1973年〜 大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまで
- 1973年イトーヨーカ堂が米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、コンビニエンスストア事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立
- 1974年東京都江東区豊洲に加盟店第1号を開業。酒販店からの転換で、営業時間は午前7時から午後11時までの16時間
- 1974年神奈川県相模原市に直営の実験店を開設。売場面積165平方メートルで生鮮三品を扱い、酒類を置かない構成として豊洲店と比較検証
- 1975年福島県郡山市の店舗で24時間営業を開始し、夜間営業が昼間の売上も押し上げることを確認
- 1977年加盟店の一部が本部を通さない独自ルートでの仕入れ・販売を始め、粗利益の45%を本部が徴収する契約への不満が表面化。本部はシステムの一部変更の検討に入る
- 1978年商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンに変更。同年6月には米サウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移り、事業主体として自立
- 1978年鈴木敏文氏が社長に就任。同年に加盟店が累計500店を超える
セブンイレブン・ジャパンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
大型店を出すために、中小店の行き先を調べた
セブンイレブン・ジャパンは、コンビニエンスストアを日本に持ち込もうという発想から始まったのではない。1970年から1971年にかけて、親会社のイトーヨーカ堂は大型店の出店に苦しんでいた。地元商店街に共存共栄を申し入れるには、相手の商売がこの先どうなるのかを具体的に示さなければならない。そこで中小小売店の今後の方向を研究することにした、というのが鈴木敏文氏の説明である。イトーヨーカ堂はこの1970年から、米国におけるコンビニエンスストアの実情と、日本で発展する可能性の有無を調査した。設立の動機は新業態への意欲ではなく、本業の出店障害をどう取り除くかという課題の側にあった。 [1][2]
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [1]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った
- 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
- [2]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている
視察した本人の第一印象は芳しくなかった。鈴木氏は米国のコンビニエンスストアを最初に見たとき「雑貨屋みたいな変な店」と感じたと語っている。関心が変わったのは、提携先となる米サウスランド社のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知ったときである。同社は1927年にトンプソン家が製氷会社として創業し、工場の傍らでパンや牛乳、卵を売る小売店を併設したところ繁盛したことからチェーン化を進め、1946年に店名をセブンイレブンとした。1962年に500店、1965年に1,000店と伸び、大型店の発達と並行してコンビニエンスストアも育っていた。 [3][4][5]
- 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
- [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
- [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
- 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建。しつこい店作り移植」
- [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした
専門家の見立ては否定的だった。日本には住宅街の近くに多数の小売店があり、すでにコンビニエンスストアの役割を果たしている。ゆえに「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が、学者やコンサルタントには多かった。鈴木氏はこれを現象面のとらえ方だと退けた。当時すでに問題になっていた小売業の生産性の低さが、その議論には入っていないというのが理由である。高度成長期には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移っていたが、イトーヨーカ堂でさえ月に4日休むようになったのは1961年ごろからだった。労働条件がそこまで劣後する産業に、生産性を上げる余地がないとは考えなかった。 [6][7]
- 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
- [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
- [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [1]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った
- 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
- [2]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている
- [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
- [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
- [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
- [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
- 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建。しつこい店作り移植」
- [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした
実験店を二つ置き、条件を変えて確かめる
1973年11月、イトーヨーカ堂は米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、その事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立した。同月20日の設立である。導入したのは店舗の立地調査、店舗設計、設備レイアウト、品揃え、簿記会計システムまでを含む一式で、日本の実情に合わせた部分的な修正を加えたほかは、ほぼそのまま持ち込まれた。売場面積30坪から50坪ほどの小型店でありながら品揃えは約3,500品目、しかも長時間営業で年中無休という、日本には前例のない営業形態であった。翌1974年5月15日、東京都江東区豊洲に加盟店の第1号が開業する。酒販店からの転換であった。 [8][9][10]
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
- [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
- [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている
開業当初の2店は、そのまま実験だった。豊洲の加盟店は売場面積82.5平方メートルで酒類を置き、生鮮三品を扱わない。翌6月に神奈川県相模原市へ開いた直営店はその倍の165平方メートルで、生鮮三品を扱い酒類を置かない。立地によって来店時間がどう変わるか、品揃えはどうあるべきかを調べるための構成である。イトーヨーカ堂はこの結果を見て翌年以降の出店数を決めることとし、当面は1975年2月末までに15店を置く計画とした。その先には8年間で2,000店という青写真も描いている。営業時間は店名のとおり午前7時から午後11時までの16時間だったが、1975年には福島県郡山市の店舗で24時間営業を試した。 [11][12][13]
- 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
- [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
- [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
- [13]1974年の開業当初は朝7時から夜11時までの16時間営業だったが、より長時間営業を望む客が多く、翌1975年に福島県郡山市で初の24時間営業を開始した
大手の参入に、中小小売業からは反発が出た。「資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」という談話が当時の誌面に載っている。しかし、加盟店の増加は速かった。年度ごとの増加数は1975年2月期に7店、1976年2月期に57店、1977年2月期に124店、1978年2月期に171店、1979年2月期に211店と積み上がり、1979年2月末の加盟店は570店に達した。加盟前の業種では酒店が275店と全体の48.2%を占める。地域における知名度と、専売品を扱う強さを見込み、酒店を重点的に開拓した。 [14][15][16]
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
- [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
- 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
- [16]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
- [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
- [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている
- [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
- [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
- 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
- [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
- [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた
- [16]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
- [13]1974年の開業当初は朝7時から夜11時までの16時間営業だったが、より長時間営業を望む客が多く、翌1975年に福島県郡山市で初の24時間営業を開始した
契約への不満が表に出て、事業主体として自立する
拡大の途中で、契約そのものへの不満が表に出た。1977年、千葉県の加盟店が本部と関係のない問屋から商品を仕入れ、独自に販売を始める。酒販店からの転業で、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やしたためであった。当時の契約は、売上金を毎日全額本部へ送金し、粗利益の45%を本部が取り、期間は15年という内容で、本部の拘束が強い。この話が伝わると同業の加盟店も別仕入れを導入し、本部は契約の一部変更を検討する事態になる。全面的に認めればコンビニエンスストアの前提が崩れる。加盟店の納得と本部の取り分をどう両立させるかは、この時点で表面化していた。 [17][18][19]
- 日経ビジネス 1977年7月18日号「流通。セブンイレブンに反旗翻す加盟店」
- [17]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
- [18]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
- [19]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった
1978年、会社は名実ともに事業主体になった。1月に商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンへ変更し、6月にはサウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移る。ライセンスを親会社経由で借りる立場から、自ら契約を持つ立場に変わった。同年、鈴木敏文氏が社長に就く。加盟店は同じ1978年に500店を超えた。1974年の15店計画から数えて4年、実験店の集合は全国規模のチェーンの体裁を整えている。仕入れは推薦問屋制を敷き、発注と支払いの代行を本部と各店を結んだオンラインで処理する一方、配送そのものは問屋に委ねた。多品種を少量ずつ運ぶには問屋に任せるほうが有利だと判断した。 [20][21][22][23]
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [20]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
- [23]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
- [21]鈴木敏文は1978年にセブンイレブン・ジャパン社長に就任した
- 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
- [22]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した
- 日経ビジネス 1977年7月18日号「流通。セブンイレブンに反旗翻す加盟店」
- [17]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
- [18]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
- [19]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった
- 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
- [20]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
- [23]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
- [21]鈴木敏文は1978年にセブンイレブン・ジャパン社長に就任した
- 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
- [22]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した