日本電気硝子の源流は、1944年に日本電気(NEC)が真空管・ブラウン管用ガラスの内製化を目的に設立した子会社である。[1]戦後の財閥解体で住友系のNECから分離され、1949年12月に独立会社として再出発したとき[2]には、従業員はわずか90名しかいなかった[3]。大手電機メーカーの一部門から独立した経緯でありながら、独立系の特殊ガラスメーカーとしての実態はまさしく中小企業にすぎない小さな規模であった。戦後の混乱のなかで、他のガラスメーカーがなかなか手を出さない技術的に難易度の高い特殊ガラス領域に活路を見出していくほかないという、厳しい事業環境からの出発であった状況のなかで独立を果たした。
独立後に選んだ事業領域は、建築・自動車・瓶ガラスといった既存の大市場ではなく、競合の少ないニッチ分野であった。1951年には管ガラスの自動管引に成功して蛍光灯用ガラスを量産化することに成功し[4]、1960年には米オーエンズ・イリノイから管ガラス技術を導入して技術基盤を強化した[5]。手吹きが主流だった魔法瓶用ガラスも1962年には機械化量産を開始し[6]、1985年度には国内シェア100パーセントに到達するまでに至っている[7]。大手の参入しない隙間市場を機械化で押さえ込むという、後のCRT参入にも通じる事業選択の独特な型が、独立から十数年の1950年代後半に形作られていった重要な局面である。1962年にはさらに超耐熱結晶化ガラス『ネオセラム』の生産にも乗り出していた[8]。
1958年頃、日本電気硝子はCRT(テレビ用ブラウン管ガラス)への参入を模索し始めたが、米オーエンズ・イリノイからの技術導入の許可を日本政府が六年もの間にわたって出さなかった。既に旭硝子が米コーニング技術で国内のCRTガラスを独占しており、新規参入は許されない情勢のなかにあったためである。転機となったのは1963年で、テレビ需要の急速な拡大を受けて『第二社』の参入許可がようやく下りた。翌1964年、資本金3億円・売上高約38億円の会社が、約20億円を投じてCRT専用工場を滋賀県高月の湖北地区に新設するという、社運を賭けた集中立地を決断した。[9]1959年4月には藤沢工場を新設しており[10]、既に工場の拡張計画は動き出していた。
立地の決定を主導した長崎準一(後の三代社長)[11]はこう語っている。余裕ある敷地・豊富な工業用水・交通の便・良質の労働力といった条件を基準に湖北を選び、生産拡張のレイアウトまで事前に織り込んだ周到な立地決定であり、1972年10月には本社を東京都港区から滋賀県大津市に移転する[12]。
1965年には白黒CRT用ガラスの量産を開始し[13]、続く1967年にはカラーCRTにも展開して事業の幅を広げた[14]。旭硝子の独占体制だったこの市場で、同社は『二社購買』の第二社として東芝・松下電器・ソニー・NEC・三菱電機といった国内の主要な電機大手を顧客として次々に取り込み、1991年には国内シェア57パーセントで首位に立つまでに成長を遂げている[15]。1971年12月には滋賀県能登川町に能登川工場を開設し[16]、生産能力をさらに積み上げた。世界的にはCRT用ガラスの特許を米コーニングとオーエンズ・イリノイの二社が握っていて新規参入の余地が事実上存在しなかったことも、同社のポジションを結果的に保護する役割を果たした。
1973年には東京・大阪両証券取引所市場第二部に株式を上場し[17]、続く1976年にはガラスファイバ(強化プラスチック用)生産を開始[18]、そして1983年には市場第一部への指定替えを果たしている[19]。CRT事業の収益を足場として、資本市場での評価と事業多角化を同時に押し出していた時期である。1984年1月には米国シカゴに駐在員事務所を開設し[20]、海外展開の準備も整えた。FY1981の時点ではCRT用ガラスが売上の54パーセントを占めるCRT中心の部材メーカーであり[21]、テレビ需要と命運を共にする事業構造が1980年代前半にはっきりと確立する格好となった。CRTへの集中投資は、後のFPD時代への転換を迫られたときに重い負担となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1944〜1986年管ガラスからCRTへ至るニッチ特殊ガラスメーカーの社運を賭けた選択 | 日本電気(NEC)の子会社として設立 | ★ | ||
| 日本電気硝子として独立 | ★★ | |||
| 管ガラスの自動管引に成功 | ★ | |||
| 藤沢工場を新設 | ★ | |||
| オーエンズ・イリノイから管ガラス技術を導入 | ★★ | |||
| 超耐熱結晶化ガラス「ネオセラム®」の生産開始 | ★ | |||
| ブラウン管(CRT)ガラスへの後発参入と滋賀高月へのCRT専用工場の新設 1964年、日本電気硝子が滋賀県高月にブラウン管(CRT)ガラスの専用工場を新設し、約20億円を投じてテレビ用ガラスへ後発参入した経営判断。1958年頃から模索していた米オーエンズ・イリノイからの技術導入が1963年に認可され、翌1964年12月に工場を開設した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| テレビ用ブラウン管ガラスの製造開始 | ★★ | |||
| カラーテレビ用ブラウン管ガラスの製造開始 | ★ | |||
| 能登川工場を新設 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| ガラスファイバ(強化プラスチック用)の生産開始 | ★★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所市場第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| シカゴ駐在員事務所を開設 | ★ | |||
| 1987〜2016年TFT液晶基板への主力転換とディスプレイ市況下落による収益悪化の局面 | TFT液晶ディスプレイ用基板ガラスの生産開始 | ★★ | ||
| 合弁会社「オーアイ・エヌイージー・ティービー・プロダクツInc.」を設立 | ★ | |||
| 子会社「ニッポン・エレクトリック・グラス・マレーシアSdn.Bhd.」を設立 | ★ | |||
| カラーTVブラウン管ガラスで国内シェア1位 | ★ | |||
| 溶融炉に酸素燃焼方式を導入 | ★ | |||
| 電子デバイス用ガラス等でISO9001認証を取得 | ★ | |||
| 全事業場一括でISO14001認証を取得 | ★ | |||
| オーバーフロー法による液晶ディスプレイ用基板ガラスの生産開始 | ★★ | |||
| 子会社「日本電気硝子」を設立 | ★ | |||
| 井筒雄三 | 井筒雄三が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 井筒雄三 | 連結売上高3,683億円・営業利益1,009億円を記録 | ★ | ||
| 有岡雅行 | 有岡雅行が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 有岡雅行 | 化学強化専用ガラス(Dinorex®)の生産開始 | ★ | ||
| 松本元春 | 連結売上高1,926億円まで落ち込み、営業利益52億円 | ★ | ||
| 松本元春 | 松本元春が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2017〜2024年EGP2028による事業構造改革と半導体関連への転換 | 松本元春 | 米PPGからの欧州・米国ガラス繊維事業(英国・オランダ・米国の3拠点)の取得 2016年から2017年にかけて、日本電気硝子が米PPGインダストリーズから欧州・米国のガラス繊維事業(英国・オランダ・米国の三拠点)を取得した経営判断。松本元春社長のもとで、ディスプレイ事業への依存を下げ、ガラス繊維を主力事業へ育てることをめざした。後に2019年12月期の減損とオランダ子会社の破産に至った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 松本元春 | 営業利益159億円・親会社株主純損失336億円 | ★★ | ||
| 岸本暁 | 岸本暁が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 岸本暁 | 営業損失△104億円・純損失△261億円 | ★★ | ||
| 岸本暁 | ガラス製造のカーボンニュートラル技術を提供するエンジニアリング事業に参入 | ★ | ||
| 岸本暁 | 売上高3,114億円・営業利益341億円・営業利益率11.0% | ★ |
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事実根拠:出所(日本電気硝子)