1673年〜 越後屋から三越呉服店へ、現金正価と陳列販売の二つの改革
- 1673年三井高利が呉服商「越後屋」を創業する
- 1904年越後屋の事業を継承して株式会社三越呉服店を設立し、「デパートメントストア宣言」を発する
- 1907年大阪店を開店する
- 1923年関東大震災により本店が全焼する
三越の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
三井家の越後屋と、本家からの分離と復帰
三越の起源は延宝元年(1673年)、三井高利氏が江戸に開いた呉服商「越後屋」にさかのぼる。越後屋は三井家の経営にかかり、高利氏は当時の商慣習を破って店頭現金売と定価販売を実行した。『会社銀行八十年史』はこれを「古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り」と記した。何を打破したのかは同書に書かれていないが、店頭で現金と定価で売るという二点がその内容にあたる。もっとも、同じ改革は同業も後に採る。松坂屋の前身いとう呉服店は1611年、大丸は1717年に創業しており、百貨店の主要各社はいずれも江戸期の呉服商を前身に持つ。創業の古さそのものは各社の差にならず、差がついたのは呉服店から百貨店へ移る速さだった。 [1][2][3]
- [1]延宝元年(1673年)創業の越後屋呉服店を起源とし、三井家の経営にかかった。創始者の三井高利は店頭現金売・定価販売を実行した
- [2]「創始者三井高利氏は、古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り、除々に経済的基盤を固めた」
- [3]呉服店起源の系譜はいとう呉服店(松坂屋の前身)1611年、越後屋(三越の前身)1673年、大丸1717年、高島屋1831年
明治に入ると、越後屋の身分は三井家の内と外を往復する。明治5年3月に三井家から分離し、26年9月に合名会社へ改組したが、28年8月には以前の形態で三井本家へ復帰した。翌29年9月に三越呉服店と改称し、37年に株式会社として独立する。30年余りのあいだに分離・改組・復帰・改称と組織形態が四度変わっており、この時期の三越は商いの中身よりも所属先を決めることに手間をかけていたように見える。のちに三越が「三井発祥の企業」と呼ばれ、節目ごとに三井銀行から人を迎える関係の原型は、この往復のなかで固まった。 [4]
- [4]明治5年3月に三井家より分離、26年9月に合名会社へ改組、28年8月に再び三井本家へ復帰、29年9月に三越呉服店と改称、37年に株式会社として独立
- [1]延宝元年(1673年)創業の越後屋呉服店を起源とし、三井家の経営にかかった。創始者の三井高利は店頭現金売・定価販売を実行した
- [2]「創始者三井高利氏は、古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り、除々に経済的基盤を固めた」
- [4]明治5年3月に三井家より分離、26年9月に合名会社へ改組、28年8月に再び三井本家へ復帰、29年9月に三越呉服店と改称、37年に株式会社として独立
- [3]呉服店起源の系譜はいとう呉服店(松坂屋の前身)1611年、越後屋(三越の前身)1673年、大丸1717年、高島屋1831年
座売りの全廃と、デパートメントストア宣言
百貨店への転換は売り方の改造から始まった。明治28年11月に本店の階上を陳列場へ改築し、日本で最初の呉服陳列販売を採り入れた。32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げて街頭広告の先鞭をつけ、33年10月には本店の全階を陳列場として従来の座売りを全廃した。同書は業界全体の変化を「座売りから商品陳列式売場への転換」と要約している。陳列販売は、客が自分で商品を見て選ぶ形に売り方を変える。以後の三越が不特定多数をさばけるようになった前提は、この5年間に置かれている。売る側が客の前に立って反物を出す関係から、客が売場を歩いて選ぶ関係へ変わった。 [5]
- [5]明治28年11月に本店階上を陳列場に改築してわが国最初の呉服陳列販売を採用、32年6月に新橋駅頭へ等身大ポスターを掲示、33年10月に本店全階を陳列場として座売りを全廃した
明治37年12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立され、あわせて「デパートメントストア宣言」を発した。宣言は呉服以外の商品を扱う意思の表明にあたり、実際に販売商品の種類を増やし、41年には洋風3階建の新建築を完成させて百貨店としての形態を整えた。売場の内容が先に変わり、会社の形と宣言が後から追いついた順序になる。三越呉服店へ改称した後の10年間に営業の一切にわたる改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立されたと同書は記す。宣言は改革の開始ではなく、すでに始まっていた改革の対外的な確認だったと読める。 [6][7]
- 有価証券報告書(株式会社三越・第5期)【沿革】
- [6]明治37年12月に資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立し、「デパートメントストア宣言」を発した。41年に洋風3階建の新建築が完成して百貨店としての形態を整えた
- [7]「三越呉服店に改称後の十年間には、営業の一切にわたつて改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立された」
- [5]明治28年11月に本店階上を陳列場に改築してわが国最初の呉服陳列販売を採用、32年6月に新橋駅頭へ等身大ポスターを掲示、33年10月に本店全階を陳列場として座売りを全廃した
- [7]「三越呉服店に改称後の十年間には、営業の一切にわたつて改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立された」
- 有価証券報告書(株式会社三越・第5期)【沿革】
- [6]明治37年12月に資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立し、「デパートメントストア宣言」を発した。41年に洋風3階建の新建築が完成して百貨店としての形態を整えた
「今日は帝劇、明日は三越」と関東大震災の損失
明治40年に大阪支店を開き、41年6月には資本金を100万円へ増資して京城と大連に出張所を設けた。43年3月に200万円へ増資、44年7月に5階建延4,000坪の建築へ着手し、大正3年9月の竣工にあわせて食料品と園芸の売場を新設して百貨店の部門を揃えた。第一次大戦後の好景気を受けて大正9年1月には資本金1,200万円に達し、常設の実用品売場「三越マーケット」を開いて大衆客との接点を作った。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が広く知られたのはこの時期である。帝国劇場と並べて名を出せたことは、三越が物を買う場所であると同時に、都市の娯楽の一部として扱われていたことを示している。呉服商から出発した会社が、20年で東京の生活文化を代表する名前になっていた。 [8][9]
- [8]明治41年6月に資本金100万円、43年3月に200万円、大正9年1月に1,200万円へ増資。44年7月着手の5階建延4,000坪が大正3年9月に竣工し、食料品・園芸売場を新設した
- [9]「一方常設の実用品売場「三越マーケット」を開設して大衆との結びつきを図つた。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が人口に膾炙したのもこのころである」
大正12年9月の関東大震災で本店と丸ノ内別館を焼失した。災害損失は737万5,000円に上り、資本金を1,200万円から700万円へ減資している。応急策として市内各地にマーケットを開き、物資不足と交通の不便に置かれた市民へ日用品を売ったが、この応急店がのちに新宿・銀座両支店を開設する機縁になった。震災はもう一つの変化ももたらした。それまで店に入る客の履物を預かっていた下足預り制度を廃したことで、来店の敷居が下がった。焼失と減資という損失の側から、支店網の起こりと大衆化という二つの帰結が同時に出ている。 [10][11]
- [10]大正12年9月の関東大震災で本店および丸ノ内別館を焼失し、災害損失高は737万5,000円、資本金は700万円へ減資した
- [11]「応急策として市内各地にマーケツトを開設し、物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に奉仕、これがのちに新宿、銀座両支店を開設する機縁となつた。また震災のもたらした画期的なことは従来の下足預り制度の廃止により一段と大衆化されたことである」
- [8]明治41年6月に資本金100万円、43年3月に200万円、大正9年1月に1,200万円へ増資。44年7月着手の5階建延4,000坪が大正3年9月に竣工し、食料品・園芸売場を新設した
- [9]「一方常設の実用品売場「三越マーケット」を開設して大衆との結びつきを図つた。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が人口に膾炙したのもこのころである」
- [10]大正12年9月の関東大震災で本店および丸ノ内別館を焼失し、災害損失高は737万5,000円、資本金は700万円へ減資した
- [11]「応急策として市内各地にマーケツトを開設し、物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に奉仕、これがのちに新宿、銀座両支店を開設する機縁となつた。また震災のもたらした画期的なことは従来の下足預り制度の廃止により一段と大衆化されたことである」