「特化作戦」による多角化からの絞り込みと品質重視への転換
綿紡大手で最も早く赤字に沈んだ日東紡績は、量ではなく何で生き残ろうとしたか
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- 概要
- 1965年に綿紡大手のなかで最も早く赤字へ転落した日東紡績が、量を追わず質を求める「特化作戦」を掲げ、事業の的を絞って品質重視へ転換した構造改革。乱立していた多角化事業を絞り込み、1970年代後半に収益力を回復させ、日経ビジネスに「特化作戦開花」と評された。
- 背景
- 1965年、日東紡績は綿紡の合理化の遅れ、主力のスフ部門の過大、合繊進出の失敗などから、年間300億円強の売上に対し36億円強の大幅赤字を出して無配に転落した。綿紡会社のなかで一番早く「転んだ」経験が、その後の経営の出発点になった。
- 内容
- 長島武夫社長はコスト中心主義から品質重視経営への転換を掲げ、商品の的を絞って近代化する「特化作戦」を進めた。合繊系や合成皮革を手放し、綿紡績は高級糸コーマー糸へ照準を合わせ、工場の売却と新設を組み合わせるスクラップ・アンド・ビルドで設備を切り替えた。
- 含意
- 早く赤字に沈んだことが、かえって早い立ち直りにつながったという逆説を、長島社長は生き残り経営の要とみていた。好況時の大きな利益より、不況時に赤字を出さない不況抵抗力を優先する発想で、量から質への絞り込みは、のちのガラス繊維専業化にもつながる事業選別の原型になったとみることができる。
早く転ぶことを、経営の資産に変える
この判断の核心は、業界で最も早く赤字に沈んだ痛手を、量から質への転換によって経営の資産に変えた点にある。長島武夫社長は、好況の利益より不況に耐える体質を優先し、コスト中心主義を品質重視へ、多角化の広がりを特化へと絞り込んだ。工場の売却と新設を組み合わせ、人員も抑えながら、質で戦える品目へ資源を集める——派手さのない、地道な入れ替えの積み重ねが、収益力の回復を支えたとみることができる。
量を追わず質を求めるこの発想は、日東紡績のその後にも通じている。1965年の赤字を機に始まった事業選別は、非繊維部門を育て、やがて綿紡績そのものを手放してガラス繊維へ絞る1990年代の構造改革へとつながっていく。何を捨て、どこへ絞るかを問い続ける経営の型が、この特化作戦のなかで形づくられたといえる。早く転んだ経験を、繰り返し立ち直るための知恵に変えられるかどうかが、素材メーカーとしての同社の課題であり続けた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
綿紡大手で最も早く「転んだ」1965年
日東紡績の経営を方向づけたのは、1965年の大幅赤字であった。昭和40年、綿紡の合理化が不徹底だったこと、主力のスフ部門が過大で市況の変化に対応できなかったこと、さらに合繊進出に失敗したことなどが重なり、年間300億円強の売上のなかで36億円強という大幅な赤字を出し、一気に無配へ転落した。当時の不況で赤字に沈んだ綿紡会社は同社だけで、業界のなかで最も早くつまずいた[1]。
早くつまずいたという事実を、長島武夫社長はむしろ経営の教訓として引き受けた。綿紡会社のなかで一番早く転んでしまったと語る一方で、その痛手が同社を早く立て直しへ向かわせた。好況の波に乗って利益を大きくすることよりも、不況のときに赤字を出さない会社にしたい——長島社長の目指す姿は、規模の拡大ではなく、不況に耐える体質の獲得にあった[2]。
コスト中心主義から品質重視経営へ
赤字からの立て直しにあたって、長島社長が掲げた方針は明快であった。一言で言えば、コスト中心主義から品質重視経営への転換である。量を安く大量に作って売る発想を改め、質の高い製品に的を絞る。安価な製品で数量を競う道が行き詰まったという認識のもとで、価格ではなく品質で勝負できる領域へ経営の比重を移すことが、再建の柱に据えられた[3]。
この品質重視は、単なる掛け声ではなく、設備投資の考え方にも表れた。長島社長は、量を追うのはやめた一方で、品質改善のためなら押さえていた設備投資も惜しまず進めた、と述べている。数量拡大につながる投資は抑え、質を高める投資には資金を振り向ける——投資の向きを量から質へ切り替えたことが、後の絞り込みを支える土台になった[4]。
決断
「特化作戦」──商品の的を絞る
品質重視の方針を事業構成に落とし込んだのが「特化作戦」であった。あれこれ手を広げるのではなく、商品の的を絞って近代化を進める。繊維部門では、それまで手がけていた合繊系や合成皮革を手放し、綿紡績については高級糸であるコーマー糸へ照準を合わせた。多角化のなかで薄く広がっていた事業を、質で戦える品目へ集中させることが、絞り込みの基本にあった[5]。
絞り込みは、多角化で乱立した事業ポートフォリオの整理と表裏をなしていた。日東紡績は1923年の創業以来、紡績本業から派生した繊維・化学繊維・ガラス繊維・建材・不動産という複数の領域を抱える総合素材メーカーになっていた。1965年の赤字は、この広がりすぎた事業構成が市況の変化に耐えられなかったことの表れでもあった。特化作戦は、その広がりを質の基準で選び直す作業であった[6]。
スクラップ・アンド・ビルドの実務
特化作戦は、工場の売却と新設を組み合わせるスクラップ・アンド・ビルドとして実行された。1967年に中央紡績・新洋紡績を売却し、1970年代には海南工場を売却してその資金で和歌山工場を建て、1975年には泊第2工場を新設するといった具合に、設備を逐次切り替えていった。不採算の拠点を手放して得た資金を、質を高める新設備へ回す。この入れ替えの積み重ねが、事業の的を絞る作戦の実務を担った[7]。
設備の入れ替えは、人員の面でも身軽さをもたらした。従業員数は1974年4月期末の約7949人から、1979年4月期末には約5949人へと、5年で2000人ほど、率にして約25%減った。量を追わない方針のもとで、規模を抑えながら質の高い品目に集中する体制へと、会社の姿を組み替えていった[8]。
結果
非繊維の伸びと、収益力の回復
特化作戦の成果は、事業構成の変化と収益力の回復に表れた。1965年当時は売上の17%にすぎなかった建材・ガラス繊維の非繊維部門が、1979年4月期には37.5%まで伸びた。これは単なる多角化ではなく、全社的な特化経営の結実とみなされた。1979年4月期の経常利益は58億円に達し、日清紡・東洋紡に次ぐ綿紡大手3位の収益力を示した。早く転んだことが早い立ち直りにつながったという逆説を、数字が裏づけた[9][10]。
収益力を取り戻した一方で、財務の余裕はなお乏しかった。1979年4月期の自己資本比率は12.8%で、綿紡大手10社のなかでも低い部類にとどまった。量を追わずに質へ絞る作戦は、赤字を出さない体質を作ったものの、厚い自己資本を積み上げるには至らなかった。不況抵抗力を優先する経営が、収益の回復と財務の慎重さの両方に表れていた[11]。
- 日経ビジネス 1979年8月27日号「日東紡績。量追わず質求めた『特化作戦』開花」
- 日東紡績 有価証券報告書【沿革】
- 日東紡績 会社年鑑(連結業績)