1949年9月、創業50年の歴史を持つ大日本麦酒が過度経済力集中排除法の適用を受けて二社に分割され[1]、その一方の受け皿として資本金1億円の朝日麦酒が発足した[2]。生産設備として吾妻橋・吹田・西宮・博多の四工場[3]を、主要ブランドとしてアサヒビールと三ツ矢サイダーを継承し[4]、初代社長には山本為三郎氏が就いた[5]。当初の生産能力は四工場合わせてビール約52万石・清涼飲料63万函[6]。ただし四工場のうち吹田・西宮・博多の三つは西日本にあり、分割で活動地盤が西日本に偏ったうえ[7]、消費の主戦場が料飲店から一般家庭へ移る需要構造の変化にも対応できなかった。
創立以来の技術革新の成果[8]として、朝日麦酒は新製品を相次いで投入した。1957年発売の特製ビール・アサヒゴールドは『技術のアサヒ』の名を高め[9]、戦後のわが国ビールの本格的な品質改良の第一歩となった。翌1958年には本邦初の缶入ビールを発売して新規需要の開拓[10]に乗り出し、1964年発売のアサヒスタイニー[11]は家庭向けの新たな需要を開いた。1965年に独力で開発・設置した屋外醗酵貯酒タンク[12]は品質の安定化と製造原価の低減に効き、日本・アメリカ・ベルギーで特許となったうえ、西ドイツの醸造機械メーカーであるチーマンとの間に特許の実施許諾契約が締結され[13]、本邦初の技術輸出となった。酒類の品目を広げる一手として、1954年8月にはニッカウヰスキーへ資本参加している[14]。
1962年5月に東京大森工場を完成させ[15]、1966年12月には飲料専用の柏工場[16]を稼働させたが、生産能力の増強に販売数量が追いつかず、キリンビールとの差は開く一方であった。国内ビール市場の出荷量シェアは、1949年のアサヒ36.1%・キリン25.3%[17]から1963年にはアサヒ24.3%・キリン46.5%[18]へ入れ替わり、同年はサッポロの26.3%も下回って業界3位に落ちた[19]。低落はその後も止まらず、1983年のアサヒは10.2%、キリンは61.3%[20]であった。分割から1985年までに日本のビール消費は約35倍に膨らんだ一方、朝日麦酒の販売量は9倍にとどまった[21]。
メインバンクの住友銀行は、1971年に高橋吉隆氏、1976年に延命直松氏[22]と、2代続けて出身者を朝日麦酒の社長に送り込んだ。延命氏は1939年に住友銀行へ入行して常務まで務め、1971年2月に朝日麦酒へ専務として入社し、1974年8月に副社長を経て1976年2月に社長へ就いた[23]。この間も生産能力の増強は続き、1973年4月に名古屋工場[24]、1979年3月に福島工場が完成している[25]。しかし在任6年でも業績は反転せず、国内ビール市場の出荷量シェアは1976年の11.8%から1981年の10.2%[26]へさらに下がった。のちに村井勉氏は、この長い下り坂を『ナイアガラの滝のように』[引用元]シェアを落としてきた[27]と表現している。
1981年には、京都府の医療法人十全会による朝日株の買い占め[28]と、『マル優』と呼ばれた大リストラが重なり、社員の危機意識や企業存続の不安が高まった[29]。当時の労働組合委員長は『去るも地獄、残るも地獄』[引用元]という言葉を創立120周年の社史に残している。
1982年の時点で、朝日麦酒は『後退に次ぐ後退を重ね、シェアも10%を割るかどうかの瀬戸際に立たされている』[引用元]状況にあった。実際、同年の出荷量シェアはアサヒ10.0%に対しキリン62.2%[30]で、両社の差は52ポイント。村井勉氏の分析によれば、市場の7割を占める一般家庭向けの販売チャネルをキリンビールに固められた[31]ことが大差の原因で、地域で見れば都市部で強く地方では振るわない[32]という販売網の偏りとして表れていた。住友銀行はこの年、3人目の社長として副頭取の村井勉氏を送り込んだ[33]。同年7月には子会社のエビオス薬品工業を合併し[34]、薬品分野を本体へ取り込んでいる。
1982年3月、住友銀行副頭取の村井勉氏が朝日麦酒の社長に就任した[35]。村井氏は1976年から業績不振の東洋工業(現マツダ)へ副社長として出向し、その再建で鮮やかな経営手腕をふるった実績を持ち、『販売なくして会社なし』[引用元]を持論としていた[36]。就任後は北から南まで全国を行脚し、取引先や従業員とひざ詰めの話し合いを重ねて『問題意識、危機意識を持ってもらう』[引用元][37]ことに力を注いだ。自身の飲む酒もウィスキーをやめてビールだけにし、信念として旗を振っていたカラオケ撲滅運動からは、業務用チャネルである酒場の反発を招くとして脱会した[38]。
打開策を問われた村井氏の答えは、増産のための設備投資でも値引き競争でもなく『まず、社風を作り変えることです』[引用元][39]であった。アサヒの社員には頭のいいのが沢山いるが、それだけでは足腰が弱い、ビールを売るのも預金を集めるのも似たようなもので[40]、目標を決めたらあとは足腰を強くして歩いて稼ぐしかない、というのが銀行と製造業の再建を経てきた村井氏の診断である。社風は簡単には変わらないから『決め手は教育ですね』[引用元][41]と述べ、研修をやって徹底して鍛え直すのが急がば回れで一番早いとして、研修所の建設を自ら命じた[42]。目先はシェアを高めて食えるようにする一方、将来どんな企業にするかという問題があるとして、CIとQC、さらに酒類・飲料・食品・薬品の4分野への多角化[43]を就任初年から公言している。
実行は段階を踏み、1984年1月にTQC導入を宣言して村井氏自ら推進本部長に就き[44]、1985年10月にはCI導入を宣言した[45]。全社員から募った愛称は『ニューセンチュリー計画』である[46]。シェアの低落そのものは村井氏の在任中も続き、1985年には分割後最低の9.6%を記録した[47]。宣言から4カ月後の1986年2月、CIで改めた会社のロゴマークとともに味もラベルも一新した『アサヒ生ビール』(通称コクキレビール)を発売[48]すると、四半世紀続いたシェアの下落に歯止めがかかり、同年のシェアは10.2%へ回復した[49]。1986年のビール部門売上高は前年比12%増と、業界平均の3.9%増[50]を大幅に上回っている。同年3月、村井氏は在任4年で会長に退き、後任には住友銀行副頭取から1986年1月に顧問として入った樋口廣太郎[51]氏が就いた。
樋口廣太郎氏の見立てでは、ビールは免許制に守られた寡占市場で、大手4社の味は似たり寄ったりであり、目隠しテストで銘柄が当たらないことに安心している[52]面すらあった。シェア1割は存続の分かれ目でもあり、10%を切ると東京の秋葉原でも大阪の日本橋でも10軒のうち5〜6軒から商品が消えてしまう[53]。実際、樋口氏が社長に就いた1986年の時点で、東京都内でアサヒを扱う店は47%にとどまっていた[54]。そこで全く新しい商品を投入して中身で差別化を図る方針を採り、技術陣には消費者の手助けに徹する役割を求めて、12種類の試作ビールで試飲を重ねて味を絞り込んだ[55]。こうして1987年3月、辛口の生ビール『アサヒスーパードライ』[56]が発売された。
賭けを支えたのは資金調達で、樋口氏は時価発行増資や転換社債、外債の発行で運用資産を積み増した[57]。1987年12月期末の自己資本は前期比2.4倍の799億円、運用資産は360億円増の783億円[58]に達している。そこから生まれる金融収益を原資に、1987年の販売促進費は前年比125億円増の380億円、広告費は72億円増の190億円[59]へ引き上げられた。拠り所としたのは、社長就任のあいさつ回りで業界の長老たちが授けた『品質第一』と『フレッシュローテーション』[60]の二つの原則。鮮度を守るため、流通に滞留した古いビールは値引き販売せず買い上げて廃棄する、業界で初めてとされる措置[61]に踏み切った。投下の効果は店頭配荷に表れ、新しい生ビールで70〜80%、スーパードライでは99.8%[62]まで東京都内の店に置いてもらえた。
売れ行きは需要予測を上回り、当初の年間販売計画100万箱に対し、夏場の最盛期を前にした6月末時点で既に300万箱を販売して、計画は800万箱へ上方修正された[63]。首都圏の需要に応えるため東京工場をスーパードライの製造に全力で当たらせ[64]、その他のビールはブロック外の工場からの輸送で賄っている。1987年1〜6月のビール部門売上高は前年同期比25%増と、業界平均の約8%増[65]を大きく上回った。単体売上高は1986年12月期の2,593億円から1987年12月期3,451億円、1988年12月期5,448億円[66]へ拡大し、シェアも1987年の12.9%から1988年20.6%、1989年24.9%[67]へ伸びた。他社が対抗のドライ商品を相次いで投入したことはドライという新カテゴリーを広げ、1989年のビール市場でドライが占めた3割のうちアサヒのシェアは73%[68]に達していた。
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|---|---|---|---|---|
| 1949〜1981年分割で背負った西日本偏重と四半世紀のシェア低落 | 朝日麦酒を発足 | ★★ | ||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| ニッカウヰスキーに資本参加 | ★★ | |||
| 柏工場を新設(飲料専門工場) | ★ | |||
| 大森工場を新設 | ★★ | |||
| 国内ビール市場でシェア3位に低迷 | ★ | |||
| 名古屋工場の新設 | ★ | |||
| 橋本卓爾 | 福島工場の新設 | ★ | ||
| 1982〜1989年社風の作り替えから始めた再建と、味の全面転換 | 橋本卓爾 | 住友銀行副頭取・村井勉氏の招聘とCI導入による朝日麦酒の組織再建 1982年3月、シェア10%割れ目前まで低迷した朝日麦酒が、東洋工業(現マツダ)再建の実績を持つ住友銀行副頭取・村井勉氏を社長に迎え、教育・TQC・CI導入を軸とする組織体質の刷新に踏み切った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 橋本卓爾 | 樋口廣太郎氏が社長就任 | ★★ | ||
| 橋本卓爾 | 味の全面転換に社運を賭けた「アサヒスーパードライ」の発売 1987年3月、朝日麦酒(現アサヒグループHD)が辛口の生ビール『アサヒスーパードライ』を発売した経営判断。シェア10%割れ寸前まで沈んだ業界最下位級のメーカーが、寡占4社で似通っていたビールの味の全面転換に踏み切り、金融収益を原資とする大量の広告投資と増産・鮮度管理を同時に動かした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 橋本卓爾 | アサヒビールに商号変更 | ★ | ||
| 橋本卓爾 | 明石工場を新設(飲料専門工場) | ★ | ||
| 1990〜2012年財テクの後始末と、国内市場での長い立て直し | 瀬戸雄三 | 茨城工場を新設 | ★ | |
| 瀬戸雄三 | 子会社を新設 | ★ | ||
| 瀬戸雄三 | 伊藤忠と共同で中国企業2社の経営権を取得 | ★ | ||
| 瀬戸雄三 | 四国工場を新設 | ★ | ||
| 瀬戸雄三 | 神奈川工場を新設(大森工場を閉鎖) | ★ | ||
| 瀬戸雄三 | 協和発酵・旭化成から酒類事業を取得 | ★ | ||
| 荻田伍 | 和光堂を買収 | ★ | ||
| 荻田伍 | 朝日飲料を完全子会社化(親子上場の解消) | ★ | ||
| 荻田伍 | SCHWEPPES HD飲料事業を買収 | ★ | ||
| 泉谷直木 | 商号をアサヒグループHDに変更 | ★ | ||
| 泉谷直木 | カルピスを買収 | ★★ | ||
| 2013〜2025年欧州と豪州の定番ブランドを買って組んだ三極体制 | 泉谷直木 | 欧州プレミアムビール4社の取得(Peroni・Grolsch) 2016年、アサヒはABインベブによるSABMiller買収に伴う独占禁止法対応の売却を受け、西欧のビール事業4社(イタリアのPeroni、オランダのGrolschなど)を約25.5億ユーロ(約3,290億円)で取得した経営判断。成熟した国内市場の外に、先進国のプレミアムブランドで安定した収益基盤を築いた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小路明善 | 旧SABMiller中東欧ビール事業の約8,883億円買収と欧州の柱化 アサヒグループホールディングスが2016年12月にAB InBevとの契約で、旧SABMillerのチェコ・ポーランド・ハンガリー・ルーマニア・スロバキア5カ国のビール事業を約8,883億円で取得し、2017年に子会社化した買収。前年の西欧プレミアム取得に続く二段目で、欧州を収益の柱に据えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小路明善 | 青島ビールの譲渡(中国事業の縮小) | ★ | ||
| 小路明善 | 豪カールトン&ユナイテッド(CUB)の約1兆2000億円取得 2019年7月、アサヒはAB InBevから豪州最大のビール会社カールトン&ユナイテッドブルワリーズ(CUB)を約1兆2000億円で取得することで合意した。同社としては過去最大の買収で、2020年6月に取得を完了し、日本・欧州・豪州の三極体制を整えた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 勝木敦志 | アサヒグループジャパンを設立 | ★★ | ||
| 勝木敦志 | 新九州工場の新設計画(鳥栖工場) | ★★ | ||
| 勝木敦志 | 国内2工場を閉鎖(神奈川工場・四国工場) | ★ |
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事実根拠:出所(アサヒグループHD)