東京製鐵岡山工場の平炉停止と江戸川工場閉鎖による電炉一貫体制への移行

3期連続赤字の年に220億円を投じるか——平炉を捨て、拠点をどこまで削るか

時期 1977年12月
意思決定者(推定) 池谷正成 社長
論点 主力炉の転換と生産拠点の整理
概要
1977年12月に岡山工場の平炉が操業を止め、1978年1月に江戸川工場が閉鎖され、同年4月に岡山工場へ第1号・第2号の140トン電気炉が入った経営判断。重油でくず鉄を溶かす平炉から電気炉への転換と、首都圏の旧拠点の整理が同時に進んだ。
背景
平炉は窒素酸化物の排出などの公害対策で維持が難しくなり、石油ショック後は熱源としての経済性も電力に逆転された。加えて東京製鐵は1975年11月期から3期続けて経常赤字を計上し、1977年11月期の経常損失は24億円に達していた。電炉業界は1978年7月に構造不況業種の指定を受けた。
内容
池谷正成社長は1976年、岡山工場の全面的なスクラップ・アンド・ビルドを前に「15年先でも最新鋭と呼ばれるような工場を作れ」と担当者へ指示した。1978年4月に完成した電気炉は年産120万トンの粗鋼をくず鉄から生み、小棒工場と中形形鋼の新設を含めた2年間の設備投資額は220億円に達した。
含意
改修前の粗鋼生産能力は重油を燃料とする平炉で年産60万トンであり、能力は一挙に2倍になった。従業員数は1,200人と改修前から増えず、1人当たりの粗鋼生産量は1,000トンと従来の2倍に上がった。赤字決算の年に投じた設備が、1978年11月期の黒字復帰と重なった。
筆者の見解

不況の底で炉を替えるという型

この判断の中身は、平炉を電気炉に替えたことそのものよりも、替える時期の選び方にあったとみられる。公害規制と燃料費の逆転で平炉の寿命が尽きるのは、遅かれ早かれ避けられなかった。ところが東京製鐵は、3期続けて経常赤字を出している最中に220億円を投じ、需要が戻る前に工事を終えている。設備の廃棄を求める構造不況業種の指定と、新規投資を制限する法律に対して不服を申し立てながら、同じ時期に自社の炉を入れ替えていた点に、この会社の判断の順序が表れている。

結果としては、完成の時期が需要の回復と重なり、1978年11月期には経常利益107億円へ戻った。ただし、同じ型を繰り返した1990年代の宇都宮工場と高松工場の更新では、稼働が計画どおりに進まず、池谷正成氏は1998年に「需要の伸びの読みを少しばかり誤ったかもしれない」と述べている。市況の谷で炉を替える手順は、当たれば能力を倍にし、外れれば償却負担だけが残った。1978年の岡山工場は、その振れ幅の片側にあたる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

平炉という設備が抱えた二つの壁

東京製鐵の主力であった岡山工場は、1962年の稼働以来120トン平炉5基を軸に鋼をつくってきた。平炉は大量の重油を燃やしてくず鉄を溶かす設備で、1970年代に入ると窒素酸化物の排出をめぐる規制が重くのしかかった。会長であった池谷太郎氏は後にこの時期を振り返り、公害対策の面で平炉を維持できなくなり、熱源を電気に切り替えたと語っている。技術の選択というより、操業を続けられるかどうかの問題であった[1]

もう一つの壁は費用であった。石油ショックの前後で電力料金は3倍に上がったが、重油は5倍になり、熱源としての順位が入れ替わった。生産性の差はさらに開いていた。100トンの平炉は1日に3回から5回しか出鋼できないのに対し、同じ大きさの電気炉なら14回から15回まわる。5万トンを溶かすのに以前は100トンの平炉が5基必要だったところ、電気炉なら2基で足り、労働力も3分の1で済んだ。池谷太郎氏はこの計算を挙げ、平炉を7基廃棄したと述べている[2]

3期続いた赤字と、構造不況業種の指定

設備を入れ替える時期の業績は良くなかった。1975年11月期に経常損失62億円を計上して以来、1976年11月期が同15億円、1977年11月期が同24億円と、赤字が3期続いた。無借金と合理化で知られた会社が久しぶりに経験した赤字決算であった。それでも経営陣の読みは、景気の低迷はまだ続くとみたうえで、どこにも負けない新鋭工場を建てて不況を乗り切るというもので、需要の回復を待つ側には立たなかった[3][4]

業界側の環境も動いていた。電炉業界は1978年7月に構造不況業種の指定を受け、1980年度末までに設備を大幅に廃棄する枠組みに入る。通商産業省は1977年に小形棒鋼の生産制限カルテルを実施し、翌年には特定不況産業安定臨時措置法を国会に提出して新規の設備投資を制限した。就任からまだ2年の池谷正成社長は、この政策に「自由主義経済に反する」と不服を申し立て、行政訴訟も辞さないと構えている。設備を止めさせる制度と、設備を入れ替える判断とが同じ時期に重なった[5][6]

決断

「15年先でも最新鋭」という設計条件

岡山工場の全面的なスクラップ・アンド・ビルドを前に、池谷正成社長が1976年に担当者へ与えた指示は「15年先でも最新鋭と呼ばれるような工場を作れ」であった。工事は1977年12月の平炉の操業停止から始まり、翌1978年1月には江戸川工場が閉じられた。1978年4月、岡山工場に第1号・第2号の140トン電気炉が完成して操業に入る。同年12月に中形形鋼工場の改造工事が終わり、1979年1月には小形棒鋼工場が完成した[7][8]

投じた金額は当時の同社の規模に対して小さくない。小棒工場と中形形鋼の新設を含めた2年間の設備投資額は220億円に達した。池谷太郎氏は1979年3月の取材で、不況のなかで総額200億円以上の設備投資を実施し、それが前年12月から当年1月にかけて完成して、戻ってきた鉄鋼需要に応じるのに寄与していると述べている。1973年6月の岡山工場連続鋳造設備の分と合わせると、この一連の投資は250億円と数えられている[9][10]

工場のつくり方も特徴的であった。電気炉は日本鋼管、連続鋳造装置は住友重機械工業と神戸製鋼所、電気品は東京芝浦電気、受電所は日立製作所、集じん機は三菱電機と、装置は多くの会社から分散して買われている。尾関秀夫常務はこれを、可能な限りの情報を集めて最新鋭の設備を集大成した工場だと説明した。設計の段階では、過去に作られた電炉工場のうち志に反して能力を出せなかった例を調べ、その理由を追ったと三室博岡山工場次長は語っている[11]

結果

能力2倍、人員据え置き

改修の効果は数字にはっきり出た。改修前の粗鋼生産能力は重油を燃料とする平炉で年産60万トンであったが、1978年4月に完成した電気炉は年産120万トンとなり、能力は一挙に2倍になった。従業員数は1,200人で改修前から増えていない。1人当たりの粗鋼生産量は1,000トンと従来の2倍に上がり、米国の電炉会社の平均である500トンの倍に達した。製鋼から圧延までの製品1トン当たりのエネルギー消費量も、業界で常識とされた重油換算60リットルに対し、岡山工場は約35リットルであった[12][13]

業績も設備の完成と同じ時期に折り返した。3期続いた赤字を抜けて、1978年11月期は売上高867億円・経常利益107億円・当期純利益64億円へ戻り、1979年11月期は売上高1,316億円・経常利益134億円まで伸びた。池谷太郎氏は、投資が完成した時期に鉄鋼需要の回復が重なったと説明している。工程の技術も進み、1979年4月には高知工場でH形の断面をそのまま鋳込むビーム・ブランク鋳込みに成功して、後のH形鋼向け連続鋳造の下地ができた[14][15][16]

この電炉工場は次の判断の土台にもなった。同じ140トン級の炉を扱う経験は、1984年7月の九州工場大形工場での大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産、1989年8月の九州工場130トン直流電気炉へ引き継がれる。岡山工場そのものも、1991年10月に熱延広幅帯鋼の圧延工場が加わって薄板の拠点へ姿を変えた。1978年に据えられた電気炉は、平炉の置き換えであると同時に、高炉メーカーの品種へ入っていく足場でもあった[17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1979年3月12日号「10年先の市場をみた設備投資で飛翔」
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「生産性、熱効率、公害防止 15年先の“最新鋭”目標」
  • 日経ビジネス 1991年5月13日号「「設備投資が命」と我が道 “暴れん坊”も円熟期」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「東京製鉄、気迫の生産性倍増」
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号「需要を読み誤り積極投資 市況低迷で5期連続の赤字」
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑(日本経済新聞社)掲載の東京製鐵 単独業績

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