明治製菓戦災を受けた川崎工場でのペニシリン製造の開始と、抗生物質の原末一貫生産体制の構築
菓子屋がなぜ薬をつくるのか——原料を断たれた製菓会社が、手元の発酵技術の向きを変えた
- 概要
- 空襲で主力の川崎工場を焼失し、砂糖も小麦粉も統制下に置かれた1946年、明治製菓は戦時中から研究していたペニシリンの製造を川崎工場で始めた。菓子素材の培養に使ってきた発酵技術を抗生物質へ向け、原末から製剤まで一貫して作る体制へ進んだ。
- 背景
- 戦時統制で乳製品6工場と食品4工場を手放し、乳業部門は明治乳業へ譲渡していた。終戦で台湾・朝鮮の2工場も失い、残る工場は菓子4・食品2と休止1のみ。親会社の明治製糖も外地の全資産を失い、砂糖と小麦粉の統制解除は1952年まで待たねばならなかった。
- 内容
- 抗生物質はカビの産物であり、その製造の主体は発酵技術で菓子や食品と近い。明治製菓はこの理屈のもとで焼け残った設備の用途を替えた。米テキサス大学のフォスター博士から技術公開と種菌の分与を受け、原末を輸入せず菌の培養から一貫して作る道を選んだ。
- 含意
- ペニシリンは、焼け跡の会社を立て直す原資になった。同じ年に製薬を始めた明治製糖が精糖の再開とともにこれを畳んだのに対し、明治製菓は薬品を残し、70社が5〜6社に絞られたあとも抗生物質の首位に立った。
買ってきた技術ではなく、向きを変えた技術
1946年に替えたのは、設備でも資金でもなく用途であった。焼け残った川崎工場の発酵設備はそのまま使い、培養する対象を菓子素材から抗生物質へ移している。砂糖も小麦粉も統制下にあり、菓子の設備を菓子のために動かせない時期であった。抗生物質はカビの産物で、培養と発酵の技術は菓子や食品と地続きにある。そこで明治製菓は、設備を作り替えることなく、技術の向きだけを変えた。
向きを変えただけで残れたわけではない。同じ着想でペニシリンに参入した会社は70社ほどあり、その多くが5〜6社に絞られる過程で消えた。親会社の明治製糖でさえ、砂糖が戻ると製薬を畳んでいる。明治製菓を分けたのは、分与された種菌に頼り続けなかったことである。1953年には自社の種菌と製法で純国産のクロルテトラサイクリンを立ち上げた。参入の着想より、原末を自前で作る側に居続けた年数のほうが効いた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
原料も工場も失った製菓会社
明治製菓は1916年に東京菓子として設立され、翌年に大正製菓を合併して明治製糖系に入り、1924年に社名を明治製菓と改めた。菓子と乳製品で伸びたが、日華事変の長期化で食糧品工業は制約を受ける。1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、1942年から翌年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ現物出資で手放し、1943年9月には乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した[1]。
終戦とともに台湾と朝鮮の2工場も失った。残る工場は菓子部門4、食品部門2、ほかに休止中の1を数えるのみとなり、主力の川崎工場は戦災で焼失していた。親会社の明治製糖も外地にあった全資産を失い、内地の工場も大半が空襲の損害を受けている。砂糖という原料の後ろ盾が消えた一方で、水飴の統制解除は1949年11月、砂糖と小麦粉の統制解除に至っては1952年まで待たねばならなかった[2][3][4]。
菓子と薬をつなぐ発酵技術
明治製菓は戦争末期から川崎工場の一部でペニシリンを研究していた。菓子会社が薬を手がける理由を、同社は事業の系譜ではなく製造技術に求めた。細井徳次郎社長は1965年に「よくわれわれ菓子屋が薬をやるのはおかしいといわれますが、これは関連性があるわけなんです」と述べ、抗生物質はカビから出る物質を利用した薬であり、その製造の主体となるのは発酵技術だと説明した[5]。
同じ年に薬へ向かったのは明治製菓だけではない。親会社の明治製糖は1946年9月に再開転換事業として製薬業の許可を得て転化糖注射薬などを作り、兄弟会社の明治乳業も同年10月に大阪工場へペニシリンの製造設備を新設している。戦前派の大企業は戦災と公職追放に統制が重なって原料が手に入らず、残存設備を使った副業で復興のための資本を蓄えた。味の素は焼け残った乾澱工場でDDTを作り、大日本製糖はパン用イーストを手がけている[6][7][8]。
決断
焼け跡の発酵設備を、菓子素材ではなく抗生物質へ
1946年11月、明治製菓は戦災を受けた川崎工場でペニシリンの製造を始めた。会社銀行八十年史は、これを同社復興の端緒と記している。菓子の原料が統制下で手に入らない時期に、手元に残っていた発酵の技術と設備で作れる高付加価値品へ用途を振り向けた選択であった。統制経済下で菓子と缶詰・壜詰が不振に陥るなか、松前・八日市の2工場と大野製塩場を新設して農水産加工品や塩の製造も始めている[9][10][11]。
独力で立ち上げたわけではない。1946年11月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から、米国技術の全面的な公開、種菌の分与、個別の生産指導を受け、品質の改良とタンク培養による量産化で質・量とも急上昇した。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンは1950年7月に製造販売へこぎつけ、1951年には米メルク社と技術援助契約を結んで収率を高めている[12][13]。
原末から一貫して作るという重い道
明治製菓は、原末を輸入して製剤化するという同業の多くが採った道を選ばなかった。中川赳専務は1970年の講演で、原末を購入して錠剤や注射液にするだけの会社を「製薬会社ではなく、製剤会社である」と呼び、原体を作るにはそれなりの自主技術と多額の設備資金が要ると述べている。そのうえで、一貫生産を乗り切ることでコストが下がり、資本自由化を控えた競争力になると説明した[14]。
輸入技術の消化だけで終わらせなかった。1953年10月には自社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功し、翌1954年2月に販売を始めている。同年10月には制癌剤ザルコマイシンの製造販売にも踏み切った。米国から種菌を分けてもらう側であった会社が、7年で自前の菌と製法を持つ側に回り、薬品部門は抗生物質を主体に急速な発展を示した[15]。
結果
70社が5〜6社に絞られたあと
細井徳次郎社長は1965年、ペニシリンを始めた当時は本来の薬品会社のほか食品会社や醸造会社も含めて70社ほどが手がけたが、脱落が続いて5〜6社程度になったと語っている。明治製菓はペニシリンからストレプトマイシン、カナマイシンへと、菌を培養してその物質を利用する範囲に絞って作り続けた。抗生物質の輸出は薬品の売上の1割以上を占めるまでになっていた[16][17]。
一貫生産は、20年余りを経て他社との差になって現れた。1970年の時点で明治製菓の抗生物質は薬品部門の売上200億円の75%を占め、菌の培養からペニシリンを作り、分解して6APAとし、さらに合成ペニシリンまで作る会社はほかになかった。武田薬品は米ワイスから、藤沢薬品は英ビーチャムから原末を輸入していた。抗生物質12品目を一貫生産する体制が、そのまま参入障壁になっている[18][19]。
副業を畳んだ会社と、畳まなかった会社
日本産業史は、戦災を受けた川崎工場で1946年10月に始めたこのペニシリンが同社復興の支えになった、と書いている。以後、米国からの技術導入、タンク培養による量産化、1950年7月のストレプトマイシン、1954年のザルコマイシンと薬品部門を広げ、明治製菓は抗生物質薬品の大手に育った。戦前派の大企業が始めた副業のなかで、これは本業の規模に近づいた数少ない例であった[20]。
同じ着想から出発した明治製糖は、逆の道を選んでいる。1951年12月に川崎精糖工場、翌1952年10月に戸畑精糖工場を復旧して精製糖業を再開すると、副業だった製薬業は戸畑の復旧を機に廃止した。明治製菓のほうは、菓子の統制が解けてキャラメルもビスケットもチョコレートも戦前最盛時の生産量を抜いたあとも、薬品を畳まなかった。本業が戻ったときに何を残すかで、両社は分かれた[21][22]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「明治製菓」「明治製糖」「明治乳業」の各項
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- 経済時代 1965年12月号(30巻12号)細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「明治製菓」の項
- 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」(中川赳・明治製菓専務取締役)