資本金70億円の会社が9年間で約350億円を投じ、その6割を船に向けた。この設備投資が会社を無配へ追い込んだ理由を、平野赳副社長は水産業の認許可制に求めている。許可を得た以上は権利を確保するために無理な投資も強行するほかなかった、という説明であった。陸上加工と畜産加工への配分替えは、その権利争いから降りる判断でもあった。二百カイリで漁場が閉じる17年前に、日魯漁業は獲る量ではなく加工する量で稼ぐ会社へ移り始めていたのだろう。
ただ、この配分替えが会社の負担を軽くしたとは言いにくい。5年で300億円、9年で約350億円という投資は陸の設備にも金利負担を残し、1968年11月期の無配はその帰結であった。畜産もまた、総合商社との組み合わせを持たないまま自力で育てる事業で、宮畜産の子会社化からニチロ畜産の設立まで時間をかけている。1988年に母船式サケ・マスが1船団まで縮んだ時点で、稼ぎの多くを加工食品が生む会社になっていたのは、早く決めたからというより、無配と復配を挟んで20年近く投資を続けられたからだといえる。