大丸 の歴史

創業

1717年

創業者

下村彦右衛門

創業地

京都伏見

直近売上高(2007/2)

8,370億円

長期業績と転換点(1978/2〜2007/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1717年創業の呉服店だった大丸が、1968年に小売業売上高日本一へ届いたのか
A 大丸は享保2年(1717年)に下村彦右衛門正啓氏が京都伏見で開いた呉服店を起源とし、大阪・名古屋・京都・江戸大伝馬町の四都に店を構えた。明治末に東京と名古屋を畳んで関西へ主力を移したが、1951年1月から7月までの百貨店売上高では三越・高島屋・松坂屋に次ぐ4位にとどまっていた。戦後の過剰人員の受け皿を求めた北沢敬二郎氏が1954年10月に東京駅八重洲口の民衆駅へ東京店を開き、全国での位置が変わる。1968年度、日経流通新聞が小売業調査を始めた最初の年に、大丸は全国小売業の売上高第1位となった
Q なぜ1950年の大丸は人員整理ではなく事業のほうを整理したのか
A 終戦で外地勤務者が帰国し応召者が復員したため、大丸は国内の店だけでは抱えきれない従業員構成を抱えた。里見純吉氏は人員整理をせず、慣れない事業に手を広げてまで全員を収容したため欠損が出ていた。1950年4月に社長へ就いた北沢敬二郎氏は「私は人の整理より会社の整理を優先した」と書き残しており、業態の異なる事業の存廃を決めたうえで、残した事業を別の独立会社として切り出した。1948年8月の大丸興業の分離独立はその一例にあたる。ただし中堅層の過剰は解消せず、その出口として1954年の東京進出が選ばれた
Q なぜ「単独資本として生き残る」と言っていた大丸が、2007年に松坂屋との統合を選んだのか
A 奥田務氏は1998年12月に「大丸は単独資本として生き残ることを考えています」と述べ、合併に利点は薄いと否定していた。転じた理由を自社の不振には求めていない。2007年には「単独でも売上高1兆円、営業利益500億円をやれる見通しは持っていた」としたうえで、市場が縮めば「大丸も下手をすると脱落する」と述べた。松坂屋を選んだのは、1970年ごろからの提携で関係が近く、手薄な東京から名古屋を埋められ、財務内容が良かったためである。同年9月3日の株式移転でJ.フロント リテイリングが設立され、大丸は上場を廃止した

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1717年〜 京都伏見の大文字屋から四都に店を構える豪商へ

  1. 1717年下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業
  2. 1726年大阪・心斎橋筋に出店

大丸の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

享保二年の大文字屋と、四都への出店

大丸の始まりは享保2年(1717年)、下村彦右衛門正啓氏が京都伏見に開いた呉服店「大文字屋」にさかのぼる。9年後の享保11年には大阪の心斎橋筋へ進出し、続いて名古屋・京都・江戸大伝馬町に店を構えた。名古屋店では屋号を大丸屋と称し、以後は「大マル」の商標のもとで家業を継いだ。ひとつの家が四つの都市に店を持つ構えは、江戸期の呉服商としては大きな部類にあたる。上方で仕入れて江戸で売るという当時の商いの流れを、大丸は自前の店だけでつないだ。明治維新の後、大丸はこの個人経営を会社組織へ改める。 [1][2]

同業の顔ぶれと並べると、大丸の創業年は江戸期のなかほどにあたる。松坂屋の前身である「いとう呉服店」が慶長16年(1611年)、白木屋が寛文2年(1662年)、三越の前身の越後屋が延宝元年(1673年)、そして高島屋が天保2年(1831年)である。後年の百貨店の主要各社は、いずれも呉服店を前身に持つ。『会社銀行八十年史』はこれを「わが国の百貨店の大きな特徴」と書いた。大丸が特異だったのではなく、この業種の全体が江戸の呉服商から立ち上がっている。百貨店の歴史を語るとき、創業の古さそのものは各社の差にならない。差がつくのは、呉服店から百貨店へ移る速さと、その移り方だった。 [3][4]

掛売りを廃し全商品に正札を付けた売り方

下村彦右衛門正啓氏は、それまでの掛売りをやめて全商品に正札を付けた。掛売りは客の信用を見て値を決める売り方で、客ごとに価格が違う。正札販売はその余地を消す。『会社銀行八十年史』は「当時としては画期的な改正であり義商として知られた」と記している。値決めを店員の裁量から外すこの一手は、後に百貨店が不特定多数の客をさばく前提にあたる。四つの都市に広げた店のすべてで値を揃えるには、店ごとの判断を許さない仕組みが要る。正札は商いの倫理であると同時に、離れた店を束ねる技術でもあった。同書が大丸を「義商」と呼んだのは、この二面のうち前者を見たからである。 [5]

ただし、この時期の大丸について手元の資料が語ることは多くない。1717年から明治維新までのおよそ150年について、『会社銀行八十年史』の大丸項が書いているのは四都への出店と正札販売の2点だけである。江戸期の大元方制度や長崎での糸割符、両替商の兼営といった論点は、自社が編んだ『大丸二百五拾年史』(1967年)の目次に章として立っているものの、本文は未入手にとどまる。この区間の記述が薄いのは資料が無いためであって、出来事が無かったためではない。江戸期の大丸がどう資金を回し、どう離れた店を統べたかは、社史の本文を得てから書き足すべき部分として残る。 [6]

1907年〜 株式会社への転換と、東京を畳んで関西に絞った選択

  1. 1908年個人経営を改め「株式合資会社大丸呉服店」を設立し、東京を本店、京都・大阪・名古屋を支店とする
  2. 1910年東京本店と名古屋支店を閉鎖して本店を京都へ移し、販売方法を座売式から陳列式へ改める
  3. 1914年京都店を分離して合名会社京都大丸呉服店とし、株式合資会社大丸呉服店は本店を大阪へ移して神戸支店を設置
  4. 1920年「株式会社大丸呉服店」を設立し、株式合資会社大丸呉服店の営業一切を譲り受ける
  5. 1920年大阪本店が罹災
  6. 1922年里見純吉の提案により定休日制を導入
  7. 1931年「株式会社京都大丸」を吸収合併し、分立していた大阪・京都の両大丸が1社となる

大丸の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

東京に本店を置き、2年で京都へ引いた

明治維新の後、大丸は個人経営を会社組織へ改めた。1908年(明治41年)1月、資本金50万円の株式合資会社大丸呉服店を設立し、東京を本店として京都・大阪・名古屋を支店に置く。江戸期から続く家業を、東京に司令塔を据えた近代企業として組み直す構えである。ところがこの構えは2年しか持たなかった。1910年(明治43年)10月、大丸は東京の本店と名古屋の支店を閉鎖し、本店を京都へ移して関西に主力を注ぐ方針へ改める。同時に売り方も座売式から陳列式へ変え、近代百貨店の形態を整えた。撤退と業態転換が同じひとつの決定のなかで起きている。 [7][8]

他社は畳まずに変えた。高島屋が座売りを廃して陳列販売を採り入れたのは1888年で、大丸より22年早い。三越は1895年11月に本店の階上を陳列場へ改築し、1900年10月には全階を陳列場として座売りを全廃している。業態としての百貨店を先に名乗ったのも三越だった。『会社銀行八十年史』は、1904年12月に三越呉服店が三井家から分離して資本金50万円の株式会社となったことを「わが国の百貨店事業の創始」と書き、創立者として三井銀行支配人から越後屋呉服店に入った日比翁助氏の名を挙げている。大丸の株式合資会社化はその4年後にあたる。関西へ引いた大丸は、業態の先頭を走る会社ではなかった。 [9][10]

二つに割れた大丸が、ひとつに戻るまで

関西回帰の後、大丸は一度ふたつに割れる。1914年(大正3年)に京都店を分離して合名会社京都大丸呉服店とし、株式合資会社大丸呉服店のほうは本店を大阪へ移して神戸に支店を置いた。1920年(大正9年)2月には大阪本店が罹災する。この打開のため同年4月、下村正太郎氏・美川多三郎氏・上野栄三郎氏・森八郎助氏を発起人として資本金1,200万円の株式会社大丸呉服店を設立し、株式合資会社の営業一切を譲り受けて再出発した。現在の有価証券報告書が会社の設立日として挙げるのは、この1920年4月である。創業から203年を経て、大丸はようやく株式会社になった。 [11]

分立は11年で終わる。1928年(昭和3年)12月に商号を株式会社大丸へ改め、1931年(昭和6年)7月には株式会社京都大丸を吸収合併して資本金1,500万円とした。1933年(昭和8年)5月に大阪本店の御堂筋側の増築が完成すると、西は御堂筋、東は心斎橋筋、南は清水町、北は大宝寺町という四方の大街路に囲まれた延1万2,500坪の店舗群になる。当時これは「大丸ブロック」と呼ばれた。呉服店という商号を外し、同族で分けていた会社をひとつにまとめ、街区を丸ごと占める建物を建てる。この3つが10年足らずのあいだに続いている。 [12][13]

この時期の大丸は、業界に先んじた一手も打っている。1922年(大正11年)7月、里見純吉氏の提案で定休日を実施した。『会社銀行八十年史』はこれを「わが国百貨店界に先鞭をつけた」と書く。陳列式への転換では他社に20年以上遅れた会社が、休むという決定では先頭に立った。売場を開け続けることが商いの前提だった時代に、店を閉める日を先に決めるのは、働き手の側から商いを組み直す判断にあたる。この後の大丸は、人の扱いをめぐって二度、会社の形を変えるほどの決定を下す。1950年の戦後再建と、1997年からの改革である。定休日はその最初の一例にあたる。 [14]

大陸への拡張と、戦争で失った売場

1924年(大正13年)5月以降、大丸は販路を大陸各地に求め、朝鮮・満州・中国およびシンガポール、ラングーンなどに20余の支店と出張所を開いた。1943年(昭和18年)7月には大丸興業を吸収合併している。戦時に入ると、百貨店は平和産業として資本投下の制限を受けた。大丸は1944年に大阪本店の四階と五階の供出を求められ、1945年3月には空襲で大阪本店の五階以上を、5月には神戸別館を焼失した。業界全体では、百貨店の使用面積が1937年の124万平方メートルから1945年には54万平方メートルへ縮んでいる。8年で6割近くが消えた計算になる。 [15][16]

大丸が失ったのは自社の売場だけではない。大陸に置いた20余の店と、そこに投じた資産も戻らなかった。この点は戦後の再建で重い意味を持つ。外地の店に配していた人員は終戦とともに帰国し、応召者の復員も重なって、国内の店だけでは抱えきれない従業員構成が残った。戦争は建物と資産を奪い、同時に人を返している。焼けた売場を建て直すだけでは、この過不足は解けない。1937年には第一次百貨店法が施行され、店舗の拡張と新設に許可が要る時代へ入っていた。戦後の大丸が最初に解かねばならなかったのは、店の復旧ではなく人の置き場だった。 [17][18]

1945年〜 東京復帰と小売業日本一、そしてスーパーの台頭

  1. 1945年空襲により大阪本店の五階以上を焼失し、5月には神戸別館も焼失
  2. 1946年白木屋との合併総会当日に大蔵省から中止通達を受け、特別経理会社への指定を理由に合併が流れる
  3. 1948年総合商社部門を「大丸興業株式会社」として分離独立
  4. 1950年業態の異なる事業の存廃を決め、残した事業を別の独立会社として切り出す。人員整理は行わない
  5. 1950年北沢敬二郎が社長に就任し、里見純吉は代表権のある会長として残る
  6. 1954年東京駅八重洲口の民衆駅・鉄道会館ビルに約2万8,000平方メートルを賃借して東京店を開店
  7. 1968年日経流通新聞が小売業調査を開始した最初の年度に、全国小売業の売上高第1位となる

大丸の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

住友からの招聘と「人の整理より会社の整理」

戦後の大丸が最初に選んだ相手は松坂屋ではなく白木屋だった。1946年(昭和21年)10月、両社の合併総会が開かれるその日の朝、大蔵省から「合併まかりならぬ」との通達が届く。大丸が戦争で財産を外国に残し、戦時保険金も受け取っていないことを理由に特別経理会社へ指定されたためである。合併は流れた。もっともこの合併話には別の目的があった。当時の里見純吉社長は同年8月、住友本社の解体で職を離れていた元上席常務理事の北沢敬二郎氏を訪ね、開口一番「あなたは百貨店をどう思われるか」と尋ねたうえで、合併後の副社長就任を打診している。 [19][20]

    • [19]1946年10月、大丸と白木屋の合併総会が開かれる当日の朝に大蔵省から「合併まかりならぬ」との通達が届き、大丸が戦争で財産を外国に残し戦時保険金も未受領であることを理由に特別経理会社へ指定されたため合併は中止された
    • [20]1946年8月中旬、里見純吉社長が住友本社の解体で浪人していた元上席常務理事の北沢敬二郎を訪ね、「あなたは百貨店をどう思われるか」と尋ねたうえで白木屋との合併後の副社長就任を打診した

北沢氏は一度断った。「多年恩義を受けた住友本社は解体され、同僚の多くは職を離れて浪人している。こういうときに…民間の会社にはいって自分だけ楽になるということは私の良心が許さない」という理由による。前上司の古田俊之助氏が「住友の元役員連中が浪人していると財閥復活でも画策しているように疑われて損だ」と説いて翻意させた。北沢氏は後年、里見氏にとって「合併問題は私との話の糸口を作る口実だったようで、本心は後継者を捜すという気持ちだったらしい」と述懐している。北沢氏は1947年2月に顧問、1948年4月に取締役、同年10月に副社長を経て、1950年4月に社長へ就いた。 [21][22]

    • [21]「多年恩義を受けた住友本社は解体され、同僚の多くは職を離れて浪人している。こういうときに公の職場なら別であるが、民間の会社にはいって自分だけ楽になるということは私の良心が許さない」
    • [22]北沢敬二郎は1947年2月1日に顧問、1948年4月に取締役、同年10月に副社長、1950年4月に社長となった

就任前の3年余で北沢氏が分析した経営の実態はこうである。戦時中に中国と東南アジアへ広げた結果、終戦後は外地勤務者の帰国と応召者の復員で中堅層が過剰になり、従業員の構成がゆがんでいた。里見氏は人員整理をせず、「種々のなれない事業に手をつけてまで全員を収容」したため欠損が出ていた。北沢氏の判断は、人ではなく事業のほうを削ることだった。「私は社長就任後、数多くの業態の違う事業の存廃を決定し、残ったものについては、それぞれ別の独立会社にした。その際、整理者が出ないよう調整もした。私は人の整理より会社の整理を優先した」。1948年8月の総合商社部門の分離独立、すなわち大丸興業の設立は、その具体にあたる。 [23][24]

    • [23]「私は社長就任後、数多くの業態の違う事業の存廃を決定し、残ったものについては、それぞれ別の独立会社にした。その際、整理者が出ないよう調整もした。私は人の整理より会社の整理を優先した」
  • 有価証券報告書(第123期)
    • [24]1948年8月に総合商社部門を「大丸興業株式会社」として分離独立させた
    • [19]1946年10月、大丸と白木屋の合併総会が開かれる当日の朝に大蔵省から「合併まかりならぬ」との通達が届き、大丸が戦争で財産を外国に残し戦時保険金も未受領であることを理由に特別経理会社へ指定されたため合併は中止された
    • [20]1946年8月中旬、里見純吉社長が住友本社の解体で浪人していた元上席常務理事の北沢敬二郎を訪ね、「あなたは百貨店をどう思われるか」と尋ねたうえで白木屋との合併後の副社長就任を打診した
    • [21]「多年恩義を受けた住友本社は解体され、同僚の多くは職を離れて浪人している。こういうときに公の職場なら別であるが、民間の会社にはいって自分だけ楽になるということは私の良心が許さない」
    • [22]北沢敬二郎は1947年2月1日に顧問、1948年4月に取締役、同年10月に副社長、1950年4月に社長となった
    • [23]「私は社長就任後、数多くの業態の違う事業の存廃を決定し、残ったものについては、それぞれ別の独立会社にした。その際、整理者が出ないよう調整もした。私は人の整理より会社の整理を優先した」
  • 有価証券報告書(第123期)
    • [24]1948年8月に総合商社部門を「大丸興業株式会社」として分離独立させた

八重洲口の民衆駅に賭けた東京復帰

事業を削っても中堅層の過剰は残った。北沢氏の結論は「結局これを解決するには、大きな事業場を新しく造り出して転出させるほかなかった。大きな事業場——それは東京以外にない」というものである。大丸には東京店の前史がある。1908年に東京を本店としながら1910年に閉じ、『会社銀行八十年史』によれば大正12年5月に丸ノ内ビルディングの一部へ東京出張所を置いたものの、大正14年に閉じて大阪店へ併合した。人員問題の出口を探した先が、二度自ら畳んだ市場だった。北沢氏はこの出店を新規進出ではなく「東京復帰」と呼んでいる。当時の順位も動機を裏づける。1951年1月から7月までの百貨店売上高は、三越88億9,823万円、高島屋77億余、松坂屋70億4,480万円に続いて大丸が57億7,065万円で、業界4位だった。京阪神で強くとも、全国では首位と3割以上の開きがある。 [25][26][27]

1951年、東京駅八重洲口に「民衆駅」を作る計画があることを北沢氏が知る。当時は公債発行が許されず、国鉄が駅を建てるには民間資金を集める民衆駅制度しかなかった。国鉄の最終計画では12階建・6万6,000平方メートルと当時の東京最大規模で、小口の借り主では間に合わないため大口契約者が探されていた。常務の田中盛和氏が調査にあたり、東京駅の乗降客が1日60万人で八重洲口が40%ながらその比率が上がっていること、百貨店の33平方メートル当たりの客数が大阪28人に対し東京71人と2.5倍にのぼることを示した。大丸が借りた面積は約2万8,000平方メートル、入居保証金9億3,000万円と敷金5,000万円で計約9億8,000万円にのぼる。 [28][29]

    • [28]大丸が民衆駅に借りた面積は約2万8,000平方メートル、入居保証金は9億3,000万円、敷金5,000万円で計約9億8,000万円。国鉄の最終計画では八重洲口の民衆駅は12階建・6万6,000平方メートルで当時としては東京最大の規模だった
    • [29]常務・田中盛和の調査により、東京駅の乗降客は1日60万人で八重洲口40%・丸の内60%だが八重洲口側が増えていること、東京・大阪の百貨店の33平方メートル当たりの客数は大阪28人に対し東京71人であることが判明した

反対は激しかった。土地はもと外堀の一部で、埋め立て前はがれき・コンクリートの破片・丸太が捨てられた「まことに荒涼たる状態」であり、駅舎も木造バラック建だった。北沢氏は「はっきりと中止を勧告してきた友人もあり、所要資金の貸し出しを渋る取り引き銀行もあった」「内部では新社長の冒険に表面だった反対をしないまでも、不安な面持ちで批判するものがかなりいた」「同業者はもちろん問題にもしなかった」と書き残している。1954年10月、東京店は開店した。同年の大丸の売上高は195億1,000万円で全国百貨店の10.4%を占め、東京店が加わった10月以降では11%へ上がる。三越248億円、高島屋200億円に次ぐ3位だが、東京店の寄与はまだ3か月分でしかない。 [30][31]

    • [25]1951年1月から7月までの各百貨店売上高は1位三越8,898,233千円、2位高島屋7,741千円台、3位松坂屋7,044,798千円、4位大丸5,770,650千円、5位白木屋1,940,171千円、6位丸善989,969千円
    • [26]「結局これを解決するには、大きな事業場を新しく造り出して転出させるほかなかった。大きな事業場-それは東京以外にない。私はひそかに東京進出をねらっていた」
    • [28]大丸が民衆駅に借りた面積は約2万8,000平方メートル、入居保証金は9億3,000万円、敷金5,000万円で計約9億8,000万円。国鉄の最終計画では八重洲口の民衆駅は12階建・6万6,000平方メートルで当時としては東京最大の規模だった
    • [29]常務・田中盛和の調査により、東京駅の乗降客は1日60万人で八重洲口40%・丸の内60%だが八重洲口側が増えていること、東京・大阪の百貨店の33平方メートル当たりの客数は大阪28人に対し東京71人であることが判明した
    • [30]「はっきりと中止を勧告してきた友人もあり、所要資金の貸し出しを渋る取り引き銀行もあった。また内部では新社長の冒険に表面だった反対をしないまでも、不安な面持ちで批判するものがかなりいたようだ。同業者はもちろん問題にもしなかった」
    • [27]大正12年5月に東京丸ノ内ビルディングの一部へ東京出張所を開設したが、大正14年に閉鎖して大阪店へ併合した
    • [31]1954年の大丸の売上高は195億1,000万円(東京店は10月から算入)で全国百貨店売上総計に対する比率は10.4%、東京開店後の10月時点では11%。店舗面積は本支店合わせて3万5,400坪。同年の三越は248億円、高島屋は200億円

小売業日本一の座と、そこからの後退

大丸の強さは全国に均されてはいなかった。1954年度の都市別シェアは京都57%、神戸60%、大阪23%に対し、東京は8.1%にとどまる。京阪神では圧倒的で、東京では新参という偏りが数字に出ている。それでも『会社銀行八十年史』の概説は、業界全体を見渡す位置から「大丸をはじめ関西百貨店の東京進出が相次ぐ形勢」が「競争に拍車をかけている」と書いた。八重洲口への出店は、大丸1社の話ではなく業界の競争を動かす出来事として受け止められている。東京店の後、大丸は新しい業態と海外へも広がった。1960年9月に大丸ピーコックの第1号店を枚方市・香里に開き、同年11月には華僑の張氏の懇請に応じて合弁の香港大丸を開いている。北沢氏は1963年10月に社長を退いて会長となった。社長在任14年、74歳だった。 [32][33][34]

1968年度、日経流通新聞が小売業調査を始めた最初の年に、全国小売業の売上高第1位に立ったのは大丸だった。ただしこの位置は長く続かない。1969年度から1971年度までは三越が首位を取り、1972年度にはダイエーが3,052億円で三越の2,924億円を抜いて小売業の頂点に立つ。創業から15年の会社が、300年の老舗を超えた。1974年度には業態別の販売額シェアでもスーパー12.7%が百貨店11.0%を上回る。大丸が記録した「小売業日本一」は、百貨店という業態が小売の頂点にいた最後の時期のものだった。以後の大丸は、伸びる業態の側にいない。 [35][36]

百貨店の後退を、『日本産業史』は規制のせいだけにしていない。スーパーがフロアごとに別会社を作って百貨店法の網をくぐった経緯を述べたうえで、「だが、百貨店法以上に大きいのは百貨店の保守化だ。百貨店は百貨店法によってライバル百貨店の進出が少なくなり、同法の保護の中でかつての事業拡大意欲が衰えた」と書く。百貨店のシェアは1974年の11.0%から1985年には7.6%へ落ちた。大丸自身の数字も同じ方向を指す。単体の売上高は1971年2月期の1,659億円から1985年2月期の4,895億円へ伸びたが、経常利益は1981年2月期の97億円を境に下り、1983年2月期に19億円、1984年2月期には75億円の赤字となった。同書は1982年度決算について「大丸も梅田店の開業負担で大幅減益」となり、八王子大丸などが閉鎖に追い込まれたと記す。 [37][38][39]

1990年〜 奥田改革と、単独で生き残るのをやめる決定

  1. 1997年奥田務が社長に就任し、創業家の下村正太郎会長から経営を引き継ぐ
  2. 1997年阪神・淡路大震災で被災した神戸店が全体復興
  3. 1998年香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退し、約140億円の損失を計上(うち香港分は約70億円)
  4. 1998年希望退職に746人が応じて退職
  5. 1999年中期経営計画(1999〜2001年度)を策定し、売上至上主義から利益第一主義へ経営方針を転換
  6. 2007年株式会社松坂屋ホールディングスとの経営統合を取締役会で決議
  7. 2007年株式移転により松坂屋ホールディングスと共同持株会社J.フロント リテイリングを設立し、大丸は上場廃止となる

大丸の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

震災、海外撤退、そして希望退職746人

全国百貨店の売上高は1991年の9兆7,131億円を頂点に、その後11年連続で前年を割った。大丸はこの下り坂に、自社固有の損失を重ねている。1995年1月の阪神・淡路大震災で神戸店が被災し、全体の復興は1997年3月までかかった。海外では香港店が1990年から赤字になっている。1997年3月、奥田務氏が社長に就いた。1964年に大丸へ入り、1974年に社費でニューヨークのファッション工科大学へ留学して米ブルーミングデール百貨店で研修し、1991年から大丸オーストラリアの社長を務めた人物である。創業家の下村正太郎会長から経営を引き継いだ。就任時の大丸は「松坂屋に次ぐ営業利益しかなく、大手百貨店の中で下位に沈んでいた」と後年の週刊東洋経済は書いている。 [40][41][42]

  • 週刊東洋経済 2008年10月25日号「ニュース最前線01 百貨店 消費低迷で加速 強者も巻き込む百貨店再々編」
    • [40]全国百貨店売上高は1991年の9兆7,131億円をピークに11年連続でマイナスとなった
  • 有価証券報告書(第123期)/週刊東洋経済 1998年7月25日号「香港現地報告」
    • [41]阪神・淡路大震災で被災した神戸店は1997年3月に全体復興した。香港店は香港独特の地代や人件費の高騰もあって1990年から赤字に転落していた
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」/週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [42]奥田務は1939年10月生まれ、1964年4月大丸入社。1974年8月に社費でニューヨークのファッション工科大学へ留学し米ブルーミングデール百貨店で研修、1991年9月に大丸オーストラリア代表取締役社長、1997年3月に社長就任。創業家一族の下村正太郎会長からバトンを渡された。就任時の大丸は「松坂屋に次ぐ営業利益しかなく、大手百貨店の中で下位に沈んでいた」

1998年、大丸は香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退し、約140億円の損失を計上した。うち香港分が約70億円を占める。同年12月30日には746人が希望退職に応じて会社を去った。当時の社員約7,000人のうち半数の約3,500人が管理職と準管理職で占められていたと奥田氏は語っている。1999年3月には商事部門を大丸興業へ営業譲渡し、6月には建装部門を大丸装工として切り離した。和歌山店も閉じている。1950年の北沢氏は、人を残すために事業を削った。1998年の奥田氏は事業も店も人も削っている。同じ会社が、似た過剰に対して48年ぶりに逆の答えを出した。 [43][44][45]

  • 週刊東洋経済 1998年8月8日・15日合併号/同 1998年7月25日号
    • [43]1998年に海外百貨店の一部から撤退し今期約140億円の損失を計上。香港撤退に伴う損失は大丸が約70億円だった
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [44]1998年12月30日に746人が希望退職で退職した。当時の社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職だった
  • 有価証券報告書(第123期)/証券アナリストジャーナル 1999年4月26日
    • [45]1999年3月に商事部門を「大丸興業株式会社」へ営業譲渡、同年6月に建装部門を「株式会社大丸装工」として分離独立させ、和歌山店を閉鎖した
  • 週刊東洋経済 2008年10月25日号「ニュース最前線01 百貨店 消費低迷で加速 強者も巻き込む百貨店再々編」
    • [40]全国百貨店売上高は1991年の9兆7,131億円をピークに11年連続でマイナスとなった
  • 有価証券報告書(第123期)/週刊東洋経済 1998年7月25日号「香港現地報告」
    • [41]阪神・淡路大震災で被災した神戸店は1997年3月に全体復興した。香港店は香港独特の地代や人件費の高騰もあって1990年から赤字に転落していた
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」/週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [42]奥田務は1939年10月生まれ、1964年4月大丸入社。1974年8月に社費でニューヨークのファッション工科大学へ留学し米ブルーミングデール百貨店で研修、1991年9月に大丸オーストラリア代表取締役社長、1997年3月に社長就任。創業家一族の下村正太郎会長からバトンを渡された。就任時の大丸は「松坂屋に次ぐ営業利益しかなく、大手百貨店の中で下位に沈んでいた」
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日・15日合併号/同 1998年7月25日号
    • [43]1998年に海外百貨店の一部から撤退し今期約140億円の損失を計上。香港撤退に伴う損失は大丸が約70億円だった
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [44]1998年12月30日に746人が希望退職で退職した。当時の社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職だった
  • 有価証券報告書(第123期)/証券アナリストジャーナル 1999年4月26日
    • [45]1999年3月に商事部門を「大丸興業株式会社」へ営業譲渡、同年6月に建装部門を「株式会社大丸装工」として分離独立させ、和歌山店を閉鎖した

売上を追わないと決めた中期経営計画

1999年、大丸は1999年度から2001年度までの中期経営計画を作った。最終年度の単体目標は売上高4,100億円、営業利益80億円、経常利益75億円、粗利益率28.0%、営業利益率2.0%である。目を引くのは売上高を前年より低く置いたことで、奥田氏はその理由を、商務事業部と装工事業部の切り離しおよび和歌山店の閉鎖という特殊要因に加えて「徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したことによる」と説明した。半年後の説明会では、1999年度上期を「『売上至上主義』から徹底した『利益第一主義』へ経営方針を大きく転換した記念すべき年」と位置づけている。百貨店が売上規模で序列を競ってきた業界にあって、目標から売上を下ろす決定は異例にあたる。 [46][47]

転換の中身は売場の作り直しにあった。1999年に山本良一氏を営業改革推進部長へ据え、1年半かけて全売場の業務を洗い出す。付加価値業務と付帯業務を分け、売場をコンサルティング・対面販売・ポイントサポート・セルフの4種に分類した。約680人の社員を抱えていたある店舗は改革後に117人となり、それでも売上と利益は当初を上回った。2005年3月にはバイヤーを本部へ集め、本部一括仕入れへ移した。2003年3月に開いた札幌店は、こうした設計を最初から入れた店である。投資額330億円・売場4.5万平方メートルで、開業半年で営業利益を出し、3年弱で投資を回収した。2006年度の人件費率は3.9%で、他店の7%台に対して半分ほどにとどまる。 [48][49]

  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号「[特集]百貨店は変われるか? 業界異端 大丸『奥田改革』10年目の飛躍」
    • [48]1999年に山本良一を営業改革推進部長に起用し1年半かけて全売場業務を洗い出した。売場を「コンサルティング/対面販売/ポイントサポート/セルフ」の4分類とし、約680人の社員を抱えた店舗は改革後117人へ削減されたが売上・利益は当初を上回った。2005年3月にバイヤーを本部に集約し本部一括仕入れへ移行した
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/同 2006年6月17日号
    • [49]2003年3月開業の札幌店は投資額330億円・売場4.5万平方メートルで、開業半年で営業利益、3年弱で投資回収。2006年度の人件費率は3.9%で他店の7%台を下回った

抵抗もあった。奥田氏は1998年の取材で、老舗の社風からの反発を問われて「それはないといえばウソになります」と答えている。2007年の取材ではより具体的に「従業員からは随分反論があった。お客さんの満足を上げるにはカネがかかるやないのと」と述べた。本部一括仕入れには「効果が上がらないとして逆戻りした取引先もある」。改革の伸びも3〜4年で止まり、正価販売の売上は5期連続で前年を割った。取引先主体の売場は期初予算の20%程度しか達成できていない。奥田氏自身が「正直言って、改革は自分が望んでいる6割か7割しか行っていない」と語っている。それでも連結の数字は動いた。売上高は2003年2月期の7,939億円から2007年2月期の8,370億円へ、経常利益は172億円から334億円へ伸び、連結従業員は2002年2月期の8,722人から6,201人へ減っている。 [50][51][52]

  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [50]「それはないといえばウソになります。しかし今の日本の百貨店の現状を考えれば、かなりドラスチック(徹底的)な改革をしないと生き残れません」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [51]「従業員からは随分反論があった。お客さんの満足を上げるにはカネがかかるやないのと」「正直言って、改革は自分が望んでいる6割か7割しか行っていない」。営業改革の成長は3〜4年で踊り場となり、正価販売の売上は5期連続で前年割れ、取引先主体の売場は期初予算の20%程度しか達成できていなかった
  • 有価証券報告書(株式会社大丸・第122期/第123期)
    • [52]連結売上高は2003年2月期7,939億円→2007年2月期8,370億円、経常利益は172億円→334億円。連結従業員数は2002年2月期8,722人から2007年2月期6,201人へ減少した
    • [46]中期経営計画(1999〜2001年度)の最終年度である2001年度の単体業績目標は売上高4,100億円、営業利益80億円、経常利益75億円、粗利益率28.0%、営業利益率2.0%。売上高を低く設定した理由は商務事業部・装工事業部の切り離しと和歌山店閉鎖という特殊要因に加え「徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したことによる」
    • [47]「『売上至上主義』から徹底した『利益第一主義』へ経営方針を大きく転換した記念すべき年であり、それは業績結果に現れている」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号「[特集]百貨店は変われるか? 業界異端 大丸『奥田改革』10年目の飛躍」
    • [48]1999年に山本良一を営業改革推進部長に起用し1年半かけて全売場業務を洗い出した。売場を「コンサルティング/対面販売/ポイントサポート/セルフ」の4分類とし、約680人の社員を抱えた店舗は改革後117人へ削減されたが売上・利益は当初を上回った。2005年3月にバイヤーを本部に集約し本部一括仕入れへ移行した
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/同 2006年6月17日号
    • [49]2003年3月開業の札幌店は投資額330億円・売場4.5万平方メートルで、開業半年で営業利益、3年弱で投資回収。2006年度の人件費率は3.9%で他店の7%台を下回った
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [50]「それはないといえばウソになります。しかし今の日本の百貨店の現状を考えれば、かなりドラスチック(徹底的)な改革をしないと生き残れません」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [51]「従業員からは随分反論があった。お客さんの満足を上げるにはカネがかかるやないのと」「正直言って、改革は自分が望んでいる6割か7割しか行っていない」。営業改革の成長は3〜4年で踊り場となり、正価販売の売上は5期連続で前年割れ、取引先主体の売場は期初予算の20%程度しか達成できていなかった
  • 有価証券報告書(株式会社大丸・第122期/第123期)
    • [52]連結売上高は2003年2月期7,939億円→2007年2月期8,370億円、経常利益は172億円→334億円。連結従業員数は2002年2月期8,722人から2007年2月期6,201人へ減少した

松坂屋を相手に選び、統合で幕を引く

1998年12月、奥田氏は将来の合併の可能性を問われてこう答えている。「いいえ、大丸は単独資本として生き残ることを考えています。チェーンストアと違って、百貨店の場合には合併してもバイイング・パワー(購買力)が飛躍的に高まるわけではなく、あまり利点がないんですね。(中略)三越さんと合併などということはあり得ません」。この9年後、大丸は松坂屋ホールディングスとの経営統合を決議した。転じた理由を、奥田氏は自社の行き詰まりに求めていない。「それはない。単独でも売上高1兆円、営業利益500億円をやれる見通しは持っていた」と述べたうえで、市場そのものの縮小を挙げている。 [53][54]

  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [53]「いいえ、大丸は単独資本として生き残ることを考えています。チェーンストアと違って、百貨店の場合には合併してもバイイング・パワー(購買力)が飛躍的に高まるわけではなく、あまり利点がないんですね。(中略)三越さんと合併などということはあり得ません」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [54]単独改革の限界かを問われ「それはない。単独でも売上高1兆円、営業利益500億円をやれる見通しは持っていた」と答えた

「百貨店のマーケットは今後も縮小していくだろう。そうすると、もう単独では生き残れない。食品業界がまさにそうだ。人口が減少していくと、それ以上にマーケットが小さくなる。大丸も下手をすると脱落する」。相手に松坂屋を選んだ理由は3つある。1970年ごろからの業務提携で関係が近かったこと、大丸の店舗が手薄な東京から名古屋を埋められること、松坂屋の財務内容が良いことである。統合で大丸が優位に立てたのは、先に質を作り直していたからだった。2006年度の営業利益率は大丸4.1%に対し松坂屋2.1%で、大丸の営業利益は346億円である。奥田氏の言い方では「松坂屋と組む自信ができたのは、質の改革をやったから。質の改革を伴わないのに量の拡大をしたら、どうなるか。ダイエーさんやマイカルさんがよい例でしょう」。 [55][56][57]

  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [55]「百貨店のマーケットは今後も縮小していくだろう。そうすると、もう単独では生き残れない。食品業界がまさにそうだ。人口が減少していくと、それ以上にマーケットが小さくなる。大丸も下手をすると脱落する」
    • [56]「松坂屋さんとは70年ごろから業務提携をしていて、うちと近い関係だった。大丸の店舗が手薄な東京から名古屋をうまく埋められる。さらに松坂屋は財務内容がいい。よい結婚相手だと思う」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/有価証券報告書(第123期)
    • [57]2006年度の営業利益率は大丸4.1%、松坂屋2.1%。大丸の2007年2月期連結営業利益は346億71百万円

引き換えに抱えたものもある。株式移転による共同持株会社を選んだため、大丸は現金を出さずに名古屋本店・銀座店といった松坂屋の不動産をグループへ取り込んだ。一方で松坂屋銀座店の2006年度の年商は164億円にとどまり、三越銀座店の30%に届かない。週刊東洋経済は「統合により、大丸の経営効率は一時的ながら悪化する。これまでの10年、ひたすら効率化を掲げて改革を推進してきた大丸にとって、今の松坂屋は足を引っ張るだけの存在である」と書いた。10年かけて削ってきた会社が、削られていない会社を引き受けた。2007年9月3日、株式移転によってJ.フロント リテイリングが設立され、1949年5月の大阪証券取引所上場から58年で上場企業としての大丸は終わる。事業会社としての大丸はその後も残り、2010年には松坂屋と一体になって大丸松坂屋百貨店となった。 [58][59][60]

  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [58]「統合により、大丸の経営効率は一時的ながら悪化する。これまでの10年、ひたすら効率化を掲げて改革を推進してきた大丸にとって、今の松坂屋は足を引っ張るだけの存在である」。松坂屋銀座店の2006年度年商は164億円で三越銀座店の30%未満だった
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/同 2007年3月3日号「流通 規模を最優先!? 大丸と松坂屋が統合急ぐ事情」
    • [59]株式移転による共同持ち株会社方式のため、大丸はキャッシュ負担なく名古屋本店・銀座店など松坂屋の優良資産をグループに取り込んだ
  • 有価証券報告書(株式会社大丸・第123期)/週刊東洋経済 2010年3月13日号
    • [60]2007年4月に株式会社松坂屋ホールディングスとの経営統合を決議し、同年9月に株式移転により共同持株会社J.フロント リテイリングを設立して大丸は上場廃止となった。大阪証券取引所への上場は1949年5月。2010年3月時点の報道は大丸心斎橋店を「大丸松坂屋百貨店」の店舗として扱っている
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]」
    • [53]「いいえ、大丸は単独資本として生き残ることを考えています。チェーンストアと違って、百貨店の場合には合併してもバイイング・パワー(購買力)が飛躍的に高まるわけではなく、あまり利点がないんですね。(中略)三越さんと合併などということはあり得ません」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号
    • [54]単独改革の限界かを問われ「それはない。単独でも売上高1兆円、営業利益500億円をやれる見通しは持っていた」と答えた
    • [55]「百貨店のマーケットは今後も縮小していくだろう。そうすると、もう単独では生き残れない。食品業界がまさにそうだ。人口が減少していくと、それ以上にマーケットが小さくなる。大丸も下手をすると脱落する」
    • [56]「松坂屋さんとは70年ごろから業務提携をしていて、うちと近い関係だった。大丸の店舗が手薄な東京から名古屋をうまく埋められる。さらに松坂屋は財務内容がいい。よい結婚相手だと思う」
    • [58]「統合により、大丸の経営効率は一時的ながら悪化する。これまでの10年、ひたすら効率化を掲げて改革を推進してきた大丸にとって、今の松坂屋は足を引っ張るだけの存在である」。松坂屋銀座店の2006年度年商は164億円で三越銀座店の30%未満だった
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/有価証券報告書(第123期)
    • [57]2006年度の営業利益率は大丸4.1%、松坂屋2.1%。大丸の2007年2月期連結営業利益は346億71百万円
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号/同 2007年3月3日号「流通 規模を最優先!? 大丸と松坂屋が統合急ぐ事情」
    • [59]株式移転による共同持ち株会社方式のため、大丸はキャッシュ負担なく名古屋本店・銀座店など松坂屋の優良資産をグループに取り込んだ
  • 有価証券報告書(株式会社大丸・第123期)/週刊東洋経済 2010年3月13日号
    • [60]2007年4月に株式会社松坂屋ホールディングスとの経営統合を決議し、同年9月に株式移転により共同持株会社J.フロント リテイリングを設立して大丸は上場廃止となった。大阪証券取引所への上場は1949年5月。2010年3月時点の報道は大丸心斎橋店を「大丸松坂屋百貨店」の店舗として扱っている

大丸の沿革1717〜2007年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業★★★
大阪・心斎橋筋に出店★★
個人経営を改め「株式合資会社大丸呉服店」を設立し、東京を本店、京都・大阪・名古屋を支店とする★★★
東京本店と名古屋支店を閉鎖して本店を京都へ移し、販売方法を座売式から陳列式へ改める★★★
京都店を分離して合名会社京都大丸呉服店とし、株式合資会社大丸呉服店は本店を大阪へ移して神戸支店を設置★★
大阪本店が罹災★★
「株式会社大丸呉服店」を設立し、株式合資会社大丸呉服店の営業一切を譲り受ける★★★
里見純吉の提案により定休日制を導入★★
大陸各地とシンガポール・ラングーンなどに20余の支店・出張所を開設★★
神戸店を三宮神社前の現在地へ移転
商号を「株式会社大丸」に変更★★
「株式会社京都大丸」を吸収合併し、分立していた大阪・京都の両大丸が1社となる★★★
大阪店(心斎橋店)新館が完成し、御堂筋・心斎橋筋・清水町・大宝寺町に囲まれた延1万2,500坪の店舗群となる★★
大丸興業を吸収合併
空襲により大阪本店の五階以上を焼失し、5月には神戸別館も焼失★★
白木屋との合併総会当日に大蔵省から中止通達を受け、特別経理会社への指定を理由に合併が流れる★★
住友本社上席常務理事だった北沢敬二郎が顧問として入社
総合商社部門を「大丸興業株式会社」として分離独立★★
大阪証券取引所に株式を上場(1961年10月に第一部上場)
北沢敬二郎が社長に就任し、里見純吉は代表権のある会長として残る★★
業態の異なる事業の存廃を決め、残した事業を別の独立会社として切り出す。人員整理は行わない★★★
東京証券取引所に株式を上場(1961年10月に第一部上場)
福岡市・上呉服町に「博多大丸」を開店
東京駅八重洲口の民衆駅・鉄道会館ビルに約2万8,000平方メートルを賃借して東京店を開店★★★
大丸ピーコック第1号店を枚方市・香里に開店★★
華僑資本との合弁で香港大丸を開店★★
北沢敬二郎が社長在任14年で退き会長に就任
日経流通新聞が小売業調査を開始した最初の年度に、全国小売業の売上高第1位となる★★★
ダイエーが3,052億円で三越を抜き小売業首位に立ち、百貨店が小売業の頂点から降りる★★
「博多大丸」を福岡市・天神へ移転
神戸・新長田に新長田店を開店
1982年度決算が梅田店の開業負担で大幅減益となり、八王子大丸を閉鎖★★
大阪・梅田に梅田店を開店★★
CISを導入し新企業マークを制定
消費科学研究所を分離独立
ホームショッピング部門とクレジット部門を分離独立
情報処理部門を分離独立
首都圏の総合事務館「大丸コアビル」を新設
阪神・淡路大震災で被災した神戸店が全体復興★★
奥田務が社長に就任し、創業家の下村正太郎会長から経営を引き継ぐ★★★
香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退し、約140億円の損失を計上(うち香港分は約70億円)★★★
京都・山科に山科店を開店
希望退職に746人が応じて退職★★
中期経営計画(1999〜2001年度)を策定し、売上至上主義から利益第一主義へ経営方針を転換★★★
山本良一を営業改革推進部長に起用し、全売場の業務を洗い出す営業改革に着手★★
和歌山店を閉鎖★★
商事部門を「大丸興業株式会社」へ営業譲渡★★
建装部門を「株式会社大丸装工」として分離独立★★
「株式会社ダイマル」を吸収分割し、須磨店と芦屋店を直営化
環境マネジメントシステム規格「ISO14001」の認証を取得
「株式会社博多大丸」と「株式会社長崎大丸」が合併
札幌市に札幌店を開店★★
奥田務が会長兼CEOに就き、山本良一が社長に就任
「中央興業株式会社」及び「大央不動産株式会社」を吸収合併
バイヤーを本部に集約し、本部一括仕入れへ移行★★
「株式会社アソシア」株式を日本郵政公社へ一部譲渡
神奈川・横浜にららぽーと横浜店を開店
株式会社松坂屋ホールディングスとの経営統合を取締役会で決議★★★
株式移転により松坂屋ホールディングスと共同持株会社J.フロント リテイリングを設立し、大丸は上場廃止となる★★★
出典・参考

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