くもなく上質でもないという評価を受けた[122]。首都圏では小型スーパーのミニピアゴが100店に近づいた[123]ものの、同事業は赤字を脱していない。それでも当時の前村哲路会長は自主独立の方針を崩さず、2014年7月にサークルKサンクスの売却検討が報じられた際には、事実無根の捏造記事であると強い調子で否定した[124]

  • 週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」
    • [121]東海ではイオンが大型SCを次々開業し、岐阜地盤のバローが価格攻勢をかけた
    • [122]競合他社はユニーを「特徴がなく、中途半端」「安いわけでもなく、上質のものを置いているわけでもない」と評した
    • [123]都市型ミニスーパー「ミニピアゴ」は100店が目前だったが同事業は赤字だった
    • [124]2014年7月のサークルKサンクス売却検討報道を、前村哲路会長は「まったくの捏造記事」「事実無根」と否定した

2015年1月1日、創業家出身で長く社長を務めた西川俊男氏が死去[125]した。同じ月、3期連続の減益が確定的となるなか、前村哲路会長と中村元彦社長が3月1日付で相談役に退く人事が発表される[126]。3月から社長となった佐古則男氏は伊藤忠との協業を始めた当人[127]で、社内の力関係が変わったところで統合の話が進んだ。2015年3月10日の取締役会でファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を決議[128]し、10月15日には対等の精神に則って統合するという基本合意書の締結を決めた[129]。佐古則男氏(社長)は発言力の強い社外OBの説得と伊藤忠とのつながりを使い、前年秋から統合の話を水面下で進めていた[130]

  • 週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」
    • [125]2015年1月1日に創業家出身でユニー社長を長く務めた西川俊男氏が死去
    • [126]2015年1月に前村哲路会長と中村元彦社長が3月1日付で相談役へ退く人事を発表、3期連続減益が確定的だった
    • [127]3月に社長となった佐古則男氏は「もともと私が伊藤忠との協業をスタートさせた」と述べた
    • [130]佐古則男社長は社外OBの説得と伊藤忠とのパイプを駆使し、前年秋から統合話を水面下で進めた
  • 有価証券報告書
    • [128]2015年3月10日の取締役会でファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を決議
    • [129]2015年10月15日の取締役会で対等の精神に則った経営統合の基本合意書締結を決議

統合の条件が詰められる間[131]も、業績は戻らなかった。2015年3月から8月の連結決算は増益予想から一転して営業減益となり、不振店舗の減損もあって6年ぶりの最終赤字に転落する[132]。総合スーパーは約230店[133]あり、赤字店はその4割とみられていた。最終期となる2016年2月期の連結売上高は8,647億円、当期純損失は28億円[134]である。2016年5月26日の定時株主総会で統合が承認され[135]、9月1日、ユニーグループ・ホールディングスはファミリーマートを存続会社とする吸収合併により消滅した[136]。合併比率はユニーグループ・ホールディングスの普通株式1株に対しファミリーマートの普通株式0.138株[137]と決まり、交付予定株式数は31,754,417株[138]であった。

  • 週刊東洋経済 2015年10月9日号「統合を前に弱みが露見 ユニー、必死の抵抗」
    • [131]2015年3〜8月期は営業減益となり6年ぶりの最終赤字に転落した
    • [132]2015年3〜8月期は増益予想から一転して営業減益となり、減損も響いて6年ぶりの最終赤字となった
    • [133]総合スーパーは全約230店で、赤字店舗は全体の4割とみられた
  • 有価証券報告書
    • [134]2016年2月期の連結売上高8,647億円、当期純損失28億円
    • [135]2016年5月26日の定時株主総会で経営統合が承認された
    • [136]2016年9月1日にファミリーマートを存続会社とする吸収合併でユニーグループ・ホールディングスは消滅した
    • [137]合併比率は当社普通株式1株に対しファミリーマート普通株式0.138株
    • [138]交付予定株式数は普通株式31,754,417株
  • 週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」
    • [121]東海ではイオンが大型SCを次々開業し、岐阜地盤のバローが価格攻勢をかけた
    • [122]競合他社はユニーを「特徴がなく、中途半端」「安いわけでもなく、上質のものを置いているわけでもない」と評した
    • [123]都市型ミニスーパー「ミニピアゴ」は100店が目前だったが同事業は赤字だった
    • [124]2014年7月のサークルKサンクス売却検討報道を、前村哲路会長は「まったくの捏造記事」「事実無根」と否定した
    • [125]2015年1月1日に創業家出身でユニー社長を長く務めた西川俊男氏が死去
    • [126]2015年1月に前村哲路会長と中村元彦社長が3月1日付で相談役へ退く人事を発表、3期連続減益が確定的だった
    • [127]3月に社長となった佐古則男氏は「もともと私が伊藤忠との協業をスタートさせた」と述べた
    • [130]佐古則男社長は社外OBの説得と伊藤忠とのパイプを駆使し、前年秋から統合話を水面下で進めた
  • 有価証券報告書
    • [128]2015年3月10日の取締役会でファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を決議
    • [129]2015年10月15日の取締役会で対等の精神に則った経営統合の基本合意書締結を決議
    • [134]2016年2月期の連結売上高8,647億円、当期純損失28億円
    • [135]2016年5月26日の定時株主総会で経営統合が承認された
    • [136]2016年9月1日にファミリーマートを存続会社とする吸収合併でユニーグループ・ホールディングスは消滅した
    • [137]合併比率は当社普通株式1株に対しファミリーマート普通株式0.138株
    • [138]交付予定株式数は普通株式31,754,417株
  • 週刊東洋経済 2015年10月9日号「統合を前に弱みが露見 ユニー、必死の抵抗」
    • [131]2015年3〜8月期は営業減益となり6年ぶりの最終赤字に転落した
    • [132]2015年3〜8月期は増益予想から一転して営業減益となり、減損も響いて6年ぶりの最終赤字となった
    • [133]総合スーパーは全約230店で、赤字店舗は全体の4割とみられた

ユニーの沿革1949〜2016年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
前身の一つである西川屋を設立
前身の一つであるほていやを設立(登記上の年月)
西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの共同出資で共同仕入会社ユニーを設立★★
西川屋チエンとほていやの合併によるユニーの発足資本自由化を前に、中京の同業二社はなぜ対等合併という道を選んだのか 詳細を読む★★★
稲沢配送センターが完成
高級呉服の専門店チェーンさが美を設立
系列販売会社の関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーを吸収合併★★
郊外型大型店の一宮店を開店★★
名古屋証券取引所第二部に上場
スーパーマーケットチェーンのユーストアを設立
東京証券取引所第二部に上場
東京、名古屋両証券取引所の市場第一部に指定替え
サークルケイ・ジャパンの設立によるコンビニエンスストアへの参入大店法で総合スーパーの出店が詰まるなか、なぜ小型店を別会社に委ねたのか 詳細を読む★★★
香港に海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
東京都区内初の店舗、生活創庫UNYイースト21店を開店
本店を愛知県稲沢市へ移転
家田美智雄氏が会長に退き、佐々木孝治氏が社長に就任★★
サンクスアンドアソシエイツ株式の51%を400億円で公開買付け★★
サークルケイ・ジャパンとサンクスが持株会社の設立を発表★★
サークルケイ・ジャパンとサンクスの統合によるサークルKサンクスの発足業界5位と6位を束ねて第四勢力をつくった判断は、なぜ加盟店の離反を招いたのか 詳細を読む★★★
伊藤忠商事と衣料品、食品の共同開発などで業務提携★★
ユーストアを吸収合併★★
伊藤忠商事から3%の出資を受け入れ、同社が実質的な筆頭株主に★★
中国の頂新国際集団と合弁会社を設立
サークルKサンクスの完全子会社化を目的に株式公開買付けを実施★★
純粋持株会社ユニーグループ・ホールディングスへ移行★★
創業家出身で社長を長く務めた西川俊男氏が死去★★
ファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を取締役会で決議★★
ファミリーマートとの経営統合に関する基本合意書を締結★★
ユニーグループ・ホールディングスの吸収合併と、サークルK・サンクスのファミリーマートへのブランド統一3位のまま縮むか、4位と組んで1万8,000店を取るか——上田準二会長が10年越しで動かした経営統合 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」
  • 有価証券報告書
  • 週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」
  • 週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」
  • 週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」
  • 週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」
  • 週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルK サンクス 合従連衡に賭ける」
  • 週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルKサンクス 止まらないFC離反」
  • 週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」
  • 週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」
  • 週刊東洋経済 2015年10月9日号「統合を前に弱みが露見 ユニー、必死の抵抗」

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