セブンイレブン・ジャパン の歴史

創業

1973年

創業者

※イトーヨーカ堂

創業地

東京都千代田区

直近売上高(2005/2)

24,408億円

長期業績と転換点(1976/2〜2005/2)
売上高(億円
Q なぜイトーヨーカ堂は1973年に、本業と競合しかねない小型店の事業を子会社で始めたのか
A 出発点は新業態への意欲ではなく、本業の出店障害であった。1970年から1971年にかけて、イトーヨーカ堂は大型店の出店に苦しんでいた。地元商店街に共存共栄を申し入れるには、相手の商売の先行きを示さねばならない。学者やコンサルタントの多くは「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」と反対したが、鈴木敏文氏はこれを現象面のとらえ方だと退けている。小売業の生産性の低さが議論に入っていないというのが理由であった。1973年11月、米サウスランド社とのライセンス契約に基づきヨーク・セブン株式会社が設立される
Q なぜ1979年に、出店資金を加盟店が負担する軽い資本構造でありながら株式を公開したのか
A この会社は店舗を自ら持たない。土地と建物の資金は加盟店が負担し、本部が持つのは冷蔵庫や陳列棚などの設備と商品に限られた。営業規模に比例した投資資金を必要としない構造である。それでも1979年10月15日に東京証券取引所市場第二部へ上場し、公募380万株は新株の発行で、資本金は10億円となる。集めたのは資金というより、加盟店を募る側の信用であった。上場直前の時点で親会社イトーヨーカ堂は62.54%を保有し、公募による希薄化の後も持分は過半を超えている
Q なぜ1991年に、ライセンスを与えた側の米サウスランド社を与えられた側の日本法人が買い取ったのか
A 破綻の原因は事業ではなく資本にあった。1987年、カナダの投資家に敵対的買収を仕掛けられたサウスランド社は、防衛のため創業家が自社株を買い付けて上場を廃止した。直後にブラックマンデーが起き、調達に使った18億ドルのジャンク債は年間約3億ドルの金利負担となって残った。事業そのものは崩れていない。1990年12月期は2億7,600万ドルの期間損失を出したが、売上高は83億4,700万ドルで前年比1%の増収であり、北米の店舗も6,702店を保っていた。買収資金はイトーヨーカ堂が51%、同社が49%を分担した

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1973年〜 大型店の摩擦から生まれた子会社が、5年で500店に届くまで

  1. 1973年イトーヨーカ堂が米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、コンビニエンスストア事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立
  2. 1974年東京都江東区豊洲に加盟店第1号を開業。酒販店からの転換で、営業時間は午前7時から午後11時までの16時間
  3. 1974年神奈川県相模原市に直営の実験店を開設。売場面積165平方メートルで生鮮三品を扱い、酒類を置かない構成として豊洲店と比較検証
  4. 1975年福島県郡山市の店舗で24時間営業を開始し、夜間営業が昼間の売上も押し上げることを確認
  5. 1977年加盟店の一部が本部を通さない独自ルートでの仕入れ・販売を始め、粗利益の45%を本部が徴収する契約への不満が表面化。本部はシステムの一部変更の検討に入る
  6. 1978年商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンに変更。同年6月には米サウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移り、事業主体として自立
  7. 1978年鈴木敏文氏が社長に就任。同年に加盟店が累計500店を超える

セブンイレブン・ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

大型店を出すために、中小店の行き先を調べた

セブンイレブン・ジャパンは、コンビニエンスストアを日本に持ち込もうという発想から始まったのではない。1970年から1971年にかけて、親会社のイトーヨーカ堂は大型店の出店に苦しんでいた。地元商店街に共存共栄を申し入れるには、相手の商売がこの先どうなるのかを具体的に示さなければならない。そこで中小小売店の今後の方向を研究することにした、というのが鈴木敏文氏の説明である。イトーヨーカ堂はこの1970年から、米国におけるコンビニエンスストアの実情と、日本で発展する可能性の有無を調査した。設立の動機は新業態への意欲ではなく、本業の出店障害をどう取り除くかという課題の側にあった。 [1][2]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [1]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [2]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている

視察した本人の第一印象は芳しくなかった。鈴木氏は米国のコンビニエンスストアを最初に見たとき「雑貨屋みたいな変な店」と感じたと語っている。関心が変わったのは、提携先となる米サウスランド社のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知ったときである。同社は1927年にトンプソン家が製氷会社として創業し、工場の傍らでパンや牛乳、卵を売る小売店を併設したところ繁盛したことからチェーン化を進め、1946年に店名をセブンイレブンとした。1962年に500店、1965年に1,000店と伸び、大型店の発達と並行してコンビニエンスストアも育っていた。 [3][4][5]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
    • [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建。しつこい店作り移植」
    • [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした

専門家の見立ては否定的だった。日本には住宅街の近くに多数の小売店があり、すでにコンビニエンスストアの役割を果たしている。ゆえに「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が、学者やコンサルタントには多かった。鈴木氏はこれを現象面のとらえ方だと退けた。当時すでに問題になっていた小売業の生産性の低さが、その議論には入っていないというのが理由である。高度成長期には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移っていたが、イトーヨーカ堂でさえ月に4日休むようになったのは1961年ごろからだった。労働条件がそこまで劣後する産業に、生産性を上げる余地がないとは考えなかった。 [6][7]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
    • [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [1]イトーヨーカ堂は昭和45年(1970年)からコンビニエンス・ストア事業について米国内の実情および日本における発展の可能性等の調査・研究を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [2]鈴木敏文は「45〜46年当時、イトーヨーカ堂は大型店舗を出すのにたいへん苦労した。地元商店街の人たちに共存共栄でやっていきたいと申し入れるについては、その具体的な方法を提案しなければならず、中小小売店の今後の方向を研究することにしたのが動機である」と述べている
    • [3]鈴木敏文は米国のコンビニエンス・ストアを最初に見たときの印象を「正直にいって『雑貨屋みたいな変な店』というものだった」と述べ、米国のセブンイレブンが当時すでに4,000店に達していると知って関心を強めたと語った
    • [5]鈴木敏文は米サウスランド社について「62年に500店、65年に1,000店となったが、こうした大型店の発展と同時に、コンビニエンス・ストアも伸びてきた」と説明した
    • [6]鈴木敏文は、学者・コンサルタントから「中小小売店がもっと整理された後でないとだめだ」という意見が多かったが「それが納得できなかった。現象的なとらえ方で、当時すでに問題になっていた小売店の生産性の悪さの面からの見方がなされていなかったからである」と述べた
    • [7]高度成長時代には雇用条件の良いメーカーへ流通業から人が移って行く状況となり、小売業では休日が月に一度という状態が続いて月に4日休むようになったのはイトーヨーカ堂でも昭和36年(1961年)ごろからであった
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建。しつこい店作り移植」
    • [4]サウスランド社は1927年にトンプソン家が設立し、当初は小さな製氷会社だったが工場の傍らにパンや牛乳・卵などを売る小規模な店をつくったところ繁盛してチェーン化を進め、1946年に店名を「セブンイレブン」とした

実験店を二つ置き、条件を変えて確かめる

1973年11月、イトーヨーカ堂は米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、その事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立した。同月20日の設立である。導入したのは店舗の立地調査、店舗設計、設備レイアウト、品揃え、簿記会計システムまでを含む一式で、日本の実情に合わせた部分的な修正を加えたほかは、ほぼそのまま持ち込まれた。売場面積30坪から50坪ほどの小型店でありながら品揃えは約3,500品目、しかも長時間営業で年中無休という、日本には前例のない営業形態であった。翌1974年5月15日、東京都江東区豊洲に加盟店の第1号が開業する。酒販店からの転換であった。 [8][9][10]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
    • [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
    • [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている

開業当初の2店は、そのまま実験だった。豊洲の加盟店は売場面積82.5平方メートルで酒類を置き、生鮮三品を扱わない。翌6月に神奈川県相模原市へ開いた直営店はその倍の165平方メートルで、生鮮三品を扱い酒類を置かない。立地によって来店時間がどう変わるか、品揃えはどうあるべきかを調べるための構成である。イトーヨーカ堂はこの結果を見て翌年以降の出店数を決めることとし、当面は1975年2月末までに15店を置く計画とした。その先には8年間で2,000店という青写真も描いている。営業時間は店名のとおり午前7時から午後11時までの16時間だったが、1975年には福島県郡山市の店舗で24時間営業を試した。 [11][12][13]

  • 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
    • [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
    • [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [13]1974年の開業当初は朝7時から夜11時までの16時間営業だったが、より長時間営業を望む客が多く、翌1975年に福島県郡山市で初の24時間営業を開始した

大手の参入に、中小小売業からは反発が出た。「資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」という談話が当時の誌面に載っている。しかし、加盟店の増加は速かった。年度ごとの増加数は1975年2月期に7店、1976年2月期に57店、1977年2月期に124店、1978年2月期に171店、1979年2月期に211店と積み上がり、1979年2月末の加盟店は570店に達した。加盟前の業種では酒店が275店と全体の48.2%を占める。地域における知名度と、専売品を扱う強さを見込み、酒店を重点的に開拓した。 [14][15][16]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
    • [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
  • 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
    • [16]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [8]昭和48年11月にイトーヨーカ堂とザ・サウスランド社との間でエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、同事業を展開するための会社としてヨーク・セブン株式会社が同年11月20日に設立された
    • [9]コンビニエンス・ストア事業は売場面積が30坪から50坪程度の小型店でありながら品揃え数は約3,500品目と豊富で、長時間営業かつ年中無休という日本では前例のない営業形態であった
    • [10]契約に基づきザ・サウスランド社の経営ノウハウ(立地調査・店舗設計・設備レイアウト・品揃え・簿記会計システム等)を日本の実情に合わせ若干の部分的修正を加えたうえでほぼそのまま導入し、昭和49年5月に東京都江東区豊洲でチェーン加盟店第1号を開業した。鈴木敏文は開業日を昭和49年5月15日と述べている
    • [14]加盟店増加の足取りは昭50.2期7店、昭51.2期57店、昭52.2期124店、昭53.2期171店、昭54.2期211店で、昭54.2期には総数570店の加盟店を数えるに至った
    • [15]加盟店の加盟前の従事業種では酒店経営が275店と全体の48.2%を占め、これは同社が加盟店の勧誘にあたって地域における知名度、専売品を扱っている強さなどから酒店を重点的に開拓したことによる
  • 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
    • [11]直営店(相模原市)は売り場面積165平方メートルで生鮮3品を扱い酒類を置かず、フランチャイジー店(豊洲)は売り場面積が半分の82.5平方メートルで酒類を置く代わりに生鮮3品を扱わないという実験色の濃い構成とした
    • [12]決算期にあたる1975年2月末までに合計15店をつくる計画で、これらはいずれも実験店であり、イトーヨーカ堂は今後8年間でフランチャイジーを中心に2,000店のコンビニエンス・ストアを配置する青写真を描いていた
    • [16]中小小売業側からは「中小商店がようやくコンビニエンス・ストアに明るい方向を見いだしかけた矢先に資本力を武器になぐり込む」「大企業の横暴である」との談話が寄せられた
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [13]1974年の開業当初は朝7時から夜11時までの16時間営業だったが、より長時間営業を望む客が多く、翌1975年に福島県郡山市で初の24時間営業を開始した

契約への不満が表に出て、事業主体として自立する

拡大の途中で、契約そのものへの不満が表に出た。1977年、千葉県の加盟店が本部と関係のない問屋から商品を仕入れ、独自に販売を始める。酒販店からの転業で、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やしたためであった。当時の契約は、売上金を毎日全額本部へ送金し、粗利益の45%を本部が取り、期間は15年という内容で、本部の拘束が強い。この話が伝わると同業の加盟店も別仕入れを導入し、本部は契約の一部変更を検討する事態になる。全面的に認めればコンビニエンスストアの前提が崩れる。加盟店の納得と本部の取り分をどう両立させるかは、この時点で表面化していた。 [17][18][19]

  • 日経ビジネス 1977年7月18日号「流通。セブンイレブンに反旗翻す加盟店」
    • [17]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
    • [18]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
    • [19]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった

1978年、会社は名実ともに事業主体になった。1月に商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンへ変更し、6月にはサウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移る。ライセンスを親会社経由で借りる立場から、自ら契約を持つ立場に変わった。同年、鈴木敏文氏が社長に就く。加盟店は同じ1978年に500店を超えた。1974年の15店計画から数えて4年、実験店の集合は全国規模のチェーンの体裁を整えている。仕入れは推薦問屋制を敷き、発注と支払いの代行を本部と各店を結んだオンラインで処理する一方、配送そのものは問屋に委ねた。多品種を少量ずつ運ぶには問屋に任せるほうが有利だと判断した。 [20][21][22][23]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [20]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
    • [23]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [21]鈴木敏文は1978年にセブンイレブン・ジャパン社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [22]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号「流通。セブンイレブンに反旗翻す加盟店」
    • [17]1977年、イトーヨーカ堂系列下のセブンイレブンで、酒販店から転業した千葉県の加盟店が、以前から扱っていた酒類まで加盟後は粗利益の45%を本部に取られることに業を煮やし、本部とは関係のない別の問屋から商品を仕入れて販売を始めた
    • [18]フランチャイズ契約の内容は「売上金を毎日全額本部へ送金する」「全売上高の粗利益の45%は本部が取る」「契約期間は15年」で、本部の拘束が極めて強かった
    • [19]同業の加盟店も我先にと別仕入れ方式を導入したため、セブンイレブンもシステムの一部変更を検討し始めたが、全面的に認めればコンビニエンスストアのコンセプトが崩れる可能性があった
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [20]昭和53年1月に商号を「株式会社セブンイレブン・ジャパン」と変更し、昭和53年6月にザ・サウスランド社とのエリアサービスおよびライセンス契約の日本側の契約者がイトーヨーカ堂から同社に変更された
    • [23]一括大量仕入により仕入価格と仕入コストの低減を図るため推薦問屋制を設け、個々の加盟店・自営店の仕入の大部分を同社と各店舗を結んだオンラインシステムで発注業務・支払業務を代行した。各店舗への配送は仕入先問屋に依存し、これは少量多品目のため多頻度にわたる配送を問屋に任せたほうが有利との判断に基づいていた
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [21]鈴木敏文は1978年にセブンイレブン・ジャパン社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [22]加盟店は昭和53年(1978年)に500店を達成し、昭和55年には1,000店を突破した

1979年〜 親会社が過半を握ったまま上場した会社と、その配分の設計

  1. 1979年東京証券取引所市場第二部に上場。上場直前時点で親会社イトーヨーカ堂が62.54%を保有し、公募3,800,000株の発行後も過半を握る親子上場となる
  2. 1980年店舗数が1,000店を突破
  3. 1982年POS(販売時点情報管理)システムを導入し、商品別の売り切れ時刻を把握して死に筋を排除する単品管理の基盤を築く
  4. 1983年弁当・調理パンの1日3便製造・配送体制の導入を開始。店舗数は創業10年目で2,000店を超える
  5. 1984年キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素などに調理済み食品の専用協力工場を関東地区で設立させ、中小ベンダーだけでは賄えない生産量を確保

セブンイレブン・ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

親会社が過半を握ったまま株式を公開する

1979年10月15日、東京証券取引所市場第二部に上場した。公募は380万株で、幹事は野村証券以下6社が引き受けている。上場直前の1979年2月末時点で、親会社イトーヨーカ堂は発行済株式1,620万株の62.54%を保有していた。同時点の株主総数では99.75%を個人が占める一方、株式数では法人が7割を握っている。上場に伴う380万株は新株の発行であり、発行済株式は2,000万株、資本金は10億円となった。希薄化した後も親会社の持分は過半を超え、支配関係は動いていない。この構図は2005年の株式移転まで26年続くことになる。 [24][25][26][27]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [24]上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属は市場第二部で、資本金は1,000,000千円、公募は3,800,000株、幹事会員は野村証券・山一証券・日興証券・大和証券・和光証券・山種証券であった
    • [25]昭和54年2月28日現在の大株主はイトーヨーカ堂62.54%、ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%であり、同時点の株式総数は16,200,000株であった
    • [26]昭和54年2月28日現在の株式分布状況では、個人その他が株主総数の99.75%を占める一方、所有株式数では70.56%がその他の法人であった
    • [27]資本の変遷では昭和53年2月16日時点の資本金810,000千円が、昭和54年10月15日の増加資本金190,000千円により1,000,000千円となった。額面50円・発行数20,000千株で、備考に「昭54.10.15 3,800千株公募」と記載されている

数字の上では、子会社は親会社を上回っていた。1979年2月期の1平方メートルあたり売上高は全店舗平均で1,925千円で、イトーヨーカ堂の826千円の2.3倍にあたる。営業時間が1日最低16時間と長いことが、この差を生んだ。粗利益率も25.2%と、同社の22.6%を2.6ポイント上回る。目玉商品を設けず、大量販売による安売りをしないという商品政策の差である。営業総利益は1977年2月期の21億8,900万円から1978年2月期に48億4,800万円、1979年2月期には88億7,600万円へ伸び、営業利益も5億7,500万円から9億7,900万円、20億9,200万円と積み上がった。加盟店の増加と既存店の粗利益率改善が同時に効いた。 [28][29][30]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [28]1平方メートル当たりの売上高は全店舗平均で1,925千円(昭54.2期)となり、親会社であるイトーヨーカ堂の826千円を大きく上回った。粗利益率も25.2%とイトーヨーカ堂の22.6%を2.6ポイント上回った
    • [29]営業総利益は昭52.2期2,189百万円、昭53.2期4,848百万円、昭54.2期8,876百万円、営業利益は昭52.2期575百万円、昭53.2期979百万円、昭54.2期2,092百万円と推移した
    • [30]高い粗利益率の理由として、目玉商品を設けない、大量販売による安売りをしない、商品の陳列方法等の工夫によって高い粗利益の実現に努力していることが挙げられた。1平方メートル当たり売上高が高いのはセブンイレブン店舗の営業時間が1日最低16時間と長いことによる

上場時点の規模は、それでもまだ小さい。1979年2月末の自営店は21店で、その大半は開店前の加盟店主を教育するための訓練店であった。本体の従業員は372名にとどまる。加盟店570店の売上高が699億円、自営店を含む全店舗売上高が725億円という構造で、会社が計上するのは加盟店からの収入と自営店の売上総利益である。店舗網の大半も店員も自社では抱えず、契約と情報だけで売上を積み上げる会社だった。出店地域も東京、神奈川、埼玉、千葉の関東4都県で78.8%を占め、売上でも82.3%が関東に集中している。全国チェーンと呼べる形ではまだなかった。 [31][32][33]

  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [31]昭54.2期時点で加盟店570店、自営店21店、従業員数372名であり、自営店は開店前の加盟店主の教育等のためのトレーニング・ストアであった
    • [32]加盟店増加に伴って加盟店売上高も増加し、昭54.2期で699億円、自営店も含めた全店舗売上高は725億円に達した
    • [33]昭54.2期末現在の加盟店570店および自営店21店の地域別出店状況は東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の関東地域で78.8%を占め、地域別売上高も関東中心で82.3%を占めた
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [24]上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属は市場第二部で、資本金は1,000,000千円、公募は3,800,000株、幹事会員は野村証券・山一証券・日興証券・大和証券・和光証券・山種証券であった
    • [25]昭和54年2月28日現在の大株主はイトーヨーカ堂62.54%、ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%であり、同時点の株式総数は16,200,000株であった
    • [26]昭和54年2月28日現在の株式分布状況では、個人その他が株主総数の99.75%を占める一方、所有株式数では70.56%がその他の法人であった
    • [27]資本の変遷では昭和53年2月16日時点の資本金810,000千円が、昭和54年10月15日の増加資本金190,000千円により1,000,000千円となった。額面50円・発行数20,000千株で、備考に「昭54.10.15 3,800千株公募」と記載されている
    • [28]1平方メートル当たりの売上高は全店舗平均で1,925千円(昭54.2期)となり、親会社であるイトーヨーカ堂の826千円を大きく上回った。粗利益率も25.2%とイトーヨーカ堂の22.6%を2.6ポイント上回った
    • [29]営業総利益は昭52.2期2,189百万円、昭53.2期4,848百万円、昭54.2期8,876百万円、営業利益は昭52.2期575百万円、昭53.2期979百万円、昭54.2期2,092百万円と推移した
    • [30]高い粗利益率の理由として、目玉商品を設けない、大量販売による安売りをしない、商品の陳列方法等の工夫によって高い粗利益の実現に努力していることが挙げられた。1平方メートル当たり売上高が高いのはセブンイレブン店舗の営業時間が1日最低16時間と長いことによる
    • [31]昭54.2期時点で加盟店570店、自営店21店、従業員数372名であり、自営店は開店前の加盟店主の教育等のためのトレーニング・ストアであった
    • [32]加盟店増加に伴って加盟店売上高も増加し、昭54.2期で699億円、自営店も含めた全店舗売上高は725億円に達した
    • [33]昭54.2期末現在の加盟店570店および自営店21店の地域別出店状況は東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の関東地域で78.8%を占め、地域別売上高も関東中心で82.3%を占めた

粗利益を45対55で割り、最低保証を1,100万円に置く

加盟店との関係は、粗利益の配分で決まった。本部が45%を取り、55%を店主に戻す。本部が負担したのは店内の設備と商品、水道光熱費の87%、テレビなどの広告費の全額である。店主が負担したのは人件費、店舗改装費の銀行返済、そして品減りが生じた場合の埋め合わせにほぼ限られた。改装費は1店あたり1,500万円ほどで、会社の斡旋により返済期間15年ほどの銀行融資を受ける。在庫は原価で600万〜700万円、設備は800万円程度を本部が持った。1978年2月期に固定比率と固定長期適合率が改善したのは、土地と建物を加盟店の負担に残したことに加え、収益が好調だったことと、同期の2度の増資で自己資本が厚くなったことによる。 [34][35][36]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [34]加盟店は毎月の売り上げ金額をいったん本部に送金し、荒利額の45%を本部が取り55%を店主に戻す。本部がもつ費用には設備のほか水道光熱費の87%、TVなど広告代の全部が含まれ、店主が負担するのは人件費、店舗改装費の銀行への返済、品減りが生じた場合の埋め合わせ程度であった
    • [35]店の改装は店主が行い費用は1,500万円ぐらいで、会社のあっせんで銀行から返済期間15年ぐらいのローンを受ける。店内の設備と商品はすべて本部が持ち、在庫は原価で600〜700万円、設備は800万円程度であった
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [36]昭53.2期に固定比率・固定長期適合率が大きく改善した理由として、加盟店の店舗設備資金のうち同社が負担する部分は加盟店に貸与する冷蔵庫・陳列棚等のみであり、資金負担の大きい土地・建物の建築資金などは加盟店の負担にしたため営業規模に比例して多額の投資資金を必要としなかったことが挙げられた

45%は取りすぎではないか、という見方は当時からあった。鈴木氏は費用負担に加え、棚卸をすべて本部が行うこと、スーパーバイザー1人が7店舗を回って指導することを挙げ、妥当な率だと説明している。もう一つの装置が最低保証で、各店に年額1,100万円を保証した。内訳は改装費の銀行返済が年約200万円、パートを含む人件費と雑費が400万〜500万円、店主の生活費が400万〜500万円という積算である。加盟した人は他のことをやらないかぎり行き詰まらない、というのが本人の説明であった。ただし実際の持ち出しは年間300万円程度が10店ほどにとどまり、本部の負担にはなっていない。 [37][38][39]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [37]鈴木敏文は本部が荒利の45%を取ることについて「前述の費用負担に加え棚卸はすべて本部がやるので店の負担にならないこと、スーパーバイザーが1人で7店舗を持ちぐるぐる回ってコンサルティングしていることなどを勘案すると、これは妥当な率である」と説明した
    • [38]各店に最低1,100万円の保証を与えており、内訳は店舗改装費の銀行返済が年に約200万円、パートを含めた人件費と雑費が400〜500万円、店主の生活費が400〜500万円という計算による。実際の持ち出しは年間せいぜい300万円程度で、それも年に10店舗ぐらいであった
    • [39]鈴木敏文は「セブンイレブンに加盟した人は、他のことをやらないかぎり、絶対にお手上げになることはない」と述べた

フランチャイズには自営店にない難しさがある。自営なら100店のうち10店の成績が悪くても全体で帳尻が合うが、加盟店では1,000店のうち1店の不振も問題になる。鈴木氏は発足以来5年間で10店舗が離脱したことを認めており、うち3店はこんなに儲かるならと自営に切り替えた店であった。看板を変えた途端に売上が減ったという。残りは店主が人を使えない例で、レジを家族以外に任せられなければ朝7時から夜11時までの営業は続かない。以後、契約にあたっては店主の人間性を重視するようになる。店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えてほしい、と鈴木氏は投資家に語った。相手の合意がなければ出店できない業態のためである。 [40][41][42]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [40]セブンイレブンは当時720店舗で、発足以来5年間に10店舗がやめており、このうち3店舗は「こんなにもうかるなら」と自営に切り替えたもので、看板をかえて1カ月あたりからどんどん売り上げが減った
    • [41]鈴木敏文は離脱のもう一つの理由を「店主が人を使えないというケース」とし、レジを家族以外の人にまかせられなければ朝7時から夜11時までの営業を続けられないため、最近は契約にあたって店主の人間性を重視していると述べた
    • [42]鈴木敏文は「今後、皆さんがセブンイレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えていただきたい。自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は、相手の合意があって初めて出せるものだからである」と述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [34]加盟店は毎月の売り上げ金額をいったん本部に送金し、荒利額の45%を本部が取り55%を店主に戻す。本部がもつ費用には設備のほか水道光熱費の87%、TVなど広告代の全部が含まれ、店主が負担するのは人件費、店舗改装費の銀行への返済、品減りが生じた場合の埋め合わせ程度であった
    • [35]店の改装は店主が行い費用は1,500万円ぐらいで、会社のあっせんで銀行から返済期間15年ぐらいのローンを受ける。店内の設備と商品はすべて本部が持ち、在庫は原価で600〜700万円、設備は800万円程度であった
    • [37]鈴木敏文は本部が荒利の45%を取ることについて「前述の費用負担に加え棚卸はすべて本部がやるので店の負担にならないこと、スーパーバイザーが1人で7店舗を持ちぐるぐる回ってコンサルティングしていることなどを勘案すると、これは妥当な率である」と説明した
    • [38]各店に最低1,100万円の保証を与えており、内訳は店舗改装費の銀行返済が年に約200万円、パートを含めた人件費と雑費が400〜500万円、店主の生活費が400〜500万円という計算による。実際の持ち出しは年間せいぜい300万円程度で、それも年に10店舗ぐらいであった
    • [39]鈴木敏文は「セブンイレブンに加盟した人は、他のことをやらないかぎり、絶対にお手上げになることはない」と述べた
    • [40]セブンイレブンは当時720店舗で、発足以来5年間に10店舗がやめており、このうち3店舗は「こんなにもうかるなら」と自営に切り替えたもので、看板をかえて1カ月あたりからどんどん売り上げが減った
    • [41]鈴木敏文は離脱のもう一つの理由を「店主が人を使えないというケース」とし、レジを家族以外の人にまかせられなければ朝7時から夜11時までの営業を続けられないため、最近は契約にあたって店主の人間性を重視していると述べた
    • [42]鈴木敏文は「今後、皆さんがセブンイレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えていただきたい。自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は、相手の合意があって初めて出せるものだからである」と述べた
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [36]昭53.2期に固定比率・固定長期適合率が大きく改善した理由として、加盟店の店舗設備資金のうち同社が負担する部分は加盟店に貸与する冷蔵庫・陳列棚等のみであり、資金負担の大きい土地・建物の建築資金などは加盟店の負担にしたため営業規模に比例して多額の投資資金を必要としなかったことが挙げられた

売れる量ではなく、売れる組み合わせを設計する

扱う商品3,000〜3,500品目は、スーパーマーケットと重ならないように選んだ。鈴木氏の定義では、スーパーマーケットは1日3回の食事の材料を買いに行く店であり、コンビニエンスストアは出来上がっていてすぐ口に入れられるものや、時間がないときにさっと買える店である。生鮮三品はスーパーなら肉も魚も100種類前後を置くが、この店では3〜4種類しか置かない。売れ残りを夕方に値下げして売る商法もとらなかった。値下げを前提にすれば利益が出ないからである。生鮮を置けば職人を雇わねばならず、人件費で損益分岐点が上がる。当時混同されがちだったミニスーパーが客数のわりに儲からないのは、そこに理由があると鈴木氏は見ていた。 [43][44][45]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [43]コンビニエンス・ストアの商品アイテムは日本も米国も3,000〜3,500程度で、「消費者が買って1時間以内に消費する(使う)商品」を扱う
    • [44]鈴木敏文は「スーパー・マーケットは毎日の3回の食事の材料を買いに行く店、コンビニエンス・ストアは出来上がっていてすぐに口に入れられるものや、時間がないときに思いついてさっと買える店」と定義し、スーパーが生鮮三品で肉80〜100種類・魚100種類程度を置くのに対しコンビニエンス・ストアはいずれも3〜4種類だと述べた
    • [45]鈴木敏文はミニ・スーパーについて「客がたくさん入っている割に収益が出ないという店が多い。これは生鮮三品を置くと職人を雇わなければならず、人件費がかさんで損益分岐点が高くなるためである」と述べ、スーパーが売れ残った生鮮三品を夕方に安くして売るのに対しコンビニエンス・ストアがそれをやったら絶対に利益は上がらないと説明した

粗利益は個々の商品で稼ぐのではなく、組み合わせで作る。当時の平均は25.2%で、免許品である酒やタバコ、米を扱う店ではどうしても下がる。これを引き上げたのが、コーヒーのような商品であった。1杯100円に対し原価は40円で、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしても粗利益は60%になる。鈴木氏はこれをマーチャンダイジング・ミックスと呼び、粗利益の大きいものを組み合わせて全体を高めるやり方だと説明した。スーパーが量に粗利益率を掛けるのに対し、この店は粗利益率に量を掛ける、という言い方もしている。一方、スーパーにもある乾物のような商品は同じ値段で売った。安く見えるのはスーパーが全商品の5%ほどの目玉を交替で出すからである。 [46][47][48]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [46]セブンイレブンの荒利益は平均25.2%で、30%を超えている店もあるが酒・タバコ・米などの免許品を扱っているところは低くなる。コーヒーは1杯100円で原価40円、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしており荒利益は60%であった
    • [47]鈴木敏文は「マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することによって全体の荒利益を高めるというのが、コンビニエンス商法のやり方だ」と述べ、スーパーが「量×荒利益率」に重点を置くのに対しセブンイレブンは「荒利益率×量」に比重を置くと説明した
    • [48]鈴木敏文は「スーパー・マーケットにもあるドライ食品的な物は、スーパー・マーケットの通常価格と同じ値段で売っている。スーパーのほうが安いと感じている人が多いが、これはスーパーが目玉商品を出すからだ。目玉は全商品の5%程度」と述べた

組み合わせを維持するには、売れない商品を落とし続けなければならない。開業から1979年までの5年間に商品台帳へ登録された商品は8,000アイテムにのぼるが、そのとき使われていた台帳に残るのは半分の4,000アイテムであった。スーパーマーケットではまず起きないことだ、と鈴木氏は述べている。扱う品目が少ないぶん1品あたりの販売シェアは高くなり、コカコーラの1リットル瓶では日本一の売上を記録した。この入れ替えを支えるため、1982年にはPOSのデータへ商品別の売り切れ時刻の一覧を組み込み、単品管理を徹底させる。売れ筋を探す道具というより、死に筋を落とすための道具であった。店舗数は1980年に1,000店、1983年には2,000店を超えている。 [49][50][51][52]

  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [49]1号店開業から1979年までに商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムにのぼるが、当時使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムで、鈴木敏文は「たった5年の間に4,000アイテムが消えた」「スーパー・マーケットの場合、まずこういうことはない」と述べた
    • [50]鈴木敏文は、イトーヨーカ堂の売上高が約5,000億円で25〜30万アイテムを扱うのに対しセブンイレブンは売上高約1,000億円で3,000アイテムそこそこであるため1単品当たりのシェアが非常に高くなるとし、「コカコーラの1リットルびんの売り上げは、セブンイレブンが日本で1番だ」と述べた
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [51]1982年にPOSデータへ「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ単品管理を徹底させた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [52]店舗数は昭和55年(1980年)に1,000店を突破し、創業10年目の昭和58年(1983年)には2,000店を超えた
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
    • [43]コンビニエンス・ストアの商品アイテムは日本も米国も3,000〜3,500程度で、「消費者が買って1時間以内に消費する(使う)商品」を扱う
    • [44]鈴木敏文は「スーパー・マーケットは毎日の3回の食事の材料を買いに行く店、コンビニエンス・ストアは出来上がっていてすぐに口に入れられるものや、時間がないときに思いついてさっと買える店」と定義し、スーパーが生鮮三品で肉80〜100種類・魚100種類程度を置くのに対しコンビニエンス・ストアはいずれも3〜4種類だと述べた
    • [45]鈴木敏文はミニ・スーパーについて「客がたくさん入っている割に収益が出ないという店が多い。これは生鮮三品を置くと職人を雇わなければならず、人件費がかさんで損益分岐点が高くなるためである」と述べ、スーパーが売れ残った生鮮三品を夕方に安くして売るのに対しコンビニエンス・ストアがそれをやったら絶対に利益は上がらないと説明した
    • [46]セブンイレブンの荒利益は平均25.2%で、30%を超えている店もあるが酒・タバコ・米などの免許品を扱っているところは低くなる。コーヒーは1杯100円で原価40円、わかして2時間たてば捨てる仕組みにしており荒利益は60%であった
    • [47]鈴木敏文は「マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することによって全体の荒利益を高めるというのが、コンビニエンス商法のやり方だ」と述べ、スーパーが「量×荒利益率」に重点を置くのに対しセブンイレブンは「荒利益率×量」に比重を置くと説明した
    • [48]鈴木敏文は「スーパー・マーケットにもあるドライ食品的な物は、スーパー・マーケットの通常価格と同じ値段で売っている。スーパーのほうが安いと感じている人が多いが、これはスーパーが目玉商品を出すからだ。目玉は全商品の5%程度」と述べた
    • [49]1号店開業から1979年までに商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムにのぼるが、当時使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムで、鈴木敏文は「たった5年の間に4,000アイテムが消えた」「スーパー・マーケットの場合、まずこういうことはない」と述べた
    • [50]鈴木敏文は、イトーヨーカ堂の売上高が約5,000億円で25〜30万アイテムを扱うのに対しセブンイレブンは売上高約1,000億円で3,000アイテムそこそこであるため1単品当たりのシェアが非常に高くなるとし、「コカコーラの1リットルびんの売り上げは、セブンイレブンが日本で1番だ」と述べた
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [51]1982年にPOSデータへ「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ単品管理を徹底させた
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
    • [52]店舗数は昭和55年(1980年)に1,000店を突破し、創業10年目の昭和58年(1983年)には2,000店を超えた

1986年〜 鮮度を供給体制に組み込み、単品管理で仕入れを握り、本家を買い戻すまで

  1. 1986年製造時間表示にもとづき、売れ残った調理済み食品を納入後20時間で全量廃棄する運用を開始
  2. 1988年弁当の製造時間表示と実際の製造時刻に最大2〜3時間のずれがあるとテレビ番組で報じられ、製造・配送体制の全面的な見直しに着手
  3. 1989年製造・配送を地域分散させ、共同配送と単品管理を組み合わせた鮮度重視の供給体制を確立
  4. 1989年共同配送センターの費用負担をめぐり、創業以来の取引先である食品問屋の明治屋との取引を打ち切る
  5. 1990年全店にプリペイドカードを導入し、コンビニエンスストア業界のキャッシュレス化に先手を打つ
  6. 1991年親会社イトーヨーカ堂とともに、経営破綻した米サウスランド社を約4億3,000万ドルで買収。出資比率70.2%を握り、ライセンス元であった本家の再建に乗り出す
  7. 1991年チェーン全店売上高が9,319億円、店舗数が4,353店に達する(1991年2月期)

セブンイレブン・ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

積み上げた鮮度管理が崩れ、供給体制を分散へ組み替える

セブンイレブン・ジャパンは鮮度の管理を早くから積み上げた。1979年からは製造時間をラベルに記入させ、1983年からは弁当・調理パンの1日3便体制を順次導入する。納入業者には18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車の保有を条件として課した。1986年からは、18度の保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間で全量廃棄させている。調理済み食品の鮮度管理では業界で最も進んでいるという自負が、社内にはあった。この分野の伸びは早くから業績を支えており、米飯や調理パン、おでんといったレジまわりの商品が粗利益率を押し上げていた。 [53][54]

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [53]ベンダーの選別にあたっては18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件とし、1983年から徐々に1日3便体制の導入を進め、1979年から製造時間をラベルに記入させ、1986年からは18度保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
    • [54]弁当・調理パンの1日3便製造・配送網の全国整備も目前に迫り、調理済み食品の鮮度管理にはCVS業界で最も先進的な取り組みをしているとの自負があった。調理済み食品(米飯・調理パンおよびおでん等のレジまわり食品)は業績の伸びの原動力となっていた

1988年11月7日、NHKの番組が弁当の鮮度を取り上げた。店頭の弁当に製造日だけのものと製造時間入りのものが混じっていること、表示があっても実際の製造時刻と2〜3時間ずれていることが報じられる。緊急の立ち入り検査で判明したのは、集中出店している首都圏では工場ごとの割当量が多く、表示シールを大量に印字して貼るためにずれが生じるという構造であった。全国の大部分の納入業者ではずれは1時間以内である。翌日から表示を1時間ごとに切り替える応急処置をとったが、鈴木氏は事態をより重く見た。完璧な鮮度管理システムを作り上げているつもりでこんなに初歩的なバグがあった、システムを一旦御破算にする必要があると判断した、と述べている。 [55][56][57]

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [55]1988年11月7日にNHK「おはようジャーナル」が「点検・調理済み食品」と題してコンビニエンスストアの弁当の鮮度を取り上げ、製造日だけが表示されているものと製造日と製造時間が入れられているものが混じっていること、表示時間と実際の製造時間に2〜3時間のズレがあることを報じた
    • [56]緊急立ち入り検査の結果、全国の大部分のベンダーでは表示のズレは1時間以内だが、店舗を集中出店している首都圏では各工場の割り当て製造量が多く、製造時間表示シールを大量印字して貼りつけるため最大2〜3時間のズレが生じることが判明し、セブンイレブンは番組放映の翌日から弁当の製造時間表示をすべて1時間ごとに切り替えた
    • [57]鈴木敏文は「自分達としては完璧な鮮度管理システムを作り上げているつもりでいながら、実際にはこんなに初歩的なバグがあった。食品の鮮度とは何かを初心に帰って考え直し、今までのシステムを一旦御破算にする必要があると判断した」と述べた

直前まで進めていた方針は逆向きだった。1980年ごろから首都圏では調理済み食品が毎年2割の売上増を続け、20数社の納入業者では追いつかなくなる。そこで1984年以降、キユーピー、ハウス食品工業、伊藤ハム、味の素などに専用の協力工場を関東で設立させ、1988年4月には三井物産と物流子会社を設立して配送の一本化に着手した。しかしその設計には、製造と配送の時間をどう縮めるかという視点が抜けていた。配送を集約すれば集荷に時間が食われ、強い業者へ生産を集めれば全体のリードタイムはかえって延びる。そこで方針を地域分散へ切り替えた。一本化計画は中止し、納入業者が自社製品を運ぶ形に戻す。工場では調理、炊飯、包装、仕分けを同時並行で処理し、製造時間を半分に縮める計画を立てた。 [58][59][60][61][62]

  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [58]1980年頃から首都圏では調理済み食品が毎年2割の売り上げ増が続き、それまでに育成してきた20数社のベンダーだけでは対応できなくなった。彼らのほとんどが中小企業であり拡大のテンポには資金・人材面で天井があった
    • [59]1984年以来、キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で次々とセブンイレブン専用協力工場を設立させた
    • [60]全工場の生産リードタイムを平均して短縮するには強い業者への生産集中はむしろマイナスになり、配送もトランス・フリートに一本化すると各ベンダーからの集荷に時間が食われ結果として配送時間は長くなるという矛盾があった
    • [61]岩国修一常務は「調味料や缶詰など一般の加工食品は鮮度を厳しく問われないから製造・配送をなるべく集中しスケール・メリットを享受した方がよい。しかし調理済み食品は『新鮮さ』が新たな付加価値を生み出すから、作業は可能な限り分散し製造・配送のリードタイムの短縮に力点を置くのが望ましい」と説明した
    • [62]おかずの調理・炊飯・パッキング・包装・仕分けを従来の順番処理から同時並行処理に変えて製造時間を2分の1に短縮し、工場の稼働率を腹八分に保ち臨界点に達したらラインを増強せず分工場を作るよう指導した。配送一本化計画は一旦中止し、以前どおりベンダーが自社製品を配送することにした
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
    • [53]ベンダーの選別にあたっては18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件とし、1983年から徐々に1日3便体制の導入を進め、1979年から製造時間をラベルに記入させ、1986年からは18度保冷ケースに置いていても売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
    • [54]弁当・調理パンの1日3便製造・配送網の全国整備も目前に迫り、調理済み食品の鮮度管理にはCVS業界で最も先進的な取り組みをしているとの自負があった。調理済み食品(米飯・調理パンおよびおでん等のレジまわり食品)は業績の伸びの原動力となっていた
    • [55]1988年11月7日にNHK「おはようジャーナル」が「点検・調理済み食品」と題してコンビニエンスストアの弁当の鮮度を取り上げ、製造日だけが表示されているものと製造日と製造時間が入れられているものが混じっていること、表示時間と実際の製造時間に2〜3時間のズレがあることを報じた
    • [56]緊急立ち入り検査の結果、全国の大部分のベンダーでは表示のズレは1時間以内だが、店舗を集中出店している首都圏では各工場の割り当て製造量が多く、製造時間表示シールを大量印字して貼りつけるため最大2〜3時間のズレが生じることが判明し、セブンイレブンは番組放映の翌日から弁当の製造時間表示をすべて1時間ごとに切り替えた
    • [57]鈴木敏文は「自分達としては完璧な鮮度管理システムを作り上げているつもりでいながら、実際にはこんなに初歩的なバグがあった。食品の鮮度とは何かを初心に帰って考え直し、今までのシステムを一旦御破算にする必要があると判断した」と述べた
    • [58]1980年頃から首都圏では調理済み食品が毎年2割の売り上げ増が続き、それまでに育成してきた20数社のベンダーだけでは対応できなくなった。彼らのほとんどが中小企業であり拡大のテンポには資金・人材面で天井があった
    • [59]1984年以来、キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で次々とセブンイレブン専用協力工場を設立させた
    • [60]全工場の生産リードタイムを平均して短縮するには強い業者への生産集中はむしろマイナスになり、配送もトランス・フリートに一本化すると各ベンダーからの集荷に時間が食われ結果として配送時間は長くなるという矛盾があった
    • [61]岩国修一常務は「調味料や缶詰など一般の加工食品は鮮度を厳しく問われないから製造・配送をなるべく集中しスケール・メリットを享受した方がよい。しかし調理済み食品は『新鮮さ』が新たな付加価値を生み出すから、作業は可能な限り分散し製造・配送のリードタイムの短縮に力点を置くのが望ましい」と説明した
    • [62]おかずの調理・炊飯・パッキング・包装・仕分けを従来の順番処理から同時並行処理に変えて製造時間を2分の1に短縮し、工場の稼働率を腹八分に保ち臨界点に達したらラインを増強せず分工場を作るよう指導した。配送一本化計画は一旦中止し、以前どおりベンダーが自社製品を配送することにした

死に筋を落とす仕組みが、取引の立場を入れ替える

1990年には全国約4,000店に達していた。1店の売場面積は30坪程度で、置ける商品は3,000〜3,500品目、しかも全品買い切りである。選び損なえば在庫の負担がそのまま返ってくるから、絞り込むしかない。POSは売れ筋を見つける道具として語られることが多いが、この会社の使い方は逆であった。死に筋を徹底して排除した結果として売れ筋が浮かび上がる。鈴木氏は「死に筋はどこへ置いても死に筋」と言い切っている。供給が過剰になっているのに客の欲しいものが店頭で手に入らないのは、店の大小の問題ではない、というのが本人の説明であった。1990年夏には全加盟店のレジ端末を更新し、コンピューターも大型化する計画を立てている。 [63][64][65]

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊「セブンイレブンが売れ筋決める」
    • [63]1店舗当たりの平均売り場面積がわずか30坪のセブンイレブンでは発売される商品をすべて陳列することは不可能で、加盟店が取り扱う商品アイテムは3,000〜3,500品目、全品買い切りを原則とするため商品選択に失敗すれば在庫負担のリスクが大きい。全国に約4,000店を展開していた
    • [64]鈴木敏文は死に筋として店頭から排除された商品が他の小売りルートで売れるかという問いに対し「死に筋はどこへ置いても死に筋」と述べ、「今や需給が完全に逆転し供給過剰の時代。にもかかわらずお客が本当に欲しいものはなかなか店頭で手に入らない。これは店舗が大きい小さいの問題ではない」と語った
    • [65]セブンイレブン・ジャパンは1990年夏から全加盟店のレジ端末を更新するとともにコンピューターを大型化しPOSシステムのレベルアップを図った

選別の力は取引の力関係を変えた。1990年3月に発売されたキリンビールの「一番搾り」は3カ月足らずで500万ケースを出荷し、生産が追いつかない状態になる。約1,300店あった酒販免許店では欠品も生じたが、取引中止を恐れる問屋がセブンイレブンへ優先的に回すことは珍しくなかった、とビールメーカーの営業担当者は語っている。キユーピーやエスビー食品のように専用の製造ラインを設けるメーカーも現れた。商品が採用されるかどうかで他チェーンの扱いまで決まる以上、メーカーは売れ行きに神経質にならざるを得ない。品揃えが消費に敏感な20代へ絞られていたことも、その圧力を強めた。 [66][67][68]

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊「セブンイレブンが売れ筋決める」
    • [66]キリンビールが1990年3月から売り出した「一番搾り」は3カ月足らずで500万ケース、大びん換算で1億本を出荷し、生産が追いつかない状態となった。セブンイレブンの酒販免許店(当時約1,300店)の中には欠品が生じる所も出た
    • [67]あるビールメーカーの営業マンは「セブンイレブンが取り扱うかどうかで他のコンビニが扱うかどうかも決まる。取引中止が怖いから問屋レベルではセブンイレブンだけに優先的に回すことはザラ」と語り、キユーピーやエスビー食品のように専用の工場製造ラインを設けているメーカーも珍しくなかった
    • [68]品揃えは消費の動向に敏感な20代の若者にターゲットを絞っているため、メーカーはセブンイレブンでの商品の売れ行きに神経質にならざるを得ず、メーカーからは商品共同開発の提案がしょっちゅう持ち込まれる状態であった

摩擦も同時に起きている。1989年10月、創業以来の取引先であった食品問屋の明治屋との取引が打ち切られた。明治屋は年間100億円の取引先を失う。共同配送センター建設に伴う費用負担への反発が引き金とされるが、小口・定時配送で欠品を許さない要求が採算に合わないという不満は以前からあった。倉庫を持たない以上、物流コストの上昇は納入側に寄る。同じ時期、花王が導入した配送日を確定する新取引制度に対しても、この会社は最後まで抵抗した。1個単位の極小ロット配送を前提とする仕組みが骨抜きになりかねなかったからである。取引を引き継いだ問屋の幹部は、当面は大変でも長期的には従うほうが利益になると語った。 [69][70][71]

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊「セブンイレブンが売れ筋決める」
    • [69]1989年10月にセブンイレブン・ジャパンと食品問屋・明治屋の取引中止事件が起きた。明治屋はセブンイレブン創業以来の付き合いだったが、取引中止で年間100億円もの取引先を失った
    • [70]明治屋が共同配送センター建設に伴うコスト負担に反発したのが引き金といわれるが、以前から明治屋は「小口定時配送・欠品なし」を要求するセブンイレブンのカンバン方式に対応するのは採算的に引き合わないと不満を強めていた。納入側からは「セブンイレブンは自分で倉庫は持たないから物流コストの上昇は全部我々の方にシワ寄せされる」との不満も出ていた
    • [71]花王が1989年10月から導入した新取引制度に対し、コンビニチェーンの中で最後まで頑強に粘っていたのはセブンイレブン・ジャパンだといわれた。東京都内で明治屋が扱っていた分を引き継いだ松下鈴木の田尾孝行常務は「確かにセブンイレブンの要求はシビア。だが卸売業は単なる通過物流から加工物流業への変身を迫られている。当面は大変だが、長期的にはセブンイレブンのやり方に従うことが我々にとってプラスになる」と語った
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊「セブンイレブンが売れ筋決める」
    • [63]1店舗当たりの平均売り場面積がわずか30坪のセブンイレブンでは発売される商品をすべて陳列することは不可能で、加盟店が取り扱う商品アイテムは3,000〜3,500品目、全品買い切りを原則とするため商品選択に失敗すれば在庫負担のリスクが大きい。全国に約4,000店を展開していた
    • [64]鈴木敏文は死に筋として店頭から排除された商品が他の小売りルートで売れるかという問いに対し「死に筋はどこへ置いても死に筋」と述べ、「今や需給が完全に逆転し供給過剰の時代。にもかかわらずお客が本当に欲しいものはなかなか店頭で手に入らない。これは店舗が大きい小さいの問題ではない」と語った
    • [65]セブンイレブン・ジャパンは1990年夏から全加盟店のレジ端末を更新するとともにコンピューターを大型化しPOSシステムのレベルアップを図った
    • [66]キリンビールが1990年3月から売り出した「一番搾り」は3カ月足らずで500万ケース、大びん換算で1億本を出荷し、生産が追いつかない状態となった。セブンイレブンの酒販免許店(当時約1,300店)の中には欠品が生じる所も出た
    • [67]あるビールメーカーの営業マンは「セブンイレブンが取り扱うかどうかで他のコンビニが扱うかどうかも決まる。取引中止が怖いから問屋レベルではセブンイレブンだけに優先的に回すことはザラ」と語り、キユーピーやエスビー食品のように専用の工場製造ラインを設けているメーカーも珍しくなかった
    • [68]品揃えは消費の動向に敏感な20代の若者にターゲットを絞っているため、メーカーはセブンイレブンでの商品の売れ行きに神経質にならざるを得ず、メーカーからは商品共同開発の提案がしょっちゅう持ち込まれる状態であった
    • [69]1989年10月にセブンイレブン・ジャパンと食品問屋・明治屋の取引中止事件が起きた。明治屋はセブンイレブン創業以来の付き合いだったが、取引中止で年間100億円もの取引先を失った
    • [70]明治屋が共同配送センター建設に伴うコスト負担に反発したのが引き金といわれるが、以前から明治屋は「小口定時配送・欠品なし」を要求するセブンイレブンのカンバン方式に対応するのは採算的に引き合わないと不満を強めていた。納入側からは「セブンイレブンは自分で倉庫は持たないから物流コストの上昇は全部我々の方にシワ寄せされる」との不満も出ていた
    • [71]花王が1989年10月から導入した新取引制度に対し、コンビニチェーンの中で最後まで頑強に粘っていたのはセブンイレブン・ジャパンだといわれた。東京都内で明治屋が扱っていた分を引き継いだ松下鈴木の田尾孝行常務は「確かにセブンイレブンの要求はシビア。だが卸売業は単なる通過物流から加工物流業への変身を迫られている。当面は大変だが、長期的にはセブンイレブンのやり方に従うことが我々にとってプラスになる」と語った

本家が借金で行き詰まり、分家がこれを買い取る

ライセンス元のサウスランド社は、1987年に経営が傾いた。カナダの投資家から敵対的買収を仕掛けられ、防衛のため創業家のトンプソン家が自社株の公開買い付けに応じ、株式を買い戻して上場を廃止する。直後にブラックマンデーが起き、金融環境が悪化した。資金調達のために発行した18億ドルのジャンク債は、年間約3億ドルの金利負担となって残る。店舗や自動車部品小売チェーン、化学工場を次々に売却し、日本のセブンイレブンには商標権を担保に410億円の実質的な債務保証を仰いだ。1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドルで手放したが、資産の切り売りはすぐ限界に達した。 [72][73]

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [72]サウスランド社の経営悪化は1987年にカナダの投資家に敵対的買収を仕掛けられ、防衛手段として創業者のトンプソン家が自社株の公開買い付けで応じたことに始まる。株式を買い戻して上場を廃止した直後にブラックマンデーに見舞われ金融環境が悪化した
    • [73]資金調達のため総額18億ドルのジャンク債を発行したが年間約3億ドルの金利を背負い、店舗や系列の自動車部品小売りチェーン、化学工場などの事業を次々と売却、日本のセブンイレブンに商標権を担保にした410億円の実質的な債務保証を受けるとともに、1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドル(105億円)で売却した

1990年、サウスランド社は連邦破産法の申請を経て、イトーヨーカ堂グループへ4億3,000万ドルでの身売りを決めた。買収は1991年3月に完了し、出資比率は70.2%となる。資金はイトーヨーカ堂が51%、セブンイレブン・ジャパンが49%を分担した。3月20日、ダラスで開かれた新生サウスランドの第1回役員会で、イトーヨーカ堂社長の伊藤雅俊氏が会長に、鈴木氏が副会長に就いている。フランチャイズ契約そのものは従来どおり残ったが、日本側が事実上の親会社になった。ライセンスを与えた側の会社を、与えられた側が支配する関係へ入れ替わったことになる。 [74][75]

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [74]サウスランド社は1990年に連邦破産法の申請をしたうえでイトーヨーカ堂グループに4億3,000万ドル(約700億円)で身売りを決め、出資比率は70.2%となった。グループ内の資金分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%で、セブンイレブンがサ社と結んでいるフランチャイズ契約はそのままだが日本側が事実上の親会社になった
    • [75]1991年3月20日にダラスで新生サウスランドの第1回役員会が開かれ、伊藤雅俊社長が会長、鈴木敏文副社長が副会長に就任した

買収したのは不振の会社ではあったが、事業そのものが崩れていたわけではない。1990年12月期は2億7,600万ドルの期間損失を出している。しかし売上高は83億4,700万ドルで前年比1%の増収であり、北米の店舗も6,702店を保っていた。経営悪化の主因はジャンク債の金利にあり、資本再編で普通株へ転換すれば負担は消える。ただし、同じ看板でも中身は違った。日本では1店の商品数が3,000種類でファストフードと食品が売上の36%を占めるのに対し、米国は2,700種類で22%にとどまり、酒とタバコと清涼飲料が49%を占める。運営も日本は8割が加盟店だが、米国は直営と加盟店が半々であった。ハワイでは現地法人を設けてバイヤーを2人から10人にし、店内在庫を5割以下に圧縮している。1995年、単品管理の移植は3年で軌道に乗ったと報じられた。 [76][77][78][79][80][81]

  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [76]サウスランド社の1990年12月期は約2億7,600万ドルの期間損失を出したものの売上高は83億4,700万ドルで前年に比べ約1%伸びており、社員数は約3万5,000人、北米の店舗数は6,702店であった
    • [77]1店舗当たりの平均商品数は日本が3,000種類、米国は2,700種類で、商品構成は日本のセブンイレブンがファーストフードと食品で売り上げの36%を占めるのに対し米国は22%(ガソリン売り上げを除く)、酒・タバコ・清涼飲料は日本21%に対し米国49%であった
    • [78]日本は店舗の80%はオーナーが管理するフランチャイズ店だが、米国は直営店とフランチャイズ店が半数ずつで、他企業に本部運営をゆだねるエリア・フランチャイズの形態もあった
    • [79]ハワイ店を買収したセブンイレブンは現地法人を設立しバイヤーを10人体制にするなど本部組織作りに着手、1990年6月には実験店舗2店を指定して日々の販売量・在庫量を調査した。商品数を1,700〜1,800品目から2,700〜2,800品目に増やし、店内在庫額は従来の5割以下に圧縮、発注をケース単位から個数単位に変え、配送頻度は週1回から2回に増やした
    • [80]鈴木敏文は「日本のシステムをそのまま米国に持ち込めるとは思っていない」と強調し「日本人スタッフは常駐させない方針」と述べた。また「買収後では親から子への命令になってしまうから」として1991年2月から3月にかけてサウスランド社側に日本を視察してもらった
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号「再建の切り札『単品管理』。米サウスランド社、3年で軌道に」
    • [81]米サウスランド社の再建について、単品管理を切り札として3年で軌道に乗ったと報じられた
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [72]サウスランド社の経営悪化は1987年にカナダの投資家に敵対的買収を仕掛けられ、防衛手段として創業者のトンプソン家が自社株の公開買い付けで応じたことに始まる。株式を買い戻して上場を廃止した直後にブラックマンデーに見舞われ金融環境が悪化した
    • [73]資金調達のため総額18億ドルのジャンク債を発行したが年間約3億ドルの金利を背負い、店舗や系列の自動車部品小売りチェーン、化学工場などの事業を次々と売却、日本のセブンイレブンに商標権を担保にした410億円の実質的な債務保証を受けるとともに、1989年12月にはハワイの58店舗を7,500万ドル(105億円)で売却した
    • [74]サウスランド社は1990年に連邦破産法の申請をしたうえでイトーヨーカ堂グループに4億3,000万ドル(約700億円)で身売りを決め、出資比率は70.2%となった。グループ内の資金分担はイトーヨーカ堂51%、セブンイレブン・ジャパン49%で、セブンイレブンがサ社と結んでいるフランチャイズ契約はそのままだが日本側が事実上の親会社になった
    • [75]1991年3月20日にダラスで新生サウスランドの第1回役員会が開かれ、伊藤雅俊社長が会長、鈴木敏文副社長が副会長に就任した
    • [76]サウスランド社の1990年12月期は約2億7,600万ドルの期間損失を出したものの売上高は83億4,700万ドルで前年に比べ約1%伸びており、社員数は約3万5,000人、北米の店舗数は6,702店であった
    • [77]1店舗当たりの平均商品数は日本が3,000種類、米国は2,700種類で、商品構成は日本のセブンイレブンがファーストフードと食品で売り上げの36%を占めるのに対し米国は22%(ガソリン売り上げを除く)、酒・タバコ・清涼飲料は日本21%に対し米国49%であった
    • [78]日本は店舗の80%はオーナーが管理するフランチャイズ店だが、米国は直営店とフランチャイズ店が半数ずつで、他企業に本部運営をゆだねるエリア・フランチャイズの形態もあった
    • [79]ハワイ店を買収したセブンイレブンは現地法人を設立しバイヤーを10人体制にするなど本部組織作りに着手、1990年6月には実験店舗2店を指定して日々の販売量・在庫量を調査した。商品数を1,700〜1,800品目から2,700〜2,800品目に増やし、店内在庫額は従来の5割以下に圧縮、発注をケース単位から個数単位に変え、配送頻度は週1回から2回に増やした
    • [80]鈴木敏文は「日本のシステムをそのまま米国に持ち込めるとは思っていない」と強調し「日本人スタッフは常駐させない方針」と述べた。また「買収後では親から子への命令になってしまうから」として1991年2月から3月にかけてサウスランド社側に日本を視察してもらった
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号「再建の切り札『単品管理』。米サウスランド社、3年で軌道に」
    • [81]米サウスランド社の再建について、単品管理を切り札として3年で軌道に乗ったと報じられた

1995年〜 1万店と電子商取引、そして26年続いた親子上場の解消

  1. 1995年米サウスランド社の再建が軌道に乗り、単品管理の移植が3年で成果を示す
  2. 1997年第五次総合情報システムを導入し、発注時の仮説検証を支える情報基盤を刷新
  3. 1999年ソフトバンクなどと組み、インターネット上での書籍販売を開始。店舗での支払いと受け取りを選べる方式とする
  4. 2000年NEC・野村総合研究所・ソニー・三井物産・日本交通公社などと共同で電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立し、全国の店舗網を受け取り拠点とする事業に乗り出す
  5. 2000年セブンドリーム・ドットコムがサイトを開設し、物販・旅行・音楽配信・チケット販売などの取り扱いを始める
  6. 2003年国内店舗数が1万店を突破し、10月に記念行事が開かれた。平均日販は66万円台と他チェーンを大きく引き離す
  7. 2005年イトーヨーカ堂・デニーズジャパンとの3社共同株式移転により持株会社セブン&アイ・ホールディングスが発足し、東京証券取引所への上場を廃止

セブンイレブン・ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

仮説と検証を情報システムに載せる

商品を絞る仕組みは、発注の作法にまで及んだ。1997年に第五次総合情報システムを導入し、販売データの使い方を作り変える。ただし、データが精緻でも仮説が精緻になるわけではない、というのが鈴木氏の立場であった。翌日の早朝に近くのグラウンドで野球があるなら人数を事前に調べておく。そうした周辺情報を足して初めて発注が仮説になる。発注作業は店主一人でなくパートやアルバイトにも分担させた。店内の商品点数が多く、作業は毎日延べ十数時間に及ぶため、一人で担えば周辺情報を取り込む余裕が消えるからである。同じシステムを他社へ持ち込んでも使いこなせるものではない、とも述べている。米国のセブンイレブンでは第三次にあたる旧世代が動いていた。 [82][83][84]

  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [82]セブンイレブンのPOSは1997年に導入した第五次総合情報システムと呼ぶもので、同社でさまざまな手直しを経て作り上げた仕組みであった。鈴木敏文は「もしこのシステムをどこかの企業へポンと導入しても、使いこなせるものではありません」と述べ、米国のセブンイレブンでは同社で呼ぶところの「第三次」のシステムを使っていた
    • [83]鈴木敏文は「データが精緻だからといって仮説・検証が精緻になるわけではありません」とし、商品の発注量を決める際に店の近くのグラウンドで明日早朝に野球があるなら何人ぐらい集まるかを事前に調べておくといった周辺情報の重要性を説いた
    • [84]発注作業はオーナー店長だけでなくパートやアルバイトにも分担させる「分散発注方式」とした。店内の商品点数が膨大で発注作業は毎日延べ十数時間かかるため、店長一人で担当すると本部からの情報の分析や周辺情報を取り込む時間的余裕がなくなるためであった

商品そのものも自前に寄せた。2003年時点で自社ブランドが取扱商品全体の半分以上を占める。量販店の自社ブランドが大手メーカー品より安くするためのものだったのに対し、この会社のそれは安さでなく質を追うためのものだった、と鈴木氏は区別している。カレーパンは生地から作り直すのに1年、チャーハンは開発に1年半をかけた。赤飯は炊くのでなく蒸すために設備を投資している。全国に300カ所近い専用工場を持ち、1年で7割の商品が入れ替わり、米飯は年間15億7,100万個を売った。ざるそばは全国4地域でつゆの味を変え、季節ごとにも微妙に変えている。客がその違いに気づかないままいつもおいしいと感じればよい、という考え方であった。 [85][86][87]

  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [85]2003年時点で自社ブランド商品が取扱商品全体の半分以上を占め、量販店の自社ブランド商品が大手メーカーのナショナルブランドより値段を安くすることが目的だったのに対し、セブンイレブンのそれは安さではなく質を追求するためのものであった
    • [86]カレーパンは1年かけて生地から作り直し、チャーハンも開発に1年半かけ、赤飯は炊くのではなくせいろで蒸した状態にするために多額の設備投資をした。全国に300カ所近い専用工場を持っていた
    • [87]死に筋を排除し売れ筋に集中することで1年で7割の商品が入れ替わり、弁当・おにぎりなど主力商品である米飯の年間販売個数は15億7,100万個であった。ざるそばは全国4地域ごとにつゆの味を変え、しかも季節ごとに味を微妙に変えており、鈴木敏文は「お客は味を変えていることにおそらく気づいていないでしょう。それでいいんです」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [82]セブンイレブンのPOSは1997年に導入した第五次総合情報システムと呼ぶもので、同社でさまざまな手直しを経て作り上げた仕組みであった。鈴木敏文は「もしこのシステムをどこかの企業へポンと導入しても、使いこなせるものではありません」と述べ、米国のセブンイレブンでは同社で呼ぶところの「第三次」のシステムを使っていた
    • [83]鈴木敏文は「データが精緻だからといって仮説・検証が精緻になるわけではありません」とし、商品の発注量を決める際に店の近くのグラウンドで明日早朝に野球があるなら何人ぐらい集まるかを事前に調べておくといった周辺情報の重要性を説いた
    • [84]発注作業はオーナー店長だけでなくパートやアルバイトにも分担させる「分散発注方式」とした。店内の商品点数が膨大で発注作業は毎日延べ十数時間かかるため、店長一人で担当すると本部からの情報の分析や周辺情報を取り込む時間的余裕がなくなるためであった
    • [85]2003年時点で自社ブランド商品が取扱商品全体の半分以上を占め、量販店の自社ブランド商品が大手メーカーのナショナルブランドより値段を安くすることが目的だったのに対し、セブンイレブンのそれは安さではなく質を追求するためのものであった
    • [86]カレーパンは1年かけて生地から作り直し、チャーハンも開発に1年半かけ、赤飯は炊くのではなくせいろで蒸した状態にするために多額の設備投資をした。全国に300カ所近い専用工場を持っていた
    • [87]死に筋を排除し売れ筋に集中することで1年で7割の商品が入れ替わり、弁当・おにぎりなど主力商品である米飯の年間販売個数は15億7,100万個であった。ざるそばは全国4地域ごとにつゆの味を変え、しかも季節ごとに味を微妙に変えており、鈴木敏文は「お客は味を変えていることにおそらく気づいていないでしょう。それでいいんです」と述べた

店舗網を電子商取引の受け皿に転用する

1999年11月末、ソフトバンクなどと組んでインターネット上の書籍販売を始めた。支払いと受け取りの組み合わせを3通り用意したところ、店舗で両方を済ませる客が全体の93%を占める。カード番号の送信への不安と、宅配の待機の煩わしさが理由であった。鈴木氏はここから、電子商取引は現実の店舗が伴わなければうまくいかない、顧客心理からすればそのほうが安心で便利であり日本も米国も同じはずだ、と見た。米国でも、オンライン証券最大手のチャールズ・シュワブが新規顧客の7割強を全国330カ所の店舗から獲得していた。当時のセブンイレブンの店舗網は全国8,000カ所に及んでいる。 [88][89][90]

  • 日経ビジネス 2000年1月17日号「ネットとコンビニ連携、米国でも」
    • [88]セブンイレブンはソフトバンクなどと組み1999年11月末からネット上で書籍販売を始め、利用者は店舗での支払いと受け取り、店舗で支払い宅配便で受け取り、クレジットカードで支払い宅配便で受け取るの3つの方法から選べたが、「セブンイレブンで商品の受け取りと支払いの両方を済ませる顧客が全体の93%を占める」(鈴木会長)状態であった
    • [89]鈴木敏文は「ECはリアルの店舗が伴わなければうまくいかない。顧客心理からすると、その方が安心で便利だからだ。日本も米国も同じはず」と述べた
    • [90]米国でもオンライン証券最大手のチャールズ・シュワブは全米に330カ所の店舗を展開し新規顧客の70〜75%を店舗を通じて獲得していた。セブンイレブン・ジャパンは全国8,000カ所の店舗網を持っていた

2000年2月、電子商取引の会社セブンドリーム・ドットコムを設立した。資本金50億円のうち51.0%を出し、NECと野村総合研究所が各13.0%、ソニーとソニーマーケティングが各6.5%、三井物産が6.0%、日本交通公社とキノトロープが各2.0%を持つ構成である。同年6月にサイトを開く計画で、物販、旅行、音楽配信、写真のプリント、チケット販売、自動車販売の仲介までを扱うとした。家庭のパソコンと店頭のマルチメディア端末の双方から入れるようにし、支払いと引き渡しは店舗で受け付ける。取扱高は2001年度に1,500億円、2003年度に3,000億円を見込んだ。店舗を配送の終点として使う設計で、宅配網への投資を抑える狙いがあった。 [91][92][93]

  • 日経ビジネス 2000年1月17日号「ネットとコンビニ連携、米国でも」
    • [91]セブンドリーム・ドットコムは2000年2月設立、資本金50億円で、出資比率はセブンイレブン51.0%、NEC13.0%、野村総合研究所13.0%、ソニー6.5%、ソニーマーケティング6.5%、三井物産6.0%、JTB2.0%、キノトロープ2.0%であった
    • [92]2000年6月にネット上にサイトを開設し、コンテンツは物販・旅行・音楽配信・写真のプリント・チケット販売・自動車販売の仲介などで、取扱高予測は2001年度1,500億円、2003年度3,000億円であった
    • [93]ネット上に物販から音楽配信、チケット販売までを網羅したサイトを立ち上げ、家庭のパソコンとセブンの店舗に設置するマルチメディア端末の両方からアクセスできるようにし、代金の支払いと商品の引き渡しはセブンの店舗で受け付ける形とした。セブンの既存の物流網と店舗を活用すればずっと少ない投資で済むと見込まれた

構想は国内にとどまらなかった。鈴木氏は同じ事業を米国でも展開する意向を語り、日本を含む20カ国・地域にある1万9,000店を加えていきたいと述べている。狙いは店舗数5,600店の米国であった。米国のネット企業の多くが赤字なのは、広告に加えて配送の物流投資が重いためで、既存の物流網と店舗を使えば投資は少なく済む。ファストフード店を除けばセブンイレブンは全米で最も店舗数が多い。1991年に買収し、単品管理の移植で立て直した米国事業を、今度は日本型の受け取り拠点として使い直す構想であった。 [94][95]

  • 日経ビジネス 2000年1月17日号「ネットとコンビニ連携、米国でも」
    • [94]鈴木敏文は「セブンイレブンは(日本を含む)20カ国・地域に1万9000店ある。これらの店舗も加えていきたい」と語り、照準は最も市場が大きく店舗数も5,600店と多い米国にあった
    • [95]米国のネット企業の大半が赤字なのは広告投資に加え顧客の家まで商品を配達するための物流投資の負担が大きいためで、セブンの既存の物流網と店舗を活用すればずっと少ない投資で済み、マクドナルドなどファストフード店を除けばセブンは全米で最も店舗数が多かった。米国にあるセブンの5,600カ所の店舗網はイトーヨーカ堂グループが米国市場に本格参入するための橋頭堡になり得ると位置づけられた
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号「ネットとコンビニ連携、米国でも」
    • [88]セブンイレブンはソフトバンクなどと組み1999年11月末からネット上で書籍販売を始め、利用者は店舗での支払いと受け取り、店舗で支払い宅配便で受け取り、クレジットカードで支払い宅配便で受け取るの3つの方法から選べたが、「セブンイレブンで商品の受け取りと支払いの両方を済ませる顧客が全体の93%を占める」(鈴木会長)状態であった
    • [89]鈴木敏文は「ECはリアルの店舗が伴わなければうまくいかない。顧客心理からすると、その方が安心で便利だからだ。日本も米国も同じはず」と述べた
    • [90]米国でもオンライン証券最大手のチャールズ・シュワブは全米に330カ所の店舗を展開し新規顧客の70〜75%を店舗を通じて獲得していた。セブンイレブン・ジャパンは全国8,000カ所の店舗網を持っていた
    • [91]セブンドリーム・ドットコムは2000年2月設立、資本金50億円で、出資比率はセブンイレブン51.0%、NEC13.0%、野村総合研究所13.0%、ソニー6.5%、ソニーマーケティング6.5%、三井物産6.0%、JTB2.0%、キノトロープ2.0%であった
    • [92]2000年6月にネット上にサイトを開設し、コンテンツは物販・旅行・音楽配信・写真のプリント・チケット販売・自動車販売の仲介などで、取扱高予測は2001年度1,500億円、2003年度3,000億円であった
    • [93]ネット上に物販から音楽配信、チケット販売までを網羅したサイトを立ち上げ、家庭のパソコンとセブンの店舗に設置するマルチメディア端末の両方からアクセスできるようにし、代金の支払いと商品の引き渡しはセブンの店舗で受け付ける形とした。セブンの既存の物流網と店舗を活用すればずっと少ない投資で済むと見込まれた
    • [94]鈴木敏文は「セブンイレブンは(日本を含む)20カ国・地域に1万9000店ある。これらの店舗も加えていきたい」と語り、照準は最も市場が大きく店舗数も5,600店と多い米国にあった
    • [95]米国のネット企業の大半が赤字なのは広告投資に加え顧客の家まで商品を配達するための物流投資の負担が大きいためで、セブンの既存の物流網と店舗を活用すればずっと少ない投資で済み、マクドナルドなどファストフード店を除けばセブンは全米で最も店舗数が多かった。米国にあるセブンの5,600カ所の店舗網はイトーヨーカ堂グループが米国市場に本格参入するための橋頭堡になり得ると位置づけられた

出店の作法を変えて密度で押し切り、統合で幕を閉じる

出店の作法も改めた。2001年4月には、路面1階への出店を原則としてきた方針を変え、ビルの2階に初めて店を出す。立地の確保が難しくなったための転換であった。ただし、出店の総量は数値目標で管理していない。鈴木氏は何年後に何店という計画を発表したことがないと述べ、300店の計画を持っていても100店ほど出して不振店が出れば、その年の出店を打ち切った経験が3、4回あると語っている。人は自分の発言につじつまを合わせたくなるもので、質が伴わないまま計画どおり出店してしまう。量は質の結果であるという持論による。 [96][97]

  • 日経ビジネス 2001年4月16日号「セブンイレブンが『1階主義』から大転換」
    • [96]セブンイレブンは2001年4月、ビル2階に初出店し「1階主義」から大転換した。立地難の解消のためリスクを取る判断であった
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [97]鈴木敏文は「何年後には何店舗規模にする」という計画を発表したことがないとし、「人間は自分の発言したことに対してつじつまを合わせたくなる。質が伴っていないのに出店だけ計画どおりに進めてしまうことになる」「『今年度は300店舗開業する』という計画を持っていても、100店くらい出してみて不振店が出てきたらその年の出店計画を打ち切った経験が過去に三、四回はあります。量というものは質の結果、これが私の持論です」と述べた

高密度出店の方針は変えなかった。1商圏に1店だけ置けば商圏人口を独占できるという考えは勘違いだ、というのが鈴木氏の説明である。5分行けばまたセブンイレブンがあって初めて客は便利さを感じる。この結果、出店した都道府県は2003年時点で32にとどまり、全47都道府県に出ていたローソンとは対照的であった。2001年度末の店舗数は約9,000店で、ローソンの7,700店、ファミリーマートの5,900店を上回る。全店の平均日販は66万1,000円と、他チェーンの50万円前後を大きく引き離した。既存店の1日平均客数は984人、平均客単価は680円である。国内店舗数は2003年に1万店を超え、同年10月に記念行事が開かれた。 [98][99][100][101]

  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [98]2001年度末の店舗数はセブンが約9,000店、ローソン7,700店、ファミリーマート5,900店で、出店地域はローソンが全47都道府県なのに対しセブンは32都道府県にすぎず、出店地域ごとに高密度多店舗展開するドミナント化を優先していた
    • [99]全店の平均日販額は約66万1,000円(2002年2月期)で50万円前後の他チェーンを大きく引き離し、既存店の1日平均客数は984人、既存店の平均客単価は約680円であった
    • [100]鈴木敏文は「一商圏に一店だけ出店するほうが、その商圏人口のすべてを獲得できるため店にとっては好都合だろうという考えは、よくある勘違い」「五分も行けばまたセブンイレブンがある。お客はそれで初めて便利さを感じる」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「特集 客を呼び戻すスーパー 崖っぷちGMSの大構造改革」
    • [101]セブンイレブン・ジャパンは2003年10月に1万店突破記念のパーティを開催した

独立した会社としての歴史は2005年に閉じた。9月1日、イトーヨーカ堂、デニーズジャパンとの3社共同株式移転により持株会社セブン&アイ・ホールディングスが発足し、この会社は上場を廃止して同社の傘下に入る。1979年の上場以来26年、親会社が過半を保有したまま子会社の株式が市場で売買される状態が続いていたが、それが解かれた。会社としての名前と事業は残り、法人格も存続する。消えたのは上場会社としての地位と、独立した資本の受け皿という立場である。1973年に親会社の新規事業として設けられた子会社は、上場前年度末の加盟店570店・従業員372名から国内1万店を超える規模へ育ち、ライセンス元だった米国の本家を買い戻し、最後は親会社ごと持株会社の下に並べ直された。設立時に借りたのは看板と運営の型であり、そこへ加盟店との配分設計、鮮度を守る供給体制、死に筋を落とす情報の使い方を、自ら足した。 [102][103][104][105][106]

  • 週刊東洋経済 2006年1月14日号「Key person 鈴木敏文 なぜ業態を超えた統合を行うのか」
    • [102]2005年9月1日、イトーヨーカ堂・セブンイレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社共同株式移転により持株会社セブン&アイ・ホールディングスが設立され、3社は同社の傘下に入って上場を廃止した
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [103]セブンイレブン・ジャパンは1979年10月15日に東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場直前(昭和54年2月28日現在)の株式総数16,200,000株に対し親会社イトーヨーカ堂が62.54%を保有し、公募3,800,000株の発行後も発行済20,000,000株の過半を保有する親子上場の状態にあった
    • [104]セブンイレブン・ジャパンは1973年11月にイトーヨーカ堂の子会社として設立され、2005年9月の株式移転で持株会社セブン&アイ・ホールディングスの傘下の事業会社となった
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [105]セブンイレブン・ジャパンは親会社イトーヨーカ堂とともに1991年3月に米サウスランド社を買収し、出資比率70.2%を握った
  • セブン&アイ・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [106]2005年9月1日にイトーヨーカ堂・セブンイレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社が共同株式移転により株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し、3社は同社の完全子会社となって上場を廃止した
  • 日経ビジネス 2001年4月16日号「セブンイレブンが『1階主義』から大転換」
    • [96]セブンイレブンは2001年4月、ビル2階に初出店し「1階主義」から大転換した。立地難の解消のためリスクを取る判断であった
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
    • [97]鈴木敏文は「何年後には何店舗規模にする」という計画を発表したことがないとし、「人間は自分の発言したことに対してつじつまを合わせたくなる。質が伴っていないのに出店だけ計画どおりに進めてしまうことになる」「『今年度は300店舗開業する』という計画を持っていても、100店くらい出してみて不振店が出てきたらその年の出店計画を打ち切った経験が過去に三、四回はあります。量というものは質の結果、これが私の持論です」と述べた
    • [98]2001年度末の店舗数はセブンが約9,000店、ローソン7,700店、ファミリーマート5,900店で、出店地域はローソンが全47都道府県なのに対しセブンは32都道府県にすぎず、出店地域ごとに高密度多店舗展開するドミナント化を優先していた
    • [99]全店の平均日販額は約66万1,000円(2002年2月期)で50万円前後の他チェーンを大きく引き離し、既存店の1日平均客数は984人、既存店の平均客単価は約680円であった
    • [100]鈴木敏文は「一商圏に一店だけ出店するほうが、その商圏人口のすべてを獲得できるため店にとっては好都合だろうという考えは、よくある勘違い」「五分も行けばまたセブンイレブンがある。お客はそれで初めて便利さを感じる」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「特集 客を呼び戻すスーパー 崖っぷちGMSの大構造改革」
    • [101]セブンイレブン・ジャパンは2003年10月に1万店突破記念のパーティを開催した
  • 週刊東洋経済 2006年1月14日号「Key person 鈴木敏文 なぜ業態を超えた統合を行うのか」
    • [102]2005年9月1日、イトーヨーカ堂・セブンイレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社共同株式移転により持株会社セブン&アイ・ホールディングスが設立され、3社は同社の傘下に入って上場を廃止した
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
    • [103]セブンイレブン・ジャパンは1979年10月15日に東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場直前(昭和54年2月28日現在)の株式総数16,200,000株に対し親会社イトーヨーカ堂が62.54%を保有し、公募3,800,000株の発行後も発行済20,000,000株の過半を保有する親子上場の状態にあった
    • [104]セブンイレブン・ジャパンは1973年11月にイトーヨーカ堂の子会社として設立され、2005年9月の株式移転で持株会社セブン&アイ・ホールディングスの傘下の事業会社となった
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
    • [105]セブンイレブン・ジャパンは親会社イトーヨーカ堂とともに1991年3月に米サウスランド社を買収し、出資比率70.2%を握った
  • セブン&アイ・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [106]2005年9月1日にイトーヨーカ堂・セブンイレブン・ジャパン・デニーズジャパンの3社が共同株式移転により株式会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し、3社は同社の完全子会社となって上場を廃止した

セブンイレブン・ジャパンの沿革1973〜2005年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
イトーヨーカ堂が米サウスランド社とエリアサービスおよびライセンス契約を締結し、コンビニエンスストア事業を担う子会社としてヨーク・セブン株式会社を設立★★★
東京都江東区豊洲に加盟店第1号を開業。酒販店からの転換で、営業時間は午前7時から午後11時までの16時間★★★
神奈川県相模原市に直営の実験店を開設。売場面積165平方メートルで生鮮三品を扱い、酒類を置かない構成として豊洲店と比較検証
福島県郡山市の店舗で24時間営業を開始し、夜間営業が昼間の売上も押し上げることを確認★★
加盟店が累計100店に到達
加盟店の一部が本部を通さない独自ルートでの仕入れ・販売を始め、粗利益の45%を本部が徴収する契約への不満が表面化。本部はシステムの一部変更の検討に入る★★
鈴木敏文氏が社長に就任。同年に加盟店が累計500店を超える★★
商号を株式会社セブンイレブン・ジャパンに変更。同年6月には米サウスランド社との契約の日本側当事者がイトーヨーカ堂から同社へ移り、事業主体として自立★★★
東京証券取引所市場第二部に上場。上場直前時点で親会社イトーヨーカ堂が62.54%を保有し、公募3,800,000株の発行後も過半を握る親子上場となる★★★
店舗数が1,000店を突破★★
POS(販売時点情報管理)システムを導入し、商品別の売り切れ時刻を把握して死に筋を排除する単品管理の基盤を築く★★★
弁当・調理パンの1日3便製造・配送体制の導入を開始。店舗数は創業10年目で2,000店を超える★★
キユーピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素などに調理済み食品の専用協力工場を関東地区で設立させ、中小ベンダーだけでは賄えない生産量を確保★★
製造時間表示にもとづき、売れ残った調理済み食品を納入後20時間で全量廃棄する運用を開始
弁当の製造時間表示と実際の製造時刻に最大2〜3時間のずれがあるとテレビ番組で報じられ、製造・配送体制の全面的な見直しに着手★★
製造・配送を地域分散させ、共同配送と単品管理を組み合わせた鮮度重視の供給体制を確立★★★
共同配送センターの費用負担をめぐり、創業以来の取引先である食品問屋の明治屋との取引を打ち切る★★
全店にプリペイドカードを導入し、コンビニエンスストア業界のキャッシュレス化に先手を打つ
チェーン全店売上高が9,319億円、店舗数が4,353店に達する(1991年2月期)
親会社イトーヨーカ堂とともに、経営破綻した米サウスランド社を約4億3,000万ドルで買収。出資比率70.2%を握り、ライセンス元であった本家の再建に乗り出す★★★
店舗数が5,000店を超える
米サウスランド社の再建が軌道に乗り、単品管理の移植が3年で成果を示す
第五次総合情報システムを導入し、発注時の仮説検証を支える情報基盤を刷新★★
ソフトバンクなどと組み、インターネット上での書籍販売を開始。店舗での支払いと受け取りを選べる方式とする
NEC・野村総合研究所・ソニー・三井物産・日本交通公社などと共同で電子商取引会社セブンドリーム・ドットコムを設立し、全国の店舗網を受け取り拠点とする事業に乗り出す★★★
セブンドリーム・ドットコムがサイトを開設し、物販・旅行・音楽配信・チケット販売などの取り扱いを始める
路面1階への出店を原則としてきた方針を転換し、ビルの2階に初出店。立地難の解消をはかる
国内店舗数が1万店を突破し、10月に記念行事が開かれた。平均日販は66万円台と他チェーンを大きく引き離す★★
イトーヨーカ堂・デニーズジャパンとの3社共同株式移転により持株会社セブン&アイ・ホールディングスが発足し、東京証券取引所への上場を廃止★★★
出典・参考
  • 証券 1979年31(10)(367)「新規上場会社紹介 株式会社セブン-イレブン・ジャパン」
  • 証券アナリストジャーナル 1979年17(11)「セブン-イレブン・ジャパン 急成長するコンビニエンス・ストア」
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建。しつこい店作り移植」
  • 日経ビジネス 1974年7月22日号「イトーヨーカ堂のコンビニエンス展開」
  • 週刊東洋経済 2003年4月12日号「特集 セブン‐イレブンの『論理思考』」
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号「流通。セブンイレブンに反旗翻す加盟店」
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号「セブン-イレブン・ジャパンの調理済み食品重視路線」
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号増刊「セブンイレブンが売れ筋決める」
  • 日経ビジネス 1991年4月29日号「なるか本家セブンイレブン再建」
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号「再建の切り札『単品管理』。米サウスランド社、3年で軌道に」
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号「ネットとコンビニ連携、米国でも」
  • 日経ビジネス 2001年4月16日号「セブンイレブンが『1階主義』から大転換」
  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「特集 客を呼び戻すスーパー 崖っぷちGMSの大構造改革」
  • 週刊東洋経済 2006年1月14日号「Key person 鈴木敏文 なぜ業態を超えた統合を行うのか」
  • セブン&アイ・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】

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