マルハ国際原糖事業の損失処理と、本社ビル証券化による穴埋め

穀物メジャーと競うつもりで踏み込んだ砂糖トレードを、水産最大手はどう畳んだか

時期 2000年12月
意思決定者(推定) 中部慶次郎 社長
論点 回収不能となった原糖取引の処理と、その原資の手当て
概要
マルハが1989年に資本参加した砂糖トレーダーのギル&ダファス社を通じたキューバ産原糖の取引が、ソ連崩壊後の供給難で回収不能に陥った。2000年末にキューバとの20年のリスケジュール交渉をまとめ、135億円の貸倒引当金と39億円の評価損を計上し、その原資には大手町の本社ビルを証券化して得た185億円の含み益をあてた。
背景
キューバへ前渡金を渡して翌年に原糖で回収する取引は、1991年のソ連崩壊で歯車が狂った。原糖生産量は1990年の800万トンが1998年に320万トンへ落ち、2000年度の供給はゼロとなる。マルハの債務保証額は1995年の143億円から375億円へ膨らんだ。
内容
20年のリスケジュール交渉に合わせ、5年以内の回収見込額と被保険額を除く135億円へ貸倒引当金を設定し、日本側出資会社である大洋ファイナンスヨーロッパの評価損39億円も計上した。原資は本社ビルの証券化で捻出した。
含意
原糖事業の整理は、養殖事業の整理・ペットフード事業のMBO・横浜ベイスターズの売却と並ぶ構造改革の一環であり、2年間で550億円の特別損失を計上した。不良資産と不採算事業の整理が完了したのは2005年3月期になる。
筆者の見解

含み益で埋めるという処理の性格

この処理を、失敗した事業を畳んだだけの後始末と読むと、原資の出どころが持つ意味を落とすことになる。損失を埋めたのは本業の利益ではなく、大手町の本社ビルが抱えていた含み益であった。営業の稼ぎで穴を埋められる状態になかったからこそ、資産の含みを現金化する必要があったとみるのが自然である。1982年から無配が続き、1990年代に入っても経常赤字を繰り返していた会社にとって、処理の原資を用意すること自体が一つの判断だった。

もっとも、撤退の判断が遅れた点は動かない。キューバの原糖生産が1990年の800万トンから落ち始め、ひも付きの原糖が他の決済へ回されるようになった時点で、取引を止める材料は揃っていた。それでも関与は深まり、債務保証は143億円から375億円へ膨らみ、供給がゼロになってようやく処理へ動いた。損失を確定させれば決算に穴が開き、先送りすれば保証残高が積み上がる。二つの不利を比べて後者を選び続けた期間の長さが、最終的な処理額の大きさに表れている。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

穀物メジャーと競うつもりで踏み込んだ砂糖

マルハが国際原糖市場へ踏み込んだのは1989年である。国際的な砂糖トレーダーであるギル&ダファス社へ資本参加し、キューバ産の原糖取引に深く関わった[1]。水産物を世界70カ国から買い付けてきた会社[2]にとって、農産物の国際取引は隣接する商いに見えたはずだが、魚とは需給も決済の相手も異なる分野であった。名門のトレーダーを傘下に入れて穀物メジャーと競い合うという構想[3]が、この参加の背後にあったと報じられている。

取引の仕組みは、相手国の事情に踏み込んだものであった。キューバ側へ前渡金を渡し、翌年に原糖で回収する。原糖は国際相場から0.5セント引きの価格で引き取り、価格の変動はニューヨークの先物市場でヘッジする[4]。債務不履行の状態にあったキューバにとって前渡金は干天の慈雨であり、マルハ側から見れば「商品が回っている限り、儲かるはず」(週刊東洋経済 2001/2/3)という設計[5]になっていた。前提は、原糖が毎年きちんと入ってくることであった。

ソ連崩壊が断った原糖の供給

歯車が狂い始めたのは1991年のソ連崩壊である。ソ連からの石油輸入が細ったキューバは慢性的なエネルギー危機と肥料不足に陥り、原糖の生産量は1990年の800万トンが1998年には320万トンへ落ち込んだ[6]。資金繰りが苦しくなったキューバは、ギル&ダファス社のひも付きであるはずの原糖を他の決済へ回し、同社への供給を減らし始める[7]。取引の前提であった毎年の原糖が、産地の側の事情で細っていった。

撤退の機会はこの時点にあった。しかしギル&ダファス社はキューバへの関与をむしろ深め、原糖の供給はさらに減り続けて、2000年度にはついに供給がゼロとなる[8]。完全なデフォルトである。この間にマルハの同社に対する債務保証額は、1995年の143億円から375億円へ膨らんだ[9]。前渡金を出し続ける限り債権は増え、回収は産地の生産量に縛られる。損失の確定を先送りするほど、保証の残高だけが積み上がる構図であった。

決断

20年のリスケジュールと引当金の設定

2000年末、キューバ側との20年にわたるリスケジュール交渉がまとまった。これに伴い、マルハは5年以内の回収見込額と被保険額を除く135億円に対して貸倒引当金を設定する[10]。あわせて、ギル&ダファス社への日本側出資会社である大洋ファイナンスヨーロッパの評価損39億円を計上した[11]。回収を20年に引き延ばしたうえで、戻らない部分を損失として確定させる処理であった。

処理の原資は不動産から出た。大手町一丁目一番地という超一等地の本社ビルを証券化し、吐き出した含み益が185億円になる[12]。貸倒引当金135億円と評価損39億円の合計は174億円で、本社ビルの含み益にほぼ見合う額であった。本業からかけ離れた事業の失敗を、本社の土地建物が持っていた含みで埋める形の決着になった。証券化の案は、取引の長い日本興業銀行が持ち込んだ[13]

構造改革の一項目としての整理

原糖事業の整理は、単独の処理ではなかった。2000年前後のマルハは中部慶次郎社長の陣頭指揮の下で大規模な構造改革を準備しており、本社ビルの証券化、原糖事業と養殖事業の整理、ペットフード事業のMBO、横浜ベイスターズの売却が同じ計画の中に並んでいた[14]。本業から遠い資産と事業をまとめて処分し、水産へ戻る筋道である。2年間で計上した特別損失は550億円にのぼった[15]

この整理を担うために外部から迎えられたのが、2000年6月に日本興業銀行から移った五十嵐勇二氏[16]であった。同氏は興銀の管理部長として住専問題の矢面に立った経歴[17]を持ち、マルハでは専務として処理の実務に加わる。2002年3月には社長へ就き、中部家以外から出た最初の本格的な社長となった[18]。損失の処理と経営体制の交代が、同じ2年間のうちに進んだ。

結果

整理の完了までに要した5年

引当金を積んでも、財務の傷はすぐには消えなかった。不良資産と不採算事業の整理が完了したのは2005年3月期で、2000年の着手から5年を要している[19]。統合を発表した2006年12月時点の時価総額は1300億円で、第2位の日本水産の1900億円には届いていない。五十嵐氏は、整理の完了が2005年3月期であるため財務体質で見劣りするのはしかたないと述べ、収益力は改善に向かうとの見方を示した[20]

特別損失を突然計上する体質そのものは、統合後まで尾を引いた。ニチロと統合する2007年以前のマルハ時代から、不採算事業関連などで毎年巨額の特別損失を出して業績と株価の予想を狂わせ、トレーディングのさや取りを主体とする収益は読みにくかった[21]。統合の後には同社を担当する証券アナリストが相次いでカバレッジをやめている。損失が減って業績に安定感が出るのは2018年前後で、株価はこの年に上場来高値をつけた[22]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2001年2月3日号「代償 マルハが砂糖事業で損失 本社ビルで埋める『キューバ侵攻』の失敗」
  • 週刊東洋経済 2002年9月21日号「トップの履歴書 マルハ社長 五十嵐勇二」
  • 週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」
  • 週刊東洋経済 2018年6月9日号「株高マルハニチロの“変身”」

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