伊藤ハム:伊藤傳三の創業とセロハンウインナーの開発
1928年〜丁稚奉公から海産物加工の独立と倒産まで
伊藤傳三氏は1908年11月19日、三重県四日市市富田町の漁師町に生まれた。父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たず、いりこやかつお節を三重から滋賀まで売り歩く海産物卸商となった。1923年、その吉松は旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、伊藤傳三氏が高等小学校の高等科2年を卒業した年に死去した。母のたねは行商に出て、伊藤傳三氏も掛け売りの集金に走り回った。それでも、生前は知らされていなかった165円の借金は、母子の稼ぎで返せる額を超えていた。1924年2月、15歳の伊藤傳三氏は母とともに、残った身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで大阪へ移った。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [1]1908年11月19日、三重県四日市市富田町(東富田仲納屋町)の漁師町に生まれた
- [2]父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たない行商の海産物卸商となり、いりこやかつお節を三重県下から滋賀県あたりまで売り歩いた
- [3]1923年に父が旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、高等科二年を卒業した年に他界した
- [4]母は行商に出て、本人も掛け売りの集金に走り回った
- [5]知らされていなかった165円の借金があり、母子がいくら働いても返済できる額ではなかった
- [6]1924年2月、身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで母と大阪へ移った。当時15歳
大阪では、母の弟が営む傘の柄やステッキの卸商に身を寄せたのち、西区の海産物問屋へ丁稚として住み込んだ。給料は月5、6円、休みは月1回で、1年余りで60キロ近い荷を運んで胸を痛め、肋膜炎で店を離れた。全快後に入った2軒目の乾物問屋では魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭まで昇格した。徴兵検査で第一補充兵となって兵役を免れた伊藤傳三氏は、独立するなら食品しかないと決め、休みのたびに梅田の阪急百貨店の食品売場へ通った。誰が何を買うかを眺め、かまぼこやかん詰めの原料と製法と流通経路を調べた結果、主な食品は大手業者が押さえており、新参の入る余地はないとみた。残ったのは、神戸の南京町や大阪の川口町で家内工業として作られ、鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていたハム・ソーセージだった。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [7]大阪で母の弟(傘の柄やステッキの卸商)の家に落ち着いたのち、大阪市西区の海産物問屋に丁稚として住み込んだ
- [8]給料は月5、6円、休みは月1回。1年余りで60キロ近い荷をかついで胸に鈍痛を覚え、肋膜炎と診断されて店を辞めた
- [9]二軒目の海産物・乾物の卸問屋で魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭に昇格した
- [10]徴兵検査で第一補充兵となり兵役を免れた。独立するなら食品関係と決め、休みのたびに梅田の阪急デパートの食品売り場へ通った
- [11]かまぼこ・かん詰めなど一つ一つの食品の原料・製法・流通経路を調べ、ほとんどの食品は大手業者が握っていて新参者が入り込むのは無理と判断した
- [12]ハム・ソーセージは神戸の南京町、大阪の川口町あたりで家内工業的に作られ、製法は幼稚で鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていた
1928年、伊藤傳三氏は大阪市北区深田町で伊藤食品加工業を興した。20歳で、資本金2,000円は母方の伯父2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金である。食肉に踏み切る資金はなく、まず作ったのは魚粉を混ぜた海苔の佃煮で、"汐の華"と名付けた。朝食に佃煮が欠かせない時代で売れ行きは伸び、1年で店員7、8人・女工20人の所帯になった。ところが世界恐慌が波及すると、佃煮は製造コストを下回る値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した。伊藤傳三氏は従業員20人近くの再就職先を一つずつ回って決め、大口債権者には債務の25%を返して残りを免除してもらい、無一文になった。同年夏に大阪を離れて東京へ移り、山谷の木賃宿を振り出しに、青物市場の店員や氷の配達で2年を過ごした。
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [13]1928年、大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業した
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [14]20歳のときに大阪市北区深田町で旗揚げし、資本金2,000円は母の弟2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金だった
- [15]念願の食肉製品には踏み切れず、まず手がけたのは普通の佃煮に魚粉を混入した海苔の佃煮で、商標を「汐の華」とした
- [16]当時は朝食に海苔の佃煮が必需品で出足から順調に進み、1年ほどで店員7、8人・女工20人の所帯になった
- [17]世界的な大不況の渦にはまり、佃煮は製造コストより安い値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した
- [18]従業員20人近くの再就職先を奔走して決め、大口債権者には借金の25%を返済して75%を免除してもらい、完全な無一文になった
- [19]1930年夏に大阪を離れて東京へ向かい、山谷のドヤ街を振り出しに青物市場の店員や氷の配達で2年間を過ごした
参考文献[1]-[19]
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [1]1908年11月19日、三重県四日市市富田町(東富田仲納屋町)の漁師町に生まれた
- [2]父の吉松は若いころ漁師で、のちに店も使用人も持たない行商の海産物卸商となり、いりこやかつお節を三重県下から滋賀県あたりまで売り歩いた
- [3]1923年に父が旅先の亀山で倒れて寝たきりとなり、高等科二年を卒業した年に他界した
- [4]母は行商に出て、本人も掛け売りの集金に走り回った
- [5]知らされていなかった165円の借金があり、母子がいくら働いても返済できる額ではなかった
- [6]1924年2月、身の回りの品を知人に売って旅費にあて、ふろしき包み一つで母と大阪へ移った。当時15歳
- [7]大阪で母の弟(傘の柄やステッキの卸商)の家に落ち着いたのち、大阪市西区の海産物問屋に丁稚として住み込んだ
- [8]給料は月5、6円、休みは月1回。1年余りで60キロ近い荷をかついで胸に鈍痛を覚え、肋膜炎と診断されて店を辞めた
- [9]二軒目の海産物・乾物の卸問屋で魚肉でんぶと海苔の佃煮の製法を覚え、小番頭に昇格した
- [10]徴兵検査で第一補充兵となり兵役を免れた。独立するなら食品関係と決め、休みのたびに梅田の阪急デパートの食品売り場へ通った
- [11]かまぼこ・かん詰めなど一つ一つの食品の原料・製法・流通経路を調べ、ほとんどの食品は大手業者が握っていて新参者が入り込むのは無理と判断した
- [12]ハム・ソーセージは神戸の南京町、大阪の川口町あたりで家内工業的に作られ、製法は幼稚で鮮度の落ちたくず肉を原料に使っていた
- [14]20歳のときに大阪市北区深田町で旗揚げし、資本金2,000円は母の弟2人から500円ずつ、郷里の知人から1,000円を借りた全額借金だった
- [15]念願の食肉製品には踏み切れず、まず手がけたのは普通の佃煮に魚粉を混入した海苔の佃煮で、商標を「汐の華」とした
- [16]当時は朝食に海苔の佃煮が必需品で出足から順調に進み、1年ほどで店員7、8人・女工20人の所帯になった
- [17]世界的な大不況の渦にはまり、佃煮は製造コストより安い値でしか問屋へ売れず、1930年春に倒産した
- [18]従業員20人近くの再就職先を奔走して決め、大口債権者には借金の25%を返済して75%を免除してもらい、完全な無一文になった
- [19]1930年夏に大阪を離れて東京へ向かい、山谷のドヤ街を振り出しに青物市場の店員や氷の配達で2年間を過ごした
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [13]1928年、大阪府大阪市北区で伊藤食品加工業を創業した
1932年〜神戸での再起と温度管理が生んだセロハンウインナー
東京で200円ほどを蓄えた伊藤傳三氏は1932年に大阪へ帰ったが、創業を援助した伯父から疎まれ、神戸に移った。灘区篠原本町に家を借りて母のたねを引き取ったものの、たねは同年5月27日に62歳で死去した。その直前に決まった縁談で、伊藤傳三氏は郷里富田町の商家である伊藤金作の長女きぬゑ氏を妻に迎えた。夫婦は葺合区琴緒町へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターを入れた。1度目の独立が借金経営で潰れたため、こんどは手元の資金で始められる魚肉ソーセージを選んだ。かまぼこ用のはもやにべを中央市場から仕入れ、においを抜くラードと味の素・砂糖・こしょうで味を付け、畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で阪急・大丸へ卸した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [20]東京で200円ほどの蓄えを作って大阪へ帰ったが、創業時に資金を出した伯父から冷たく当たられ、神戸で商売を始めることを決めた
- [21]神戸市灘区篠原本町二丁目に家を借りて母を引き取ったが、母たねは1932年5月27日に62歳で死去した
- [22]四日市市富田町の商家・伊藤金作の長女きぬゑと結婚した。本人25歳、妻21歳
- [23]神戸市灘区篠原から葺合区琴緒町一丁目へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターなど最低限の設備を入れた
- [24]1回目の独立が失敗したのは借金経営が原因と考え、資本の蓄えが少ないためまず魚肉ソーセージから出発した
- [25]原料はかまぼこ用のはも・にべなどを中央市場から仕入れ、魚のにおいを抜くためラードを使い、味の素・砂糖・こしょうで調味した。畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で卸し、阪急・大丸などの百貨店への納入に成功した
ところが納入から間もなく返品が続き、原因は包装にあった。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗し、ケーシングに使っていたが、乾燥すると腸の小穴から水気が漏れてバクテリアが繁殖した。百貨店が代金を払うのは売れた分だけで、残りはすべて工場へ戻ってきた。伊藤傳三氏は返品と不良品をリヤカーに積み、真夜中の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた。百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月を研究に費やした。兵庫県の衛生試験所と図書館へ通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら、次に作る製品を考えた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [26]百貨店への納入からしばらくすると返品が相次いだ
- [27]返品の原因は包装。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗しケーシングに使っていたが、腸の小穴から日がたって乾燥すると水気が漏れ、バクテリアが繁殖した
- [28]百貨店は売れたものだけの代金を払い、残りはいやおうなしに返品してきた
- [29]返品とできそこないのソーセージをリヤカーに積み、真夜中に葺合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた
- [30]百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月間を研究に費やした
- [31]県の衛生試験所や図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した
研究で突き止めたのは、原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が抜けるか傷むかは温度管理で決まる点である。温度管理さえ習得すれば、冷蔵設備を自社で持たずに他所の冷蔵庫を借りて足りる。もう一つが熟成で、水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、塩が肉繊維に浸透して繊維質がくずれ、味覚と栄養を保ったまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊になる。この過程が完全なら、異質の原料どうしも結着する。1934年、伊藤傳三氏はこの技術でセロハンウインナーを完成させた。原料は豚肉85〜90%と兎肉10〜15%、包装は捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、筒状の袋に貼った。1本10匁を5銭で神戸市内の飲食店やバー、カフェーへ卸すと、太さも重さもそろって店の勘定が合い、袋貼りを担う妻のきぬゑ氏の手も足りないほど売れた。工場の資金は5円券と10円券の引換券を刷って前金で集めた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [32]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたりむれて傷んだりするのは温度管理しだいだと分かった
- [33]温度管理の技術を習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよその冷蔵庫を利用して原料を保管すれば足りる
- [34]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると、肉繊維に塩が浸透して繊維質がくずれ、味覚・栄養を失わないまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊となる。これが熟成である
- [35]熟成の過程さえ完全なら異質の原料どうしが結着することが分かった
- [36]1934年にセロハンウインナを開発した
- [37]原料は豚肉85〜90%、兎肉10〜15%。あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、糊づけして筒状の袋にした。袋貼りは妻が担当した
- [38]1本10匁、卸値は1本5銭で神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーに卸した。天然腸詰めは太さも長さもまばらで切り売りの計算が煩雑だったのに対し評判がよく、作るはしから売り切れた
- [39]工場建設のため5円券と10円券の2種類の引換券を作り、前金として200円を集めた
参考文献[20]-[39]
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [20]東京で200円ほどの蓄えを作って大阪へ帰ったが、創業時に資金を出した伯父から冷たく当たられ、神戸で商売を始めることを決めた
- [21]神戸市灘区篠原本町二丁目に家を借りて母を引き取ったが、母たねは1932年5月27日に62歳で死去した
- [22]四日市市富田町の商家・伊藤金作の長女きぬゑと結婚した。本人25歳、妻21歳
- [23]神戸市灘区篠原から葺合区琴緒町一丁目へ移り、家賃18円の2階建ての1階を工場にあて、中古のミンチ・かくはん機・カッターなど最低限の設備を入れた
- [24]1回目の独立が失敗したのは借金経営が原因と考え、資本の蓄えが少ないためまず魚肉ソーセージから出発した
- [25]原料はかまぼこ用のはも・にべなどを中央市場から仕入れ、魚のにおいを抜くためラードを使い、味の素・砂糖・こしょうで調味した。畜肉ソーセージが100匁45銭のところ100匁25銭で卸し、阪急・大丸などの百貨店への納入に成功した
- [26]百貨店への納入からしばらくすると返品が相次いだ
- [27]返品の原因は包装。と場からかます一杯1円50銭ほどで買った豚腸・羊腸を一晩塩漬けして水洗しケーシングに使っていたが、腸の小穴から日がたって乾燥すると水気が漏れ、バクテリアが繁殖した
- [28]百貨店は売れたものだけの代金を払い、残りはいやおうなしに返品してきた
- [29]返品とできそこないのソーセージをリヤカーに積み、真夜中に葺合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた
- [30]百貨店への納入を止め、工場を灘区大和町へ移して約3か月間を研究に費やした
- [31]県の衛生試験所や図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってかん詰め工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した
- [32]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたりむれて傷んだりするのは温度管理しだいだと分かった
- [33]温度管理の技術を習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよその冷蔵庫を利用して原料を保管すれば足りる
- [34]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると、肉繊維に塩が浸透して繊維質がくずれ、味覚・栄養を失わないまま脱臭され、ヘモグロビンの作用で発色した肉塊となる。これが熟成である
- [35]熟成の過程さえ完全なら異質の原料どうしが結着することが分かった
- [36]1934年にセロハンウインナを開発した
- [37]原料は豚肉85〜90%、兎肉10〜15%。あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6、7センチ幅にそろえ、糊づけして筒状の袋にした。袋貼りは妻が担当した
- [38]1本10匁、卸値は1本5銭で神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーに卸した。天然腸詰めは太さも長さもまばらで切り売りの計算が煩雑だったのに対し評判がよく、作るはしから売り切れた
- [39]工場建設のため5円券と10円券の2種類の引換券を作り、前金として200円を集めた
1938年〜統制下のさめ・兎肉への転用と46日間の留置
1938年4月6日、数え5歳の長男の仁氏が神戸市灘区大和町の踏切で電車にはねられ、三日三晩の後に息を引き取った。その3か月後の7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・石屋川などが決壊した。伊藤傳三氏は石屋川の決壊口へ駆けつけて消防団と土のうを積んだが、水勢を止められなかった。工場そのものは壊れなかったものの、復旧に日数がかかり、商売は打撃を受けた。日中戦争下で統制が進み、食肉加工業者は組合に入らなければ豚肉の配給を一片も受けられなくなる。伊藤傳三氏は静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取と四国4県の産地を歩いて原料豚肉を買い付けた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [40]1938年4月6日、数え5歳の長男仁が神戸市灘区大和町の省線踏切付近で電車にはねられ、三日三晩の後に死亡した
- [41]1938年7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・大石川・宇治川・石屋川などが決壊・氾濫した
- [42]石屋川の決壊現場へ駆けつけ、消防団とともに土のうを積んで決壊口を防ごうとしたが、水の勢いに対抗できなかった
- [43]工場は直接壊れず家も大きな被害はなかったが、復興に時間がかかり商売も打撃をこうむった
- [44]日中事変が始まり、食肉加工業者は組合に入らなければ一片の豚肉も配給されないと言われた
- [45]原料豚肉の買い付けに静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取、四国4県など全国各地の食肉産地を歩き回った
1943年に入ると統制はさらに厳しくなり、地方での原料集めもできなくなった。そこで伊藤傳三氏が原料にしたのが、統制の枠外にあるさめといるかである。北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、これらを混ぜて肉製品に近いソーセージを作った。難所は魚のにおいで、1932年からの魚肉ソーセージで積んだ経験が生きた。普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度とするが、魚肉は90度まで上げるとにおいが抜ける。同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったのに対し、伊藤傳三氏の工場はアンモニアの中和と脱臭を施していた。満州の国境警備向けに毛皮用の飼育が奨励されて余っていた兎肉も加え、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [46]1943年に入ると統制は一段と厳しくなり、地方での原料集めも不可能となって統制品以外の原料を使うほかなくなった
- [47]統制品以外の魚肉として、さめ、いるかの活用を思いついた
- [48]北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、さめ・いるかを混合して肉製品のような製品にした
- [49]魚肉で最も難しいのは魚のにおいを消す方法で、1932年から1933年ごろに大衆向け魚肉ソーセージを売り出したときの技術が生きた
- [50]普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度としたが、魚肉の場合は90度まで上げるとにおいが全部抜ける
- [51]同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったが、自社工場はアンモニアの中和・脱臭法が完全だった
- [52]満州の国境警備に兎の毛皮が必要で飼育が奨励され兎肉が余っていたため原料に使い、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした
製品は大阪の物価局の検査を受け、原料と製法から公定価格を決められた。戦局が進むとハム・ソーセージを作ること自体が価格違反にあたるため、伊藤傳三氏はハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけ、統制の枠から外れる半製品に変えた。それでも原料の違反を疑われて1943年2月に神戸市の灘署へ出頭し、嫌疑が晴れるまでに46日かかった。警察は気仙沼・太地・室戸岬へ調査官を送ったが、出てきたのは統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した1件の罰金1,200円で決着した。伊藤傳三氏は工場を閉鎖して1943年9月に営業を止め、神戸市東灘区本山の東芝電気の工場へ資材係として勤めた。1945年6月5日の神戸大空襲では、至近弾の破片が右腕と右の大腿部を貫き、伊藤傳三氏は川へ飛び込んで難を逃れた。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [53]製品は全部大阪の物価局で検査を受け、物価局が原料・製造方法を審査して公定価格を決めていた
- [54]戦局の進展でハム・ソーセージを作ること自体が価格違反になったため、ハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけた。半製品ないし生ものは統制の枠に当てはまらなかった
- [55]原料で違反しているとの疑いをかけられ、1943年2月初めに神戸市灘署へ出頭し、疑いが晴れて出られるまで46日かかった
- [56]警察は気仙沼・太地・室戸岬などへ調査官を派遣したが統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した件の罰金1,200円で決着した
- [58]1945年6月5日の神戸大空襲で防空壕へ入ろうとした瞬間に至近弾を受け、右腕と右大腿部を負傷して太ももを貫通した。表へ回って川へ飛び込み難を逃れた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- [57]1943年9月、戦時非常事態のため営業停止に至った
参考文献[40]-[58]
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [40]1938年4月6日、数え5歳の長男仁が神戸市灘区大和町の省線踏切付近で電車にはねられ、三日三晩の後に死亡した
- [41]1938年7月3日、前夜からの豪雨で山手から鉄砲水が押し寄せ、住吉川・生田川・大石川・宇治川・石屋川などが決壊・氾濫した
- [42]石屋川の決壊現場へ駆けつけ、消防団とともに土のうを積んで決壊口を防ごうとしたが、水の勢いに対抗できなかった
- [43]工場は直接壊れず家も大きな被害はなかったが、復興に時間がかかり商売も打撃をこうむった
- [44]日中事変が始まり、食肉加工業者は組合に入らなければ一片の豚肉も配給されないと言われた
- [45]原料豚肉の買い付けに静岡・愛知・岐阜・島根・鳥取、四国4県など全国各地の食肉産地を歩き回った
- [46]1943年に入ると統制は一段と厳しくなり、地方での原料集めも不可能となって統制品以外の原料を使うほかなくなった
- [47]統制品以外の魚肉として、さめ、いるかの活用を思いついた
- [48]北海道・宮古・気仙沼・紀州へ買い出しに出かけ、さめ・いるかを混合して肉製品のような製品にした
- [49]魚肉で最も難しいのは魚のにおいを消す方法で、1932年から1933年ごろに大衆向け魚肉ソーセージを売り出したときの技術が生きた
- [50]普通のソーセージは釜で煮る温度を65〜70度としたが、魚肉の場合は90度まで上げるとにおいが全部抜ける
- [51]同業者の模倣品にはアンモニアの刺激で目を痛めるものがあったが、自社工場はアンモニアの中和・脱臭法が完全だった
- [52]満州の国境警備に兎の毛皮が必要で飼育が奨励され兎肉が余っていたため原料に使い、魚肉と兎肉に豚のラードを混ぜてソーセージにした
- [53]製品は全部大阪の物価局で検査を受け、物価局が原料・製造方法を審査して公定価格を決めていた
- [54]戦局の進展でハム・ソーセージを作ること自体が価格違反になったため、ハンバーグや肉だんごを煮る前に袋詰めして急速冷凍にかけた。半製品ないし生ものは統制の枠に当てはまらなかった
- [55]原料で違反しているとの疑いをかけられ、1943年2月初めに神戸市灘署へ出頭し、疑いが晴れて出られるまで46日かかった
- [56]警察は気仙沼・太地・室戸岬などへ調査官を派遣したが統制外の冷凍品ばかりで、未検査のまま神戸製鋼所へ納入した件の罰金1,200円で決着した
- [58]1945年6月5日の神戸大空襲で防空壕へ入ろうとした瞬間に至近弾を受け、右腕と右大腿部を負傷して太ももを貫通した。表へ回って川へ飛び込み難を逃れた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- [57]1943年9月、戦時非常事態のため営業停止に至った
出典・参考
3件
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊藤ハム栄養食品」
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」