伊藤ハム の歴史

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創業 1928年
創業者 伊藤傳三
創業地 大阪市北区
創業
1928年、20歳の伊藤傳三氏が大阪市北区深田町で伊藤食品加工業を興した。資本金2,000円は伯父と郷里の知人から借りた全額借金で、最初に作ったのは魚粉を混ぜた海苔の佃煮『汐の華』である。世界恐慌が波及すると佃煮は製造原価を下回る値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した。東京で青物市場の店員や氷の配達をして2年を過ごしたのち神戸で再起し、1934年には豚肉85〜90%に兎肉10〜15%を混ぜて赤いセロハンの袋へ詰めた『セロハンウインナー』を1本5銭で売り出す。戦後は1946年4月の合名会社伊藤食品工業から始まり、1948年6月に伊藤栄養食品工業、1961年1月に伊藤ハム栄養食品、1984年6月に伊藤ハムへ商号を改めた。
決断
手に入る肉が変わるたび、製品ではなく原料のほうを替えてきた。1934年のセロハンウインナーは豚肉に兎肉を1割強混ぜたもので、統制が厳しくなった1943年には、枠の外にあったさめといるかへ切り替えている。1946年4月には長田区の市場で買い手のつかなかったさめを原料に『ニューソーセージ』を作り、この一品だけで3か月後に神戸市灘区備後町へ敷地約5,000平方メートルの工場を建てた。1948年には氷水で洗う脱臭法を確立して原料を全面的に畜肉へ移し、1958年にはニュージーランドからマトン3,000トンを輸入する。同じ年の日本全体の輸入量は3,200トンで、そのほとんどを1社で使った。原料を差し替えられる温度管理と脱臭の技術が、豚肉が高騰しても値上げをしない供給を支えた。
現況
創業家が退いたあと、最後に経営したのは資本を入れた商社だった。伊藤研一氏の社長在任は1981年7月から2002年まで20年を超え、その間に『ポークビッツ』と『アルトバイエルン』を出している。2006年3月期は連結売上高5,173億円に対し経常損失25億円・当期純損失84億円と赤字に転じ、2009年3月期も売上高4,871億円で当期純損失63億円を計上した。2009年には三菱商事を割当先に3,700万株・発行価格325円の第三者割当増資を実施し、同社出身の堀尾守氏が2010年4月に社長へ就任する。2013年9月の取手工場と2015年3月のアンズコフーズ子会社化で原料と生産の拠点を整え、最終期の2016年3月期は連結売上高6,388億円・経常利益109億円と過去最高になった。
競合
競争は商品ではなく、精肉店を系列へ入れる速さで起きた。1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、問屋卸と仲買を通さずに小売店と直接取引する方式を業界に先駆けて敷いた。自社製品だけを扱う小売店を集めた『伊藤ハム会』は1979年に5,500店を抱え、毎年100店ずつ増えている。全国3万5,000店の精肉店のうち2万3,000店弱に及び、その3分の2を押さえた。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で、同じ1961年に上場した日本ハムの678億円を上回る。加工肉と食肉の大半を自社から仕入れる加入条件を課したこの網が、と畜場を一つも持たない会社を首位へ押し上げた。
長期業績の推移 1950〜2016年
伊藤ハム:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2016年3月期

創業ストーリー セロハンウインナーにたどり着くまでの失敗と戦時の代用原料 (1928年〜)

セロハンウインナーにたどり着くまでの失敗と戦時の代用原料

創業ストーリー(1)

丁稚奉公から海産物加工の独立と倒産まで

伊藤傳三氏は1908年11月19日、三重県四日市市富田町の漁師町に生まれた[1]。父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たず、いりこやかつお節を三重から滋賀まで売り歩く海産物卸商となった[2]。1923年、その吉松は旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、伊藤傳三氏が高等小学校の高等科2年を卒業した年に死去した[3]。母のたねは行商に出て、伊藤傳三氏も掛け売りの集金に走り回った[4]。それでも、生前は知らされていなかった165円の借金は、母子の稼ぎで返せる額を超えていた[5]。1924年2月、15歳の伊藤傳三氏は母とともに、残った身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで大阪へ移った[6]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [1]1908年11月19日、三重県四日市市富田町(東富田仲納屋町)の漁師町に生まれた
    • [2]父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たない行商の海産物卸商となり、いりこやかつお節を三重県下から滋賀県あたりまで売り歩いた
    • [3]1923年に父が旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、高等科二年を卒業した年に他界した
    • [4]母は行商に出て、本人も掛け売りの集金に走り回った
    • [5]知らされていなかった165円の借金があり、母子がいくら働いても返済できる額ではなかった
    • [6]1924年2月、身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで母と大阪へ移った。当時15歳

大阪では、母の弟が営む傘の柄やステッキの卸商に身を寄せたのち、西区の海産物問屋へ丁稚として住み込んだ[7]。給料は月5、6円、休みは月1回で、1年余りで60キロ近い荷を運んで胸を痛め、肋膜炎で店を離れた[8]。全快後に入った2軒目の乾物問屋では魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭まで昇格した[9]。徴兵検査で第一補充兵となって兵役を免れた伊藤傳三氏は、独立するなら食品しかないと決め、休みのたびに梅田の阪急百貨店の食品売場へ通った[10]。誰が何を買うかを眺め、かまぼこやかん詰めの原料と製法と流通経路を調べた結果、主な食品は大手業者が押さえており、新参の入る余地はないとみた[11]。残ったのは、神戸の南京町や大阪の川口町で家内工業として作られ、鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていたハム・ソーセージだった[12]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [7]大阪で母の弟(傘の柄やステッキの卸商)の家に落ち着いたのち、大阪市西区の海産物問屋に丁稚として住み込んだ
    • [8]給料は月5、6円、休みは月1回。1年余りで60キロ近い荷をかついで胸に鈍痛を覚え、肋膜炎と診断されて店を辞めた
    • [9]二軒目の海産物・乾物の卸問屋で魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭に昇格した
    • [10]徴兵検査で第一補充兵となり兵役を免れた。独立するなら食品関係と決め、休みのたびに梅田の阪急デパートの食品売り場へ通った
    • [11]かまぼこ・かん詰めなど一つ一つの食品の原料・製法・流通経路を調べ、ほとんどの食品は大手業者が握っていて新参者が入り込むのは無理と判断した
    • [12]ハム・ソーセージは神戸の南京町、大阪の川口町あたりで家内工業的に作られ、製法は幼稚で鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていた

1928年、伊藤傳三氏は大阪市北区深田町で伊藤食品加工業を興した[13]。20歳で、資本金2,000円は母方の伯父2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金である[14]。食肉に踏み切る資金はなく、まず作ったのは魚粉を混ぜた海苔の佃煮で、『汐の華』と名付けた[15]。朝食に佃煮が欠かせない時代で売れ行きは伸び、1年で店員7、8人・女工20人の所帯になった[16]。ところが世界恐慌が波及すると、佃煮は製造コストを下回る値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した[17]。伊藤傳三氏は従業員20人近くの再就職先を一つずつ回って決め、大口債権者には債務の25%を返して残りを免除してもらい、無一文になった[18]。同年夏に大阪を離れて東京へ移り、山谷の木賃宿を振り出しに、青物市場の店員や氷の配達で2年を過ごした[19]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1928年、大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [14]20歳のときに大阪市北区深田町で旗揚げし、資本金2,000円は母の弟2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金だった
    • [15]念願の食肉製品には踏み切れず、まず手がけたのは普通の佃煮に魚粉を混入した海苔の佃煮で、商標を「汐の華」とした
    • [16]当時は朝食に海苔の佃煮が必需品で出足から順調に進み、1年ほどで店員7、8人・女工20人の所帯になった
    • [17]世界的な大不況の渦にはまり、佃煮は製造コストより安い値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した
    • [18]従業員20人近くの再就職先を奔走して決め、大口債権者には借金の25%を返済して75%を免除してもらい、完全な無一文になった
    • [19]1930年夏に大阪を離れて東京へ向かい、山谷のドヤ街を振り出しに青物市場の店員や氷の配達で2年間を過ごした
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [1]1908年11月19日、三重県四日市市富田町(東富田仲納屋町)の漁師町に生まれた
    • [2]父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たない行商の海産物卸商となり、いりこやかつお節を三重県下から滋賀県あたりまで売り歩いた
    • [3]1923年に父が旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、高等科二年を卒業した年に他界した
    • [4]母は行商に出て、本人も掛け売りの集金に走り回った
    • [5]知らされていなかった165円の借金があり、母子がいくら働いても返済できる額ではなかった
    • [6]1924年2月、身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで母と大阪へ移った。当時15歳
    • [7]大阪で母の弟(傘の柄やステッキの卸商)の家に落ち着いたのち、大阪市西区の海産物問屋に丁稚として住み込んだ
    • [8]給料は月5、6円、休みは月1回。1年余りで60キロ近い荷をかついで胸に鈍痛を覚え、肋膜炎と診断されて店を辞めた
    • [9]二軒目の海産物・乾物の卸問屋で魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭に昇格した
    • [10]徴兵検査で第一補充兵となり兵役を免れた。独立するなら食品関係と決め、休みのたびに梅田の阪急デパートの食品売り場へ通った
    • [11]かまぼこ・かん詰めなど一つ一つの食品の原料・製法・流通経路を調べ、ほとんどの食品は大手業者が握っていて新参者が入り込むのは無理と判断した
    • [12]ハム・ソーセージは神戸の南京町、大阪の川口町あたりで家内工業的に作られ、製法は幼稚で鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていた
    • [14]20歳のときに大阪市北区深田町で旗揚げし、資本金2,000円は母の弟2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金だった
    • [15]念願の食肉製品には踏み切れず、まず手がけたのは普通の佃煮に魚粉を混入した海苔の佃煮で、商標を「汐の華」とした
    • [16]当時は朝食に海苔の佃煮が必需品で出足から順調に進み、1年ほどで店員7、8人・女工20人の所帯になった
    • [17]世界的な大不況の渦にはまり、佃煮は製造コストより安い値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した
    • [18]従業員20人近くの再就職先を奔走して決め、大口債権者には借金の25%を返済して75%を免除してもらい、完全な無一文になった
    • [19]1930年夏に大阪を離れて東京へ向かい、山谷のドヤ街を振り出しに青物市場の店員や氷の配達で2年間を過ごした
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1928年、大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業した
創業ストーリー(2)

神戸での再起と温度管理が生んだセロハンウインナー

東京で200円ほどを蓄えた伊藤傳三氏は1932年に大阪へ帰ったが、創業を援助した伯父から疎まれ、神戸に移った[20]。灘区篠原本町に家を借りて母のたねを引き取ったものの、たねは同年5月27日に62歳で死去した[21]。その直前に決まった縁談で、伊藤傳三氏は郷里富田町の商家である伊藤金作の長女きぬゑ氏を妻に迎えた[22]。夫婦は葺合区琴緒町へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターを入れた[23]。1度目の独立が借金経営で潰れたため、こんどは手元の資金で始められる魚肉ソーセージを選んだ[24]。かまぼこ用のはもやにべを中央市場から仕入れ、においを抜くラードと味の素・砂糖・こしょうで味を付け、畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で阪急・大丸へ卸した[25]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [20]東京で200円ほどの蓄えを作って大阪へ帰ったが、創業時に資金を出した伯父から冷たく当たられ、神戸で商売を始めることを決めた
    • [21]神戸市灘区篠原本町二丁目に家を借りて母を引き取ったが、母たねは1932年5月27日に62歳で死去した
    • [22]四日市市富田町の商家・伊藤金作の長女きぬゑと結婚した。本人25歳、妻21歳
    • [23]神戸市灘区篠原から葺合区琴緒町一丁目へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターなど最低限の設備を入れた
    • [24]1回目の独立が失敗したのは借金経営が原因と考え、資本の蓄えが少ないためまず魚肉ソーセージから出発した
    • [25]原料はかまぼこ用のはも・にべなどを中央市場から仕入れ、魚のにおいを抜くためラードを使い、味の素・砂糖・こしょうで調味した。畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で卸し、阪急・大丸などの百貨店への納入に成功した

ところが納入から間もなく返品が続き、原因は包装にあった[26]。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗し、ケーシングに使っていたが、乾燥すると腸の小穴から水気が漏れてバクテリアが繁殖した[27]。百貨店が代金を払うのは売れた分だけで、残りはすべて工場へ戻ってきた[28]。伊藤傳三氏は返品と不良品をリヤカーに積み、真夜中の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた[29]。百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月を研究に費やした[30]。兵庫県の衛生試験所と図書館へ通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら、次に作る製品を考えた[31]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [26]百貨店への納入からしばらくすると返品が相次いだ
    • [27]返品の原因は包装。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗しケーシングに使っていたが、腸の小穴から日がたって乾燥すると水気が漏れ、バクテリアが繁殖した
    • [28]百貨店は売れたものだけの代金を払い、残りはいやおうなしに返品してきた
    • [29]返品とできそこないのソーセージをリヤカーに積み、真夜中に葺合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた
    • [30]百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月間を研究に費やした
    • [31]県の衛生試験所や図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した

研究で突き止めたのは、原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が抜けるか傷むかは温度管理で決まる点である[32]。温度管理さえ習得すれば、冷蔵設備を自社で持たずに他所の冷蔵庫を借りて足りる[33]。もう一つが熟成で、水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、塩が肉繊維に浸透して繊維質がくずれ、味覚と栄養を保ったまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊になる[34]。この過程が完全なら、異質の原料どうしも結着する[35]。1934年、伊藤傳三氏はこの技術でセロハンウインナーを完成させた[36]。原料は豚肉85〜90%と兎肉10〜15%、包装は捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、筒状の袋に貼った[37]。1本10匁を5銭で神戸市内の飲食店やバー、カフェーへ卸すと、太さも重さもそろって店の勘定が合い、袋貼りを担う妻のきぬゑ氏の手も足りないほど売れた[38]。工場の資金は5円券と10円券の引換券を刷って前金で集めた[39]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [32]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたりむれて傷んだりするのは温度管理しだいだと分かった
    • [33]温度管理の技術を習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよその冷蔵庫を利用して原料を保管すれば足りる
    • [34]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると、肉繊維に塩が浸透して繊維質がくずれ、味覚・栄養を失わないまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊となる。これが熟成である
    • [35]熟成の過程さえ完全なら異質の原料どうしが結着することが分かった
    • [36]1934年にセロハンウインナを開発した
    • [37]原料は豚肉85〜90%、兎肉10〜15%。あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、糊づけして筒状の袋にした。袋貼りは妻が担当した
    • [38]1本10匁、卸値は1本5銭で神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーに卸した。天然腸詰めは太さも長さもまばらで切り売りの計算が煩雑だったのに対し評判がよく、作るはしから売り切れた
    • [39]工場建設のため5円券と10円券の2種類の引換券を作り、前金として200円を集めた
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [20]東京で200円ほどの蓄えを作って大阪へ帰ったが、創業時に資金を出した伯父から冷たく当たられ、神戸で商売を始めることを決めた
    • [21]神戸市灘区篠原本町二丁目に家を借りて母を引き取ったが、母たねは1932年5月27日に62歳で死去した
    • [22]四日市市富田町の商家・伊藤金作の長女きぬゑと結婚した。本人25歳、妻21歳
    • [23]神戸市灘区篠原から葺合区琴緒町一丁目へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターなど最低限の設備を入れた
    • [24]1回目の独立が失敗したのは借金経営が原因と考え、資本の蓄えが少ないためまず魚肉ソーセージから出発した
    • [25]原料はかまぼこ用のはも・にべなどを中央市場から仕入れ、魚のにおいを抜くためラードを使い、味の素・砂糖・こしょうで調味した。畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で卸し、阪急・大丸などの百貨店への納入に成功した
    • [26]百貨店への納入からしばらくすると返品が相次いだ
    • [27]返品の原因は包装。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗しケーシングに使っていたが、腸の小穴から日がたって乾燥すると水気が漏れ、バクテリアが繁殖した
    • [28]百貨店は売れたものだけの代金を払い、残りはいやおうなしに返品してきた
    • [29]返品とできそこないのソーセージをリヤカーに積み、真夜中に葺合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた
    • [30]百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月間を研究に費やした
    • [31]県の衛生試験所や図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した
    • [32]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたりむれて傷んだりするのは温度管理しだいだと分かった
    • [33]温度管理の技術を習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよその冷蔵庫を利用して原料を保管すれば足りる
    • [34]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると、肉繊維に塩が浸透して繊維質がくずれ、味覚・栄養を失わないまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊となる。これが熟成である
    • [35]熟成の過程さえ完全なら異質の原料どうしが結着することが分かった
    • [36]1934年にセロハンウインナを開発した
    • [37]原料は豚肉85〜90%、兎肉10〜15%。あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、糊づけして筒状の袋にした。袋貼りは妻が担当した
    • [38]1本10匁、卸値は1本5銭で神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーに卸した。天然腸詰めは太さも長さもまばらで切り売りの計算が煩雑だったのに対し評判がよく、作るはしから売り切れた
    • [39]工場建設のため5円券と10円券の2種類の引換券を作り、前金として200円を集めた
創業ストーリー(3)

統制下のさめ・兎肉への転用と46日間の留置

1938年4月6日、数え5歳の長男の仁氏が神戸市灘区大和町の踏切で電車にはねられ、三日三晩の後に息を引き取った[40]。その3か月後の7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・石屋川などが決壊した[41]。伊藤傳三氏は石屋川の決壊口へ駆けつけて消防団と土のうを積んだが、水勢を止められなかった[42]。工場そのものは壊れなかったものの、復旧に日数がかかり、商売は打撃を受けた[43]。日中戦争下で統制が進み、食肉加工業者は組合に入らなければ豚肉の配給を一片も受けられなくなる[44]。伊藤傳三氏は静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取と四国4県の産地を歩いて原料豚肉を買い付けた[45]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [40]1938年4月6日、数え5歳の長男仁が神戸市灘区大和町の省線踏切付近で電車にはねられ、三日三晩の後に死亡した
    • [41]1938年7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・大石川・宇治川・石屋川などが決壊・氾濫した
    • [42]石屋川の決壊現場へ駆けつけ、消防団とともに土のうを積んで決壊口を防ごうとしたが、水の勢いに対抗できなかった
    • [43]工場は直接壊れず家も大きな被害はなかったが、復興に時間がかかり商売も打撃をこうむった
    • [44]日中事変が始まり、食肉加工業者は組合に入らなければ一片の豚肉も配給されないと言われた
    • [45]原料豚肉の買い付けに静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取、四国4県など全国各地の食肉産地を歩き回った

1943年に入ると統制はさらに厳しくなり、地方での原料集めもできなくなった[46]。そこで伊藤傳三氏が原料にしたのが、統制の枠外にあるさめといるかである[47]。北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、これらを混ぜて肉製品に近いソーセージを作った[48]。難所は魚のにおいで、1932年からの魚肉ソーセージで積んだ経験が生きた[49]。普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度とするが、魚肉は90度まで上げるとにおいが抜ける[50]。同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったのに対し、伊藤傳三氏の工場はアンモニアの中和と脱臭を施していた[51]。満州の国境警備向けに毛皮用の飼育が奨励されて余っていた兎肉も加え、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした[52]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [46]1943年に入ると統制は一段と厳しくなり、地方での原料集めも不可能となって統制品以外の原料を使うほかなくなった
    • [47]統制品以外の魚肉として、さめ、いるかの活用を思いついた
    • [48]北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、さめ・いるかを混合して肉製品のような製品にした
    • [49]魚肉で最も難しいのは魚のにおいを消す方法で、1932年から1933年ごろに大衆向け魚肉ソーセージを売り出したときの技術が生きた
    • [50]普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度としたが、魚肉の場合は90度まで上げるとにおいが全部抜ける
    • [51]同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったが、自社工場はアンモニアの中和・脱臭法が完全だった
    • [52]満州の国境警備に兎の毛皮が必要で飼育が奨励され兎肉が余っていたため原料に使い、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした

製品は大阪の物価局の検査を受け、原料と製法から公定価格を決められた[53]。戦局が進むとハム・ソーセージを作ること自体が価格違反にあたるため、伊藤傳三氏はハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけ、統制の枠から外れる半製品に変えた[54]。それでも原料の違反を疑われて1943年2月に神戸市の灘署へ出頭し、嫌疑が晴れるまでに46日かかった[55]。警察は気仙沼・太地・室戸岬へ調査官を送ったが、出てきたのは統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した1件の罰金1,200円で決着した[56]。伊藤傳三氏は工場を閉鎖して1943年9月に営業を止め、神戸市東灘区本山の東芝電気の工場へ資材係として勤めた[57]。1945年6月5日の神戸大空襲では、至近弾の破片が右腕と右の大腿部を貫き、伊藤傳三氏は川へ飛び込んで難を逃れた[58]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [53]製品は全部大阪の物価局で検査を受け、物価局が原料・製造方法を審査して公定価格を決めていた
    • [54]戦局の進展でハム・ソーセージを作ること自体が価格違反になったため、ハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけた。半製品ないし生ものは統制の枠に当てはまらなかった
    • [55]原料で違反しているとの疑いをかけられ、1943年2月初めに神戸市灘署へ出頭し、疑いが晴れて出られるまで46日かかった
    • [56]警察は気仙沼・太地・室戸岬などへ調査官を派遣したが統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した件の罰金1,200円で決着した
    • [58]1945年6月5日の神戸大空襲で防空壕へ入ろうとした瞬間に至近弾を受け、右腕と右大腿部を負傷して太ももを貫通した。表へ回って川へ飛び込み難を逃れた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
    • [57]1943年9月、戦時非常事態のため営業停止に至った
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [40]1938年4月6日、数え5歳の長男仁が神戸市灘区大和町の省線踏切付近で電車にはねられ、三日三晩の後に死亡した
    • [41]1938年7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・大石川・宇治川・石屋川などが決壊・氾濫した
    • [42]石屋川の決壊現場へ駆けつけ、消防団とともに土のうを積んで決壊口を防ごうとしたが、水の勢いに対抗できなかった
    • [43]工場は直接壊れず家も大きな被害はなかったが、復興に時間がかかり商売も打撃をこうむった
    • [44]日中事変が始まり、食肉加工業者は組合に入らなければ一片の豚肉も配給されないと言われた
    • [45]原料豚肉の買い付けに静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取、四国4県など全国各地の食肉産地を歩き回った
    • [46]1943年に入ると統制は一段と厳しくなり、地方での原料集めも不可能となって統制品以外の原料を使うほかなくなった
    • [47]統制品以外の魚肉として、さめ、いるかの活用を思いついた
    • [48]北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、さめ・いるかを混合して肉製品のような製品にした
    • [49]魚肉で最も難しいのは魚のにおいを消す方法で、1932年から1933年ごろに大衆向け魚肉ソーセージを売り出したときの技術が生きた
    • [50]普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度としたが、魚肉の場合は90度まで上げるとにおいが全部抜ける
    • [51]同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったが、自社工場はアンモニアの中和・脱臭法が完全だった
    • [52]満州の国境警備に兎の毛皮が必要で飼育が奨励され兎肉が余っていたため原料に使い、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした
    • [53]製品は全部大阪の物価局で検査を受け、物価局が原料・製造方法を審査して公定価格を決めていた
    • [54]戦局の進展でハム・ソーセージを作ること自体が価格違反になったため、ハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけた。半製品ないし生ものは統制の枠に当てはまらなかった
    • [55]原料で違反しているとの疑いをかけられ、1943年2月初めに神戸市灘署へ出頭し、疑いが晴れて出られるまで46日かかった
    • [56]警察は気仙沼・太地・室戸岬などへ調査官を派遣したが統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した件の罰金1,200円で決着した
    • [58]1945年6月5日の神戸大空襲で防空壕へ入ろうとした瞬間に至近弾を受け、右腕と右大腿部を負傷して太ももを貫通した。表へ回って川へ飛び込み難を逃れた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
    • [57]1943年9月、戦時非常事態のため営業停止に至った

さめ肉のニューソーセージからプレスハム技術の公開へ

創業ストーリー(4)

焼け跡の自作釜で作ったさめ肉のニューソーセージ

伊藤傳三氏が疎開先から神戸へ戻ったのは1945年9月初めで、市街の大半は焼けていた[59]。東灘区の住宅管理会社にいた知人の世話で灘区宮前通りの貸家を借り、雨戸も畳もない2階建ての1階を工場に充てた[60]。原料の当てがないまま長田区の中央市場をのぞくと、大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だったが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭のため買い手がつかなかった[61]。伊藤傳三氏は戦時中に魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に定め、妻とともに焼け跡からレンガを拾って自分で釜を築き、前の工場跡から掘り出した錆びたミンチ釜を磨いて据え付けた[62]。でんぷんは岐阜の業者から貨車1両分を取り寄せ、赤い着色剤は大阪道修町、ケーシング用のセロハンは大阪心斎橋で買い集めた[63]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [59]伊藤傳三氏が神戸に帰ったのは終戦の年の9月初めで、神戸の街は大半が焼けていた
    • [60]東灘区の住宅管理会社にいる知人の世話で灘区宮前通りの二階家を借り、住居の一階を工場に充てた。雨戸も畳もない家だった
    • [61]神戸市長田区の中央市場に大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭で買い手がなかった
    • [62]戦争中にも魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に決め、家内と二人で焼け跡からレンガを拾い集めて自分で釜をつくり、前の工場跡から掘り出した赤くさびたミンチ釜を磨いて据え付けた
    • [63]でんぷんは岐阜の業者に頼んで一貨車分を送ってもらい、大阪道修町でチャコと呼んでいた赤い着色剤を、大阪心斎橋でケーシングに使うセロハンを買い付けた

さめ肉のソーセージで最も苦心したのは熟成と脱臭だった。魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩漬けにし、これを熱湯に入れて90度ほどで煮る[64]。魚肉は水分が多く、ラードと合わせる加減を誤れば脂が固まって腐敗する。火をたきながら水を加える間合いは、試作の反復でつかんだ[65]。1946年4月3日に戦後最初の魚肉ソーセージを完成させ、『ニューソーセージ』と名付けて同月7日から発売した。伊藤傳三氏はこの日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と定めたと述べている[66]。近所の小売店4、5軒に置いたところ即座に売り切れ、発売から3か月後の7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を建て、製造能力を100倍に伸ばした[67]。資本金19万5,000円[68]の合名会社伊藤食品工業が、この新工場で操業に入った[69]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [64]さめ肉のソーセージで一番苦心したのは熟成と脱臭で、魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩づけし、熱湯に入れて90度ぐらいの高温で煮た
    • [65]魚肉は水分が多くラードと合わせるときラードが固まり腐敗する心配があり、火をたきながら水を加えるタイミングは試作を何回も繰り返してコツをつかんだ
    • [66]1946年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成、「ニューソーセージ」と命名して同月7日から発売し、この日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と決めている
    • [67]製品は近所の小売店4、5軒に出したところ即座に売り切れ、発売後3カ月の7月末に神戸市灘区備後町へ敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍になった
    • [68]新工場とともに「伊藤食品工業」が資本金19万5,000円で復興した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1946年4月、兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立

原料と資材の割り当ての元締めは兵庫県庁で、伊藤食品工業は県の『重要民需産業』の指定を受けた[70]。製品は公定価格に置かれ、生産量の7割を家庭配給に回し、残る3割を自由販売した[71]。自由販売は100匁28円で卸したものを小売店が35円で売り、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしたため利幅は自由販売のほうが大きかったが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に置いた[72]。電力事情が悪く工場は肝心なときに停電したので、兵庫県知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが終夜点灯している事実を挙げて送電を求め、割り当てを得た[73]。窓に暗幕を吊るして操業したところ、女子従業員の残業に労働基準監督署の指摘が入り、婦人30人ほどが自ら監督署へ出向いて操業の継続を認めさせた[74]。工場では子供を抱える戦争未亡人を優先して採用した[75]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [70]まだ統制時代で原料・資材の元締めは兵庫県庁であり、伊藤傳三氏の会社は県の「重要民需産業」の指定を受けた
    • [71]物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売した
    • [72]自由販売だと100匁28円で卸したものを小売店は35円で販売し、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしていたが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に考えた
    • [73]電力事情が悪く工場でも肝心なときに停電したため知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが四六時中点灯している事情を挙げて電力を回すよう求め、工場に電力を回してもらえるようになった
    • [74]窓という窓に暗幕をつるして操業したことが労働基準監督署の目にとまり、女子従業員の残業にクレームがついたが、婦人たち自ら30人ばかりが監督署に出向いて懇請したため当局も折れた
    • [75]工場に戦争未亡人を採用し、子供を2、3人抱えている未亡人に優先的に働いてもらうことにした
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [59]伊藤傳三氏が神戸に帰ったのは終戦の年の9月初めで、神戸の街は大半が焼けていた
    • [60]東灘区の住宅管理会社にいる知人の世話で灘区宮前通りの二階家を借り、住居の一階を工場に充てた。雨戸も畳もない家だった
    • [61]神戸市長田区の中央市場に大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭で買い手がなかった
    • [62]戦争中にも魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に決め、家内と二人で焼け跡からレンガを拾い集めて自分で釜をつくり、前の工場跡から掘り出した赤くさびたミンチ釜を磨いて据え付けた
    • [63]でんぷんは岐阜の業者に頼んで一貨車分を送ってもらい、大阪道修町でチャコと呼んでいた赤い着色剤を、大阪心斎橋でケーシングに使うセロハンを買い付けた
    • [64]さめ肉のソーセージで一番苦心したのは熟成と脱臭で、魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩づけし、熱湯に入れて90度ぐらいの高温で煮た
    • [65]魚肉は水分が多くラードと合わせるときラードが固まり腐敗する心配があり、火をたきながら水を加えるタイミングは試作を何回も繰り返してコツをつかんだ
    • [66]1946年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成、「ニューソーセージ」と命名して同月7日から発売し、この日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と決めている
    • [67]製品は近所の小売店4、5軒に出したところ即座に売り切れ、発売後3カ月の7月末に神戸市灘区備後町へ敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍になった
    • [68]新工場とともに「伊藤食品工業」が資本金19万5,000円で復興した
    • [70]まだ統制時代で原料・資材の元締めは兵庫県庁であり、伊藤傳三氏の会社は県の「重要民需産業」の指定を受けた
    • [71]物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売した
    • [72]自由販売だと100匁28円で卸したものを小売店は35円で販売し、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしていたが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に考えた
    • [73]電力事情が悪く工場でも肝心なときに停電したため知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが四六時中点灯している事情を挙げて電力を回すよう求め、工場に電力を回してもらえるようになった
    • [74]窓という窓に暗幕をつるして操業したことが労働基準監督署の目にとまり、女子従業員の残業にクレームがついたが、婦人たち自ら30人ばかりが監督署に出向いて懇請したため当局も折れた
    • [75]工場に戦争未亡人を採用し、子供を2、3人抱えている未亡人に優先的に働いてもらうことにした
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1946年4月、兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立
創業ストーリー(5)

プレスハム製造技術の全面公開と問屋を通さない直販

1947年秋ごろまで魚肉のニューソーセージが主力製品の座を占めた[76]。1948年に入ると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、量は国民全体からみれば微々たるもので、ボンレスハムやロースハムといった単味品はなお一部の人の贅沢品にとどまった[77]。わずかな豚肉から大量の加工食品を作るには、においの強い馬肉や山羊肉の脱臭と脱血が要る[78]。においを取るには生肉を徹底して水洗いすればよいが、その過程で肉がむれ、鮮度が落ちる。伊藤傳三氏は氷水で洗う装置を工夫し、氷水による水洗いという脱臭法で畜肉の寄せハムを開発した[79]。寄せハムの製造は1947年7月に始め、1948年には魚肉をやめて原料を全面的に畜肉へ切り替えた[80]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [76]魚肉の「ニューソーセージ」は1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
    • [77]1948年にはいると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、豚肉は国民全体からみれば微々たる量で、ボンレスハム、ロースハム、ベーコンといった単味品はひとにぎりの人のぜいたく品にすぎなかった
    • [78]わずかの豚肉を利用して大量のおいしい加工食品を生み出す最大のポイントは脱臭、脱血の技術で、馬肉、山羊肉はにおいがきつくハムソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [79]においをとるには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度が落ちるため、氷水による水洗いという脱臭法に成功し、畜肉の寄せハムを開発した
    • [80]雑肉を原料にした寄せハム、つまりプレスハムを作り始めたのは1947年7月からで、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた

同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、畜肉の風味と香りが失われ、みそくさかったり色が黒ずんだりと、品質にばらつきが出た[81]。伊藤傳三氏は、自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体の評価が下がると考え、同業者の技術部門の幹部を集めた[82]。プレスハム製造でもっとも重要な温度管理と製造工程を細かく説明し、自ら考案した氷水による水洗いを含む製造方法を全部公開した[83]。プレスハムの普及は農村にも及んだ。現金収入が細っていた畜産農家に副業として畜産を勧め、石油缶に100円札を詰めて1缶50万円、2缶ずつを携え、北は東北から南は四国、山陰まで巡回した[84]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [81]同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、プレスハムの特徴である畜肉の風味と香りがなくなり、みそくさかったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
    • [82]自分の会社だけがいくらいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部の人たちに集まってもらった
    • [83]プレスハムの製造で最も重要な温度管理、製造工程をくわしく説明し、自分で考案した氷水による水洗い技術をはじめプレスハム製造方法を全部公開した
    • [84]現金収入がとだえがちだった農村に畜産奨励という仕事ができ、全国各地の畜肉生産農家を巡回した。石油かんに100円札を詰めると一かんで50万円になり、その二かん100万円ずつを持って北は東北から南は四国、山陰まで歩いた

ハム・ソーセージには物品税が課され、寄せハムにも30%がかかっていた[85]。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムへの課税を誤りとみて、東京・大森の料亭で関東と関西の代表が対策を練ったのち、大蔵省主税局で撤廃を求めた[86]。1949年6月11日にプレスハムの課税撤廃が決まって7月から実施され、10%が残っていた単味品も1950年1月に全廃された[87]。販路も同じ時期に組み替えた。1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、問屋卸と仲買を通さず、メーカーと小売店が直接取引する直販ルートを敷いた[88]。代理店経由では値を叩かれ、他社製品と一緒に扱われるため自社製品の売れ行きもつかめなかったからで、のちに自社製品だけを扱う小売店を集めて伊藤ハム会を結成した[89]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [85]当時はボンレス、ポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも物品税30%が課されていた
    • [86]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると考え、東京・大森の料亭で関東、関西の代表者が対策を練り、大蔵省の主税局で談判した
    • [87]1949年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され7月から実施、10%の物品税が残っていた単味品も翌1950年1月に全廃になった
    • [88]1948年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーと小売店の直販ルートにした。それまでは製品を問屋に卸すか仲買人に渡すのが普通だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [89]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われて自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があり、代理店を通さず直接小売店と取引することにした。その後、自社製品だけを売る小売店を集めて「伊藤ハム会」を結成した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [76]魚肉の「ニューソーセージ」は1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
    • [77]1948年にはいると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、豚肉は国民全体からみれば微々たる量で、ボンレスハム、ロースハム、ベーコンといった単味品はひとにぎりの人のぜいたく品にすぎなかった
    • [78]わずかの豚肉を利用して大量のおいしい加工食品を生み出す最大のポイントは脱臭、脱血の技術で、馬肉、山羊肉はにおいがきつくハムソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [79]においをとるには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度が落ちるため、氷水による水洗いという脱臭法に成功し、畜肉の寄せハムを開発した
    • [80]雑肉を原料にした寄せハム、つまりプレスハムを作り始めたのは1947年7月からで、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
    • [81]同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、プレスハムの特徴である畜肉の風味と香りがなくなり、みそくさかったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
    • [82]自分の会社だけがいくらいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部の人たちに集まってもらった
    • [83]プレスハムの製造で最も重要な温度管理、製造工程をくわしく説明し、自分で考案した氷水による水洗い技術をはじめプレスハム製造方法を全部公開した
    • [84]現金収入がとだえがちだった農村に畜産奨励という仕事ができ、全国各地の畜肉生産農家を巡回した。石油かんに100円札を詰めると一かんで50万円になり、その二かん100万円ずつを持って北は東北から南は四国、山陰まで歩いた
    • [85]当時はボンレス、ポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも物品税30%が課されていた
    • [86]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると考え、東京・大森の料亭で関東、関西の代表者が対策を練り、大蔵省の主税局で談判した
    • [87]1949年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され7月から実施、10%の物品税が残っていた単味品も翌1950年1月に全廃になった
    • [88]1948年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーと小売店の直販ルートにした。それまでは製品を問屋に卸すか仲買人に渡すのが普通だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [89]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われて自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があり、代理店を通さず直接小売店と取引することにした。その後、自社製品だけを売る小売店を集めて「伊藤ハム会」を結成した
創業ストーリー(6)

個人不動産の現物出資から市場第二部への上場

1948年6月、合名会社伊藤食品工業は伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した[90]。社員が育って妻子を持ち始め、経営者としての責任を強く感じたためだと伊藤傳三氏は述べている[91]。個人営業時代に坪160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町の本社用地2,000坪をはじめ、含みの大きい個人不動産を取得価格のまま会社へ移した[92]。この現物出資により、会社は始めから含み資産を抱えて出発し、工場拡大の資金調達で銀行の信頼を得やすかったと伊藤傳三氏は説明している[93]。改組時の資本金は300万円[94]。同じ1948年に自社の工場を再建した日本ハム創業者の大社義規氏は、当時の業界をすでに群雄割拠と見ており、伊藤傳三氏が終戦の翌年に神戸へ新工場を建てて京阪神の市場で先行していたと後年振り返っている[95]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1948年6月、伊藤栄養食品工業株式会社に改組
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [91]社員もだんだん育ち妻子を持つようになり、経営者として事業上の責任を痛感させられることが多くなった
    • [92]個人営業時代に坪約160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町本社の土地2,000坪(時価坪当り約50万円)を取得価格そのままで会社に移したほか、含みの大きい個人不動産を全部提供して株式会社組織に切替えた
    • [93]創立の始めから含み資産の大きい資力ある内容をもって出発することができ、工場拡大に要する資金調達に当たっても銀行の信頼度が非常に高かった
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
    • [94]株式会社組織として伊藤栄養食品㈱(資本金300万円)と改めた
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
    • [95]工場を再建した1948年当時のハム、ソーセージ業界はすでに群雄割拠の時代で、伊藤ハムの創業者伊藤傳三氏は終戦の翌年に神戸に新工場を建設するなど着々と京阪神での地盤を固めていた

1952年3月、神戸の中日本重工業で集団赤痢が発生し、患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した[96]。最初の新聞報道は社員食堂で出されたソーセージに疑いがあるとし、製造元として神戸の小泉商店の名を挙げた[97]。伊藤傳三氏は小泉商店の小泉武社長を呼んで事情を確かめたうえで、兵庫県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院にそのソーセージを持ち込んで再検査させ、記事を載せた新聞社に訂正を求めた[98]。当時の伊藤栄養食品工業の従業員は200人ほど、疑いをかけられた小泉商店は10人未満の規模で、役所や大企業に業界の立場を通すには自ら動くほかなかった[99]。赤痢の原因がソーセージではないと判明したのは、事件発生から数か月後である[100]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [96]1952年3月、神戸の中日本重工業(現三菱重工業)で神戸集団赤痢事件が起こり、赤痢患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した
    • [97]最初の新聞報道はソーセージに疑いがあるとし、中日本重工業の社員食堂で給食に出されたソーセージの製造元は神戸の小泉商店らしいというものだった
    • [98]小泉商店の小泉武社長を呼んで問いただしたうえで、県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院に小泉商店のソーセージを持ち込んで再検査させ、間違った記事を載せた新聞社に厳重抗議し訂正記事を要請した
    • [99]疑いをかけられた小泉商店はおそらく10人未満の規模、伊藤傳三氏の会社も大きいといっても200人ぐらいで、お役所や大企業に業界の立場をわからせるには命がけでかからなければ相手にされなかった
    • [100]赤痢事件の原因がソーセージではないことがはっきりしたのは事件発生後数カ月たったあとであった

伊藤栄養食品工業の売上高は1952年に1億6,000万円、1953年に2億5,000万円へ伸び、同業各社も設備増設を競った[101]。1953年には徳島ハム(現日本ハム)が神崎川へ、鳥清ハムが大阪・大国町へ、竹岸ハム(現プリマハム)が大阪市内へ、新工場を建てた[102]。伊藤傳三氏は西宮の用地を整地したまま関東進出を先に決め、2億3,900万円を投じて[103]1959年6月に東京都目黒区三田の目黒工場を完成させた[104]。原料肉が一巡すると包装まで終わる工程を自ら設計し[105]、兵庫県西宮市高畑町の西宮工場は1960年11月に操業へ入った[106]。1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変更し、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した[107]。同じ年に徳島ハム、竹岸ハム、鳥清ハムも上場し、食肉加工業界の成長性が注目を集めた[108]。上場した1961年2月期の売上高は36億2,000万円、税引後利益は約6,600万円だった[109]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [101]1952年は売り上げ1億6,000万円、1953年2億5,000万円と年率5割以上で伸び、ライバル業者の設備拡張の動きが強まって激しい増設合戦になった
    • [102]1953年、日本ハムの前身の徳島ハムが大阪と尼崎の中間にあたる神崎川のほとりに近代的なハム工場を完成させ、和歌山の鳥清ハムが大阪・大国町に進出して新工場を建設、現在のプリマハムの前身である竹岸ハムも大阪市内で新工場を建てた
    • [103]西宮工場建設予定地の看板をそのままにして東京進出を先に決め、当時の金で2億3,900万円をかけて目黒工場を建てた
    • [105]流れ作業の工程は原料肉が工場をひと回りすると包装まで全部完了し、レイアウトの設計も伊藤傳三氏自身がした。西宮工場は1960年11月3日に操業にこぎつけた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1959年6月、東京都目黒区三田に目黒工場を新設
    • [106]1960年11月、兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設
    • [107]1961年1月、伊藤ハム栄養食品に商号変更。1961年10月、東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
    • [108]食肉加工業界では徳島ハムと前後して竹岸ハム、伊藤ハム、鳥清ハムが轡を並べて上場し、業界の成長性が一躍脚光を浴びた
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [109]上場時の1961年2月期は売上高約36億2,000万円、税引後利益約6,600万円であった。伊藤傳三氏は1961年10月に東京、大阪両証券取引所市場第2部へ上場したと述べている
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1948年6月、伊藤栄養食品工業株式会社に改組
    • [104]1959年6月、東京都目黒区三田に目黒工場を新設
    • [106]1960年11月、兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設
    • [107]1961年1月、伊藤ハム栄養食品に商号変更。1961年10月、東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [91]社員もだんだん育ち妻子を持つようになり、経営者として事業上の責任を痛感させられることが多くなった
    • [92]個人営業時代に坪約160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町本社の土地2,000坪(時価坪当り約50万円)を取得価格そのままで会社に移したほか、含みの大きい個人不動産を全部提供して株式会社組織に切替えた
    • [93]創立の始めから含み資産の大きい資力ある内容をもって出発することができ、工場拡大に要する資金調達に当たっても銀行の信頼度が非常に高かった
    • [109]上場時の1961年2月期は売上高約36億2,000万円、税引後利益約6,600万円であった。伊藤傳三氏は1961年10月に東京、大阪両証券取引所市場第2部へ上場したと述べている
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
    • [94]株式会社組織として伊藤栄養食品㈱(資本金300万円)と改めた
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
    • [95]工場を再建した1948年当時のハム、ソーセージ業界はすでに群雄割拠の時代で、伊藤ハムの創業者伊藤傳三氏は終戦の翌年に神戸に新工場を建設するなど着々と京阪神での地盤を固めていた
    • [108]食肉加工業界では徳島ハムと前後して竹岸ハム、伊藤ハム、鳥清ハムが轡を並べて上場し、業界の成長性が一躍脚光を浴びた
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [96]1952年3月、神戸の中日本重工業(現三菱重工業)で神戸集団赤痢事件が起こり、赤痢患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した
    • [97]最初の新聞報道はソーセージに疑いがあるとし、中日本重工業の社員食堂で給食に出されたソーセージの製造元は神戸の小泉商店らしいというものだった
    • [98]小泉商店の小泉武社長を呼んで問いただしたうえで、県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院に小泉商店のソーセージを持ち込んで再検査させ、間違った記事を載せた新聞社に厳重抗議し訂正記事を要請した
    • [99]疑いをかけられた小泉商店はおそらく10人未満の規模、伊藤傳三氏の会社も大きいといっても200人ぐらいで、お役所や大企業に業界の立場をわからせるには命がけでかからなければ相手にされなかった
    • [100]赤痢事件の原因がソーセージではないことがはっきりしたのは事件発生後数カ月たったあとであった
    • [101]1952年は売り上げ1億6,000万円、1953年2億5,000万円と年率5割以上で伸び、ライバル業者の設備拡張の動きが強まって激しい増設合戦になった
    • [102]1953年、日本ハムの前身の徳島ハムが大阪と尼崎の中間にあたる神崎川のほとりに近代的なハム工場を完成させ、和歌山の鳥清ハムが大阪・大国町に進出して新工場を建設、現在のプリマハムの前身である竹岸ハムも大阪市内で新工場を建てた
    • [103]西宮工場建設予定地の看板をそのままにして東京進出を先に決め、当時の金で2億3,900万円をかけて目黒工場を建てた
    • [105]流れ作業の工程は原料肉が工場をひと回りすると包装まで全部完了し、レイアウトの設計も伊藤傳三氏自身がした。西宮工場は1960年11月3日に操業にこぎつけた

32人のハンストを抜け、マトンと直販網で取った加工肉首位

創業ストーリー(7)

14日間のハンストと重役による内紛

1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号を変え、神戸工場から西宮工場へ本拠を移した[110]。従業員は約1,300人、年商は約36億円[111]。その直後、西宮工場に総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた[112]。1962年11月には組合の幹部を中心とする32人が14日間のハンストに入り、報道は規模と長さの両方で日本最大と伝えた[113]。直接の原因は、夏のボーナス闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会とみなし、伊藤傳三社長が委員長・副委員長・書記長の3人を解雇処分にしたことにある[114]。労使双方が提訴し、裁判が長引くうちにハンストへ発展した[115]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [110]1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号変更し、1960年11月新設の西宮工場(兵庫県西宮市高畑町)へ移った
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [111]西宮工場移転時の従業員は約1,300人、年商は約36億円
    • [112]西宮工場移転後まもなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた
    • [113]1962年11月、西宮工場で組合幹部を中心とする32人が14日間のハンストを行い、報道は規模・長さとも日本最大と伝えた
    • [114]夏のボーナス闘争の集会を勤務時間に食い込む違法集会として、組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことがハンストの直接の原因
    • [115]労使とも提訴し、裁判が長引くうちにハンスト事件へ発展した

ハンストと並行して、組合は芦屋にある伊藤傳三社長の自宅前へデモをかけ、社員の首を切る社長と書いたビラを町中に貼った[116]。顧問弁護士は総評の関与を知って表に出ず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も人命にかかわる問題として早期の解決を求めてきた[117]。それでも伊藤傳三社長は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘で総評幹部との交渉を続けた[118]。決着は、ハンスト参加者を全国各地の営業所へばらばらに配転することと引き換えに、三役の解雇処分を取り消す案で付いた[119]。ハンストに入っていたのは組合幹部ばかりで、この配転により組合は中核を失った[120]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [116]組合はハンストと同時に芦屋の伊藤傳三氏の自宅へデモをかけ、「社員の首を切る社長」と書いたビラを町中に貼った
    • [117]顧問弁護士は総評の関与を知って出てこず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も早期解決を求めてきた
    • [118]伊藤傳三氏は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘(現芦屋ホテル)で総評幹部と交渉した
    • [119]ハンスト参加者を全国各地の営業所へ分散配転する代わりに三役の解雇処分を取り消す案で決着した
    • [120]ハンストの参加者は組合幹部が中心で、配転案に対し組合内では「組合がつぶれる」との反対が出た

同じ時期に、経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていた事実が表に出た[121]。この重役は営業・製造・経理の各部門で社員の多くを味方に付け、伊藤傳三社長と対立した[122]。組合と重役の双方を相手にした伊藤傳三社長は極度の神経衰弱に近い状態となり、夜も眠れない日が続いた[123]。争議で西宮工場が止まっていた1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設[124]。豊橋の生産は順調に上がり、西宮の不振を補った[125]。指導者を失った総評系組合は力を落とし、まもなく同盟系の第二組合と一本化した[126]。1963年半ばから業績は戻り、1963年度の売上高は58億円になった[127]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [121]経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていたことが争議の最中に発覚した
    • [122]この重役は営業・製造・経理部門の社員の多くを自分の側に付け、伊藤傳三氏と対立した
    • [123]伊藤傳三氏は争議と内紛の時期に極度の神経衰弱のようになり、夜も眠れないことがあった
    • [125]豊橋工場は西宮と異なり順調に生産が上がり、西宮の不振を補った
    • [126]指導者を失った総評系組合は急速に衰退し、同盟系の第二組合と一本化する方向へ転じた
    • [127]1963年半ばから立ち直り、1963年度の売上高は58億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [124]1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [110]1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号変更し、1960年11月新設の西宮工場(兵庫県西宮市高畑町)へ移った
    • [124]1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [111]西宮工場移転時の従業員は約1,300人、年商は約36億円
    • [112]西宮工場移転後まもなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた
    • [113]1962年11月、西宮工場で組合幹部を中心とする32人が14日間のハンストを行い、報道は規模・長さとも日本最大と伝えた
    • [114]夏のボーナス闘争の集会を勤務時間に食い込む違法集会として、組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことがハンストの直接の原因
    • [115]労使とも提訴し、裁判が長引くうちにハンスト事件へ発展した
    • [116]組合はハンストと同時に芦屋の伊藤傳三氏の自宅へデモをかけ、「社員の首を切る社長」と書いたビラを町中に貼った
    • [117]顧問弁護士は総評の関与を知って出てこず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も早期解決を求めてきた
    • [118]伊藤傳三氏は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘(現芦屋ホテル)で総評幹部と交渉した
    • [119]ハンスト参加者を全国各地の営業所へ分散配転する代わりに三役の解雇処分を取り消す案で決着した
    • [120]ハンストの参加者は組合幹部が中心で、配転案に対し組合内では「組合がつぶれる」との反対が出た
    • [121]経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていたことが争議の最中に発覚した
    • [122]この重役は営業・製造・経理部門の社員の多くを自分の側に付け、伊藤傳三氏と対立した
    • [123]伊藤傳三氏は争議と内紛の時期に極度の神経衰弱のようになり、夜も眠れないことがあった
    • [125]豊橋工場は西宮と異なり順調に生産が上がり、西宮の不振を補った
    • [126]指導者を失った総評系組合は急速に衰退し、同盟系の第二組合と一本化する方向へ転じた
    • [127]1963年半ばから立ち直り、1963年度の売上高は58億円
創業ストーリー(8)

マトン輸入と学校給食が支えた量産

1957年から1958年にかけて、米価の上昇で農家が豚の飼育から離れ、原料豚肉の入手が難しくなった[128]。伊藤傳三氏は原料不足を見越してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを輸入した[129]。同じ年の日本全体の輸入量は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハム栄養食品が使った[130]。マトンは脂肪分が多く独特のにおいを持つため、脂肪を分離して油脂会社へ売り、残った赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにかけた[131]。この処理を通したマトンは豚肉とよく結着し、プレスハムの主原料になった[132]。建設途上だった目黒工場は原料不足を免れ、豚肉が高騰してもハム・ソーセージは値上げせずに供給した[133]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [128]1957年から1958年ごろ、米価上昇で農家が豚の飼育に熱を入れなくなり、原料豚肉の入手が難しくなった
    • [129]伊藤傳三氏は原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究し、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを初めて輸入した
    • [130]1958年の日本全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使った
    • [131]マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売却し、赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにした
    • [132]処理したマトンは豚肉と混ぜると結着がよく、プレスハムの主原料に使われた
    • [133]建設途上の目黒工場はマトンがなければ原料なしになるところで、豚肉高騰のなかでもハム・ソーセージを値上げせずに済んだ

原料をマトンでつないだ伊藤ハム栄養食品は、西宮工場のオートメーション設備を高度成長期の需要に当てた[134]。1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校の給食に細長い『ポールウインナ』が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと迎えた[135]。売上高は1963年度の58億円から1965年度に100億円台へ乗り、1970年度は465億円へ伸びた[136]。当時の決算は2月期で、1966年2月期は売上高100億円、当期純利益3億円を計上した[137]。1967年7月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ指定替え[138]。翌1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場を建て、1971年11月には宮城県栗原郡高清水町に東北工場を置いた[139]。東北工場には東京工場の下請け加工を移し、住宅や工場の進出で豚の生産が減っていた首都圏の周辺を東北の畜産振興で補わせた[140]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [134]西宮工場のオートメーション設備が高度成長の上昇カーブと合い、ハム・ソーセージが量産の軌道に乗った
    • [135]1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校給食に「ポールウインナ」が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと歓迎した
    • [136]売上高は1963年度58億円、1965年度に100億円台を突破し、1970年度は465億円
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
    • [137]1966年2月期の売上高は100億円、営業利益8億円、経常利益6億円、当期純利益3億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [138]1967年7月に東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部へ指定された
    • [139]1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場、1971年11月に宮城県栗原郡高清水町へ東北工場を新設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [140]東北工場は東京工場の下請け加工を担い、東京工場周辺の豚の生産が住宅・工場の進出で減るのに対し東北の畜産振興で原料を確保する狙いだった

1965年までハム・ソーセージ一本で通していた伊藤ハム栄養食品は、生肉を他業者から仕入れる手間を訴える小売店の求めに応じ、西宮工場内へ生肉カット工場を建てた[141]。骨を抜いてすぐ切って売れるカット肉はデパートやスーパーマーケットの引き合いを集め、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた[142]。生肉を扱えば派生するくず肉を加工へ回せる利点も付いた[143]。ハム・ソーセージの製造で大量に出る細かな肉を高付加価値へ回すため、1972年には温めるだけで食べられるハンバーグを売り出した[144]。1974年2月には米国サンフランシスコのカリアニ・ソーセージ社を傘下に入れた[145]。1973年のハム・ソーセージ生産量は62,700トン・22.4%で首位に立ち、ハムとベーコンでは28.4%、ソーセージでは日本ハムの19.3%に次ぐ17.2%だった[146]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [141]1965年までハム・ソーセージ一本で通したが、小売店から生肉を他業者から仕入れる手間を訴えられ、西宮工場内に生肉カット工場を建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [142]骨を抜いてすぐ切って小売できるカット肉はデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターからの需要が増え、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた
    • [143]生肉を扱うと派生するくず肉を加工面に使用できる利点がある
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [144]ハム・ソーセージの製造過程で大量に発生する細かな肉の有効利用と高付加価値化のため、温めるだけで食べられるハンバーグを発売した。1972年にレトルト食品市場へ参入
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [145]1974年2月に米国のカリアニ・ソーセージ社を買収した
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」
    • [146]1973年のハム・ソーセージ企業別シェアは伊藤ハムが62,700トン・22.4%で1位、ハム(ベーコン・プレスハム)は36,900トン・28.4%で1位、ソーセージは25,800トン・17.2%で日本ハムの28,974トン・19.3%に次ぐ3位
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [128]1957年から1958年ごろ、米価上昇で農家が豚の飼育に熱を入れなくなり、原料豚肉の入手が難しくなった
    • [129]伊藤傳三氏は原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究し、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを初めて輸入した
    • [130]1958年の日本全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使った
    • [131]マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売却し、赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにした
    • [132]処理したマトンは豚肉と混ぜると結着がよく、プレスハムの主原料に使われた
    • [133]建設途上の目黒工場はマトンがなければ原料なしになるところで、豚肉高騰のなかでもハム・ソーセージを値上げせずに済んだ
    • [134]西宮工場のオートメーション設備が高度成長の上昇カーブと合い、ハム・ソーセージが量産の軌道に乗った
    • [135]1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校給食に「ポールウインナ」が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと歓迎した
    • [136]売上高は1963年度58億円、1965年度に100億円台を突破し、1970年度は465億円
    • [141]1965年までハム・ソーセージ一本で通したが、小売店から生肉を他業者から仕入れる手間を訴えられ、西宮工場内に生肉カット工場を建設した
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
    • [137]1966年2月期の売上高は100億円、営業利益8億円、経常利益6億円、当期純利益3億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [138]1967年7月に東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部へ指定された
    • [139]1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場、1971年11月に宮城県栗原郡高清水町へ東北工場を新設した
    • [145]1974年2月に米国のカリアニ・ソーセージ社を買収した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [140]東北工場は東京工場の下請け加工を担い、東京工場周辺の豚の生産が住宅・工場の進出で減るのに対し東北の畜産振興で原料を確保する狙いだった
    • [142]骨を抜いてすぐ切って小売できるカット肉はデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターからの需要が増え、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた
    • [143]生肉を扱うと派生するくず肉を加工面に使用できる利点がある
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [144]ハム・ソーセージの製造過程で大量に発生する細かな肉の有効利用と高付加価値化のため、温めるだけで食べられるハンバーグを発売した。1972年にレトルト食品市場へ参入
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」
    • [146]1973年のハム・ソーセージ企業別シェアは伊藤ハムが62,700トン・22.4%で1位、ハム(ベーコン・プレスハム)は36,900トン・28.4%で1位、ソーセージは25,800トン・17.2%で日本ハムの28,974トン・19.3%に次ぐ3位
創業ストーリー(9)

と畜場を持たない首位と同族経営への批判

売上高は1974年度に1,181億円へ伸びた[147]。石油ショック後の1975年2月期、伊藤ハム栄養食品は売上高で20%程度の増加を保ちながら税引利益を3%ほど減らした[148]。会社設立以来の減益はこの期だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率は3.8%と業界平均の2.7%を1.1ポイント上回った[149]。伊藤傳三社長は値ごろの大衆品に注力し、減益と引き換えに生産量では過去の記録を更新した[150]。石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて設備を入れ替えていたことも効いた[151]。1976年2月期の売上高は1,420億円、経常利益は62億円、税引利益は30億円余に達した[152]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [147]1974年度の売上高は1,181億円
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [148]1975年2月期は売上高で20%程度の増加をみたが、税引利益は3%ほど減少した
    • [150]不況下で大衆品に注力した結果、減益となったものの生産量はそれまでの記録を更新した
    • [151]石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて合理化・近代化した
    • [152]1976年2月期は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [149]減益決算は1974年度の1回だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率3.8%は当時の業界平均2.7%を1.1ポイント上回った

伊藤ハム栄養食品は代理店を通さず小売店と直接取引する方式を業界に先駆けて敷き、値をたたかれることと自社製品の売れ行きがつかめないことの両方を避けた[153]。自社製品だけを扱う小売店を集めた『伊藤ハム会』は、1979年に5,500店を抱え、毎年100店ずつ増えていた[154]。直販の網は全国3万5,000店ある精肉店のうち2万3,000店弱に及び、その3分の2を押さえた[155]。加工肉と食肉の大半を伊藤ハム栄養食品から仕入れる加入条件を課す一方、年4〜5回の研修会や包装資材の共同購入を用意した[156]。1970年4月には東京工場の中央研究所内に食肉技術学校を開き、伊藤傳三社長が校長として全寮制で年40人を教えた[157]。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で、2位の日本ハムの678億円を引き離した[158]

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [153]代理店経由では値をたたかれ自社製品の売れ行きも把握できないため、代理店を通さず小売店と直接取引に切り替えた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [154]「伊藤ハム会」の会員店は1979年時点で5,500店あり、毎年100店ずつ増えていた
    • [155]精肉店3万5,000店のうち約3分の2にあたる2万3,000店弱と取引していた
    • [156]伊藤ハム会は加工・食肉の大半を伊藤ハムから仕入れる加入条件を課し、年4〜5回の研修会や包装紙・輪ゴム・白衣などの共同購入を用意した
    • [158]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で首位、2位の日本ハムは678億円
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [157]1970年4月に東京工場の中央研究所内へ食肉技術学校を開設し、伊藤傳三氏が校長を務めた。全寮制で毎年40人を募集した

首位の内側には、原料を自前で握る仕組みの薄さが残った[159]日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工までを一貫して持ち、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くに達した[160]。伊藤ハム栄養食品も子会社で養豚と養鶏を手がけたが規模は小さく、と畜場の経営はゼロだった[161]。伊藤傳三社長は畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場には手を出さない方針を明言していた[162]。同族の持株比率は23%以上で、長男の伊藤研一氏が原料部門と経営全体、二男の伊藤協治氏が生産部門、三男の伊藤正視氏が営業部門を担い、社長夫人も取締役に名を連ねた[163]。役員会は月1回程度しか開かれず、と畜場に進出しないのは同族の好き嫌いによるとの批判が業界から出た[164]。1981年7月に伊藤研一氏が社長へ就き[165]、1984年6月には商号を伊藤ハムへ変えた[166]

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [159]畜肉の輸入自由化を迫る外圧が高まるなか、伊藤ハムの原料調達体制は心細いと評された
    • [160]日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工まで垂直的な一貫生産体制を敷き、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くを自社で担った
    • [161]伊藤ハムも子会社で養豚・養鶏を進めたが規模は日本ハムより小さく、畜殺場経営はゼロだった
    • [162]伊藤傳三氏は原則として畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場に手を出す気はないとの立場を貫いた
    • [163]伊藤一族の持株比率は23%以上。長男の伊藤研一専務が原料部門を中心に経営全体、二男の伊藤協治常務が生産部門、三男の伊藤正視常務が営業部門を担当し、社長夫人も取締役だった
    • [164]役員会は月1回程度しか開かれず、畜殺場経営をしないのは同族の一部の好き嫌いによるとの批判が業界から出ていた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [165]1981年7月に伊藤研一氏が代表取締役社長に就任した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [166]1984年6月に商号を伊藤ハムへ変更した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [147]1974年度の売上高は1,181億円
    • [157]1970年4月に東京工場の中央研究所内へ食肉技術学校を開設し、伊藤傳三氏が校長を務めた。全寮制で毎年40人を募集した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [148]1975年2月期は売上高で20%程度の増加をみたが、税引利益は3%ほど減少した
    • [150]不況下で大衆品に注力した結果、減益となったものの生産量はそれまでの記録を更新した
    • [151]石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて合理化・近代化した
    • [152]1976年2月期は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余
    • [153]代理店経由では値をたたかれ自社製品の売れ行きも把握できないため、代理店を通さず小売店と直接取引に切り替えた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [149]減益決算は1974年度の1回だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率3.8%は当時の業界平均2.7%を1.1ポイント上回った
    • [154]「伊藤ハム会」の会員店は1979年時点で5,500店あり、毎年100店ずつ増えていた
    • [155]精肉店3万5,000店のうち約3分の2にあたる2万3,000店弱と取引していた
    • [156]伊藤ハム会は加工・食肉の大半を伊藤ハムから仕入れる加入条件を課し、年4〜5回の研修会や包装紙・輪ゴム・白衣などの共同購入を用意した
    • [158]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で首位、2位の日本ハムは678億円
    • [159]畜肉の輸入自由化を迫る外圧が高まるなか、伊藤ハムの原料調達体制は心細いと評された
    • [160]日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工まで垂直的な一貫生産体制を敷き、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くを自社で担った
    • [161]伊藤ハムも子会社で養豚・養鶏を進めたが規模は日本ハムより小さく、畜殺場経営はゼロだった
    • [162]伊藤傳三氏は原則として畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場に手を出す気はないとの立場を貫いた
    • [163]伊藤一族の持株比率は23%以上。長男の伊藤研一専務が原料部門を中心に経営全体、二男の伊藤協治常務が生産部門、三男の伊藤正視常務が営業部門を担当し、社長夫人も取締役だった
    • [164]役員会は月1回程度しか開かれず、畜殺場経営をしないのは同族の一部の好き嫌いによるとの批判が業界から出ていた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [165]1981年7月に伊藤研一氏が代表取締役社長に就任した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [166]1984年6月に商号を伊藤ハムへ変更した

アルトバイエルンと創業家経営の終わり、米久との共同株式移転

創業ストーリー(10)

「ポークビッツ」と「アルトバイエルン」で保った国内2位

伊藤ハムは1984年6月に伊藤ハム栄養食品から伊藤ハムへ商号を変更した[167]。1981年7月に社長へ就いた伊藤研一社長の在任は、2002年まで20年を超えた[168]。この間に伊藤ハムが売り物にしたのは、加工技術を前面に出したブランド商品である。1988年に細身のウインナー『ポークビッツ』を発売し[169]、1989年12月には茨城県守谷市へ中央研究所を新設した[170]。1998年には創業70周年企画として『アルトバイエルン』を発売。

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [167]1984年6月に伊藤ハムへ商号変更
    • [169]1988年にポークビッツを発売
    • [170]1989年12月に茨城県守谷市へ中央研究所を新設
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [168]伊藤研一氏は1981年7月に代表取締役社長就任、2002年10月に代表取締役会長就任

伊藤ハムは加工の前段にある原料の調達にも資金を投じた。1991年に豪州で肥育場のロックデールフィードロットを開所し[171]、1993年6月には兵庫県神戸市東灘区へ六甲工場を新設した[172]。もっとも国内の生産拠点は絞り込みへ向かい、2004年3月に兵庫県西宮市の北神工場と愛知県豊橋市の豊橋加工センターを閉鎖した[173]。連結売上高4,656億円に対し経常利益23億円、当期純損失7億円だった2002年3月期から[174]、2004年3月期には経常利益82億円と3倍を超える水準へ戻した[175]。海外への進出も並行し、2005年1月には中国北京市に伊藤食品(北京)有限公司を設立し、同年3月には神戸市東灘区へ神戸工場を新設した[176]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [171]1991年に豪州でロックデールフィードロットを開所
    • [172]1993年6月に兵庫県神戸市東灘区へ六甲工場を新設
    • [173]2004年3月に北神工場と豊橋加工センターを閉鎖
    • [176]2005年1月に伊藤食品(北京)有限公司を設立、2005年3月に神戸工場を新設
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [174]2002年3月期の連結売上高4,656億円・経常利益23億円・当期純損失7億円
    • [175]2004年3月期の連結経常利益82億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [167]1984年6月に伊藤ハムへ商号変更
    • [169]1988年にポークビッツを発売
    • [170]1989年12月に茨城県守谷市へ中央研究所を新設
    • [171]1991年に豪州でロックデールフィードロットを開所
    • [172]1993年6月に兵庫県神戸市東灘区へ六甲工場を新設
    • [173]2004年3月に北神工場と豊橋加工センターを閉鎖
    • [176]2005年1月に伊藤食品(北京)有限公司を設立、2005年3月に神戸工場を新設
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [168]伊藤研一氏は1981年7月に代表取締役社長就任、2002年10月に代表取締役会長就任
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [174]2002年3月期の連結売上高4,656億円・経常利益23億円・当期純損失7億円
    • [175]2004年3月期の連結経常利益82億円
創業ストーリー(11)

差額関税事件の罰金3,000万円と創業家社長の退任

2006年3月期の連結売上高は5,173億円と前期を上回ったものの、経常損失25億円、当期純損失84億円へ落ち込んだ[177]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [177]2006年3月期の連結売上高5,173億円・経常損失25億円・当期純損失84億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [177]2006年3月期の連結売上高5,173億円・経常損失25億円・当期純損失84億円
創業ストーリー(12)

地下水のシアン化物検出と伊藤ハム米久ホールディングス

2008年3月期の連結売上高は5,180億円、経常利益は69億円、当期純利益は44億円となり、2期続いた最終赤字から黒字へ戻した[178]。その傍らで別の問題が起きた。

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [178]2008年3月期の連結売上高5,180億円・経常利益69億円・当期純利益44億円

2009年3月期は連結売上高4,871億円、経常損失9億円、当期純損失63億円を計上した[179]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [179]2009年3月期の連結売上高4,871億円・経常損失9億円・当期純損失63億円

伊藤ハムは2009年、三菱商事を割当先に3,700万株、発行価格325円の第三者割当増資を実施した。三菱商事出身の堀尾守氏が2009年6月に副社長として入り、2010年4月に社長へ就いた[180]。そこで原料と国内生産の拠点を整えるため、2013年9月には茨城県取手市へ取手工場を新設し、2015年3月にはニュージーランドのアンズコフーズの株式を追加取得して子会社化した[181]。2015年9月に米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結[182]。2016年3月29日に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止し、4月1日、米久との共同株式移転で設立された伊藤ハム米久ホールディングスの完全子会社となった[183]。2016年3月期の連結売上高は6,388億円だった[184]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [180]堀尾守氏は三菱商事出身。2009年6月に代表取締役副社長就任、2010年4月に代表取締役社長就任
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [181]2013年9月に取手工場を新設、2015年3月にアンズコフーズの株式を追加取得し子会社化
    • [182]2015年9月に米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結
    • [183]2016年3月に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止、2016年4月に米久との共同株式移転で伊藤ハム米久ホールディングスを設立
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [184]2016年3月期の連結売上高6,388億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
    • [178]2008年3月期の連結売上高5,180億円・経常利益69億円・当期純利益44億円
    • [179]2009年3月期の連結売上高4,871億円・経常損失9億円・当期純損失63億円
    • [184]2016年3月期の連結売上高6,388億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [180]堀尾守氏は三菱商事出身。2009年6月に代表取締役副社長就任、2010年4月に代表取締役社長就任
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [181]2013年9月に取手工場を新設、2015年3月にアンズコフーズの株式を追加取得し子会社化
    • [182]2015年9月に米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結
    • [183]2016年3月に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止、2016年4月に米久との共同株式移転で伊藤ハム米久ホールディングスを設立

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沿革年表 1928〜2016年

伊藤ハムの沿革1928〜2016年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1928〜1945年セロハンウインナーにたどり着くまでの失敗と戦時の代用原料伊藤傳三氏が大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業★★★
セロハンウインナー(現ポールウインナー)を開発★★
1946〜1961年さめ肉のニューソーセージからプレスハム技術の公開へ兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立★★
寄せハム(現プレスハム)を開発し大量生産に成功★★
伊藤栄養食品工業株式会社に改組★★
ハム・ソーセージの原料肉としてマトンの使用技術を開発★★
東京都目黒区三田に目黒工場を新設
兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設
伊藤ハム栄養食品に商号変更★★
東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場
1962〜1984年32人のハンストを抜け、マトンと直販網で取った加工肉首位愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設
乳製品市場に参入★★
東京証券取引所・大阪証券取引所市場第一部に指定
千葉県柏市根戸に東京工場を新設
宮城県栗原郡高清水町に東北工場を新設
レトルト食品市場に参入しハンバーグを発売★★
米国のカリアニ・ソーセージ社を買収★★
伊藤研一伊藤ハムに商号変更★★
1985〜2016年アルトバイエルンと創業家経営の終わり、米久との共同株式移転伊藤研一ポークビッツを発売
伊藤研一茨城県守谷市に中央研究所を新設
伊藤研一豪州でロックデールフィードロットを開所★★
伊藤研一兵庫県神戸市東灘区に六甲工場を新設
伊藤研一創業70周年企画としてアルトバイエルンを発売★★
兵庫県西宮市の北神工場と愛知県豊橋市の豊橋加工センターを閉鎖★★
中国北京市に伊藤食品(北京)有限公司を設立
兵庫県神戸市東灘区に神戸工場を新設
河西力ワイン事業から撤退★★
河西力東京工場の地下水汚染問題で製品を自主回収し工場を稼働停止★★★
河西力三菱商事・米久と包括業務提携契約を締結★★
河西力三菱商事を割当先とする第三者割当増資を実施★★
堀尾守茨城県取手市に取手工場を新設
堀尾守ニュージーランドのアンズコフーズの株式を追加取得し子会社化★★
堀尾守米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結★★
堀尾守東京証券取引所市場第一部の上場を廃止★★
柴山育朗米久との共同株式移転で伊藤ハム米久ホールディングスを設立★★★
出典・参考 11件
出典・参考
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」

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