東京製鐵高炉独占品種だった熱延広幅帯鋼への電炉メーカーとしての量産参入

H形鋼の次をどこに置くか——700億円を投じた薄板進出

時期 1991年10月
意思決定者(推定) 池谷正成 社長
論点 品種構成の拡張と高炉品種への参入
概要
1991年10月、東京製鐵が岡山工場に熱延広幅帯鋼の圧延工場を完成させ、日本の電炉メーカーとして初めてホットコイルの生産を始めた経営判断。1989年に公表し、1992年4月には150トン直流電気炉を備えた製鋼工場が完成して、鉄スクラップから薄板までを一貫させた。
背景
東京製鐵は1984年の「H形鋼戦争」を経て1987年にH形鋼のシェアで新日本製鉄を抜き、1991年末には約30%を握っていた。一方で高炉大手による電炉メーカーの系列化が進み、1991年4月には新日本製鉄系の合同製鉄が船橋製鋼を吸収合併している。H形鋼の次の品種を探す必要があった。
内容
岡山工場に建てた薄板工場は長さ250メートルと高炉の設備に比べて小さく、当初は半製品のスラブを輸入して圧延した。1991年10月から1992年4月にかけての投資額は700億円。ヌーコアが先行させていた薄スラブ連続鋳造の採用は、社内の技術者の意見で見送られた。
含意
ホットコイルは高炉品種の典型で、鉄スクラップから電気炉でつくるのは難しいとされていた。参入直後から鋼材市況は下がり、1993年度から5期続けて経常赤字となって1997年には三重工場の建設が断念された。ホットコイルの生産拠点はその後、田原工場へ引き継がれた。
筆者の見解

品種を増やすことでしか独立を保てない会社

700億円という金額は、当時の東京製鐵の利益水準からすれば一期分の稼ぎに近い。それを借入なしで薄板へ振り向けた判断の背後には、H形鋼で首位に立ったことがそのまま安泰を意味しないという読みがあった。高炉大手が電炉各社を系列に収め終えたとき、独立のまま残るには相手の主力品種へ入っていくしかない——池谷正成氏が5年前から温めていた筋書きは、この点で一貫していたとみられる。薄スラブ連続鋳造を技術者の意見で見送った場面は、その筋書きのなかでは例外的に慎重な選択にあたる。

ただし、参入の時期と市況の谷は重なった。ホットコイルの量産にこぎつけた翌年から赤字が5期続き、用地まで買った三重工場は建てられずに終わっている。品種を広げる投資は、需要が伸びていれば能力の拡張になり、需要が縮めば償却の重みだけが残る。1991年の薄板は、その両方を順に経験したうえで、2009年の田原工場と2024年の低CO2鋼材「ほぼゼロ」まで続く板物の系譜の最初の一本として残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

H形鋼で首位に立ったあとの空白

1984年、東京製鐵は新日本製鉄との間でH形鋼の安値販売競争に入った。世に「H形鋼戦争」と呼ばれた争いで、きっかけは同社が公表を伏せたまま九州に新工場を建て、高炉メーカーが独占していた大形H形鋼の生産を始めたことにあった。この競争で東京製鐵は赤字を出しながら業界での地歩を固め、1987年にはH形鋼の生産で新日本製鉄を抜いてシェア首位に立つ。1991年末には約30%を押さえ、価格を先に示す役どころも同社へ移った[1][2]

首位に立ったことは、次の圧力を呼び込む前触れでもあった。池谷正成社長は1986年ごろ、1990年代の初めには高炉メーカーの傘下に入った電炉各社が、東京製鐵の握るH形鋼市場を集中的に攻めてくると読んでいた。読みは外れなかった。1991年4月、新日本製鉄系の合同製鉄が船橋製鋼を吸収合併し、高炉大手による電炉メーカーの系列化がひとまず終わる。巨大な資金力と技術力を持つ高炉が電炉の領域へ入ってきたとき、手をこまねいていてよいのか——その問いへの答えが薄板であった[3]

700億円を自前で出せる財務

大型投資を支えたのは借入に頼らない財務であった。1993年時点で振り返ると、この10年でキャッシュフローは32億円から277億円に増え、長短借入金は6年間ゼロが続いた。自己資本比率は32%から68%へ上がり、現預金は1990年度から1,000億円を超えている。1991年3月期の経常利益は683億円に達し、売上高経常利益率29%は業界で最も高い水準にあった。品種を増やしながらシェアを広げる元手は、この蓄えから出た[4][5]

意思決定の速さも同社の特徴であった。本社は東京・内幸町の富国生命ビルの1フロアに収まり、人員は社長以下50人前後にとどまっていた。階が分かれれば互いの間に壁ができ、生の情報が得られなくなるという理由でワンフロアを守っている。岡山の薄板工場の建設に専任であたった社員は2人で、工事を請け負った石川島播磨重工業の担当者を驚かせた。700億円の投資を判断し実行する体制としては、かなり小さい[6]

決断

高炉の牙城へ切り込む工場

薄板への進出は1989年に公表された。岡山県倉敷市の岡山工場で建設が進んだ薄板工場は長さ250メートルで、高炉メーカーの同種の設備に比べて格段に小さい。1991年10月に熱延広幅帯鋼の圧延工場が完成してホットコイルの生産が始まり、当面は半製品のスラブを輸入して圧延にかけた。1992年4月に150トン直流電気炉を備えた熱延広幅帯鋼製鋼工場が完成し、鉄スクラップから薄板までを自社の工程でつなぐ体制が整った。1991年10月から1992年4月にかけての投資額は700億円である[7][8][9]

品種の選び方には理由があった。ホットコイルは高炉品種のなかでも典型で、鉄スクラップを電気炉で溶かしてつくるのは難しいとされてきた。スクラップには銅など他の元素が混ざり、薄く延ばす鋼板では表面の割れにつながる。東京製鐵はスクラップに含まれる元素を活かす方向で工程を組み、電炉での量産にこぎつけたと自社の製品説明で述べている。高炉メーカー側の受け止めは分かれ、新日本製鉄の役員は輸入品に代わる等級の薄板だと静観する一方、ある総合商社の役員は高炉が神経を尖らせていると語った[10][11]

技術の選択では、あえて先端を採らなかった場面がある。米国の電炉メーカー、ヌーコアは1989年に電炉として世界で初めて薄板工場を建て、工程を大幅に削る薄スラブ連続鋳造を導入していた。池谷正成社長も同じ技術の採用を検討したが、以前の自分なら即座に採っただろうと述べたうえで、社内の技術者の意見に従って見送ったと明かしている。ヌーコアのケネス・アイバーソン会長が60歳を過ぎてこの決断をしたことを、池谷氏は称賛していた[12]

結果

品種は増えたが、市況は下がった

参入から2年で、東京製鐵の姿は棒鋼中心の会社から遠ざかった。1993年の時点で同社の生産量は400万トンに達し、社員数は1,480人へ減って、1人当たりの生産量は2,700トンと1975年の約5倍になっている。棒鋼からH形鋼、ホットコイルへ品種を足しながらシェアを広げる流れのなかで、岡山工場は敷地47万3,000平方メートル・生産量183万トン(1991年度)と、九州工場102万トン、高松工場78万トンを引き離す主力に育っていた[13][14]

ところが薄板が立ち上がった時期に、建設向けの鋼材市況は下り坂へ入った。H形鋼の市況は1991年末の1トン当たり6万1,500円から1993年10月末には3万8,000円へ落ちる。売上高経常利益率が5年続けて20%を超えていた会社は、1994年3月期に100億円の経常損失を見込む決算へ転じ、1985年11月期以来8期ぶりの赤字となった。赤字はその後も続き、1998年3月期で5期連続となる見込みが立った。池谷正成社長は1997年、1992年に用地まで取得していた三重工場の建設を断念している[15][16]

それでも板物の工程は止めずに増えた。1995年4月に岡山工場の熱延広幅帯鋼酸洗設備が完成して酸洗鋼板の生産が始まり、1997年3月には冷延設備と表面処理設備が加わって冷延鋼板まで届いた。2007年1月には九州工場に厚板設備が完成する。ホットコイルの主力は2009年11月に稼働した愛知県田原市の田原工場へ移り、岡山工場の圧延工場はいったん休止したのち2022年12月に再稼働した。1991年に始めた品種は、20年を隔てて別の工場で受け継がれている[17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年5月13日号「「設備投資が命」と我が道 “暴れん坊”も円熟期」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「東京製鉄、気迫の生産性倍増」
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号「需要を読み誤り積極投資 市況低迷で5期連続の赤字」
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
  • 東京製鐵「ホットコイル」製品情報
  • 東京製鐵「東京製鐵の歴史」(沿革)

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