ユニーの登記上の前身にあたるほていやは、1927年に横浜の伊勢佐木町で呉服専門店として開店[1]した。戦後の1950年3月に株式会社ほていや呉服店となり[2]、有価証券報告書はこの年月をユニーの登記上の設立として記す[3]。1962年には商号を株式会社ほていやへ改める[4]とともに、扱う品目を呉服から食料品、化粧品、薬品、日用雑貨へと広げた。呉服一品目の専門店が、生活必需品を並べる量販店へ業態を変えた[5]のはこの時期である。もう一方の前身である西川屋は、1949年12月に設立された[6]。両社はのちに株式会社ほていや、株式会社西川屋チエンとして中京圏で並び立つ[7]。
量販店に転じたほていやは、販売部門を地域ごとに切り出した[8]。1967年に株式会社関東ほていや、翌1968年に株式会社中部ほていやを設立[9]し、それぞれへ営業を譲渡した。販売の責任を地域会社に持たせ、経営規模の拡大に対応[10]するねらいであった。この2社は1971年に関東ユニー、中部ユニーへ商号を変える[11]。尾張を地盤とする西川屋も、株式会社西川屋チエンとしてチェーン経営[12]を進めた。前身の2社はこうして、呉服商から出発しながら同じ総合小売の業態へ近づいた[13]。
二つの前身が量販店へ移っていた1960年代は、日本の小売業で主役が入れ替わった時期[14]にあたる。1956年に施行された百貨店法[15]は、基準を超える売場面積の百貨店出店を企業単位で規制した。スーパーはフロアごとに別会社を設立し、全体で大型店を運営する方法でこの規制を避け、疑似百貨店と呼ばれる総合スーパーを広げた[16]。1960年度の小売業売上高上位10社は三越、高島屋などすべて百貨店[17]だったが、1967年度にはダイエーが580億円で5位、西友が320億円で10位に入った[18]。百貨店は同法の保護のもとで拡大の意欲を失い[19]、新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の研究に熱心[20]であった。
規模を急ぐ理由は規制のほかにもあり[21]、小売業の資本自由化が1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年に完全自由化される日程[22]が決まっていた。当時の欧米の小売業は日本と桁の違う売上規模とチェーンストアの仕組みを持ち、上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強かった[23]。外資が来る前に規模を大きくして体力をつける[24]。この判断が各社を提携と合併へ向かわせ、1969年2月には岡田屋、フタギ、シロの合併でジャスコが設立された[25]。中京の二社が合併を考えたのも同じ流れ[26]のなかにある。
合併はいきなり実行されたわけではない[27]。1969年8月、西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同出資し、共同仕入会社として株式会社ユニーを設立[28]した。仕入を先に束ね、そのうえで1971年2月21日、西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社となる[29]。本店は名古屋市中区栄に置き[30]、同時に系列販売会社として関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーの3社を設立[31]した。合併時に掲げた経営ポリシーは3点で、その第一が資本の自由化に対処して国際企業を完成させること[32]であった。
ユニーという社名は、ユニークとユニバーサルの頭を取ったもので、国際企業としての発展を願って[33]付けられた。もっとも当面の課題はそこには置かれず、まず地元で一番になることに据えられた[34]。合併当時の売上規模は年間840億円[35]だった。合併の理由も同じところにあり、地元同士が一緒になれば中部圏でいち早く首位に立てるという計算[36]による。実際、日本産業史はほていやと西川屋チェーンの合併によるユニー設立[37]を、この時期に相次いだ小売業の再編の一例に挙げる。経営ポリシーの残る2点は、流通近代化と国民生活の向上に寄与すること、中部圏を基盤に広く同志とともにナショナルチェーン化を図る[38]ことであった。
合併後のユニーが立てた方針は、社内で差別化戦略と呼ばれた。他社と同じことを避けるという一点[39]で貫かれており、柱は3つある。第一は中部圏を固める店舗戦略、第二は郊外立地と低層店舗、第三は25歳から35歳への顧客層の絞り込み[40]であった。とくに第二の柱は同業との違いが際立ち[41]、地価の高い都心では効率のために高層ビルにせざるをえないが、地価の安い郊外なら1階から2階建てで広い売場が取れ[42]、建築費も安く済む。西川俊男社長はその差を顧客の利益に還元する考え[43]だと説明した。郊外を最も早く打ち出した結果、業界で最も多くの郊外店を持つに至った[44]。
店舗と資本の整備は合併から数年[45]で進み、1975年2月に系列販売会社3社を吸収合併し[46]、同年6月には郊外型大型店の一宮店を開いた[47]。1976年12月に名古屋証券取引所第二部、1977年10月に東京証券取引所第二部へ上場[48]し、1978年8月には両取引所の市場第一部へ移った[49]。この間、1974年に高級呉服の専門店チェーンさが美を、1977年6月にスーパーマーケットチェーンのユーストアを設立[50]した。ユーストアの店舗は450坪と、主力店の4分の1程度の規模[51]であった。1977年2月には昇る太陽と暖かい心を象徴する新しいシンボルマークを採用[52]した。
1977年の売上高は2,840億円[53]で、合併時の3倍を超えた。店舗数は88店、うち東海三県と北陸で60数店[54]を占め、売上の約70%が中部圏から上がった。関東は神奈川と群馬に16店[55]でシェアは14から15%にとどまった。借入金は1976年2月期の770億円から翌期720億円へ減り、1978年2月期には600億円程度まで下がる見込み[56]だった。当時の流通業界では大手による中小の吸収合併が進んでいたが、西川俊男氏(社長)は『小さいところは小さいなりに自主独立の体制を確立することが必要だ』[引用元](証券アナリストジャーナル 1978年1月号)と述べた。
1984年1月、ユニーはコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立[57]した。総合スーパーの出店は1974年に施行された大規模小売店舗法によって売場面積で規制され[58]、開店までに調整の時間を要するようになっていた。小型店で店舗数を増やす道は、本体ではなく別会社に持たせた[59]。ほていやが販売会社を地域ごとに設け、ユニーがユーストアやさが美を別に立てた[60]のと同じやり方で、新しい業態もまた独立した会社に委ねられた。
店舗は海外にも出て[61]、1987年6月にはUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗[62]としてUNY・CITYPLAZAを香港に開いた。1989年7月には世界デザイン博覧会[63]に出展した。1992年9月、東京都区内で初の店舗となる生活創庫UNYイースト21店[64]を開く。本社の所在もこの時期[65]に動き、1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町へそれぞれ移し[66]、1995年6月には本店も稲沢へ移した[67]。名古屋の中心部から、郊外型の店舗を並べてきた尾張の地へ本拠を移した[68]形である。
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|---|---|---|---|---|
| 1927〜1968年横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで | 前身の一つである西川屋を設立 | ★ | ||
| 前身の一つであるほていやを設立(登記上の年月) | ★ | |||
| 1969〜1979年資本自由化に備えて四社が合併し、郊外と低層に賭ける | 西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの共同出資で共同仕入会社ユニーを設立 | ★★ | ||
| 西川屋チエンとほていやの合併によるユニーの発足 1969年8月に西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同仕入会社ユニーを設立し、2年後の1971年2月21日に西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社が発足した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 稲沢配送センターが完成 | ★ | |||
| 高級呉服の専門店チェーンさが美を設立 | ★ | |||
| 系列販売会社の関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーを吸収合併 | ★★ | |||
| 郊外型大型店の一宮店を開店 | ★★ | |||
| 名古屋証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| スーパーマーケットチェーンのユーストアを設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| 東京、名古屋両証券取引所の市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 1980〜2000年コンビニを第二の柱に据え、アピタで郊外の店をつくり直す | サークルケイ・ジャパンの設立によるコンビニエンスストアへの参入 1984年1月、ユニーがコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立し、総合スーパーとは別の会社でコンビニ事業を始めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 香港に海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店 | ★ | |||
| 東京都区内初の店舗、生活創庫UNYイースト21店を開店 | ★ | |||
| 本店を愛知県稲沢市へ移転 | ★ | |||
| 佐々木孝治 | 家田美智雄氏が会長に退き、佐々木孝治氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 佐々木孝治 | サンクスアンドアソシエイツ株式の51%を400億円で公開買付け | ★★ | ||
| 佐々木孝治 | サークルケイ・ジャパンとサンクスが持株会社の設立を発表 | ★★ | ||
| 2001〜2016年自主独立を掲げ続けた会社が、統合で幕を下ろすまで | 佐々木孝治 | サークルケイ・ジャパンとサンクスの統合によるサークルKサンクスの発足 1998年11月にユニーと子会社のサークルケイ・ジャパンがサンクスアンドアソシエイツの株式51%を総額400億円で公開買付けし、2000年9月の持株会社構想を経て2004年に両社が合併し株式会社サークルKサンクスが発足した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 佐々木孝治 | 伊藤忠商事と衣料品、食品の共同開発などで業務提携 | ★★ | ||
| 前村哲路 | ユーストアを吸収合併 | ★★ | ||
| 前村哲路 | 伊藤忠商事から3%の出資を受け入れ、同社が実質的な筆頭株主に | ★★ | ||
| 前村哲路 | 中国の頂新国際集団と合弁会社を設立 | ★ | ||
| 前村哲路 | サークルKサンクスの完全子会社化を目的に株式公開買付けを実施 | ★★ | ||
| 中村元彦 | 純粋持株会社ユニーグループ・ホールディングスへ移行 | ★★ | ||
| 中村元彦 | 創業家出身で社長を長く務めた西川俊男氏が死去 | ★★ | ||
| 佐古則男 | ファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を取締役会で決議 | ★★ | ||
| 佐古則男 | ファミリーマートとの経営統合に関する基本合意書を締結 | ★★ | ||
| 佐古則男 | ユニーグループ・ホールディングスの吸収合併と、サークルK・サンクスのファミリーマートへのブランド統一 2015年3月10日に協議入りを公表し、2016年9月1日に実行した、ファミリーマートとユニーグループ・ホールディングスの経営統合。ファミリーマートを存続会社とする吸収合併でユニーグループ・ホールディングスを取り込み、商号をユニー・ファミリーマートホールディングスへ改めた。コンビニエンスストア事業は傘下のサークルKサンクスへ承継し、同社が株式会社ファミリーマートへ商号を変更している。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ユニー)