戦略型研究開発を核とした「アミーバ的」多角化
板ガラス寡占の首位に安住せず、旭硝子は研究開発をどう多角化の源泉に据えたか
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- 概要
- 1980年前後、旭硝子は板ガラスを中核に周辺事業へ広がる「アミーバ的」多角化を進めた。研究開発部門を長期の事業創出へ振り向ける「戦略型研究開発」を組織の中心に据え、化学品・セラミックス・電子と事業を増やしていく方針を明確にした。「安定と進歩の両立」を掲げた山下秀明社長のもとでの経営方針である。
- 背景
- 旭硝子は国内板ガラスの約5割を握る寡占の首位で、10年ほど前までガラスの売上構成比は7割前後で安定していた。だが安定だけを追えば成長が鈍る。ガラス原料の確保から始まった多角化を、本業の景気変動に左右されない収益源へ育てる必要が意識されていた。
- 内容
- 減量経営で全社員を2年で2115人減らす一方、研究開発部門の人員は400人強から500人強へ増やした。1948年に着手したイオン交換膜法カセイソーダ電解装置は海外大手への技術供与を生み、三菱電機と組んで1951年に設立した液晶の会社は年商40億円まで育った。なじまない技術は別会社に出して伸ばす手法を採った。
- 含意
- 「アミーバ的」多角化は、板ガラス一本の会社を、ガラス・化学品・セラミックスを一社で抱える素材メーカーへと変えた。1997年には電子事業が連結売上高の約8%を占める第三の柱に育ち、液晶用ガラス基板で高い世界シェアを握るなど、後年の事業構成の転換につながる源流となった。
安定と進歩をどう両立させるか
この判断の底にあるのは、寡占の首位という安定を、成長を止める理由にしないという意思である。旭硝子は板ガラスで5割のシェアを持ち、作れば売れる事業を抱えていた。その安定に安住せず、研究開発を長期の事業創出へ振り向け、中核技術に連なる周辺事業を一つずつ増やしていった。減量経営のさなかに研究開発の人員だけを増やした判断は、目先の収益より技術の蓄積を優先する経営の性格をよく表しているとみることができる。
「アミーバ的」という比喩は、多角化に方向を定めすぎない柔らかさを含んでいた。原料へさかのぼる垂直の多角化も、用途を広げる水平の多角化も、なじまない技術を別会社に出す分裂も、いずれも中核のガラス技術から連なっていた。この型は、後にディスプレー用ガラスやフッ素製品を生み、2010年代にはライフサイエンスを含む事業構成の転換にまで及んでいった。安定と進歩をどう両立させるかという問いに、旭硝子は技術を核に事業を増やし続けることで答えようとしたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
寡占首位の安定と、多角化の源流
旭硝子が多角化を急いだ背景には、板ガラス事業の安定という強みと、その裏側にある成長の頭打ちがあった。国内の板ガラス製造は旭硝子・日本板硝子・セントラル硝子の3社による典型的な寡占で、旭硝子は約5割のシェアを握る首位であった。ガラスの売上構成比は10年ほど前まで7割前後で安定していたが、安定だけを追えば「余技」に手を出す必要もない。成長を確保するには、周辺事業を育てる選択が要ると同社はみていた[1]。
多角化そのものは新しい試みではなかった。旭硝子が板ガラス製造以外へ広がったのは創業からわずか10年後、1917年にガラスの主原料であるソーダ灰の国内生産を始めたときにさかのぼる。当時、貴重だったソーダ灰は輸入に頼っており、原料を自前で確保する必要から化学品へ広がった。以後の化学品やセラミックスの事業群は、いずれもガラスを作るための副資材の内製から派生したもので、原料へさかのぼる垂直型の多角化が長く同社の特徴であった[2]。
決断
「アミーバ的」多角化と戦略型研究開発
1980年前後、旭硝子は多角化の型を垂直から水平へと切り替えた。富永達夫専務は、かつての多角化が原料へさかのぼる川上指向だったのに対し、近年は横への広がりをねらったものが増えていると述べた。同社はこれを、単細胞生物が周囲の栄養を吸収して増えていくさまになぞらえ「アミーバ経営」と呼んだ。中核のガラスに連なる技術を組み合わせ、化学品・セラミックス・電子へと事業を増殖させていく発想であった[3]。
多角化の推進役に据えたのが、研究開発部門であった。旭硝子は1948年に開発部の製品開発機能を明確にし、1954年に研究所と合体させて研究開発部とし、長期の事業創出を担う戦略型研究開発部へと衣替えした。業績が落ち込んだ1949年度下期からの減量経営で全社員を1950〜54年度に2115人減らす一方、研究開発の人員は400人強から500人強へ増やした。金井英三常務は、現有事業を伸ばす研究に集中していた従来から、およそ2対1の割合で長期研究へ力を注ぐ体制に移したと語った[4]。
技術供与を生む本業と、別会社で育てる新事業
戦略型研究開発の成果は、本業の外へ収益源を広げた。公害防止のため1948年に水銀法からの製法転換が義務づけられたのを機に開発したイオン交換膜法カセイソーダ電解装置は、低コストと環境負荷の低さから世界の製造プラントに広く採り入れられ、米PPGや英ICIなど海外大手との技術供与契約を生んだ。1952年には技術開示料として100万ドルを受け取り、同社自身が驚くほどの収益源に育った。撥水撥油剤や耐熱フッ素ゴムなどのファインケミカルも相次いで市場に出た[5]。
なじまない技術は本体で抱え込まず、別会社に出して育てた。旭硝子は1945〜46年頃に将来の産業構造を予測し、電子工業が有望との結論に達していた。三菱電機と組んで1951年にオプトレクスを設立し、出資比率80%で液晶表示装置の事業化に取り組んだ。この読みは的中し、電卓やウォッチ業界の旺盛な需要を支えに急成長して、1980年度の年商は40億円に達する見通しとなった。既存の事業部になじまない技術を社外へ「分裂」させる手法が、アミーバ的多角化の実像であった[6]。
結果
電子事業が第三の柱に育つ
アミーバ的多角化は、その後の20年で目に見える形をとった。1997年3月期には、液晶表示装置用ガラス基板などを扱う電子事業の売上高が連結ベースで1055億円に達し、連結売上高に占める割合はセラミックス部門を上回る7.9%となった。ガラス・化学品に続く第三の柱に成長し、TFT方式の液晶用ガラス基板では世界シェアの30%以上を握った。1980年に描いた「電子工業への進出」が、17年を経て収益の柱に育っていた[7]。
多角化は、ガラス一本の会社を、ガラス・化学品・セラミックスを一社で抱える素材メーカーへと変えた。この三分野の技術を持つことが、後に電子材料や環境技術へ広がる基盤となった。もっとも、電子事業を経営の柱に据えるには「丸の内中心主義」と呼ばれた本社集権の意思決定を改める必要があるとも指摘され、多角化の果実を伸ばす課題は組織の速さの問題へと引き継がれていった。素材の技術を用途ごとに広げる旭硝子の型は、この時期に骨格が定まったとみられる[8]。
- 日経ビジネス 1980年11月17日号「旭硝子 戦略型研究開発でアミーバ的多角化」
- 日経ビジネス 1997年7月7日号「『成功する多角化』の秘訣 旭硝子、日本合成ゴム、東日本旅客鉄道」
- 旭硝子 有価証券報告書【沿革】
- 旭硝子 会社年鑑(単体業績)