三越横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃

315年の大阪店を畳んで梅田再進出まで6年空けるか、年40億円の赤字を抱えたまま関西の拠点を残すか

時期 2004年10月
意思決定者(推定) 中村胤夫 社長
論点 不採算店の閉鎖と人員削減、含み益による財務の清算
概要
2005年5月5日、三越が横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同じ日に閉鎖し、あわせて早期退職を実施した経営判断。中村胤夫社長のもとで決め、対外的な発表は2004年秋であった。4店で年40億円の赤字が慢性化しており、店舗閉鎖は1999年の新宿南館以来であった。
背景
大阪店は北浜にあって、買い物客が動くキタとミナミの流れから外れていた。1995年1月の阪神・淡路大震災で旧館を失い、翌年5月の新館で売場面積は半分に縮む。1996年11月の大阪駅前の国鉄跡地入札にも敗れ、関西の一等地を取れないまま赤字店だけが残った。
内容
4店で年40億円の赤字が慢性化していた。大阪店は日本橋本店に次ぐ315年の店、枚方店はその分店、横浜店は開店から30年、倉敷店は1980年11月の開店であった。2005年2月には早期退職を募り、800人の枠に半月で1,000人が応募した。前期末の単体従業員の12%を超える人数にあたる。
含意
2003年9月の新設合併で含み益を時価に評価替えし、連結欠損金133億円と子会社の負の遺産を消したうえで、店と人に手をつけた順序になる。財務の過去を先に清算した一方、豊富な含み資産は時価総額2,500億円の会社を買収の標的とみる議論も呼んだ。
筆者の見解

北浜の9年

大阪店の閉鎖は、1996年11月に梅田を取れなかったことの後始末であった。二番札のパルコより低い値を付けてヨドバシカメラに敗れたあと、三越は北浜の店を改修して固定客をつなぐ道を選び、人の流れの外で赤字を積んだ。315年の店を畳んだのは、立地を取り直す機会を逃した判断を、これ以上先へ延ばせなくなったからだとみられる。4店で年40億円という赤字額には、その先延ばしに払った分が含まれている。

ただし、この整理で会社が身軽になったとは言いにくい。含み益で連結欠損金133億円を消し、4店と1,000人を削った後も、連結営業利益は高島屋の半分程度にとどまった。含み資産を先に使ったことは、土地の含み益1,000億円を理由に買収の標的と名指される状況も残した。過去の清算と本業の立て直しは別の作業であったといえる。2年後、三越は単独での改革を断念し、伊勢丹との経営統合へ向かった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

北浜に残された大阪店

三越大阪店は北浜にあった。証券会社が集まる西の兜町にあたる一帯で、買い物客が動くキタとミナミの商業地間競争からは外れた場所である。1995年1月の阪神・淡路大震災は旧館を使えなくし、翌1996年5月に旧館跡地へ新館を開いたものの、売場面積は震災前の半分に縮んだ。日本橋本店に次ぐ歴史を持つ店が、大阪の人の流れから遠いまま規模まで落としていた[1][2][3]

関西で立地を取り直す機会は、1996年11月にあった。大阪駅前の国鉄跡地の入札に三越は敗れ、落札したのはヨドバシカメラであった。社内で問題になったのは価格であった。関係者は「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」と述べている。それでも井上和雄専務は「大阪出店は全社的な悲願」と語り、出店の意思を崩さなかった。梅田を取れないまま、北浜の赤字店が関西唯一の拠点として残った[4][5][6]

攻めへの転換と、投資に回せる金

2002年、三越は守りから攻めへ看板を掛け替えた。営業本部長の中村胤夫専務は「持続的成長と高収益企業への脱皮を図るため、攻めの経営に転じる」と語り、同年に社長へ就いた。並べた計画は、130億円を投じる日本橋本店の新館、名古屋三越が総投資額250億円で栄本店の隣接地に開く専門館、そして2008年の開業をめざすJR大阪駅への出店であった。9年前に逃した梅田を、再開発で取り直す絵でもあった[7][8][9]

攻めに使える金は足りていなかった。2001年度の連結フリーキャッシュフローは290億円ほどで、札幌・日本橋・名古屋と続く設備投資を賄える額ではない。連結有利子負債は同年度予想で2,694億円、デット・エクイティ・レシオは5.6倍にのぼる。高島屋の1.27倍、伊勢丹の1.33倍と並べれば、借入依存の差は明らかであった。新店に投じながら赤字店を抱える余裕は、はじめから残っていなかったとみられる[10]

決断

含み益で先に消した過去

店に手をつける前に、三越は財務の過去を消した。2003年9月1日、本体と名古屋三越・千葉三越・福岡三越・鹿児島三越が合併し、商号を引き継いだ新会社が発足する。既存5社が解散して新会社が各社と合併する新設合併を選べば、被合併会社となる本体の含み益を時価で評価替えできる。生じた評価益で連結欠損金133億円を一掃し、退職給付債務や固定資産の含み損など計数百億円に上る子会社の負の遺産も帳消しにした[11][12]

翌期からの減損会計の導入に備えた措置でもあったが、社内には異論が残った。三越OBは「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」と述べている。含み頼みは一度で終わらず、翌期には自社物件であった大阪店舗の売却特益も見込んだ。業界で最も豊富な含み資産を抱えていたことが、改革を遅らせる方向に働いた面は否定しがたい。証券コードが小売業の8000番台から2000番台へ移ったのも、この合併からである[13][14]

4店で年40億円という線

閉じる店を分けた線は、赤字の慢性化であった。横浜・大阪・枚方・倉敷の4店で、赤字は年40億円に達していた。大阪店は日本橋本店に次ぐ315年の歴史を持ち、枚方店はその分店、横浜店は1973年11月の開店から30年、倉敷店は1980年11月の開店であった。店舗の統廃合を年中行事とするスーパーと違い、店数の少ない百貨店で閉店は重く、地元の抵抗も小さくない。それでも4店を抱えたまま維持する余地は残っていなかった[15][16][17]

決まっていた判断が外に出るまでには、時間がかかった。業界では以前から既定と見られていたのに、対外的な発表は2004年秋であった。三越はワンマン経営の弊害を経て集団指導体制に移っていたが、三越OBは「朝から晩まで役員会をやっても、何一つとして決まらない。そういう体質が三越にはあった」と当時を振り返っている。閉鎖の決定が寝かされた背景には、期限を切らずに済ませられる組織の緩さがあったとみられる[18][19]

結果

800人の枠に1,000人

人の削減は、募った枠を応募が上回った。2005年2月の早期退職では、800人の枠に対して半月で1,000人が応じた。前期末の単体従業員の12%を超える人数で、1999年の1,150人に続く2度目の希望退職にあたる。有価証券報告書は、連結従業員が1年で1,522名、単体で980名減った主な理由を早期退職特別優遇措置と記している。単体の就業人員は7,904名から6,924名へ下がった[20][21]

数字の上では、効果は翌期に出た。2005年2月期は売上高8,878億円に対し41億円の当期純損失で、2006年2月期は売上高8,420億円へ縮みながら当期純利益91億円に戻った。ただし同業との差は開いたままで、この年の連結営業利益予想は三越162億円、高島屋305億円、伊勢丹250億円であった。2005年4月には中期5カ年計画の最終年度目標を300億円から215億円へ下げ、石塚邦雄常務執行役員の社長就任も発表した[22][23]

拠点のない6年と、2,500億円の値札

大阪では、旧店を改修して固定客をつなぎとめるのが当初の計画であった。それが赤字に耐えられず閉鎖に変わり、2011年のJR大阪駅への再進出まで、関西に店を持たない6年が生じた。2004年6月には、JR西日本が約1,500億円を投じる大阪駅再開発の目玉として、約9万平方メートルの梅田進出が語られていた。石塚邦雄社長は「新たに出店するより今ある店を生かしていく」と述べ、空白の6年を既存店と外商で持たせる考えを示した[24][25][26]

含み資産で過去を消した会社には、その含み資産ゆえの値札が付いた。株価は500円強、時価総額は2,500億円で、支配権を握る半分なら1,250億円で足りる。クレディスイス・ファーストボストン証券の佐々木泰行氏は、プレミアム3割のTOBでも1,500億円、土地の含み益1,000億円と償却前営業利益300億円なら2年で回収できると計算した。石塚社長も「大した金額ではないし、危機感は持っている」と述べている[27][28]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」
  • 週刊東洋経済 2004年6月5日号「攻めに転じた百貨店 地域編9 南北対決大阪 そごう出店で蘇る心斎橋」
  • 週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
  • 三越 有価証券報告書(2006年2月期)
  • 三越 有価証券報告書【沿革】

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