第3章 年〜年

伊藤ハム:マトンと直販網による加工肉首位への到達

1962年〜14日間のハンストと重役による内紛

1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号を変更し、神戸工場から西宮工場へ本拠を移した。従業員は約1,300人、年商は約36億円。その直後、西宮工場に総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた。1962年11月には組合の幹部を中心とする32人が14日間のハンストに入り、報道は規模と長さの両方で日本最大と伝えた。直接の原因は、夏のボーナス闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会とみなし、伊藤傳三社長が委員長・副委員長・書記長の3人を解雇処分にしたことにある。労使双方が提訴し、裁判が長引くうちにハンストへ発展した。

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号変更し、1960年11月新設の西宮工場(兵庫県西宮市高畑町)へ移った
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [2]西宮工場移転時の従業員は約1,300人、年商は約36億円
    • [3]西宮工場移転後まもなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた
    • [4]1962年11月、西宮工場で組合幹部を中心とする32人が14日間のハンストを行い、報道は規模・長さとも日本最大と伝えた
    • [5]夏のボーナス闘争の集会を勤務時間に食い込む違法集会として、組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことがハンストの直接の原因
    • [6]労使とも提訴し、裁判が長引くうちにハンスト事件へ発展した

ハンストと並行して、組合は芦屋にある伊藤傳三社長の自宅前へデモをかけ、社員の首を切る社長と書いたビラを町中に貼った。顧問弁護士は総評の関与を知って表に出ず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も人命にかかわる問題として早期の解決を求めてきた。それでも伊藤傳三社長は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘で総評幹部との交渉を続けた。決着は、ハンスト参加者を全国各地の営業所へばらばらに配転することと引き換えに、三役の解雇処分を取り消す案で付いた。ハンストに入っていたのは組合幹部ばかりで、この配転により組合は中核を失った。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [7]組合はハンストと同時に芦屋の伊藤傳三氏の自宅へデモをかけ、「社員の首を切る社長」と書いたビラを町中に貼った
    • [8]顧問弁護士は総評の関与を知って出てこず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も早期解決を求めてきた
    • [9]伊藤傳三氏は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘(現芦屋ホテル)で総評幹部と交渉した
    • [10]ハンスト参加者を全国各地の営業所へ分散配転する代わりに三役の解雇処分を取り消す案で決着した
    • [11]ハンストの参加者は組合幹部が中心で、配転案に対し組合内では「組合がつぶれる」との反対が出た

同じ時期に、経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていた事実が表に出た。この重役は営業・製造・経理の各部門で社員の多くを味方に付け、伊藤傳三社長と対立した。組合と重役の双方を相手にした伊藤傳三社長は極度の神経衰弱に近い状態となり、夜も眠れない日が続いた。争議で西宮工場が止まっていた1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設。豊橋の生産は順調に上がり、西宮の不振を補った。指導者を失った総評系組合は力を落とし、まもなく同盟系の第二組合と一本化した。1963年半ばから業績は戻り、1963年度の売上高は58億円になった。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [12]経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていたことが争議の最中に発覚した
    • [13]この重役は営業・製造・経理部門の社員の多くを自分の側に付け、伊藤傳三氏と対立した
    • [14]伊藤傳三氏は争議と内紛の時期に極度の神経衰弱のようになり、夜も眠れないことがあった
    • [16]豊橋工場は西宮と異なり順調に生産が上がり、西宮の不振を補った
    • [17]指導者を失った総評系組合は急速に衰退し、同盟系の第二組合と一本化する方向へ転じた
    • [18]1963年半ばから立ち直り、1963年度の売上高は58億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設した
参考文献[1]-[18]
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1961年1月に伊藤ハム栄養食品へ商号変更し、1960年11月新設の西宮工場(兵庫県西宮市高畑町)へ移った
    • [15]1962年6月、愛知県豊橋市藤並町に豊橋工場を新設した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [2]西宮工場移転時の従業員は約1,300人、年商は約36億円
    • [3]西宮工場移転後まもなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争のたびにストライキが起きた
    • [4]1962年11月、西宮工場で組合幹部を中心とする32人が14日間のハンストを行い、報道は規模・長さとも日本最大と伝えた
    • [5]夏のボーナス闘争の集会を勤務時間に食い込む違法集会として、組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことがハンストの直接の原因
    • [6]労使とも提訴し、裁判が長引くうちにハンスト事件へ発展した
    • [7]組合はハンストと同時に芦屋の伊藤傳三氏の自宅へデモをかけ、「社員の首を切る社長」と書いたビラを町中に貼った
    • [8]顧問弁護士は総評の関与を知って出てこず、周囲は妥協を勧め、西宮警察署長も早期解決を求めてきた
    • [9]伊藤傳三氏は解雇処分を撤回せず、芦屋の清風荘(現芦屋ホテル)で総評幹部と交渉した
    • [10]ハンスト参加者を全国各地の営業所へ分散配転する代わりに三役の解雇処分を取り消す案で決着した
    • [11]ハンストの参加者は組合幹部が中心で、配転案に対し組合内では「組合がつぶれる」との反対が出た
    • [12]経営全般を任せていた重役が組合幹部を抱き込み、陰で組合を操っていたことが争議の最中に発覚した
    • [13]この重役は営業・製造・経理部門の社員の多くを自分の側に付け、伊藤傳三氏と対立した
    • [14]伊藤傳三氏は争議と内紛の時期に極度の神経衰弱のようになり、夜も眠れないことがあった
    • [16]豊橋工場は西宮と異なり順調に生産が上がり、西宮の不振を補った
    • [17]指導者を失った総評系組合は急速に衰退し、同盟系の第二組合と一本化する方向へ転じた
    • [18]1963年半ばから立ち直り、1963年度の売上高は58億円

1965年〜マトン輸入と学校給食が支えた量産

1957年から1958年にかけて、米価の上昇で農家が豚の飼育から離れ、原料豚肉の入手が難しくなった。伊藤傳三氏は原料不足を見越してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを輸入した。同じ年の日本全体の輸入量は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハム栄養食品が使った。マトンは脂肪分が多く独特のにおいを持つため、脂肪を分離して油脂会社へ売り、残った赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにかけた。この処理を通したマトンは豚肉とよく結着し、プレスハムの主原料になった。建設途上だった目黒工場は原料不足を免れ、豚肉が高騰してもハム・ソーセージは値上げせずに供給した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [19]1957年から1958年ごろ、米価上昇で農家が豚の飼育に熱を入れなくなり、原料豚肉の入手が難しくなった
    • [20]伊藤傳三氏は原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究し、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを初めて輸入した
    • [21]1958年の日本全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使った
    • [22]マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売却し、赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにした
    • [23]処理したマトンは豚肉と混ぜると結着がよく、プレスハムの主原料に使われた
    • [24]建設途上の目黒工場はマトンがなければ原料なしになるところで、豚肉高騰のなかでもハム・ソーセージを値上げせずに済んだ

原料をマトンでつないだ伊藤ハム栄養食品は、西宮工場のオートメーション設備を高度成長期の需要に当てた。1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校の給食に細長い"ポールウインナ"が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと迎えた。売上高は1963年度の58億円から1965年度に100億円台へ乗り、1970年度は465億円へ伸びた。当時の決算は2月期で、1966年2月期は売上高100億円、当期純利益3億円を計上した。1967年7月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ指定替え。翌1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場を建設し、1971年11月には宮城県栗原郡高清水町に東北工場を置いた。東北工場には東京工場の下請け加工を移し、住宅や工場の進出で豚の生産が減っていた首都圏の周辺を東北の畜産振興で補わせた。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [25]西宮工場のオートメーション設備が高度成長の上昇カーブと合い、ハム・ソーセージが量産の軌道に乗った
    • [26]1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校給食に「ポールウインナ」が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと歓迎した
    • [27]売上高は1963年度58億円、1965年度に100億円台を突破し、1970年度は465億円
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
    • [28]1966年2月期の売上高は100億円、営業利益8億円、経常利益6億円、当期純利益3億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1967年7月に東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部へ指定された
    • [30]1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場、1971年11月に宮城県栗原郡高清水町へ東北工場を新設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [31]東北工場は東京工場の下請け加工を担い、東京工場周辺の豚の生産が住宅・工場の進出で減るのに対し東北の畜産振興で原料を確保する狙いだった

1965年までハム・ソーセージ一本で通していた伊藤ハム栄養食品は、生肉を他業者から仕入れる手間を訴える小売店の求めに応じ、西宮工場内へ生肉カット工場を建設した。生肉を扱うと副産物としてくず肉が出るが、それを加工の原料に回せるという利点があった。骨を外してすぐに切り売りできるカット肉には、デパートやスーパーマーケットから注文が相次いだ。1972年2月期の売上高のうち、生肉は47〜48%に達していた。一方、ハム・ソーセージの製造では細かな肉が大量に出るため、その付加価値を高める手として1972年に温めればすぐ口にできるハンバーグを発売した。1973年のハム・ソーセージ生産量は62,700トンでシェア22.4%となり、首位に立った。品目別ではハムとベーコンが28.4%、ソーセージは日本ハムの19.3%に次ぐ17.2%だった。1974年2月には米国サンフランシスコのカリアニ・ソーセージ社を傘下に収めた。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [32]1965年までハム・ソーセージ一本で通したが、小売店から生肉を他業者から仕入れる手間を訴えられ、西宮工場内に生肉カット工場を建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [33]生肉を扱うと派生するくず肉を加工面に使用できる利点がある
    • [34]骨を抜いてすぐ切って小売できるカット肉はデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターからの需要が増え、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [35]ハム・ソーセージの製造過程で大量に発生する細かな肉の有効利用と高付加価値化のため、温めるだけで食べられるハンバーグを発売した。1972年にレトルト食品市場へ参入
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」
    • [36]1973年のハム・ソーセージ企業別シェアは伊藤ハムが62,700トン・22.4%で1位、ハム(ベーコン・プレスハム)は36,900トン・28.4%で1位、ソーセージは25,800トン・17.2%で日本ハムの28,974トン・19.3%に次ぐ3位
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1974年2月に米国のカリアニ・ソーセージ社を買収した
参考文献[19]-[37]
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [19]1957年から1958年ごろ、米価上昇で農家が豚の飼育に熱を入れなくなり、原料豚肉の入手が難しくなった
    • [20]伊藤傳三氏は原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究し、1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを初めて輸入した
    • [21]1958年の日本全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使った
    • [22]マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売却し、赤身を氷水で洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩づけにした
    • [23]処理したマトンは豚肉と混ぜると結着がよく、プレスハムの主原料に使われた
    • [24]建設途上の目黒工場はマトンがなければ原料なしになるところで、豚肉高騰のなかでもハム・ソーセージを値上げせずに済んだ
    • [25]西宮工場のオートメーション設備が高度成長の上昇カーブと合い、ハム・ソーセージが量産の軌道に乗った
    • [26]1965年以降、近畿各府県から全国各地の小学校給食に「ポールウインナ」が採用され、給食係の教員は1本ずつ配れて衛生的だと歓迎した
    • [27]売上高は1963年度58億円、1965年度に100億円台を突破し、1970年度は465億円
    • [32]1965年までハム・ソーセージ一本で通したが、小売店から生肉を他業者から仕入れる手間を訴えられ、西宮工場内に生肉カット工場を建設した
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
    • [28]1966年2月期の売上高は100億円、営業利益8億円、経常利益6億円、当期純利益3億円
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1967年7月に東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部へ指定された
    • [30]1968年5月に千葉県柏市根戸へ東京工場、1971年11月に宮城県栗原郡高清水町へ東北工場を新設した
    • [37]1974年2月に米国のカリアニ・ソーセージ社を買収した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
    • [31]東北工場は東京工場の下請け加工を担い、東京工場周辺の豚の生産が住宅・工場の進出で減るのに対し東北の畜産振興で原料を確保する狙いだった
    • [33]生肉を扱うと派生するくず肉を加工面に使用できる利点がある
    • [34]骨を抜いてすぐ切って小売できるカット肉はデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターからの需要が増え、1972年2月期には生肉が売上高の47〜48%を占めた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [35]ハム・ソーセージの製造過程で大量に発生する細かな肉の有効利用と高付加価値化のため、温めるだけで食べられるハンバーグを発売した。1972年にレトルト食品市場へ参入
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」
    • [36]1973年のハム・ソーセージ企業別シェアは伊藤ハムが62,700トン・22.4%で1位、ハム(ベーコン・プレスハム)は36,900トン・28.4%で1位、ソーセージは25,800トン・17.2%で日本ハムの28,974トン・19.3%に次ぐ3位

1974年〜と畜場を持たない首位と同族経営への批判

売上高は1974年度に1,181億円へ伸びた。石油ショック後の1975年2月期、伊藤ハム栄養食品は売上高で20%程度の増加を保ちながら税引利益を3%ほど減らした。会社設立以来の減益はこの期だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率は3.8%と業界平均の2.7%を1.1ポイント上回った。伊藤傳三社長は値ごろの大衆品に注力し、減益と引き換えに生産量では過去の記録を更新した。石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて設備を入れ替えていたことも効いた。1976年2月期の売上高は1,420億円、経常利益は62億円、税引利益は30億円余に達した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [38]1974年度の売上高は1,181億円
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [39]1975年2月期は売上高で20%程度の増加をみたが、税引利益は3%ほど減少した
    • [41]不況下で大衆品に注力した結果、減益となったものの生産量はそれまでの記録を更新した
    • [42]石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて合理化・近代化した
    • [43]1976年2月期は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [40]減益決算は1974年度の1回だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率3.8%は当時の業界平均2.7%を1.1ポイント上回った

伊藤ハム栄養食品は代理店を通さず小売店と直接取引する方式を業界に先駆けて敷き、値をたたかれることと自社製品の売れ行きがつかめないことの両方を避けた。自社製品だけを扱う小売店を集めた"伊藤ハム会"は、1979年に5,500店を抱え、毎年100店ずつ増えていた。直販の網は全国3万5,000店ある精肉店のうち2万3,000店弱に及び、その3分の2を押さえた。加工肉と食肉の大半を伊藤ハム栄養食品から仕入れる加入条件を課す一方、年4〜5回の研修会や包装資材の共同購入を用意した。1970年4月には東京工場の中央研究所内に食肉技術学校を開設し、伊藤傳三社長が校長として全寮制で年40人を教えた。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で、2位の日本ハムの678億円を引き離した。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [44]代理店経由では値をたたかれ自社製品の売れ行きも把握できないため、代理店を通さず小売店と直接取引に切り替えた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [45]「伊藤ハム会」の会員店は1979年時点で5,500店あり、毎年100店ずつ増えていた
    • [46]精肉店3万5,000店のうち約3分の2にあたる2万3,000店弱と取引していた
    • [47]伊藤ハム会は加工・食肉の大半を伊藤ハムから仕入れる加入条件を課し、年4〜5回の研修会や包装紙・輪ゴム・白衣などの共同購入を用意した
    • [49]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で首位、2位の日本ハムは678億円
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [48]1970年4月に東京工場の中央研究所内へ食肉技術学校を開設し、伊藤傳三氏が校長を務めた。全寮制で毎年40人を募集した

首位の内側には、原料を自前で握る仕組みの薄さが残った。日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工までを一貫して持ち、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くに達した。伊藤ハム栄養食品も子会社で養豚と養鶏を手がけたが規模は小さく、と畜場の経営はゼロだった。伊藤傳三社長は畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場には手を出さない方針を明言していた。同族の持株比率は23%以上で、長男の伊藤研一氏が原料部門と経営全体、二男の伊藤協治氏が生産部門、三男の伊藤正視氏が営業部門を担い、社長夫人も取締役に名を連ねた。役員会は月1回程度しか開かれず、と畜場へ進出しないのは同族の一部の好き嫌いだという批判が業界から出た。1981年7月に伊藤研一氏が社長へ就任し、1984年6月には商号を伊藤ハムへ変えた。

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [50]畜肉の輸入自由化を迫る外圧が高まるなか、伊藤ハムの原料調達体制は心細いと評された
    • [51]日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工まで垂直的な一貫生産体制を敷き、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くを自社で担った
    • [52]伊藤ハムも子会社で養豚・養鶏を進めたが規模は日本ハムより小さく、畜殺場経営はゼロだった
    • [53]伊藤傳三氏は原則として畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場に手を出す気はないとの立場を貫いた
    • [54]伊藤一族の持株比率は23%以上。長男の伊藤研一専務が原料部門を中心に経営全体、二男の伊藤協治常務が生産部門、三男の伊藤正視常務が営業部門を担当し、社長夫人も取締役だった
    • [55]役員会は月1回程度しか開かれず、畜殺場経営をしないのは同族の一部の好き嫌いによるとの批判が業界から出ていた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [56]1981年7月に伊藤研一氏が代表取締役社長に就任した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1984年6月に商号を伊藤ハムへ変更した
参考文献[38]-[57]
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [38]1974年度の売上高は1,181億円
    • [48]1970年4月に東京工場の中央研究所内へ食肉技術学校を開設し、伊藤傳三氏が校長を務めた。全寮制で毎年40人を募集した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [39]1975年2月期は売上高で20%程度の増加をみたが、税引利益は3%ほど減少した
    • [41]不況下で大衆品に注力した結果、減益となったものの生産量はそれまでの記録を更新した
    • [42]石油ショックまでの2〜3年間に九州・西宮・豊橋・東京・東北の各工場へ総額100億円を投じて合理化・近代化した
    • [43]1976年2月期は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余
    • [44]代理店経由では値をたたかれ自社製品の売れ行きも把握できないため、代理店を通さず小売店と直接取引に切り替えた
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [40]減益決算は1974年度の1回だけで、減益幅は3.3%、売上高経常利益率3.8%は当時の業界平均2.7%を1.1ポイント上回った
    • [45]「伊藤ハム会」の会員店は1979年時点で5,500店あり、毎年100店ずつ増えていた
    • [46]精肉店3万5,000店のうち約3分の2にあたる2万3,000店弱と取引していた
    • [47]伊藤ハム会は加工・食肉の大半を伊藤ハムから仕入れる加入条件を課し、年4〜5回の研修会や包装紙・輪ゴム・白衣などの共同購入を用意した
    • [49]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で首位、2位の日本ハムは678億円
    • [50]畜肉の輸入自由化を迫る外圧が高まるなか、伊藤ハムの原料調達体制は心細いと評された
    • [51]日本ハムは養豚・養鶏から畜殺、生肉加工まで垂直的な一貫生産体制を敷き、養豚は国内調達量の10%以上、畜殺は全供給量の半数近くを自社で担った
    • [52]伊藤ハムも子会社で養豚・養鶏を進めたが規模は日本ハムより小さく、畜殺場経営はゼロだった
    • [53]伊藤傳三氏は原則として畜殺場の経営を他社に任せ、生肉の相場に手を出す気はないとの立場を貫いた
    • [54]伊藤一族の持株比率は23%以上。長男の伊藤研一専務が原料部門を中心に経営全体、二男の伊藤協治常務が生産部門、三男の伊藤正視常務が営業部門を担当し、社長夫人も取締役だった
    • [55]役員会は月1回程度しか開かれず、畜殺場経営をしないのは同族の一部の好き嫌いによるとの批判が業界から出ていた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
    • [56]1981年7月に伊藤研一氏が代表取締役社長に就任した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1984年6月に商号を伊藤ハムへ変更した

1962年〜1984年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年02月期 単体 58 n/a n/a n/a 2 3.4% n/a
1965年02月期 単体 73 +25.9% n/a n/a 2 2.7% n/a
1966年02月期 単体 100 +37.0% 8 6 3 3.0% n/a
1967年02月期 単体 137 +37.0% n/a n/a 4 2.9% n/a
1968年02月期 単体 190 +38.7% n/a n/a 5 2.6% n/a
1969年02月期 単体 271 +42.6% 14 9 5 1.8% n/a
1970年02月期 単体 356 +31.4% 20 13 7 2.0% n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1980年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1981年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1983年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1984年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【役員の状況】
  • 伊藤ハム 会社年鑑(1967年版・1971年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
  • 日本マーケットシェア事典「ハム・ソーセージ」

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