日本電気硝子ブラウン管(CRT)ガラスへの後発参入と滋賀高月へのCRT専用工場の新設

テレビは本当に普及するのか——世間の評価が定まらぬなか、資本金3億円の会社が20億円を一つの工場に置けるか

時期 1964年12月
意思決定者(推定) 小森茂(社長)・長崎準一 のちの3代社長
論点 新規事業への参入時期と投資規模
概要
1964年、日本電気硝子が滋賀県高月にブラウン管(CRT)ガラスの専用工場を新設し、約20億円を投じてテレビ用ガラスへ後発参入した経営判断。1958年頃から模索していた米オーエンズ・イリノイからの技術導入が1963年に認可され、翌1964年12月に工場を開設した。
背景
技術提携は結んだものの、外貨事情などを理由に政府の認可が6年下りなかった。国内のCRTガラスは米コーニング技術を持つ旭硝子の1社供給で、テレビ需要の拡大が第二の供給元を必要とするまで、後発の参入する余地はなかった。
内容
資本金3億円・1965年3月期売上高38億円の会社が、約20億円を一つの専用工場へ集中させた。用地は敷地・工業用水・交通の便・労働力を吟味して琵琶湖北岸の湖北地方に定め、増設を織り込んだレイアウトを組んだ。1965年に白黒用、1967年にカラー用の量産を始めている。
含意
当時のテレビは高価で普及しないとみられ、ブラウン管も中古品の再生利用が主と考えられていた。評価の定まらぬ段階で相応の規模を先に置いた判断であり、最初の2年は赤字が続いたのち、電機大手の二社購買の一角として1991年に国内シェア57%へ達した。
筆者の見解

読みの当否ではなく、規模の置き方

この判断を、テレビの伸びを読み当てた先見の明とだけ評するのは、話を単純にしすぎる。1964年の時点でテレビの将来は共通の見方ではなく、技術提携先のオーエンズ・イリノイでさえニュージャージーの新工場を火入れ直前に撤収していた。芯にあるのは読みの当否よりも、伸びる見込みのある事業なら進出の早晩を問わず、やるなら相応の規模でやるという構えである。資本金3億円の会社が20億円を一つの工場に集めた形に、それが表れている。

もっとも、この構えは最初の2年、赤字となって会社に跳ね返っている。白黒用ガラスは販路を押さえられて売れず、1966年3月期は減収と1.8億円の純損失に沈み、赤字は翌期も続いた。テレビのブームが来なければ、かなり無茶な投資という長崎準一氏の自己評価がそのまま結末になったかもしれない。読みの正しさが会社を救ったのではなく、読みが当たるまで工場を回し続けられたことが救ったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

大手が来ない隙間を機械化で押さえた出発点

日本電気硝子が日本電気から分離独立したのは1949年12月であった。従業員は90人、売上高は月200万円にも達しない小さな会社で、生産設備は400ポンドの坩堝が10本入る窯が1基にすぎない。長崎準一氏は、最初に考えたのはできるだけ早く日本電気に依存せずに自立することであったと後年に語っている。週休を返上した連日稼働へ切り替え、そこで生まれた余力を事業の拡大に充てた[1][2]

手で造っていては事業にならないと見て、同社は機械で量産できるガラスを選んだ。板ガラス・瓶・食器には大手が先にいたため、自動化しやすい管ガラスから入り、蛍光灯の隆盛期に機械生産のガラスを持ち込んで事業の基盤を築いている。1960年3月には米オーエンズ・イリノイからガラス管・棒の製造技術を導入し、1962年には超耐熱結晶化ガラスと魔法瓶用ガラスの生産を始めた。大手の来ない領域を量産技術で押さえる型が、ここで固まった[3][4]

旭硝子の1社供給と、6年下りなかった技術導入の認可

テレビ用ブラウン管ガラスへの関心は1950年代の末に生まれた。長崎準一氏は、電話が不朽の音声伝達装置であるようにテレビは永遠の映像伝達装置であると考え、ブラウン管ガラスをガラス事業に残された唯一の巨大な分野と見ていた。そこで米オーエンズ・イリノイと技術提携を結んだものの、当時の外貨事情などを理由に政府の認可が下りない。一時は絶望とさえ思われた、と本人が述べている[5]

認可を待つ間、同社は建築用のガラス・ブロックを手がけた。最大辺は12インチで、当時のブラウン管の主力は14インチである。金型を替えればブラウン管ガラスに届くという理屈で選んだ練習台であった。施工後に割れる製品が出て他社が生産をやめたときも撤退せず、割れたものを自社他社の別なく無料か安価で取り替えて回っている。認可が下りたのは6年後の1963年で、テレビ需要の拡大に1社では供給が追いつかなくなったためであった[6][7]

決断

世間の評価が定まらぬ段階での参入

1964年、日本電気硝子はCRTの生産に踏み切った。長崎準一氏は当時をこう振り返っている。この事業は将来必ず巨大なものになり得ると考えたが、世間はそのようには見ていなかった、と。テレビは非常に高価で大して普及しないと思われ、ブラウン管も中古品の再生利用が主で新品の需要は少ないと見られていた。技術提携先のオーエンズ・イリノイでさえ、ニュージャージーの新工場を火入れ直前に撤収している[8]

それでも同社は、テレビが遠からず大きな市場を築くことを疑わなかった。一貫して伸びる見込みがある事業は進出の時期に早晩を問うべきでなく、やる以上はその性格にふさわしい規模でやる必要がある——長崎準一氏の述べたこの考えに沿って、専用工場を建てる計画が組まれた。既存の工場の一角を割いて需要の出方を見るやり方は採らず、量産設備を先に据える選び方であった[9]

資本金3億円の会社が一つの工場へ投じた20億円

1964年12月に開いた滋賀高月工場は、CRTの専用工場である。総投資額は約20億円で、資本金3億円の7倍近くにあたる。1965年3月期の売上高は38億円、当期純利益は0.4億円にすぎず、長崎準一氏も当時の経営状態からすればかなり無茶な投資であったと述べている。当時の社長は1963年に就いた小森茂氏で、立地を主導した長崎準一氏が3代社長を継ぐのは1973年であった[10][11][12][13]

用地は琵琶湖の北、湖北地方に求めた。余裕のある敷地・豊富な工業用水・交通の便・良質の労働力という条件を一つずつ吟味した結果であり、将来の設備拡張で生産に支障が出ないようなレイアウトを基本構想に据えている。生産を1か所へ集めるこの選び方は後年まで残り、1971年12月には近隣に能登川工場を開設し、1972年10月には本社そのものを東京都港区から滋賀県大津市へ移した[14][15]

結果

売れなかった2年と、テレビ普及後の離陸

立ち上がりは苦しかった。工場の開設から1年を置いた1965年12月に白黒テレビ用ブラウン管ガラスの量産を始めたものの、先発のメーカーが販路を押さえており、長崎準一氏が最大のピンチと呼ぶほど売れない。1966年3月期の売上高は前期の38億円から35億円へ減り、1.8億円の当期純損失を計上した。翌1967年3月期も1.4億円の純損失が続いている[16][17]

潮目が変わったのはテレビの普及が加速してからである。ガラスは造れば造っただけ売れる時代が訪れ、1967年11月に始めたカラーテレビ用ガラスは当初からよく売れた。1968年3月期には売上高77億円・当期純利益3.2億円へ転じ、1969年3月期の売上高は132億円に達している。1社では賄えない電機大手の二社購買に、後発の同社が第二の供給元として食い込んだ[18][19][20]

安値攻勢下での値下げと、CRTに依存した事業構造

白黒用ガラスは韓国と台湾の安値攻勢を受け、各社が次々に撤退した。日本電気硝子は設備の近代化で原価を下げ、セットメーカーとチューブメーカーへ一挙に15%の値下げを申し入れて事業を残している。テレビ以外にディスプレイ用の需要も加わり、1985年の時点で月間出荷量は200万個、白黒用ガラスでは世界首位であった。撤退の連鎖のなかで、集中させた1工場が価格で戦う足場になった[21]

少数の大口顧客へ大量に供給する事業の構造は、その後も同社に残った。1981年度には売上高の54%をブラウン管用ガラスが占め、カラーテレビ用では1991年12月に国内シェア57%で首位に立ち、東芝・松下電器・ソニー・NEC・三菱電機を顧客に抱えている。一方で1987年10月にはTFT液晶ディスプレイ用基板ガラスの生産を始めており、CRTが最も稼ぐ時期に次の柱の仕込みへ入っていた[22][23]

出典・参考
  • 染色研究 25巻1号(1981年1月)長崎準一(日本電気硝子会長)
  • 証券アナリストジャーナル 1985年10月号(23巻10号)「日本電気硝子 特殊ガラスの総合メーカー」(長崎準一 会長 講演要旨・1985年8月28日 東京)
  • 日本電気硝子 有価証券報告書 第77期(2025年12月期)【沿革】
  • 日本電気硝子 歴代社長一覧(有価証券報告書【役員の状況】)
  • 日本電気硝子 会社総鑑(単独業績)

免責事項およびポリシー