{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"8270","company_name":"ユニー","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/8270/","api_url":"/api/8270/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/8270/","title":"ユニーの歴史概略","sections":[{"start_year":1927,"end_year":1968,"main_title":"横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで","subsections":[{"title":"呉服専門店として始まり、扱う品を広げて量販店になる","text":"ユニーの登記上の前身にあたるほていやは、1927年に横浜の伊勢佐木町で呉服専門店として開店した。戦後の1950年3月に株式会社ほていや呉服店となり、有価証券報告書はこの年月をユニーの登記上の設立として記す。1962年には商号を株式会社ほていやへ改めるとともに、扱う品目を呉服から食料品、化粧品、薬品、日用雑貨へと広げた。呉服一品目の専門店が、生活必需品を並べる量販店へ業態を変えたのはこの時期である。もう一方の前身である西川屋は、1949年12月に設立された。両社はのちに株式会社ほていや、株式会社西川屋チエンとして中京圏で並び立つ。\n\n量販店に転じたほていやは、販売部門を地域ごとに切り出した。1967年に株式会社関東ほていや、翌1968年に株式会社中部ほていやを設立し、それぞれへ営業を譲渡した。販売の責任を地域会社に持たせ、経営規模の拡大に対応するねらいであった。この2社は1971年に関東ユニー、中部ユニーへ商号を変える。尾張を地盤とする西川屋も、株式会社西川屋チエンとしてチェーン経営を進めた。名古屋六番町店のような直営店を構え、衣料品と食品を扱う店舗網を中京圏に築いた。前身の2社はこうして、呉服商から出発しながら同じ総合小売の業態へ近づいた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「流通－急成長した総合スーパ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"百貨店法の網をくぐった総合スーパーが小売業の上位に並ぶ","text":"二つの前身が量販店へ移っていた1960年代は、日本の小売業で主役が入れ替わった時期にあたる。1956年に施行された百貨店法は、基準を超える売場面積の百貨店出店を企業単位で規制した。スーパーはフロアごとに別会社を設立し、全体で大型店を運営する方法でこの規制を避け、疑似百貨店と呼ばれる総合スーパーを広げた。1960年度の小売業売上高上位10社は三越、高島屋などすべて百貨店だったが、1967年度にはダイエーが580億円で5位、西友が320億円で10位に入った。百貨店は同法の保護のもとで拡大の意欲を失い、新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の研究に熱心であった。\n\n規模を急ぐ理由は規制のほかにもあり、小売業の資本自由化が1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年に完全自由化される日程が決まっていた。当時の欧米の小売業は日本と桁の違う売上規模とチェーンストアの仕組みを持ち、上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強かった。外資が来る前に規模を大きくして体力をつける。この判断が各社を提携と合併へ向かわせ、1969年2月には岡田屋、フタギ、シロの合併でジャスコが設立された。中京の二社が合併を考えたのも同じ流れのなかにある。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号「さが美」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「流通－急成長した総合スーパ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1969,"end_year":1979,"main_title":"資本自由化に備えて四社が合併し、郊外と低層に賭ける","subsections":[{"title":"共同仕入会社を先に置き、二年後に四社を一つにする","text":"合併はいきなり実行されたわけではない。1969年8月、西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同出資し、共同仕入会社として株式会社ユニーを設立した。仕入を先に束ね、そのうえで1971年2月21日、西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社となる。本店は名古屋市中区栄に置き、同時に系列販売会社として関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーの3社を設立した。合併時に掲げた経営ポリシーは3点で、その第一が資本の自由化に対処して国際企業を完成させることであった。\n\nユニーという社名は、ユニークとユニバーサルの頭を取ったもので、国際企業としての発展を願って付けられた。もっとも当面の課題はそこには置かれず、まず地元で一番になることに据えられた。合併当時の売上規模は年間840億円だった。合併の理由も同じところにあり、地元同士が一緒になれば中部圏でいち早く首位に立てるという計算による。実際、日本産業史はほていやと西川屋チェーンの合併によるユニー設立を、この時期に相次いだ小売業の再編の一例に挙げる。経営ポリシーの残る2点は、流通近代化と国民生活の向上に寄与すること、中部圏を基盤に広く同志とともにナショナルチェーン化を図ることであった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「流通－急成長した総合スーパ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"郊外の低層店と広い駐車場で他社と違う道を選ぶ","text":"合併後のユニーが立てた方針は、社内で差別化戦略と呼ばれた。他社と同じことを避けるという一点で貫かれており、柱は3つある。第一は中部圏を固める店舗戦略、第二は郊外立地と低層店舗、第三は25歳から35歳への顧客層の絞り込みであった。とくに第二の柱は同業との違いが際立ち、地価の高い都心では効率のために高層ビルにせざるをえないが、地価の安い郊外なら1階から2階建てで広い売場が取れ、建築費も安く済む。西川俊男社長はその差を顧客の利益に還元する考えだと説明した。郊外を最も早く打ち出した結果、業界で最も多くの郊外店を持つに至った。\n\n店舗と資本の整備は合併から数年で進み、1975年2月に系列販売会社3社を吸収合併し、同年6月には郊外型大型店の一宮店を開いた。1976年12月に名古屋証券取引所第二部、1977年10月に東京証券取引所第二部へ上場し、1978年8月には両取引所の市場第一部へ移った。この間、1974年に高級呉服の専門店チェーンさが美を、1977年6月にスーパーマーケットチェーンのユーストアを設立した。ユーストアの店舗は450坪と、主力店の4分の1程度の規模であった。1977年2月には昇る太陽と暖かい心を象徴する新しいシンボルマークを採用した。\n\n1977年の売上高は2,840億円で、合併時の3倍を超えた。店舗数は88店、うち東海三県と北陸で60数店を占め、売上の約70%が中部圏から上がった。関東は神奈川と群馬に16店でシェアは14から15%にとどまった。借入金は1976年2月期の770億円から翌期720億円へ減り、1978年2月期には600億円程度まで下がる見込みだった。当時の流通業界では大手による中小の吸収合併が進んでいたが、西川俊男氏（社長）は「小さいところは小さいなりに自主独立の体制を確立することが必要だ」（証券アナリストジャーナル 1978年1月号）と述べた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号「ユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「流通－急成長した総合スーパ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":2000,"main_title":"コンビニを第二の柱に据え、アピタで郊外の店をつくり直す","subsections":[{"title":"コンビニエンスストアを別会社として立ち上げる","text":"1984年1月、ユニーはコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立した。総合スーパーの出店は1974年に施行された大規模小売店舗法によって売場面積で規制され、開店までに調整の時間を要するようになっていた。小型店で店舗数を増やす道は、本体ではなく別会社に持たせた。ほていやが販売会社を地域ごとに設け、ユニーがユーストアやさが美を別に立てたのと同じやり方で、新しい業態もまた独立した会社に委ねられた。この積み重ねが、2008年時点で子会社16社、うち上場6社というグループの姿につながる。\n\n店舗は海外にも出て、1987年6月にはUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗としてUNY・CITYPLAZAを香港に開いた。1989年7月には世界デザイン博覧会に出展した。1992年9月、東京都区内で初の店舗となる生活創庫UNYイースト21店を開く。本社の所在もこの時期に動き、1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町へそれぞれ移し、1995年6月には本店も稲沢へ移した。名古屋の中心部から、郊外型の店舗を並べてきた尾張の地へ本拠を移した形である。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルＫ サンクス 合従連衡に賭ける」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"アピタが業界の評価を集め、戦後世代へ社長が代わる","text":"1990年代のスーパー業界では既存店の売上が前年を下回る月が続いたが、そのなかでユニーの新業態アピタは同業から高い評価を受けた。稲沢店では商品の70%を従来のユニーの品ぞろえが占め、残る30%にブランドショップなど若い客向けの品を並べた。食品では黒豚や産地表示した牛、ムロアジの開きなど総合スーパーより一段上の品を扱いながら、粗利は18%に抑えた。仕入れも見切りも担当者の判断で決める運用に改めたことも、大手スーパーの幹部から評価された。業界関係者は口をそろえてアピタはいいと評し、稲沢店は土曜日で7分の入りであった。\n\n評価は高くとも、当時の社長だった家田美智雄氏は周囲に「大手スーパーの中で一番先に潰れたっていわれるのだけはよそう」（週刊東洋経済 1997年2月8日号）と漏らしていた。1997年10月、その家田氏は会長に退き、51歳の佐々木孝治氏が社長に就いた。役員9人を抜く人事で、大手スーパー業界では初の戦後生まれの社長となる。佐々木氏は西川屋チエンに入社し、名古屋六番町店でドライ食品を担当した。入社6年目の28歳から店長を務め、社長就任の直前は住関本部長としてアピタの採算改善に取り組んでいる。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルＫ サンクス 合従連衡に賭ける」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"サンクスの株式を買い、コンビニ第四勢力をつくる","text":"1998年11月、ユニーと子会社のサークルケイ・ジャパンは、コンビニ業界6位のサンクスアンドアソシエイツの株式51%を総額400億円で公開買付けした。当時のコンビニ業界はセブン-イレブン・ジャパン、ローソン、ファミリーマートの3社が抜けており、5位と6位のままでは先細りが避けられないという読みがあった。買付けが成れば、エリア・フランチャイズを含む店舗数は4,650店となり、ファミリーマートに迫る。仲介したのはM&A仲介会社の野村企業情報で、同年4月の提案をサークルケイが受けたものであった。\n\nただし両社は合併へ進まなかった。コンビニは加盟店とのフランチャイズ契約で成り立っており、契約内容の違いを埋める作業に膨大な時間と手間がかかるためである。統合の形は2000年9月に発表された持株会社に落ち着いた。両社を合わせた店舗数は5,334店で、3位ファミリーマートの5,685店に近づく。狙いは仕入交渉と物流にあり、支払いを一本化して値入れ率を改善し、物流センターを統廃合する。先行するセブン-イレブンとの物流費率の差はおよそ2ポイントあり、放置すれば売るほど利益差が開く状態にあった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年2月8日号「“新業態”人気は「アピタ」がリード」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年10月11日号「ユニー社長 佐々木孝治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年11月7日号「サークルケイ サンクスを系列化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年12月9日号「サークルＫ サンクス 合従連衡に賭ける」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2001,"end_year":2016,"main_title":"自主独立を掲げ続けた会社が、統合で幕を下ろすまで","subsections":[{"title":"二つのコンビニを合併させたが、加盟店が離れていく","text":"2004年、サークルケイ・ジャパンとサンクスアンドアソシエイツは合併し、株式会社サークルＫサンクスとなった。ところが二つのブランドは残され、中京圏を地盤とするサークルＫと関東中心のサンクスが同じエリアで出店を続けたため、加盟店にとって相手は競合他社のままだった。加盟店からは合併以降に意思決定が遅くなったという声が上がる。エリアフランチャイズの一部は本部の出資比率が低く、経営の実権を本部が握れていない点も、後年の離反を招く条件となった。四国では旧サンクスと旧サークルＫのエリアフランチャイズが同じ地域に併存し、顧客の混乱も招いた。\n\n離反は2010年から続き、サンクスアンドアソシエイツ富山がローソンへの転換を表明して事業を譲渡し、千葉と東京で店舗を運営したシー・ヴイ・エス・ベイエリアも訴訟を経て15億円を支払って和解し、2012年5月に全店をローソンへ替えた。2012年には香川と徳島でサンクス123店を運営するサンクスアンドアソシエイツ東四国がセブン-イレブンへの鞍替えを表明する。1店1日当たりの売上高でセブン-イレブンとは約20万円の差がついていた。ユニーは2012年4月にサークルＫサンクスの完全子会社化を目的とする公開買付けを実施し、同年8月に完全子会社とした。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルＫサンクス 止まらないＦＣ離反」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年10月9日号「統合を前に弱みが露見 ユニー、必死の抵抗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"初の営業赤字を機に伊藤忠の出資を受け入れる","text":"自前でやるという方針は、2000年代の後半までは維持されていた。2006年に伊藤忠商事と衣料品や食品の共同開発で業務提携し、年に4回の経営協議会を開いていたが、この時点では資本関係を結んでいない。2008年8月にはスーパーマーケットのユーストアを吸収合併した。当時の前村哲路社長はその理由を、自主独立というか任せる経営をやってきたがグループ力が評価される時代では通用しなくなってきた、と説明した。同社の考え方については「覇権主義ではなく、共存共栄」（週刊東洋経済 2008年8月2日号）とも語った。\n\n方針が変わったのは業績が崩れてからで、地元を襲った自動車不況で業績が急速に悪化し、2009年8月中間決算では単独で初の営業赤字に転落した。強みだったはずの価格でも地元スーパーに負けるようになったと前村社長は認めた。2009年11月、ユニーは伊藤忠商事から2010年3月末までに3%の出資を受け入れると決めた。伊藤忠は実質的な筆頭株主となる。八丁みそに代表される東海の食習慣は地域外のチェーンには扱いにくく、そこに築いた地盤の強さが自前路線を支えてきたが、その前提が崩れた形である。\n\n2012年2月に持株会社体制へ移る準備会社としてユニーグループ・ホールディングス株式会社を設立し、2013年2月に純粋持株会社へ移行した。連結売上高は2007年2月期の1兆617億円を最後に1兆円を割り込み、2013年2月期には8,589億円まで下がる。連結経常利益も同じ期間に449億円から334億円へ減った。2010年12月には中国の食品大手である頂新国際集団と、中国本土での営業を主な目的とする合弁会社を設立した。国内で伸びない分を海外に求める動きであった。連結の従業員数も2007年2月期の11,099人から2013年2月期の9,075人へ減った。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルＫサンクス 止まらないＦＣ離反」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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ユニー、必死の抵抗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三期連続の減益のあと、統合が決まって上場が消える","text":"地盤の東海では、イオンが大型ショッピングセンターを相次いで開き、岐阜が地盤の食品スーパーであるバローが価格で攻めてきた。アピタとピアゴで高価格帯の自主企画商品を増やして応じたが、競合各社からは安くもなく上質でもないという評価を受けた。首都圏では小型スーパーのミニピアゴが100店に近づいたものの、同事業は赤字を脱していない。それでも当時の前村哲路会長は自主独立の方針を崩さず、2014年7月にサークルＫサンクスの売却検討が報じられた際には、事実無根の捏造記事であると強い調子で否定した。\n\n2015年1月1日、創業家出身で長く社長を務めた西川俊男氏が死去した。同じ月、3期連続の減益が確定的となるなか、前村哲路会長と中村元彦社長が3月1日付で相談役に退く人事が発表される。3月から社長となった佐古則男氏は伊藤忠との協業を始めた当人で、社内の力関係が変わったところで統合の話が進んだ。2015年3月10日の取締役会でファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を決議し、10月15日には対等の精神に則って統合するという基本合意書の締結を決めた。佐古則男氏（社長）は発言力の強い社外OBの説得と伊藤忠とのつながりを使い、前年秋から統合の話を水面下で進めていた。\n\n統合の条件が詰められる間も、業績は戻らなかった。2015年3月から8月の連結決算は増益予想から一転して営業減益となり、不振店舗の減損もあって6年ぶりの最終赤字に転落する。総合スーパーは約230店あり、赤字店はその4割とみられていた。最終期となる2016年2月期の連結売上高は8,647億円、当期純損失は28億円である。2016年5月26日の定時株主総会で統合が承認され、9月1日、ユニーグループ・ホールディングスはファミリーマートを存続会社とする吸収合併により消滅した。合併比率はユニーグループ・ホールディングスの普通株式1株に対しファミリーマートの普通株式0.138株と決まり、交付予定株式数は31,754,417株であった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年8月2日号「ユニー社長 前村哲路」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2009年11月7日号「自前路線とついに決別 孤高ユニーの窮余一策」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2012年11月9日号「サークルＫサンクス 止まらないＦＣ離反」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年3月13日号「自主独立路線とついに決別 追い詰められたユニー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2015年10月9日号「統合を前に弱みが露見 ユニー、必死の抵抗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1971年に中京の同業二社は合併し、ユニーが発足したのか","a":"外資が来る前に規模を確保する必要があった。小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年の完全自由化まで日程が決まっていた。欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強く、各社が提携と合併へ動いている。1969年8月に西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーが共同仕入会社を設立し、1971年2月21日に4社が合併してユニーが発足した。ただし西川俊男社長が語った当面の課題は国際企業ではなく、地元同士が一緒になって中部圏で早く首位に立つことであった。"},{"q":"なぜ1984年にユニーはコンビニエンスストアを本体でなく別会社で始めたのか","a":"主力の大型店が規制で出しにくくなったためである。1974年3月施行の大規模小売店舗法は売場面積で大型店の出店を規制し、1979年5月施行の改正でさらに強まった。日本産業史はコンビニ成長の背景の第一に、規制の枠外の小型店へ大手スーパーが向かったことを挙げている。ユニーは1984年1月にサークルケイ・ジャパンを設立した。別会社に置いたのは、さが美やユーストアと同じである。この事業は2012年2月期に営業収益1,878億円で203億円のセグメント利益を上げ、8,003億円を売る総合小売業の181億円を超えた。"},{"q":"なぜ2015年にユニーは自主独立を捨て、ファミリーマートとの統合を選んだのか","a":"総合スーパーとコンビニの二本柱がそろって崩れ、単独では立て直せなくなったためである。地盤の東海ではイオンが大型ショッピングセンターを相次いで開き、岐阜が地盤のバローが価格で攻めてきた。サークルＫサンクスは加盟店の離反が続き、1店1日当たりの売上高でセブン-イレブンに約20万円の差をつけられていた。2015年1月に創業家出身の西川俊男氏が死去し、3期連続の減益が確定的となるなかで前村哲路会長と中村元彦社長が退く。3月に就任した佐古則男社長は伊藤忠商事とのつながりを使い、同月10日の取締役会で協議開始を決議した。"}]},"auditVersion":2}