ニチロ二百カイリ規制下での北洋漁業の縮小と、陸上加工・畜産加工への転換

獲る権利を守るために船を造り続けるか、陸の工場で稼ぐか——総合食品メーカーへの道

時期 1977年
意思決定者(推定) 日魯漁業 経営陣 副社長 平野赳氏ほか
論点 漁業規制下の事業構成
概要
日ソ漁業条約のもとで北洋の売上増が見込めないことから、日魯漁業が1960年代を通じて陸上加工・畜産加工へ資金を移し、1977年に各国が二百カイリの漁業専管水域を設定して以後は自ら獲る量を減らし、加工食品と海外の加工会社へ収益源を移した経営判断。
背景
戦前に北洋全域の漁場を持っていた同社は敗戦で在外資産を失い、1952年に北洋漁業を再開した。しかし漁獲割当量には限りがあり、水産業が認許可制であるために権利保持のための設備投資が続き、金利負担から1968年11月期に無配へ転落した。
内容
1960年度からの5年間で300億円を投じ、久里浜・広島・弘前の工場、東京冷蔵庫、栃木畜産試験場、川崎配合飼料工場を整えて、マヨネーズ、魚肉ハム・ソーセージ、養鶏養豚まで品目を広げた。コールドチェーンを掲げて冷凍食品を増産し、宮畜産の子会社化とニチロ畜産の設立で畜産を会社の形にした。
含意
二百カイリ以後は自社の漁獲に代えて米国のピーターパン・シーフーズ、ゴールデンアラスカ・シーフーズを子会社化し、原料をアラスカで確保した。母船式サケ・マス漁業は1988年6月に8社共同経営の1船団まで縮み、収益を生む場は加工食品へ移った。
筆者の見解

権利を守る競争から降りるということ

資本金70億円の会社が9年間で約350億円を投じ、その6割を船に向けた。この設備投資が会社を無配へ追い込んだ理由を、平野赳副社長は水産業の認許可制に求めている。許可を得た以上は権利を確保するために無理な投資も強行するほかなかった、という説明であった。陸上加工と畜産加工への配分替えは、その権利争いから降りる判断でもあった。二百カイリで漁場が閉じる17年前に、日魯漁業は獲る量ではなく加工する量で稼ぐ会社へ移り始めていたとみることができる。

ただ、この配分替えが会社を身軽にしたとは言いにくい。5年で300億円、9年で約350億円という投資は陸の設備にも金利負担を残し、1968年11月期の無配はその帰結であった。畜産についても平野副社長はあわてることを戒め、提携先を持たないまま長期計画で進むと語っていた。1988年に母船式サケ・マスが1船団まで縮んだ時点で、稼ぎの多くを加工食品が生む会社になっていたのは、早く決めたからというより、無配と復配を挟んで20年近く投資を続けられたからだといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

割当のある海

戦前の日魯漁業は、カムチャッカ・北千島・樺太の漁場を押さえ、冷蔵庫43と缶詰工場37を擁して、さけ・ます・かに漁業を一手に引き受けていた。1945年の敗戦で在外資産のすべてを失い、1952年の平和条約発効で北洋漁業が再開すると業容は戻った。だが日ソ漁業条約のもとでは漁獲割当量に限りがあり、北洋の売上増加は望めない。安定した収益を得られないという見立てから、日魯漁業は陸上加工部門と畜産加工部門の強化に着手した[1]

陸への配分替えは、1960年度から1964年度までの5年間で300億円という規模になった。久里浜・広島・弘前の各工場、東京冷蔵庫、栃木畜産試験場、川崎配合飼料工場、白鷹工場が整えられ、品目はマヨネーズ、魚肉ハム・ソーセージ、冷凍カキ、パン、養鶏養豚、果実栽培、ミンク飼育にまで及んだ。1967年度の売上高は467億6,200万円で、内訳は鮮冷副産品42%、缶詰28%、飼料・畜産11%、ハム・ソーセージ7%であった[2][3]

認許可制が呼んだ設備投資

投資の負担は重かった。1960年度から1968年度までの9年間の設備投資は約350億円に達し、部門別では海上が約6割を占めた。資本金70億円の会社が金利負担に追われた。なぜ無理な投資が続いたのかを、副社長の平野赳氏は水産業が認許可制であることに求めている。「許可を得たからにはその権利を確保するために無理な設備投資をも強行せざるを得なかった」(証券アナリストジャーナル 1969/12)。それが熾烈な造船競争にもつながった[4][5]

1968年11月期、日魯漁業は大幅な減益で無配に転落した。同社は今後3年間は無配を続け、年間50億円を社内に留保し、設備投資を15億円程度に抑えて3年で約100億円を積むという方針を立てた。ところが初年度に40億円を留保し、経常利益4,100万円を計上して黒字無配とした。3年を待たずに目標へ届いたことになる。船を増やす投資を絞ったことが、そのまま手元資金の厚みに変わったとみられる[6]

決断

二百カイリと、船から工場への配分替え

規制の到来は予告されていた。1972年の企業講演では、翌年に開かれる海洋会議で領海幅や漁業管轄権が取り上げられるとして、「沿岸200海里に線を引くと、今の漁場はほとんどその中に入ってしまう」と語られていた(証券アナリストジャーナル 1972/04)。その線は1977年に現実のものとなる。各国が二百カイリの漁業専管水域を設定し、水産加工の側はこれを「200カイリ問題」と呼んだ(証券アナリストジャーナル 1978/11)[7][8]

日魯漁業の答えは、船をこれ以上増やさず、陸の設備と畜産へ資金を回すことであった。畜産では紋別・名寄・岩手・長岡に畜産センターを置き、畜産加工品と精肉を生産した。系列のアシタカは、保有していた約8万坪をインターチェンジ用地として坪2万円で売り、得た16億円で北海道に100万坪の土地を求めている。全国畜産農業協同組合連合会と組んで豚6万頭、鶏500万羽を生産する計画も掲げた[9]

魚を冷凍食品に変える

平野副社長は、生鮮食料の流通を良くする手立てとしてコールドチェーン・システムを提唱した。腐敗を防ぐために防腐剤へ頼るのではなく、低温貯蔵と低温輸送で生産者から消費者まで途切れなく運ぶという構想である。「今後増産される魚介類については冷凍食品として付加価値をつけ、商品化して流通させ」たいと述べ(証券アナリストジャーナル 1969/12)、貯蔵・輸送・加工を三つの働きと呼んで、加工を生産者の段階へ移せば流通機構は短くなると説いた[10]

畜産の会社化も同じ時期に進んだ。1968年11月に宮畜産を子会社化し、1975年6月には北海道畜産事業部を分離してニチロ畜産を設立している。当時、畜産で組み合わせができていたのは三菱商事と日本ハム、三井物産と高崎ハム、伊藤忠商事とプリマハムという総合商社が主で、日魯漁業は提携先を持たずに進んだ。平野副社長は「畜産事業は、あわてることは禁物である。長期計画のもとで進めるべきだ」と語っている(証券アナリストジャーナル 1969/12)[11][12]

結果

無配からの復配

陸上部門の寄与は、まず配当の回復に表れた。1969年度の生産高は640億円の見込みで、翌年度は670億円が見込まれた。同年度は償却前利益95億円のうち、法定償却に32億円、輸出割増償却に15億円、子会社の整理に伴う債権償却に8億5,000万円を充て、差引15〜16億円の利益から株主配当7億円と法人税をまかなう計画であった。1割配当への復帰にあたる[13]

先行きについて平野副社長は、賃金上昇による負担は増えるものの、魚価の堅調と畜産加工部門の強化で収益増が見込まれ、1割配当の体制は堅持できようと述べた(証券アナリストジャーナル 1969/12)。同じ時期、人工甘味料チクロの使用禁止で果実缶詰が影響を受けたが、損失は2〜3億円程度で済むと見積もっている。海の割当が増えないという前提のまま収益を組み立てる形が、ここでいったん立った[14]

北洋の縮小と、原料をアラスカで持つ形

二百カイリ体制のもとで、日魯漁業は自ら獲る量を減らし、海外の加工会社を持つ方へ移った。1979年9月に米国のピーターパン・シーフーズを、1986年12月に同じく米国のゴールデンアラスカ・シーフーズを子会社化し、アラスカに加工の足場を得た。他者と組んで原料を確保する形は以前からあり、1961年には三井物産と協力してガーナのテマにカツオ専門の漁業基地を設けている[15][16]

北洋そのものは縮んだ。1956年には北洋サケ・マス母船16船団のうち5船団を確保して出漁していたが、1988年6月の母船式サケ・マス事業は8社共同経営による1船団の出漁にとどまった。創業から70年余りにわたって会社の名を決めてきた漁業が、事業の一部へ収まった。陸上加工と畜産加工への配分替えを1960年に始めていたことが、この縮小を支えたとみられる[17][18]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1969年12月号「日魯漁業の現状と将来」
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
  • 私の商社昭和史(1987年)「日本人の食生活改善に貢献」
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1972年4月号「日本冷蔵」
  • 証券アナリストジャーナル 1978年11月号「不二製油」

免責事項およびポリシー