ニチロ の歴史

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創業 1906年
創業者 堤清六、平塚常次郎
創業地 新潟県新潟市
創業
1906年11月、堤清六氏と平塚常次郎氏が新潟で堤商会の看板を掲げた。前年のポーツマス条約で日本が北洋露領の漁業権を得たのを受け、1万2,500円を集めて163トンの帆船『宝寿丸』を手に入れ、カムチャッカ河への買魚出漁から始めている。1908年にウスチ・カムチャッカで漁場二か所を落札し、1910年には同地へ缶詰工場を建てた。ただし初年度の生産は四ダース入り704箱にとどまり、隣接する露人デンビー商会が据えた半自動機械に五倍から十倍の能力差をつけられている。堤商会はオゼルナヤの新工場に有り金をはたいて米国製のサニタリー缶機械を買い入れ、缶詰の能率的な量産へ移った。日魯漁業という商号は1914年3月に別会社の一井組が名乗ったもので、1921年の三社合併で堤商会がこれを継いだ。
決断
漁場を失うたびに、会社の重さを海から陸へ移してきた。1920年の尼港事件と戦後恐慌で1,000万円の負債を抱え、朝鮮銀行の融資条件だった三社合同を受け入れて1921年3月に日魯漁業となる。露領の漁場を集約して1932年11月には経営漁場298・工場32に達したが、1945年8月の終戦で在外資産をすべて失った。戦後は日ソ漁業条約の割当が上限となり、1960年から5年間で300億円を陸上加工と畜産加工へ投じて1968年に無配へ転じる。1977年の二百カイリ規制では北洋漁業を縮めて陸上加工へ転換し、1979年9月に米ピーターパン・シーフーズを買収してアラスカへ加工拠点を置いた。陸へ移すたびに設備投資が先行し、資本金70億円の会社が9年で約350億円を投じて金利負担に追われた。
現況
ニチロという会社は残らず、最後は冷凍食品を作る会社になっていた。最終期となる2007年3月期の連結売上高は2,516億9,700万円、経常利益29億100万円である。加工食品事業は外部売上1,544億1,700万円・営業利益59億7,000万円で、祖業の水産品事業の726億6,900万円・13億3,000万円を上回る。2001年2月に調理冷凍食品へ主力を移し、セブン-イレブン向けの餃子から伸びた子会社と2003年に子会社化したアクリフーズを軸に据えた結果である。一方で2005年3月期に71億8,600万円の当期純損失を計上し、自己資本比率は12.0%まで下がって有利子負債の削減が最大の財務課題となる。同年9月25日に上場を廃止し、10月1日にマルハグループ本社の完全子会社となった。
競合
統合の席に持ち寄ったのは、漁場ではなく冷凍食品の生産であった。戦後の水産大手は大洋漁業・日本水産・日魯漁業の三社で、二百カイリ規制の後にたどった道はそこで分かれる。日本水産は2022年に漁労への依存を解いて、食品と養殖の二翼へ会社の性格を組み替えた。マルハグループ本社は水産物の調達と商事の力を保ったまま、2007年にニチロとの株式交換に踏み切った。ニチロはそのどちらでもなく、露領の漁場を前提に興した会社が、最後は餃子と冷凍食品の生産で立っていた。統合の最終年に加工食品の営業利益が水産品の4倍を超えていたことが、発足したマルハニチロを食品の側へ寄せる素地になった。
ニチロ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1975年11月期2001年3月期

創業ストーリー 露領カムチャッカへの買魚出漁から始めた堤商会と日魯漁業の設立 (1906年〜)

露領カムチャッカへの買魚出漁から始めた堤商会と日魯漁業の設立

ブロンゲ岬での出会いと帆船「宝寿丸」の初出漁

日魯漁業の創業者の一人となる平塚常次郎氏は、1881年に北海道函館の呉服唐物商の家に生まれた[1]。札幌の露清語学校[2]でロシア語を学び、南樺太コルサコフの雑貨店員を経て、21歳の春に露領カムチャッカのヤイナへ買魚出漁に加わった[3]。日露戦争では旭川第七師団の砲兵として旅順攻撃から奉天大会戦に参加[4]し、砲声で右の鼓膜を破った。ポーツマス条約で日本が北洋露領の漁業権を得た翌年の1906年春[5]、平塚氏は沿海州黒龍江河畔のブロンゲ岬で漁をしていた。そこへ背広にハンチング、白ズボンに長ぐつ[6]という漁場では見慣れない風体の青年が訪ねてくる。越後三条町の呉服屋の長男で、ロシア人相手の雑貨貿易を調べに来た堤清六氏[7]だった。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
    • [2]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
    • [3]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
    • [4]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
    • [5]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
    • [6]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
    • [7]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた

堤氏は帰郷したのち、水産に反対する両親と親類を説得して1万2,500円の出資を集め、163トンの帆船『宝寿丸』を手に入れた[8]。名目は当初の計画どおりの貿易だったが、宝寿丸は出漁船であり[9]、二人はこれを元手に新潟で堤商会の看板を掲げた。有価証券報告書は沿革の最初に1906年11月の堤商会設立を記し、平塚氏自身は看板を掲げたのを翌1907年と回想した[10]。同年に日露漁業協約が結ばれたものの漁場の競売が遅れたため、初年度は宝寿丸でカムチャッカ河へ向かう買魚出漁に終わった[11]。翌1908年、堤商会はウスチ・カムチャッカで二か所の漁場を落札[12]し、自前の漁場を持った。平塚氏は漁のかたわら地形や潮流、魚の回遊状態を調べて歩いた[13]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [8]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
    • [9]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
    • [10]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
    • [11]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
    • [12]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
    • [13]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
    • [2]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
    • [3]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
    • [4]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
    • [5]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
    • [6]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
    • [7]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた
    • [8]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
    • [9]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
    • [10]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
    • [11]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
    • [12]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
    • [13]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた

紅鮭の缶詰と、社名「日魯」の由来

カムチャッカ東海岸の一帯は紅鮭が多かったが、当時の日本で紅鮭は好まれず値も安かった[14]。外国では喜ばれるので輸出用の缶詰にすればよいという助言を受け、堤商会は1910年にウスチ・カムチャッカの漁場へ小さな工場を建てた[15]。その年の生産は四ダース入り704箱[16]にとどまる。缶の封は職人が鏝で半田づけし、煮沸で膨張した缶に穴をあけてまた半田づけするという手工業で、身の詰め方も揃わず『鮭のスープか』と冷やかされた[17](日本経済新聞 1958/4)。それでも味は評価され、翌年には2,700余箱を製造した[18]。隣接する露人デンビー商会の漁場はスウェーデン式の半自動機械を据えており、生産能力は堤商会の五倍から十倍あった[19]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [14]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
    • [15]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
    • [16]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
    • [17]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
    • [18]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
    • [19]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた

機械力の差を埋めるため、堤商会はオゼルナヤに新工場を建てる際、有り金をはたいて米国製のサニタリー缶機械を導入した[20]。空缶の製造から中身の充填までを自動で処理する設備で、機械は売り物ではないと断られたのを、セール・フレーザー商会のブース氏が立て替え払いまでして買い付けた[21]。この空缶部門は後に函館で独立工場となり、北海製罐につながる[22]。一方、久原房之助氏の番頭だった中山説太郎氏が興した一井組は、1914年3月12日に資本金200万円の日魯漁業株式会社となり[23]、社長に田村市郎氏、専務に中山氏が就いた[24]。これが日魯という社名の起こりで、以後は堤商会・輸出食品・日魯の三社が北洋漁業の三羽烏と呼ばれた[25]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [20]オゼルナヤの新工場に米国製サニタリー缶機械を導入した
    • [21]セール・フレーザー商会のブースが立て替え払いで機械の買付を助けた
    • [22]空缶製造部門は函館で独立し北海製罐につながった
    • [24]設立時の日魯漁業は社長が田村市郎、専務が中山説太郎だった
    • [25]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [23]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [14]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
    • [15]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
    • [16]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
    • [17]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
    • [18]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
    • [19]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた
    • [20]オゼルナヤの新工場に米国製サニタリー缶機械を導入した
    • [21]セール・フレーザー商会のブースが立て替え払いで機械の買付を助けた
    • [22]空缶製造部門は函館で独立し北海製罐につながった
    • [24]設立時の日魯漁業は社長が田村市郎、専務が中山説太郎だった
    • [25]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [23]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された

米国式缶詰機械と三社合同が築いた北洋漁業の集約体制

尼港事件と恐慌が決めた1921年の三社合併

1917年のロシア革命は露人の漁業家に打撃を与え、平塚氏の競争相手だったデンビー商会も1918年に三菱へ身売りした[26]。革命後のソビエトは国営漁場を推し進め[27]、日本の漁業家が個々に対峙できる相手ではなくなる。1919年、平塚氏が草分けしたカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた[28]。当時のロシアは外国為替を禁じており[29]、入札には数百万ルーブルの現金が要る。平塚氏はハルビンで200万ルーブルを現金化すると、紙幣の束を小分けにして体に巻きつけ[30]、その上に毛皮外套を着てウラジオストクへ渡った。無警察状態のシベリアを単身で抜けたこの入札行で、三漁場を確保した[31]。堤商会自身も1919年12月に極東漁業へ改組し[32]、翌1920年2月には輸出食品を合併してその商号を継いだ[33]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [26]ロシア革命により露人漁業家のデンビー商会は1918年に三菱へ身売りした
    • [27]革命後のソビエトは国営漁場を推し進めた
    • [28]1919年にカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた
    • [29]ロシアが外国為替を禁じていたため入札には現金が必要だった
    • [30]平塚常次郎はハルビンで200万ルーブルを現金化して身につけ運んだ
    • [31]平塚常次郎は単身の入札行でカム河の三漁場を確保した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1919年12月に堤商会は極東漁業へ改組した
    • [33]1920年2月に極東漁業は輸出食品を合併し輸出食品の商号を継承した

翌1920年3月の尼港事件では石田領事以下の邦人700余名が殺害され[34]、その余波でオホーツク方面の漁場30余か所が焼き払われた。同じ年、大戦後の世界的な恐慌でロンドンへ送った缶詰が滞貨し、運賃の変動による差損も重なって1,000万円の負債を抱えた[35]。朝鮮銀行を主体とする融資の条件[36]が、関係三社の合同だった。1921年3月、輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併[37]して日魯漁業の商号を継ぎ、資本金2,570万円[38]の会社が本社を東京市日本橋区に置き[39]、堤氏が取締役会長、平塚氏が常務に就いた。この合同は米国式の缶詰機械と技術を全面的に使い、缶詰の能率的な大量生産を図るためのもので、輸出食品が主体となって計画を進めた[40]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [34]1920年3月の尼港事件で邦人700余名が殺害された
    • [35]戦後恐慌で缶詰が滞貨し1,000万円の負債を抱えた
    • [36]朝鮮銀行の融資条件が関係三社の合同だった
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1921年3月に輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併した
    • [39]合同後の本社を東京市日本橋区に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [38]三社合同後の資本金は2,570万円となった
    • [40]三社合同は米国式缶詰機械による大量生産を目的とし輸出食品が主導した
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [26]ロシア革命により露人漁業家のデンビー商会は1918年に三菱へ身売りした
    • [27]革命後のソビエトは国営漁場を推し進めた
    • [28]1919年にカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた
    • [29]ロシアが外国為替を禁じていたため入札には現金が必要だった
    • [30]平塚常次郎はハルビンで200万ルーブルを現金化して身につけ運んだ
    • [31]平塚常次郎は単身の入札行でカム河の三漁場を確保した
    • [34]1920年3月の尼港事件で邦人700余名が殺害された
    • [35]戦後恐慌で缶詰が滞貨し1,000万円の負債を抱えた
    • [36]朝鮮銀行の融資条件が関係三社の合同だった
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1919年12月に堤商会は極東漁業へ改組した
    • [33]1920年2月に極東漁業は輸出食品を合併し輸出食品の商号を継承した
    • [37]1921年3月に輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併した
    • [39]合同後の本社を東京市日本橋区に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [38]三社合同後の資本金は2,570万円となった
    • [40]三社合同は米国式缶詰機械による大量生産を目的とし輸出食品が主導した

露領漁場の集約と、島徳事件が突いた弱点

合同後の日魯漁業は露領の漁場を集め、1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場をほぼ掌握[41]し、1932年9月には露領に散在する41漁場を合併[42]して総合同を実現する。同年11月の経営漁場はカムチャッカ東海岸106、西海岸137、オホーツク38、沿海州サガレン17の計298に達し、工場は32を数えた[43]。半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函[44]、塩魚53万6,000函にのぼる。缶詰は英国船1隻と邦船2隻を使ってほとんど英国へ直送され、年産5,000万円を突破した[45]。堤商会が作ったあけぼの印の鮭缶詰は、合同前の1915年にサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得ていた[46]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [41]1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場を掌握した
    • [42]1932年9月に露領の41漁場を合併した
    • [43]1932年11月の経営漁場は298、工場は32だった
    • [44]半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函だった
    • [45]缶詰はほとんど英国へ直送され年産5,000万円を超えた
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [46]あけぼの印の鮭缶詰が1915年のサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得た

事業が好調になると[47]、外から仕掛けられた。1929年の漁区競売では、日魯漁業が更新するはずの優良漁区78か所[48]がK・UDA名義の露人によって落札される。工場のあるキシカの漁区は平塚氏が2万金ルーブルで入れたのに対し、相手は10万金ルーブルという高値だった[49]。入札の結果が知れ渡る前に市場へ投げ物が殺到し、120円台だった日魯株は20円まで暴落し、立会停止になった[50]。仕掛けたのは相場師の島徳蔵氏の一派[51]で、漁場を押さえて事業を止め、株の操作で儲ける筋書きだった。調停に立った杉山茂丸氏の一言で島側が漁区を全部放棄し、[52]日魯漁業が160万円を渡して決着した。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [47]昭和のはじめごろ日魯漁業の事業はきわめて好調だった
    • [48]1929年の漁区競売で優良漁区78か所がK・UDA名義で落札された
    • [49]キシカ漁区は日魯の2万金ルーブルに対し相手が10万金ルーブルを入れた
    • [50]日魯株は120円台から20円まで暴落し立会停止となった
    • [51]事件を仕掛けたのは相場師の島徳蔵の一派だった
    • [52]杉山茂丸の調停で島側が漁区を放棄し日魯が160万円を渡して決着した

1931年、堤清六氏が灸の跡から入った丹毒に肺炎を併発し、52歳で急死した[53]。平塚氏は二人を事業の上でまったく一個の人格に等しかったと書き、身も魂も抜けたような空虚[54]を感じたと回想した。翌1932年には中小の漁業家が合同した北洋合同漁業も即時合併し、資本金5,380万円の会社となって北洋漁業は一社に統一される[55]。1943年4月には企業整備令により太平洋漁業・北千島水産・北日本漁業・日本蟹缶詰・北洋蟹缶詰の5社を吸収合併[56]し、資本金は8,550万円となった[57]。この時点で北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を日魯漁業が経営した[58]。そして1945年8月、終戦により在外の全資産を失った[59]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [53]1931年に堤清六が52歳で死去した
    • [54]平塚常次郎は堤清六の死に身も魂も抜けたような空虚を感じたと回想した
    • [55]1932年に北洋合同漁業を合併し資本金5,380万円となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [56]1943年4月に企業整備令で5社を吸収合併した
    • [57]5社合併後の資本金は8,550万円となった
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [58]終戦まで北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を経営した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1945年8月の終戦により在外全資産を喪失した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [41]1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場を掌握した
    • [42]1932年9月に露領の41漁場を合併した
    • [43]1932年11月の経営漁場は298、工場は32だった
    • [44]半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函だった
    • [45]缶詰はほとんど英国へ直送され年産5,000万円を超えた
    • [56]1943年4月に企業整備令で5社を吸収合併した
    • [57]5社合併後の資本金は8,550万円となった
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [46]あけぼの印の鮭缶詰が1915年のサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得た
    • [47]昭和のはじめごろ日魯漁業の事業はきわめて好調だった
    • [48]1929年の漁区競売で優良漁区78か所がK・UDA名義で落札された
    • [49]キシカ漁区は日魯の2万金ルーブルに対し相手が10万金ルーブルを入れた
    • [50]日魯株は120円台から20円まで暴落し立会停止となった
    • [51]事件を仕掛けたのは相場師の島徳蔵の一派だった
    • [52]杉山茂丸の調停で島側が漁区を放棄し日魯が160万円を渡して決着した
    • [53]1931年に堤清六が52歳で死去した
    • [54]平塚常次郎は堤清六の死に身も魂も抜けたような空虚を感じたと回想した
    • [55]1932年に北洋合同漁業を合併し資本金5,380万円となった
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [58]終戦まで北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を経営した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1945年8月の終戦により在外全資産を喪失した

在外資産の全喪失から北洋の再開、そして総合食品メーカーへ

四つの基地から始めた戦後再建と北洋の再開

敗戦で失ったのは漁場だけではなく、樺太・千島・カムチャッカの租借権はすべて空証文になり、北洋の現場では2,300余名の従業員が抑留され[60]、戦前に冷蔵庫43、缶詰工場37[61]を擁した生産設備も残らなかった。当時64歳の平塚氏は残留社員1,000余名[62]とその家族の生活を考え、どこの海でもいいから魚を獲ることに再建の道を求める。神奈川県久里浜を基地に遠洋のかつお・まぐろ漁業へ着手し、宮城県塩釜を補助基地、下関を根拠に東シナ海と黄海のトロールと機船底曳へ広げ、函館と合わせて四つの基地を置いた[63]。資金は興業銀行から1億円余、復興金融公庫から2億円の融資を受け[64]、終戦直後に三回の増資を重ねた[65]。1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場した[66]

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [60]終戦時に北洋の現場で2,300余名の従業員が抑留された
    • [62]終戦時の残留社員は1,000余名だった
    • [63]久里浜・塩釜・下関・函館の四つの基地で戦後再建に着手した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [61]戦前の生産設備は冷蔵庫43と缶詰工場37だった
    • [64]興業銀行から1億円余、復興金融公庫から2億円の融資を受け三回増資した
    • [65]終戦直後に三回の増資を行った
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1949年5月に東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ上場した

1952年の講和条約発効[67]で、母船式のサケ・マス漁業とカニ漁業が復活した。初年度の漁獲は42万4,000尾[68]と試験操業の域を出なかったが、1953年度は母船明晴丸が独航船34隻を率いて280万2,000尾を水揚げする[69]。このとき缶詰製造設備を一ライン母船に積み込み、現地での製造に主力を置いて3万8,400函[70]を生産した。翌1954年度には母船協宝丸を加えて缶詰機械を二ラインとし、前年度の4.1倍にあたる16万1,500函[71]をあけぼの印で製造した。北海道沿岸のカニ缶詰と久里浜・石巻の各工場を合わせた缶詰は42万5,000函にのぼり、その7割を英国・米国・アイルランドなどへ輸出した[72]。1956年には北洋サケ・マス母船16船団のうち5船団を確保した[73]。資本金は戦後四回の増資を経て1955年6月に22億円となった[74]

  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [67]1952年の講和条約発効で母船式サケ・マス漁業とカニ漁業が復活した
    • [73]1956年に北洋サケ・マス母船16船団のうち5船団を確保した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [68]1952年度の漁獲は42万4,000尾にとどまった
    • [69]1953年度は明晴丸が独航船34隻を率いて280万2,000尾を水揚げした
    • [70]1953年度は母船に缶詰設備を積み3万8,400函を生産した
    • [71]1954年度は缶詰16万1,500函を製造し前年度の4.1倍となった
    • [72]1954年度の缶詰生産は合計42万5,000函でその7割を欧米へ輸出した
    • [74]資本金は戦後四回の増資を経て1955年6月に22億円となった
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [60]終戦時に北洋の現場で2,300余名の従業員が抑留された
    • [62]終戦時の残留社員は1,000余名だった
    • [63]久里浜・塩釜・下関・函館の四つの基地で戦後再建に着手した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [61]戦前の生産設備は冷蔵庫43と缶詰工場37だった
    • [64]興業銀行から1億円余、復興金融公庫から2億円の融資を受け三回増資した
    • [65]終戦直後に三回の増資を行った
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1949年5月に東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ上場した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [67]1952年の講和条約発効で母船式サケ・マス漁業とカニ漁業が復活した
    • [73]1956年に北洋サケ・マス母船16船団のうち5船団を確保した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [68]1952年度の漁獲は42万4,000尾にとどまった
    • [69]1953年度は明晴丸が独航船34隻を率いて280万2,000尾を水揚げした
    • [70]1953年度は母船に缶詰設備を積み3万8,400函を生産した
    • [71]1954年度は缶詰16万1,500函を製造し前年度の4.1倍となった
    • [72]1954年度の缶詰生産は合計42万5,000函でその7割を欧米へ輸出した
    • [74]資本金は戦後四回の増資を経て1955年6月に22億円となった

海から陸へ ── 五年で300億円を投じた多角化と無配転落

日ソ漁業条約のもとでは漁獲の割当量に限りがあり[75]、北洋の売上増は望めなかった。日魯漁業は陸上加工と畜産加工の強化に着手[76]し、総合食品メーカーへの転換を始めた。1960年から1964年までの五年間に300億円を投じ[77]、久里浜・広島・弘前の各工場、東京冷蔵庫、栃木畜産試験場、川崎配合飼料、白鷹工場を整備した。品目はマヨネーズ、魚肉ハム・ソーセージ、冷凍カキ、パン、養鶏養豚、果実栽培、ミンク飼育[78]へ広がる。1967年度の売上高は467億6,200万円[79]で、内訳は鮮冷副産品42%、缶詰28%、飼料・畜産11%、ハム・ソーセージ7%[80]だった。1958年には大洋冷凍母船を合併して母船を6船団に[81]増やした。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [75]日ソ漁業条約の漁獲割当により北洋の売上増が望めなかった
    • [76]日魯漁業は陸上加工と畜産加工の強化に着手し総合食品メーカーを目指した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [77]1960年から1964年の五年間で300億円を設備に投じた
    • [78]多角化の品目はマヨネーズ・魚肉ハム・冷凍カキ・パン・養鶏養豚などに及んだ
    • [79]1967年度の売上高は467億6,200万円だった
    • [80]1967年度の構成比は鮮冷副産品42%、缶詰28%、飼料・畜産11%だった
    • [81]1958年に大洋冷凍母船を合併し母船を六船団に増やした

陸への転換は重い負担を伴い、1960年度から1968年度までの九年間の設備投資は約350億円[82]に達した。うち海上が約6割を占め[83]、資本金70億円の会社が金利負担に追われた。副社長の平野赳氏は、水産業が認許可制であるため『許可を得たからにはその権利を確保するため』[引用元][84]に無理な投資を強行せざるを得なかったと説明した(証券アナリストジャーナル 1969/12)。1968年11月期は大幅な減益で無配に転落[85]する。同社は3年間の無配を続けて手元の資金を厚くする方針を決めたが、初年度に40億円を留保して経常利益4,100万円の黒字無配とし[86]、3年を待たずに目標を達成した。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [82]1960年度から1968年度の九年間で設備投資は約350億円に達した
    • [83]設備投資のうち海上が約6割を占めた
    • [84]認許可制ゆえ権利確保のため無理な投資を強行せざるを得なかった
    • [85]1968年11月期に大幅減益で無配へ転落した
    • [86]無配初年度に40億円を留保し経常利益4,100万円を計上した

多角化は子会社の設立でも進み、1968年11月に宮畜産を子会社化[87]し、1971年3月に函館国際ホテル、1973年7月にインドネシアのP.T.Alfa Kurnia Fish Enterprise、1975年6月には北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立した[88]。1969年7月には本社を東京都千代田区有楽町へ移して[89]いる。海外の漁業基地づくりでは商社との協業もあり、1961年には三井物産と組んでガーナのテマにカツオ専門の基地を設けた[90]。副社長の平野氏は将来の漁撈について、開発途上国の沿岸では現地へ技術と手段を供与して漁獲させ[91]、日本の市場へ流す形になると述べた(証券アナリストジャーナル 1969/12)。

  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [87]1968年11月に宮畜産を子会社化した
    • [88]1975年6月に北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立した
    • [89]1969年7月に本社を東京都千代田区有楽町へ移転した
  • 私の商社昭和史(1987年)「日本人の食生活改善に貢献」
    • [90]1961年に三井物産と日魯漁業がガーナのテマにカツオ基地を設けた
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [91]平野赳副社長は将来の漁撈を現地への技術供与による漁獲と日本市場への流通と述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
    • [75]日ソ漁業条約の漁獲割当により北洋の売上増が望めなかった
    • [76]日魯漁業は陸上加工と畜産加工の強化に着手し総合食品メーカーを目指した
    • [82]1960年度から1968年度の九年間で設備投資は約350億円に達した
    • [83]設備投資のうち海上が約6割を占めた
    • [84]認許可制ゆえ権利確保のため無理な投資を強行せざるを得なかった
    • [85]1968年11月期に大幅減益で無配へ転落した
    • [86]無配初年度に40億円を留保し経常利益4,100万円を計上した
    • [91]平野赳副社長は将来の漁撈を現地への技術供与による漁獲と日本市場への流通と述べた
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [77]1960年から1964年の五年間で300億円を設備に投じた
    • [78]多角化の品目はマヨネーズ・魚肉ハム・冷凍カキ・パン・養鶏養豚などに及んだ
    • [79]1967年度の売上高は467億6,200万円だった
    • [80]1967年度の構成比は鮮冷副産品42%、缶詰28%、飼料・畜産11%だった
    • [81]1958年に大洋冷凍母船を合併し母船を六船団に増やした
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [87]1968年11月に宮畜産を子会社化した
    • [88]1975年6月に北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立した
    • [89]1969年7月に本社を東京都千代田区有楽町へ移転した
  • 私の商社昭和史(1987年)「日本人の食生活改善に貢献」
    • [90]1961年に三井物産と日魯漁業がガーナのテマにカツオ基地を設けた

家庭用冷凍食品への集中と、マルハとの統合による幕引き

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ニチロの沿革1906〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1914年露領カムチャッカへの買魚出漁から始めた堤商会と日魯漁業の設立堤清六氏と平塚常次郎氏が新潟市に堤商会を設立★★★
帆船「宝寿丸」で北洋漁場に初出漁★★
さけ缶詰の製造を開始★★
北洋サケ・マス漁場の取得と、米国式缶詰機械によるサケ缶詰の量産化

1906年に沿海州で出会った堤清六氏と平塚常次郎氏が、露領カムチャッカの漁場で手詰めのサケ缶詰から始め、米国製の自動缶詰機械を買い入れて量産へ移り、1914年に函館で設立された日魯漁業を含む三社の合同(1921年)で北洋最大の缶詰会社をつくった経営判断。

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★★★
1914〜1945年米国式缶詰機械と三社合同が築いた北洋漁業の集約体制堤商会を極東漁業に改組
輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併★★★
本社を東京市日本橋区に設置
終戦により在外全資産を喪失★★★
1945〜1977年在外資産の全喪失から北洋の再開、そして総合食品メーカーへ稚内事業所を開設
久里浜支社石巻支所を開設
東京証券取引所、名古屋証券取引所、大阪証券取引所に株式を上場
造船・造機部門を分離して日新造船を設立
北洋母船式サケ・マス漁業を再開★★★
新日本海獣を設立
釧路事業所を開設
森事業所を開設
宮畜産を子会社化★★
本社を東京都千代田区有楽町に移転
北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立
二百カイリ規制下での北洋漁業の縮小と、陸上加工・畜産加工への転換

日ソ漁業条約のもとで北洋の売上増が見込めないことから、日魯漁業が1960年代を通じて陸上加工・畜産加工へ資金を移し、1977年に各国が二百カイリの漁業専管水域を設定して以後は自ら獲る量を減らし、加工食品と海外の加工会社へ収益源を移した経営判断。

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★★★
1978〜2007年家庭用冷凍食品への集中と、マルハとの統合による幕引き米国のピーターパン・シーフーズを子会社化★★
米国のゴールデンアラスカ・シーフーズを子会社化
母船式サケ・マス事業八社共同経営による一船団出漁★★
決算期を3月31日に変更
商号をニチロに変更★★
家庭用・業務用の調理冷凍食品への集中と、ライン直結の商品開発体制への移行

1990年代に子会社がコンビニエンスストア向けで広げた調理冷凍食品を、ニチロが1999年発売の『そばめし』を機に主力へ据え、全社一本の開発部を解体して生産ラインに直結した開発体制へ移した判断。買収と中国の生産拠点を重ね、2007年3月期には加工食品事業が連結売上高の6割を占めた。

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★★★
ニチロサンフーズ株式を日本証券業協会に登録
冷凍デザート事業のサングルメを設立
冷凍食品製造販売のアクリフーズを子会社化★★★
ほくれいを子会社化★★
ニチロサンパックを設立
マルハグループ本社とニチロの経営統合、マルハニチロホールディングスの発足

2006年12月11日、水産最大手のマルハグループ本社と業界三位のニチロが経営統合を発表した。マルハ本社はマルハニチロホールディングスへ商号を改め、ニチロを株式交換で完全子会社とし、2007年10月に新会社を発足させた。両社の2006年3月期の単純合算売上高は約9,700億円で、二位の日本水産の約二倍となった。

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★★★
出典・参考
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
  • 私の商社昭和史(1987年)「日本人の食生活改善に貢献」

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