ファミリーマート の歴史

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創業 1981年
創業者 沖正一郎
創業地 東京都豊島区
創業 1981年9月、西友ストアーの休眠子会社だった株式会社ジョナスが、ファミリーマー
1981年9月、西友ストアーの休眠子会社だった株式会社ジョナスが、ファミリーマート事業部の営業と資産を譲り受け、商号を株式会社ファミリーマートへ改めた。本社は東京都豊島区、引き継いだ店舗は89店で、初代社長には伊藤忠商事出身の沖正一郎氏が就任した。始まりは1972年9月にさかのぼる。西友ストアーが企画室へ小型店担当を置き、翌1973年9月に埼玉県狭山市で実験第1号店を開設した。1974年3月の大規模小売店舗法で大型店を出しにくくなったスーパー各社が、規制の外にある小型店へ向かった時期にあたる。ただしセブン-イレブン・ジャパンが米サウスランド社の運営方式を全面的に使ったのに対し、この会社は方式を自前で組み立てており、海外へロイヤリティを払う先を持たなかった。
決断 株式の名義は二度替わったが、経営者を送り出す先は替わらなかった。1981年から1
株式の名義は二度替わったが、経営者を送り出す先は替わらなかった。1981年から1997年まではセゾングループの流通部門で、1987年10月に沖縄のリウボウと、1988年8月に台湾の現地資本と合弁会社を設立し、地元企業と一緒に店を増やす形を取った。1998年、資金繰りに追われた西友がファミリーマート株を伊藤忠商事へ譲渡した。ところが初代社長の沖正一郎氏は伊藤忠商事の出身で、2013年5月に社長を承継した中山勇氏も同じ商社から来ている。2002年3月に就任した上田準二氏のもとで、連結営業総収入は2002年2月期の1,956億円から2016年2月期の4,277億円へ、経常利益は250億円から519億円へ増えた。セゾンから伊藤忠へ移ったのは持株の名義で、店を増やす方法も経営者の出所も、その前後で連続していた。
現況 規模で並んだ直後に、この会社は株式市場を離れた。2016年9月、ユニーグループ・
規模で並んだ直後に、この会社は株式市場を離れた。2016年9月、ユニーグループ・ホールディングスを吸収合併した。合併比率はユニー1株に対しファミリーマート0.138株で、コンビニエンスストアは単純合算で約1万8,000店となり、セブン-イレブンとほぼ並んだ。統合で抱えた総合スーパーからは2年4か月で離れ、2017年11月にユニー株の40.0%を、2019年1月には残る全株式をドンキホーテホールディングスへ譲渡している。2019年9月に商号をファミリーマートへ戻し、2020年11月、伊藤忠商事の子会社による公開買付と株式併合で東京証券取引所市場第一部の上場を廃止した。1987年12月の上場から33年である。2023年2月期の営業収益4,614億円・税引前利益492億円を最後に、有価証券報告書の提出も終わった。
競合 米国の運営方式を買わなかったことが、この会社の広げ方を決めた。業界には本部が米国
米国の運営方式を買わなかったことが、この会社の広げ方を決めた。業界には本部が米国の会社へロイヤリティを払う先が多く、セブン-イレブン・ジャパンもその一つである。ファミリーマートは方式を自前で組み立てたため海外への支払いがなく、1988年8月に台湾へ出るときも契約上の制約を受けなかった。台湾の会社は2002年2月に現地の店頭市場へ株式を公開している。一方、国内で店舗数を増やす手段は他社の看板の書き換えだった。2009年12月にエーエム・ピーエム・ジャパンを取得して看板を書き換え、2015年10月には株式会社ココストアを完全子会社として同年12月に合併した。1987年12月の上場時に第3位だった順位は、自力の出店では動かなかった。
長期業績の推移 1983〜2023年
ファミリーマート:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年2月期2023年2月期

第1章 1972年〜 西友の実験店から独立し、10年で1,000店に届くまで

筆者考察y.sugiura, author

ファミリーマートは、親会社が本業で行き詰まった場所から生まれた事業である。西友ストアーは1980年8月の中間決算で上場以来はじめて減益に沈み、売上高ではイトーヨーカ堂に抜かれていた。堤清二氏が1979年の講演で示した見取り図は、店舗がやがて大型と小型の二つに分かれるというもので、小型店は量販店の穴を埋める補助ではなく、別の採算で立つ業態として構想されていた。大規模小売店舗法が売場面積1,500平方メートル以上の出店を縛った時期に、規制の外側にある30坪の店が、量販店の成長の代わりを務めることになった。狭山市の実験第1号店から数えて8年後の分社は、その代わりを速く回すための措置だった。

この会社が速く増えた理由は、店を作る力ではなく、加盟する相手を見つける力にあった。小売店の経営者が高齢になり後継者も資金も持たない状況は全国で同時に進んでおり、日本の小売店は3年で約1割減っていた。開発関係128人のうち93人が小売店を直接訪ねて回ったのは、すでにある店と店主をそのまま自社の看板へ移し替える作業である。什器だけを供与すれば当初投資は1店1,000万円前後で済み、店舗ごと用意する場合の4,000万〜5,000万円とは桁が違う。設立時の89店から6年で1,000店へ届いた速度は、自前で土地と建物をそろえる方式では作れない速度だった。

店舗数の推移 1981年〜1987年(店)

89 1981 500 1985 1,000 1987
  • 1981年9月は会社設立時(加盟店87店・直営店2店)、1985年2月と1987年2月は各期末の店舗数。

1974年〜大店法に追われたスーパーが選んだ小型店

1974年5月、セブン-イレブン・ジャパンが東京都江東区に1号店を出店し、日本のコンビニエンスストアが本格的に始まった。同じ年の3月には大規模小売店舗法が施行され、売場面積1,500平方メートル以上の出店には調整がかかるようになる。大型店を出しにくくなったスーパー各社は、規制の外にある小型店へ向かった。西友ストアーも1972年9月に企画室へ小型店担当を置き、翌1973年9月には埼玉県狭山市で実験第1号店を出店した。フランチャイズ方式での本格的な事業化は1978年3月で、この月に社内へファミリーマート事業部が発足し、翌4月には加盟第1号店が埼玉県狭山市で営業を開始した。1980年4月にはコンピュータを使う商品発注システムが動き始めた

親会社の西友ストアーは、小型店の実験を続ける一方で本業の量販店に苦しんでいた。社長の堤清二氏は1979年11月の講演で、これからの店舗の形態を二つに分けて論じた。対面の接客を残す大型店と、日常用品を低い費用で満たす小型店である。1975年ごろから小売市場の内容は基本的に変わっており、1978年と1979年の2年間、量販店業界は不振に沈んだ。同じ1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となり、営業本部を廃して営業会議を新設し、堤氏自らが議長に就任した。売上高ではすでにイトーヨーカ堂に抜かれていた小型店は本業の余技ではなく、量販店が届かない需要を獲得する場として置かれていた。

    • [9]店舗の形態は、マスマーケットのニーズに合わせてヒューマン・リレーションの復活が可能な大型の店舗と、日常用品をできるだけ低コストで充足させる小型の店舗の二つにはっきり分類されていくと述べた
    • [10]大型店舗はヒューマン・リレーションの復活が可能な形、小型店舗は日常用品をできるだけ低コストで充足させる形として区分した
    • [11]1975年頃から小売業者にとってマーケットの基本的内容が変わり、1978年・1979年の2年間は量販店業界がかなり不振だった
    • [14]売上高でイトーヨーカ堂に抜かれ、西友ストアーの業績は芳しくなかった
  • 日経ビジネス 1980年11月3日号
    • [12]1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となった
    • [13]営業本部を廃止して営業会議を新設し、営業会議の議長には堤清二社長が自ら就任した

1981年9月、西友ストアーの全額出資子会社で休眠していた株式会社ジョナスが、西友ストアーからファミリーマート事業部の営業と資産を譲り受け、商号を株式会社ファミリーマートへ改めた。出店の意思決定を速めるために事業部を切り出す措置で、引き継いだ店舗は89店、初代社長には沖正一郎氏が就任した。沖氏は1951年に伊藤忠商事へ入社し、1963年から西武百貨店と伊藤忠商事の合弁スーパーである株式会社マイマートへ出向して6年を過ごし、1974年に西友ストアー常務取締役として小型店・中型店の販売部門を担当した人物である。コンビニエンスストア設立の準備は1980年9月から進めていた

  • ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1981年9月、休眠会社の㈱ジョナスが㈱西友ストアーから営業と資産の譲渡を受け、商号を㈱ファミリーマートに変更して事業を開始
    • [16]出店意志決定の迅速化などを目的として、ファミリーマート事業部を独立させるための措置だった
    • [17]会社設立時(1981年9月)の店舗数は89店(加盟店87店・直営店2店)
    • [18]初代社長は沖正一郎(1981年9月 ㈱ファミリーマート取締役社長就任)
    • [19]沖正一郎は1951年4月に伊藤忠商事へ入社
    • [20]1963年春、西武百貨店と伊藤忠が合弁で設立したスーパー㈱マイマートへ伊藤忠から出向し約6年間勤務
    • [21]1974年8月、㈱西友ストアー常務取締役に就任し小型店・中型店の販売部門を担当
    • [22]1980年9月からコンビニエンス・ストア設立の準備を進めた
参考文献[1]-[22]
    • [1]1974年5月にセブン-イレブン・ジャパン(当時ヨークセブン)1号店が東京都江東区に開店。日本の「コンビニ元年」
    • [2]1974年3月に大規模小売店舗法が施行。売場面積1,500平方メートル以上が調整対象
    • [3]大店法でスーパーの出店が難しくなり、法規制の枠に入らない小型店の展開を有力な大手スーパーが目指した
    • [4]1972年9月、西友ストア企画室に小型店担当を設置
    • [5]1973年9月、埼玉県狭山市に実験第1号店を開店
    • [8]1980年4月、コンピュータを利用した商品発注システムが稼動(沖正一郎社長は講演で1978年3月からと述べており、一次資料間で年に食い違いがある)
    • [20]1963年春、西武百貨店と伊藤忠が合弁で設立したスーパー㈱マイマートへ伊藤忠から出向し約6年間勤務
    • [21]1974年8月、㈱西友ストアー常務取締役に就任し小型店・中型店の販売部門を担当
    • [22]1980年9月からコンビニエンス・ストア設立の準備を進めた
  • ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1978年3月、西友ストアー内にファミリーマート事業部が発足(直営店1店)
    • [15]1981年9月、休眠会社の㈱ジョナスが㈱西友ストアーから営業と資産の譲渡を受け、商号を㈱ファミリーマートに変更して事業を開始
    • [7]1978年4月、フランチャイズ契約による加盟第1号店が埼玉県狭山市で営業開始
    • [16]出店意志決定の迅速化などを目的として、ファミリーマート事業部を独立させるための措置だった
    • [17]会社設立時(1981年9月)の店舗数は89店(加盟店87店・直営店2店)
    • [18]初代社長は沖正一郎(1981年9月 ㈱ファミリーマート取締役社長就任)
    • [19]沖正一郎は1951年4月に伊藤忠商事へ入社
    • [9]店舗の形態は、マスマーケットのニーズに合わせてヒューマン・リレーションの復活が可能な大型の店舗と、日常用品をできるだけ低コストで充足させる小型の店舗の二つにはっきり分類されていくと述べた
    • [10]大型店舗はヒューマン・リレーションの復活が可能な形、小型店舗は日常用品をできるだけ低コストで充足させる形として区分した
    • [11]1975年頃から小売業者にとってマーケットの基本的内容が変わり、1978年・1979年の2年間は量販店業界がかなり不振だった
    • [14]売上高でイトーヨーカ堂に抜かれ、西友ストアーの業績は芳しくなかった
  • 日経ビジネス 1980年11月3日号
    • [12]1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となった
    • [13]営業本部を廃止して営業会議を新設し、営業会議の議長には堤清二社長が自ら就任した

1981年〜加盟する側の採算から組み立てた契約

主な収益源は、加盟者へ経営ノウハウと経営指導を提供する対価として受け取るロイヤリティだった。契約は3種類あり、店舗を加盟者が用意する第1種は加盟店営業総利益の35%、店舗を会社が用意する第2種は60%を本部が取る。1986年1月には加盟時負担金を430万円から50万円へ下げた第3種を設け、資金の乏しい人でも加盟できるようにした。契約期間は7年と、この種の契約では短い。什器が年中無休24時間営業では7〜10年で古くなること、加盟者の側も7年やってみて続けるかを決められるほうが参加しやすいことの2つによる。加盟店の指導は営業担当者250人が受け持ち、1週に最低2回、1人あたり7〜8店を回った。

    • [23]フランチャイズ契約を締結した加盟店に対する経営ノウハウの提供および経営指導援助が事業の内容
    • [24]第1種フランチャイズ契約は店舗を加盟者が負担し、ロイヤリティは加盟店営業総利益の35.0%
    • [25]第2種フランチャイズ契約は店舗を同社が負担し、ロイヤリティは加盟店営業総利益の60.0%
    • [26]1986年1月より第3種を導入。加盟時負担金を430万円から50万円(加盟金のみ)に引き下げ
    • [27]契約期間は7年。什器の耐用年数が年中無休24時間営業では7〜10年で陳腐化すること、加盟者が参加しやすいことが理由
    • [28]契約期間7年の理由は、什器の耐用年数が年中無休24時間営業では7〜10年で陳腐化すること、加盟者も7年やってみて続けるかを決められるほうが参加しやすいこと
    • [29]営業担当者250人が各店を1週に最低2回、1人が7〜8店を直接訪問して指導

加盟者をどこから集めるかは、出店の速度を決める条件だった。沖正一郎氏は1987年12月の講演で、パパ・ママ店と呼ばれる小売店の経営者が高齢になり、後継者も近代化の資金も持たない事情を挙げた。日本の小売店はその3年間で約1割減っていた。ファミリーマートは開発関係に128人を置き、うち93人が小売店を直接訪ねて加盟を勧めた。加盟者が店舗を持つ場合の当初投資は什器を主に1,000万円前後で済んだ。会社が店舗を用意する場合は4,000万〜5,000万円を要し、地価の上昇でさらに膨らみつつあった。粗利益の分配額には最低保証を置いたが、適用は全店の5%以内にとどまった加盟者の側の採算が成り立つかどうかが、本部の出店の上限を決めていた。

    • [30]パパ・ママ店といわれる小さな小売店の経営者が高齢になり、後継者もなく、店の近代化を図りたいが資金もないことから、フランチャイズ方式でコンビニエンス・ストアになろうと考えるケースが増えていた
    • [31]日本の小売店は最近の3年間で約1割減った
    • [32]従業員664人のうち開発関係128人。うち小売店などを直接訪問してファミリーマートへの参加を勧める要員が93人
    • [33]店舗開設のための当初投資額は、フランチャイジーが自分の店を持っている場合は什器を主に1店1,000万円前後
    • [34]会社が店舗を用意する場合の当初投資額は1店4,000万〜5,000万円(入居保証金2,000万円、内装費1,000万円など)で、地価上昇により5,000万〜6,000万円が必要になりつつあった
    • [35]粗利益の分配額に最低保証(店舗自己保有は1,250万円+売上の3%、それ以外は1,100万円+売上の4%)を設けたが、適用は全体の5%以内・20〜30店程度

取扱商品は約74%が食料品で、弁当が11.8%、パンが8.2%、飲料と乳製品がそれぞれ8.7%を占めた。非食品は25%程度で、そのうち雑誌が9.6%にのぼった。1店の商品アイテムは3,000前後と大型量販店より少なく、1品あたりの扱い量が大きくなり、仕入で有利に働いた。各店の経営者には商品の発注を自ら手がけるよう指導し、在庫をPOSで管理させることはしなかった。そのPOSの導入も急がなかった。加盟者には高齢の経営者が多く、扱えなければ役に立たないとみて、1988年の年央に100店で効果を確かめる手順を踏んだ。発注した品は翌日の決まった時刻にかならず届き、弁当は1日に3社から6回、パンは1日2回の配送だった

    • [36]店で扱う商品の約74%が食料品。弁当11.8%、パン8.2%、飲料8.7%、乳製品8.7%
    • [37]非食品(チリ紙、化粧品など)が25%程度で、このうち週刊誌などの雑誌が9.6%
    • [38]1店の商品アイテムは3,000前後で大型量販店より少なく、1品当たりの扱い量が大きくなるため仕入れに有利
    • [39]商品の発注だけは各店の経営者が自分で行い、POSによって在庫管理をやろうと思わないように指導していた
    • [40]POSの導入は慎重に進めた。フランチャイズ店が大半で高齢の経営者も多く使えなくては意味がないため、1988年の年央に100店程度で効果を確かめる方針
    • [41]発注した翌日の一定時に必ず納品される体制を整えていた
    • [42]鮮度が大事なものは弁当が1日3社6回、パンが1日2回の頻度で納品
参考文献[23]-[42]
    • [23]フランチャイズ契約を締結した加盟店に対する経営ノウハウの提供および経営指導援助が事業の内容
    • [24]第1種フランチャイズ契約は店舗を加盟者が負担し、ロイヤリティは加盟店営業総利益の35.0%
    • [25]第2種フランチャイズ契約は店舗を同社が負担し、ロイヤリティは加盟店営業総利益の60.0%
    • [26]1986年1月より第3種を導入。加盟時負担金を430万円から50万円(加盟金のみ)に引き下げ
    • [27]契約期間は7年。什器の耐用年数が年中無休24時間営業では7〜10年で陳腐化すること、加盟者が参加しやすいことが理由
    • [28]契約期間7年の理由は、什器の耐用年数が年中無休24時間営業では7〜10年で陳腐化すること、加盟者も7年やってみて続けるかを決められるほうが参加しやすいこと
    • [29]営業担当者250人が各店を1週に最低2回、1人が7〜8店を直接訪問して指導
    • [30]パパ・ママ店といわれる小さな小売店の経営者が高齢になり、後継者もなく、店の近代化を図りたいが資金もないことから、フランチャイズ方式でコンビニエンス・ストアになろうと考えるケースが増えていた
    • [31]日本の小売店は最近の3年間で約1割減った
    • [32]従業員664人のうち開発関係128人。うち小売店などを直接訪問してファミリーマートへの参加を勧める要員が93人
    • [33]店舗開設のための当初投資額は、フランチャイジーが自分の店を持っている場合は什器を主に1店1,000万円前後
    • [34]会社が店舗を用意する場合の当初投資額は1店4,000万〜5,000万円(入居保証金2,000万円、内装費1,000万円など)で、地価上昇により5,000万〜6,000万円が必要になりつつあった
    • [35]粗利益の分配額に最低保証(店舗自己保有は1,250万円+売上の3%、それ以外は1,100万円+売上の4%)を設けたが、適用は全体の5%以内・20〜30店程度
    • [36]店で扱う商品の約74%が食料品。弁当11.8%、パン8.2%、飲料8.7%、乳製品8.7%
    • [37]非食品(チリ紙、化粧品など)が25%程度で、このうち週刊誌などの雑誌が9.6%
    • [38]1店の商品アイテムは3,000前後で大型量販店より少なく、1品当たりの扱い量が大きくなるため仕入れに有利
    • [39]商品の発注だけは各店の経営者が自分で行い、POSによって在庫管理をやろうと思わないように指導していた
    • [40]POSの導入は慎重に進めた。フランチャイズ店が大半で高齢の経営者も多く使えなくては意味がないため、1988年の年央に100店程度で効果を確かめる方針
    • [41]発注した翌日の一定時に必ず納品される体制を整えていた
    • [42]鮮度が大事なものは弁当が1日3社6回、パンが1日2回の頻度で納品

1986年〜純国産の方式で届いた1,000店と株式公開

セブン-イレブン・ジャパンは米サウスランド社と提携してその運営方式を全面的に使い、コンビニエンスストア業界には米国の会社へロイヤリティを支払う社が多かった。ファミリーマートは自前で方式を組み立てたため、海外への支払いがなかった。1987年12月の講演で沖正一郎氏はこの点を自社の特色に挙げ、国内での展開が定着し力がついた段階で海外へ出る構想を示した。店舗数は1985年2月に500店、1987年2月に1,000店へ届き、単体の営業総収入は1983年2月期の27億円から1987年2月期には196億円へ、経常利益は0.5億円から30億円へ増えた。値入率は28.5%で、一般のボランタリー・チェーン店の20%前後を上回っていた。

1987年12月7日、ファミリーマートは東京証券取引所の市場第二部へ株式を上場した。公募350万株のほかに、西武百貨店を率いる堤清二氏と株式会社有楽町西武が持ち株90万株を売り出した。1987年2月末時点で西友が発行済株式の58.4%、有楽町西武が11.4%を保有しており、上場後もセゾングループの一員である立場は変わらなかった。従業員は1987年2月末で554名、店舗は加盟店966店と直営店41店を数え、その87.7%が東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県に集まっていた。売上の順位はセブン-イレブン・ジャパン、ローソンに次ぐ第3位だった。1989年8月には市場第一部銘柄に指定された。

上場直後の1987年12月時点で従業員は664人を数え、内訳は営業関係327人、開発関係128人、商品調達関係50人、管理部門158人だった。本部を東京・池袋に置き、その下に地区本部を関東で4つ、東海と関西で1つずつ、地区事務所を全国の29カ所に設けた。営業関係の人員のうち250人は地区事務所の所属として店を回った。出店の順は、まず首都圏を固め、次いで関西圏と東海圏へ進むものとした。そのほかの地域は自前で出るか、ふさわしい相手が見つかった場合にサブフランチャイズを組む方式とし、翌1989年2月期には1,500店、売上高2,000億円超を計画した沖正一郎氏は目標年度の前倒しを問われ、人が育つ速さを超えて企業は大きくならないと答えている『企業は人が育つ分だけしか大きくならないものだ』

    • [57]従業員数664人(うち女子55人)。営業関係327人、開発関係128人、商品調達関係50人、管理部門158人
    • [58]本部は東京・池袋。地区本部が関東4・東海1・関西1、地区事務所が全国29カ所
    • [59]営業関係327人のうち250人が地区事務所に属し各店を巡回する要員
    • [60]当初から首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉・山梨・茨城県南部)を中心に展開し、次いで関西圏・東海圏へエリアを拡大する方針を取った
    • [61]そのほかの地域は自社進出か、よいパートナーが得られればサブフランチャイズの形で店舗展開を進める方針
    • [62]1989年2月期は売上高2,000億円超、経常利益40%以上の伸び、店舗数1,500店を計画
参考文献[43]-[62]
    • [43]セブン-イレブンはイトーヨーカ堂が米サウスランド社と提携し、そのノウハウを全面的に活用した
    • [44]先発した米国企業からノウハウを受けロイヤリティを支払う社が多い中、当社は純国産のノウハウでロイヤリティを支払っていない
    • [45]沖正一郎社長は国内での展開が軌道に乗り力がついた段階で海外進出も研究したいと述べた
    • [49]値入率は28.5%程度で、一般のボランタリー・チェーン店などの20%前後より高い
    • [55]業界における順位は売上でセブンイレブン、ローソンに次いで第3位
    • [57]従業員数664人(うち女子55人)。営業関係327人、開発関係128人、商品調達関係50人、管理部門158人
    • [58]本部は東京・池袋。地区本部が関東4・東海1・関西1、地区事務所が全国29カ所
    • [59]営業関係327人のうち250人が地区事務所に属し各店を巡回する要員
    • [60]当初から首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉・山梨・茨城県南部)を中心に展開し、次いで関西圏・東海圏へエリアを拡大する方針を取った
    • [61]そのほかの地域は自社進出か、よいパートナーが得られればサブフランチャイズの形で店舗展開を進める方針
    • [62]1989年2月期は売上高2,000億円超、経常利益40%以上の伸び、店舗数1,500店を計画
    • [46]1985年2月に店舗数500店(加盟店468店・直営店32店)、1987年2月に1,000店(加盟店959店・直営店41店)
    • [47]営業総収入は1983年2月期2,681百万円から1987年2月期19,654百万円へ増加
    • [48]経常利益は1983年2月期49百万円から1987年2月期2,951百万円へ増加
    • [50]1987年12月7日に東京証券取引所市場第二部へ上場
    • [51]公募3,500千株・売出900千株。売出株の放出元は堤清二と㈱有楽町西武
    • [52]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
    • [53]1987年2月28日現在の従業員数554名(男509名・女45名)
    • [54]1987年2月28日現在で直営店41店・加盟店966店。全店舗の87.7%が東京・神奈川・埼玉・千葉の首都圏
  • ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1989年8月、東京証券取引所の市場第一部銘柄に指定

第2章 1987年〜 セゾングループの一員として台湾へ渡り、伊藤忠商事へ帰属が移るまで

筆者考察y.sugiura, author

ファミリーマートの資本と経営は、はじめから別の系譜に立っていた。株式の過半を持っていたのは西友であり、セゾングループの流通部門の一角として沖縄と台湾へ渡ったが、社長の席に座ったのは沖正一郎氏も後藤茂氏も伊藤忠商事の出身者である。1991年に副社長として迎えられた後藤氏は、数千万円から億円単位の商談を扱ってきた商社の人間で、30坪の店の日商50万円という尺度に戸惑いを隠さなかった。持ち主と担い手が別々に立っているうちは、その差は人柄の問題として処理できる。差が経営の問題になったのは、持ち主の側の体力が尽きたときである。

1990年代の後半に起きたのは、その二重の構えが株主の側から崩れたことである。セゾングループはバブル期の事業拡大が裏目に出て多額の借入金を抱え、1998年にファミリーマートの株式は伊藤忠商事へ移った。一方でファミリーマート自身も、出店の競争が過熱するなかで1店の稼ぐ力を落としていた。1999年の1日あたり平均売上高は、セブン-イレブン・ジャパンの68万円に対して49万円である。店の数を積む速度と、1店が稼ぐ力は、この時期に逆を向いた。名義が伊藤忠商事へ替わっても、社長の出身母体は1981年の設立時から一度も替わっていない。

1987年〜自前の方式を持って台湾と沖縄へ出る

1987年10月、ファミリーマートは沖縄の百貨店であるリウボウとの合弁で株式会社沖縄ファミリーマートを設立し、翌1988年8月には台湾に全家便利商店股份有限公司を設けた。米国から運営方式を買っていないため海外へ出るときに契約上の制約がなく、国内でも1985年4月に名古屋の株式会社綜合酒販センターと合弁で中部ファミリーマート株式会社を設立し、1993年4月には鹿児島県で株式会社南九州ファミリーマートを設立して、地元の企業と組みながら店を増やした。1988年2月末の店舗数は、中部地区のサブフランチャイズ店約60店と沖縄の開設分を含めて1,320店を超える見込みだった。全家便利商店は台湾で店を増やし続け、2002年2月に現地の店頭市場へ株式を公開した

堤清二氏のもとでセゾングループは西武百貨店から西友パルコ・ファミリーマート・クレディセゾンへと事業を広げ、1970年代後半から1980年代前半にかけて総合生活産業と呼ばれる姿を作った。ファミリーマートはその流通部門の一角として経営理念に"協業の精神"を掲げ、グループで蓄えた運営ノウハウと情報を加盟者へ渡して共に稼ぐという考え方を取った。加盟店から毎日の売上金を預かり、仕入代金の支払いを本部が代行する仕組みも整え、その立替にかかる金利を公定歩合に1%を上乗せした水準に抑えた。商品を各店へ直接配送できない仕入先は、業務委託先である西友の流通センターへ持ち込み、そこから各店舗へ運ばれた。もっともセゾングループ自体はバブル期の事業拡大が裏目に出て、崩壊後は多額の借入金を抱えることになる。

参考文献[63]-[74]
    • [63]1987年10月、沖縄県に㈱沖縄ファミリーマートを設立(沖縄の百貨店リウボウとの合弁)
    • [67]1988年2月には店舗数1,250店超、中部地区のサブフランチャイズ店約60と沖縄の開設分を合わせ1,320店以上の見込み
    • [70]経営理念は「協業の精神」。西武のセゾン・グループとして習得したノウハウや情報をフランチャイジーに提供する
    • [71]加盟店から毎日送金を受け、仕入代金の支払いはすべて本部が代行する方式
    • [72]商品の納入に伴う代金の自動貸付の金利は公定歩合プラス1%(1987年12月時点で3.1%)
  • ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
    • [64]1988年8月、台湾に全家便利商店股份有限公司を設立
    • [66]1993年4月、鹿児島県に㈱南九州ファミリーマートを設立
    • [68]2002年2月、全家便利商店股份有限公司が台湾店頭市場において株式を店頭公開
    • [65]1985年4月、㈱綜合酒販センターと合弁会社・中部ファミリーマート㈱を設立し中部地域での店舗開設を開始
    • [73]店舗に直接商品を配送できない仕入先は、業務委託先である㈱西友の流通センターに商品を持ち込み、そこから各店舗へ配送される体制だった
    • [69]堤清二が率いる西武百貨店(セゾングループ)は西友、パルコ、ファミリーマート、クレディセゾンと事業を開拓し、昭和50年代(1975〜1984年)に総合生活産業としての地歩を築いた
    • [74]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった

1991年〜伊藤忠商事から送り込まれた経営者

1991年4月、伊藤忠商事で専務を務めた後藤茂氏がファミリーマートへ入社し、翌5月に副社長、1992年5月に社長へ就任した。後藤氏は1931年に京都府野田川町の丹後ちりめん問屋に生まれ、1954年に慶応義塾大学経済学部を卒業して伊藤忠商事へ入り、航空機と電子機械の分野を歩いて人工衛星や情報機器の取引を手がけた。北米総支配人と伊藤忠アメリカ社長を歴任し、海外駐在は10年に及んだ。1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ進み、電子機器に強い伊藤忠商事を作った功労者として知られていた。招かれた経緯には、前社長の沖正一郎氏が同じ伊藤忠商事の出身であったことがある。セゾングループ代表の堤清二氏と、米国法人時代にセミナーで同席した縁も重なった

  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [75]1991年4月ファミリーマート入社、5月副社長、1992年5月社長就任(伊藤忠商事では1982年取締役、1985年常務、1986年伊藤忠アメリカ社長、1989年専務)
    • [76]1931年京都府野田川町生まれ。実家は丹後ちりめん問屋。1954年慶応大学経済学部卒、同年伊藤忠商事入社
    • [77]航空機・電子機械畑を歩き、人工衛星や情報機器などの取引を手掛けた
    • [78]北米総支配人、伊藤忠アメリカ(現・伊藤忠インターナショナル)社長を歴任し、海外駐在は10年
    • [79]伊藤忠商事で1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ就任
    • [80]人工衛星や情報機器などの取引を手掛け、エレクトロニクスに強い伊藤忠をつくった功労者として知られた
    • [81]ファミリーマートへ転じたのは、沖正一郎前社長が伊藤忠出身であったことによる
    • [82]堤清二セゾングループ代表とは、米国法人時代に国際問題のセミナーでパネラーとして同席したことがある縁

ファミリーマートはセゾングループのなかで稼ぎ頭の一つに数えられていた。その店々には日に延べ200万人が訪れ、後藤茂氏はこれを大衆消費者と結びつく巨大な媒体と見なした。もっとも、商社で数千万円から億円単位の取引に携わってきた同氏には、店舗面積30坪で日商50万円から60万円という尺度はなじみがなく、とまどうのも無理はなかった『店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円の事業感覚にはカルチャーショックを覚えた』。社長に就くと、社会への影響力の大きさを自覚し、大企業に見合う実力と風格を備えるよう社内に繰り返し求め、競争の激化と景気の後退を挙げて気を緩めるなと締め付けた。休日には一人の消費者として競合の店を回り、自社の店との差を確かめた。すべて自分で納得しないと気が済まない性分だった

  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [83]ファミリーマートはセゾングループで高収益を誇っていた
    • [84]毎日延べ200万人が来店するコンビニチェーンは大衆消費者に接する巨大メディアであり、さまざまな商品を扱えると述べた
    • [85]店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円という事業感覚に戸惑いを隠せなかった
    • [86]社長就任後、社会への影響力が大きいことを自覚して大企業としての実力と風格を身につけてほしいと、ことあるごとに口にした
    • [87]コンビニ業界は競争激化と景気後退で安穏としてはいられないとして社内を引き締めた
    • [88]早歩きのウォーキングの途中で競合他社のコンビニ店に入り、消費者感覚で自社チェーンとの違いを点検していた
    • [89]「すべて自分で納得しないとイヤな性分」と評された

株式の過半は西友が握り続けた。1987年2月末で西友が発行済株式の58.4%、有楽町西武が11.4%を持ち、堤清二氏個人も3.4%を保有していた。上場時の役員には、取締役会長として高丘季昭氏が、取締役相談役として堤清二氏が名を連ねている。公募増資を経て発行済株式総数は2,100万株、資本金は57億1,000万円になった。一方で社長の席は、1981年の設立時に就任した沖正一郎も、1992年に引き継いだ後藤茂氏も、伊藤忠商事の出身者で占められた。沖氏は社長を譲ったあとも代表取締役として残った資本と役員の上ではセゾングループ、社長の系譜では伊藤忠商事という二重の構えが、設立から10年を超えて続いた。

参考文献[75]-[96]
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [75]1991年4月ファミリーマート入社、5月副社長、1992年5月社長就任(伊藤忠商事では1982年取締役、1985年常務、1986年伊藤忠アメリカ社長、1989年専務)
    • [76]1931年京都府野田川町生まれ。実家は丹後ちりめん問屋。1954年慶応大学経済学部卒、同年伊藤忠商事入社
    • [77]航空機・電子機械畑を歩き、人工衛星や情報機器などの取引を手掛けた
    • [78]北米総支配人、伊藤忠アメリカ(現・伊藤忠インターナショナル)社長を歴任し、海外駐在は10年
    • [79]伊藤忠商事で1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ就任
    • [80]人工衛星や情報機器などの取引を手掛け、エレクトロニクスに強い伊藤忠をつくった功労者として知られた
    • [81]ファミリーマートへ転じたのは、沖正一郎前社長が伊藤忠出身であったことによる
    • [82]堤清二セゾングループ代表とは、米国法人時代に国際問題のセミナーでパネラーとして同席したことがある縁
    • [83]ファミリーマートはセゾングループで高収益を誇っていた
    • [84]毎日延べ200万人が来店するコンビニチェーンは大衆消費者に接する巨大メディアであり、さまざまな商品を扱えると述べた
    • [85]店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円という事業感覚に戸惑いを隠せなかった
    • [86]社長就任後、社会への影響力が大きいことを自覚して大企業としての実力と風格を身につけてほしいと、ことあるごとに口にした
    • [87]コンビニ業界は競争激化と景気後退で安穏としてはいられないとして社内を引き締めた
    • [88]早歩きのウォーキングの途中で競合他社のコンビニ店に入り、消費者感覚で自社チェーンとの違いを点検していた
    • [89]「すべて自分で納得しないとイヤな性分」と評された
    • [95]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
    • [96]1992年11月時点で沖正一郎は前社長・現代表取締役
    • [90]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
    • [91]1987年2月28日現在、堤清二が600,000株(発行済株式総数の3.4%)を保有
    • [92]上場時の役員は取締役会長・高丘季昭、取締役相談役・堤清二、取締役副社長・小林邦彦ほか
    • [94]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
    • [93]上場に伴う公募増資の結果、発行済株式総数は2,100万株、資本金は57億1,000万円となった

1995年〜出店競争のなかで落ちた日販と、親会社の交代

コンビニエンスストア業界はやがて大手に集約されていく、というのが1987年12月の講演での沖正一郎氏の見立てだった。それが別の姿で現れたのは1990年代の終わりで、出店競争の過熱にスーパーなど大型店の営業時間延長が重なり、チェーンごとの力量差がはっきりした。1999年の1日あたり平均売上高をみると、ファミリーマートが49万円で頭打ちだったのにセブン-イレブン・ジャパンは68万円まで伸ばし続けていた。上場した1987年2月期の時点で営業総収入の61.6%は加盟店からの収入であり、本部の稼ぎは加盟店の営業総利益を分け合う形で成り立っているため、1店あたりの日販が下がれば本部の収益の伸びも削られる。店の数を積む速度と、1店が稼ぐ力は、同じ方向を向かなくなっていた。

親会社の側の体力は、この間に尽きていた。セゾングループはバブル期の事業の拡大が裏目に出て、崩壊後は多額の借入金を抱えた西友はすでに1980年8月の中間決算で上場以来はじめての減益に沈んでおり、量販店の本業の立て直しは1980年代を通じて解けないままの課題だった。1998年、ファミリーマートは伊藤忠商事に買収された伊藤忠商事にとっては社運をかけた買収だった。1987年12月の上場の時点で西友が発行済株式の58.4%を保有していたことに照らせば、11年での交代である。店を増やす速度を競っていた会社は、自らの資本の側で起きた事情によって帰属先を変えた。

1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫氏が社長に就任した。田邉氏は1945年に東京で生まれ、1967年に国際基督教大学を卒業して伊藤忠商事へ入社し、若い頃は飼料原料を扱う部署が長かった。1982年から1984年にかけては社長秘書として2人の社長に仕え、1996年には当時最年少の51歳で取締役となった。座右の銘はチェンジ・オア・ダイで、就任後は現場を回り、自ら弁当を食べて開発の担当者へ意見を伝えた沖正一郎、後藤茂氏に続く3人目の社長も、伊藤忠商事から来た人物だった。株式の名義は西友から伊藤忠商事へ移ったが、社長の出身母体は設立から一度も変わらなかった。

  • 日経ビジネス 1999年11月29日号
    • [108]1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫がファミリーマート社長に就任
    • [109]田邉充夫は1945年2月3日東京都生まれ。1967年3月国際基督教大学教養学部卒業、同年4月伊藤忠商事入社
    • [110]若い頃は飼料原料部が長かった
    • [111]1982〜1984年に社長秘書として戸崎誠喜、米倉功という2人の社長に仕えた
    • [112]1996年に当時最年少の51歳で取締役食品部門長に就任
    • [113]田邉充夫の座右の銘は「チェンジ・オア・ダイ(変わるか、さもなくば死か)」
    • [114]現場を回るのを好み、昼食にファミリーマートの弁当を食べて開発担当者に自分の意見を伝えていた
    • [115]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [116]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
参考文献[97]-[116]
    • [97]コンビニエンスストア業界では大手集中が進むと沖正一郎社長は見通していた
  • 日経ビジネス 1999年11月29日号
    • [98]出店競争の過熱、スーパーなど大型店の営業時間延長などにより、チェーン間の強弱が鮮明になりつつあった
    • [99]1999年時点のファミリーマートの1日当たり平均売上高は49万円で伸び悩んでいた
    • [100]1999年時点の1日当たり平均売上高はセブン-イレブン・ジャパンが68万円で最も高く、なお増勢を続けていた
    • [105]伊藤忠商事は大手コンビニエンスストアのファミリーマートを買収した
    • [106]伊藤忠商事は社運をかけてファミリーマートを買収したと評された
    • [108]1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫がファミリーマート社長に就任
    • [109]田邉充夫は1945年2月3日東京都生まれ。1967年3月国際基督教大学教養学部卒業、同年4月伊藤忠商事入社
    • [110]若い頃は飼料原料部が長かった
    • [111]1982〜1984年に社長秘書として戸崎誠喜、米倉功という2人の社長に仕えた
    • [112]1996年に当時最年少の51歳で取締役食品部門長に就任
    • [113]田邉充夫の座右の銘は「チェンジ・オア・ダイ(変わるか、さもなくば死か)」
    • [114]現場を回るのを好み、昼食にファミリーマートの弁当を食べて開発担当者に自分の意見を伝えていた
    • [101]1987年2月期の営業総収入19,654百万円のうち加盟店よりの収入は12,102百万円(61.6%)
    • [102]本部の収入は加盟店営業総利益からの分配(ロイヤリティ)である
    • [107]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
    • [115]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
    • [103]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった
  • 日経ビジネス 1980年11月3日号
    • [104]1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となった
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [116]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身

第3章 2000-2008 (気が向いたら執筆します!) ファミマ・ドット・コムの設立と、台湾上場から中国本土への出店

第4章 2009-2020 (気が向いたら執筆します!) エーエム・ピーエム・ココストアの買収、ユニーとの統合と解消、伊藤忠による上場廃止

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歴史年表 1978〜2021年

ファミリーマートの沿革1978〜2021年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1972〜1987年西友の実験店から独立し、10年で1,000店に届くまで西友ストアーがフランチャイズ方式でコンビニエンスストア事業を開始★★
沖正一郎西友ストアーから営業譲渡を受けた休眠会社ジョナスがファミリーマートに商号変更★★★
沖正一郎沖縄ファミリーマートを設立
沖正一郎東京証券取引所市場第二部に株式上場
1987〜1999年セゾングループの一員として台湾へ渡り、伊藤忠商事へ帰属が移るまで沖正一郎台湾に全家便利商店を設立し海外初出店★★
沖正一郎東京証券取引所市場第一部銘柄に指定
後藤茂南九州ファミリーマートを設立
後藤茂西友による1,350億円での保有株譲渡と、親会社の交代

1998年2月4日、西友が保有するファミリーマート株2,862万株を1,350億円で伊藤忠商事へ譲渡することで合意し、同年3月にファミリーマートは伊藤忠グループへ移った。譲渡後の持株比率は伊藤忠グループが30.6%、西友グループが17.2%となり、筆頭株主が入れ替わった。

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★★★
2000〜2008年ファミマ・ドット・コムの設立と、台湾上場から中国本土への出店田邉充夫ファミマ・ドット・コムを設立
田邉充夫全家便利商店が台湾店頭市場に株式を店頭公開
上田準二中国・上海市に上海福満家便利を設立し中国本土に出店★★
上田準二中国・広州市に広州市福満家便利店を設立
上田準二中国・蘇州市に蘇州福満家便利店を設立
2009〜2020年エーエム・ピーエム・ココストアの買収、ユニーとの統合と解消、伊藤忠による上場廃止上田準二買収による店舗網の取り込みと、自社ブランドへの看板の一本化

2009年11月13日、ファミリーマートが取締役会で、レックス・ホールディングスの保有する㈱エーエム・ピーエム・ジャパン(am/pm)の全株式と貸付債権の取得を決議した経営判断。同年12月28日に議決権の100%を取得して完全子会社とし、2010年3月1日に吸収合併したうえで、am/pm店舗をファミリーマートブランドへ転換した。

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★★★
上田準二エーエム・ピーエム・ジャパンを吸収合併★★
上田準二エーエム・ピーエム・関西を吸収合併
上田準二中国・杭州市に杭州頂全便利店を設立
上田準二中国・成都市に成都福満家便利を設立
上田準二シニアライフクリエイトの株式を取得
上田準二中国・深圳市に深圳市頂全便利店を設立
中山勇中国・無錫市に無錫福満家便利店を設立
中山勇中国・北京市に北京頂全便利店を設立
中山勇中国・東莞市に東莞市頂全便利店を設立
中山勇ココストアを株式取得により完全子会社化★★
中山勇ココストアを吸収合併
上田準二サークルK・サンクスの自社ブランドへの一本化と店舗網の統合

2015年10月15日に基本合意書を結び、2016年2月3日に吸収合併契約と吸収分割契約を締結して、同年9月1日に実行した経営統合。ファミリーマートを吸収合併存続会社、ユニーグループ・ホールディングスを吸収合併消滅会社とし、存続会社は同日付でユニー・ファミリーマートホールディングスへ商号を変更した。 効力発生と同時に、統合会社を吸収分割会社、ユニーグループ・ホールディングスの完全子会社であるサークルKサンクスを吸収分割承継会社とする吸収分割を行い、コンビニエンスストア事業をサークルKサンクスへ承継した。サークルKサンクスは同日、株式会社ファミリーマートへ商号を変更している。

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★★★
上田準二名古屋証券取引所市場第一部に株式上場
髙柳浩二ユニー株式の40.0%をドンキホーテホールディングスに譲渡★★
髙柳浩二PPIHへの改称——総合スーパー大手を呑み2兆円企業

2019年1月、ドンキホーテホールディングスが大原孝治社長のもとで総合スーパー大手ユニーを完全子会社化し、翌2月に商号を"パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス"(PPIH)へ改めた経営判断。グループ店舗数は600店に達した。

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★★★
澤田貴司子会社ファミリーマートを吸収合併し商号をファミリーマートに変更★★
澤田貴司名古屋証券取引所市場第一部の上場を廃止
澤田貴司株式公開買付けによる完全子会社化と、親子上場の解消

2020年7月8日、伊藤忠商事は、出資比率50.2%の子会社ファミリーマートを非公開化するため、買付価格を1株2,300円とする公開買付けを実施すると公表した。買付けは翌9日から8月24日まで行われ、応募は79,017,984株で買付予定数の3割強にとどまり、買付け等後の公開買付者の所有割合は15.61%となった。応募しなかった株式は株式併合の端数処理で同じ1株2,300円相当で買い取り、ファミリーマートは11月12日に上場廃止となった。

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★★★
細見研介全家便利商店の発行済株式5.0%の譲渡が完了
細見研介ゲート・ワンを設立
出典・参考 9件

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