結果

ダイキンの長期業績

1950年〜2024年
売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
43,953億円
売上高:2024/3
売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
5.9%
利益率:2024/3
CF

キャッシュフローの長期推移

連結優先
営業CF
単位:億円
投資CF
単位:億円
財務CF
単位:億円
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
1924
10月

合資会社大阪金属工業所を設立

大阪砲兵工廠の元工場長が起業

1924年に合資会社大阪金属工業所(現在のダイキン)が設立を設立。創業者は山田晃氏(当時40歳)であり、大阪砲兵工廠の工場長を歴任した人物であったが、官僚的な組織に嫌気がさして民間企業の創業を決意したという。

創業地は大阪市内(難波新川3丁目)であり、魔法瓶の工場跡地を取得。従業員数は15名以下であり、中小企業としてスタートした。創業時は飛行機用ラジエーターチューブの製造を開始。翌1925年には満洲向けの瞬発信管30万発の受注に成功し、主に金属製品の下請け加工に従事した。

砲弾を中心とした軍需品を製造

創業時は航空機部品の製造を志向したが、日本政府が戦時体制を敷くにつれて軍需品の生産を強化。創業者の山田氏が大阪砲兵工廠の出身であり、工廠時代の元上司から軍需品の生産を依頼されたことで、軍需生産を強化した。

1931年には圧搾加工品を海軍に納入し、指定工場となった。創業間もないベンチャー企業が指定工場の認定を受けるのは異例のことで、技術力が認められる形となった。

1933年には陸軍指定工場となり、薬莢・信管を陸軍に納入。このため、戦前を通じてダイキンは「砲弾を中心とした軍需品を陸軍・海軍に納入する」ビジネスを展開し、関西で有力な軍需ベンチャー企業として業容を拡大した。

1924年
10月
合資会社大阪金属工業所を設立
1925年
満洲向け瞬発信管を受注
受注量 30 万発
1931年
10月
海軍省指定工場
1932年
11月
売上の軍需比率が向上
軍需品比率 74.5 %
1933年
4月
陸軍省指定工場
1934
2月

大阪金属工業株式会社を設立。住友と資本提携

住友財閥と資本提携。経営の近代化へ

1933年の時点でダイキンは、人事労務の面で課題を抱えていた。社員が競合企業を立ち上げて、ダイキンの技術者・技術を引き抜き、顧客も奪還されることに悩まされていた。

そこで、ダイキンは組織体制を近代化するために、住友財閥の住友伸銅所との資本提携を締結することを決めた。当時のダイキンの企業規模に対して、住友財閥は比較できないほどの大企業であり、異例の資本提携となった。

ダイキンは住友から銅やアルミといった材料を仕入れており、両社ともに大阪に拠点を置いていたという縁があった。住友財閥としてダイキンの高い技術力に期待した。

ただし、資本政策において、ダイキン側は経営の支配権を譲らない姿勢をとり、住友財閥に条件提示した。具体的には、①株式の保有比率は、創業者の山田晃氏の持分に対して、住友財閥の持分が超過しないこと、②住友財閥は取締役の過半数をダイキンに派遣しないこと、③住友財閥はダイキンの経営方針に関与しないことを条件として提示している。

住友財閥はこの条件を承諾し、ダイキンは住友財閥との資本提携による株式会社設立を行った。

軍需企業として業容を拡大

1933年時点のダイキンは従業員数約300名であったのに対して、1941年の時点で10,000名を突破。約7年間で30倍に急拡大を遂げた。

背景としては、軍需品に対するニーズが高まったことや、資金調達によって大規模な設備投資が可能になったことが挙げられる。1930年代後半は日本で海軍と陸軍が軍備拡張を図った時代であり、ダイキンは時代の波に乗る形となった。

すなわち、戦前にダイキンが中小企業から大企業へと発展する上で、住友財閥との資本提携は重要な決定事項であったといえる。

1937年
2月
堺工場を新設(冷凍機製造)
1941年
2月
淀川工場を新設(フロン)
1945年
8月
敗戦により全工場の操業停止
1935
12月

フロンの開発に成功

冷媒開発に成功・化学に参入

1933年にダイキンの技術顧問であった太田十男氏(退役海軍少将)は、米海軍において潜水艦に「フレオンガス(空調設備に必要なフロン)」が採用されたという新聞記事に着眼し、ダイキンに対してフロンの研究を依頼。ダイキンは、海軍からの依頼を受ける形でフロン式冷凍機の研究を開始した。この結果、1935年末にダイキンは国内初となるフロン生産に成功し、空調領域に新規参入した。

1936年には南海電鉄に向けて電車用冷房「ミフジレータ」を納入し、1938年には海軍の潜水艦向けに空調設備を納入。空調メーカーとして日本最先発となるとともに、空調機期と冷媒(フロンガス)の両方を生産する、金属加工業と化学プラントの両方を兼ね備える、世界的に見ても稀有な企業となった。

量産体制を確立

戦前におけるフロンは、潜水艦向けに納入された。1941年に淀川製作所においてフロンの生産を開始したが、当初は量産に苦戦。その後、1943年に年産30万トンの体制を確立するに至った。

1933年
11月
フロン(冷凍機)の研究開発を開始
1935年
フロンの生産に成功(国内初)
1936年
7月
鉄道向け冷房を納入
1938年
7月
潜水艦向け空調設備を導入
1941年
淀川製作所内に化学工場を新設
1943年
フロンの量産を開始
フロン年産 30 万トン
1945年8月
敗戦により生産縮小・1.6万名を解雇

戦時中のダイキンは軍需企業として発展して従業員数1.6万名の大企業となったが、1945年の終戦により軍需を喪失。従業員245名を残し、ほぼ全員にあたる1.6万名を解雇した。

その後、1946年から1948年にかけて、GHQ向けの納入や民需転換を志向して従業員数1100名程度まで規模を拡大するものの、も事業を軌道に乗せることができずに苦戦。1948年から1950年までに180〜250名規模の整理解雇を3回実施して企業の存続を図った。

1950年時点におけるダイキンの従業員数438名の体制であり、大規模な軍需メーカーとしての経営は行き詰まった。

1945年
11月
整理解雇を実施
解雇人数 1.6 万名
1946年
民需転換により採用を再開(従業員1000名規模)
1948年
11月
第1次整理解雇を実施
解雇人数 187
1949年
6月
第2次整理解雇を実施
解雇人数 187
1949年
5月
大阪証券取引所に株式上場
1950年
第3次整理解雇を実施
解雇人数 250
1952
5月

迫撃砲弾199万発を米軍から受注

砲弾特需で業容拡大

1950年に勃発した朝鮮戦争を受けて、1951年に米軍は日本企業に対する砲弾の発注を決定。1952年5月頃にダイキンは「81ミリ迫撃砲弾・62万発」を合計22億円で受注する意向を表明した。

しかし、ダイキンは砲弾製造のための設備投資の資金として3億円が必要であったが、大阪銀行から5000万円の融資を確保したが、ダイキンは経営難(無配転落)に陥っていたため他の銀行からの資金調達は困難を極めた。このため、ダイキンは米軍調達本部に対して砲弾受注の半減(31万発)を依頼し、ダイキンとコマツの2社による折半受注に変更した。

住友金属工業との資本提携で調達

ダイキンは借入調達を諦めて、住友金属工業との資本提携を決定。終戦の財閥解体により提携関係は途絶えていたが、改めて提携を復活することを決断した。3倍増資により約9000万円の資金調達を実施するとともに、提携後に住友銀行から2億円の借入を実施。合計3億円を確保し、砲弾製造のための設備投資の資金を捻出した。この資本提携によってダイキン創業家(山田家)の持分は希薄化し、のちに同族経営の路線と決別することにつながった。

1952年から1956年にかけて、ダイキンは砲弾の追加受注にも成功。1956年7月までに累計約199万発を受注し、累計受注額は約68億円に及んだ。このため、1950年代前半のダイキンは砲弾受注によって業容を拡大した。

冷凍機・フロンに注力へ

1956年頃を境にして砲弾受注が一巡。それまで砲弾特需によって支えられたダイキンの売上は低迷に至った。そこでダイキンは「冷凍機・フロン」の生産に注力することで、砲弾から民需への業態転換を志向した。

すなわち、ダイキンとしては砲弾によって得た収益で、成長市場であった「冷凍機・フロン」に注力し事業転換を試みた。この転換により、ダイキンは空調メーカーとして認知されるに至った。

1952年
5月
コマツとダイキンが砲弾の折半受注を表明
迫撃砲弾の受注予定量 62 万発
1952年
8月
住友金属工業と資本提携
増資による調達額 0.9 億円
1954年
11月
冷凍機にダイキンの商標を使用
1956年
7月
米軍向け砲弾受注が一巡
累計砲弾受注量 199 万発
1960年
11月
空調設備のテレビCMを開始
証言
『継ぐ』 ダイキン工業 90年物語

米軍が消耗品を日本で調達する方針で、迫撃砲弾を受注するというのだ。この機を逃して現状打開のチャンスはないと、山田社長は迫撃砲弾の受注に動いた。会社幹部のなかには、まだ途中で発注を打ち切られるのではといった危惧や、再軍備の是非をめぐって世論が紛糾するなか、砲弾生産は世間の批判を浴びるのではとの懸念から、受注には慎重論が強かった。だが、背に腹はかえられない、山田社長は万難を排して砲弾特需を受注せよと号令した。

1952年5月、15社が競い合った落札に大阪金属工業は81ミリ迫撃砲弾62万発、約22億円の落札候補として残った。だが、米軍からの前渡金はなく、約3億円と見込まれる設備・運転資金を工面しなければならない。

決算
ダイキンの業績
1953年3月期(単体)
売上高
4.6
億円
当期純利益
0.1
億円
1958年
ルームエアコン事業に進出
1972年11月
空調事業の販社を設立

エアコンの量産体制

冷房の普及(年率+20%の市場成長)に対応して、ダイキンは家庭用エアコンの専門量産工場の新設を決定。1970年に滋賀工場を新設(年産20万台)して家電メーカーとの競合に対抗した。また、ダイキンは従来から得意だった業務用(国内シェア30%)に加えて、家庭用エアコンへの本格投資を開始した。

エアコンの販売体制

東京西ダイキン空調と北大阪ダイキン空調の2社を設立。エアコンの営業活動を本格化

1970年
11月
滋賀工場を新設
1972年
11月
空調事業の販社を設立
決算
ダイキンの業績
1972年11月期(単体)
売上高
565
億円
当期純利益
11
億円
1975年11月
経常赤字23億円に転落。700名を人員整理

オイルショックによる業績低迷により、累計約700名を解雇。余剰となった工場勤務の従業員はエアコンの販売会社に配属転換して対応

1965年
1月
山田晃氏が取締役会長、土屋義夫氏が取締役社長に就任
1972年
1月
経営体制の変更
1976年
8月
堺工場を閉鎖
決算
ダイキンの業績
1975年11月期(単体)
売上高
734
億円
当期純利益
7.1
億円
1979年6月
電子技術センターを新設

金岡工場内にエレクトロニクスの研究拠点設置。エレクトロニクスによる制御技術の研究を開始した。この研究によって、ダイキンはエアコン向けのインバータの内製化で世界最先発の企業に踊り出た。

証言
山田稔(ダイキン・当時社長)

本業が機械屋なので、機械技術者は多数いるが、十年前には電子屋は皆無で電子部品は専門メーカーから買っていました。買うのは別に構わないが、自社に電子技術の能力がないと電子関係と組み合わさった開発はできない。(略)勿論電子専門メーカーとタイアップすれば出来るが、それでは相手に主導権を奪われるおそれもある。そういうわけで、これからの新製品開発にはどうしても電子関係がからんでくるので、ここ数年来、私どもは電子技術者を獲得しようとしました。技術は人そのものであり、技術を持つ人が量と質においてどれだけいるかでその会社の技術レベルが決まってきます。

産業能率 = Industrial efficiency. (332)
決算
ダイキンの業績
1979年11月期(単体)
売上高
1165
億円
当期純利益
35
億円
1980年1月
長期経営計画「ビジョン60」を開始
1980年
1月
長期経営計画「ビジョン60」を開始
1982年
7月
ロボットシステム部および電子機器部を新設
1985年
1月
長期経営計画「ビジョン65」を開始
1990年
5月
長期経営計画「ビジョン95」を開始
1988年12月
ココム違反により家宅捜索へ

ソ連に軍需品としてフロン製品を輸出した疑いで、ダイキンの課長だった社員2名が逮捕。ダイキンの企業イメージが低下。役員4名を処分へ

1987年
デュポンからダンピング提訴
1988年
12月
ココム違反により家宅捜索へ
1993年8月
新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成

オゾン層の破壊に配慮した冷媒を開発。量産体制を構築。化学事業の再建に大きく寄与する冷媒となった。ダイキンの空調機器と冷媒の一貫生産を持続させる原動力に

1983年
2月
鹿島工場を稼働
1991年
6月
鹿島工場で新冷媒HFC134aの製造を開始
1993年
8月
新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成
1999年
5月
米デュポン社と冷媒特許のクロスライセンス基本契約を締結
2004年
1月
鹿島工場で爆発事故が発生
決算
ダイキンの業績
1994年3月期(単体)
売上高
2964
億円
当期純利益
40
億円
1994年6月
空調抜本的改革計画を立案

業績低迷を打破するために改革計画を立案。3期連続赤字の商品から撤退する方針を決定。これに基づき、翌1995年1月に組織改革を実施。生産・開発・販売の強化に即した組織に改編し、商品戦略会議を設置。また多角化を中止して、空調に集中投資を行う姿勢を打ち出した。

1991年
6月
食洗機・製氷機から撤退
1994年
3月
連結経常赤字39.4億円に転落
1994年
6月
井上礼之氏が社長就任
1995年
ロボット事業から撤退
累積赤字 100 億円
1996年
1月
戦略経営計画「フュージョン21」を開始・グローバル戦略本部を新設
1997年
4月
住宅用暖房機から撤退
1998年
12月
真空ポンプ事業から撤退
2004年
3月
極低温冷凍機事業を売却
2005年
11月
油圧式立体駐車装置事業から撤退
決算
ダイキンの業績
1995年3月期(単体)
売上高
2974
億円
当期純利益
57
億円
1997
5月

中国展開を本格化。高価格帯エアコンの販売網を強化

上海協昌ミシンと合弁会社を設立

1995年11月にダイキンは中国現地のミシンメーカーと合弁会社を設立し、中国における空調機の製造販売を開始した。当初は現地の空調メーカーと合弁予定だったが、すでに米キャリア社が契約を締結しており、後発ダイキンが手を組む余地がなかった。このため、空調とは無関係のミシンメーカーを選定し、ミシンの販路を生かす形で中国における空調機の参入を図った。

官公庁向け高級エアコンを販売

ダイキンは中国で高価格帯のエアコンを販売するために、400社がひしめく競争の激しい家庭向けエアコンではなく、官公庁や銀行などのカスタマイズが必要な業務用空調の顧客開拓に集中した。1997年に政府機関が集積する北京に事務所を新設。技術セミナーの開催や、販売店開拓のための飛び込み営業、卸を介さない直売代理店の整備、空調システムの個別提案によって、ダイキンブランドの浸透を狙った。

特に販売網の充実に注力し、2007年までに「販売拠点32箇所」「生産拠点9箇所」「サービス拠点3箇所」を確保。中国の沿岸部のみならず、内陸部も(北京・西安など)もカバーする販売網を整えた。

ダイキンの営業方針は、中国市場では後発参入であったために、まだ開拓されていない高価格帯という市場しか残されていなかったという事情もあった。これらの戦略は、田谷野憲氏(2014年にダイキン副社長就任)が主導する形で行われた。

中国事業で高収益・高シェアを達成

1999年から2003年にかけてダイキンは中国事業で「売上高利益率20%超」の高収益を達成。また、資金繰りの面では、手形決済ではなく前払いによるキャッシュフローを実現した。2003年時点で、中国における業務エアコンのシェア60〜70%を確保し、中国事業はダイキンの収益源に育った。ダイキンの中国事業の利益は非開示であるが、統括会社における開示(FY2015まで)によれば、売上高経常利益率で10%超の高収益を確保していた。

1995年
11月
上海協昌ミシン総公司と合弁で中国に現地法人を新設
2001年
9月
統括会社として「大金(中国)投資有限公司」を設立
2003年
保守サービスのために大金空調技術を設立(北京・上海・広州)
2004年
蘇州・上海に空調機製造拠点を新設
証言
川村郡太郎(ダイキン・当時中国担当専務)

先進技術に対してカネを惜しまない市場が中国には確実にある。国や地方政府が威信をかけて作る建築物や、通信などのインフラ関係、外資系を含む全国チェーン店などだ。財政支出などから確実に予算がつく優良需要を抑えられることが高収益の秘訣

2003/3/17日経ビジネス
決算
ダイキンの業績
1998年3月期(連結)
売上高
4625
億円
当期純利益
54
億円
1999
11月

欧州での製造販売に本格投資・買収で販売網を形成

ダイキンは1973年に欧州のベルギーに現地法人を設立していたものの、本格的な展開には至らなかった。その後、1998年からダイキンはグローバル化のために、欧州における販売の強化を決定して本格投資を開始した。

なお、ダイキンは欧州における拠点新設について、現地の販売会社(代理店)を買収する方針をとった。この理由は、ゼロベースで販売網を構築するのは難しく、国ごとに気候などの条件が違うため、ニーズをとらえるためには知見が豊富な現地販売会社の買収が適当と判断したためであったという。

1998年にドイツに販売拠点を新設したことを皮切りに、2004年までにスペイン、ポーランド、イタリア、ギリシャ、イギリス、ポーランドに拠点を相次いで新設。2003年からはチェコにおける空調機の現地生産を開始した。

ダイキンが欧州の南部を中心に拠点を新設した理由は、空調のニーズが温暖な南部(地中海周辺)に多かったためであった。加えて、地球温暖化による気温上昇も、ダイキンの空調機器の販売にとって追い風となった。

1973年
ベルギーに現地法人を設立
1998年
ドイツに拠点を新設
2000年
スペインに拠点を新設
2001年
ポーランドに拠点を新設
2002年
イタリアに拠点を新設
2003年
ギリシアおよびイギリスに拠点を新設
2003年
チェコに製造に拠点を新設(欧州現地生産)
2004年
ポルトガルに拠点を新設
決算
ダイキンの業績
2000年3月期(連結)
売上高
4630
億円
当期純利益
104
億円
1999年11月
パナソニックと包括提携契約を締結

空調事業においてグローバル包括提携契約に調印。前年に東芝が米国キャリア社と提携しており、キャリア社のグローバル展開に対抗する狙いがあった

2002年
2月
空調部門で「技術のダイキン宣言」を実施
2003年
9月
国内ルームエアコンでシェア1位を確保
国内シェア 16.9 %
決算
ダイキンの業績
2000年3月期(連結)
売上高
4630
億円
当期純利益
104
億円
2006年5月
OYL社を買収

グローバル大手空調機器メーカーのOYL社を約2460億円で買収。OYLは傘下のマッケイ社を通じて米国で事業展開をしており、ダイキンとしては北米を含めた海外展開に注力する方向へ

1994年
2月
アメリカ現地生産を開始
2005年
2月
グローバルSCM推進部を新設
2006年
4月
戦略経営計画FUSION10を策定
2006年
5月
OYL社を買収
取得価額 2460 億円
2007年
5月
公募増資で1200億円を調達
決算
ダイキンの業績
2007年3月期(連結)
売上高
9121
億円
当期純利益
456
億円
従業員数
33480
営業CF
837
億円
投資CF
-3052
億円
財務CF
2459
億円
2008年3月
中国格力とインバータエアコンで業務提携を締結
2009年3月
15年ぶりの減収減益へ

14期連続増収増益の記録が途絶へ

2009年
4月
不適切な会計処理が発覚
2009年
7月
1000億円を社債で資金調達
決算
ダイキンの業績
2009年3月期(連結)
売上高
12024
億円
当期純利益
217
億円
従業員数
39896
営業CF
622
億円
投資CF
-993
億円
財務CF
483
億円
2012
11月

米Goodmanを買収

グッドマンの買収交渉

北米において住宅向け空調でトップシェア(約25%・台数ベース)を持つグッドマン社について、ダイキンは同社の買収検討を開始。2011年頃からグッドマン社の大株主であるPEファンド(Hellman & Friedman)と買収交渉を開始した。当初は2011年1月にダイキンは買収計画を公表し、買収規模は42億ドルが程度と噂されていた。

ところが、2010年3月に発生した東日本大震災への対応に集中するために、ダイキンはグッドマン社の買収交渉を一度停止した。その後、2012年からグッドマン社からの要請で買収交渉を再開したが、一度中断した交渉の再開という形であり、信頼関係の再構築に苦労したと言われている。

グッドマン社の買収決定

2012年8月にダイキンは米グッドマン社の買収を決定。グッドマンの買収による業績影響は、売上高1595億円・営業利益212億円であり、同社は高収益企業であった。買収価格は37億ドル(2960億円)であり、ダイキンとしては過去最大額を投じた買収を決断した。買収による投資回収に至る金は「8年」と設定した。

ダイキンの狙いは北米市場におけるエアコンのシェア確保であった。1990年代までにダイキンは北米進出を試みたものの、販路構築に苦戦して撤退した経緯があった。これは、北米市場における空調設備は「ダクト方式」であり、住宅設備向けの販路をダイキンが確保できなかったことが原因であった。ダイキンは2006年のOYL社の買収によって、北米事業をマッケイ社を通じて運営したが、売上規模は約700億円でシェアは限定的であった。

そこで、北米の有力メーカーであるグッドマンの買収により、全米6万店のディーラーを掌握することで、市場シェアを確保する狙いがあった。

売上拡大の一方で収益性が低迷

ダイキン買収後のグッドマンの経営は苦戦した。FY2015からFY2018の4期連続で経常赤字に転落するなど、低収益の状況に陥った。

買収から約8年が経過したFY2020の時点でグッドマン社は売上高4465億円・経常赤字61億円となり、増収は果たしたものの、収益性の面で課題を残した。このため買収にかかった約3000億円の投資回収は困難を極めていると推察される。

2011年
4月
グッドマン社の買収交渉を延期
2012年
11月
Goodmanを買収
取得価格 2960 億円
2017年
Daikin Texas Technology Parkを新設(拠点統合)
2019年
3月
Goodman社で4期連続の経常赤字
買収価格 2960 億円
2022年
Goodmanの商号を「Daikin Comfort Technologies North America, Inc.」に変更(ブランドをダイキンに一本化)
決算
ダイキンの業績
2013年3月期(連結)
売上高
12909
億円
当期純利益
435
億円
従業員数
51398
営業CF
1031
億円
投資CF
-2183
億円
財務CF
1435
億円
2012年11月
新冷媒R32を採用したルームエアコンを発売

新冷媒R32の本格展開を開始。第一弾として「うるさら7Rシリーズ」としてルームエアコン向けに展開

決算
ダイキンの業績
2013年3月期(連結)
売上高
12909
億円
当期純利益
435
億円
従業員数
51398
営業CF
1031
億円
投資CF
-2183
億円
財務CF
1435
億円
2014年6月
十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任

井上礼之氏は代表取締役会長兼任CEOへ

決算
ダイキンの業績
2015年3月期(連結)
売上高
19150
億円
当期純利益
1196
億円
従業員数
59179
営業CF
1604
億円
投資CF
-773
億円
財務CF
-830
億円
2020年
戦略売価施策を実行

世界的なインフレに対応して平均4〜5%の値上げを実施。利益を確保

決算
ダイキンの業績
2021年3月期(連結)
売上高
24933
億円
当期純利益
1562
億円
従業員数
84870
営業CF
3746
億円
投資CF
-1596
億円
財務CF
989
億円
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