三越 の歴史

創業

1673年

創業者

三井高利

創業地

江戸日本橋

直近売上高(2008/2)

7,740億円

長期業績と転換点(1979/2〜2008/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ三越は1904年の「デパートメントストア宣言」より先に座売りを全廃していたのか
A 三越が1904年12月の「デパートメントストア宣言」より先に売り方を変えていたのは、陳列販売でなければ不特定多数の客をさばけなかったからである。明治28年11月に本店階上を陳列場へ改築し、33年10月には全階を陳列場として座売りを全廃した。座売りは一人の客に一人の店員が張り付く売り方で、扱う品目を増やすほど人が足りなくなる。宣言は改革の開始ではなく、すでに終えた改革の対外的な確認だった
Q なぜ三越は1997年まで日本橋本店に利益の75%を頼る構造を変えられなかったのか
A 三越が本店依存を変えられなかったのは、その構造が同時に最大の収益源だったからである。1997年時点で日本橋本店は年商3,000億円強で単店売上日本一、全体の売上の40%以上と利益の75%ほどを稼いでいた。強みは三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」の多さにあった。だが法人需要は構造的に減り、御帳場は顧客の高齢化と社員の高コスト構造をもたらした
Q なぜ三越は2007年に単独での再建をやめて伊勢丹との統合を選んだのか
A 三越が単独再建をやめて伊勢丹との統合を選んだのは、理由が一つではなく複数重なったからである。セール中止と自主編集売場という2年の改革は成果に届かず、営業利益は伊勢丹や大丸の半分以下に落ちた。大阪・梅田店を目玉とする6カ年計画は1,800億円の投資を要したが、当時のキャッシュフローで確保できるのは1,000億円程度だった。含み益を抱えながら株価は低迷し、買収の標的とされる噂も絶えなかった

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1673年〜 越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店

  1. 1673年 三井高利が呉服商「越後屋」を開業
  2. 1683年 「現銀掛値なし」の商法を開始
  3. 1683年 本店を駿河町に移転
  4. 1872年 呉服業が三井家から分離

越後屋の創業と、現銀掛値なしが生んだ江戸一番の店

三越の起源は、延宝元年(1673年)に三井高利氏が江戸へ開いた呉服商「越後屋」[1]にさかのぼる。開店の地に選んだ本町一丁目は、多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街[2]だった。高利氏が借りたのは間口一間半の小さな借家[3]である。屋号の越後屋は、三井家の祖先が近江源氏の嫡流六角佐々木家に仕えた武士[4]だったことに由来する。六角佐々木家が織田信長に滅ぼされると三井越後守高安は伊勢へ移り、その子の高俊が刀を捨てて町人になった[5]。越後屋は三井家の経営にかかり[6]、江戸時代を通じて同じ地で呉服店の商いが続いた[7]。のちに百貨店となる各社はいずれも江戸期の呉服商を前身としており、いとう呉服店は1611年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業[8]にあたる。

店が火災に遭ったのを機に、越後屋は天和三年(1683年)に南隣りの駿河町へ移った[9]。移転にあわせて高利氏は大々的な宣伝を打ち、「現銀掛値なし」と称する新商法[10]を打ち出した。掛値なしとは、客を見て値を上下させず、定価で売る[11]ことをいう。現銀のほうは、当時の慣行だった盆暮れ二回払いの掛売りをやめ、店頭で現金を受け取る[12]売り方を指す。この二つによって越後屋はふりの客を集め[13]、同時に現金収入を得た。高利氏はその後も江戸の大衆の動向を察した新趣向[14]を次々に打ち出し、商いは繁昌した。越後屋は江戸一番の店となり、多い日には一日に1000両の商い[15]があった。当時の江戸では「芝居1000両、魚河岸1000両、越後屋1000両」[16]と並べて称されている。

駿河町へ移ってのち、越後屋は両替の仕事を始めた[17]。三越と銀行が三井の発祥[18]と呼ばれるのは、高利氏がこの二つを同じ地で兼ねたためである。江戸時代後半の三井は、呉服業である越後屋と両替為替業とを車の両輪[19]として、当時最大の企業へ発展した。三井高利氏は52歳で江戸へ出て、72歳で他界するまでの20年間に7万2000両、時価にして190億円から200億円[20]に達する遺産を残した。家産を一括して管理し運用したのは大元方[21]で、営業規則の制定、決算の監査、経営の指導、主要人事の決定[22]にまで権限が及んだ。家産の半分近くを占めた不動産は「家方」が受け持ち[23]、借地と借家人の選定、地代と店賃の取り立て[24]にあたった。二代目の三井高平氏は「宗竺遺書」の名で家法を遺し、「功ある者よく取立て立身申付け」[25]るべきことを説いている。

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [1]延宝元年(1673年) 三井高利氏が呉服商「越後屋」を創業
    • [2]開店地の本町一丁目は多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街
    • [3]開店時の店舗は間口一間半の借家
    • [4]屋号「越後屋」の由来 三井家の祖先は近江源氏嫡流六角佐々木家に仕えた武士
    • [5]六角佐々木家の滅亡後、三井越後守高安が伊勢へ移り、子の高俊が町人となった
    • [9]天和3年(1683年) 火災を機に南隣りの駿河町へ移転
    • [10]駿河町移転を機に大々的に宣伝し「現銀掛値なし」の新商法を打ち出した
    • [12]当時の慣行は盆暮れの二回払い。越後屋はこれをやめ店頭で現金を受け取った
    • [13]「現銀掛値なし」でふりの客を集め現金収入を得た
    • [14]三井高利氏は江戸の大衆の動向を察した新趣向を次々に打ち出した
    • [15]越後屋は江戸一番の店となり多い日は一日1000両の商い
    • [16]「芝居一〇〇〇両、魚河岸一〇〇〇両、越後屋一〇〇〇両」
    • [17]駿河町移転後に両替業を開始
    • [18]三越と銀行が三井の発祥といわれる由来
    • [20]三井高利氏は52歳で江戸へ出て72歳で他界するまでの20年間に遺産7万2000両(時価190〜200億円)を残した
    • [6]越後屋は三井家の経営にかかった
    • [11]越後屋の商法は店頭現金売と定価販売
    • [7]江戸時代を通じて同地で呉服店の経営を継続
    • [8]呉服店起源の系譜 いとう呉服店1611年・越後屋1673年・大丸1717年・高島屋1831年
    • [19]江戸時代後半の三井は呉服業と両替為替業を車の両輪として最大の企業に発展
    • [21]三井家の家産を一括管理・運用したのは大元方
    • [22]大元方の権限は営業規則の制定・決算の監査・経営の指導・主要人事の決定に及んだ
    • [23]家産の半分近くを占めた不動産を担当したのが「家方」
    • [24]家方の職掌は借地・借家人の選定、地代・店賃の取り立て
    • [25]二代目の三井高平氏が「宗竺遺書」の名で遺した家法の一節「功ある者よく取立て立身申付け」

三野村利左衛門氏の決断と「三越」の名の始まり

江戸時代末期の三井は、表向きの華やかさとは裏腹に台所が火の車[26]だった。不良資産が増え、幕府や大名への御用金など貸付金が固定化し、流動資金は極端に涸渇[27]していた。この危機を救ったのが、番頭の三野村利左衛門氏[28]である。三野村氏はもともと駿河台の旗本小栗家の雇仲間として働く一介の両替商[29]にすぎなかったが、小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があり[30]、三井の番頭として迎えられた。登用の後も幕府との接触を保ち、幕府公金の導入によって三井の営業分野を広げている[31]。幕末の革命期には豪商がことごとく没落したが、そのなかで鴻池と三井は生き残った[32]

    • [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
    • [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
    • [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
    • [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
    • [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
    • [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
    • [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った

三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派との関係を深め[33]、東西呼応して推移を見守っていた。慶応四年、三井は勤皇派を支持する旗幟を鮮明にした[34]。小野組・島田組とともに明治新政府の必要資金である会計基立金320万両の徴募に応じ[35]、新政府の財政を担うに至る。混乱の極にあった幣制の整理と銀行制度の確立[36]にも役割を負い、これらを推し進めたのも三野村氏だった。明治四年六月には、為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名[37]を受けている。同じ明治四年、三井は海運橋に三井組ハウスを建てた[38]。当時の日本で最も高い建築物にあたり、駿河町の為替バンク三井組[39]の建物がこれに続いた。

    • [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
    • [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
    • [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
    • [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
    • [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
    • [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
    • [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設

単独指名には難問がついていた[40]。呉服業を廃止して銀行業に専念せよ[41]、という条件である。創業以来の本業である呉服業を切り捨てることはできず、三井の内部では議論が分かれたが、三野村氏は決断してこの条件を受け入れた[42]。用意した苦肉の策は、三井家のうち三家を三越家と改姓し、呉服業をその経営へ移す[43]ことだった。これが今日の「三越」の始まり[44]であり、三井と越後屋の双方に由来を持つ名[45]が、ここで生まれている。改姓した三家が呉服業を引き受け、三井家の本体は銀行業に専念した[46]。呉服店は明治五年三月に三井家から分離[47]した。

    • [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
    • [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
    • [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
    • [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
    • [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
    • [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
    • [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った
    • [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
    • [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
    • [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
    • [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
    • [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
    • [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
    • [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設
    • [40]兌換業務の単独指名には条件が付いていた
    • [41]条件は「呉服業を廃止して、銀行業に専念せよ」
    • [42]本業切り捨てに三井内の議論は分かれたが三野村利左衛門氏が決断して条件を受け入れた
    • [43]三野村利左衛門氏の苦肉の策 三井家のうち三家を三越家と改姓し呉服業をその経営へ移した
    • [44]これが今日の「三越」の始まり
    • [46]改姓した三家が呉服業を担い、三井本体は銀行業に専念した
    • [45]「三越」の名は越後屋とその後身である三井呉服店との関連でできた
    • [47]明治5年3月 呉服店が三井家より分離

1873年〜 三井呉服店から三越呉服店へ、座売り全廃とデパートメントストア宣言

  1. 1895年 呉服の陳列販売を開始
  2. 1896年 三越呉服店に商号変更
  3. 1900年 座売りを全廃
  4. 1904年 座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言 呉服だけを売り続けるか、扱う品目を広げるか——売り方の改造が宣言より先にあった十年
  5. 1904年 越後屋以来の事業を継承して三越呉服店を設立
  6. 1907年 靴・鞄・履物・洋傘の販売を開始
  7. 1914年 本店新館が竣工

合名会社への改組と、わが国最初の呉服陳列販売

明治五年に三井家から離れた呉服店の所属はその後も定まらず、明治26年には商法の施行にあわせて三井が銀行・物産・鉱山および三井呉服店を合名会社へ改組[48][49]した。同じ年の10月には三井家同族会と三井元方が設けられている[50]。ところが明治28年8月、呉服店は以前の形態で三井本家へ復帰した[51]。30年足らずのあいだに、組織の形は分離・改組・復帰と三度変わっている[52]。合名会社の期間に三越は洋式の近代商法を取り入れ、最初の試みとして婦人店員を採用した[53]。商品の輸送に貨物自動車を採った[54]のも、三井呉服店が国内で早い例にあたる。

売り方の改造は明治28年11月に始まり、本店の階上を陳列場へ改築して、わが国最初の呉服陳列販売[55]を採り入れた。翌29年9月には三越呉服店へ改称している[56]。明治32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げ、街頭広告の先鞭[57]をつけた。そして明治33年10月、本店の全階を陳列場として従来の座売りを全廃した[58]。座売りでは店員が客の前に反物を出したが、陳列販売では客が売場を歩いて自分で商品を選ぶ[59]。陳列販売の採用から座売りの全廃までは5年[60]を要している。三越呉服店へ改称した後の10年間には、営業の一切にわたる改革が行われた[61]

    • [55]明治28年11月 本店階上を陳列場に改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採用
    • [56]明治29年9月 三越呉服店へ改称
    • [57]明治32年6月 新橋駅頭に等身大ポスターを掲示し街頭広告の先鞭をつけた
    • [58]明治33年10月 本店全階を陳列場とし座売りを全廃
    • [59]座売りから商品陳列式売場への転換
    • [60]明治28年11月の陳列販売採用から明治33年10月の座売り全廃まで5年
    • [61]三越呉服店への改称後10年間に営業の一切にわたる改革を実施

株式会社三越呉服店の設立とデパートメントストア宣言

明治37年(1904年)12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立された[62]。越後屋以来の事業と、東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店の一切を引き継いでいる[63]。設立と同じ月に、三越は「デパートメントストア宣言」を発した[64]。ただし呉服店の名を掲げたままの株式会社化であり、商号から呉服店が外れるのは昭和3年6月[65]である。宣言の時点で扱う商品はなお呉服が中心で、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工[66]にあわせてであった。設立時の資本金50万円は、その後の6年で200万円まで積み増されている[67]

株式会社となった三越は新しい組織のもとで、日露戦争後の経済的発展と、いっそう活発になった生活風俗の欧米化[68]に歩調を合わせる方針を採った。呉服以外の販売商品を増やし、明治40年頃からは靴や鞄、履物、洋傘、櫛を売り、食堂と写真撮影部も設けている[69]。同じ明治40年の5月には大阪店を開いた[70]。翌41年には洋風三階建の新建築が完成し、百貨店としての形態を整えている[71]。同年6月に資本金を100万円へ増資し、京城および大連へ出張所を設け[72]、これらはのちに支店となった。明治43年3月には資本金を200万円へ増やし、44年7月に五階建・延4,000坪の建築へ着手する。大正3年9月、ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工した[74]。当時の新聞はこれを「スエズ運河以東の大建築」[75]と書きたてている。竣工を機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した[76][73]

    • [68]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [71]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [72]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [73]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [76]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備
    • [69]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [74]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [75]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [70]明治40年5月 大阪店開店
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [62]明治37年12月10日 資本金50万円で株式会社三越呉服店を設立
    • [64]設立と同月に「デパートメントストア宣言」を発した
    • [65]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更
    • [70]明治40年5月 大阪店開店
    • [63]東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店など一切を引き継いだ
    • [69]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [74]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [75]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
    • [66]大正3年9月の新館竣工にあわせ食料品・園芸売場を新設
    • [67]明治41年6月に100万円、明治43年3月に200万円へ増資
    • [68]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [71]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [72]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [73]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [76]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備

三越マーケットの開設と、関東大震災による本店全焼

欧州大戦の終結を契機とした好景気を反映し、三越の業績は著しい進展[77]を遂げた。事業の規模も年を追って広がり、大正9年1月には資本金が1,200万円となっている[78]。同じ時期に常設の実用品売場「三越マーケット」を開き[79]、大衆との結びつきを図った。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が人口に膾炙した[80]のも、このころにあたる。エレベーターと暖房換気の設備に加え、日本で最初のエスカレーターが通じ、全館の天井にスプリンクラーが据え付けられた本店は、一躍「日本の新名所」[81]と呼ばれた。呉服から日用の実用品まで扱う売場を常設した[82]ことで、三越の客層は上得意の外へ広がっている。

大正12年9月の関東大震災で、三越は本店と丸ノ内別館を焼失[83]した。災害の損失は737万5,000円に上り、資本金を700万円へ減らす[84]ほかなかった。応急策として本店の隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開き[85]、物資不足と交通の不便に悩む市民の生活に応じている[86]。このマーケットが、のちに新宿店と銀座店を開く機縁[87]となった。震災はもう一つの変化をもたらし、従来の下足預り制度を廃したことで三越の売場は一段と大衆に開かれた[88]。震災後の都市計画とあわせて近接郊外地域への交通機関が発達し、三越には復興を超える発展の機会[89]が開けている。

    • [77]欧州大戦終結を契機とした好景気を反映して業績が著しく進展
    • [78]大正9年1月 資本金1,200万円
    • [79]常設の実用品売場「三越マーケット」を開設し大衆との結びつきを図った
    • [80]「今日は帝劇、明日は三越」の標語が人口に膾炙した
    • [82]実用品売場の常設により客層が広がった
    • [84]震災の災害損失737万5,000円、700万円へ減資
    • [86]応急マーケットが物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に寄与
    • [87]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁となった
    • [88]震災を機に下足預り制度を廃止し一段と大衆化された
    • [89]震災後の都市計画と近接郊外地域への交通機関の発達により復興以上の発展の機会に恵まれた
    • [81]本店はエレベーター・暖房換気設備、日本初のエスカレーター、全館スプリンクラーを備え「日本の新名所」となった
    • [85]本店隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開設して復旧に努めた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [83]大正12年9月 関東大震災により本店全焼

1924年〜 支店網の全国化と戦時の受難、東洋一の規模と首位の陥落

  1. 1928年 三越に商号変更
  2. 1937年 百貨店法の施行により店舗の拡張・新設が制限
  3. 1945年 銀座店・高松店・仙台店が空襲により焼失
  4. 1945年 大阪店と札幌店が接収
  5. 1971年 パリ三越を開店
  6. 1972年 岡田茂氏が社長に就任
  7. 1972年 小売業の売上首位をダイエーに明け渡す

商号変更と、六年で六店を置いた支店網

震災の翌年にあたる大正13年10月、三越は資本金を1,500万円へ増やした[90]。資本金は震災直後に700万円まで減っており[91]、増資はその2倍を超える水準にあたる。あわせて東京市内の各マーケットを分店とし、のちの新宿店と銀座店の開設[92]につなげている。復旧の過程で開いた仮設の売場が、そのまま常設の分店へ変わった[93]。昭和2年4月には本店全館の修築が完成し、三越ホールが開場した[94]。同じ年の7月には、食品の製造卸売を手がける二幸商会を設けている[95]。大正12年9月に本店を失ってから、修築の完成までに3年7か月[96]を要している。

昭和3年6月、三越は商号を株式会社三越へ変更し、同じ月に神戸店を開いた[97]。呉服店の名を外したのは、デパートメントストア宣言から24年後[98]にあたる。昭和5年4月に銀座店、同年10月に新宿店を開き、6年3月に高松店、7年5月に札幌店、8年4月に仙台店[99]と続けている。昭和3年から8年にかけての6年間で、三越は6つの支店を置き、信用を全国へ広げた[100]。銀座店と新宿店については、震災の応急マーケットが開設の機縁になっている[101]。昭和6年4月には資本金を3,000万円へ増やし、株式を東株の長期清算市場へ上場した[102]。昭和7年には地下鉄の三越前駅が開設されて地下売場と直結[103]し、昭和10年10月に本店の大増築改修工事が完成している[104]

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [97]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更、神戸店開店
    • [98]明治37年12月のデパートメントストア宣言から昭和3年6月の商号変更まで24年
    • [99]昭和5年4月銀座店・5年10月新宿店・6年3月高松店・7年5月札幌店・8年4月仙台店を開設
    • [100]昭和3年から8年にかけて新宿・銀座・神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設し、支店網の確立により信用を全国に広めた
    • [101]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁
    • [104]昭和10年10月 本店の大増築改修工事が完成
    • [102]昭和6年4月 資本金3,000万円へ増資し東株の長期清算市場へ上場
    • [103]昭和7年 地下鉄「三越前駅」開設で地下売場と直結
    • [90]大正13年10月 資本金1,500万円へ増資
    • [92]東京市内の各マーケットを分店とし、新宿支店・銀座支店の開設につながった
    • [93]震災の応急マーケットが常設の分店に転じた
    • [102]昭和6年4月 資本金3,000万円へ増資し東株の長期清算市場へ上場
    • [103]昭和7年 地下鉄「三越前駅」開設で地下売場と直結
    • [91]震災の損害補填で資本金を700万円へ減額していた
    • [100]昭和3年から8年にかけて新宿・銀座・神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設し、支店網の確立により信用を全国に広めた
    • [101]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁
    • [104]昭和10年10月 本店の大増築改修工事が完成
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [94]昭和2年4月 本店修築完成、三越ホール開場
    • [95]昭和2年7月 食品製造卸売の株式会社二幸商会を設立
    • [96]大正12年9月の本店全焼から昭和2年4月の本店修築完成まで3年7か月
    • [97]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更、神戸店開店
    • [98]明治37年12月のデパートメントストア宣言から昭和3年6月の商号変更まで24年
    • [99]昭和5年4月銀座店・5年10月新宿店・6年3月高松店・7年5月札幌店・8年4月仙台店を開設

百貨店法と戦時統制、売場八割の供出

昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発、太平洋戦争への移行が続き、三越は統制の強化と売場の供出[105]を受けた。供出は売場面積の8割[106]に達している。百貨店法により店舗の拡張や新設にも制限がかかり[107]、店を増やして伸びてきた三越の手法はそこで止まった。昭和13年頃からは物資の統制で販売が窮屈になり、電力制限でエスカレーターが運休し、鉄鋼品供出令[108]によってその姿を消した。代用品の開発普及、慰問品や防空用品の売場開設[109]など、時勢の要求に応じる商いへ変わっている。三越はここで、創業以来の最悪期を迎えた[110]

銀座・高松・仙台の各支店は空襲[111]によって焼失した。終戦にともない大阪と札幌の両支店は接収され、京城と大連の在外支店も失われている[112]。戦前に敷いた支店網は、そのまま戦災と接収の対象になった[113]。昭和20年10月、三越は戦災を免れた日本橋本店の復旧を急いだ[114]。翌21年10月には松山店を開き、23年1月に三越縫製工場を設けている[115]。同じ23年10月には、資本金を9,000万円へ増やしている[116]。生活必需品の配給と物価の安定に協力しながら、三越劇場と展覧会場で催物を開き、財団法人三越診療所も設けている[117]

昭和24年5月、三越は東京証券取引所の開設と同時に株式を上場した[118]。昭和26年には本店の全館を再び使えるようになり、店舗施設は戦前を上回る水準[119]へ戻っている。朝鮮動乱を契機に消費景気は回復し、三越は店舗施設の拡充と更新投資を続けながら機構の近代化[120]に努めた。同26年の資本金は15億円、年間売上は169億円強、利益は2億9,200万円[121]だった。昭和26年10月に再評価積立金の一部を組み入れて資本金を15億円とし、29年12月には資本組入により18億6,000万円[122]へ引き上げている。戦後の増資は、いずれも再評価積立金の組み入れによるもの[123]だった。

    • [105]「十二年の百貨店法施行日華事変の勃発、太平洋戦争への移行と戦火が拡大されるに及んで統制の強化、売場の供出(売場面積の八〇%)等受難時代を迎え」
    • [106]売場の供出は売場面積の80%
    • [107]百貨店法により店舗の拡張・新設に制限を受けた
    • [111]銀座・高松・仙台の各支店が空襲により焼失
    • [112]終戦にともない大阪・札幌の両支店が接収され、在外支店を喪失
    • [113]戦前に確立した支店網が戦災・接収の対象となった
    • [116]昭和23年10月 資本金9,000万円へ増資
    • [117]生活必需品の配給・物価安定に協力し、三越劇場と展覧会場で催物、財団法人三越診療所を設置
    • [119]昭和26年 本店全館の使用を回復し、店舗施設が戦前を上回る水準に復活
    • [122]昭和26年10月 再評価積立金の一部組入で15億円、昭和29年12月 資本組入で18億6,000万円
    • [123]戦後の増資は再評価積立金の組み入れによるもの
    • [108]昭和13年頃から物資統制で販売が窮屈になり、電力制限でエスカレーター運休、鉄鋼品供出令で撤去された
    • [109]代用品の開発普及、慰問品・防空用品売場の開設など時勢の要求に即応した
    • [110]戦時期は創業以来の最悪期にあたる
    • [114]昭和20年10月 戦災を免れた日本橋本店の復旧を急いだ
    • [120]朝鮮動乱を契機に消費景気が回復し、店舗施設の拡充・更新投資と機構近代化を継続
    • [121]昭和26年 資本金15億円・年間売上169億円強・利益2億9,200万円
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [115]昭和21年10月 松山店開店、昭和23年1月 三越縫製工場設立
    • [118]昭和24年5月 東京証券取引所の開設と同時に株式を上場

東洋一の規模と、ダイエーに明け渡した首位

昭和29年(1954年)の三越の年間総売上高は248億円で、全国百貨店の13%強[124]を占めた。商品券の売上高は9億3,000万円に達し、こちらは全国の29%強[125]にあたる。本支店の店舗面積は延4万2,800坪で、全国百貨店の11%強[126]である。売上のシェアが面積のシェアを2ポイント上回り[127]、商品券では3割近くを取っていた。同年12月には本店隣接の土地467坪に、延4,600坪の増築工事へ着手[128]している。完成すれば2万坪強の店舗となり、東洋一の百貨店になる計算[129]だった。当時の社長は岩瀬英一郎氏[130]で、三越は節目ごとに三井銀行から人を迎えていた[131]

    • [124]昭和29年 年間総売上高248億円(全国百貨店の13%強)
    • [125]昭和29年 商品券売上高9億3,000万円(全国の29%強)
    • [126]本支店の店舗面積は延4万2,800坪(全国百貨店の11%強)
    • [127]売上シェア13%強に対し面積シェアは11%強、商品券は29%強
    • [128]昭和29年12月 本店隣接地467坪に延4,600坪の増築工事へ着工
    • [129]増築完成後は2万坪強の店舗となり東洋一の百貨店となる見込み
    • [130]1955年時点の社長は岩瀬英一郎
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [131]三越は節目ごとに三井銀行から世話人を迎えていた

昭和36年度の売上高は548億円、利益は13億9,100万円で、10年間で売上は3倍強、利益は5倍[132]に伸びた。昭和41年度にはさらに利益28億円、売上高935億円へ達し、26年比では利益が10倍、売上が5.5倍[133]となっている。増資は昭和29年12月以降に5回を数え、42年7月払込みの半額増資で資本金は100億円を超えた[134]。昭和43年の従業員は1万500名、総売場面積は17万平方メートル[135]である。松田伊三雄氏が社長として積極経営を前面に押し出した[136]時期にあたる。昭和43年2月期は歳末の大型消費景気を捉えて半期売上高が500億円を突破し、純益17億円を計上した[137]

    • [132]昭和36年度 売上548億円・利益13億9,100万円(10年で売上3倍強・利益5倍)
    • [133]昭和41年度 利益28億円・売上高935億円(昭和26年比で利益10倍・売上5.5倍)
    • [134]昭和29年12月以降5回の増資、昭和42年7月払込みの半額増資で資本金100億円を突破
    • [135]従業員1万500名、総売場面積17万平方メートル
    • [136]松田伊三雄社長の陣頭指揮のもと積極経営を前面に押し出した
    • [137]昭和43年2月期 歳末の大型消費景気で半期売上高500億円突破・純益17億円

戦後の店舗網はさらに広がり、昭和32年10月に池袋店、43年7月に枚方店を開き、46年6月には海外第一号店としてパリ三越[138]を開いている。一方でスーパーストアやチェーンストアの追い上げを受けて業界は苦境に立ち、三越は関連企業を通じて都市近郊に衛星店を設ける策[139]を採った。それでも昭和47年、ダイエーが売上高3,052億円で3,000億円を突破し、2,924億円にとどまった三越を抜いて[140]小売業の首位に立った。ダイエーの創業から15年での交代[141]である。三越が小売業の売上首位を明け渡したのは、この年[142]にあたる。

    • [124]昭和29年 年間総売上高248億円(全国百貨店の13%強)
    • [125]昭和29年 商品券売上高9億3,000万円(全国の29%強)
    • [126]本支店の店舗面積は延4万2,800坪(全国百貨店の11%強)
    • [127]売上シェア13%強に対し面積シェアは11%強、商品券は29%強
    • [128]昭和29年12月 本店隣接地467坪に延4,600坪の増築工事へ着工
    • [129]増築完成後は2万坪強の店舗となり東洋一の百貨店となる見込み
    • [130]1955年時点の社長は岩瀬英一郎
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [131]三越は節目ごとに三井銀行から世話人を迎えていた
    • [132]昭和36年度 売上548億円・利益13億9,100万円(10年で売上3倍強・利益5倍)
    • [133]昭和41年度 利益28億円・売上高935億円(昭和26年比で利益10倍・売上5.5倍)
    • [134]昭和29年12月以降5回の増資、昭和42年7月払込みの半額増資で資本金100億円を突破
    • [135]従業員1万500名、総売場面積17万平方メートル
    • [136]松田伊三雄社長の陣頭指揮のもと積極経営を前面に押し出した
    • [137]昭和43年2月期 歳末の大型消費景気で半期売上高500億円突破・純益17億円
    • [139]スーパー・チェーンストアの追い上げで業界は苦境に立ち、関連企業を通じ都市近郊に衛星店を展開
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [138]昭和32年10月 池袋店、昭和43年7月 枚方店、昭和46年6月 海外第一号店パリ三越を開店
    • [140]昭和47年 ダイエーが売上高3,052億円で2,924億円の三越を抜き小売業首位
    • [141]ダイエーは昭和32年の創業以来わずか15年で首位に立った
    • [142]昭和47年に三越が小売業の売上首位を明け渡した

1973年〜 岡田茂社長の解任と「拡・百貨店」の失敗、のれんを残した統合

三越の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1973年 三井グループの社長会「二木会」に加盟
  2. 1979年 公正取引委員会から排除勧告
  3. 1982年 岡田茂氏を社長から解任
  4. 1982年 不良在庫の処分損により51億円の欠損を計上
  5. 1988年 「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発 本業の建て直しか、店の外への進出か——坂倉芳明社長が選んだ多角化と、10年伏せられた580億円
  6. 2005年 横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃 315年の大阪店を畳んで梅田再進出まで6年空けるか、年40億円の赤字を抱えたまま関西の拠点を残すか
  7. 2008年 伊勢丹と三越の経営統合・三越伊勢丹ホールディングス発足(2008年成立) 躍進した伊勢丹が老舗の三越を取り込み、なぜ百貨店業界首位の連合が生まれたのか?

岡田茂社長の十年と、1982年の電撃解任

昭和48年、三越は4月に広島店、11月に横浜店を開いた[143]。同じ年の1月には、三井グループの社長会である二木会へ正式に加盟している[144]。戦前は三井合名と深い関係にありながら戦後にやや疎遠となっていた企業が、このとき元のサヤへ収まった[145]。東芝や王子製紙と並んで準メンバーから加わった[146]経緯にあたる。社長は1972年から1982年まで岡田茂氏が務めた[147]。宣伝畑の出身で、マスコミ受けするイベントによって三越に急成長をもたらした[148]経営者である。戦後50年間で社長の交代は5回しかなく[149]、三越の歴史は長期政権と重なっている。

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [143]昭和48年4月 広島店開店、昭和48年11月 横浜店開店
    • [144]三越の二木会(三井グループ社長会)正式加盟は昭和48年1月
    • [145]戦前は三井合名と深い関係にあり戦後やや疎遠になっていた企業が元のサヤに収まった
    • [146]東芝・王子製紙・三越が準メンバーとして二木会に加わった
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [147]岡田茂は1972年から1982年まで三越社長を務めた
    • [149]戦後50年間で社長の交代は5回だけだった
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [148]岡田茂は宣伝畑出身で、マスコミ受けするイベントにより急成長をもたらした

急成長の一方で、岡田氏は改装などの店舗投資には極端に臆病[150]だった。すでに出来上がった全国の店舗網に乗ったまま、商品政策にも手を入れなかった[151]。1979年には、納入業者への押しつけ販売を理由に公正取引委員会から排除勧告[152]を受けている。取引先に商品を買い取らせる商法が、独占禁止法に触れると判断された[153]。昭和57年度の決算では、不良在庫の処分損によって51億円の欠損[154]を計上している。百貨店が小売販売額に占める比率は、昭和49年の11.0%から60年には7.6%へ下がった[155]。同じ昭和57年度には、大丸も梅田店の開業負担で大幅な減益[156]に陥った。

1982年、岡田氏は乱脈経理と商品納入をめぐるスキャンダルによって解任され、逮捕された[157]。解任を告げられた際の「なぜだ」の一言は広く知られている[158]。企業の私物化を野放しにしてきた風土への批判は強く[159]、三越はその後の経営の近代化に努めたはずだった。長期政権が生まれた背景には、役員の任期が明確でなく定年制もないという仕組み[160]がある。稟議が下から積み上がる会社では上位者の決裁が最後に来るが、三越では会長と社長の判が先に押された伺い書が回された[161]。同じ仕組みは、15年後の特別損失の際にも問題になった[162]。1997年の特別損失に際して労働組合は経営刷新のビジョンを1998年1月までに作るよう要求したが、経営側が発足させた「経営改革推進委員会」は役員で構成されている[163]

  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [157]1982年 岡田茂が乱脈経理・商品納入のスキャンダルで解任・逮捕された
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [158]「「なぜだ」の一言を残して故・岡田茂氏が三越社長の座を追われたのは1982年のことだ」
    • [159]「岡田氏による企業私物化を野放しにしてきた風土への批判は強く、三越は経営の近代化へ努力してきたはずだった」
    • [160]「役員の任期が明確でなく、定年制もないため長期政権が生まれやすい」
    • [161]「三越では会長、社長の判が先に押された伺い書が回されるケースがよく見られるという」
    • [162]1997年の特別損失でも同じ意思決定の仕組みが問題となった
    • [163]労働組合は1998年1月を期限に経営刷新のビジョン作成を要求したが、経営側の「経営改革推進委員会」も役員で構成された
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [143]昭和48年4月 広島店開店、昭和48年11月 横浜店開店
    • [144]三越の二木会(三井グループ社長会)正式加盟は昭和48年1月
    • [145]戦前は三井合名と深い関係にあり戦後やや疎遠になっていた企業が元のサヤに収まった
    • [146]東芝・王子製紙・三越が準メンバーとして二木会に加わった
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [147]岡田茂は1972年から1982年まで三越社長を務めた
    • [149]戦後50年間で社長の交代は5回だけだった
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [148]岡田茂は宣伝畑出身で、マスコミ受けするイベントにより急成長をもたらした
    • [150]改装などの店舗投資には臆病で、商品政策もないがしろにした
    • [151]既存の全国店舗網に依存し商品政策に手を入れなかった
    • [157]1982年 岡田茂が乱脈経理・商品納入のスキャンダルで解任・逮捕された
    • [152]1979年 公正取引委員会が三越の納入業者への押しつけ販売に排除勧告
    • [153]押しつけ販売が独占禁止法違反と判断された
    • [154]昭和57年度決算 三越が不良在庫の処分損で51億円の欠損
    • [155]百貨店の小売販売額シェアは昭和49年11.0%から昭和60年7.6%へ低下
    • [156]昭和57年度は大丸も梅田店の開業負担で大幅減益
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [158]「「なぜだ」の一言を残して故・岡田茂氏が三越社長の座を追われたのは1982年のことだ」
    • [159]「岡田氏による企業私物化を野放しにしてきた風土への批判は強く、三越は経営の近代化へ努力してきたはずだった」
    • [160]「役員の任期が明確でなく、定年制もないため長期政権が生まれやすい」
    • [161]「三越では会長、社長の判が先に押された伺い書が回されるケースがよく見られるという」
    • [162]1997年の特別損失でも同じ意思決定の仕組みが問題となった
    • [163]労働組合は1998年1月を期限に経営刷新のビジョン作成を要求したが、経営側の「経営改革推進委員会」も役員で構成された

「拡・百貨店」の多角化と、446億円の特別損失

岡田氏と対立して三越を追われ、西武百貨店の社長を経て戻ったのが坂倉芳明氏[164]である。1986年から1995年まで社長、1997年まで会長[165]を務めた。掲げた路線は「拡・百貨店」と称する多角化で、ホテル・スポーツ・輸入車販売へ手を広げ[166]、海外出店とゴルフ場開発にも進んだ。1980年代後半のバブル期には総合生活産業を目指す動きが流行しており[167]、百貨店が本業の周辺へ広げるのは業界に共通の動きだった。三越の収益は東京日本橋の本店に寄っており、全社売上高の40%以上、利益では75%ほどを一店が稼いでいる[168]。三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」という強み[169]は、この時期に細り始めた。

  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [164]岡田茂と対立して三越を追われた坂倉芳明は西武百貨店社長を経て復帰した
    • [166]「拡・百貨店」の多角化路線でホテル・スポーツ・輸入車販売へ広げた
    • [167]1980年代後半のバブル期にはセゾングループに代表される総合生活産業が流行していた
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [165]坂倉芳明の在任は1986年から1995年(1997年まで会長)
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [168]日本橋本店が全社売上高の40%以上、利益の75%ほどを稼いでいた
    • [169]三井グループを背景にした法人外商と上得意客「御帳場」という強みが細り始めていた

ゴルフ場開発は坂倉氏の社長時代の1988年に始まり、土地取得だけで580億円を投じた[170]。三越は用地買収への支障を理由に、開発向けの融資を子会社を介して行っている[171]。伏せられていた相手は外部にとどまらず、労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末[172]だった。坂倉氏の前任社長であり、開発着手時には取締役会長だった市原晃氏も、「今回の特損の発表まで(開発について)知らなかった」[173]と述べている。開発物件と開発業者について、三越は特別損失の発表後も明らかにしなかった[174]。投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続いた[175]

  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [170]ゴルフ場開発は1988年に着手し土地取得だけで580億円を投じた
    • [171]用地買収への支障を理由にゴルフ場への融資を子会社経由で行い外部に漏れないようにしていた
    • [172]労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末
    • [173]「坂倉氏の前任の社長で、開発着手時には取締役会長だった市原晃相談役ですら「今回の特損の発表まで(開発について)知らなかった」という」
    • [174]開発物件と開発業者は特別損失の発表後も明らかにされなかった
    • [175]投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続いた

1997年10月3日、三越はゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し、1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落[176]すると発表した。責任を追及する声を受けて坂倉芳明氏は取締役を退任した[177]。三越は前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円[178]を抱えており、特損により連結の株主資本比率は一ケタ台へ落ち込む見込みとなった。連結・持分法適用の64社のうち24社が経常赤字[179]で、累損を抱えた子会社も多い。同じ時期に開業した福岡三越の投資負担は総額600億円、初年度の売上目標は410億円、単年度黒字化は7年後[180]という計算だった。前年11月には大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗し、提示価格はヨドバシカメラだけでなく二番札のパルコより低かった[181]。関西に拠点を持てないまま、九州へ600億円[182]を投じている。高島屋の新宿出店により、新宿地区の売上シェアは前年比2.6%上昇し、日本橋地区は1.4%減[183]で東京圏内で最も影響を受けた。

  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [176]1997年10月3日 ゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表
    • [177]坂倉芳明会長が取締役を退任
    • [178]前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円、連結株主資本比率は一ケタ台へ
    • [179]連結・持分法適用64社のうち24社が経常赤字
    • [180]福岡三越の投資負担は総額600億円、初年度売上目標410億円、7年で単年度黒字化
    • [181]「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」(1996年11月の大阪駅前国鉄跡地入札)
    • [182]関西に拠点を持てないまま九州へ600億円を投じた
    • [183]高島屋の新宿出店後、新宿地区が前年比2.6%上昇、日本橋地区は1.4%減で東京圏内で最も影響を受けた
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [164]岡田茂と対立して三越を追われた坂倉芳明は西武百貨店社長を経て復帰した
    • [166]「拡・百貨店」の多角化路線でホテル・スポーツ・輸入車販売へ広げた
    • [167]1980年代後半のバブル期にはセゾングループに代表される総合生活産業が流行していた
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [165]坂倉芳明の在任は1986年から1995年(1997年まで会長)
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
    • [168]日本橋本店が全社売上高の40%以上、利益の75%ほどを稼いでいた
    • [169]三井グループを背景にした法人外商と上得意客「御帳場」という強みが細り始めていた
    • [170]ゴルフ場開発は1988年に着手し土地取得だけで580億円を投じた
    • [171]用地買収への支障を理由にゴルフ場への融資を子会社経由で行い外部に漏れないようにしていた
    • [172]労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末
    • [173]「坂倉氏の前任の社長で、開発着手時には取締役会長だった市原晃相談役ですら「今回の特損の発表まで(開発について)知らなかった」という」
    • [174]開発物件と開発業者は特別損失の発表後も明らかにされなかった
    • [175]投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続いた
    • [176]1997年10月3日 ゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表
    • [177]坂倉芳明会長が取締役を退任
    • [178]前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円、連結株主資本比率は一ケタ台へ
    • [179]連結・持分法適用64社のうち24社が経常赤字
    • [180]福岡三越の投資負担は総額600億円、初年度売上目標410億円、7年で単年度黒字化
    • [181]「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」(1996年11月の大阪駅前国鉄跡地入札)
    • [182]関西に拠点を持てないまま九州へ600億円を投じた
    • [183]高島屋の新宿出店後、新宿地区が前年比2.6%上昇、日本橋地区は1.4%減で東京圏内で最も影響を受けた

空白の10年と、のれんを残すための統合

1999年2月期、三越は子会社の累損引き当てなどで364億円の特別損失を計上し、260億円の最終赤字[184]となった。単体では1998年2月期と1999年2月期の2期で計593億円の赤字を計上し、上場以来初めての無配に転落[185]している。連結では8期連続の最終赤字で、連結の株主資本比率は3%を割った[186]。同年2月に600名の人員削減を含むリストラを発表した井上和雄社長は、1982年の三越事件よりも「今回のほうがダメージが大きい」と語っている[187]。強みだった法人外商は法人需要の構造的な減少で大幅に落ち込み、御帳場制による個人外商も顧客の高齢化[188]で先細りに向かった。従業員のパート比率は伊勢丹や高島屋が40%以上に対し、三越は15%程度[189]にとどまる。中村胤夫専務は「法人需要は今後増えていくことはないだろう」[190]と述べた。前期の1998年2月期も345億円の最終赤字[191]で、1999年には希望退職で1,150人が退社している[192]

  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」
    • [184]1999年2月期 364億円の特別損失を計上し260億円の最終赤字
    • [186]連結で8期連続の最終赤字、連結株主資本比率は3%を割った
    • [187]「井上和雄社長は、1982年乱脈経理をめぐり故・岡田茂氏が解任・逮捕された「三越事件」よりも「今回のほうがダメージが大きい」と緊張した面持ちで語った」
    • [188]法人外商は法人需要の構造的減少で大幅減、御帳場制の個人外商も顧客の高齢化で先細り
    • [189]パート比率は伊勢丹・高島屋が40%以上に対し三越は15%程度(1998年度中間期)
    • [190]「中村胤夫専務は「法人需要は今後増えていくことはないだろう」と語る」
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [185]1998年2月期・1999年2月期で計593億円の単体赤字、上場初の無配に転落
    • [191]1998年2月期はゴルフ場開発に伴い345億円の最終赤字
    • [192]1999年の希望退職では1,150人が退社した

2003年9月1日、三越本体と名古屋三越・千葉三越・福岡三越・鹿児島三越の4社が合併し、商号を引き継いだ新会社が発足[193]した。採った形式は、既存5社が解散して新会社が各社と合併する新設合併[194]である。新設合併なら三越本体の含み益を時価で評価替えでき、評価益で連結欠損金133億円を一掃[195]したうえ、子会社の負の遺産も帳消しにできる。証券コードが小売業の8000番台から2000番台へ移った[196]のも、このときからである。含み資産で過去を清算する手法には社内からも異論が出て、三越OBは「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」と述べた。2005年5月5日には横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同時に閉じ[198]、同年2月の早期退職には800人の枠に半月で1,000人が応募している[199]。同じ年に社長となった石塚邦雄氏は、粗利率の向上を狙ってセールを中止し、自主編集売場の強化[200]にも取り組んだ。 [197]

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [193]平成15年9月 株式会社三越と名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越が新設合併し株式会社三越を設立
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [194]既存5社が解散し新会社が各社と合併する新設合併の形式
    • [195]新設合併で含み益を時価評価替えし評価益で連結欠損金133億円を一掃、子会社の負の遺産を帳消しにした
    • [196]証券コードが8000番台から2000番台へ移った
    • [197]「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」(三越OB)
    • [198]2005年5月5日 横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同時閉鎖。4店で年40億円の赤字が慢性化
    • [199]2005年2月の早期退職募集は800人の枠に半月で1,000人が応募(前期末単体従業員の12%超)
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [200]2005年に社長就任した石塚邦雄はセールを中止し自主編集売場を強化した

結果は逆に出て、セール分の売上を補えず常連客も遠のいた[201]。2007年の第1四半期は前年同期比6割の減益で、営業利益は伊勢丹や大丸の半分以下[202]に落ちた。石塚氏は同年8月23日の会見で「2年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」と述べている。同年8月に浮上した伊勢丹との統合は、売上高1.5兆円超の国内最大の百貨店グループ[204]を生む。日本の百貨店は商品の8割が委託仕入れで個店主義が強く、規模の利益は限られる[205]。大阪・梅田店を含む6カ年計画の投資1,800億円に対し、確保できるのは1,000億円程度[206]だった。三井住友銀行の奧正之頭取は「厳しい環境の中、企業が生き残るためなら統合もやむをえない」[207]と述べている。11月の臨時株主総会で承認され、2008年4月1日に三越伊勢丹ホールディングスが設立された[208]。三越は58年余の上場を終え、2011年4月に伊勢丹と合併した[209][203]

  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [201]セール中止はセール分の売上をカバーできず常連客の足も遠のいた
    • [203]「2年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」(2007年8月23日の会見での石塚邦雄社長の発言)
    • [207]「三井住友銀行の奧正之頭取も「厳しい環境の中、企業が生き残るためなら統合もやむをえない」と突き放す」
  • 週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」
    • [202]2007年度第1四半期は前年同期比6割の減益、営業利益水準は伊勢丹・大丸の半分以下
    • [204]三越と伊勢丹の統合が実現すれば合計売上高1.5兆円超で国内最大の百貨店グループとなる
    • [205]日本の百貨店は商品の8割が委託仕入れで個店主義が強くスケールメリットは限定的
    • [206]大阪・梅田店を目玉とする6カ年計画は1,800億円の投資を見込むがキャッシュフローで確保できるのは1,000億円程度
  • 週刊東洋経済 2008年4月12日号「ニュース最前線03 百貨店三越伊勢丹HDが誕生 統合効果は2年後から」
    • [208]2007年8月に株式移転で合意、11月の臨時株主総会で承認、2008年4月1日に三越伊勢丹ホールディングスを設立し上場廃止
  • 株式会社三越伊勢丹ホールディングス 有価証券報告書
    • [209]2011年4月1日 株式会社三越と株式会社伊勢丹が合併し株式会社三越伊勢丹となった
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」
    • [184]1999年2月期 364億円の特別損失を計上し260億円の最終赤字
    • [186]連結で8期連続の最終赤字、連結株主資本比率は3%を割った
    • [187]「井上和雄社長は、1982年乱脈経理をめぐり故・岡田茂氏が解任・逮捕された「三越事件」よりも「今回のほうがダメージが大きい」と緊張した面持ちで語った」
    • [188]法人外商は法人需要の構造的減少で大幅減、御帳場制の個人外商も顧客の高齢化で先細り
    • [189]パート比率は伊勢丹・高島屋が40%以上に対し三越は15%程度(1998年度中間期)
    • [190]「中村胤夫専務は「法人需要は今後増えていくことはないだろう」と語る」
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
    • [185]1998年2月期・1999年2月期で計593億円の単体赤字、上場初の無配に転落
    • [191]1998年2月期はゴルフ場開発に伴い345億円の最終赤字
    • [192]1999年の希望退職では1,150人が退社した
    • [194]既存5社が解散し新会社が各社と合併する新設合併の形式
    • [195]新設合併で含み益を時価評価替えし評価益で連結欠損金133億円を一掃、子会社の負の遺産を帳消しにした
    • [196]証券コードが8000番台から2000番台へ移った
    • [197]「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」(三越OB)
    • [198]2005年5月5日 横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同時閉鎖。4店で年40億円の赤字が慢性化
    • [199]2005年2月の早期退職募集は800人の枠に半月で1,000人が応募(前期末単体従業員の12%超)
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [193]平成15年9月 株式会社三越と名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越が新設合併し株式会社三越を設立
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
    • [200]2005年に社長就任した石塚邦雄はセールを中止し自主編集売場を強化した
    • [201]セール中止はセール分の売上をカバーできず常連客の足も遠のいた
    • [203]「2年前から実施してきた改革は、会社全体の成果に至っていない。スピードも合格点とは言えない」(2007年8月23日の会見での石塚邦雄社長の発言)
    • [207]「三井住友銀行の奧正之頭取も「厳しい環境の中、企業が生き残るためなら統合もやむをえない」と突き放す」
  • 週刊東洋経済 2007年8月11日号「百貨店三越・伊勢丹 経営統合交渉の見えない終着点」
    • [202]2007年度第1四半期は前年同期比6割の減益、営業利益水準は伊勢丹・大丸の半分以下
    • [204]三越と伊勢丹の統合が実現すれば合計売上高1.5兆円超で国内最大の百貨店グループとなる
    • [205]日本の百貨店は商品の8割が委託仕入れで個店主義が強くスケールメリットは限定的
    • [206]大阪・梅田店を目玉とする6カ年計画は1,800億円の投資を見込むがキャッシュフローで確保できるのは1,000億円程度
  • 週刊東洋経済 2008年4月12日号「ニュース最前線03 百貨店三越伊勢丹HDが誕生 統合効果は2年後から」
    • [208]2007年8月に株式移転で合意、11月の臨時株主総会で承認、2008年4月1日に三越伊勢丹ホールディングスを設立し上場廃止
  • 株式会社三越伊勢丹ホールディングス 有価証券報告書
    • [209]2011年4月1日 株式会社三越と株式会社伊勢丹が合併し株式会社三越伊勢丹となった

三越の沿革1673〜2008年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三井高利が呉服商「越後屋」を開業★★
本店を駿河町に移転
「現銀掛値なし」の商法を開始★★★
呉服業が三井家から分離★★
合名会社に改組
三井本家に復帰
呉服の陳列販売を開始★★
三越呉服店に商号変更★★
座売りを全廃★★
越後屋以来の事業を継承して三越呉服店を設立★★
座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言呉服だけを売り続けるか、扱う品目を広げるか——売り方の改造が宣言より先にあった十年 詳細を読む★★★
靴・鞄・履物・洋傘の販売を開始★★
大阪店を開店
京城と大連に出張所を開設
本店新館が竣工★★
食料品と園芸の売場を新設★★
常設の実用品売場「三越マーケット」を開設★★
下足預り制度を廃止
各所にバラック造りのマーケットを開設
関東大震災により本店と丸ノ内別館が焼失★★
本店全館の修築が完成
三越に商号変更★★
銀座店を開店
新宿店を開店
東京株式取引所の長期清算取引市場に上場
地下鉄三越前駅と地下売場が直結
百貨店法の施行により店舗の拡張・新設が制限★★
銀座店・高松店・仙台店が空襲により焼失★★
大阪店と札幌店が接収★★
日本橋本店の復旧に着手
東京証券取引所に上場
本店隣接地で増築工事に着手
池袋店を開店
パリ三越を開店★★
岡田茂氏が社長に就任★★
小売業の売上首位をダイエーに明け渡す★★
三井グループの社長会「二木会」に加盟★★
公正取引委員会から排除勧告★★
オリエンタル中村百貨店が名古屋三越百貨店に商号変更
岡田茂氏を社長から解任★★★
不良在庫の処分損により51億円の欠損を計上★★
坂倉芳明氏が社長に就任★★
「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発本業の建て直しか、店の外への進出か——坂倉芳明社長が選んだ多角化と、10年伏せられた580億円 詳細を読む★★★
阪神・淡路大震災により大阪店旧館を閉鎖
大阪店旧館の跡地に新館を開店
福岡三越が開業
ゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上★★
坂倉芳明氏が取締役を退任
最終赤字345億円を計上★★
希望退職により1150人が退社
子会社の累損引当などで364億円の特別損失を計上★★
上場以来初の無配に転落★★
600名の人員削減を含むリストラを発表★★
名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越と新設合併★★
新宿店を「新宿三越アルコット」に業態転換
石塚邦雄氏が社長に就任★★
早期退職の募集800人に1000人が応募★★
横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃315年の大阪店を畳んで梅田再進出まで6年空けるか、年40億円の赤字を抱えたまま関西の拠点を残すか 詳細を読む★★★
伊勢丹との共同持株会社の設立に合意★★
伊勢丹と三越の経営統合・三越伊勢丹ホールディングス発足(2008年成立)躍進した伊勢丹が老舗の三越を取り込み、なぜ百貨店業界首位の連合が生まれたのか? 詳細を読む★★★
株式移転により上場廃止
出典・参考

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