軍需で始めた会社が民需へ移るときに要るのは、新しい製品ではなく、需要が消える前に次の収益源を立てておく時間である。大阪金属工業が1950年に受けた81ミリ迫撃砲弾の特需は、売上高を1953年3月期の4億6000万円から1955年3月期の41億5000万円へ押し上げた。同時にそれは、数年で消えることが最初から分かっている金でもあった。山田晃が選んだのは砲弾の設備を厚くすることではなく、1935年に手にしていたフロンと冷凍機へ利益を送り込むことだった。1956年3月期に売上高が30億5000万円へ減ったとき、砲弾はすでに構成から消え、代わりに冷凍機とダイフロンガスが立っていた。
空調の専業になれた理由は、機械を作れたことではなく、据え付けまでを引き受ける相手を先に押さえたことにある。フロン式冷凍機を国内で最初に製品化した実績は、工事のできる代理店を全国350社の規模で組織する交渉力に変わった。エアコンは箱を渡して終わる商品ではなく、建物ごとに据え付けて初めて働く。売り場より工事の網が先に要り、1969年のダイキンプラント設立でその網は自社の系列へ入る。1963年に大阪金属工業という商号を捨ててダイキン工業と名乗ったのは、金属加工で積んだ信用よりも、空調で積み直す信用のほうが太くなると読んだからである。
1924年に大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃が40歳で官を辞して独立し、従業員15名未満の合資会社大阪金属工業所を大阪の難波新川に設立したのがダイキン工業の源流となった。工廠時代の蓄積を活かして事業を開始した創業期は飛行機用ラジエーターチューブの製造から始まったが、事業は思うように拡大せず苦しい船出が続くこととなった。砲弾と飛行機部品を作るところから始まった事業の土台は、軍需に寄りかかった当時の日本経済の形をそのまま映して育った。工廠時代の元上司が推したことで陸軍指定工場となり、砲弾をまとまった数で受注できるようになった。そこから戦前の軍需の膨張に乗って急速に大きくなり、軍需ベンチャーと呼べる性格を帯びた。作る兵器部品の出来は工廠からも高く買われ、取引は満州兵工廠にまで及び、同社は満州貿易を切り開いた会社とまで言われた。
1933年には技術顧問として招いていた退役海軍少将の太田十男が、米海軍の潜水艦に新冷媒フレオンガスが採用されたという新聞記事に鋭敏に着目し、ダイキンにフロンの研究を進めることを経営会議で強く進言したことが、その後の企業の性格を根本から変える決定的な転機となった。冷凍機への足がかりはすでにあり、フロンに先立って今日のダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で世に出していた。砲弾の金属加工業者が全く未知の化学プラント分野に参入するという技術的に困難な跳躍であり、社内の化学技術者はごく少数にとどまり設備も限られていたが、山田晃は太田の進言を採用してフロン研究を本格化させ、1935年に国内初のフロン生産に成功するという歴史的な成果を挙げるに至った。フロン事業は将来の空調事業の化学的基盤となり、軍需依存からの脱却に向けた最初の種がこの時点で蒔かれた。
合資会社のままで軍需を伸ばした大阪金属工業所の動向には、住友金属が早くから注目していた。出資して援助したいという申し入れを受けた山田晃氏は、将来の発展と信用を期してこれを承け、以後は住友の系列に入って住友金属との関係を深めた。1934年2月11日、資本金100万円をもって新たに大阪金属工業株式会社が設立され、合資会社からの法人化が成った。大阪金属工業はこの日を会社の創業日と定め、ダイキン工業にとっての第二の出発点とした。1938年には合資会社を吸収合併して資本金150万円とし、戦後の1953年には本社を現在地へ移して資本金2億7000万円の近代企業として再発足している。財閥資本を呼び込みながらも経営の主体を手放さなかった法人化の歩みが、軍需から空調への転身を支える資本基盤となった。
終戦によって軍需が失われたダイキンは主要製品を失って深刻な経営危機に直面し、戦後復興期の民需転換に苦しむなかで無配転落という厳しい状況を経験した。1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに米軍から81ミリ迫撃砲弾の受注機会が突如として到来したが、社内では戦争特需に再び依存することへの慎重論が根強く存在していた。山田社長は"万難を排して受注せよ"との強い号令を下して特需受注に積極的に着手する経営判断を断行し、無配転落の経営危機から短期間で脱却した。朝鮮戦争特需で得られた貴重な資金を砲弾生産に再投資するのではなく、冷凍機・空調機・フロンという平時の民需分野へと戦略的に集中投下する経営判断が、戦後ダイキンの方向を決定づけた。
特需で得た資金の行き先は、砲弾の増産ではなかった。売上高は1953年3月期の4億6000万円から特需の最盛期である1955年3月期に41億5000万円まで膨らみ、特需の切れた1956年3月期には30億5000万円、1957年3月期には27億1000万円へ低下している。この落差を埋める役を負ったのが冷凍機とフッ素化学だった。1953年7月には三フッ化樹脂を開発して発売し、四フッ化樹脂製品シリーズの開発にも本格的に取り組み始めている。1957年6月には東京証券取引所へ上場した。1960年5月までの半期には売上の48%を冷凍機が、11%をダイフロンガスが、3%を弗素樹脂が占めるまでになり、油圧機器の12%と合わせて民需の収益源が立った。
1960年代に入るとクーラーは電機各社が冷蔵庫の次に普及すると見込んだ商品となり、大阪金属工業はその市場で3割近い占有率を占める首位級の地位を占めていた。堺工場の増築に19億円を投じてクーラーの総合工場を建設する計画を進めながら、1962年の夏に向けた設備投資はいったん繰り延べて同年秋の完成を待つ判断を取り、需要の立ち上がりを見極めつつ生産能力を広げた。フロン式冷凍機を国内で最初に製品化した専門メーカーとしての実績は販売面でも働き、工事まで担える代理店を全国350社の規模で組織するに至り、1961年11月期には売上高105億円のうち冷暖房部門が63億円と6割を占めるまでに事業構成が入れ替わった。ビルの冷房が広がるにつれて冷えすぎによる体調不良への注意が新聞で呼びかけられるようになり、空調は一般の生活に入り込む商品へと変わりつつあった。
1963年10月、大阪金属工業は社名をダイキン工業へ改めた。金属加工を名乗る商号は、売上の6割を冷暖房が占める実態からすでに離れていた。新しい社章は地球に旧社名の頭文字であるOとKを配した意匠で、製品が世界へ広がることを意味づけていた。同じ年の2月には堺製作所に金岡工場を新設し、パッケージエアコンとルームエアコンの製造工場として稼動させている。主力のパッケージ形エアコンは機種を豊富に揃え、国内シェアの30%を常に保った。建築の近代化と大型化に応じるため、米国の冷凍機専門メーカーであるウォーシントン社と技術提携して密閉形ターボ冷凍機を開発し、大型物件の空調まで品揃えを伸ばした。商号を替えることは、金属加工の会社として積んだ信用を手放し、空調の会社として名乗り直す選択でもあった。
1968年の時点では札幌・東京・名古屋・広島・福岡に支店と営業所を置き、その外側に代理店と特約店を全国へ張っていた。売る側の網は、自前の支店と外部の代理店の二重で組まれていた。1969年9月には空調・冷凍・冷蔵機器の販売と工事施工を担う子会社のダイキンプラントを設立し、据付工事までを自社の系列へ取り込んだ。作る側では1970年11月に滋賀製作所を新設し、ルームエアコンの本格的な量産に入った。売上高は1965年の150億円から1967年には260億円へ伸び、1968年度は320億円が見込まれる規模となり、1970年11月期には505億円に達した。輸出も数年前から本格化しており、1966年には新しい市場としてヨーロッパの開拓に踏み出していた。国内の量産工場と販売会社と工事網が出揃ったこの時点で、広げられる市場は海の外しか残っていなかった。
多角化は事業を増やす話ではなく、沈む時期を互いにずらす話である。ダイキン工業の収益は夏の気温に握られていた。業務用空調機が主体でありながら、相対的に利益率の高い家庭用エアコンを抱えていたため、冷夏の1980年11月期には経常利益が前期の44億8000万円から14億8000万円へ低下し、猛暑の1983年11月期には56億1000万円と9年ぶりの最高益へ戻る。製品の構成は変わっていないのに、利益だけが3倍以上振れた。山田稔が機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業を掲げたのは、自社で動かせない気温という変数から、利益の形を引き剥がすためだった。
人を切らずに不況を越えた会社は、次の好況で余った人の置き場を探すことになる。1975年11月期に経常赤字23億1000万円を出したとき、ダイキン工業が取ったのは新卒採用の全面中止と約250人強の出向と約800人の一時帰休であって、人員整理ではなかった。3年後に営業網を広げた理由の半分は小型エアコンの販売力強化であり、もう半分は社内の余剰人員の有効活用である。電子技術者が集まらないと見るや、先に独立の電子部門を持つと決め、滋賀に研究センターという容れ物を建てたのも同じ順序だった。1984年に空調と電子とフッ素化学を並べた姿は、需要の分散であると同時に、人の行き場の設計でもあった。
この時期にはルームエアコンの市場が広がっており、1972年の業界は前年の100万台を20%以上上回る135万台を確実とみて、カラーテレビに続く有力な商品と見なしていた。本格的な量産の担い手は1970年11月に動き出した滋賀製作所であり、1972年11月には空調機器の販売会社を東京と大阪に1社ずつ設け、その後も同じ形の子会社を各地に広げた。販売店を開拓したのは地元で採用した固有社員と営業に携わったことのない出向者で、始めのうちは難儀が続き、経費も累積損失も膨らんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した。売上高は1971年11月期の565億円から1974年11月期の903億円へ伸びた。
1972年3月、ダイキン工業はベルギー王国のオステンドに、ヨーロッパの製造・販売拠点としてダイキンヨーロッパエヌブイを設立した。この地を選んだ理由は3つあり、英国のEC加盟によってベルギーが欧州の交通と輸送の中核になるという判断、小国ながら政情が安定し英国やイタリアのような山猫ストに悩まされずに済むという見通し、そしてベルギー政府の積極的な外資導入政策であった。登録税と地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%といった恩典を、坂田逸郎社長はそのまま活用したとしている。当面の経営目標は、完全ノックダウンによる市場の拡張から、部品と材料の現地調達、そして現地での設計・製造・販売へと進む三段階に置かれた。
1975年11月期、売上高は前期の903億円から734億円へ落ち、経常損益は23億1000万円の赤字に転じた。石油危機の後の需要収縮が、季節に振られる商品を抱えた空調メーカーを直撃した形である。同社が取った手は3つで、1976年度の大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向させること、そして8月に産業空調部門の約800人を対象とする10日間の一時帰休であった。人員整理は行わなかった。山田稔社長は後年、1940年代の終わりに3年続けて人員整理をやった経験をこう振り返っている『昭和20年代に3年続けて整理をやったら、むなしくなってね。法廷闘争で勝ったとかスポーツみたいなつもりでやってたんだけど、後は空虚で。すっかりこりました』。赤字は翌1976年11月期も9億9000万円続き、経常黒字への復帰は1977年11月期の3億5000万円まで待つことになった。
1978年4月、ダイキン工業は小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を狙い、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる方針を打ち出した。赤字の3年で抱え込んだ人を、工場ではなく売り場へ動かす配置である。同じ年の9月には堺製作所に臨海工場を新設し、コンプレッサーの製造工場として稼動させた。コンプレッサーを内製する投資と、人を営業へ充てる配置が同時に進んだことになる。経常利益は1977年11月期の3億5000万円から1978年11月期に15億2000万円、1979年11月期には44億8000万円へ戻り、売上高も1978年11月期に1037億円と初めて1000億円を超えた。
山田稔社長は、会社の技術水準はその社で最も高い技術を持つ人の水準で決まると考えていた。1979年6月、空調機器と油圧機器ではマイクロコンピューターを組み込んだ機種の開発を進めていたことから、部門ごとにばらばらだった研究開発の体制をひとつにまとめる方針が示されたが、肝心の電子技術者が集まらなかった。機械屋の下で手を貸すだけの役回りでは腕のある電子技術者は来ないと山田稔社長は見て、いずれ独立した電子部門を持つと先に決め、その決意を形にした電子技術の研究センターを滋賀工場に設けて看板とした。資金繰りに弱みを抱えて近づいてきたグラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業との提携を受け入れたのも先の考えによるもので、提携は相手の申し出で1年で終わったが、電子技術部門を起こす具体的なプロジェクトの出発点となり、その道の専門家を招き入れるきっかけにもなった。
冷夏に見舞われた1980年11月期、経常利益は前期の44億8000万円から14億8000万円に減った。業務用空調機が主力とはいえ、利益率が比較的高い家庭用エアコンも手がけていたため、夏の気温に収益が揺さぶられる体質だった。1980年のこのつまずきを機に、同社は機械・化学・電子の三分野を兼ね備え、天候に左右されにくい企業への転換を進めた。1982年11月にはCOMTECシリーズを出してコンピュータ・グラフィックス分野に入った。続いて1983年4月に鹿島工場を新設してフルオロカーボンガスとフッ素樹脂を作り始め、1984年8月には超真空用ポンプのクライオキャプチャーを売り出して極低温・超真空の分野にも踏み込んだ。1983年11月期は猛暑に恵まれて経常利益56億1000万円と9年ぶりに最高益を更新し、1984年11月期には89億1000万円に達した。
足元で全天候型への転進を支えたのは、残業制限の撤廃を含め、職場ごとの実情に応じて個別に取り入れた労務管理で、労使の合意も予想以上の早さで整った。その背景として、一族の枠にこだわらず、下から意見を積み上げて決める姿勢を貫いてきたことが組合の理解を得ていたとみられる。社員が出した案も、たいていはまず試させた。部下に任せられる判断や決断はできるだけ部下に委ねるという決裁の決まりもあった。後継者の選び方について、山田稔社長は『山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ』と語ったことがある。創業家出身の社長が自分の手で世襲を終わらせたことは、意思決定を人ではなく仕組みに預けるこの会社の姿勢を表す出来事でもあった。
輸出で伸ばした欧州の次に置かれたのは、現地で作る拠点だった。1990年2月、タイ王国に空調機器の生産子会社としてダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッドを設立し、翌1991年1月にはアメリカ合衆国へフッ素化学製品の製造販売子会社のダイキンアメリカインクを置いた。空調は東南アジアで作り、フッ素化学は北米で売るという、分野ごとに地理を割り当てる配置である。ベルギーで踏んだ現地化の三段階を、今度は事業の性格に合わせて国ごとに分ける配置へ広げたことになる。売上高は1989年3月期の2759億円から1991年3月期の3440億円へ、当期純利益も102億円から145億円へ伸び、国内の空調に集まっていた収益源は地理と分野の両方で分散した状態に達した。
1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円を頂点として、業績は下り坂へ入った。1992年3月期は売上高を3681億円へ伸ばしながら純利益は129億円へ減り、1993年3月期には売上高3420億円・純利益54億6000万円と、2年で利益が3分の1近くまで減っている。分散させたはずの事業は、景気の後退局面では揃って沈んだ。主力の空調は精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあるという評価が、1994年に社長が交代する時点で外から下されている。1975年の赤字を人員整理なしで凌ぎ、余った人を営業へ充て、電子と化学へ分野を広げてきた20年の設計は、ここで一度立ち止まることになった。需要の振れを分野の数で埋める組み立ては、振れが同時に来る局面では効かなかった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6367/company.json https://the-shashi.com/api/6367/history.json https://the-shashi.com/api/6367/ceo.json https://the-shashi.com/api/6367/financials.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6367/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/6367/financials.csv https://the-shashi.com/api/6367/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1924〜1970年軍需から民需への業態転換 | 大阪金属工業所を設立 | ★ | ||
| 山田晃 | 大阪金属工業を設立。住友と資本提携 | ★ | ||
| 山田晃 | フロンの開発に成功 | ★★ | ||
| 山田晃 | 堺製作所を新設 | ★ | ||
| 山田晃 | 淀川製作所を新設 | ★ | ||
| 山田晃 | 敗戦により生産縮小・1.6万名を解雇 | ★★ | ||
| 山田晃 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 山田晃 | 砲弾でつかんだ資金を元手とする、化学と冷熱機器への業態の組み替え 終戦で軍需を失い無配に転落した大阪金属工業(現ダイキン)が、朝鮮戦争で到来した米軍の迫撃砲弾特需に社内の慎重論を押し切って踏み込み、その利益を砲弾ではなく冷凍機・空調・フロンという民需へ再投資して業態転換を果たした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山田晃 | 三フッ化樹脂を開発し発売 | ★ | ||
| 山田晃 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 山田晃 | ルームエアコン事業に参入 | ★ | ||
| 山田晃 | 社名を「ダイキン工業」に変更 | ★ | ||
| 1971〜1993年需要変動を分散する多角化 | 山田稔 | ベルギーに欧州拠点ダイキンヨーロッパを設立 | ★ | |
| 山田稔 | 空調事業の販社を設立 | ★ | ||
| 山田稔 | 経常赤字23億円に転落。700名を人員整理 | ★★ | ||
| 山田稔 | 電子技術センターを新設 | ★ | ||
| 山田稔 | 長期経営計画「ビジョン60」を開始 | ★ | ||
| 山田稔 | ココム違反により家宅捜索へ | ★★ | ||
| 山田稔 | 新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成 | ★ | ||
| 1994〜2005年空調抜本改革計画と中国での本格展開、パナソニック・トレーンとの提携 | 井上礼之 | 多角化の中止と、主力一本への経営資源の集中 1994年、業績が伸び悩むなかで社長に就任した井上礼之氏が空調抜本改革計画を立案し、多角化路線を止めて空調事業への集中投資へ着手した経営判断。3期連続で赤字の商品から撤退し、翌年に生産・開発・販売を統括する組織改革と商品戦略会議の設置を進めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 井上礼之 | 中国での業務用高価格帯への集中という差別化戦略 1995年に上海のミシンメーカーとの合弁で中国へ入ったダイキンが、家庭用の価格競争を避け、官公庁・オフィス向けの業務用高価格帯に的を絞った差別化戦略。設計施工から保守までを一貫して担う体制で、後発ながら独自の位置を築いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井上礼之 | 製造販売に本格投資・買収で販売網を形成 | ★★ | ||
| 井上礼之 | パナソニックと業務提携契約を締結 | ★ | ||
| 北井啓之 | トレーンと包括的グローバル戦略提携に合意 | ★★ | ||
| 2006〜2010年マレーシアOYLとロテックスの買収、格力との提携と15年ぶりの減収減益 | 岡野幸義 | OYL社を買収 | ★★ | |
| 岡野幸義 | 中国格力とインバータエアコンで業務提携を締結 | ★ | ||
| 岡野幸義 | ロテックスを買収し子会社化 | ★ | ||
| 岡野幸義 | 15年ぶりの減収減益へ | ★ | ||
| 2011〜2023年R32冷媒特許の開放と米Goodman買収、十河政則体制の世界空調首位 | 十河政則 | 独占を捨てて普及を優先する、微燃性冷媒をめぐる知財戦略 ダイキンが自社の低温暖化冷媒R32に関する特許を競合他社へ無償開放した知財戦略。2011年に新興国向けへ特許を開き、2015年に全世界へ拡大、2019年には特許権を行使しない誓約へ進め、R32を業界共通の技術基盤に押し上げようとした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 十河政則 | 十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任 | ★ | ||
| 十河政則 | 買収を足がかりにした北米住宅用空調への本格参入 ダイキンが2012年、北米住宅用空調でトップシェアを占めるグッドマン グローバル グループ インクの議決権100%を取得の対価2,200百万米ドルで取得し、北米で主流のダクト式住宅用市場へ本格参入した経営判断。同社の借入の借換分を含む買収価額は37億ドルで、ダイキンとして最大規模のM&Aとなった。1980年代以来くり返した北米進出の三度目の挑戦である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 十河政則 | 新冷媒R32を採用したルームエアコンを発売 | ★ | ||
| 十河政則 | 欧州AHTクーリングシステムズを買収 | ★ | ||
| 十河政則 | 戦略売価施策を実行 | ★ | ||
| 2024〜2026年竹中直文社長の就任と創業100周年、エリオットの自社株買い要求 | 竹中直文 | 前任の井上体制から離れる世代交代と、新たな経営体制への引き継ぎ 創業100年を迎えた2024年、ダイキンが竹中直文氏を社長兼COOに昇格させ、十河政則氏が会長兼CEOへ、30年にわたり経営を率いた井上礼之氏が取締役・会長を退任して名誉会長に就任した経営体制の承継。5月10日の決算発表と同日に公表し、6月27日の第121期定時株主総会で発効した13年ぶりの社長交代であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 竹中直文 | 創業100周年を迎える | ★ | ||
| 竹中直文 | 「FUSION30」の資本政策転換 2026年3月期末のダイキン工業の大株主に、エリオット インターナショナル エルピーが3.01%を保有する第4位として現れた。外国法人等の持株比率は前期から上がり、金融機関を上回った。ダイキンは2026年5月12日、戦略経営計画FUSION30の公表とあわせ、3,500億円の自己株式取得と配当方針の変更を決めた。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ダイキン)