1950年に西田東作氏が富山県津沢町で始めたメリヤスの製造が起源。
1972年の札幌で日本代表のウエアに採用され、1995年にTHE NORTH FACEの日本・韓国商標権を取得した。ノースフェイス事業が連結売上の77%を占めるスポーツウエアメーカーである。
1951年12月、西田東作氏は富山県西砺波郡津沢町に株式会社津沢メリヤス製造所を資本金50万円で設立した。西田東作氏は小矢部の出身で、郷里で会社を起こした。創業時の国内のスポーツ用品小売店は1,000社ほどで、1981年の1万8,000社の18分の1にとどまった。設立当初はニット製品とメリヤス雑貨の製造・販売を手がけた。1981年時点でも戸籍上の本社と生産拠点は富山県小矢部市にあり、販売の機能だけを東京に置いた。西田東作氏は1981年の講演で、昭和26年の創業から30年間ユニフォームづくりを続けてきたと振り返った。資本金50万円の工場にとって、肌着や雑貨のメリヤスは郷里の人手と編み機で始められる手近な品目だったと思われる。
1952年7月、津沢メリヤス製造所は野球ストッキングを中心とするスポーツウエアの全面生産へ転換した。設立からわずか7カ月後の決定で、一般のメリヤス雑貨の製造からは撤退した。転換後の主な品目は野球用ソックスとスキーセーターだった。背景には、戦時中に中断したプロ野球の復活をはじめとするスポーツの振興があった。西田東作氏は1991年、全米水泳選手権での日本選手の金メダルに感動したことも専業化の動機だったと説明した。戦後の荒廃のなかで、スポーツで国民に希望を与える事業に役立とうと考えたという。再開した野球で需要が見込める靴下に絞れば、メリヤスの編み立て設備をそのまま生かせたのだろう。
津沢メリヤス製造所は1956年4月に大阪営業所を、1958年2月に東京営業所を開設した。1958年には優勝した者を意味する「ゴールドウイン」の名で自社ブランド製品の生産も始めた。地名の社名とは別に、競技着のブランドを打ち出した。生産は富山に残し、販売の拠点を大都市に置いた。その後も1970年9月に札幌、1971年12月に福岡、1972年6月に名古屋に営業所を開設した。1972年までに営業所は大阪・東京・札幌・福岡・名古屋の5カ所となり、1979年6月には東京営業所を東京本社に改めた。販売と情報収集の必要から、本社機能の一部を東京へ移した。富山の工場から遠い都市の問屋や実業団の注文を受けるには、現地に常駐する拠点が要ったと推察される。
津沢メリヤス製造所は、日紡貝塚の女子バレーボールチームのためにNK式ユニフォームを開発した。きっかけは、海外の大会に出た選手が先進国のユニフォームを持ち帰り、日本人に合う品を作るよう申し入れたことだった。レスリングの笹原正三氏もその一人だった。戦後しばらくの物不足で、日本選手の競技着は試合中に破れるなど機能の不備を抱えていた。女子バレーの選手は布帛のブルマで国際試合に出ており、十分に動けないため素材をニットに改めた。日紡貝塚の監督は、商品開発の相談相手も務めた。メリヤスの編み立てから出発した工場にとって、ニットへの切り替えは手持ちの技術を生かせる改良だったとみられる。
選手の申し入れには、ローマ・オリンピック大会の体操で金メダルを獲得した選手も加わった。津沢メリヤス製造所は、海外で試合をした選手が持ち帰った各国の競技着を参考にし、選手の意見を聞いて改良を重ねた。西田東作氏は、海外の製品を見よう見まねで作っても思うような品にならなかったと1981年に振り返った。体操では倒立の際にパンツが脚に密着しないと採点に響いた。レスリングのユニフォームは試合が激しく破れやすかった。トレーニングウエアでは、スライディングの瞬間の熱で普通の繊維が溶けたり破れたりした。1962年には富山に新しい工場を建て、その塀に世界制覇を掲げる標語を記した。競技ごとの不具合を選手から直接聞き取る作り方が、一流選手の間で受注を広げたと考えられる。
1963年6月、津沢メリヤス製造所は本社を富山県小矢部市清沢へ移し、商号を株式会社ゴールドウインに改めた。社名はブランドに合わせたもので、1958年から使う自社ブランドの名を会社の名にした。オリンピックに備えた合宿で選手と競技着を相談した際、選手からブランド名に津沢の地名は合わないとの指摘を受けた。西田東作氏はGOLDを黄金、WINを勝利とし、ユニフォームでも金メダルを取るという願いを込めた。社名の由来を西田東作氏は{q1}と表した。1964年の東京オリンピックで日本が獲得した金メダル16個のうち、12個は同社製のユニフォームを着た選手によるものだった。地名の社名を捨てたことで、選手の評判をそのまま商品の名に結びつけられたと推測される。
スキーは1952年の全面転換の時点から品目に入っており、当初はスキーセーターだった。1963年にはスキーウエアが全日本スキー連盟の推薦品に指定された。1970年にはフランスのフザルプ社と技術提携し、初めて海外ブランドを導入した。ニット素材に限られていた国内のスキーウエアに、布帛のウエアを持ち込んだ。提携には世界の23社が名乗りを上げ、西田東作氏は1週間以上交渉して契約を得た。1975年10月に米国のチャンピオンプロダクツ社、1976年8月にイタリアのエレッセ社とも技術提携した。1980年6月期の品目別売上高構成比で、スキー用品は28.6%を占めた。ニットの一品目から始めたスキーを、海外の縫製技術で布帛の主力品目へ育てたのだと思われる。
1977年6月、ゴールドウインは株式の額面金額を変えるため、旧日東物産株式会社であった株式会社ゴールドウインと合併した。これに先立つ1968年頃、資本金3,000万円ほどの時期に、その3倍ほどの不良債権を抱えて倒産寸前に追い込まれた。業界では1969年頃から新規参入による過剰生産が続いていた。ゴールドウインは地区ごとに小売店と代理店がチームを編成し、注文に基づいて生産する方式で過剰生産を防いだ。1978年6月期の売上高は114億円、経常利益は4.1億円だった。1979年6月には生産部門をトヤマゴールドウインへ分離した。1981年2月には名古屋証券取引所に上場した。額面の変更は、株式の公開を見据えて株式の単位を整える準備だった可能性がある。
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事実根拠:出所(ゴールドウイン)