東洋紡 の歴史

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1882年、渋沢栄一が大阪紡績会社を設立。三重紡績との合併、呉羽紡績の吸収とナイロン参入、フィルム・バイオへの多角化、UL規格の認証不正までの沿革と経緯を執筆。

創業

1882年

創業者

渋沢栄一

創業地

大阪府大阪市

直近売上高(2026/3)

4,216億円

東洋紡:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期
Q なぜ1882年に官営紡績の7倍もの規模で大阪紡績会社を興せたのか
A 1882年に官営紡績の7倍にあたる1万5000錘を据えられたのは、渋沢栄一が前田家・毛利家ら旧大名家の余剰資本を株式に集め、官営にない巨額の初期投資をまかなえたためである。出資者の38%を旧大名家の華族層が占めた。蒸気機関を動力源とする24時間連続操業で稼働率と生産性の両面で官営を上回り、職工数は1883年の293名から1909年に1万950名へ膨らんだ。民間紡績が商業として成り立つことを実証した。
Q なぜ1968年に採算割れの犬山工場を閉じずパルプからフィルムへ全面転換したのか
A ICI提携見送りで合繊参入が8年遅れた劣後を抱えていたためである。1968年3月、犬山工場のパルプ稼働率は採算ラインの日産300トンに対し実績45トンから80トンまで落ち込んでいた。工場を閉じれば立地と技術が散逸する。立地と設備ごと事業を入れ替えるやり方で延伸技術を積み上げ、1971年に二軸延伸ポリエステルフィルムの生産を立ち上げた。この延伸技術が、後に液晶向け偏光子保護フィルムの世界シェア6割を生んだ
Q なぜ2022年に創業140年目で繊維事業を本体から分離したのか
A 繊維事業が長く稼ぐ柱でなくなり、機能素材メーカーへの転換が事業実態として進んでいたためである。2012年の商号変更で『紡績』の二字は既に消えていた。2022年4月、東洋紡は本体で担ってきた繊維事業を会社分割で新設子会社へ移管した。1882年の大阪紡績以来およそ140年にわたって本体の中核を占めてきた繊維事業を分離し、紡績会社から機能素材メーカーへの長い転換を制度面で完成させた

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1882年〜 近代紡績の開拓から東洋紡績の誕生と合成繊維時代の苦渋

東洋紡の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1882年 大阪紡績会社を設立
  2. 1886年 三重紡績会社を設立
  3. 1914年 東洋紡績を設立
  4. 1927年 レーヨンの生産開始
  5. 1931年 大阪合同紡績を合併
  6. 1934年 レーヨンの増産投資
  7. 1937年 岩国工場でレーヨン生産開始

民間資本の紡績が官営をも凌駕した黎明

1882年5月、渋沢栄一を中心とする華族資本と民間企業家の連携のもと[1]、大阪府大阪市に大阪紡績会社が設立された[2]。出資者の38%を前田家・毛利家・徳川家・伊達家などの旧大名家の華族層が占め、設立時の紡績機械は1万5000錘と当時の官営紡績の7倍を超える規模だった。1883年7月には三軒家本社工場が稼働を開始し、蒸気機関を動力源とする24時間連続操業という当時として画期的な生産方式を採用したことで、生産性と稼働率の両面で他社を上回る経営効率を達成した。稼働4年目の職工数は1073名[3]、25年後には1万950名に達し[4]、民間資本による紡績が商業的に成立しうることを実証する事例となった。

  • 東洋紡百年史
    • [1]大阪紡績会社は渋沢栄一を中心とする華族資本と民間企業家の連携のもとで設立された
    • [2]1882年5月に大阪府大阪市で大阪紡績会社が設立された
    • [3]大阪紡績会社の稼働4年目(1886年)の職工数は1073名だった
    • [4]大阪紡績会社の職工数は後年1万950名(1909年)に達した

1886年には渋沢栄一の助言のもと、三重県四日市に1万錘規模の三重紡績会社が設立され[5]、大阪紡績と三重紡績の両社は渋沢を介した資本人脈と経営思想の共通基盤を通じて密接な関係を保ちつつ同時並行で成長を続けた。1914年6月、両社が対等合併する形で東洋紡績株式会社が発足し[6]、据付錘数は44万錘、綿糸生産量は2万8000梱となり、いずれの経営指標でも国内首位を獲得して業界2位の鐘淵紡績を上回る寡占的地位を築いた。発足時の資本金は1425万円(払込み1300万9000円)で[7]、綿糸紡績および綿織布のわが国最大の専業会社[8]として歩み出した。明治後期から大正期にかけての日本資本主義の発展局面において、東洋紡績は綿糸を中心とする戦前日本の繊維産業を代表する存在として地位を築き、生産設備と販売網と人材の蓄積を成長基盤として積み上げた。

  • 東洋紡百年史
    • [5]1886年に三重県四日市で三重紡績会社が設立された
    • [6]1914年6月に大阪紡績と三重紡績が対等合併して東洋紡績株式会社が発足した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1914年の東洋紡績発足時の資本金は1425万円(払込み1300万9000円)だった
    • [8]発足時の東洋紡績は綿糸紡績および綿織布のわが国最大の専業会社だった
  • 東洋紡百年史
    • [1]大阪紡績会社は渋沢栄一を中心とする華族資本と民間企業家の連携のもとで設立された
    • [2]1882年5月に大阪府大阪市で大阪紡績会社が設立された
    • [3]大阪紡績会社の稼働4年目(1886年)の職工数は1073名だった
    • [4]大阪紡績会社の職工数は後年1万950名(1909年)に達した
    • [5]1886年に三重県四日市で三重紡績会社が設立された
    • [6]1914年6月に大阪紡績と三重紡績が対等合併して東洋紡績株式会社が発足した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1914年の東洋紡績発足時の資本金は1425万円(払込み1300万9000円)だった
    • [8]発足時の東洋紡績は綿糸紡績および綿織布のわが国最大の専業会社だった

15社を束ねた戦前最盛期と朝鮮ブームに沸いた絶頂

大正8年以降、東洋紡績は綿糸紡績の単一専業から多角化へ転じ、絹糸・人絹・スフ・タイヤコード・メリヤス・レース・カタン[9]糸・羊毛・ゴム・重布・パルプといった諸工業へ直営または関係会社で進出した。事業拡張は外延的な合併によっても進み、合併した会社数は最終的に15社に及んだ[10]。大正12年の伊勢紡績を皮切りに、大正15年に名古屋絹紡、昭和6年に大阪合同紡績[11]、昭和9年に昭和レーヨン、昭和11年に和泉紡績、昭和16年に琴浦紡績・伊丹製織所・三重製繊所・吉見紡績・和泉織物・内外紡績、昭和17年に東洋毛糸紡績・東洋毛織工業・日本毛糸紡績・福島人造絹糸を相次いで束ね、戦前最盛期には工場数66、綿紡機195万錘を擁し[12]、外地における関係会社も100社に及ぶ世界最大規模の繊維会社へと膨張した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]大正8年以降、東洋紡績は絹糸・人絹・スフ・タイヤコード・メリヤス・レース・カタン糸・羊毛・ゴム・重布・パルプなどの諸工業へ進出し多角経営を進めた
    • [10]東洋紡績が合併した会社数は最終的に15社に及んだ
    • [11]大正12年伊勢紡績を皮切りに名古屋絹紡・大阪合同紡績・昭和レーヨン・和泉紡績ほか計15社を昭和17年までに合併した
    • [12]戦前最盛期には工場数66・綿紡機195万錘・外地関係会社100社を擁し世界最大規模の繊維会社となった

戦後、破壊された経済のなかで最も早く立ち直ったのは綿紡業界であり、東洋紡績もいち早く再建に着手した。1949年には東洋染色を合併し、1951年末に東洋紡ニューヨークを開設[13]、1952年には浜松に新鋭綿紡工場を新設して操業を開始し、1955年には東洋紡ブラジルを設立して米州への販売・生産拠点を広げた。綿紡のトップ企業として朝鮮戦争のブームに乗った同社は、1951年4月期に資本金14億円余で売上高345億円・計上利益61[14]億円を計上し、4割8分という高率配当を実施した。これはわが国全企業中で最高の業績であり[15]、戦前に鐘淵紡績から奪った業界横綱の座を戦後も保っていたことを数字の上で示すものだった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]1949年に東洋染色を合併、1951年末に東洋紡ニューヨークを開設、1952年に浜松へ新鋭綿紡工場を新設、1955年に東洋紡ブラジルを設立した
    • [14]1951年4月期に資本金14億円余で売上高345億円・計上利益61億円を計上し4割8分の高率配当を実施した
    • [15]1951年4月期の業績はわが国全企業中で最高だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]大正8年以降、東洋紡績は絹糸・人絹・スフ・タイヤコード・メリヤス・レース・カタン糸・羊毛・ゴム・重布・パルプなどの諸工業へ進出し多角経営を進めた
    • [10]東洋紡績が合併した会社数は最終的に15社に及んだ
    • [11]大正12年伊勢紡績を皮切りに名古屋絹紡・大阪合同紡績・昭和レーヨン・和泉紡績ほか計15社を昭和17年までに合併した
    • [12]戦前最盛期には工場数66・綿紡機195万錘・外地関係会社100社を擁し世界最大規模の繊維会社となった
    • [13]1949年に東洋染色を合併、1951年末に東洋紡ニューヨークを開設、1952年に浜松へ新鋭綿紡工場を新設、1955年に東洋紡ブラジルを設立した
    • [14]1951年4月期に資本金14億円余で売上高345億円・計上利益61億円を計上し4割8分の高率配当を実施した
    • [15]1951年4月期の業績はわが国全企業中で最高だった

ICI提携を見送って生んだ8年の出遅れ

1950年代前半、世界の繊維業界は綿・毛・絹などの天然繊維中心の市場構造から合成繊維時代への転換期を迎え、日本の紡績各社にも欧米からの技術提携を通じて新領域へ参入する好機が相次いで到来していた。1954年、東洋紡には英国のインペリアル・ケミカル・インダストリーズからポリエステル繊維の技術提携が正式に打診されたが、同社経営陣は検討を重ねた末に最終的に見送る判断を下した。原料となるテレフタル酸の製造には化学プラント建設の設備投資が不可欠であり、かつポリエステル繊維製品の衣料用途としての市場性にも十分な確証が得られていなかったため、プラント建設を伴う設備投資の判断を下すのに必要な経営上の確信を持てなかったというのが主な理由だった。

続いて1956年、東洋紡は米国のアメリカン・シアナミド・カンパニーとの技術援助契約を結んでアクリル繊維の分野へ真っ向から参入し、以後しばらくはアクリルに経営資源を集中する方針のもとで不確実性の高いポリエステルへの並行投資を回避する選択を続けた。この判断の帰結として、ポリエステル領域では同じICIと提携した帝人と東洋レーヨンが先行者利益を獲得し、東洋紡の参入は1964年と8年近い出遅れとなった。1961年の業界評では戦前に鐘紡から業界横綱の座を奪った東洋紡が、戦後は東洋レーヨンの台頭の前で相撲の『小結程度の存在』まで地盤沈下したと評され、合繊転換の遅れが産業ヒエラルキーの再編と直結した構造が浮き彫りになった[16]

  • ダイヤモンド臨時増刊 1961年9月10日号
    • [16]1961年の業界評で東洋紡は戦前に鐘紡から業界首位を奪ったが戦後は東洋レーヨンに抜かれ小結程度の存在まで後退したと位置づけられた

ポリエステルは以後、衣料用途で世界最大の合成繊維に成長する戦略素材となり、先行した両社が設備投資と販売網の両面で優位を築いたため、東洋紡の合成繊維分野での競争力は長期にわたって深い制約を負った。戦前に鐘紡との横綱交代を達成した同社が戦後はその勝者の座を東洋レーヨンに譲る側へ回る展開は、繊維産業で1世代ごとに業界序列が入れ替わる力学を示した事例となった。設備投資の開始時点で8年の先行を許した差は、量産工程の習熟度・顧客接点・原料調達ルートの三方面に波及し、単なる時間差では説明できない構造的な劣後として後工程に残った。1966年の呉羽紡績との合併も[17]、同社はこの積年の出遅れを挽回する手段として構想しており、続く時代区分で描かれる合併劇の実利はここで背景を得た。

  • 東洋紡百年史
    • [17]1966年に東洋紡は呉羽紡績と合併した
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961年9月10日号
    • [16]1961年の業界評で東洋紡は戦前に鐘紡から業界首位を奪ったが戦後は東洋レーヨンに抜かれ小結程度の存在まで後退したと位置づけられた
  • 東洋紡百年史
    • [17]1966年に東洋紡は呉羽紡績と合併した

1956年〜 合成繊維時代の出遅れを背負った繊維不況と非繊維事業への転換模索

東洋紡の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1956年 アクリル繊維に参入
  2. 1963年 プロピレンフィルムの生産開始
  3. 1966年 呉羽紡績の吸収合併とナイロン事業への進出 複合繊維時代にどう備えるか——8年出遅れた東洋紡はなぜ呉羽紡績を選んだか
  4. 1968年 1968年 犬山工場フィルム転換 ― パルプからフィルムへの事業モデル転換 採算割れの工場を畳むか、それとも作り替えるか――犬山工場をめぐる用途転換の決断
  5. 1982年 創業100年を機に非繊維事業への多角化を急ピッチで推進 繊維の停滞にどう向き合うか——呉羽紡績出身の宇野収社長が掲げた「85年ビジョン」「90年ビジョン」
  6. 1984年 国内3工場の閉鎖
  7. 1985年 医薬品事業に参入

2013年〜 機能素材メーカーへの収斂と繊維事業の制度的分離

東洋紡の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2013年 保護フィルム「コスモシャインSRF」を開発
  2. 2016年 海外繊維事業を縮小
  3. 2018年 防弾ベスト向け繊維の訴訟和解
  4. 2020年 2021-2022年 品質不正(UL規格不正・4度の隠蔽) 電子部品向け樹脂で10年に及んだ認証不正を、東洋紡はなぜ4度も見過ごしたのか——品質保証本部の新設と経営体制の刷新は何を変えたか
  5. 2022年 繊維事業を分割
  6. 2023年 フィルム製品で大幅減益

東洋紡の沿革1882〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
大阪紡績会社を設立
三重紡績会社を設立
東洋紡績を設立★★
レーヨンの生産開始
大阪合同紡績を合併
レーヨンの増産投資
岩国工場でレーヨン生産開始★★
阿部孝次郎犬山工場でバイオ事業の萌芽
阿部孝次郎東京証券取引所に株式上場
阿部孝次郎アクリル繊維に参入
谷口豊三郎谷口豊三郎氏が社長就任
谷口豊三郎プロピレンフィルムの生産開始★★
谷口豊三郎ポリエステルの生産開始
河崎邦夫呉羽紡績の吸収合併とナイロン事業への進出複合繊維時代にどう備えるか——8年出遅れた東洋紡はなぜ呉羽紡績を選んだか 詳細を読む★★★
河崎邦夫1968年 犬山工場フィルム転換 ― パルプからフィルムへの事業モデル転換採算割れの工場を畳むか、それとも作り替えるか――犬山工場をめぐる用途転換の決断 詳細を読む★★★
河崎邦夫経営の多角化
宇野收宇野収氏が社長就任
宇野收敦賀バイオ工場を新設
宇野收中空糸型逆浸透膜「ホロセップ」生産開始
宇野收創業100年を機に非繊維事業への多角化を急ピッチで推進繊維の停滞にどう向き合うか——呉羽紡績出身の宇野収社長が掲げた「85年ビジョン」「90年ビジョン」 詳細を読む★★★
茶谷周次郎人工腎臓用中空糸膜を量産開始
茶谷周次郎国内3工場の閉鎖★★
瀧澤三郎医薬品事業に参入★★
瀧澤三郎超高強力ポリエチレン繊維「ダイニーマ」量産開始
柴田稔赤穂工場・忠岡工場を閉鎖
柴田稔高強度・高耐熱繊維「ザイロン」量産開始
津村準二伊勢工場・大町工場を閉鎖
津村準二羊毛事業で減産
津村準二小松島工場・渕崎工場・宮城工場を閉鎖
坂元龍三御幸HDを買収(御幸毛織)
坂元龍三商号を東洋紡に変更
坂元龍三保護フィルム「コスモシャインSRF」を開発
楢原誠慈海外繊維事業を縮小
楢原誠慈防弾ベスト向け繊維の訴訟和解★★
楢原誠慈2021-2022年 品質不正(UL規格不正・4度の隠蔽)電子部品向け樹脂で10年に及んだ認証不正を、東洋紡はなぜ4度も見過ごしたのか——品質保証本部の新設と経営体制の刷新は何を変えたか 詳細を読む★★★
竹内郁夫繊維事業を分割
竹内郁夫フィルム製品で大幅減益★★
竹内郁夫つるがフィルム工場で増産決定
出典・参考
  • 東洋紡百年史
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961年9月10日号

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