伊藤傳三氏は1908年11月19日、三重県四日市市富田町の漁師町に生まれた[1]。父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たず、いりこやかつお節を三重から滋賀まで売り歩く海産物卸商となった[2]。1923年、その吉松は旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、伊藤傳三氏が高等小学校の高等科2年を卒業した年に死去した[3]。母のたねは行商に出て、伊藤傳三氏も掛け売りの集金に走り回った[4]。それでも、生前は知らされていなかった165円の借金は、母子の稼ぎで返せる額を超えていた[5]。1924年2月、15歳の伊藤傳三氏は母とともに、残った身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで大阪へ移った[6]。
大阪では、母の弟が営む傘の柄やステッキの卸商に身を寄せたのち、西区の海産物問屋へ丁稚として住み込んだ[7]。給料は月5、6円、休みは月1回で、1年余りで60キロ近い荷を運んで胸を痛め、肋膜炎で店を離れた[8]。全快後に入った2軒目の乾物問屋では魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭まで昇格した[9]。徴兵検査で第一補充兵となって兵役を免れた伊藤傳三氏は、独立するなら食品しかないと決め、休みのたびに梅田の阪急百貨店の食品売場へ通った[10]。誰が何を買うかを眺め、かまぼこやかん詰めの原料と製法と流通経路を調べた結果、主な食品は大手業者が押さえており、新参の入る余地はないとみた[11]。残ったのは、神戸の南京町や大阪の川口町で家内工業として作られ、鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていたハム・ソーセージだった[12]。
1928年、伊藤傳三氏は大阪市北区深田町で伊藤食品加工業を興した[13]。20歳で、資本金2,000円は母方の伯父2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金である[14]。食肉に踏み切る資金はなく、まず作ったのは魚粉を混ぜた海苔の佃煮で、『汐の華』と名付けた[15]。朝食に佃煮が欠かせない時代で売れ行きは伸び、1年で店員7、8人・女工20人の所帯になった[16]。ところが世界恐慌が波及すると、佃煮は製造コストを下回る値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した[17]。伊藤傳三氏は従業員20人近くの再就職先を一つずつ回って決め、大口債権者には債務の25%を返して残りを免除してもらい、無一文になった[18]。同年夏に大阪を離れて東京へ移り、山谷の木賃宿を振り出しに、青物市場の店員や氷の配達で2年を過ごした[19]。
東京で200円ほどを蓄えた伊藤傳三氏は1932年に大阪へ帰ったが、創業を援助した伯父から疎まれ、神戸に移った[20]。灘区篠原本町に家を借りて母のたねを引き取ったものの、たねは同年5月27日に62歳で死去した[21]。その直前に決まった縁談で、伊藤傳三氏は郷里富田町の商家である伊藤金作の長女きぬゑ氏を妻に迎えた[22]。夫婦は葺合区琴緒町へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターを入れた[23]。1度目の独立が借金経営で潰れたため、こんどは手元の資金で始められる魚肉ソーセージを選んだ[24]。かまぼこ用のはもやにべを中央市場から仕入れ、においを抜くラードと味の素・砂糖・こしょうで味を付け、畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で阪急・大丸へ卸した[25]。
ところが納入から間もなく返品が続き、原因は包装にあった[26]。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗し、ケーシングに使っていたが、乾燥すると腸の小穴から水気が漏れてバクテリアが繁殖した[27]。百貨店が代金を払うのは売れた分だけで、残りはすべて工場へ戻ってきた[28]。伊藤傳三氏は返品と不良品をリヤカーに積み、真夜中の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた[29]。百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月を研究に費やした[30]。兵庫県の衛生試験所と図書館へ通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら、次に作る製品を考えた[31]。
研究で突き止めたのは、原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が抜けるか傷むかは温度管理で決まる点である[32]。温度管理さえ習得すれば、冷蔵設備を自社で持たずに他所の冷蔵庫を借りて足りる[33]。もう一つが熟成で、水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、塩が肉繊維に浸透して繊維質がくずれ、味覚と栄養を保ったまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊になる[34]。この過程が完全なら、異質の原料どうしも結着する[35]。1934年、伊藤傳三氏はこの技術でセロハンウインナーを完成させた[36]。原料は豚肉85〜90%と兎肉10〜15%、包装は捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、筒状の袋に貼った[37]。1本10匁を5銭で神戸市内の飲食店やバー、カフェーへ卸すと、太さも重さもそろって店の勘定が合い、袋貼りを担う妻のきぬゑ氏の手も足りないほど売れた[38]。工場の資金は5円券と10円券の引換券を刷って前金で集めた[39]。
1938年4月6日、数え5歳の長男の仁氏が神戸市灘区大和町の踏切で電車にはねられ、三日三晩の後に息を引き取った[40]。その3か月後の7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・石屋川などが決壊した[41]。伊藤傳三氏は石屋川の決壊口へ駆けつけて消防団と土のうを積んだが、水勢を止められなかった[42]。工場そのものは壊れなかったものの、復旧に日数がかかり、商売は打撃を受けた[43]。日中戦争下で統制が進み、食肉加工業者は組合に入らなければ豚肉の配給を一片も受けられなくなる[44]。伊藤傳三氏は静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取と四国4県の産地を歩いて原料豚肉を買い付けた[45]。
1943年に入ると統制はさらに厳しくなり、地方での原料集めもできなくなった[46]。そこで伊藤傳三氏が原料にしたのが、統制の枠外にあるさめといるかである[47]。北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、これらを混ぜて肉製品に近いソーセージを作った[48]。難所は魚のにおいで、1932年からの魚肉ソーセージで積んだ経験が生きた[49]。普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度とするが、魚肉は90度まで上げるとにおいが抜ける[50]。同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったのに対し、伊藤傳三氏の工場はアンモニアの中和と脱臭を施していた[51]。満州の国境警備向けに毛皮用の飼育が奨励されて余っていた兎肉も加え、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした[52]。
製品は大阪の物価局の検査を受け、原料と製法から公定価格を決められた[53]。戦局が進むとハム・ソーセージを作ること自体が価格違反にあたるため、伊藤傳三氏はハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけ、統制の枠から外れる半製品に変えた[54]。それでも原料の違反を疑われて1943年2月に神戸市の灘署へ出頭し、嫌疑が晴れるまでに46日かかった[55]。警察は気仙沼・太地・室戸岬へ調査官を送ったが、出てきたのは統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した1件の罰金1,200円で決着した[56]。伊藤傳三氏は工場を閉鎖して1943年9月に営業を止め、神戸市東灘区本山の東芝電気の工場へ資材係として勤めた[57]。1945年6月5日の神戸大空襲では、至近弾の破片が右腕と右の大腿部を貫き、伊藤傳三氏は川へ飛び込んで難を逃れた[58]。
伊藤傳三氏が疎開先から神戸へ戻ったのは1945年9月初めで、市街の大半は焼けていた[59]。東灘区の住宅管理会社にいた知人の世話で灘区宮前通りの貸家を借り、雨戸も畳もない2階建ての1階を工場に充てた[60]。原料の当てがないまま長田区の中央市場をのぞくと、大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だったが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭のため買い手がつかなかった[61]。伊藤傳三氏は戦時中に魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に定め、妻とともに焼け跡からレンガを拾って自分で釜を築き、前の工場跡から掘り出した錆びたミンチ釜を磨いて据え付けた[62]。でんぷんは岐阜の業者から貨車1両分を取り寄せ、赤い着色剤は大阪道修町、ケーシング用のセロハンは大阪心斎橋で買い集めた[63]。
さめ肉のソーセージで最も苦心したのは熟成と脱臭だった。魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩漬けにし、これを熱湯に入れて90度ほどで煮る[64]。魚肉は水分が多く、ラードと合わせる加減を誤れば脂が固まって腐敗する。火をたきながら水を加える間合いは、試作の反復でつかんだ[65]。1946年4月3日に戦後最初の魚肉ソーセージを完成させ、『ニューソーセージ』と名付けて同月7日から発売した。伊藤傳三氏はこの日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と定めたと述べている[66]。近所の小売店4、5軒に置いたところ即座に売り切れ、発売から3か月後の7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を建て、製造能力を100倍に伸ばした[67]。資本金19万5,000円[68]の合名会社伊藤食品工業が、この新工場で操業に入った[69]。
原料と資材の割り当ての元締めは兵庫県庁で、伊藤食品工業は県の『重要民需産業』の指定を受けた[70]。製品は公定価格に置かれ、生産量の7割を家庭配給に回し、残る3割を自由販売した[71]。自由販売は100匁28円で卸したものを小売店が35円で売り、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしたため利幅は自由販売のほうが大きかったが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に置いた[72]。電力事情が悪く工場は肝心なときに停電したので、兵庫県知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが終夜点灯している事実を挙げて送電を求め、割り当てを得た[73]。窓に暗幕を吊るして操業したところ、女子従業員の残業に労働基準監督署の指摘が入り、婦人30人ほどが自ら監督署へ出向いて操業の継続を認めさせた[74]。工場では子供を抱える戦争未亡人を優先して採用した[75]。
1947年秋ごろまで魚肉のニューソーセージが主力製品の座を占めた[76]。1948年に入ると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、量は国民全体からみれば微々たるもので、ボンレスハムやロースハムといった単味品はなお一部の人の贅沢品にとどまった[77]。わずかな豚肉から大量の加工食品を作るには、においの強い馬肉や山羊肉の脱臭と脱血が要る[78]。においを取るには生肉を徹底して水洗いすればよいが、その過程で肉がむれ、鮮度が落ちる。伊藤傳三氏は氷水で洗う装置を工夫し、氷水による水洗いという脱臭法で畜肉の寄せハムを開発した[79]。寄せハムの製造は1947年7月に始め、1948年には魚肉をやめて原料を全面的に畜肉へ切り替えた[80]。
同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、畜肉の風味と香りが失われ、みそくさかったり色が黒ずんだりと、品質にばらつきが出た[81]。伊藤傳三氏は、自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体の評価が下がると考え、同業者の技術部門の幹部を集めた[82]。プレスハム製造でもっとも重要な温度管理と製造工程を細かく説明し、自ら考案した氷水による水洗いを含む製造方法を全部公開した[83]。プレスハムの普及は農村にも及んだ。現金収入が細っていた畜産農家に副業として畜産を勧め、石油缶に100円札を詰めて1缶50万円、2缶ずつを携え、北は東北から南は四国、山陰まで巡回した[84]。
ハム・ソーセージには物品税が課され、寄せハムにも30%がかかっていた[85]。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムへの課税を誤りとみて、東京・大森の料亭で関東と関西の代表が対策を練ったのち、大蔵省主税局で撤廃を求めた[86]。1949年6月11日にプレスハムの課税撤廃が決まって7月から実施され、10%が残っていた単味品も1950年1月に全廃された[87]。販路も同じ時期に組み替えた。1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、問屋卸と仲買を通さず、メーカーと小売店が直接取引する直販ルートを敷いた[88]。代理店経由では値を叩かれ、他社製品と一緒に扱われるため自社製品の売れ行きもつかめなかったからで、のちに自社製品だけを扱う小売店を集めて伊藤ハム会を結成した[89]。
1948年6月、合名会社伊藤食品工業は伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した[90]。社員が育って妻子を持ち始め、経営者としての責任を強く感じたためだと伊藤傳三氏は述べている[91]。個人営業時代に坪160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町の本社用地2,000坪をはじめ、含みの大きい個人不動産を取得価格のまま会社へ移した[92]。この現物出資により、会社は始めから含み資産を抱えて出発し、工場拡大の資金調達で銀行の信頼を得やすかったと伊藤傳三氏は説明している[93]。改組時の資本金は300万円[94]。同じ1948年に自社の工場を再建した日本ハム創業者の大社義規氏は、当時の業界をすでに群雄割拠と見ており、伊藤傳三氏が終戦の翌年に神戸へ新工場を建てて京阪神の市場で先行していたと後年振り返っている[95]。
1952年3月、神戸の中日本重工業で集団赤痢が発生し、患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した[96]。最初の新聞報道は社員食堂で出されたソーセージに疑いがあるとし、製造元として神戸の小泉商店の名を挙げた[97]。伊藤傳三氏は小泉商店の小泉武社長を呼んで事情を確かめたうえで、兵庫県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院にそのソーセージを持ち込んで再検査させ、記事を載せた新聞社に訂正を求めた[98]。当時の伊藤栄養食品工業の従業員は200人ほど、疑いをかけられた小泉商店は10人未満の規模で、役所や大企業に業界の立場を通すには自ら動くほかなかった[99]。赤痢の原因がソーセージではないと判明したのは、事件発生から数か月後である[100]。
伊藤栄養食品工業の売上高は1952年に1億6,000万円、1953年に2億5,000万円へ伸び、同業各社も設備増設を競った[101]。1953年には徳島ハム(現日本ハム)が神崎川へ、鳥清ハムが大阪・大国町へ、竹岸ハム(現プリマハム)が大阪市内へ、新工場を建てた[102]。伊藤傳三氏は西宮の用地を整地したまま関東進出を先に決め、2億3,900万円を投じて[103]1959年6月に東京都目黒区三田の目黒工場を完成させた[104]。原料肉が一巡すると包装まで終わる工程を自ら設計し[105]、兵庫県西宮市高畑町の西宮工場は1960年11月に操業へ入った[106]。1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変更し、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した[107]。同じ年に徳島ハム、竹岸ハム、鳥清ハムも上場し、食肉加工業界の成長性が注目を集めた[108]。上場した1961年2月期の売上高は36億2,000万円、税引後利益は約6,600万円だった[109]。
1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号を変え、神戸工場から西宮工場へ本拠を移した[110]。従業員は約1,300人、年商は約36億円[111]。その直後、西宮工場に総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた[112]。1962年11月には組合の幹部を中心とする32人が14日間のハンストに入り、報道は規模と長さの両方で日本最大と伝えた[113]。直接の原因は、夏のボーナス闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会とみなし、伊藤傳三社長が委員長・副委員長・書記長の3人を解雇処分にしたことにある[114]。労使双方が提訴し、裁判が長引くうちにハンストへ発展した[115]。
ハンストと並行して、組合は芦屋にある伊藤傳三社長の自宅前へデモをかけ、社員の首を切る社長と書いたビラを町中に貼った[116]。顧問弁護士は総評の関与を知って表に出ず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も人命にかかわる問題として早期の解決を求めてきた[117]。それでも伊藤傳三社長は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘で総評幹部との交渉を続けた[118]。決着は、ハンスト参加者を全国各地の営業所へばらばらに配転することと引き換えに、三役の解雇処分を取り消す案で付いた[119]。ハンストに入っていたのは組合幹部ばかりで、この配転により組合は中核を失った[120]。
同じ時期に、経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていた事実が表に出た[121]。この重役は営業・製造・経理の各部門で社員の多くを味方に付け、伊藤傳三社長と対立した[122]。組合と重役の双方を相手にした伊藤傳三社長は極度の神経衰弱に近い状態となり、夜も眠れない日が続いた[123]。争議で西宮工場が止まっていた1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設[124]。豊橋の生産は順調に上がり、西宮の不振を補った[125]。指導者を失った総評系組合は力を落とし、まもなく同盟系の第二組合と一本化した[126]。1963年半ばから業績は戻り、1963年度の売上高は58億円になった[127]。
1957年から1958年にかけて、米価の上昇で農家が豚の飼育から離れ、原料豚肉の入手が難しくなった[128]。伊藤傳三氏は原料不足を見越してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを輸入した[129]。同じ年の日本全体の輸入量は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハム栄養食品が使った[130]。マトンは脂肪分が多く独特のにおいを持つため、脂肪を分離して油脂会社へ売り、残った赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにかけた[131]。この処理を通したマトンは豚肉とよく結着し、プレスハムの主原料になった[132]。建設途上だった目黒工場は原料不足を免れ、豚肉が高騰してもハム・ソーセージは値上げせずに供給した[133]。
原料をマトンでつないだ伊藤ハム栄養食品は、西宮工場のオートメーション設備を高度成長期の需要に当てた[134]。1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校の給食に細長い『ポールウインナ』が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと迎えた[135]。売上高は1963年度の58億円から1965年度に100億円台へ乗り、1970年度は465億円へ伸びた[136]。当時の決算は2月期で、1966年2月期は売上高100億円、当期純利益3億円を計上した[137]。1967年7月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ指定替え[138]。翌1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場を建て、1971年11月には宮城県栗原郡高清水町に東北工場を置いた[139]。東北工場には東京工場の下請け加工を移し、住宅や工場の進出で豚の生産が減っていた首都圏の周辺を東北の畜産振興で補わせた[140]。
1965年までハム・ソーセージ一本で通していた伊藤ハム栄養食品は、生肉を他業者から仕入れる手間を訴える小売店の求めに応じ、西宮工場内へ生肉カット工場を建てた[141]。骨を抜いてすぐ切って売れるカット肉はデパートやスーパーマーケットの引き合いを集め、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた[142]。生肉を扱えば派生するくず肉を加工へ回せる利点も付いた[143]。ハム・ソーセージの製造で大量に出る細かな肉を高付加価値へ回すため、1972年には温めるだけで食べられるハンバーグを売り出した[144]。1974年2月には米国サンフランシスコのカリアニ・ソーセージ社を傘下に入れた[145]。1973年のハム・ソーセージ生産量は62,700トン・22.4%で首位に立ち、ハムとベーコンでは28.4%、ソーセージでは日本ハムの19.3%に次ぐ17.2%だった[146]。
売上高は1974年度に1,181億円へ伸びた[147]。石油ショック後の1975年2月期、伊藤ハム栄養食品は売上高で20%程度の増加を保ちながら税引利益を3%ほど減らした[148]。会社設立以来の減益はこの期だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率は3.8%と業界平均の2.7%を1.1ポイント上回った[149]。伊藤傳三社長は値ごろの大衆品に注力し、減益と引き換えに生産量では過去の記録を更新した[150]。石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて設備を入れ替えていたことも効いた[151]。1976年2月期の売上高は1,420億円、経常利益は62億円、税引利益は30億円余に達した[152]。
伊藤ハム栄養食品は代理店を通さず小売店と直接取引する方式を業界に先駆けて敷き、値をたたかれることと自社製品の売れ行きがつかめないことの両方を避けた[153]。自社製品だけを扱う小売店を集めた『伊藤ハム会』は、1979年に5,500店を抱え、毎年100店ずつ増えていた[154]。直販の網は全国3万5,000店ある精肉店のうち2万3,000店弱に及び、その3分の2を押さえた[155]。加工肉と食肉の大半を伊藤ハム栄養食品から仕入れる加入条件を課す一方、年4〜5回の研修会や包装資材の共同購入を用意した[156]。1970年4月には東京工場の中央研究所内に食肉技術学校を開き、伊藤傳三社長が校長として全寮制で年40人を教えた[157]。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で、2位の日本ハムの678億円を引き離した[158]。
首位の内側には、原料を自前で握る仕組みの薄さが残った[159]。日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工までを一貫して持ち、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くに達した[160]。伊藤ハム栄養食品も子会社で養豚と養鶏を手がけたが規模は小さく、と畜場の経営はゼロだった[161]。伊藤傳三社長は畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場には手を出さない方針を明言していた[162]。同族の持株比率は23%以上で、長男の伊藤研一氏が原料部門と経営全体、二男の伊藤協治氏が生産部門、三男の伊藤正視氏が営業部門を担い、社長夫人も取締役に名を連ねた[163]。役員会は月1回程度しか開かれず、と畜場に進出しないのは同族の好き嫌いによるとの批判が業界から出た[164]。1981年7月に伊藤研一氏が社長へ就き[165]、1984年6月には商号を伊藤ハムへ変えた[166]。
伊藤ハムは1984年6月に伊藤ハム栄養食品から伊藤ハムへ商号を変更した[167]。1981年7月に社長へ就いた伊藤研一社長の在任は、2002年まで20年を超えた[168]。この間に伊藤ハムが売り物にしたのは、加工技術を前面に出したブランド商品である。1988年に細身のウインナー『ポークビッツ』を発売し[169]、1989年12月には茨城県守谷市へ中央研究所を新設した[170]。1998年には創業70周年企画として『アルトバイエルン』を発売。
伊藤ハムは加工の前段にある原料の調達にも資金を投じた。1991年に豪州で肥育場のロックデールフィードロットを開所し[171]、1993年6月には兵庫県神戸市東灘区へ六甲工場を新設した[172]。もっとも国内の生産拠点は絞り込みへ向かい、2004年3月に兵庫県西宮市の北神工場と愛知県豊橋市の豊橋加工センターを閉鎖した[173]。連結売上高4,656億円に対し経常利益23億円、当期純損失7億円だった2002年3月期から[174]、2004年3月期には経常利益82億円と3倍を超える水準へ戻した[175]。海外への進出も並行し、2005年1月には中国北京市に伊藤食品(北京)有限公司を設立し、同年3月には神戸市東灘区へ神戸工場を新設した[176]。
2006年3月期の連結売上高は5,173億円と前期を上回ったものの、経常損失25億円、当期純損失84億円へ落ち込んだ[177]。
2008年3月期の連結売上高は5,180億円、経常利益は69億円、当期純利益は44億円となり、2期続いた最終赤字から黒字へ戻した[178]。その傍らで別の問題が起きた。
2009年3月期は連結売上高4,871億円、経常損失9億円、当期純損失63億円を計上した[179]。
伊藤ハムは2009年、三菱商事を割当先に3,700万株、発行価格325円の第三者割当増資を実施した。三菱商事出身の堀尾守氏が2009年6月に副社長として入り、2010年4月に社長へ就いた[180]。そこで原料と国内生産の拠点を整えるため、2013年9月には茨城県取手市へ取手工場を新設し、2015年3月にはニュージーランドのアンズコフーズの株式を追加取得して子会社化した[181]。2015年9月に米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結[182]。2016年3月29日に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止し、4月1日、米久との共同株式移転で設立された伊藤ハム米久ホールディングスの完全子会社となった[183]。2016年3月期の連結売上高は6,388億円だった[184]。
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|---|---|---|---|---|
| 1928〜1945年セロハンウインナーにたどり着くまでの失敗と戦時の代用原料 | 伊藤傳三氏が大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業 | ★★★ | ||
| セロハンウインナー(現ポールウインナー)を開発 | ★★ | |||
| 1946〜1961年さめ肉のニューソーセージからプレスハム技術の公開へ | 兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立 | ★★ | ||
| 寄せハム(現プレスハム)を開発し大量生産に成功 | ★★ | |||
| 伊藤栄養食品工業株式会社に改組 | ★★ | |||
| ハム・ソーセージの原料肉としてマトンの使用技術を開発 | ★★ | |||
| 東京都目黒区三田に目黒工場を新設 | ★ | |||
| 兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設 | ★ | |||
| 伊藤ハム栄養食品に商号変更 | ★★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場 | ★ | |||
| 1962〜1984年32人のハンストを抜け、マトンと直販網で取った加工肉首位 | 愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設 | ★ | ||
| 乳製品市場に参入 | ★★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 千葉県柏市根戸に東京工場を新設 | ★ | |||
| 宮城県栗原郡高清水町に東北工場を新設 | ★ | |||
| レトルト食品市場に参入しハンバーグを発売 | ★★ | |||
| 米国のカリアニ・ソーセージ社を買収 | ★★ | |||
| 伊藤研一 | 伊藤ハムに商号変更 | ★★ | ||
| 1985〜2016年アルトバイエルンと創業家経営の終わり、米久との共同株式移転 | 伊藤研一 | ポークビッツを発売 | ★ | |
| 伊藤研一 | 茨城県守谷市に中央研究所を新設 | ★ | ||
| 伊藤研一 | 豪州でロックデールフィードロットを開所 | ★★ | ||
| 伊藤研一 | 兵庫県神戸市東灘区に六甲工場を新設 | ★ | ||
| 伊藤研一 | 創業70周年企画としてアルトバイエルンを発売 | ★★ | ||
| 兵庫県西宮市の北神工場と愛知県豊橋市の豊橋加工センターを閉鎖 | ★★ | |||
| 中国北京市に伊藤食品(北京)有限公司を設立 | ★ | |||
| 兵庫県神戸市東灘区に神戸工場を新設 | ★ | |||
| 河西力 | ワイン事業から撤退 | ★★ | ||
| 河西力 | 東京工場の地下水汚染問題で製品を自主回収し工場を稼働停止 | ★★★ | ||
| 河西力 | 三菱商事・米久と包括業務提携契約を締結 | ★★ | ||
| 河西力 | 三菱商事を割当先とする第三者割当増資を実施 | ★★ | ||
| 堀尾守 | 茨城県取手市に取手工場を新設 | ★ | ||
| 堀尾守 | ニュージーランドのアンズコフーズの株式を追加取得し子会社化 | ★★ | ||
| 堀尾守 | 米久と共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結 | ★★ | ||
| 堀尾守 | 東京証券取引所市場第一部の上場を廃止 | ★★ | ||
| 柴山育朗 | 米久との共同株式移転で伊藤ハム米久ホールディングスを設立 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(伊藤ハム)