1886 年7月

三重紡績会社を設立

歴史的意義
経営再建から30年後の合併へ至る渋沢栄一の関与設計

三重紡績会社の設立は、経営難に陥った地方紡績所の再建という実務的な課題から始まった。だが渋沢栄一は単なる資金援助ではなく、大阪紡績と同水準の大規模工場新設を条件とした。ここには紡績業における規模の経済を個別企業の再建にも適用するという一貫した思想がある。さらに渋沢氏は三重紡績の相談役として経営に関与し続け、結果的に大阪紡績との合併を可能にする関係基盤を30年にわたって維持した。再建支援が事業統合の布石として機能した構造は興味深い。

背景

伊藤伝七が開業した三重紡績所の経営難と資金不足

三重県四日市市の資産家であった伊藤伝七氏は、明治3年頃に洋式紡績に着目し、事業化のために三重紡績所を設立した。ところが設備投資が過大であったことに加え、製品の品質不良や水力動力に依存した立地の制約が重なり、三重紡績所は開業直後から経営が低迷した。紡績業の将来性を見込んだ参入であったが、小規模かつ資金不足の状態では事業として安定させることが難しく、経営再建のための外部支援が不可避となっていた。

明治16年、伊藤伝七氏は経営の打開を求めて渋沢栄一氏に接触した。渋沢氏はすでに大阪紡績会社を設立して民間紡績の大規模化を推進しており、紡績事業における規模の重要性を実証していた。伊藤氏にとって渋沢氏は、事業構想と資金調達の両面で最も頼るべき人物であった。

決断

渋沢栄一の助言を受けた大規模工場の新設と新会社の設立

渋沢栄一氏は伊藤伝七氏に対して、1万錘規模の大規模工場の新設を提案した。旧三重紡績所の設備を補修する延長線上ではなく、大阪紡績をモデルとした本格的な紡績工場を四日市に建設する方針が示された。この提案を受けて明治17年、伊藤氏は旧紡績所とは別に新会社「三重紡績会社」を設立した。

三重紡績会社は大阪紡績を模範として設立された経緯から、大阪紡績と近しい関係を保った。渋沢栄一氏は三重紡績の相談役を歴任し、両社の経営に継続的に関与した。この渋沢氏を介した関係は、1914年に大阪紡績と三重紡績が合併して東洋紡績が発足する布石となった。