伊藤ハム:さめ肉のニューソーセージからプレスハム技術の公開へ
1946年〜焼け跡の自作釜で製造したさめ肉のニューソーセージ
伊藤傳三氏が疎開先から神戸へ戻ったのは1945年9月初めで、市街の大半は焼けていた。東灘区の住宅管理会社にいた知人の世話で灘区宮前通りの貸家を借り、雨戸も畳もない2階建ての1階を工場に充てた。原料の当てがないまま長田区の中央市場をのぞくと、大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だったが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭のため買い手がつかなかった。伊藤傳三氏は戦時中に魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に定め、妻とともに焼け跡からレンガを拾って自分で釜を築き、前の工場跡から掘り出した錆びたミンチ釜を磨いて据え付けた。でんぷんは岐阜の業者から貨車1両分を取り寄せ、赤い着色剤は大阪道修町、ケーシング用のセロハンは大阪心斎橋で買い集めた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [1]伊藤傳三氏が神戸に帰ったのは終戦の年の9月初めで、神戸の街は大半が焼けていた
- [2]東灘区の住宅管理会社にいる知人の世話で灘区宮前通りの二階家を借り、住居の一階を工場に充てた。雨戸も畳もない家だった
- [3]神戸市長田区の中央市場に大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭で買い手がなかった
- [4]戦争中にも魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に決め、家内と二人で焼け跡からレンガを拾い集めて自分で釜をつくり、前の工場跡から掘り出した赤くさびたミンチ釜を磨いて据え付けた
- [5]でんぷんは岐阜の業者に頼んで一貨車分を送ってもらい、大阪道修町でチャコと呼んでいた赤い着色剤を、大阪心斎橋でケーシングに使うセロハンを買い付けた
さめ肉のソーセージで最も苦心したのは熟成と脱臭だった。魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩漬けにし、これを熱湯に入れて90度ほどで煮る。魚肉は水分が多く、ラードと合わせる加減を誤れば脂が固まって腐敗する。火をたきながら水を加える間合いは、試作の反復でつかんだ。1946年4月3日に戦後最初の魚肉ソーセージを完成させ、"ニューソーセージ"と名付けて同月7日から発売した。伊藤傳三氏はこの日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と定めた。近所の小売店4、5軒に置いたところ即座に売り切れ、発売から3か月後の7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を建設し、製造能力を100倍に伸ばした。資本金19万5,000円の合名会社伊藤食品工業が、この新工場で操業に入った。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [6]さめ肉のソーセージで一番苦心したのは熟成と脱臭で、魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩づけし、熱湯に入れて90度ぐらいの高温で煮た
- [7]魚肉は水分が多くラードと合わせるときラードが固まり腐敗する心配があり、火をたきながら水を加えるタイミングは試作を何回も繰り返してコツをつかんだ
- [8]1946年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成、「ニューソーセージ」と命名して同月7日から発売し、この日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と決めている
- [9]製品は近所の小売店4、5軒に出したところ即座に売り切れ、発売後3カ月の7月末に神戸市灘区備後町へ敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍になった
- [10]新工場とともに「伊藤食品工業」が資本金19万5,000円で復興した
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [11]1946年4月、兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立
原料と資材の割り当ての元締めは兵庫県庁で、伊藤食品工業は県の"重要民需産業"の指定を受けた。製品は公定価格に置かれ、生産量の7割を家庭配給に回し、残る3割を自由販売した。自由販売は100匁28円で卸したものを小売店が35円で売り、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしたため利幅は自由販売のほうが大きかったが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に置いた。電力事情が悪く工場は肝心なときに停電したので、兵庫県知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが終夜点灯している事実を挙げて送電を求め、割り当てを得た。窓に暗幕を吊るして操業したところ、女子従業員の残業に労働基準監督署の指摘が入り、婦人30人ほどが自ら監督署へ出向いて操業の継続を認めさせた。工場では子供を抱える戦争未亡人を優先して採用した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [12]まだ統制時代で原料・資材の元締めは兵庫県庁であり、伊藤傳三氏の会社は県の「重要民需産業」の指定を受けた
- [13]物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売した
- [14]自由販売だと100匁28円で卸したものを小売店は35円で販売し、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしていたが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に考えた
- [15]電力事情が悪く工場でも肝心なときに停電したため知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが四六時中点灯している事情を挙げて電力を回すよう求め、工場に電力を回してもらえるようになった
- [16]窓という窓に暗幕をつるして操業したことが労働基準監督署の目にとまり、女子従業員の残業にクレームがついたが、婦人たち自ら30人ばかりが監督署に出向いて懇請したため当局も折れた
- [17]工場に戦争未亡人を採用し、子供を2、3人抱えている未亡人に優先的に働いてもらうことにした
参考文献[1]-[17]
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [1]伊藤傳三氏が神戸に帰ったのは終戦の年の9月初めで、神戸の街は大半が焼けていた
- [2]東灘区の住宅管理会社にいる知人の世話で灘区宮前通りの二階家を借り、住居の一階を工場に充てた。雨戸も畳もない家だった
- [3]神戸市長田区の中央市場に大量のさめが並んでいた。まぐろやかじきは統制品だが、さめは統制外で、鼻をつく悪臭で買い手がなかった
- [4]戦争中にも魚肉でソーセージを作った経験からさめを原料に決め、家内と二人で焼け跡からレンガを拾い集めて自分で釜をつくり、前の工場跡から掘り出した赤くさびたミンチ釜を磨いて据え付けた
- [5]でんぷんは岐阜の業者に頼んで一貨車分を送ってもらい、大阪道修町でチャコと呼んでいた赤い着色剤を、大阪心斎橋でケーシングに使うセロハンを買い付けた
- [6]さめ肉のソーセージで一番苦心したのは熟成と脱臭で、魚肉に酸性の食用油を浸ませ、でんぷんで固めてラードと合わせて塩づけし、熱湯に入れて90度ぐらいの高温で煮た
- [7]魚肉は水分が多くラードと合わせるときラードが固まり腐敗する心配があり、火をたきながら水を加えるタイミングは試作を何回も繰り返してコツをつかんだ
- [8]1946年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成、「ニューソーセージ」と命名して同月7日から発売し、この日を伊藤ハム栄養食品の復興創業日と決めている
- [9]製品は近所の小売店4、5軒に出したところ即座に売り切れ、発売後3カ月の7月末に神戸市灘区備後町へ敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍になった
- [10]新工場とともに「伊藤食品工業」が資本金19万5,000円で復興した
- [12]まだ統制時代で原料・資材の元締めは兵庫県庁であり、伊藤傳三氏の会社は県の「重要民需産業」の指定を受けた
- [13]物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売した
- [14]自由販売だと100匁28円で卸したものを小売店は35円で販売し、家庭配給は23円で卸して28円で小売りしていたが、伊藤傳三氏は家庭配給を中心に考えた
- [15]電力事情が悪く工場でも肝心なときに停電したため知事に直談判し、六甲の山手の進駐軍ハイツが四六時中点灯している事情を挙げて電力を回すよう求め、工場に電力を回してもらえるようになった
- [16]窓という窓に暗幕をつるして操業したことが労働基準監督署の目にとまり、女子従業員の残業にクレームがついたが、婦人たち自ら30人ばかりが監督署に出向いて懇請したため当局も折れた
- [17]工場に戦争未亡人を採用し、子供を2、3人抱えている未亡人に優先的に働いてもらうことにした
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [11]1946年4月、兵庫県神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立
1947年〜プレスハム製造技術の全面公開と問屋を通さない直販
1947年秋ごろまで魚肉のニューソーセージが主力製品の座を占めた。1948年に入ると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、量は国民全体からみれば微々たるもので、ボンレスハムやロースハムといった単味品はなお一部の人の贅沢品にとどまった。わずかな豚肉から大量の加工食品を作るには、においの強い馬肉や山羊肉の脱臭と脱血が要る。においを取るには生肉を徹底して水洗いすればよいが、その過程で肉がむれ、鮮度が落ちる。伊藤傳三氏は氷水で洗う装置を工夫し、氷水による水洗いという脱臭法で畜肉の寄せハムを開発した。寄せハムの製造は1947年7月に始め、1948年には魚肉をやめて原料を全面的に畜肉へ切り替えた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [18]魚肉の「ニューソーセージ」は1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
- [19]1948年にはいると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、豚肉は国民全体からみれば微々たる量で、ボンレスハム、ロースハム、ベーコンといった単味品はひとにぎりの人のぜいたく品にすぎなかった
- [20]わずかの豚肉を利用して大量のおいしい加工食品を生み出す最大のポイントは脱臭、脱血の技術で、馬肉、山羊肉はにおいがきつくハムソーセージにはほとんど使われていなかった
- [21]においをとるには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度が落ちるため、氷水による水洗いという脱臭法に成功し、畜肉の寄せハムを開発した
- [22]雑肉を原料にした寄せハム、つまりプレスハムを作り始めたのは1947年7月からで、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、畜肉の風味と香りが失われ、みそくさかったり色が黒ずんだりと、品質にばらつきが出た。伊藤傳三氏は、自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体の評価が下がると考え、同業者の技術部門の幹部を集めた。プレスハム製造でもっとも重要な温度管理と製造工程を細かく説明し、自ら考案した氷水による水洗いを含む製造方法を全部公開した。プレスハムの普及は農村にも及んだ。現金収入が細っていた畜産農家に副業として畜産を勧め、石油缶に100円札を詰めて1缶50万円、2缶ずつを携え、北は東北から南は四国、山陰まで巡回した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [23]同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、プレスハムの特徴である畜肉の風味と香りがなくなり、みそくさかったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
- [24]自分の会社だけがいくらいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部の人たちに集まってもらった
- [25]プレスハムの製造で最も重要な温度管理、製造工程をくわしく説明し、自分で考案した氷水による水洗い技術をはじめプレスハム製造方法を全部公開した
- [26]現金収入がとだえがちだった農村に畜産奨励という仕事ができ、全国各地の畜肉生産農家を巡回した。石油かんに100円札を詰めると一かんで50万円になり、その二かん100万円ずつを持って北は東北から南は四国、山陰まで歩いた
ハム・ソーセージには物品税が課され、寄せハムにも30%がかかっていた。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムへの課税を誤りとみて、東京・大森の料亭で関東と関西の代表が対策を練ったのち、大蔵省主税局で撤廃を求めた。1949年6月11日にプレスハムの課税撤廃が決まって7月から実施され、10%が残っていた単味品も1950年1月に全廃された。販路も同じ時期に組み替えた。1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を開設し、問屋卸と仲買を通さず、メーカーと小売店が直接取引する直販ルートを敷いた。代理店経由では値を叩かれ、他社製品と一緒に扱われるため自社製品の売れ行きもつかめなかったからで、のちに自社製品だけを扱う小売店を集めて伊藤ハム会を結成した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [27]当時はボンレス、ポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも物品税30%が課されていた
- [28]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると考え、東京・大森の料亭で関東、関西の代表者が対策を練り、大蔵省の主税局で談判した
- [29]1949年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され7月から実施、10%の物品税が残っていた単味品も翌1950年1月に全廃になった
- [30]1948年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーと小売店の直販ルートにした。それまでは製品を問屋に卸すか仲買人に渡すのが普通だった
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [31]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われて自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があり、代理店を通さず直接小売店と取引することにした。その後、自社製品だけを売る小売店を集めて「伊藤ハム会」を結成した
参考文献[18]-[31]
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [18]魚肉の「ニューソーセージ」は1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
- [19]1948年にはいると豚肉のほか兎肉、子牛、山羊肉、馬肉が少しずつ出回ったが、豚肉は国民全体からみれば微々たる量で、ボンレスハム、ロースハム、ベーコンといった単味品はひとにぎりの人のぜいたく品にすぎなかった
- [20]わずかの豚肉を利用して大量のおいしい加工食品を生み出す最大のポイントは脱臭、脱血の技術で、馬肉、山羊肉はにおいがきつくハムソーセージにはほとんど使われていなかった
- [21]においをとるには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度が落ちるため、氷水による水洗いという脱臭法に成功し、畜肉の寄せハムを開発した
- [22]雑肉を原料にした寄せハム、つまりプレスハムを作り始めたのは1947年7月からで、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
- [23]同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、プレスハムの特徴である畜肉の風味と香りがなくなり、みそくさかったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
- [24]自分の会社だけがいくらいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部の人たちに集まってもらった
- [25]プレスハムの製造で最も重要な温度管理、製造工程をくわしく説明し、自分で考案した氷水による水洗い技術をはじめプレスハム製造方法を全部公開した
- [26]現金収入がとだえがちだった農村に畜産奨励という仕事ができ、全国各地の畜肉生産農家を巡回した。石油かんに100円札を詰めると一かんで50万円になり、その二かん100万円ずつを持って北は東北から南は四国、山陰まで歩いた
- [27]当時はボンレス、ポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも物品税30%が課されていた
- [28]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると考え、東京・大森の料亭で関東、関西の代表者が対策を練り、大蔵省の主税局で談判した
- [29]1949年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され7月から実施、10%の物品税が残っていた単味品も翌1950年1月に全廃になった
- [30]1948年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーと小売店の直販ルートにした。それまでは製品を問屋に卸すか仲買人に渡すのが普通だった
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [31]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われて自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があり、代理店を通さず直接小売店と取引することにした。その後、自社製品だけを売る小売店を集めて「伊藤ハム会」を結成した
1948年〜個人不動産の現物出資から市場第二部への上場
1948年6月、合名会社伊藤食品工業は伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した。社員が育って妻子を持ち始め、経営者としての責任を強く感じたためだと伊藤傳三氏は述べている。個人営業時代に坪160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町の本社用地2,000坪をはじめ、含みの大きい個人不動産を取得価格のまま会社へ移した。この現物出資により、会社は始めから含み資産を抱えて出発し、工場拡大の資金調達で銀行の信頼を得やすかったと伊藤傳三氏は説明している。改組時の資本金は300万円。同じ1948年に自社の工場を再建した日本ハム創業者の大社義規氏は、当時の業界をすでに群雄割拠と見ており、伊藤傳三氏が終戦の翌年に神戸へ新工場を建設して京阪神の市場で先行していたと後年振り返っている。
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [32]1948年6月、伊藤栄養食品工業株式会社に改組
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
- [33]社員もだんだん育ち妻子を持つようになり、経営者として事業上の責任を痛感させられることが多くなった
- [34]個人営業時代に坪約160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町本社の土地2,000坪(時価坪当り約50万円)を取得価格そのままで会社に移したほか、含みの大きい個人不動産を全部提供して株式会社組織に切替えた
- [35]創立の始めから含み資産の大きい資力ある内容をもって出発することができ、工場拡大に要する資金調達に当たっても銀行の信頼度が非常に高かった
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- [36]株式会社組織として伊藤栄養食品㈱(資本金300万円)と改めた
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
- [37]工場を再建した1948年当時のハム、ソーセージ業界はすでに群雄割拠の時代で、伊藤ハムの創業者伊藤傳三氏は終戦の翌年に神戸に新工場を建設するなど着々と京阪神での地盤を固めていた
1952年3月、神戸の中日本重工業で集団赤痢が発生し、患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した。最初の新聞報道は社員食堂で出されたソーセージに疑いがあるとし、製造元として神戸の小泉商店の名を挙げた。伊藤傳三氏は小泉商店の小泉武社長を呼んで事情を確かめたうえで、兵庫県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院にそのソーセージを持ち込んで再検査させ、記事を載せた新聞社に訂正を求めた。当時の伊藤栄養食品工業の従業員は200人ほど、疑いをかけられた小泉商店は10人未満の規模で、役所や大企業に業界の立場を通すには自ら動くほかなかった。赤痢の原因がソーセージではないと判明したのは、事件発生から数か月後である。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [38]1952年3月、神戸の中日本重工業(現三菱重工業)で神戸集団赤痢事件が起こり、赤痢患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した
- [39]最初の新聞報道はソーセージに疑いがあるとし、中日本重工業の社員食堂で給食に出されたソーセージの製造元は神戸の小泉商店らしいというものだった
- [40]小泉商店の小泉武社長を呼んで問いただしたうえで、県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院に小泉商店のソーセージを持ち込んで再検査させ、間違った記事を載せた新聞社に厳重抗議し訂正記事を要請した
- [41]疑いをかけられた小泉商店はおそらく10人未満の規模、伊藤傳三氏の会社も大きいといっても200人ぐらいで、お役所や大企業に業界の立場をわからせるには命がけでかからなければ相手にされなかった
- [42]赤痢事件の原因がソーセージではないことがはっきりしたのは事件発生後数カ月たったあとであった
伊藤栄養食品工業の売上高は1952年に1億6,000万円、1953年に2億5,000万円へ伸び、同業各社も設備増設を競った。1953年には徳島ハム(現日本ハム)が神崎川へ、鳥清ハムが大阪・大国町へ、竹岸ハム(現プリマハム)が大阪市内へ、新工場を建設した。伊藤傳三氏は西宮の用地を整地したまま関東進出を先に決め、2億3,900万円を投じて1959年6月に東京都目黒区三田の目黒工場を完成させた。原料肉が一巡すると包装まで終わる工程を自ら設計し、兵庫県西宮市高畑町の西宮工場は1960年11月に操業へ入った。1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変更し、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した。同じ年に徳島ハム、竹岸ハム、鳥清ハムも上場し、食肉加工業界の成長性が注目を集めた。上場した1961年2月期の売上高は36億2,000万円、税引後利益は約6,600万円だった。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [43]1952年は売り上げ1億6,000万円、1953年2億5,000万円と年率5割以上で伸び、ライバル業者の設備拡張の動きが強まって激しい増設合戦になった
- [44]1953年、日本ハムの前身の徳島ハムが大阪と尼崎の中間にあたる神崎川のほとりに近代的なハム工場を完成させ、和歌山の鳥清ハムが大阪・大国町に進出して新工場を建設、現在のプリマハムの前身である竹岸ハムも大阪市内で新工場を建てた
- [45]西宮工場建設予定地の看板をそのままにして東京進出を先に決め、当時の金で2億3,900万円をかけて目黒工場を建てた
- [47]流れ作業の工程は原料肉が工場をひと回りすると包装まで全部完了し、レイアウトの設計も伊藤傳三氏自身がした。西宮工場は1960年11月3日に操業にこぎつけた
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [46]1959年6月、東京都目黒区三田に目黒工場を新設
- [48]1960年11月、兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設
- [49]1961年1月、伊藤ハム栄養食品に商号変更。1961年10月、東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
- [50]食肉加工業界では徳島ハムと前後して竹岸ハム、伊藤ハム、鳥清ハムが轡を並べて上場し、業界の成長性が一躍脚光を浴びた
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
- [51]上場時の1961年2月期は売上高約36億2,000万円、税引後利益約6,600万円であった。伊藤傳三氏は1961年10月に東京、大阪両証券取引所市場第2部へ上場したと述べている
参考文献[32]-[51]
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [32]1948年6月、伊藤栄養食品工業株式会社に改組
- [46]1959年6月、東京都目黒区三田に目黒工場を新設
- [48]1960年11月、兵庫県西宮市高畑町に西宮工場を新設
- [49]1961年1月、伊藤ハム栄養食品に商号変更。1961年10月、東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部と神戸証券取引所に上場
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
- [33]社員もだんだん育ち妻子を持つようになり、経営者として事業上の責任を痛感させられることが多くなった
- [34]個人営業時代に坪約160〜230円で買い入れた神戸市灘区備後町本社の土地2,000坪(時価坪当り約50万円)を取得価格そのままで会社に移したほか、含みの大きい個人不動産を全部提供して株式会社組織に切替えた
- [35]創立の始めから含み資産の大きい資力ある内容をもって出発することができ、工場拡大に要する資金調達に当たっても銀行の信頼度が非常に高かった
- [51]上場時の1961年2月期は売上高約36億2,000万円、税引後利益約6,600万円であった。伊藤傳三氏は1961年10月に東京、大阪両証券取引所市場第2部へ上場したと述べている
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- [36]株式会社組織として伊藤栄養食品㈱(資本金300万円)と改めた
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」
- [37]工場を再建した1948年当時のハム、ソーセージ業界はすでに群雄割拠の時代で、伊藤ハムの創業者伊藤傳三氏は終戦の翌年に神戸に新工場を建設するなど着々と京阪神での地盤を固めていた
- [50]食肉加工業界では徳島ハムと前後して竹岸ハム、伊藤ハム、鳥清ハムが轡を並べて上場し、業界の成長性が一躍脚光を浴びた
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [38]1952年3月、神戸の中日本重工業(現三菱重工業)で神戸集団赤痢事件が起こり、赤痢患者約1,900人、保菌者約1,000人に達した
- [39]最初の新聞報道はソーセージに疑いがあるとし、中日本重工業の社員食堂で給食に出されたソーセージの製造元は神戸の小泉商店らしいというものだった
- [40]小泉商店の小泉武社長を呼んで問いただしたうえで、県の衛生研究所と中日本重工業の付属病院に小泉商店のソーセージを持ち込んで再検査させ、間違った記事を載せた新聞社に厳重抗議し訂正記事を要請した
- [41]疑いをかけられた小泉商店はおそらく10人未満の規模、伊藤傳三氏の会社も大きいといっても200人ぐらいで、お役所や大企業に業界の立場をわからせるには命がけでかからなければ相手にされなかった
- [42]赤痢事件の原因がソーセージではないことがはっきりしたのは事件発生後数カ月たったあとであった
- [43]1952年は売り上げ1億6,000万円、1953年2億5,000万円と年率5割以上で伸び、ライバル業者の設備拡張の動きが強まって激しい増設合戦になった
- [44]1953年、日本ハムの前身の徳島ハムが大阪と尼崎の中間にあたる神崎川のほとりに近代的なハム工場を完成させ、和歌山の鳥清ハムが大阪・大国町に進出して新工場を建設、現在のプリマハムの前身である竹岸ハムも大阪市内で新工場を建てた
- [45]西宮工場建設予定地の看板をそのままにして東京進出を先に決め、当時の金で2億3,900万円をかけて目黒工場を建てた
- [47]流れ作業の工程は原料肉が工場をひと回りすると包装まで全部完了し、レイアウトの設計も伊藤傳三氏自身がした。西宮工場は1960年11月3日に操業にこぎつけた
出典・参考
6件
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤伝三・講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「大社義規」