1950年
富山県に津澤メリヤス製造所を創業

富山県の農村地帯である小矢部にて西田家は農業を営んでいたが、戦争によって4人兄弟のうち2人が亡くなった。そこで、残った兄弟2人が家計を支えるために「津澤メリヤス製造所」を創業した。

靴下などのメリヤス製品を製造していたと推察される。ただし、メリヤスは競合が多い市場であり、返品や在庫に悩まされていたという。

1952年
スポーツ分野に参入。登山ソックスの製造を開始

創業者の西田東作は、日本が平和になりつつあり、将来はスポーツの時代が到来すると考え、付加価値の高いスポーツ向けの繊維製品に参入することを決めた。

まずは、富山県という豪雪地帯に拠点があることを活用し、登山向けの靴下製造から参入した。

1963

東京オリンピック開催を受けて、商号をゴールドウインに変更

東京オリンピックの開催決定を受けて、コールドウィンは本格的にスポーツ製品の企画製造を開始する方針を決め、1963年に商号を「ゴールドウイン」に変更した。社名の由来は「金メダル・勝利」であり、オリンピックを意識したものであった。

生産面でも大規模な投資を決定し、1963年ごろに富山県小矢部にて1万㎡の敷地を取得している。この土地は、現在、ゴールドウインの「テック・ラボ(2017年開設)」として活用された。

1964年に開催された東京オリンピックにおいて、コールドウィンは日本チーム向けのユニフォームを提供。「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボールチームにユニフォームを提供するなど、スポーツ分野においてゴールドウインが頭角を表すきっかけとなった。

1975年
米国チャンピオン社と契約を締結。海外ブランドの輸入販売を本格化

1960年代までのゴールドウインは、自社企画および自社製造が主体であった。だが、1970年代を通じて、日本国内でもスポーツ先進国である欧米ブランドが注目を集め、ゴールドウインも海外ブランドの導入を積極的に行なった。

海外企業との提携を通じて、ゴールドウインは防水などのスポーツウェアに必要な技術を習得する。さらに、販売契約を締結することによって、海外ブランド商品の輸入を手がけることによって、若者向けファッションとしても商品を売り出した。

なお、海外企業との提携は、伊藤忠などの商社の介して実現している。

1979

国内生産体制の改革

ゴールドウインは国内の生産体制を改革するために、1979年に子会社として「トヤマゴールドウイン」を設立し、製造部門を分離した。

この狙いは、市場ニーズから逆算して、素早く生産するための体制を作ることであり、富山周辺の協力工場へのハブとして機能させた。ゴールドウインの経営が苦しい時も、西田東作氏は、国内の協力工場との取引を継続したため、協力工場から感謝されたという。当時、進行しつつあった円高問題については、生産の自動化で対処する計画であった。

コールドウィンは1990年代には、富山周辺に123社の協力工場を擁し、国内生産体制の構築の成功事例として賞賛された。

ただし、円高ドル安の進行により、1990年代後半に入ると、これらの協力工場をベースとした国内の生産体制がゴールドウインの致命的な弱みとなった。この意味で、富山周辺に点在した協力工場の存在が、ゴールドウインの大きなボトルネックとなった側面もある。

1981年
名証第2部に株式を上場

業績の拡大を受けて、1981年に名古屋証券取引所に株式を上場した。

なお、1995年には東証1部への上場を果たした。

1985

「新創業宣言」により余剰在庫を焼却処分

1980年代を通じて、日本各地にスキー場が新設されたことによって、空前のスキーブームが到来した。

ゴールドウインはスキーウェアを手がけていたものの、競合との競争が激しくなり、スキーウェアにもファッション性が求められたため、顧客ニーズに合わない商品が余剰在庫として積み上がった。

この結果、1985年度の決算で、ゴールドウインは最終赤字に転落した。

経営再建のために、創業者の西田東作は「新創業宣言」を号令し、余剰在庫の焼却処分を実行した。

新創業宣言後は、スキーブームの恩恵を受けて、業績を拡大。スキーウェア向けの売上高は、1987年3月期の94億円から、1992年3月期の234億円へと拡大し、ゴールドウイン成長の原動力となった。

1991年度の国内のスキーウェアでは、生産高ベースで、ゴールドウインがシェアNo.1(18.9%)を確保し、2位のフェニックス、3位のデサントを凌駕した。この結果、1987年から1995年にかけて、ゴールドウインは連続増収を達成した。1993年には東京に新本社ビル(登記上の本社は富山県)を竣工し、スキーブームの勢いを象徴する建物となった。

1995

8期連続増収に終止符。中国への生産移管を開始

スキーブームの終焉により、1995年にゴールドウインは8期連続増収に終止符を打ち、スキーウェアに依存した事業構造に課題が生じた。

また、国内が主体だった生産面でも課題が生じつつあった。1990年代を通じて円高ドル安が進行し、国内の生産地に依存していたゴールドウインは、自社製造品における価格競争力が低下したためである。

そこで、1995年からゴールドウインは、海外への生産移管を開始し、子会社を通じた中国での生産に注力した。

生産移管を受けて、国内の生産拠点の整理を開始し、1999年ごろには国内生産の30%を削減する方針を決めた。歴史的に協力工場を多く擁していた関係から、急激な取引中止という決定は行えず、2010年代までの20年という年月をかけて、ゴールドウインは、国内の製造拠点や子会社を徐々に整理していったものと推察される。

1999

2期連続の最終赤字転落し、累計約100億円の損失を計上

スキーブームの終焉による減収と、海外への生産移管の遅れによって、ゴールドウインの業績が悪化。1998年度と1999年度の2期連続で最終赤字に転落し、累計100億円の損失を計上した。

経営の悪化を受けて、ゴールドウインは経営体制の刷新を選択した。2000年に創業者の西田東作氏が社長を退任し、後任には同氏の息子の西田明男氏(当時47歳)がゴールドウインの社長に就任した。

社長交代以後、2021年までの約20年間にわたって、西田明男がゴールドウインの社長を歴任した。

なお、1990年代後半はスキーウェア業界にとっては厳しい時代で、フェニックスやデサントも同様に経営危機に陥っている。特に、フェニックスはスキーウェアからの転換が遅れ、2004年に産業再生機構による支援を受け入れ、2008年には中国企業に1円で売却されるなど、壮絶な末路を辿った。

2000

サプライチェーンの組み替えを本格化。小売業に参入

2000年からゴールドウインは事業構造の本格的な転換を開始した。

従来のゴールドウインは、企画開発面ではスキーウェアを主軸とし、製造面では国内工場、販売面では卸向けに徹していた。円安に根ざしたスキーブームに最適化されたサプライチェーンを組んでいたため、円高やブームの終焉とともに構造的な問題となっていた。

そこで、ゴールドウインは「アウトドア」というカジュアルファッションを主軸としたサプライチェーンの構築を推し進めた。

企画開発面では、1990年代を通じて海外ブランドの商用の買取を本格化させ、1996年にはTHE NORTH FACEの日本および韓国における商標権を買収している。ただし、経営危機に際してゴールドウインは、一度、THE NORTH FACEの商標権を三井物産に売却していたが、2001年に三井物産から商標権を買い戻している。

生産面では、1990年代から本格化させた中国への生産移管を継続し、国内拠点の閉鎖を実施。この結果、円高ドル安に対応し、製品を安く消費者に提供する生産体制の構築を試みた。

販売面では、小売業への参入を決断した。従来のゴールドウインでは、卸売業者への販売が一般的であり、最終消費者である顧客との接点が少ないという問題を抱えていた。

そこで、ゴールドウインは小売領域に参入し、2000年に東京原宿にて「THE NORTH FACE」の専門店を開業した。小売業への参入によって、ゴールドウインは最終消費者の動向を掴みやすくなったことで、商品開発の体制もニーズから逆算する形に変化していった。

これらの、企画・開発・生産・販売の全てにおける改革は従来のゴールドウインの常識を覆すものであり、1990年代から2000年代にかけて、時間をかけて浸透していった。このため、2000年代を通じてゴールドウインの業績成果として顕著になるわけではなく、業績数値は停滞した。

2007

大江伸治氏が専務に就任。発注体制を改革

ゴールドウインの経営再建のため、2007年に三井物産出身の大江伸治氏が同社の取締役専務に就任した。以後、西田明男社長と、大江氏によって、ゴールドウインの経営改革が進められた。

当時のゴールドウインでは、小売業に参入したものの販売ロスが多いという問題を抱えていており、大江氏は販売ロスの削減を経営の論点に据えた。

まずは、在庫の発生原因を現場の属人性にあると考え、ブランド責任者ではなく「発注管理会議」において発注を最終決定する体制に移行した。当時のゴールドウィンでは、それでも現場による「闇発注」が横行したため、大江氏が発覚のたびに事業責任者を牽制した。

また、構造的に返品を生まない体制を作るために、従来の委託型の取引を縮小し、商品の自社管理比率を高める方針を打ち出した(2008年時点の自社管理比率は約20%)。2008年以降、ゴールドウィンは直営の小売店舗の出店を本格化させた。

2008年
東京本社ビルの売却損を計上。最終赤字に転落

2008年3月期にゴールドウインは、減損会計の導入により最終赤字に転落した。

減損の内容は、バブル期の1993年に竣工した東京本社(渋谷区松濤)のビルの売却によるものであり、売却損として45億円の特別損失を計上した。

このため、バブル期の土地付きビル竣工という投資において、ゴールドウインは痛手を被る形となった。

2011年
店舗網の拡大

2010年代を通じて、ゴールドウインは小売を重視する方針を続け、THE NORTH FACEの取り扱いを中心に店舗網を拡大した。

この結果、ゴールドウインの自社管理による売上比率を高めることで、最終顧客との接点がある小売を重視するビジネスへの転換を進めた。

2020

THE NORTH FACEが好調で、高収益企業に変貌

2010年代後半から、日本国内ではファッショントレンドのカジュアル化が進行。マウンテンパーカーや、スニーカーなど、機能性に優れた商品が、若者の間でトレンドのファッションとして受け入れられた。

ゴールドウインもファッショントレンドのカジュアル化という恩恵を受けて、THE NORTH FACEが業績拡大を牽引した。2019年にはゴールドウインの売上高の過半をTHE NORTH FACEが生み出すなど、同社躍進の原動力となった。

ゴールドウインは、2010年代後半を通じて収益性を大幅に改善し、2020年3月期には売上高978億円に対して経常利益142億円を計上し、高収益企業として注目を浴びた。

また、売上高の大半が、THE NORTH FACEを中心とするアウトドア関連事業であり、スキー関連の売上構成比は2%程度で推移した。このため、ゴールドウインは、1990年代から約20年をかけて、主力事業を「スキーウェア」から「カジュアルウェア(アウトドア)」に変化させたと言える。