川崎汽船フルコンテナ船の投入と、世界初の自動車専用船(PCC)の実用化

コンテナ化に全力を注ぐか、別の船種も持つか——「乗り遅れれば会社全体の失敗」と語られた輸送革命への二本立ての答え

時期 1970年7月
意思決定者(推定) 服部元三・植田一夫 川崎汽船 社長・川崎汽船 専務取締役
論点 輸送革命への対応と船種の選択
概要
1968年10月に初のフルコンテナ船「ごうるでんげいとぶりっじ」を、同年11月に自動車ばら積み兼用船「第一とよた丸」を、1970年7月に自動車だけを積む「第十とよた丸」を竣工させた経営判断。川崎汽船は最後の船型をPure Car Carrier(PCC)と名づけ、コンテナ化への対応と自動車専用船の実用化を同じ数年のうちに進めた。
背景
1967年秋に米マトソン社が日本・北米太平洋航路へコンテナ船を配し、政府もコンテナ化に本腰を入れた。ただし読売新聞は「コンテナー化を思い切って進めると当面はその反作用も大きい」と書き、従来の定期船が余り、膨大な資金が要る点を指摘していた。海運6中核体は1隻ずつ計6隻のコンテナ船を建造して追った。
内容
植田一夫専務は1969年1月の講演で、700個積のコンテナ船と附帯設備には少なくとも50億円が必要で、収支均衡は長期で見る必要があると述べ、これに乗り遅れれば会社全体の失敗につながるとして定期船部門に全力を注ぐ方針を示した。並行して冷凍船・自動車専用船など専用船による輸送品目の多角化を進めた。
含意
1972年6月に米国ロングビーチ港へ初の海外自営コンテナターミナルを構え、北米航路を自前で運営する体制が整った。PCCという呼称は世界の海運業界の共通語となり、自動車船は50年以上たっても自営事業の柱に残った。一方でコンテナ船の自社運航は2018年にONEへ引き継がれて終わっている。
筆者の見解

二つの船種に分けたことの意味

全力を注ぐと宣言したのはコンテナ船の側であって、自動車専用船は同じ数年に静かに立ち上がった。1969年1月の講演で植田一夫専務が語った内容は、700個積1隻で50億円、収支均衡は長期、乗り遅れれば会社全体の失敗という重い条件ばかりであった。その資金計画のなかで冷凍船や自動車専用船を並べて挙げていたのは、定期船の運賃が競争で崩れても運ぶ品目を残しておこうという読みが働いていたからだとみられる。

結果として社運を託した側が赤字を重ね、付け足しのように見えた側が残った。読売新聞が1967年に書いた反作用は、従来の定期船が余るというより、船腹の過剰と運賃競争として半世紀にわたって続いた。ただ、これを先見と呼ぶのは行き過ぎであろう。自動車を積む船は当時のトヨタ自動車という具体的な荷主があって成り立った事業で、複数の船種を並べて持つ判断が、どちらが当たるかを見通していたことにはならない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸送革命と呼ばれたコンテナ化の反作用

1967年3月、読売新聞は海上コンテナを「輸送革命」と呼び、政府がコンテナー化に本腰を入れる理由として、船の回転率が上がり荷役が簡単になって輸送経費が半減する効果を挙げた。遅れれば日本の海運業が窮地に追い込まれ、海上運賃の割高から輸出にも響きかねないという見方であった。定期船を主力とする川崎汽船にとって、対応の遅れは船隊の存続に直結した[1]

同じ記事は、進めた場合の副作用にも触れていた。コンテナー化を思い切って進めると従来の定期船が少なくてすみ、しかも膨大な資金が要るため、海運業に深刻な影響を与えるばかりか港湾荷役・倉庫・陸上輸送にまで打撃が及ぶ。流通革命に発展するという指摘であった。抱えている船隊が余り、それでも投資を求められるという二重の負担が、対応を難しくしていた[2]

700個積の船に50億円という資金の壁

口火を切ったのは外国船社であった。1967年秋に米マトソン社が日本・北米太平洋航路にコンテナ船を配し、日本の海運業界はここまで早まるとは考えていなかったため少々あわてたと、植田一夫専務は1969年1月の講演で述べている。政府の援助を受けて6中核体が1隻ずつ計6隻を建造し、1968年秋から遅ればせながら就航させた[3]

植田専務が最も大きな問題に挙げたのは資金であった。専用埠頭・内陸ターミナル・コンテナ・トレーラーまで揃えると、700個積のコンテナ船1隻で少なくとも50億円が必要になり、償却負担を考えれば収支均衡は長期で見る必要がある。それでも、これに乗り遅れて失敗すれば会社全体の失敗につながるとして、定期船部門では全力を注入する方針を示した。年間の設備投資は200億円規模を見込んでいた[4]

決断

コンテナ船と自動車専用船を同時に持つ

1968年10月、川崎汽船は初のフルコンテナ船「ごうるでんげいとぶりっじ」を竣工させ、コンテナ化に加わった。翌11月には自動車ばら積み兼用船「第一とよた丸」(1,250台積)も竣工し、トヨタ自動車の車を運ぶ輸送が始まった。定期船部門に全力を注ぐ一方で、貨物船に自動車を積む兼用船という別の船型も同じ年に手当てしている[5]

1970年7月には、自動車だけを積む「第十とよた丸」(2,070台積)を竣工させた。それまでの自動車輸送は貨物船の船倉にばら積みするか仮設の棚を置く方法が主流で、輸送中の損傷が課題になっていた。川崎汽船はこの船型をPure Car Carrier(PCC)と名づけ、積み下ろしの効率と輸送品質を高めた。専用船による輸送品目の多角化は、冷凍船と並べて当時から方針に掲げられていた[6][7]

陸上輸送まで含めて整えた受け皿

服部元三社長は1970年7月、2、3年前からいずれコンテナ船時代になると想定してできるだけの手を打ってきたと語った。1969年7月に米国のトラック会社REAと提携し、日本の日通をはるかにしのぐ3万台規模のトラックと、親会社である鉄道との連絡を確保していた。向こう側の体制はできたが日本側にコンテナ船も港湾設備もないため、こちらの体制ができるまで待つと決めていたという説明であった[8]

航空機との住み分けも見えていた。服部社長は、日本航空が500人乗りのジャンボ機を米ボーイング社に発注した点に触れ、高価で軽量な荷物は相当飛行機に取られると述べている。船会社が貨物航空をやるのは非常に難しく、軽量のものは航空機に任せざるを得ないという判断であった。空へ手を伸ばさず、船で運ぶ品目を選び分けるという線が、このとき引かれていた[9]

結果

自前の港と、世界語になった船種名

1972年6月、川崎汽船は米国ロングビーチ港に初の海外自営コンテナターミナルを完成させ、北米航路を自前で運営する体制を整えた。荷役と内陸接続を自社で握る構えは、1980年代後半に北米航路へ1,200億円を集中投資する際の土台になった。1971年3月期の売上高は1,177億円、経常利益は72億円で、集約直後から数年の船隊拡張が数字に表れていた[10][11]

自動車専用船の側では、Pure Car Carrierという川崎汽船の造語がそのまま世界に定着し、自動車専用船という船種を初めて確立した会社という位置が残った。トヨタ自動車向けに始まった完成車の輸送は、1968年の1,250台積、1970年の2,070台積を経て、2025年7月に竣工したLNG燃料船では6,900台積へと大型化している[12][13]

分かれた二つの事業のその後

同じ数年のうちに立ち上げた二つの事業は、その後の歩みが分かれた。自動車船は50年以上たっても自営事業の柱に残り、輸送品質の蓄積が参入の壁になった。コンテナ船は船腹の過剰と運賃競争に長く苦しみ、2016年までの10年間で7度の部門赤字と計1,000億円超の損失を重ねた末、2018年4月にONEへ引き継がれて自社運航が終わった[14][15]

再編の予想そのものは、当時から語られていた。植田専務は1969年1月の講演で、コンテナ輸送の帰趨が日本海運の将来を決めるとし、場合によっては脱落する会社も出るだろう、あと1〜2年後にもう一度大きな再編成が起こるのではないかという向きもあると述べていた。コンテナ船の再編は邦船3社の統合として現れたが、それは講演から半世紀近くたってからであった[16]

出典・参考
  • 読売新聞(1967年3月10日)「こんどは空のコンテナー化」
  • 読売新聞(1970年7月31日)「マトソン社・極東航路撤退」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第2号「海運業界と川崎汽船」(川崎汽船 専務取締役 植田一夫)
  • 週刊東洋経済 2016年8月13日号「ニュース最前線 追い込まれる川崎汽船 黒船傘下入りの激流」
  • 週刊東洋経済 2026年3月7日号「第1特集 造船復興 日本郵船、商船三井、川崎汽船──造船復活のカギ握る脱炭素戦略」
  • 川崎汽船 有価証券報告書 第157期(2025年3月期)【沿革】
  • 川崎汽船 会社年鑑(1976年版・単独業績)

免責事項およびポリシー