ユニー の歴史

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創業 1971年
創業者 西川俊男
創業地 愛知県名古屋市
創業
ユニーの登記上の前身は、1927年に横浜の伊勢佐木町で開いた呉服専門店のほていやである。1950年3月に株式会社ほていや呉服店となり、1962年には商号をほていやへ改めるとともに、扱いを呉服から食料品・化粧品・薬品・日用雑貨へ広げて量販店へ転じた。もう一方の前身は1949年12月に設立された西川屋で、尾張を地盤に西川屋チエンとしてチェーン経営を進める。1969年8月に西川屋チエン・ほていや・タキヒヨーの3社が共同仕入会社ユニーを設立し、1971年2月21日には4社が合併して名古屋市中区栄に本店を置くユニー株式会社が発足した。合併時の売上規模は年間840億円で、全国では中堅の位置にあった。
決断
規模が要るときは合併し、規制で詰まったときは別会社を立てた。合併後に掲げた差別化戦略は、中部圏を固める店舗配置、郊外立地と低層店舗、25歳から35歳への顧客層の絞り込みの3点からなる。地価の安い郊外なら1階から2階建てで広い売場と駐車場が取れ、建築費も安く済む。西川俊男社長はその差を顧客の利益へ還元すると説明し、業界で最も多くの郊外店を持つに至った。1977年の売上高は2,840億円と合併時の3倍を超え、88店のうち60数店を東海三県と北陸が占める。1984年1月には大規模小売店舗法の枠外にある小型店をサークルケイ・ジャパンとして設立した。新しい業態を本体へ入れなかったことが、のちに総合スーパーとコンビニを別々に切り離せる会社の形を作った。
現況
合併で作った本体より、別会社で始めたコンビニのほうが先に利益で上回った。2012年2月期のセグメントは、コンビニエンスストア事業が営業収益1,878億円で203億円の利益を上げ、8,003億円を売る総合小売業の181億円を超えている。1998年10月にサンクスアンドアソシエイツを子会社化し、2004年にはサンクスと統合してサークルKサンクスを発足させた。2013年2月に純粋持株会社ユニーグループ・ホールディングスへ移行したものの、連結売上高は2007年2月期の1兆617億円を最後に1兆円を割り、最終期の2016年2月期は8,647億円・当期純損失28億円であった。上場していた持株会社は消滅した。統合の相手がファミリーマートだったことは、1984年に本体から外した小型店のほうが会社の値段を決めていたことを示している。
競合
中京で首位に立つことと、全国で首位を争うことは別の課題だった。合併の名目は資本自由化への備えだったが、西川俊男社長が当面の課題に据えたのは地元での首位である。同じころ地方の中堅5社は対等合併でジャスコを発足させ、旧経営陣を地域会社の社長として残す連邦経営で全国化を進めた。ユニーは中部圏へ店を集め、1977年には売上の約70%を同地域から上げている。しかし東海ではイオンが大型ショッピングセンターを相次いで開き、岐阜が地盤のバローが価格で攻めた。サークルKサンクスも加盟店の離反が続き、1店1日当たり売上高でセブン-イレブンとの差は約20万円に開く。2016年、ユニーはファミリーマートとの統合を選び、上場を終えた。地元で一番になる設計は、地元の外から来る相手には効かなかった。
ユニー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年2月期2016年2月期

創業ストーリー 横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで (1927年〜)

横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで

呉服専門店として始まり、扱う品を広げて量販店になる

ユニーの登記上の前身にあたるほていやは、1927年に横浜の伊勢佐木町で呉服専門店として開店[1]した。戦後の1950年3月に株式会社ほていや呉服店となり[2]、有価証券報告書はこの年月をユニーの登記上の設立として記す[3]。1962年には商号を株式会社ほていやへ改める[4]とともに、扱う品目を呉服から食料品、化粧品、薬品、日用雑貨へと広げた。呉服一品目の専門店が、生活必需品を並べる量販店へ業態を変えた[5]のはこの時期である。もう一方の前身である西川屋は、1949年12月に設立された[6]。両社はのちに株式会社ほていや、株式会社西川屋チエンとして中京圏で並び立つ[7]

  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号
    • [1]ほていやの発祥は1927年、横浜の伊勢佐木町の呉服専門店
    • [2]1950年に株式会社ほていや呉服店となった
    • [4]1962年に商号を株式会社ほていやへ変更し、取扱品目を呉服のほか食料品・化粧品・薬品・日用雑貨へ拡大
    • [5]1962年の商号変更と同時に取扱品目を拡大し量販店としての道を歩み始めた
  • 有価証券報告書
    • [3]有報はほていやの昭和25年3月を「当社の登記上の年月」と記す
    • [6]西川屋は昭和24年12月設立
    • [7]合併前の法人名は株式会社ほていやと株式会社西川屋チエン

量販店に転じたほていやは、販売部門を地域ごとに切り出した[8]。1967年に株式会社関東ほていや、翌1968年に株式会社中部ほていやを設立[9]し、それぞれへ営業を譲渡した。販売の責任を地域会社に持たせ、経営規模の拡大に対応[10]するねらいであった。この2社は1971年に関東ユニー、中部ユニーへ商号を変える[11]。尾張を地盤とする西川屋も、株式会社西川屋チエンとしてチェーン経営[12]を進めた。前身の2社はこうして、呉服商から出発しながら同じ総合小売の業態へ近づいた[13]

  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号
    • [8]ほていやは販売部門を関東・中部の地域会社へ切り出した
    • [9]1967年に関東ほていや、1968年に中部ほていやを設立し営業を譲渡
    • [10]販売部門の強化と責任体制確立が地域会社設立の理由
    • [11]関東ほていやは1971年に関東ユニー、中部ほていやは中部ユニーへ商号変更
    • [13]ほていやは1927年開業の呉服専門店、さが美はユニーの呉服部門から分離独立した
  • 有価証券報告書
    • [12]西川屋の法人名は株式会社西川屋チエン
  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号
    • [1]ほていやの発祥は1927年、横浜の伊勢佐木町の呉服専門店
    • [2]1950年に株式会社ほていや呉服店となった
    • [4]1962年に商号を株式会社ほていやへ変更し、取扱品目を呉服のほか食料品・化粧品・薬品・日用雑貨へ拡大
    • [5]1962年の商号変更と同時に取扱品目を拡大し量販店としての道を歩み始めた
    • [8]ほていやは販売部門を関東・中部の地域会社へ切り出した
    • [9]1967年に関東ほていや、1968年に中部ほていやを設立し営業を譲渡
    • [10]販売部門の強化と責任体制確立が地域会社設立の理由
    • [11]関東ほていやは1971年に関東ユニー、中部ほていやは中部ユニーへ商号変更
    • [13]ほていやは1927年開業の呉服専門店、さが美はユニーの呉服部門から分離独立した
  • 有価証券報告書
    • [3]有報はほていやの昭和25年3月を「当社の登記上の年月」と記す
    • [6]西川屋は昭和24年12月設立
    • [7]合併前の法人名は株式会社ほていやと株式会社西川屋チエン
    • [12]西川屋の法人名は株式会社西川屋チエン

百貨店法の網をくぐった総合スーパーが小売業の上位に並ぶ

二つの前身が量販店へ移っていた1960年代は、日本の小売業で主役が入れ替わった時期[14]にあたる。1956年に施行された百貨店法[15]は、基準を超える売場面積の百貨店出店を企業単位で規制した。スーパーはフロアごとに別会社を設立し、全体で大型店を運営する方法でこの規制を避け、疑似百貨店と呼ばれる総合スーパーを広げた[16]。1960年度の小売業売上高上位10社は三越、高島屋などすべて百貨店[17]だったが、1967年度にはダイエーが580億円で5位、西友が320億円で10位に入った[18]。百貨店は同法の保護のもとで拡大の意欲を失い[19]、新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の研究に熱心[20]であった。

  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [14]1960年代に小売業売上高上位の顔ぶれが百貨店からスーパーへ入れ替わった
    • [15]百貨店法は1956年施行、企業主義で基準以上の売場面積の出店を規制
    • [16]スーパーはフロアごとに別会社を設立して規制を回避し、疑似百貨店としてGMSを展開した
    • [17]昭和35年度の小売業売上高上位10社はすべて百貨店
    • [18]昭和42年度にダイエーが売上高580億円で5位、西友が320億円で10位
    • [19]百貨店法の保護でライバルの進出が減り、百貨店はかつての事業拡大意欲が衰えた
    • [20]新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の勉強・研究に熱心だった

規模を急ぐ理由は規制のほかにもあり[21]、小売業の資本自由化が1969年の第二次自由化以降に順次進み、1975年に完全自由化される日程[22]が決まっていた。当時の欧米の小売業は日本と桁の違う売上規模とチェーンストアの仕組みを持ち、上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐れが業界に強かった[23]。外資が来る前に規模を大きくして体力をつける[24]。この判断が各社を提携と合併へ向かわせ、1969年2月には岡田屋、フタギ、シロの合併でジャスコが設立された[25]。中京の二社が合併を考えたのも同じ流れ[26]のなかにある。

  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [21]出店規制に加え、資本自由化への備えが規模拡大の理由だった
    • [22]小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降順次進み、1975年に完全自由化
    • [23]欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐怖感が強かった
    • [24]外資進出前に規模を拡大して体力をつけるため提携・合併が盛んになった
    • [25]1969年2月に岡田屋・フタギ・シロが合併しジャスコが設立された
    • [26]日本産業史は昭和46年のユニー設立を資本自由化期の再編の一例として挙げる
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [14]1960年代に小売業売上高上位の顔ぶれが百貨店からスーパーへ入れ替わった
    • [15]百貨店法は1956年施行、企業主義で基準以上の売場面積の出店を規制
    • [16]スーパーはフロアごとに別会社を設立して規制を回避し、疑似百貨店としてGMSを展開した
    • [17]昭和35年度の小売業売上高上位10社はすべて百貨店
    • [18]昭和42年度にダイエーが売上高580億円で5位、西友が320億円で10位
    • [19]百貨店法の保護でライバルの進出が減り、百貨店はかつての事業拡大意欲が衰えた
    • [20]新興スーパーの経営者は米国で発達したチェーンストア経営の勉強・研究に熱心だった
    • [21]出店規制に加え、資本自由化への備えが規模拡大の理由だった
    • [22]小売業の資本自由化は1969年の第二次自由化以降順次進み、1975年に完全自由化
    • [23]欧米の小売業に上陸されれば日本の小売業は持ちこたえられないという恐怖感が強かった
    • [24]外資進出前に規模を拡大して体力をつけるため提携・合併が盛んになった
    • [25]1969年2月に岡田屋・フタギ・シロが合併しジャスコが設立された
    • [26]日本産業史は昭和46年のユニー設立を資本自由化期の再編の一例として挙げる

資本自由化に備えて四社が合併し、郊外と低層に賭ける

共同仕入会社を先に置き、二年後に四社を一つにする

合併はいきなり実行されたわけではない[27]。1969年8月、西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同出資し、共同仕入会社として株式会社ユニーを設立[28]した。仕入を先に束ね、そのうえで1971年2月21日、西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社となる[29]。本店は名古屋市中区栄に置き[30]、同時に系列販売会社として関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーの3社を設立[31]した。合併時に掲げた経営ポリシーは3点で、その第一が資本の自由化に対処して国際企業を完成させること[32]であった。

  • 有価証券報告書
    • [27]1969年に共同仕入会社を設立したうえで1971年に4社が合併した
    • [28]1969年8月に西川屋チエン・ほていや・タキヒヨーの3社共同出資で共同仕入会社ユニーを設立
    • [29]1971年2月21日に西川屋チエン・ほていや・ユニー・新名浜の4社が合併しユニー株式会社が発足
    • [30]合併時の本店は名古屋市中区栄二丁目10番19号
    • [31]合併と同時に系列販売会社の関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーを設立
    • [32]経営ポリシー第1項は「資本の自由化に対処して強力な国際企業の完成を目的とする」

ユニーという社名は、ユニークとユニバーサルの頭を取ったもので、国際企業としての発展を願って[33]付けられた。もっとも当面の課題はそこには置かれず、まず地元で一番になることに据えられた[34]。合併当時の売上規模は年間840億円[35]だった。合併の理由も同じところにあり、地元同士が一緒になれば中部圏でいち早く首位に立てるという計算[36]による。実際、日本産業史はほていやと西川屋チェーンの合併によるユニー設立[37]を、この時期に相次いだ小売業の再編の一例に挙げる。経営ポリシーの残る2点は、流通近代化と国民生活の向上に寄与すること、中部圏を基盤に広く同志とともにナショナルチェーン化を図る[38]ことであった。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [33]社名はユニーク・ユニバーサルの頭を取ったもので国際企業としての発展を願った
    • [34]国際的発展より前に、まず地元でナンバー・ワンになることを当面の課題にした
    • [35]合併当時の売上規模は年間840億円
    • [36]合併のねらいは地元同士が一緒になって中部圏で早く首位になること
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [37]日本産業史は昭和46年の「ほていや、西川屋チェーンの合併によるユニー設立」を再編の動きとして挙げる
  • 有価証券報告書
    • [38]経営ポリシーの第2項は流通近代化と国民生活の向上、第3項は中部圏を基盤としたナショナルチェーン化
  • 有価証券報告書
    • [27]1969年に共同仕入会社を設立したうえで1971年に4社が合併した
    • [28]1969年8月に西川屋チエン・ほていや・タキヒヨーの3社共同出資で共同仕入会社ユニーを設立
    • [29]1971年2月21日に西川屋チエン・ほていや・ユニー・新名浜の4社が合併しユニー株式会社が発足
    • [30]合併時の本店は名古屋市中区栄二丁目10番19号
    • [31]合併と同時に系列販売会社の関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーを設立
    • [32]経営ポリシー第1項は「資本の自由化に対処して強力な国際企業の完成を目的とする」
    • [38]経営ポリシーの第2項は流通近代化と国民生活の向上、第3項は中部圏を基盤としたナショナルチェーン化
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [33]社名はユニーク・ユニバーサルの頭を取ったもので国際企業としての発展を願った
    • [34]国際的発展より前に、まず地元でナンバー・ワンになることを当面の課題にした
    • [35]合併当時の売上規模は年間840億円
    • [36]合併のねらいは地元同士が一緒になって中部圏で早く首位になること
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [37]日本産業史は昭和46年の「ほていや、西川屋チェーンの合併によるユニー設立」を再編の動きとして挙げる

郊外の低層店と広い駐車場で他社と違う道を選ぶ

合併後のユニーが立てた方針は、社内で差別化戦略と呼ばれた。他社と同じことを避けるという一点[39]で貫かれており、柱は3つある。第一は中部圏を固める店舗戦略、第二は郊外立地と低層店舗、第三は25歳から35歳への顧客層の絞り込み[40]であった。とくに第二の柱は同業との違いが際立ち[41]、地価の高い都心では効率のために高層ビルにせざるをえないが、地価の安い郊外なら1階から2階建てで広い売場が取れ[42]、建築費も安く済む。西川俊男社長はその差を顧客の利益に還元する考え[43]だと説明した。郊外を最も早く打ち出した結果、業界で最も多くの郊外店を持つに至った[44]

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [39]新しい戦略を社内で「差別化戦略」と呼び、他社と同じことは避ける方針だった
    • [40]差別化戦略の3本柱は店舗戦略・郊外立地と低層店舗・顧客層を25〜35歳に絞ること
    • [41]郊外立地と低層店舗はユニーが業界で最も早く打ち出した方針だった
    • [42]都心は地価が高く高層化せざるをえないが、郊外なら1〜2階の低層店で広い売場が取れコストも安い
    • [43]西川俊男氏は当時のユニー社長で、コスト差を顧客の利益に還元する考えを示した
    • [44]最も早く郊外指向を打ち出し、業界で一番多く郊外店舗を持っていた

店舗と資本の整備は合併から数年[45]で進み、1975年2月に系列販売会社3社を吸収合併し[46]、同年6月には郊外型大型店の一宮店を開いた[47]。1976年12月に名古屋証券取引所第二部、1977年10月に東京証券取引所第二部へ上場[48]し、1978年8月には両取引所の市場第一部へ移った[49]。この間、1974年に高級呉服の専門店チェーンさが美を、1977年6月にスーパーマーケットチェーンのユーストアを設立[50]した。ユーストアの店舗は450坪と、主力店の4分の1程度の規模[51]であった。1977年2月には昇る太陽と暖かい心を象徴する新しいシンボルマークを採用[52]した。

  • 有価証券報告書
    • [45]1975年の系列販社合併から1978年の一部指定まで店舗と上場の整備が続いた
    • [46]1975年2月に関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーの3社を吸収合併
    • [47]1975年6月に郊外型大型店「一宮店」を開店
    • [49]1978年8月に東京・名古屋両証券取引所の市場第一部へ昇格
    • [50]1974年4月にさが美、1977年6月にユーストアを設立
    • [52]1977年2月に「昇る太陽と暖かい心」を象徴する新しいシンボルマークを採用
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [48]1976年12月1日に名証二部、1977年10月21日に東証二部へ上場
    • [51]ユーストアの店舗は450坪程度で、主流の1,500〜2,500坪の4分の1ほど

1977年の売上高は2,840億円[53]で、合併時の3倍を超えた。店舗数は88店、うち東海三県と北陸で60数店[54]を占め、売上の約70%が中部圏から上がった。関東は神奈川と群馬に16店[55]でシェアは14から15%にとどまった。借入金は1976年2月期の770億円から翌期720億円へ減り、1978年2月期には600億円程度まで下がる見込み[56]だった。当時の流通業界では大手による中小の吸収合併が進んでいたが、西川俊男氏(社長)は『小さいところは小さいなりに自主独立の体制を確立することが必要だ』[引用元](証券アナリストジャーナル 1978年1月号)と述べた。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [53]1977年の売上高は2,840億円
    • [54]店舗数88店、愛知・岐阜・三重と北陸で60数店、売上の約70%が中部圏
    • [55]関東は神奈川・群馬に16店、売上シェアは14〜15%で約440億円
    • [56]借入金は1976年2月期770億円、1977年2月期720億円、1978年2月期は600億円程度の見込み
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
    • [39]新しい戦略を社内で「差別化戦略」と呼び、他社と同じことは避ける方針だった
    • [40]差別化戦略の3本柱は店舗戦略・郊外立地と低層店舗・顧客層を25〜35歳に絞ること
    • [41]郊外立地と低層店舗はユニーが業界で最も早く打ち出した方針だった
    • [42]都心は地価が高く高層化せざるをえないが、郊外なら1〜2階の低層店で広い売場が取れコストも安い
    • [43]西川俊男氏は当時のユニー社長で、コスト差を顧客の利益に還元する考えを示した
    • [44]最も早く郊外指向を打ち出し、業界で一番多く郊外店舗を持っていた
    • [48]1976年12月1日に名証二部、1977年10月21日に東証二部へ上場
    • [51]ユーストアの店舗は450坪程度で、主流の1,500〜2,500坪の4分の1ほど
    • [53]1977年の売上高は2,840億円
    • [54]店舗数88店、愛知・岐阜・三重と北陸で60数店、売上の約70%が中部圏
    • [55]関東は神奈川・群馬に16店、売上シェアは14〜15%で約440億円
    • [56]借入金は1976年2月期770億円、1977年2月期720億円、1978年2月期は600億円程度の見込み
  • 有価証券報告書
    • [45]1975年の系列販社合併から1978年の一部指定まで店舗と上場の整備が続いた
    • [46]1975年2月に関東ユニー・中部ユニー・東海ユニーの3社を吸収合併
    • [47]1975年6月に郊外型大型店「一宮店」を開店
    • [49]1978年8月に東京・名古屋両証券取引所の市場第一部へ昇格
    • [50]1974年4月にさが美、1977年6月にユーストアを設立
    • [52]1977年2月に「昇る太陽と暖かい心」を象徴する新しいシンボルマークを採用

コンビニを第二の柱に据え、アピタで郊外の店をつくり直す

コンビニエンスストアを別会社として立ち上げる

1984年1月、ユニーはコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立[57]した。総合スーパーの出店は1974年に施行された大規模小売店舗法によって売場面積で規制され[58]、開店までに調整の時間を要するようになっていた。小型店で店舗数を増やす道は、本体ではなく別会社に持たせた[59]。ほていやが販売会社を地域ごとに設け、ユニーがユーストアやさが美を別に立てた[60]のと同じやり方で、新しい業態もまた独立した会社に委ねられた。

  • 有価証券報告書
    • [57]1984年1月にコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパンを設立
    • [59]コンビニ事業はサークルケイ・ジャパンという別会社が担った
    • [60]ユニーは1974年にさが美、1977年にユーストアを別会社として設立した
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [58]大規模小売店舗法は1973年成立・1974年施行で、売場面積により大型店の出店を規制した

店舗は海外にも出て[61]、1987年6月にはUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗[62]としてUNY・CITYPLAZAを香港に開いた。1989年7月には世界デザイン博覧会[63]に出展した。1992年9月、東京都区内で初の店舗となる生活創庫UNYイースト21店[64]を開く。本社の所在もこの時期[65]に動き、1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町へそれぞれ移し[66]、1995年6月には本店も稲沢へ移した[67]。名古屋の中心部から、郊外型の店舗を並べてきた尾張の地へ本拠を移した[68]形である。

  • 有価証券報告書
    • [61]1987年6月に香港で海外初の店舗を開店した
    • [62]1987年6月にUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
    • [63]1989年7月に世界デザイン博覧会へ出展
    • [64]1992年9月に東京都区内初の店舗「生活創庫UNYイースト21店」を開店
    • [65]1993年11月と1995年6月の二度にわたり本店・本社事務所を移転した
    • [66]1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目26番8号へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町1番地へ移転
    • [67]1995年6月に本店を愛知県稲沢市天池五反田町へ移転
    • [68]移転先の稲沢市は1975年に郊外型大型店の一宮店を開いた尾張地方にあたる
  • 有価証券報告書
    • [57]1984年1月にコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパンを設立
    • [59]コンビニ事業はサークルケイ・ジャパンという別会社が担った
    • [60]ユニーは1974年にさが美、1977年にユーストアを別会社として設立した
    • [61]1987年6月に香港で海外初の店舗を開店した
    • [62]1987年6月にUNY(HK)CO.,LIMITEDが海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
    • [63]1989年7月に世界デザイン博覧会へ出展
    • [64]1992年9月に東京都区内初の店舗「生活創庫UNYイースト21店」を開店
    • [65]1993年11月と1995年6月の二度にわたり本店・本社事務所を移転した
    • [66]1993年11月に本店を名古屋市中村区名駅三丁目26番8号へ、本社事務所を愛知県稲沢市天池五反田町1番地へ移転
    • [67]1995年6月に本店を愛知県稲沢市天池五反田町へ移転
    • [68]移転先の稲沢市は1975年に郊外型大型店の一宮店を開いた尾張地方にあたる
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
    • [58]大規模小売店舗法は1973年成立・1974年施行で、売場面積により大型店の出店を規制した

自主独立を掲げ続けた会社が、統合で幕を下ろすまで

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ユニーの沿革1949〜2016年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1927〜1968年横浜の呉服店と愛知の衣料品店が、量販店へ姿を変えるまで前身の一つである西川屋を設立
前身の一つであるほていやを設立(登記上の年月)
1969〜1979年資本自由化に備えて四社が合併し、郊外と低層に賭ける西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの共同出資で共同仕入会社ユニーを設立★★
西川屋チエンとほていやの合併によるユニーの発足

1969年8月に西川屋チエン、ほていや、タキヒヨーの3社が共同仕入会社ユニーを設立し、2年後の1971年2月21日に西川屋チエン、ほていや、ユニー、新名浜の4社が合併してユニー株式会社が発足した経営判断。

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★★★
稲沢配送センターが完成
高級呉服の専門店チェーンさが美を設立
系列販売会社の関東ユニー、中部ユニー、東海ユニーを吸収合併★★
郊外型大型店の一宮店を開店★★
名古屋証券取引所第二部に上場
スーパーマーケットチェーンのユーストアを設立
東京証券取引所第二部に上場
東京、名古屋両証券取引所の市場第一部に指定替え
1980〜2000年コンビニを第二の柱に据え、アピタで郊外の店をつくり直すサークルケイ・ジャパンの設立によるコンビニエンスストアへの参入

1984年1月、ユニーがコンビニエンスストアのサークルケイ・ジャパン株式会社を設立し、総合スーパーとは別の会社でコンビニ事業を始めた経営判断。

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★★★
香港に海外初の店舗UNY・CITYPLAZAを開店
東京都区内初の店舗、生活創庫UNYイースト21店を開店
本店を愛知県稲沢市へ移転
佐々木孝治家田美智雄氏が会長に退き、佐々木孝治氏が社長に就任★★
佐々木孝治サンクスアンドアソシエイツ株式の51%を400億円で公開買付け★★
佐々木孝治サークルケイ・ジャパンとサンクスが持株会社の設立を発表★★
2001〜2016年自主独立を掲げ続けた会社が、統合で幕を下ろすまで佐々木孝治サークルケイ・ジャパンとサンクスの統合によるサークルKサンクスの発足

1998年11月にユニーと子会社のサークルケイ・ジャパンがサンクスアンドアソシエイツの株式51%を総額400億円で公開買付けし、2000年9月の持株会社構想を経て2004年に両社が合併し株式会社サークルKサンクスが発足した経営判断。

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★★★
佐々木孝治伊藤忠商事と衣料品、食品の共同開発などで業務提携★★
前村哲路ユーストアを吸収合併★★
前村哲路伊藤忠商事から3%の出資を受け入れ、同社が実質的な筆頭株主に★★
前村哲路中国の頂新国際集団と合弁会社を設立
前村哲路サークルKサンクスの完全子会社化を目的に株式公開買付けを実施★★
中村元彦純粋持株会社ユニーグループ・ホールディングスへ移行★★
中村元彦創業家出身で社長を長く務めた西川俊男氏が死去★★
佐古則男ファミリーマートとの経営統合に係る協議開始を取締役会で決議★★
佐古則男ファミリーマートとの経営統合に関する基本合意書を締結★★
佐古則男ユニーグループ・ホールディングスの吸収合併と、サークルK・サンクスのファミリーマートへのブランド統一

2015年3月10日に協議入りを公表し、2016年9月1日に実行した、ファミリーマートとユニーグループ・ホールディングスの経営統合。ファミリーマートを存続会社とする吸収合併でユニーグループ・ホールディングスを取り込み、商号をユニー・ファミリーマートホールディングスへ改めた。コンビニエンスストア事業は傘下のサークルKサンクスへ承継し、同社が株式会社ファミリーマートへ商号を変更している。

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出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-急成長した総合スーパ」
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻1号
  • 証券アナリストジャーナル 1986年24巻1号

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