日本板硝子 の歴史

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創業 1918年
創業者 杉田與三郎
創業地 大阪市
創業
1918年11月22日、大阪で日米板硝子が設立された。構想したのは大阪の薪炭商の家に生まれ、シカゴ大学を出て島商店に入った杉田與三郎氏である。渡米中に見たコルバーン式の板ガラス製法の特許を取りにかかったが、リビー・オーエンス・シート・グラス社が求めた400万円は資本金300万円・半額払込の新会社に払える額ではなく、特許を現物出資として受け取って株式2万株と10万ドルを渡した。1920年10月に福岡県の二島工場で国内初の自動連続引上法による板ガラスを取り出す。しかし第一次世界大戦後の反動不況で行き詰まり、1922年8月に資金と経営の一切を住友本社へ一任した。
決断
技術も資金も外から借り、最後は経営そのものを預けてきた。1959年にピルキントン社がフロート法を発表した1週間後には技術供与を打診し、1964年3月にロンドンで契約を調印して、1965年11月に舞鶴工場で東洋初のフロート板ガラスを取り出した。設備は地震対策と連続方向転換装置を足して国内向けに作り替えている。1990年に同社の子会社LOFの株式20%を、2000年と2001年にピルキントン本体の株式を10%・20%と買い進み、2006年6月に総額6,160億円を投じて英ピルキントンを完全子会社とした。売上高は2006年3月期の2,659億円から2008年3月期の8,656億円へ、従業員は12,736人から35,811人へ増えた。2008年5月には買収先出身の外国人社長を起用して委員会設置会社へ移行した
現況
売上の半分を占める自動車用ガラスの事業利益率が、1%台にとどまる。2026年3月期の連結売上収益8,794億円のうち自動車用ガラスは4,575億円を占めるが、事業利益は49億円にとどまる。建築用ガラスは売上4,068億円・利益300億円、高機能ガラスは売上472億円・利益86億円で、規模の小さい事業ほど利益率が高い。1954年に日本安全硝子として立てた自動車用は、2026年3月期に売上で建築用を上回りながら利益では最も薄い。有利子負債は2025年12月末で5,702億円が残り、2026年3月にアポロからの1,650億円出資と株式併合による非公開化を発表した
競合
国内の板ガラスを二分した2社は、ガラスの外へ出るかどうかで分かれた。板ガラスは誰が作ったか見分けがつかず品質の差も表れにくいため、放置すれば競争は価格へ向かう。旭硝子は1980年から戦略型研究開発を核とする多角化で電子部材と化学品へ広げ、日本板硝子は建築用と自動車用の2つに留まった。規模で劣る日本板硝子が規模の要る競争を続ける条件は、2006年に自社の2.6倍の売上を持つピルキントンを取得しても解けず、2022年10月には欧州の自動車用ガラスで488億円の減損損失を計上している。製品を見分けてもらえないことが、そのまま両社の事業構成の差を財務の差に変えた。
日本板硝子:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 米国の製法特許と住友本社の資金で始まった日米合弁の板ガラス会社 (1918年〜)

特許を現物出資として受け取った創立

1918年11月22日、日米板硝子株式会社が大阪で設立[1]された。創立資本金は300万円で半額払込[2]、出資したのは米国のリビー・オーエンス・シート・グラス社と住友、旭硝子である。[3]会社を構想したのは杉田與三郎氏だった。1885年に大阪の薪炭商の家に生まれ、その家は住友別子鉱業所へ木炭を納めていた。[4]1909年にシカゴ大学を卒業して大阪の島商店に入り[5]、1914年に製瓶機械の導入交渉で渡米した折、トレド社がコルバーン式の板ガラス製法を工業化しようとしている現場をたまたま見学した。この見学が板ガラスへの転身を決めさせている。当時の国内では板ガラスの工業化が幾度も試みられては技術の壁で失敗しており[6]、機械製法を持つことがそのまま事業の成否を意味していた。

事業の成否は特許を取れるかにかかっていた。1917年9月に再び渡米した杉田氏は、ニューヨーク[7]に住友総本店支配人の山下芳太郎氏を訪ね、援助を求めている。山下氏は国家のためになる事業には積極的に進出すべきだと応じた。特許権料は当初200万円程度と見込まれたが、リビー・オーエンス[8]社は400万円以下では譲れないとして交渉は行き詰まる。数次の折衝を経て同年12月に契約が成立し、リビー社は特許料として新会社株式2万株(額面100万円[9]、発行株数の3分の1)と10万ドルを受け取った。特許を現金でなく株式で払う形である。この時点でリビー社自身も板ガラス製品を出してわずか数か月しか経っておらず、世界でこの特許を譲り受けたのは杉田氏ただ一人だった[10]

    • [7]1917年9月に渡米した杉田與三郎は住友総本店支配人の山下芳太郎をニューヨークに訪ねて援助を求めた
    • [8]特許権料は当初200万円程度の見込みに対し、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲渡できないとした
    • [9]リビー社は特許料として新会社株式2万株(額面100万円・発行株数の3分の1)と10万ドルを受け取った
    • [10]この特許を世界で譲り受けたのは杉田與三郎ただ一人だった

社名の日米板硝子は、リビー・オーエンス社との関係[11]を示すために選ばれた。会社の出自をそのまま社名に書き込んでいる。1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり[12]、同年11月に米国からコルバーン機が届いた。12月には現場監督のオットー・C・ミラー氏らリビー社の技術陣が来日して据付を指導する[13]。1920年10月1日午前零時、引上げ作業[14]が始まった。午前1時に板状のガラスが切台へ姿を現し、初めは斑点が一面に出ていたものの、朝8時ごろにはくもりが消えて3ミリほどの厚みのガラスが順調に出るようになった。国内で最初の自動連続引上法による板ガラスであり、手吹きから機械生産への転換にあたる。

    • [1]1918年11月22日に日米板硝子株式会社が設立された
    • [2]創立資本金は300万円で半額払込だった
    • [3]出資者は米リビー・オーエンス・シート・グラス社、住友、旭硝子である
    • [6]国内では板ガラスの工業化が明治期を通じて技術的困難により失敗を繰り返していた
    • [14]1920年10月1日午前零時に引上げ作業が始まり、国内最初の自動連続引上法による板ガラスとなった
    • [4]会社を構想したのは杉田與三郎で、1885年に大阪の薪炭商の家に生まれた
    • [5]杉田與三郎は1909年にシカゴ大学を卒業し、1912年に島商店へ入社、1914年に渡米してトレド社のコルバーン式研究を見学した
    • [7]1917年9月に渡米した杉田與三郎は住友総本店支配人の山下芳太郎をニューヨークに訪ねて援助を求めた
    • [8]特許権料は当初200万円程度の見込みに対し、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲渡できないとした
    • [9]リビー社は特許料として新会社株式2万株(額面100万円・発行株数の3分の1)と10万ドルを受け取った
    • [10]この特許を世界で譲り受けたのは杉田與三郎ただ一人だった
    • [11]社名の日米板硝子はリビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた
    • [13]リビー社の現場監督オットー・C・ミラーらが1919年12月に来日して据付を指導した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「二島工場建設」
    • [12]1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、1920年10月に操業を開始した

創業4年で経営を住友本社に預けた不況

操業にこぎつけて間もなく、第一次世界大戦後の反動不況が来た。業績は悪化し、経営は行き詰まる。1922年8月、臨時株主総会の決議によって、資金と経営の一切を住友本社へ一任した[15]。技術を米国から、資金と経営を住友から借りる形が、ここで定まっている。以後は住友財閥の傘下に入り、1928年2月に資本金を400万円へ増やして若松工場の設備を改良した。1931年1月には社名を日本板硝子へ[16]改めている。米国との関係を掲げた社名を13年で下ろした形だが、リビー社との関係自体は続き、1922年から1938年まで同社は代表者を役員として送り込んで経営に加わった。[17]

    • [15]1922年8月の臨時株主総会決議により資金と経営の一切を住友本社へ一任し、住友財閥傘下に入った
    • [17]1922年から1938年までリビー社は代表者を役員として派遣し経営に参画した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1931年1月に社名を日本板硝子へ変更した

住友の資本を得た会社は生産拠点を増やした。1934年12月に資本金を1000万円へ増資し[18]、三重県で四日市工場の建設に着手して1936年12月から操業した。1941年3月には徳永板硝子を合併[19]して資本金1225万円とし、尼崎工場を加えている。ただし太平洋戦争の勃発で尼崎工場はまもなく操業を止め、1944年11月に住友化工材工業へ売却した。戦時の企業整備では若松工場と尼崎工場の槽窯各1基の廃止を命じられ、槽窯1基の小型窯への改造も指示された結果、普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減っている。[20]四日市工場も空襲で製函工場や木造倉庫に被害を受けた。開戦とともにリビー社との連絡は絶え、同社の持株[21]は旧敵産管理法によって住友信託の管理下へ移った。

    • [18]1934年12月に資本金1000万円へ増資し、四日市工場は1936年12月から操業した
    • [19]1941年3月に徳永板硝子を合併して尼崎工場を加え、1944年11月に住友化工材工業へ売却した
    • [20]戦時の企業整備により普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減少した
    • [21]開戦によりリビー社との連絡が絶え、同社の持株は旧敵産管理法により住友信託が管理人に指定された
    • [15]1922年8月の臨時株主総会決議により資金と経営の一切を住友本社へ一任し、住友財閥傘下に入った
    • [17]1922年から1938年までリビー社は代表者を役員として派遣し経営に参画した
    • [18]1934年12月に資本金1000万円へ増資し、四日市工場は1936年12月から操業した
    • [19]1941年3月に徳永板硝子を合併して尼崎工場を加え、1944年11月に住友化工材工業へ売却した
    • [20]戦時の企業整備により普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減少した
    • [21]開戦によりリビー社との連絡が絶え、同社の持株は旧敵産管理法により住友信託が管理人に指定された
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1931年1月に社名を日本板硝子へ変更した

戦後最初の外資導入となったリビー社の払込

敗戦後、会社は特別経理会社と制限会社に指定され[22]、さらに過度経済力集中排除法の指定会社にもなった。資材面では統制経済の制約を受け、事業活動は縮んだ。設備の改善と生産の増大に努めるなかで、これらの制限は1949年末までに解かれる。同年7月末、未払込株金450万円が徴収された。この払込にリビー社が応じたことで、戦後の日本で最初の外資導入が成立している。[23]管理人の解除とともに同社の持株は完全に原状へ復し、以後の増資でも割当株の全部を引き受けた。1955年時点の持株比率は14.3%[24]である。技術提携も日米間の通信再開とともに復活し、日本板硝子の技術者は再三にわたって渡米した。

    • [22]戦後に特別経理会社・制限会社・過度経済力集中排除法の指定会社となった
    • [23]1949年7月末に未払込株金450万円を徴収し、リビー社の払込は戦後日本で最初の外資導入となった
    • [24]1955年時点のリビー社の持株比率は14.3%である

板ガラスという製品の性格が、この会社の経営を長く規定した。誰が作ったか見分けがつかず、品質の差も表れにくいため、放っておけば価格競争へ落ちる。国内の板ガラスは1907年に岩崎俊弥氏が設立した旭硝子と、1918年の日米板硝子の2社で基礎が築かれ[25]、以後もこの2社が並ぶ状態が続いた。規模で劣る側が規模の要る競争を戦うという条件は、創業から90年近くのちの買収まで解けずに残る。1954年の生産高は249万函で国内ガラス生産高の4割強[26]を占め、二大板ガラスメーカーの一角にあった。

    • [22]戦後に特別経理会社・制限会社・過度経済力集中排除法の指定会社となった
    • [23]1949年7月末に未払込株金450万円を徴収し、リビー社の払込は戦後日本で最初の外資導入となった
    • [24]1955年時点のリビー社の持株比率は14.3%である
    • [25]旭硝子は1907年に岩崎俊弥が設立した
    • [26]1954年の生産高は249万函で国内ガラス生産高の4割強を占めた

上場と自動車用ガラス子会社の設立

1950年6月、東京・大阪・神戸の各証券取引所に株式を上場した[27]。資本金は同年6月に7500万円、12月に1億5000万円、1951年6月に3億円、同年11月の無償交付で6億円、1955年4月に12億円と[28]、5年で16倍に増えている。復興需要に応えるため1950年12月に舞鶴工場の建設へ着手し、1952年9月から生産を始めた。普通板ガラスだけでなく型板や磨板、網入りガラスといった特殊高級品が求められる状況に対応するためである。1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15[29]%を占め、東南アジアを中心にカナダや中南米へも出ていた。戦前を上回る生産態勢がここで整う。

  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1950年6月に東京・大阪・神戸の各証券取引所へ株式を上場した
    • [28]資本金は1950年6月の7500万円から1955年4月の12億円まで増加した
    • [29]1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15%を占めた

1954年、自動車用ガラスの子会社として日本安全硝子を設立した[30]。建築用に偏っていた需要先へ自動車という第二の柱を立てる判断であり、この選択が以後の会社の輪郭を決める。1964年には千葉工場を開設し、1970年10月には日本安全硝子を吸収合併して川崎工場と京都工場を手に入れた。[31]子会社として育てた自動車用ガラスを本体へ取り込んでいる。2026年3月期の連結売上収益で自動車用ガラス事業は4575億円と建築用ガラス事業の4069億円を上回っており、1954年に置いた第二の柱のほうが最終的に太くなった。創業以来の建築用ガラスは、70年を経て主役の座を譲っている。

  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1954年に自動車用ガラス子会社の日本安全硝子を設立した
    • [31]1970年10月に日本安全硝子を吸収合併し川崎工場と京都工場を開設した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1950年6月に東京・大阪・神戸の各証券取引所へ株式を上場した
    • [30]1954年に自動車用ガラス子会社の日本安全硝子を設立した
    • [31]1970年10月に日本安全硝子を吸収合併し川崎工場と京都工場を開設した
    • [28]資本金は1950年6月の7500万円から1955年4月の12億円まで増加した
    • [29]1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15%を占めた

発表の一週間後に打診したフロート法

板ガラスの製法は、この時期に一度で置き換わった。コルバーン法やフルコール法では両面が完全に平らで厚みの均一なガラスを作れず、鏡や自動車のような用途には表面を磨いた磨板ガラスを使うしかなかった。英国のピルキントン・ブラザーズ社で技術担当取締役を務めたアラステア・ピルキントン卿が[32]、溶融したガラスを溶融金属スズの表面へ浮かべて流す方法を考えつく。1952年、夕食後の皿洗いで水に浮かぶ油を見たときだった。同年12月に試験を始めてから足かけ7年、研究費40億円を投じて1958年7月に完全なフロート板ガラスが完成し、1959年に同社が世界へ発表した。[33]

日本板硝子の動きは速かった。フロート製法の成功が発表された1週間後、1959年1月末には技術供与の意向[34]をピルキントン社へ打診している。1961年秋に中村文夫社長が同社を訪ねて技術導入を申し入れ、1963年7月には渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、大綱の合意に達した。1964年3月、ロンドンで技術導入の契約を調印する。[35]同年8月からは宮坂満喜三常務を長とする技術・設計の関係者がピルキントン社で調査にあたった[36]。導入計画は先行した欧米各社に比べて建設期間が短く内容も具体的[37]だったため、ピルキントン社は日本板硝子の計画性と技術水準に驚いたという。技術を借りる側でありながら、実装の速さでは貸す側を上回っていた。

    • [34]発表の1週間後にあたる1959年1月末に技術供与の意向をピルキントン社へ打診した
    • [35]1961年秋に中村文夫社長が訪問、1963年7月に渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、1964年3月にロンドンで契約を調印した
    • [36]1964年8月から宮坂満喜三常務を長とする技術・設計関係者がピルキントン社で調査にあたった
    • [37]日本板硝子の導入計画は先行した欧米各社に比べ建設期間が短く内容も具体的で、ピルキントン社は計画性と技術水準に驚いたという

舞鶴工場の3号窯をフロート窯へ改造する工事は予定どおり進み、1965年10月に熔槽へ火を入れた。同年11月15日、雪の降る舞鶴で中村会長以下の幹部が見守るなか、渡邊社長の手で溶融ガラスの取出口が開かれる。[38]ガラスはフロートバスへ吸い込まれ、長い徐冷窯を抜けて約40分後に先端が現れた。東洋で最初のフロート板ガラスである。設備の設計では、英国では考える必要のなかった地震対策を織り込み、生産速度が速いため切断以降に連続方向転換装置や分岐装置を置き[39]、表面に傷を付けないエアテーブルを新たに開発した。借りた製法をそのまま据えたのではなく、置く場所に合わせて作り替えている。1971年8月には千葉工場、1978年6月には舞鶴工場へフロート設備を増設[40]した。

    • [38]1965年10月に熔槽へ火を入れ、11月15日に操業を開始して東洋初のフロート板ガラスを得た
    • [39]設備設計では地震対策を織り込み、連続方向転換装置・分岐装置・エアテーブルを独自に用意した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1971年8月に千葉工場、1978年6月に舞鶴工場へフロート設備を増設した
    • [32]フロート製法はピルキントン・ブラザーズ社の技術担当取締役アラステア・ピルキントンが発明した
    • [33]着想は1952年で、足かけ7年・研究費40億円を投じて1958年7月に完成し、1959年に発表された
    • [34]発表の1週間後にあたる1959年1月末に技術供与の意向をピルキントン社へ打診した
    • [35]1961年秋に中村文夫社長が訪問、1963年7月に渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、1964年3月にロンドンで契約を調印した
    • [36]1964年8月から宮坂満喜三常務を長とする技術・設計関係者がピルキントン社で調査にあたった
    • [37]日本板硝子の導入計画は先行した欧米各社に比べ建設期間が短く内容も具体的で、ピルキントン社は計画性と技術水準に驚いたという
    • [38]1965年10月に熔槽へ火を入れ、11月15日に操業を開始して東洋初のフロート板ガラスを得た
    • [39]設備設計では地震対策を織り込み、連続方向転換装置・分岐装置・エアテーブルを独自に用意した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1971年8月に千葉工場、1978年6月に舞鶴工場へフロート設備を増設した

マレーシアに置いた最初の海外拠点

1971年、マレーシアに合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立して海外へ出た[41]。1975年にはメキシコで自動車用ガラスの合弁会社[42]L-Nセーフティグラス社を設立している。国内では1978年にディスプレイ用途などに使う超薄板ガラスの生産を始め、1979年に日本硝子繊維[43]の販売権を譲り受けてガラス繊維製品の販売に入った。1980年に川崎工場相模原製造所、1983年に筑波研究所を開設している。板ガラスの周辺へ製品を広げる一方、海外の生産拠点はマレーシアのほかに大きく増えなかった。1977年12月には若松工場を閉鎖[44]している。創業の地であり、コルバーン機を据えて国内初の機械生産を始めた工場だった。

  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1971年にマレーシアで合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立し本格的に海外進出した
    • [42]1975年にメキシコで自動車用ガラス合弁会社L-Nセーフティグラス社を設立した
    • [43]1978年に超薄板ガラスの生産を開始し、1979年に日本硝子繊維の販売権を譲り受けた
    • [44]1977年12月に若松工場を閉鎖した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1971年にマレーシアで合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立し本格的に海外進出した
    • [42]1975年にメキシコで自動車用ガラス合弁会社L-Nセーフティグラス社を設立した
    • [43]1978年に超薄板ガラスの生産を開始し、1979年に日本硝子繊維の販売権を譲り受けた
    • [44]1977年12月に若松工場を閉鎖した

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日本板硝子の沿革1918〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1949年米国の製法特許と住友本社の資金で始まった日米合弁の板ガラス会社日米板硝子を設立(本店所在地: 大阪市)★★
二島工場を新設(1950年 若松工場に商号変更、1977年 同工場閉鎖)
社名を日本板硝子に変更
四日市工場を新設(2004年 四日市事業所に商号変更)
研究所を新設
1950〜1985年英国に請うて導入したフロート法と自動車用ガラスの二本立て経営東京・大阪等の各証券取引所に株式上場
舞鶴工場を新設(2003年 舞鶴事業所に商号変更)
自動車用ガラス子会社 日本安全硝子設立
千葉工場を新設(2003年 千葉事業所に商号変更)
舞鶴工場に東洋初のフロート方式によるガラス製造設備新設★★
創立50周年を記念して伊丹市に研究所を新設(尼崎研究所の機能を移転)
日本安全硝子を吸収合併★★
川崎工場を新設
合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立
自動車用ガラス合弁会社 L-Nセーフティグラス社を設立
超薄板ガラス(UFF®)の生産を開始
川崎工場相模原製造所を開設(2004年 相模原事業所に商号変更)
1986〜2005年米LOF社との合弁に始まり英ピルキントン株20%に至った20年リビー・オーエンス・フォード社と合弁でユナイテッドL-Nグラス社を設立★★
LOF社の株式の20%を取得★★
蘇州板硝子電子有限公司を設立
日本硝子繊維を吸収合併
津事業所を開設
ピルキントン社の株式の10%を取得★★
ピルキントン社の持株比率を20%へ引き上げ★★
2006〜2026年総額6160億円の買収で世界最大級となり20年後に上場を去るまで藤本勝司英ピルキントンの完全子会社化と総額6160億円の資金投入

2005年11月1日、日本板硝子は20%を出資する英ピルキントンへ完全買収を提案した。1株150ペンスの提示は拒まれ、2006年2月26日に165ペンスで決着する。全株式の取得に約3585億円、負債の引き受けなどを含む総額は約6160億円にのぼり、売上高で2倍近い相手を格下の側がのみ込んだ。

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★★★
スチュアート・チェンバース買収先出身者と外部招聘による外国人社長2代の起用と委員会設置会社への移行

2008年5月、日本板硝子は買収したピルキントン社出身のスチュアート・チェンバース氏を社長兼CEOへ昇格させた。藤本勝司社長は会長へ回る。買った側が降り、買われた側から社長を出す形であった。同年6月には委員会設置会社へ移行し、役員の任命権を指名委員会に置いた。

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★★★
スチュアート・チェンバース指名委員会等設置会社へ移行
クレイグ・ネイラー国際会計基準(IFRS)を早期適用
森重樹「NSGグループコーポレートガバナンス・ガイドライン」を制定
森重樹創立100周年。経営指針「Our Vision」を策定
森重樹ガラス製造ラインを太陽電池パネル用ガラス設備へ改修
細沼宗浩ガラス製造ラインを、太陽電池パネル用ガラス製造設備に改修・操業開始
細沼宗浩中期経営計画「2030 Vision : Shift the Phase」を発表
細沼宗浩アポロ・ファンドからの1650億円出資受け入れと株式併合による非公開化

2026年3月24日、日本板硝子は『新生NSGグループに向けた抜本的施策』を発表した。米投資ファンドのアポロ・グローバル・マネジメントと銀行団から総額3000億円規模の支援を受け、株式併合によって非公開化する。2026年11月に上場廃止となる予定にあたる。

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★★★
出典・参考

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