1673年〜 越後屋の現銀掛値なしと、三井から切り離された呉服店
- 1673年 三井高利が呉服商「越後屋」を開業
- 1683年 「現銀掛値なし」の商法を開始
- 1683年 本店を駿河町に移転
- 1872年 呉服業が三井家から分離
越後屋の創業と、現銀掛値なしが生んだ江戸一番の店
三越の起源は、延宝元年(1673年)に三井高利氏が江戸へ開いた呉服商「越後屋」[1]にさかのぼる。開店の地に選んだ本町一丁目は、多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街[2]だった。高利氏が借りたのは間口一間半の小さな借家[3]である。屋号の越後屋は、三井家の祖先が近江源氏の嫡流六角佐々木家に仕えた武士[4]だったことに由来する。六角佐々木家が織田信長に滅ぼされると三井越後守高安は伊勢へ移り、その子の高俊が刀を捨てて町人になった[5]。越後屋は三井家の経営にかかり[6]、江戸時代を通じて同じ地で呉服店の商いが続いた[7]。のちに百貨店となる各社はいずれも江戸期の呉服商を前身としており、いとう呉服店は1611年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業[8]にあたる。
- 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
- [1]延宝元年(1673年) 三井高利氏が呉服商「越後屋」を創業
- [2]開店地の本町一丁目は多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街
- [3]開店時の店舗は間口一間半の借家
- [4]屋号「越後屋」の由来 三井家の祖先は近江源氏嫡流六角佐々木家に仕えた武士
- [5]六角佐々木家の滅亡後、三井越後守高安が伊勢へ移り、子の高俊が町人となった
- [6]越後屋は三井家の経営にかかった
- [7]江戸時代を通じて同地で呉服店の経営を継続
- [8]呉服店起源の系譜 いとう呉服店1611年・越後屋1673年・大丸1717年・高島屋1831年
店が火災に遭ったのを機に、越後屋は天和三年(1683年)に南隣りの駿河町へ移った[9]。移転にあわせて高利氏は大々的な宣伝を打ち、「現銀掛値なし」と称する新商法[10]を打ち出した。掛値なしとは、客を見て値を上下させず、定価で売る[11]ことをいう。現銀のほうは、当時の慣行だった盆暮れ二回払いの掛売りをやめ、店頭で現金を受け取る[12]売り方を指す。この二つによって越後屋はふりの客を集め[13]、同時に現金収入を得た。高利氏はその後も江戸の大衆の動向を察した新趣向[14]を次々に打ち出し、商いは繁昌した。越後屋は江戸一番の店となり、多い日には一日に1000両の商い[15]があった。当時の江戸では「芝居1000両、魚河岸1000両、越後屋1000両」[16]と並べて称されている。
- [9]天和3年(1683年) 火災を機に南隣りの駿河町へ移転
- [10]駿河町移転を機に大々的に宣伝し「現銀掛値なし」の新商法を打ち出した
- [12]当時の慣行は盆暮れの二回払い。越後屋はこれをやめ店頭で現金を受け取った
- [13]「現銀掛値なし」でふりの客を集め現金収入を得た
- [14]三井高利氏は江戸の大衆の動向を察した新趣向を次々に打ち出した
- [15]越後屋は江戸一番の店となり多い日は一日1000両の商い
- [16]「芝居一〇〇〇両、魚河岸一〇〇〇両、越後屋一〇〇〇両」
- [11]越後屋の商法は店頭現金売と定価販売
駿河町へ移ってのち、越後屋は両替の仕事を始めた[17]。三越と銀行が三井の発祥[18]と呼ばれるのは、高利氏がこの二つを同じ地で兼ねたためである。江戸時代後半の三井は、呉服業である越後屋と両替為替業とを車の両輪[19]として、当時最大の企業へ発展した。三井高利氏は52歳で江戸へ出て、72歳で他界するまでの20年間に7万2000両、時価にして190億円から200億円[20]に達する遺産を残した。家産を一括して管理し運用したのは大元方[21]で、営業規則の制定、決算の監査、経営の指導、主要人事の決定[22]にまで権限が及んだ。家産の半分近くを占めた不動産は「家方」が受け持ち[23]、借地と借家人の選定、地代と店賃の取り立て[24]にあたった。二代目の三井高平氏は「宗竺遺書」の名で家法を遺し、「功ある者よく取立て立身申付け」[25]るべきことを説いている。
- [17]駿河町移転後に両替業を開始
- [18]三越と銀行が三井の発祥といわれる由来
- [20]三井高利氏は52歳で江戸へ出て72歳で他界するまでの20年間に遺産7万2000両(時価190〜200億円)を残した
- [19]江戸時代後半の三井は呉服業と両替為替業を車の両輪として最大の企業に発展
- [21]三井家の家産を一括管理・運用したのは大元方
- [22]大元方の権限は営業規則の制定・決算の監査・経営の指導・主要人事の決定に及んだ
- [23]家産の半分近くを占めた不動産を担当したのが「家方」
- [24]家方の職掌は借地・借家人の選定、地代・店賃の取り立て
- [25]二代目の三井高平氏が「宗竺遺書」の名で遺した家法の一節「功ある者よく取立て立身申付け」
- 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
- [1]延宝元年(1673年) 三井高利氏が呉服商「越後屋」を創業
- [2]開店地の本町一丁目は多くの呉服店が軒を並べる江戸随一の商店街
- [3]開店時の店舗は間口一間半の借家
- [4]屋号「越後屋」の由来 三井家の祖先は近江源氏嫡流六角佐々木家に仕えた武士
- [5]六角佐々木家の滅亡後、三井越後守高安が伊勢へ移り、子の高俊が町人となった
- [9]天和3年(1683年) 火災を機に南隣りの駿河町へ移転
- [10]駿河町移転を機に大々的に宣伝し「現銀掛値なし」の新商法を打ち出した
- [12]当時の慣行は盆暮れの二回払い。越後屋はこれをやめ店頭で現金を受け取った
- [13]「現銀掛値なし」でふりの客を集め現金収入を得た
- [14]三井高利氏は江戸の大衆の動向を察した新趣向を次々に打ち出した
- [15]越後屋は江戸一番の店となり多い日は一日1000両の商い
- [16]「芝居一〇〇〇両、魚河岸一〇〇〇両、越後屋一〇〇〇両」
- [17]駿河町移転後に両替業を開始
- [18]三越と銀行が三井の発祥といわれる由来
- [20]三井高利氏は52歳で江戸へ出て72歳で他界するまでの20年間に遺産7万2000両(時価190〜200億円)を残した
- [6]越後屋は三井家の経営にかかった
- [11]越後屋の商法は店頭現金売と定価販売
- [7]江戸時代を通じて同地で呉服店の経営を継続
- [8]呉服店起源の系譜 いとう呉服店1611年・越後屋1673年・大丸1717年・高島屋1831年
- [19]江戸時代後半の三井は呉服業と両替為替業を車の両輪として最大の企業に発展
- [21]三井家の家産を一括管理・運用したのは大元方
- [22]大元方の権限は営業規則の制定・決算の監査・経営の指導・主要人事の決定に及んだ
- [23]家産の半分近くを占めた不動産を担当したのが「家方」
- [24]家方の職掌は借地・借家人の選定、地代・店賃の取り立て
- [25]二代目の三井高平氏が「宗竺遺書」の名で遺した家法の一節「功ある者よく取立て立身申付け」
三野村利左衛門氏の決断と「三越」の名の始まり
江戸時代末期の三井は、表向きの華やかさとは裏腹に台所が火の車[26]だった。不良資産が増え、幕府や大名への御用金など貸付金が固定化し、流動資金は極端に涸渇[27]していた。この危機を救ったのが、番頭の三野村利左衛門氏[28]である。三野村氏はもともと駿河台の旗本小栗家の雇仲間として働く一介の両替商[29]にすぎなかったが、小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があり[30]、三井の番頭として迎えられた。登用の後も幕府との接触を保ち、幕府公金の導入によって三井の営業分野を広げている[31]。幕末の革命期には豪商がことごとく没落したが、そのなかで鴻池と三井は生き残った[32]。
- [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
- [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
- [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
- [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
- [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
- [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
- [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った
三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派との関係を深め[33]、東西呼応して推移を見守っていた。慶応四年、三井は勤皇派を支持する旗幟を鮮明にした[34]。小野組・島田組とともに明治新政府の必要資金である会計基立金320万両の徴募に応じ[35]、新政府の財政を担うに至る。混乱の極にあった幣制の整理と銀行制度の確立[36]にも役割を負い、これらを推し進めたのも三野村氏だった。明治四年六月には、為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名[37]を受けている。同じ明治四年、三井は海運橋に三井組ハウスを建てた[38]。当時の日本で最も高い建築物にあたり、駿河町の為替バンク三井組[39]の建物がこれに続いた。
- [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
- [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
- [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
- [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
- [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
- [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
- [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設
単独指名には難問がついていた[40]。呉服業を廃止して銀行業に専念せよ[41]、という条件である。創業以来の本業である呉服業を切り捨てることはできず、三井の内部では議論が分かれたが、三野村氏は決断してこの条件を受け入れた[42]。用意した苦肉の策は、三井家のうち三家を三越家と改姓し、呉服業をその経営へ移す[43]ことだった。これが今日の「三越」の始まり[44]であり、三井と越後屋の双方に由来を持つ名[45]が、ここで生まれている。改姓した三家が呉服業を引き受け、三井家の本体は銀行業に専念した[46]。呉服店は明治五年三月に三井家から分離[47]した。
- [40]兌換業務の単独指名には条件が付いていた
- [41]条件は「呉服業を廃止して、銀行業に専念せよ」
- [42]本業切り捨てに三井内の議論は分かれたが三野村利左衛門氏が決断して条件を受け入れた
- [43]三野村利左衛門氏の苦肉の策 三井家のうち三家を三越家と改姓し呉服業をその経営へ移した
- [44]これが今日の「三越」の始まり
- [46]改姓した三家が呉服業を担い、三井本体は銀行業に専念した
- [45]「三越」の名は越後屋とその後身である三井呉服店との関連でできた
- [47]明治5年3月 呉服店が三井家より分離
- [26]江戸末期の三井は表面の華やかさに反して台所が火の車だった
- [27]不良資産の増大と幕府・大名の御用金による貸付金固定化で流動資金が涸渇
- [28]経営危機を救った番頭 三野村利左衛門氏
- [29]三野村は駿河台の旗本小栗家の雇仲間で一介の両替商。御用金減免工作の功で三井にスカウトされた
- [30]小栗上野介を中心とする幕府の御用金減免工作に功があった
- [31]登用後も幕府と接触し、幕府公金の導入で三井の営業分野を開拓した
- [32]幕末の革命期に豪商が没落するなか鴻池と三井が生き残った
- [33]三井大元方は京都で当主を中心に勤皇派と関係を深め、東西呼応して推移を見守った
- [34]慶応4年 三井が勤皇派支持の旗幟を鮮明にした
- [35]小野組・島田組とともに会計基立金320万両の徴募に応じ、新政府の財政を担当
- [36]幣制の整理と銀行制度の確立を推進したのも三野村
- [37]明治4年6月 為換座三井組が新貨幣の兌換業務の単独指名を受けた
- [38]明治4年 海運橋三井組ハウスを建設
- [39]海運橋三井組ハウスは日本一の高層建築。次いで駿河町の為替バンク三井組を建設
- [40]兌換業務の単独指名には条件が付いていた
- [41]条件は「呉服業を廃止して、銀行業に専念せよ」
- [42]本業切り捨てに三井内の議論は分かれたが三野村利左衛門氏が決断して条件を受け入れた
- [43]三野村利左衛門氏の苦肉の策 三井家のうち三家を三越家と改姓し呉服業をその経営へ移した
- [44]これが今日の「三越」の始まり
- [46]改姓した三家が呉服業を担い、三井本体は銀行業に専念した
- [45]「三越」の名は越後屋とその後身である三井呉服店との関連でできた
- [47]明治5年3月 呉服店が三井家より分離