全力を注ぐと宣言したのはコンテナ船であって、自動車専用船は同じ数年に静かに立ち上がった。1969年1月の講演で植田一夫専務が語った内容は、700個積1隻で50億円、収支均衡は長期、乗り遅れれば会社全体の失敗という重い条件ばかりであった。その資金計画のなかで冷凍船や自動車専用船を並べて挙げていたのは、定期船の運賃が競争で崩れても運ぶ品目を残しておこうという読みが働いていたからだとみられる。
結果として社運を託した事業が赤字を重ね、付け足しのように見えた事業が残った。読売新聞が1967年に書いた反作用は、従来の定期船が余るというより、船腹の過剰と運賃競争として半世紀にわたって続いた。ただ、これを先見と呼ぶのは行き過ぎであろう。自動車を積む船は当時のトヨタ自動車という具体的な荷主があって成り立った事業で、複数の船種を並べて持つ判断が、どちらが当たるかを見通していたことにはならない。