{
  "title": "日本板硝子の歴史概略",
  "sections": [
    {
      "start_year": 1918,
      "end_year": 1949,
      "main_title": "米国の製法特許と住友本社の資金で始まった日米合弁の板ガラス会社",
      "subsections": [
        {
          "title": "特許を現物出資として受け取った創立",
          "text": "1918年11月22日、日米板硝子株式会社が大阪で設立された。創立資本金は300万円で半額払込、出資したのは米国のリビー・オーエンス・シート・グラス社と住友、旭硝子である。会社を構想したのは杉田與三郎氏だった。1885年に大阪の薪炭商の家に生まれ、その家は住友別子鉱業所へ木炭を納めていた。1909年にシカゴ大学を卒業して大阪の島商店に入り、1914年に製瓶機械の導入交渉で渡米した折、トレド社がコルバーン式の板ガラス製法を工業化しようとしている現場をたまたま見学した。この見学が板ガラスへの転身を決めさせている。当時の国内では板ガラスの工業化が幾度も試みられては技術の壁で失敗しており、機械製法を持つことがそのまま事業の成否を意味していた。\n\n事業の成否は特許を取れるかにかかっていた。1917年9月に再び渡米した杉田氏は、ニューヨークに住友総本店支配人の山下芳太郎氏を訪ね、援助を求めている。山下氏は国家のためになる事業には積極的に進出すべきだと応じた。特許権料は当初200万円程度と見込まれたが、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲れないとして交渉は行き詰まる。数次の折衝を経て同年12月に契約が成立し、リビー社は特許料として新会社株式2万株（額面100万円、発行株数の3分の1）と10万ドルを受け取った。特許を現金でなく株式で払う形である。この時点でリビー社自身も板ガラス製品を出してわずか数か月しか経っておらず、世界でこの特許を譲り受けたのは杉田氏ただ一人だった。\n\n社名の日米板硝子は、リビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた。会社の出自をそのまま社名に書き込んでいる。1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、同年11月に米国からコルバーン機が届いた。12月には現場監督のオットー・C・ミラー氏らリビー社の技術陣が来日して据付を指導する。1920年10月1日午前零時、引上げ作業が始まった。午前1時に板状のガラスが切台へ姿を現し、初めは斑点が一面に出ていたものの、朝8時ごろにはくもりが消えて3ミリほどの厚みのガラスが順調に出るようになった。国内で最初の自動連続引上法による板ガラスであり、手吹きから機械生産への転換にあたる。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1918年11月22日に日米板硝子株式会社が設立された",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1918年11月22日、日米板硝子株式会社が大阪で設立された。"
              },
              {
                "fact": "創立資本金は300万円で半額払込だった",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "創立資本金は300万円で半額払込、出資したのは米国のリビー・オーエンス・シート・グラス社と住友、旭硝子である。"
              },
              {
                "fact": "出資者は米リビー・オーエンス・シート・グラス社、住友、旭硝子である",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "出資したのは米国のリビー・オーエンス・シート・グラス社と住友、旭硝子である。"
              },
              {
                "fact": "会社を構想したのは杉田與三郎で、1885年に大阪の薪炭商の家に生まれた",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "会社を構想したのは杉田與三郎氏だった。1885年に大阪の薪炭商の家に生まれ、その家は住友別子鉱業所へ木炭を納めていた。"
              },
              {
                "fact": "杉田與三郎は1909年にシカゴ大学を卒業し、1912年に島商店へ入社、1914年に渡米してトレド社のコルバーン式研究を見学した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "1909年にシカゴ大学を卒業して大阪の島商店に入り、1914年に製瓶機械の導入交渉で渡米した折、トレド社がコルバーン式の板ガラス製法を工業化しようとしている現場をたまたま見学した。"
              },
              {
                "fact": "国内では板ガラスの工業化が明治期を通じて技術的困難により失敗を繰り返していた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "当時の国内では板ガラスの工業化が幾度も試みられては技術の壁で失敗しており、機械製法を持つことがそのまま事業の成否を意味していた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1917年9月に渡米した杉田與三郎は住友総本店支配人の山下芳太郎をニューヨークに訪ねて援助を求めた",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "1917年9月に再び渡米した杉田氏は、ニューヨークに住友総本店支配人の山下芳太郎氏を訪ね、援助を求めている。"
              },
              {
                "fact": "特許権料は当初200万円程度の見込みに対し、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲渡できないとした",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "特許権料は当初200万円程度と見込まれたが、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲れないとして交渉は行き詰まる。"
              },
              {
                "fact": "リビー社は特許料として新会社株式2万株（額面100万円・発行株数の3分の1）と10万ドルを受け取った",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "数次の折衝を経て同年12月に契約が成立し、リビー社は特許料として新会社株式2万株（額面100万円、発行株数の3分の1）と10万ドルを受け取った。"
              },
              {
                "fact": "この特許を世界で譲り受けたのは杉田與三郎ただ一人だった",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "この時点でリビー社自身も板ガラス製品を出してわずか数か月しか経っておらず、世界でこの特許を譲り受けたのは杉田氏ただ一人だった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "社名の日米板硝子はリビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "社名の日米板硝子は、リビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた。"
              },
              {
                "fact": "1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、1920年10月に操業を開始した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、同年11月に米国からコルバーン機が届いた。"
              },
              {
                "fact": "リビー社の現場監督オットー・C・ミラーらが1919年12月に来日して据付を指導した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法（連続板引法）の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/01/",
                "genbun": "12月には現場監督のオットー・C・ミラー氏らリビー社の技術陣が来日して据付を指導する。"
              },
              {
                "fact": "1920年10月1日午前零時に引上げ作業が始まり、国内最初の自動連続引上法による板ガラスとなった",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1920年10月1日午前零時、引上げ作業が始まった。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "創業4年で経営を住友本社に預けた不況",
          "text": "操業にこぎつけて間もなく、第一次世界大戦後の反動不況が来た。業績は悪化し、経営は行き詰まる。1922年8月、臨時株主総会の決議によって、資金と経営の一切を住友本社へ一任した。技術を米国から、資金と経営を住友から借りる形が、ここで定まっている。以後は住友財閥の傘下に入り、1928年2月に資本金を400万円へ増やして若松工場の設備を改良した。1931年1月には社名を日本板硝子へ改めている。米国との関係を掲げた社名を13年で下ろした形だが、リビー社との関係自体は続き、1922年から1938年まで同社は代表者を役員として送り込んで経営に加わった。\n\n住友の資本を得た会社は生産拠点を増やしていく。1934年12月に資本金を1000万円へ増資し、三重県で四日市工場の建設に着手して1936年12月から操業した。1941年3月には徳永板硝子を合併して資本金1225万円とし、尼崎工場を加えている。ただし太平洋戦争の勃発で尼崎工場はまもなく操業を止め、1944年11月に住友化工材工業へ売却した。戦時の企業整備では若松工場と尼崎工場の槽窯各1基の廃止を命じられ、槽窯1基の小型窯への改造も指示された結果、普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減っている。四日市工場も空襲で製函工場や木造倉庫に被害を受けた。開戦とともにリビー社との連絡は絶え、同社の持株は旧敵産管理法によって住友信託の管理下へ移った。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1922年8月の臨時株主総会決議により資金と経営の一切を住友本社へ一任し、住友財閥傘下に入った",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1922年8月、臨時株主総会の決議によって、資金と経営の一切を住友本社へ一任した。"
              },
              {
                "fact": "1931年1月に社名を日本板硝子へ変更した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1931年1月には社名を日本板硝子へ改めている。"
              },
              {
                "fact": "1922年から1938年までリビー社は代表者を役員として派遣し経営に参画した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "リビー社との関係自体は続き、1922年から1938年まで同社は代表者を役員として送り込んで経営に加わった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1934年12月に資本金1000万円へ増資し、四日市工場は1936年12月から操業した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1934年12月に資本金を1000万円へ増資し、三重県で四日市工場の建設に着手して1936年12月から操業した。"
              },
              {
                "fact": "1941年3月に徳永板硝子を合併して尼崎工場を加え、1944年11月に住友化工材工業へ売却した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1941年3月には徳永板硝子を合併して資本金1225万円とし、尼崎工場を加えている。"
              },
              {
                "fact": "戦時の企業整備により普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減少した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "普通板ガラスの設備能力は戦前の5分の3に減っている。"
              },
              {
                "fact": "開戦によりリビー社との連絡が絶え、同社の持株は旧敵産管理法により住友信託が管理人に指定された",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "開戦とともにリビー社との連絡は絶え、同社の持株は旧敵産管理法によって住友信託の管理下へ移った。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "戦後最初の外資導入となったリビー社の払込",
          "text": "敗戦後、会社は特別経理会社と制限会社に指定され、さらに過度経済力集中排除法の指定会社にもなった。資材面では統制経済の制約を受け、事業活動は縮んだ。設備の改善と生産の増大に努めるなかで、これらの制限は1949年末までに解かれる。同年7月末、未払込株金450万円が徴収された。この払込にリビー社が応じたことで、戦後の日本で最初の外資導入が成立している。管理人の解除とともに同社の持株は完全に原状へ復し、以後の増資でも割当株の全部を引き受けた。1955年時点の持株比率は14.3%である。技術提携も日米間の通信再開とともに復活し、日本板硝子の技術者は再三にわたって渡米した。\n\n板ガラスという製品の性格が、この会社の経営を長く規定した。誰が作ったか見分けがつかず、品質の差も表れにくいため、放っておけば価格競争へ落ちる。そこで熱線を吸収する、二重にするといった機能を付ける開発競争になり、研究開発に投じる絶対額が効いてくる。国内の板ガラスは1907年に岩崎俊弥氏が設立した旭硝子と、1918年の日米板硝子の2社で基礎が築かれ、以後もこの2社が並ぶ状態が続いた。規模で劣る側が規模の要る競争を戦うという条件は、創業から90年近くのちの買収まで解けずに残る。1954年の生産高は249万函で国内ガラス生産高の4割強を占め、二大板ガラスメーカーの一角にあった。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "戦後に特別経理会社・制限会社・過度経済力集中排除法の指定会社となった",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "敗戦後、会社は特別経理会社と制限会社に指定され、さらに過度経済力集中排除法の指定会社にもなった。"
              },
              {
                "fact": "1949年7月末に未払込株金450万円を徴収し、リビー社の払込は戦後日本で最初の外資導入となった",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "同年7月末、未払込株金450万円が徴収された。この払込にリビー社が応じたことで、戦後の日本で最初の外資導入が成立している。"
              },
              {
                "fact": "1955年時点のリビー社の持株比率は14.3%である",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1955年時点の持株比率は14.3%である。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "板ガラスは製造者の判別がつきにくく品質差も出にくいため価格競争に陥りやすく、機能付加の開発競争では研究開発費の絶対額が効く",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "誰が作ったか見分けがつかず、品質の差も表れにくいため、放っておけば価格競争へ落ちる。そこで熱線を吸収する、二重にするといった機能を付ける開発競争になり、研究開発に投じる絶対額が効いてくる。"
              },
              {
                "fact": "旭硝子は1907年に岩崎俊弥が設立した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "国内の板ガラスは1907年に岩崎俊弥氏が設立した旭硝子と、1918年の日米板硝子の2社で基礎が築かれ"
              },
              {
                "fact": "1954年の生産高は249万函で国内ガラス生産高の4割強を占めた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1954年の生産高は249万函で国内ガラス生産高の4割強を占め、二大板ガラスメーカーの一角にあった。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1950,
      "end_year": 1985,
      "main_title": "英国に請うて導入したフロート法と自動車用ガラスの二本立て経営",
      "subsections": [
        {
          "title": "上場と自動車用ガラス子会社の設立",
          "text": "1950年6月、東京・大阪・神戸の各証券取引所に株式を上場した。資本金は同年6月に7500万円、12月に1億5000万円、1951年6月に3億円、同年11月の無償交付で6億円、1955年4月に12億円と、5年で16倍に増えている。復興需要に応えるため1950年12月に舞鶴工場の建設へ着手し、1952年9月から生産を始めた。普通板ガラスだけでなく型板や磨板、網入りガラスといった特殊高級品が求められる状況に対応するためである。1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15%を占め、東南アジアを中心にカナダや中南米へも出ていた。戦前を上回る生産態勢がここで整う。\n\n1954年、自動車用ガラスの子会社として日本安全硝子を設立した。建築用に偏っていた需要先へ自動車という第二の柱を立てる判断であり、この選択が以後の会社の輪郭を決める。1964年には千葉工場を開設し、1970年10月には日本安全硝子を吸収合併して川崎工場と京都工場を手に入れた。子会社として育てた自動車用ガラスを本体へ取り込んでいる。2026年3月期の連結売上収益で自動車用ガラス事業は4575億円と建築用ガラス事業の4069億円を上回っており、1954年に置いた第二の柱のほうが最終的に太くなった。創業以来の建築用ガラスは、70年を経て主役の座を譲っている。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1950年6月に東京・大阪・神戸の各証券取引所へ株式を上場した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1950年6月、東京・大阪・神戸の各証券取引所に株式を上場した。"
              },
              {
                "fact": "資本金は1950年6月の7500万円から1955年4月の12億円まで増加した",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "資本金は同年6月に7500万円、12月に1億5000万円、1951年6月に3億円、同年11月の無償交付で6億円、1955年4月に12億円と、5年で16倍に増えている。"
              },
              {
                "fact": "1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15%を占めた",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1955年3月期の売上高は33億8000万円で、輸出は生産高の約15%を占め、東南アジアを中心にカナダや中南米へも出ていた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1954年に自動車用ガラス子会社の日本安全硝子を設立した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1954年、自動車用ガラスの子会社として日本安全硝子を設立した。"
              },
              {
                "fact": "1970年10月に日本安全硝子を吸収合併し川崎工場と京都工場を開設した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1970年10月には日本安全硝子を吸収合併して川崎工場と京都工場を手に入れた。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "発表の一週間後に打診したフロート法",
          "text": "板ガラスの製法は、この時期に一度で置き換わった。コルバーン法やフルコール法では両面が完全に平らで厚みの均一なガラスを作れず、鏡や自動車のような用途には表面を磨いた磨板ガラスを使うしかなかった。英国のピルキントン・ブラザーズ社で技術担当取締役を務めたアラステア・ピルキントン卿が、溶融したガラスを溶融金属スズの表面へ浮かべて流す方法を考えつく。1952年、夕食後の皿洗いで水に浮かぶ油を見たときだった。同年12月に試験を始めてから足かけ7年、研究費40億円を投じて1958年7月に完全なフロート板ガラスが完成し、1959年に同社が世界へ発表した。\n\n日本板硝子の動きは速かった。フロート製法の成功が発表された1週間後、1959年1月末には技術供与の意向をピルキントン社へ打診している。1961年秋に中村文夫社長が同社を訪ねて技術導入を申し入れ、1963年7月には渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、大綱の合意に達した。1964年3月、ロンドンで技術導入の契約を調印する。同年8月からは宮坂満喜三常務を長とする技術・設計の関係者がピルキントン社で調査にあたった。導入計画は先行した欧米各社に比べて建設期間が短く内容も具体的だったため、ピルキントン社は日本板硝子の計画性と技術水準に驚いたという。技術を借りる側でありながら、実装の速さでは貸す側を上回っていた。\n\n舞鶴工場の3号窯をフロート窯へ改造する工事は予定どおり進み、1965年10月に熔槽へ火を入れた。同年11月15日、雪の降る舞鶴で中村会長以下の幹部が見守るなか、渡邊社長の手で溶融ガラスの取出口が開かれる。ガラスはフロートバスへ吸い込まれ、長い徐冷窯を抜けて約40分後に先端が現れた。東洋で最初のフロート板ガラスである。設備の設計では、英国では考える必要のなかった地震対策を織り込み、生産速度が速いため切断以降に連続方向転換装置や分岐装置を置き、表面に傷を付けないエアテーブルを新たに開発した。借りた製法をそのまま据えたのではなく、置く場所に合わせて作り替えている。1971年8月には千葉工場、1978年6月には舞鶴工場へフロート設備を増設した。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "フロート製法はピルキントン・ブラザーズ社の技術担当取締役アラステア・ピルキントンが発明した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "英国のピルキントン・ブラザーズ社で技術担当取締役を務めたアラステア・ピルキントン卿が、溶融したガラスを溶融金属スズの表面へ浮かべて流す方法を考えつく。"
              },
              {
                "fact": "着想は1952年で、足かけ7年・研究費40億円を投じて1958年7月に完成し、1959年に発表された",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "1952年、夕食後の皿洗いで水に浮かぶ油を見たときだった。同年12月に試験を始めてから足かけ7年、研究費40億円を投じて1958年7月に完全なフロート板ガラスが完成し、1959年に同社が世界へ発表した。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "発表の1週間後にあたる1959年1月末に技術供与の意向をピルキントン社へ打診した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "フロート製法の成功が発表された1週間後、1959年1月末には技術供与の意向をピルキントン社へ打診している。"
              },
              {
                "fact": "1961年秋に中村文夫社長が訪問、1963年7月に渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、1964年3月にロンドンで契約を調印した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "1961年秋に中村文夫社長が同社を訪ねて技術導入を申し入れ、1963年7月には渡邊逸郎社長が渡英して交渉し、大綱の合意に達した。1964年3月、ロンドンで技術導入の契約を調印する。"
              },
              {
                "fact": "1964年8月から宮坂満喜三常務を長とする技術・設計関係者がピルキントン社で調査にあたった",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "同年8月からは宮坂満喜三常務を長とする技術・設計の関係者がピルキントン社で調査にあたった。"
              },
              {
                "fact": "日本板硝子の導入計画は先行した欧米各社に比べ建設期間が短く内容も具体的で、ピルキントン社は計画性と技術水準に驚いたという",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "導入計画は先行した欧米各社に比べて建設期間が短く内容も具体的だったため、ピルキントン社は日本板硝子の計画性と技術水準に驚いたという。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1965年10月に熔槽へ火を入れ、11月15日に操業を開始して東洋初のフロート板ガラスを得た",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "1965年10月に熔槽へ火を入れた。同年11月15日、雪の降る舞鶴で中村会長以下の幹部が見守るなか、渡邊社長の手で溶融ガラスの取出口が開かれる。"
              },
              {
                "fact": "設備設計では地震対策を織り込み、連続方向転換装置・分岐装置・エアテーブルを独自に用意した",
                "source": "NSGグループ100周年記念サイト「フロート製法の導入」",
                "url": "https://100th.nsg.co.jp/story/02/",
                "genbun": "設備の設計では、英国では考える必要のなかった地震対策を織り込み、生産速度が速いため切断以降に連続方向転換装置や分岐装置を置き、表面に傷を付けないエアテーブルを新たに開発した。"
              },
              {
                "fact": "1971年8月に千葉工場、1978年6月に舞鶴工場へフロート設備を増設した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1971年8月には千葉工場、1978年6月には舞鶴工場へフロート設備を増設した。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "マレーシアに置いた最初の海外拠点",
          "text": "1971年、マレーシアに合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立して海外へ出た。1975年にはメキシコで自動車用ガラスの合弁会社L-Nセーフティグラス社を設立している。国内では1978年にディスプレイ用途などに使う超薄板ガラスの生産を始め、1979年に日本硝子繊維の販売権を譲り受けてガラス繊維製品の販売に入った。1980年に川崎工場相模原製造所、1983年に筑波研究所を開設している。板ガラスの周辺へ製品を広げる一方、海外の生産拠点はマレーシアのほかに大きく増えなかった。1977年12月には若松工場を閉鎖している。創業の地であり、コルバーン機を据えて国内初の機械生産を始めた工場だった。\n\n海外展開の薄さは、のちに買収の理由として繰り返し語られる。2005年の時点で海外の自動車ガラス工場はマレーシアの1か所だけであり、トヨタ自動車や日産自動車、本田技研工業が各国で現地生産を広げても供給が追いつかなかった。ガラスはタイヤと同様に現地調達が最優先される部材であるため、工場が近くになければ商談の対象にならない。北米や欧州の大手を次々に買って世界へ出た旭硝子との差は開き、規模と地域の両面で追う側に回った。国際事業を担う人材の育成でも他社の後塵を拝しており、この不足は買収後の経営体制を選ぶ場面で重くのしかかる。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1971年にマレーシアで合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立し本格的に海外進出した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1971年、マレーシアに合弁会社マレーシアンシートグラス社を設立して海外へ出た。"
              },
              {
                "fact": "1975年にメキシコで自動車用ガラス合弁会社L-Nセーフティグラス社を設立した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1975年にはメキシコで自動車用ガラスの合弁会社L-Nセーフティグラス社を設立している。"
              },
              {
                "fact": "1978年に超薄板ガラスの生産を開始し、1979年に日本硝子繊維の販売権を譲り受けた",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "国内では1978年にディスプレイ用途などに使う超薄板ガラスの生産を始め、1979年に日本硝子繊維の販売権を譲り受けてガラス繊維製品の販売に入った。"
              },
              {
                "fact": "1977年12月に若松工場を閉鎖した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1977年12月には若松工場を閉鎖している。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2005年時点で海外の自動車ガラス工場はマレーシアの1か所のみで、日系自動車メーカーの海外生産拡大に対応できていなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "2005年の時点で海外の自動車ガラス工場はマレーシアの1か所だけであり、トヨタ自動車や日産自動車、本田技研工業が各国で現地生産を広げても供給が追いつかなかった。"
              },
              {
                "fact": "ガラスはタイヤと同様に現地調達が最優先される部材である",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "ガラスはタイヤと同様に現地調達が最優先される部材であるため、工場が近くになければ商談の対象にならない。"
              },
              {
                "fact": "買収前は国際事業を展開する人材の育成でも他社に後れていた",
                "source": "週刊東洋経済 2010年8月14日号「日本板硝子 小が大をのむ買収の行方 外国人社長を『監視』」",
                "url": null,
                "genbun": "国際事業を担う人材の育成でも他社の後塵を拝しており、この不足は買収後の経営体制を選ぶ場面で重くのしかかる。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1986,
      "end_year": 2005,
      "main_title": "米LOF社との合弁に始まり英ピルキントン株20%に至った20年",
      "subsections": [
        {
          "title": "技術供与元の子会社と組んだ米国合弁",
          "text": "1986年、米国で自動車用ガラス会社ユナイテッドL-Nグラス社を設立した。相手は英ピルキントン社の子会社であるリビー・オーエンス・フォード社、すなわち1918年に製法特許を出資して日米板硝子を成り立たせたリビー・オーエンス社の後身である。創業時に技術を渡した相手と、68年後に米国で合弁を組んだ。1990年にはLOF社の株式20%を取得している。北米へ足場を作る手立てであると同時に、ピルキントン社との距離を縮める動きでもあった。フロート法を請うた1959年から数えて31年、技術の借り手と貸し手は資本でも結ばれている。\n\n国内では事業の入れ替えが続いた。1987年5月に硝子短繊維の製造・販売に関する営業権を日本マイクロジーウールへ譲り、千葉工場土浦製造所を廃止している。1988年4月には環境事業部門の一部を日本板硝子環境アメニテイへ営業譲渡し、1990年6月に川崎工場を閉鎖した。1991年11月には愛知工場を新設している。海外では1995年に中国で高機能ガラス会社の蘇州板硝子電子有限公司を設立した。1999年4月には連結子会社だった日本硝子繊維とマイクロオプトを吸収合併し、同年10月には子会社のエピタックス社を株式交換によって米JDSユニフェイズ社へ譲渡している。国内の生産と事業を整理しながら、資本は少しずつ海外へ向いた。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1986年に英ピルキントン社の子会社LOF社と合弁で米国にユナイテッドL-Nグラス社を設立した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1986年、米国で自動車用ガラス会社ユナイテッドL-Nグラス社を設立した。"
              },
              {
                "fact": "LOF社は1918年に日米板硝子へ製法特許を出資したリビー・オーエンス社の後身である",
                "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "すなわち1918年に製法特許を出資して日米板硝子を成り立たせたリビー・オーエンス社の後身である。"
              },
              {
                "fact": "1990年にLOF社の株式20%を取得した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1990年にはLOF社の株式20%を取得している。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1987年5月に硝子短繊維の営業権を日本マイクロジーウールへ譲渡し千葉工場土浦製造所を廃止した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1987年5月に硝子短繊維の製造・販売に関する営業権を日本マイクロジーウールへ譲り、千葉工場土浦製造所を廃止している。"
              },
              {
                "fact": "1988年4月に環境事業部門の一部を日本板硝子環境アメニテイへ営業譲渡し、1990年6月に川崎工場を閉鎖、1991年11月に愛知工場を設置した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1988年4月には環境事業部門の一部を日本板硝子環境アメニテイへ営業譲渡し、1990年6月に川崎工場を閉鎖した。1991年11月には愛知工場を新設している。"
              },
              {
                "fact": "1995年に中国で蘇州板硝子電子有限公司を設立した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "海外では1995年に中国で高機能ガラス会社の蘇州板硝子電子有限公司を設立した。"
              },
              {
                "fact": "1999年4月に日本硝子繊維とマイクロオプトを吸収合併し、同年10月にエピタックス社を株式交換によりJDSユニフェイズへ譲渡した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1999年4月には連結子会社だった日本硝子繊維とマイクロオプトを吸収合併し、同年10月には子会社のエピタックス社を株式交換によって米JDSユニフェイズ社へ譲渡している。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "二段階で買い進めたピルキントン株",
          "text": "2000年、ピルキントン社の株式10%を取得した。決断したのは1999年に社長へ就いた出原洋三氏である。1938年生まれ、1962年に京都大学法学部を出て日本板硝子へ入り、子会社の日本硝子繊維で常務と社長を務めてから1996年に本体の常務取締役へ戻った経歴を持つ。翌2001年10月には持株比率を20%へ引き上げて筆頭株主となり、同社を持分法適用会社とした。狙いは資本提携による自動車ガラス事業の強化にある。技術と地域の補完関係は明らかで、板ガラスは各国のGDPを1ポイント上回る速度で伸びる成長産業だと出原氏は見ていた。\n\nしかし5年を経ても成果は乏しかった。ピルキントン社の広報担当者は日本板硝子について親密だが特別視はしていないと語り、日本板硝子は大株主の域を出ない。共同購買は一緒にならなければ働かず、研究開発のテーマも互いにすべてを開示することはなかった。技術を渡して取られては困るという計算が双方に働くためである。20%を持ってもなお競争相手であるという事実が、この5年で明らかになった。出資の目的だった自動車ガラス事業の強化も、目立った成果を上げないまま推移する。20%という比率が中途半端であるという判断が、完全買収の提案へ向かわせた。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "出原洋三",
              "role": "日本板硝子代表取締役会長",
              "date": "2006-03-25",
              "text": "20％でできること、できないことが明確になってきました。一つ例を挙げると、共同購買はけっこう大きいシナジーを生みますが、これは一緒にならないと厳しい。結局、20％持っていてもコンペティター（競争相手）はコンペティターなんですね。Ｒ＆Ｄ（研究開発）のテーマにしてもピルキントンがすべてさらけ出すことはない。下手に出してとられたら困るわけですから。",
              "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号",
              "paragraph": 2
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "2000年にピルキントン社の株式10%を取得し、2001年10月に20%へ引き上げて持分法適用会社とした",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "翌2001年10月には持株比率を20%へ引き上げて筆頭株主となり、同社を持分法適用会社とした。"
              },
              {
                "fact": "出原洋三は1938年生まれ、1962年京都大学法学部卒業後に日本板硝子へ入社し、1992年に日本硝子繊維社長、1996年に日本板硝子常務取締役、1999年に社長へ就任した",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "1938年生まれ、1962年に京都大学法学部を出て日本板硝子へ入り、子会社の日本硝子繊維で常務と社長を務めてから1996年に本体の常務取締役へ戻った経歴を持つ。"
              },
              {
                "fact": "板ガラスは世界で年3〜3.5%、各国GDPを1ポイント上回る速度で伸びる成長産業だと出原洋三は述べた",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "板ガラスは各国のGDPを1ポイント上回る速度で伸びる成長産業だと出原氏は見ていた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "ピルキントン社は日本板硝子を親密だが特別視はしていないとし、日本板硝子は大株主の域を出なかった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "ピルキントン社の広報担当者は日本板硝子について親密だが特別視はしていないと語り、日本板硝子は大株主の域を出ない。"
              },
              {
                "fact": "20%の出資では共同購買が働かず、研究開発テーマも互いに開示されなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "共同購買は一緒にならなければ働かず、研究開発のテーマも互いにすべてを開示することはなかった。"
              },
              {
                "fact": "両社の提携はこれまで目立った成果を上げてこなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "出資の目的だった自動車ガラス事業の強化も、目立った成果を上げないまま推移する。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "情報電子の失速と細っていく国内事業",
          "text": "板ガラスの外に置いた柱も、この時期は伸びなかった。光通信用レンズをはじめとする情報電子は、ITバブルの崩壊以降、赤字が続く。かつて大きく稼いだ小型レンズは沈んだまま戻らず、相当のリストラを経てようやく収支ゼロに近づく水準だった。液晶用ガラス基板はHOYAとの合弁で手がけたものの、市場での両社合弁のシェアは1割前後にとどまる。合弁である以上、単独では動かせない。旭硝子が2004年12月期の営業利益の約5割を電子・ディスプレー部門で稼いだのとは対照的である。利益率の高い液晶用ガラス基板が急拡大するなかで、日本板硝子はその流れに乗れなかった。\n\n業績は横ばいから微減で推移した。連結売上高は2002年3月期の2868億円から2006年3月期の2659億円へ7%減っている。2002年3月期は23億円、2003年3月期は32億円の純損失を出し、その後は黒字に戻ったものの2006年3月期の純利益は78億円にとどまった。2000年12月には大阪本社ビルを売却し、2001年4月には日本無機を株式交換で完全子会社としている。2004年8月には連結子会社だったイソライト工業を品川白煉瓦の公開買付けに応じて譲渡し、同年9月に愛知事業所を閉鎖した。同年10月には本店を大阪市から東京都港区へ移している。買収を提案する前年までの姿は、国内で2位の座を保ちながら次の一手を欠く会社だった。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "光通信用レンズなど情報電子はITバブル崩壊以降赤字が続き、リストラを経て収支ゼロに近い水準だった",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "光通信用レンズをはじめとする情報電子は、ITバブルの崩壊以降、赤字が続く。かつて大きく稼いだ小型レンズは沈んだまま戻らず、相当のリストラを経てようやく収支ゼロに近づく水準だった。"
              },
              {
                "fact": "HOYAとの合弁による液晶用ガラス基板の市場シェアは1割前後にとどまった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "液晶用ガラス基板はHOYAとの合弁で手がけたものの、市場での両社合弁のシェアは1割前後にとどまる。"
              },
              {
                "fact": "旭硝子は2004年12月期の営業利益の約5割を電子・ディスプレー部門で稼いだ",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "旭硝子が2004年12月期の営業利益の約5割を電子・ディスプレー部門で稼いだのとは対照的である。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2000年12月に大阪本社ビルを売却し、2001年4月に日本無機を株式交換で完全子会社化した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2000年12月には大阪本社ビルを売却し、2001年4月には日本無機を株式交換で完全子会社としている。"
              },
              {
                "fact": "2004年8月にイソライト工業を品川白煉瓦の公開買付けにより譲渡し、同年9月に愛知事業所を閉鎖、10月に本店を東京都港区へ移転した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2004年8月には連結子会社だったイソライト工業を品川白煉瓦の公開買付けに応じて譲渡し、同年9月に愛知事業所を閉鎖した。同年10月には本店を大阪市から東京都港区へ移している。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 2006,
      "end_year": 2026,
      "main_title": "総額6160億円の買収で世界最大級となり20年後に上場を去るまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "20%か100%かを迫った英国の買収規制",
          "text": "2005年11月1日、日本板硝子はピルキントン社への完全買収の提案を発表した。提示額は1株150ペンス。ピルキントン社は株主に提案できる価格ではないとして拒み、交渉は難航する。同社会長のナイジェル・ラッド氏は英国でM&Aの経験が誰より豊富なタフネゴシエーターとして知られ、関係者は交渉が非常にタフな展開になると予想した。決着は2006年2月26日までもつれ、買収価格は1株165ペンスまで上がる。公表直前の2005年10月28日の株価126.75ペンスに30%のプレミアムが乗る水準だった。翌27日、6月下旬に完全子会社化すると発表している。\n\nなぜ20%のままではいけなかったのか。出原会長は資本の効率でいえば51%程度で済ませたかったと述べている。それができない理由は英国の制度にあった。持株比率が30%を超えると全株を買い取らねばならないため、20%から身の丈に合わせて少しずつ出資を増やす道が閉じていた。20%では競争相手のままで共同購買も研究開発の共有も働かない。一方で31%も50%も選べない。20%にとどまるか100%を取るかという二択を、英国のテイクオーバー規制が作っていた。買収の是非を論じるとき、この制度の形が判断の前提として効いている。無理に背伸びをしたと片づけると、選択肢がそもそも二つしかなかった事実が抜け落ちる。\n\n買収は2006年6月に完了した。全株式の取得に約3585億円、負債の引き受けなどを含めた総額は約6160億円である。売上高で2倍近い相手をのみ込み、板ガラスの世界シェアは約14%へ上がった。数字の変化は劇的だった。連結売上高は2006年3月期の2659億円から2007年3月期に6815億円、2008年3月期には8656億円へ増える。総資産は5960億円から1兆4090億円へ、従業員数は12736人から35811人へ、いずれも2倍以上になった。海外売上比率は2割から8割近くへ動き、国内2位の板ガラス会社は28か国で事業を持つ会社に変わる。2008年3月期の純利益は504億円で、この時点までは買収の効果が数字にも表れていた。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "出原洋三",
              "role": "日本板硝子代表取締役会長",
              "date": "2006-03-25",
              "text": "もう一つは経営判断として20％ならやめておく、やるなら100％までやるという考え方があると思うんです。つまりカネの出し方として、20％は中途半端。非常にしんどいけれども、100％出してすべてをコントロールすべきではないかと思ったわけです。資本の効率でいえば、本当は51％ぐらいでやりたいところですが、株の比率が30％を超えると全部買わなきゃいけないというイギリスの法律がある。だから、20％からわれわれの身の丈に合わせてカネを出すことができないんです。",
              "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号",
              "paragraph": 2
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "2005年11月1日に完全買収を提案し、当初の提示額は1株150ペンスだった",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "2005年11月1日、日本板硝子はピルキントン社への完全買収の提案を発表した。提示額は1株150ペンス。"
              },
              {
                "fact": "ピルキントン社会長のナイジェル・ラッドは英国でM&A経験の豊富なタフネゴシエーターとして知られていた",
                "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「日本板硝子、英ピルキントンに完全買収を提案」",
                "url": null,
                "genbun": "同社会長のナイジェル・ラッド氏は英国でM&Aの経験が誰より豊富なタフネゴシエーターとして知られ"
              },
              {
                "fact": "2006年2月26日に1株165ペンスで決着し、公表直前の株価126.75ペンスに30%のプレミアムが乗った",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月11日号「日本板硝子が英ピルキントンを買収 世界トップ躍進に潜む死角」",
                "url": null,
                "genbun": "決着は2006年2月26日までもつれ、買収価格は1株165ペンスまで上がる。公表直前の2005年10月28日の株価126.75ペンスに30%のプレミアムが乗る水準だった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "英国では持株比率が30%を超えると全株の買い取りが必要になるため、20%から段階的に出資を増やす選択肢がなかった",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "持株比率が30%を超えると全株を買い取らねばならないため、20%から身の丈に合わせて少しずつ出資を増やす道が閉じていた。"
              },
              {
                "fact": "出原洋三は資本の効率でいえば51%程度で済ませたかったと述べた",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月25日号「出原洋三 日本板硝子代表取締役会長 6100億円買収の真意を語る」",
                "url": null,
                "genbun": "出原会長は資本の効率でいえば51%程度で済ませたかったと述べている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "全株式取得に約3585億円、総額約6160億円を投じ、板ガラスの世界シェアは約14%となった",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月11日号「日本板硝子が英ピルキントンを買収 世界トップ躍進に潜む死角」",
                "url": null,
                "genbun": "全株式の取得に約3585億円、負債の引き受けなどを含めた総額は約6160億円である。売上高で2倍近い相手をのみ込み、板ガラスの世界シェアは約14%へ上がった。"
              },
              {
                "fact": "総資産は5960億円から1兆4090億円へ、従業員数は12736人から35811人へ増加した",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】（2007年3月期）",
                "url": null,
                "genbun": "総資産は5960億円から1兆4090億円へ、従業員数は12736人から35811人へ、いずれも2倍以上になった。"
              },
              {
                "fact": "海外売上比率は2割から8割近くへ上昇し、28か国で事業を持つ企業になった",
                "source": "週刊東洋経済 2013年4月5日号「赤字続く日本板硝子 会長退任で再建なるか」",
                "url": null,
                "genbun": "海外売上比率は2割から8割近くへ動き、国内2位の板ガラス会社は28か国で事業を持つ会社に変わる。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "買われた側から社長を出した4年間",
          "text": "代金の出どころが問題を残した。約3630億円を銀行借入で、約1100億円を転換価格修正条項付き転換社債で調達している。買収前に1250億円だった有利子負債は6000億円を超え、48.7%だった自己資本比率は2007年3月期に23.9%まで落ちた。のれん代は2200億円前後と見積もられ、最長20年で償却しても年110億円ほど営業利益を押し下げる。会社が見込んだ資材共同調達や生産最適化によるコスト削減効果は2009年度までに年44億円で、償却額の半分にも届かない。ムーディーズなど格付各社はただちに格下げ方向での見直しを発表した。財務の負担は買収の時点で数字として見えていた。\n\n買収から2年後の2008年5月、日本板硝子はピルキントン社出身のスチュアート・チェンバース氏を社長兼CEOへ昇格させると発表した。藤本勝司社長は会長へ回る。買った側が降りて買われた側から社長を出す形について、藤本社長はグローバル企業として発展するため国際経験の豊富な人物を前面に出すと説明した。同じ時期に国内の管理職を対象とした希望退職で220人が会社を去っている。2008年6月には委員会設置会社へ移行した。当時の出原会長は、役員の任命は指名委員会に権限があり社長は関与できないとその狙いを語っている。買収後の取締役と従業員の大半はピルキントン出身者で、日本板硝子のプロパー社員は約20%の少数派だった。\n\n就任の翌年、2009年8月にチェンバース社長が退任を表明した。理由は家庭の事情である。日本で社長職にとどまると16歳の息子が見知らぬ他人になってしまうと述べた。在任は1年余りで、10月から藤本会長が社長へ復帰する。後任には米デュポンに36年勤めて電子・情報技術部門の上席副社長を務めたクレイグ・ネイラー氏を招き、2010年6月に就任させた。藤本会長は日本板硝子のような国際企業の社長は外国人がふさわしいと述べている。売上と従業員の8割が海外にある以上、経営の執行を外国人に頼らざるをえないという判断だった。指名・報酬・監査の3委員会で日本人の取締役が執行を監視する体制も、この時期に整えている。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "買収資金のうち約3630億円を銀行借入、約1100億円をMSCBで調達した",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月11日号「日本板硝子が英ピルキントンを買収 世界トップ躍進に潜む死角」",
                "url": null,
                "genbun": "約3630億円を銀行借入で、約1100億円を転換価格修正条項付き転換社債で調達している。"
              },
              {
                "fact": "有利子負債は買収前1250億円から6000億円超へ増え、自己資本比率は48.7%から2007年3月期に23.9%へ低下した",
                "source": "週刊東洋経済 2026年4月11日号「日本板硝子が非公開化へ 『小が大をのむ』の後始末」",
                "url": null,
                "genbun": "買収前に1250億円だった有利子負債は6000億円を超え、48.7%だった自己資本比率は2007年3月期に23.9%まで落ちた。"
              },
              {
                "fact": "のれん代は2200億円前後と試算され20年償却で年110億円程度の営業利益押し下げ要因となる一方、見込んだコスト削減効果は2009年度までに年44億円だった",
                "source": "週刊東洋経済 2006年3月11日号「日本板硝子が英ピルキントンを買収 世界トップ躍進に潜む死角」",
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                "genbun": "のれん代は2200億円前後と見積もられ、最長20年で償却しても年110億円ほど営業利益を押し下げる。会社が見込んだ資材共同調達や生産最適化によるコスト削減効果は2009年度までに年44億円で、償却額の半分にも届かない。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2008年5月にピルキントン社出身のスチュアート・チェンバースの社長兼CEO昇格を発表し、藤本勝司社長は会長へ就いた",
                "source": "週刊東洋経済 2008年5月17日号「日本板硝子の新社長に英子会社トップが昇格」",
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                "genbun": "買収から2年後の2008年5月、日本板硝子はピルキントン社出身のスチュアート・チェンバース氏を社長兼CEOへ昇格させると発表した。藤本勝司社長は会長へ回る。"
              },
              {
                "fact": "同時期の国内管理職を対象とした希望退職で220人が退職した",
                "source": "週刊東洋経済 2008年5月17日号「日本板硝子の新社長に英子会社トップが昇格」",
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                "genbun": "同じ時期に国内の管理職を対象とした希望退職で220人が会社を去っている。"
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              {
                "fact": "買収後は取締役と従業員の大半がピルキントン出身者で、日本板硝子のプロパー社員は約20%だった",
                "source": "週刊東洋経済 2010年8月14日号「日本板硝子 小が大をのむ買収の行方 外国人社長を『監視』」",
                "url": null,
                "genbun": "買収後の取締役と従業員の大半はピルキントン出身者で、日本板硝子のプロパー社員は約20%の少数派だった。"
              },
              {
                "fact": "2008年6月に委員会設置会社へ移行し、役員の任命権は指名委員会が持つ体制となった",
                "source": "日本板硝子 有価証券報告書【沿革】",
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                "genbun": "2008年6月には委員会設置会社へ移行した。当時の出原会長は、役員の任命は指名委員会に権限があり社長は関与できないとその狙いを語っている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2009年8月にチェンバース社長が家庭の事情を理由に退任を表明し、在任は1年余りだった",
                "source": "週刊東洋経済 2010年5月1日号「日本板硝子の新社長 またも外国人を起用」",
                "url": null,
                "genbun": "就任の翌年、2009年8月にチェンバース社長が退任を表明した。理由は家庭の事情である。日本で社長職にとどまると16歳の息子が見知らぬ他人になってしまうと述べた。在任は1年余りで、10月から藤本会長が社長へ復帰する。"
              },
              {
                "fact": "後任のクレイグ・ネイラーは米デュポンに36年勤務し電子・情報技術部門担当の上席副社長を務めた",
                "source": "週刊東洋経済 2010年5月1日号「日本板硝子の新社長 またも外国人を起用」",
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                "genbun": "後任には米デュポンに36年勤めて電子・情報技術部門の上席副社長を務めたクレイグ・ネイラー氏を招き、2010年6月に就任させた。"
              },
              {
                "fact": "売上高と従業員の80%が海外にあった",
                "source": "週刊東洋経済 2010年5月1日号「日本板硝子の新社長 またも外国人を起用」",
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                "genbun": "売上と従業員の8割が海外にある以上、経営の執行を外国人に頼らざるをえないという判断だった。"
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              {
                "fact": "指名・報酬・監査の3委員会で外国人社長と役員を日本板硝子出身の日本人が監視する体制を整えた",
                "source": "週刊東洋経済 2010年8月14日号「日本板硝子 小が大をのむ買収の行方 外国人社長を『監視』」",
                "url": null,
                "genbun": "指名・報酬・監査の3委員会で日本人の取締役が執行を監視する体制も、この時期に整えている。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "のれんの減損と非公開化という決着",
          "text": "外部環境が判断を裏切った。リーマン・ショックで欧米のガラス需要が落ち、欧州の売上比率が5割に達していた構造がそのまま弱点として働く。2009年3月期は純損失284億円、2010年3月期は413億円を計上した。のれんと無形固定資産の償却は毎年180億円前後発生し、金利負担と合わせて損益を圧迫する。2011年3月期に累計6700人、2012年2月にはグループ従業員の約1割にあたる3500人の削減を重ねた。同年3月12日、ムーディーズは格付をBa3とする。東京電力と同じ水準だった。翌4月18日にネイラー社長が辞任し、藤本会長は理由を戦略に関する取締役会での意見の不一致と説明する。後任は生え抜きの吉川恵治副社長で、4年ぶりの日本人社長だった。2013年3月末には買収を主導した藤本勝司会長が退き、同期は35年ぶりの無配となる。\n\n2015年4月に森重樹氏、2023年4月に細沼宗浩氏が社長へ就き、2022年3月期からは中期経営計画リバイバル計画24でコスト構造と事業構造の改革を進めた。その途中の2022年10月、会社は帳簿の上で決着をつける。2023年3月期第2四半期に、2006年の買収で生じたのれんおよび無形資産について欧州の自動車用ガラス事業で488億円の減損損失を計上した。同期の純損失は337億円である。買収時に積んだのれんを自ら消した処理であり、支払った価格を事業の稼ぐ力では回収できないと会社自身が認めた記録として残る。誤算は需要だけではなかった。買収直後にはピルキントン社の過去のカルテル事件が表に出て、2007年11月と2008年11月に決定した欧州委員会の課徴金は計675億円に達している。\n\n買収後の19期のうち10期が最終赤字となり、連結最終損益の累計は1506億円のマイナスになった。2025年12月末の有利子負債は5702億円で、うち1年以内に返済期限が来るものが1770億円ある。2026年3月24日、日本板硝子は新生NSGグループに向けた抜本的施策を発表した。米投資ファンドのアポロ・グローバル・マネジメントと銀行団から総額3000億円規模の支援を受け、アポロの特別目的会社へ1650億円の第三者割当増資を行って議決権の72%を渡す。うち914億円を英子会社の借入金返済に、711億円を一般株主への交付金に充て、金融機関による1400億円の債務株式化と合わせて有利子負債を2314億円圧縮する。一般株主には併合前の1株あたり500円を交付し、2026年11月に上場廃止となる予定である。米国の特許と住友の資金で始まった会社は、108年後、米国のファンドに資本を委ねて株式市場を去る。",
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          "quotes": [
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              "speaker": "尾崎政一",
              "role": "日本板硝子広報部長",
              "date": "2026-03-24",
              "text": "買収前からリスクとして認識はしていたが、ふたを開けてみると想定より額が大きかった。",
              "source": "週刊東洋経済 2026年4月11日号",
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            }
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          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "買収に伴うのれんと無形固定資産の償却が毎年180億円前後発生した",
                "source": "週刊東洋経済 2010年8月14日号「日本板硝子 小が大をのむ買収の行方 外国人社長を『監視』」",
                "url": null,
                "genbun": "のれんと無形固定資産の償却は毎年180億円前後発生し、金利負担と合わせて損益を圧迫する。"
              },
              {
                "fact": "2011年3月期に生産能力の2割削減と累計6700人の削減、2012年2月にグループ従業員の約1割にあたる3500人の削減を発表した",
                "source": "週刊東洋経済 2012年3月20日号「買収誤算の日本板硝子 東電並みの格付けに」",
                "url": null,
                "genbun": "2011年3月期に累計6700人、2012年2月にはグループ従業員の約1割にあたる3500人の削減を重ねた。"
              },
              {
                "fact": "2012年3月12日にムーディーズがグループ全体の格付をBa3とし、東京電力と同水準になった",
                "source": "週刊東洋経済 2012年3月20日号「買収誤算の日本板硝子 東電並みの格付けに」",
                "url": null,
                "genbun": "同年3月12日、ムーディーズは格付をBa3とする。東京電力と同じ水準だった。"
              },
              {
                "fact": "2012年4月18日にネイラー社長が辞任し、藤本会長は理由を戦略に関する取締役会での意見の不一致と説明した",
                "source": "週刊東洋経済 2012年4月20日号「崖っ縁の日本板硝子 外国人社長がまた辞任」",
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                "genbun": "翌4月18日にネイラー社長が辞任し、藤本会長は理由を戦略に関する取締役会での意見の不一致と説明する。"
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              {
                "fact": "ネイラー社長は2012年4月18日に辞任し、藤本会長は戦略に関する取締役会での意見の不一致を理由に挙げた",
                "source": "週刊東洋経済 2012年4月20日号「崖っ縁の日本板硝子 外国人社長がまた辞任」",
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                "genbun": "翌4月18日にネイラー社長が辞任し、藤本会長は理由を戦略に関する取締役会での意見の不一致と説明する。"
              },
              {
                "fact": "後任には生え抜きの吉川恵治副社長が就任し、4年ぶりの日本人社長となった",
                "source": "週刊東洋経済 2012年4月20日号「崖っ縁の日本板硝子 外国人社長がまた辞任」",
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                "fact": "2013年3月末に買収を主導した藤本勝司会長が退任し、2013年3月期は35年ぶりの無配となった",
                "source": "週刊東洋経済 2013年4月5日号「赤字続く日本板硝子 会長退任で再建なるか」",
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                "genbun": "2013年3月末には買収を主導した藤本勝司会長が退き、同期は35年ぶりの無配となる。"
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            [
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                "fact": "2015年4月に森重樹、2023年4月に細沼宗浩が代表執行役社長兼CEOへ就任した",
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                "genbun": "2015年4月に森重樹氏、2023年4月に細沼宗浩氏が社長へ就き"
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                "url": "https://www.nsg.co.jp/-/media/nsg-jp/ir/ir-presentations/annualresultspresentationsnotes2023_3_j01.pdf",
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                "source": "週刊東洋経済 2026年4月11日号「日本板硝子が非公開化へ 『小が大をのむ』の後始末」",
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                "genbun": "買収直後にはピルキントン社の過去のカルテル事件が表に出て、2007年11月と2008年11月に決定した欧州委員会の課徴金は計675億円に達している。"
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            ],
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    "title": "サマリー",
    "text": "### 創業\n\n1918年11月、第一次世界大戦末期の大阪で杉田與三郎氏が日米板硝子を創業した。渡米中に見たコルバーン式の製法に目を付け、住友総本店の山下芳太郎氏の後押しで米リビー・オーエンス社から特許を譲り受けている。特許料は現金でなく新会社株式2万株と10万ドルで払い、世界でこの特許を得たのは杉田氏ただ一人だった。国内では板ガラスの工業化が失敗を重ね、機械製法を持つこと自体が事業の成否を分けた。1920年に二島工場で国内初の自動連続引上法を実現する。技術は米国から、資金と経営は住友から借りた構図が、以後の経営を長く規定した。",
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