ダイキン の歴史

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創業 1924年
創業者 山田晃
創業地 大阪市
創業 1924年、大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃氏が40歳で官を辞し、大阪の難波
1924年、大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃氏が40歳で官を辞し、大阪の難波新川に従業員15名未満の合資会社大阪金属工業所を設立した。飛行機用ラジエーターチューブの製造から始めたものの事業は伸びず、工廠時代の元上司の推挙で陸軍指定工場となって砲弾の量産受注を得る。1933年には技術顧問の太田十男氏が米海軍潜水艦への新冷媒採用の記事に着目してフロン研究を進言し、約2年後の1935年末に国内初のフロン生産へこぎつけた。1934年2月には住友金属の出資を受けて資本金100万円の大阪金属工業株式会社を設立し、この日を会社の設立日としている。砲弾の金属加工と冷媒の化学を一社で持つ構成は、戦前のうちに出来上がった。
決断 多角化をやめた年から、買収の対象が事業ではなく販路に変わった。1952年、終戦で
多角化をやめた年から、買収の対象が事業ではなく販路に変わった。1952年、終戦で軍需を失って無配に転じた会社は米軍から81ミリ迫撃砲弾を受注し、その資金を砲弾の増産ではなく冷凍機と空調へ投じた。1994年6月に社長へ就任した井上礼之氏は3期連続赤字の商品から撤退し、ロボットと医療を縮小して空調への集中投資へ切り替え、売上4,000億円弱の会社を空調一本にした。以後の買収は販売網へ向かう。1998年からドイツ・フランス・イタリアなど欧州主要国の現地販売会社を次々に取得し、2006年にはマレーシアのOYL社を約2,460億円で、2012年には北米住宅用で首位のGoodman社を約2,960億円で取得した。気候も商習慣も国ごとに違う空調では製品を持ち込むより売る会社を取得するほうが早く、この判断が30年で売上を4,000億円弱から5兆円へ広げた。
現況 売上5兆円を達成した会社が、利益率と資本効率を株主から問われている。2026年3
売上5兆円を達成した会社が、利益率と資本効率を株主から問われている。2026年3月期の連結売上高5兆150億円のうち空調・冷凍機が4兆6,211億円で92%を占め、化学は2,815億円の6%にとどまる。全社の営業利益は4,150億円、利益率は8.3%であった。2025年度を最終年度としたFUSION25は営業利益率で目標を2.7ポイント、ROEで2.9ポイント下回って終わり、2024年6月には井上礼之氏が退任し竹中直文氏が社長に就任している。2026年4月に米エリオットが株式の約3%を取得して1兆円規模の自社株買いを求めると、翌月のFUSION30で2028年度に営業利益率10%・ROE12%の必達目標を掲げ、約10年ぶりとなる3,500億円の自社株買いを決めて翌日実行した。買収と設備投資を先に置いた資本配分が、規模の大きさをそのまま資本効率の問いに変えた。
競合 競争は空調機の性能より、どの冷媒が標準になるかで起きた。2011年、ダイキンは微
競争は空調機の性能より、どの冷媒が標準になるかで起きた。2011年、ダイキンは微燃性冷媒R32の特許を無償開放し。地球温暖化係数が従来のR410Aの約3分の1であるR32は規制の強まる各国で採用が広がり、自社製品をその規格の側に置いた。販路の作り方は国ごとに違う。1995年に上海のミシンメーカーとの合弁で中国へ入ったときは、現地空調メーカーとの合弁を先行する米キャリア社に取られており、400社以上がひしめく家庭用を避けて業務用の高価格帯へ集中した。設計施工から保守まで一貫して請ける体制が官公庁とオフィスで評価され、欧州でも現地販売会社を取得して同じ業務用から入った。北米の住宅用だけはダクト式が主流で販路を持てず、2012年の買収まで届いていない。冷媒で規格を先に取っても、それを載せる販売網は国ごとに買収するほかなかった。
長期業績の推移 1949〜2026年
ダイキン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1924年〜 軍需から民需への業態転換砲弾特需の利益からフロン・冷凍機への再投資

筆者考察y.sugiura, author

軍需で始めた会社が民需へ移るときに要るのは、新しい製品ではなく、需要が消える前に次の収益源を立てておく時間である。大阪金属工業が1950年に受けた81ミリ迫撃砲弾の特需は、売上高を1953年3月期の4億6000万円から1955年3月期の41億5000万円へ押し上げた。同時にそれは、数年で消えることが最初から分かっている金でもあった。山田晃が選んだのは砲弾の設備を厚くすることではなく、1935年に手にしていたフロンと冷凍機へ利益を送り込むことだった。1956年3月期に売上高が30億5000万円へ減ったとき、砲弾はすでに構成から消え、代わりに冷凍機とダイフロンガスが立っていた。

空調の専業になれた理由は、機械を作れたことではなく、据え付けまでを引き受ける相手を先に押さえたことにある。フロン式冷凍機を国内で最初に製品化した実績は、工事のできる代理店を全国350社の規模で組織する交渉力に変わった。エアコンは箱を渡して終わる商品ではなく、建物ごとに据え付けて初めて働く。売り場より工事の網が先に要り、1969年のダイキンプラント設立でその網は自社の系列へ入る。1963年に大阪金属工業という商号を捨ててダイキン工業と名乗ったのは、金属加工で積んだ信用よりも、空調で積み直す信用のほうが太くなると読んだからである。

売上高(単体) 1953年3月期〜1970年11月期(億円)

4.6 53.3 26.1 54.3 41.5 55.3 30.5 56.3 27.1 57.3 39.4 58.3 49.8 59.11 78.2 60.11 116 61.11 261 67.11 317 68.11 404 69.11 505 70.11
  • 棒はすべて単体。この時期の連結の開示は無い。
  • 決算期は1958年3月期までが3月期、1959年11月期以降が11月期。
  • 出所は株式会社年鑑(1953年3月期〜1961年11月期)と会社年鑑1971年版(1967年11月期〜1970年11月期)。
  • 1962年11月期から1966年11月期の売上高は手元の資料に無い。

1924年〜砲兵工廠出身者が築いた軍需ベンチャーの出発点

1924年に大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃が40歳で官を辞して独立し、従業員15名未満の合資会社大阪金属工業所を大阪の難波新川に設立したのがダイキン工業の源流となった。工廠時代の蓄積を活かして事業を開始した創業期は飛行機用ラジエーターチューブの製造から始まったが、事業は思うように拡大せず苦しい船出が続くこととなった。砲弾と飛行機部品を作るところから始まった事業の土台は、軍需に寄りかかった当時の日本経済の形をそのまま映して育った。工廠時代の元上司が推したことで陸軍指定工場となり、砲弾をまとまった数で受注できるようになった。そこから戦前の軍需の膨張に乗って急速に大きくなり、軍需ベンチャーと呼べる性格を帯びた。作る兵器部品の出来は工廠からも高く買われ、取引は満州兵工廠にまで及び、同社は満州貿易を切り開いた会社とまで言われた。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は山田晃(当時40歳、大阪砲兵工廠の元工場長)
    • [2]創業地は大阪市難波新川、従業員15名以下の零細規模で出発
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1924年10月 合資会社大阪金属工業所を創立(ダイキンの源流)
    • [4]創業期は飛行機用ラジエーターチューブ(航空機用部品)の製造から開始
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [5]元上司の推挙で陸軍指定工場の地位を獲得し砲弾を量産(1933年陸軍指定工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]兵器部品の優秀さが工廠に認められて満州兵工廠との取引に広がり、満州貿易の開拓者と評された

1933年には技術顧問として招いていた退役海軍少将の太田十男が、米海軍の潜水艦に新冷媒フレオンガスが採用されたという新聞記事に鋭敏に着目し、ダイキンにフロンの研究を進めることを経営会議で強く進言したことが、その後の企業の性格を根本から変える決定的な転機となった。冷凍機への足がかりはすでにあり、フロンに先立って今日のダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で世に出していた。砲弾の金属加工業者が全く未知の化学プラント分野に参入するという技術的に困難な跳躍であり、社内の化学技術者はごく少数にとどまり設備も限られていたが、山田晃は太田の進言を採用してフロン研究を本格化させ、1935年に国内初のフロン生産に成功するという歴史的な成果を挙げるに至った。フロン事業は将来の空調事業の化学的基盤となり、軍需依存からの脱却に向けた最初の種がこの時点で蒔かれた。

  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [7]1933年 技術顧問の太田十男(退役海軍少将)が米海軍潜水艦のフレオンガス採用を新聞で知りフロン研究を進言
    • [9]山田晃が太田の進言を採用しフロン研究を本格化
    • [10]1935年(末)に国内初のフロン生産に成功
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]フロンに先立ち、ダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で生産開始

合資会社のままで軍需を伸ばした大阪金属工業所の動向には、住友金属が早くから注目していた。出資して援助したいという申し入れを受けた山田晃氏は、将来の発展と信用を期してこれを承け、以後は住友の系列に入って住友金属との関係を深めた。1934年2月11日、資本金100万円をもって新たに大阪金属工業株式会社が設立され、合資会社からの法人化が成った。大阪金属工業はこの日を会社の創業日と定め、ダイキン工業にとっての第二の出発点とした。1938年には合資会社を吸収合併して資本金150万円とし、戦後の1953年には本社を現在地へ移して資本金2億7000万円の近代企業として再発足している。財閥資本を呼び込みながらも経営の主体を手放さなかった法人化の歩みが、軍需から空調への転身を支える資本基盤となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]住友金属は当初より大阪金属工業所の動向に注目していた
    • [12]住友金属からの出資申し入れを受け、大阪金属工業所は住友の系列に入った
    • [13]1934年2月11日 資本金100万円で大阪金属工業株式会社を設立(合資会社からの法人化)
    • [14]1934年2月11日を会社の創業日と定め、これを第二の出発点とした
    • [15]1938年 大阪金属工業が合資会社を吸収合併し資本金150万円とした
    • [16]1953年 本社を現在地へ移し資本金2億7000万円で近代企業として再発足
参考文献[1]-[16]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は山田晃(当時40歳、大阪砲兵工廠の元工場長)
    • [2]創業地は大阪市難波新川、従業員15名以下の零細規模で出発
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1924年10月 合資会社大阪金属工業所を創立(ダイキンの源流)
    • [4]創業期は飛行機用ラジエーターチューブ(航空機用部品)の製造から開始
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [5]元上司の推挙で陸軍指定工場の地位を獲得し砲弾を量産(1933年陸軍指定工場)
    • [7]1933年 技術顧問の太田十男(退役海軍少将)が米海軍潜水艦のフレオンガス採用を新聞で知りフロン研究を進言
    • [9]山田晃が太田の進言を採用しフロン研究を本格化
    • [10]1935年(末)に国内初のフロン生産に成功
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]兵器部品の優秀さが工廠に認められて満州兵工廠との取引に広がり、満州貿易の開拓者と評された
    • [8]フロンに先立ち、ダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で生産開始
    • [11]住友金属は当初より大阪金属工業所の動向に注目していた
    • [12]住友金属からの出資申し入れを受け、大阪金属工業所は住友の系列に入った
    • [13]1934年2月11日 資本金100万円で大阪金属工業株式会社を設立(合資会社からの法人化)
    • [14]1934年2月11日を会社の創業日と定め、これを第二の出発点とした
    • [15]1938年 大阪金属工業が合資会社を吸収合併し資本金150万円とした
    • [16]1953年 本社を現在地へ移し資本金2億7000万円で近代企業として再発足

1950年〜朝鮮戦争砲弾特需を原資とする空調事業への転換

終戦によって軍需が失われたダイキンは主要製品を失って深刻な経営危機に直面し、戦後復興期の民需転換に苦しむなかで無配転落という厳しい状況を経験した。1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに米軍から81ミリ迫撃砲弾の受注機会が突如として到来したが、社内では戦争特需に再び依存することへの慎重論が根強く存在していた。山田社長は"万難を排して受注せよ"との強い号令を下して特需受注に積極的に着手する経営判断を断行し、無配転落の経営危機から短期間で脱却した。朝鮮戦争特需で得られた貴重な資金を砲弾生産に再投資するのではなく、冷凍機・空調機・フロンという平時の民需分野へと戦略的に集中投下する経営判断が、戦後ダイキンの方向を決定づけた。

  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [17]終戦で軍需を喪失し無配転落(戦後の経営危機)
    • [18]1950年に朝鮮戦争勃発、米軍から迫撃砲弾の特需受注が到来

特需で得た資金の行き先は、砲弾の増産ではなかった。売上高は1953年3月期の4億6000万円から特需の最盛期である1955年3月期に41億5000万円まで膨らみ、特需の切れた1956年3月期には30億5000万円、1957年3月期には27億1000万円へ低下している。この落差を埋める役を負ったのが冷凍機とフッ素化学だった。1953年7月には三フッ化樹脂を開発して発売し、四フッ化樹脂製品シリーズの開発にも本格的に取り組み始めている。1957年6月には東京証券取引所へ上場した。1960年5月までの半期には売上の48%を冷凍機が、11%をダイフロンガスが、3%を弗素樹脂が占めるまでになり、油圧機器の12%と合わせて民需の収益源が立った。

  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [19]売上高は1953年3月期4.6億円・1955年3月期41.5億円・1956年3月期30.5億円・1957年3月期27.1億円
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1953年7月 三フッ化樹脂を開発し発売、四フッ化樹脂製品シリーズの開発へ本格的取組みを開始
    • [21]1957年6月 東京証券取引所に上場
  • 上場会社総覧 昭和36年版
    • [22]1960年5月までの半期の売上構成は冷凍機48%・油機12%・ダイフロンガス11%・農薬8%・農機7%・弗素樹脂3%
参考文献[17]-[22]
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [17]終戦で軍需を喪失し無配転落(戦後の経営危機)
    • [18]1950年に朝鮮戦争勃発、米軍から迫撃砲弾の特需受注が到来
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [19]売上高は1953年3月期4.6億円・1955年3月期41.5億円・1956年3月期30.5億円・1957年3月期27.1億円
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1953年7月 三フッ化樹脂を開発し発売、四フッ化樹脂製品シリーズの開発へ本格的取組みを開始
    • [21]1957年6月 東京証券取引所に上場
  • 上場会社総覧 昭和36年版
    • [22]1960年5月までの半期の売上構成は冷凍機48%・油機12%・ダイフロンガス11%・農薬8%・農機7%・弗素樹脂3%

1961年〜大阪金属からダイキンへの改称と空調への一本化

1960年代に入るとクーラーは電機各社が冷蔵庫の次に普及すると見込んだ商品となり、大阪金属工業はその市場で3割近い占有率を占める首位級の地位を占めていた。堺工場の増築に19億円を投じてクーラーの総合工場を建設する計画を進めながら、1962年の夏に向けた設備投資はいったん繰り延べて同年秋の完成を待つ判断を取り、需要の立ち上がりを見極めつつ生産能力を広げた。フロン式冷凍機を国内で最初に製品化した専門メーカーとしての実績は販売面でも働き、工事まで担える代理店を全国350社の規模で組織するに至り、1961年11月期には売上高105億円のうち冷暖房部門が63億円と6割を占めるまでに事業構成が入れ替わった。ビルの冷房が広がるにつれて冷えすぎによる体調不良への注意が新聞で呼びかけられるようになり、空調は一般の生活に入り込む商品へと変わりつつあった。

  • 読売新聞(1962年4月21日)
    • [23]電機メーカーが冷蔵庫の次にブームを呼ぶと狙いをつけていた商品がクーラーだった
    • [24]クーラーの市場占有率の30%近くを大阪金属工業が占め、三菱電機・日立・東芝・松下は10〜20%だった
    • [25]堺工場の増築費に19億円を投じてクーラーの総合工場を作る計画を持ちつつ、設備投資計画を繰り延べて1962年夏は見送り同年秋の完成予定とした
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
    • [26]フロン式冷凍機を製品化したわが国最初の会社として、工事のできる代理店網を全国350社規模で確立
    • [27]1961年11月期の売上高105億円のうち冷暖房が63億円で60%を占めた
  • 読売新聞(1961年7月19日)
    • [28]ビル冷房の普及にともない冷えすぎによる体調不良(冷房病)への注意が新聞で呼びかけられた

1963年10月、大阪金属工業は社名をダイキン工業へ改めた。金属加工を名乗る商号は、売上の6割を冷暖房が占める実態からすでに離れていた。新しい社章は地球に旧社名の頭文字であるOとKを配した意匠で、製品が世界へ広がることを意味づけていた。同じ年の2月には堺製作所に金岡工場を新設し、パッケージエアコンとルームエアコンの製造工場として稼動させている。主力のパッケージ形エアコンは機種を豊富に揃え、国内シェアの30%を常に保った。建築の近代化と大型化に応じるため、米国の冷凍機専門メーカーであるウォーシントン社と技術提携して密閉形ターボ冷凍機を開発し、大型物件の空調まで品揃えを伸ばした。商号を替えることは、金属加工の会社として積んだ信用を手放し、空調の会社として名乗り直す選択でもあった。

  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]1963年10月 社名を「ダイキン工業株式会社」に変更
    • [31]1963年2月 堺製作所金岡工場を新設(パッケージエアコン・ルームエアコンの製造工場として稼動)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [30]社章は地球に大阪金属の頭文字OとKを配し、同社製品の全世界への波及を意味している
    • [32]主力製品のパッケージ形エアコンは豊富に機種をそろえ、常に30%の国内シェアを保っている(1968年時点)
    • [33]建築界の近代化・大型化に対応し、米国の冷凍機専門メーカーであるウォーシントン社と技術提携して密閉形ターボ冷凍機を開発

1968年の時点では札幌・東京・名古屋・広島・福岡に支店と営業所を置き、その外側に代理店と特約店を全国へ張っていた。売る側の網は、自前の支店と外部の代理店の二重で組まれていた。1969年9月には空調・冷凍・冷蔵機器の販売と工事施工を担う子会社のダイキンプラントを設立し、据付工事までを自社の系列へ取り込んだ。作る側では1970年11月に滋賀製作所を新設し、ルームエアコンの本格的な量産に入った。売上高は1965年の150億円から1967年には260億円へ伸び、1968年度は320億円が見込まれる規模となり、1970年11月期には505億円に達した。輸出も数年前から本格化しており、1966年には新しい市場としてヨーロッパの開拓に踏み出していた。国内の量産工場と販売会社と工事網が出揃ったこの時点で、広げられる市場は海の外しか残っていなかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [34]販売網は札幌・東京・名古屋・広島・福岡に支店・営業所を置き、さらに代理店・特約店をネットとして全国に及ぼしていた(1968年時点)
    • [37]売上高は昭和40年150億円、41年200億円、42年260億円、43年度は320億円の見込み
    • [39]数年前から本格化した輸出が急速に伸び、1966年に新市場としてヨーロッパを開拓した
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [35]1969年9月 空調・冷凍・冷蔵機器の販売・工事施工子会社「ダイキンプラント株式会社」を設立
    • [36]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [38]1970年11月期の売上高は505億円
参考文献[23]-[39]
  • 読売新聞(1962年4月21日)
    • [23]電機メーカーが冷蔵庫の次にブームを呼ぶと狙いをつけていた商品がクーラーだった
    • [24]クーラーの市場占有率の30%近くを大阪金属工業が占め、三菱電機・日立・東芝・松下は10〜20%だった
    • [25]堺工場の増築費に19億円を投じてクーラーの総合工場を作る計画を持ちつつ、設備投資計画を繰り延べて1962年夏は見送り同年秋の完成予定とした
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
    • [26]フロン式冷凍機を製品化したわが国最初の会社として、工事のできる代理店網を全国350社規模で確立
    • [27]1961年11月期の売上高105億円のうち冷暖房が63億円で60%を占めた
  • 読売新聞(1961年7月19日)
    • [28]ビル冷房の普及にともない冷えすぎによる体調不良(冷房病)への注意が新聞で呼びかけられた
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]1963年10月 社名を「ダイキン工業株式会社」に変更
    • [31]1963年2月 堺製作所金岡工場を新設(パッケージエアコン・ルームエアコンの製造工場として稼動)
    • [35]1969年9月 空調・冷凍・冷蔵機器の販売・工事施工子会社「ダイキンプラント株式会社」を設立
    • [36]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [30]社章は地球に大阪金属の頭文字OとKを配し、同社製品の全世界への波及を意味している
    • [32]主力製品のパッケージ形エアコンは豊富に機種をそろえ、常に30%の国内シェアを保っている(1968年時点)
    • [33]建築界の近代化・大型化に対応し、米国の冷凍機専門メーカーであるウォーシントン社と技術提携して密閉形ターボ冷凍機を開発
    • [34]販売網は札幌・東京・名古屋・広島・福岡に支店・営業所を置き、さらに代理店・特約店をネットとして全国に及ぼしていた(1968年時点)
    • [37]売上高は昭和40年150億円、41年200億円、42年260億円、43年度は320億円の見込み
    • [39]数年前から本格化した輸出が急速に伸び、1966年に新市場としてヨーロッパを開拓した
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [38]1970年11月期の売上高は505億円

第2章 1971年〜 需要変動を分散する多角化オステンド進出から電子・フッ素化学への資源分散

筆者考察y.sugiura, author

多角化は事業を増やす話ではなく、沈む時期を互いにずらす話である。ダイキン工業の収益は夏の気温に握られていた。業務用空調機が主体でありながら、相対的に利益率の高い家庭用エアコンを抱えていたため、冷夏の1980年11月期には経常利益が前期の44億8000万円から14億8000万円へ低下し、猛暑の1983年11月期には56億1000万円と9年ぶりの最高益へ戻る。製品の構成は変わっていないのに、利益だけが3倍以上振れた。山田稔が機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業を掲げたのは、自社で動かせない気温という変数から、利益の形を引き剥がすためだった。

人を切らずに不況を越えた会社は、次の好況で余った人の置き場を探すことになる。1975年11月期に経常赤字23億1000万円を出したとき、ダイキン工業が取ったのは新卒採用の全面中止と約250人強の出向と約800人の一時帰休であって、人員整理ではなかった。3年後に営業網を広げた理由の半分は小型エアコンの販売力強化であり、もう半分は社内の余剰人員の有効活用である。電子技術者が集まらないと見るや、先に独立の電子部門を持つと決め、滋賀に研究センターという容れ物を建てたのも同じ順序だった。1984年に空調と電子とフッ素化学を並べた姿は、需要の分散であると同時に、人の行き場の設計でもあった。

経常利益(単体) 1977年11月期〜1984年11月期(億円)

3.5 77.11 15.2 78.11 44.8 79.11 14.8 80.11 21.9 81.11 39.1 82.11 56.1 83.11 89.1 84.11
  • 棒はすべて単体。この時期の連結の開示は無い。
  • 出所は会社年鑑1986年版。
  • 1975年11月期は23億1000万円、1976年11月期は9億9000万円の経常損失で、0 を底に描くこの図には置いていない。

1971年〜ダイキンヨーロッパ設立と国内空調の需要収縮

この時期にはルームエアコンの市場が広がっており、1972年の業界は前年の100万台を20%以上上回る135万台を確実とみて、カラーテレビに続く有力な商品と見なしていた。本格的な量産の担い手は1970年11月に動き出した滋賀製作所であり、1972年11月には空調機器の販売会社を東京と大阪に1社ずつ設け、その後も同じ形の子会社を各地に広げた。販売店を開拓したのは地元で採用した固有社員と営業に携わったことのない出向者で、始めのうちは難儀が続き、経費も累積損失も膨らんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した。売上高は1971年11月期の565億円から1974年11月期の903億円へ伸びた。

  • 読売新聞(1972年6月16日)
    • [40]1972年のルームエアコン市場は前年100万台を20%以上上回る135万台が確実と業界が見込み、ポスト・カラーテレビの有力商品と位置づけられた
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [41]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
    • [42]1972年11月 東京・大阪に空調機器販売会社を各1社設立、その後各地に同様の子会社を設立
  • 『(ダイキン・社史)』(1995年)
    • [43]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
    • [44]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [45]売上高は1971年11月期565億円、1974年11月期903億円

1972年3月、ダイキン工業はベルギー王国のオステンドに、ヨーロッパの製造・販売拠点としてダイキンヨーロッパエヌブイを設立した。この地を選んだ理由は3つあり、英国のEC加盟によってベルギーが欧州の交通と輸送の中核になるという判断、小国ながら政情が安定し英国やイタリアのような山猫ストに悩まされずに済むという見通し、そしてベルギー政府の積極的な外資導入政策であった。登録税と地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%といった恩典を、坂田逸郎社長はそのまま活用したとしている。当面の経営目標は、完全ノックダウンによる市場の拡張から、部品と材料の現地調達、そして現地での設計・製造・販売へと進む三段階に置かれた。

  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1972年3月 ベルギー王国にヨーロッパの製造・販売拠点として「ダイキンヨーロッパエヌブイ」を設立
  • 日経ビジネス 1974年10月14日号
    • [47]進出地にベルギーを選んだ理由は、英国のEC加盟による欧州の交通・輸送ネットワークの中核化、政情の安定と山猫ストの回避、ベルギー政府の積極的な外資導入政策の3点
    • [48]登録税・地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%などの外資優遇の恩典を活用した
    • [49]当面の経営目標は、第一段階が完全ノックダウンによる市場の拡張、第二段階が部品・材料の現地調達、第三段階が現地での設計・製造・販売

1975年11月期、売上高は前期の903億円から734億円へ落ち、経常損益は23億1000万円の赤字に転じた。石油危機の後の需要収縮が、季節に振られる商品を抱えた空調メーカーを直撃した形である。同社が取った手は3つで、1976年度の大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向させること、そして8月に産業空調部門の約800人を対象とする10日間の一時帰休であった。人員整理は行わなかった。山田稔社長は後年、1940年代の終わりに3年続けて人員整理をやった経験をこう振り返っている『昭和20年代に3年続けて整理をやったら、むなしくなってね。法廷闘争で勝ったとかスポーツみたいなつもりでやってたんだけど、後は空虚で。すっかりこりました』。赤字は翌1976年11月期も9億9000万円続き、経常黒字への復帰は1977年11月期の3億5000万円まで待つことになった。

  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [50]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
    • [52]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
  • 日経新聞(1975年7月12日)
    • [51]1976年度大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向、8月に産業空調部門の約800人を対象に10日間の一時帰休を実施
参考文献[40]-[52]
  • 読売新聞(1972年6月16日)
    • [40]1972年のルームエアコン市場は前年100万台を20%以上上回る135万台が確実と業界が見込み、ポスト・カラーテレビの有力商品と位置づけられた
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [41]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
    • [42]1972年11月 東京・大阪に空調機器販売会社を各1社設立、その後各地に同様の子会社を設立
    • [46]1972年3月 ベルギー王国にヨーロッパの製造・販売拠点として「ダイキンヨーロッパエヌブイ」を設立
  • 『(ダイキン・社史)』(1995年)
    • [43]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
    • [44]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [45]売上高は1971年11月期565億円、1974年11月期903億円
    • [50]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
    • [52]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
  • 日経ビジネス 1974年10月14日号
    • [47]進出地にベルギーを選んだ理由は、英国のEC加盟による欧州の交通・輸送ネットワークの中核化、政情の安定と山猫ストの回避、ベルギー政府の積極的な外資導入政策の3点
    • [48]登録税・地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%などの外資優遇の恩典を活用した
    • [49]当面の経営目標は、第一段階が完全ノックダウンによる市場の拡張、第二段階が部品・材料の現地調達、第三段階が現地での設計・製造・販売
  • 日経新聞(1975年7月12日)
    • [51]1976年度大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向、8月に産業空調部門の約800人を対象に10日間の一時帰休を実施

1978年〜余剰人員の営業転用と電子技術研究センターの新設

1978年4月、ダイキン工業は小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を狙い、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる方針を打ち出した。赤字の3年で抱え込んだ人を、工場ではなく売り場へ動かす配置である。同じ年の9月には堺製作所に臨海工場を新設し、コンプレッサーの製造工場として稼動させた。コンプレッサーを内製する投資と、人を営業へ充てる配置が同時に進んだことになる。経常利益は1977年11月期の3億5000万円から1978年11月期に15億2000万円、1979年11月期には44億8000万円へ戻り、売上高も1978年11月期に1037億円と初めて1000億円を超えた。

  • 日経産業新聞(1978年4月17日)
    • [53]小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を図るため、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [54]1978年9月 堺製作所臨海工場を新設(コンプレッサーの製造工場として稼動)
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [55]経常利益は1977年11月期3.5億円、1978年11月期15.2億円、1979年11月期44.8億円。売上高は1978年11月期1037億円

山田稔社長は、会社の技術水準はその社で最も高い技術を持つ人の水準で決まると考えていた。1979年6月、空調機器と油圧機器ではマイクロコンピューターを組み込んだ機種の開発を進めていたことから、部門ごとにばらばらだった研究開発の体制をひとつにまとめる方針が示されたが、肝心の電子技術者が集まらなかった。機械屋の下で手を貸すだけの役回りでは腕のある電子技術者は来ないと山田稔社長は見て、いずれ独立した電子部門を持つと先に決め、その決意を形にした電子技術の研究センターを滋賀工場に設けて看板とした。資金繰りに弱みを抱えて近づいてきたグラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業との提携を受け入れたのも先の考えによるもので、提携は相手の申し出で1年で終わったが、電子技術部門を起こす具体的なプロジェクトの出発点となり、その道の専門家を招き入れるきっかけにもなった。

  • 日経産業新聞(1979年6月1日)
    • [56]空調機器・油圧機器でマイクロコンピューターを採り入れた機種の開発が進んだため、各部門ごとの研究開発体制を一本化して効率化を図る
  • 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
    • [57]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
    • [58]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
    • [59]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた

冷夏に見舞われた1980年11月期、経常利益は前期の44億8000万円から14億8000万円に減った。業務用空調機が主力とはいえ、利益率が比較的高い家庭用エアコンも手がけていたため、夏の気温に収益が揺さぶられる体質だった。1980年のこのつまずきを機に、同社は機械・化学・電子の三分野を兼ね備え、天候に左右されにくい企業への転換を進めた。1982年11月にはCOMTECシリーズを出してコンピュータ・グラフィックス分野に入った。続いて1983年4月に鹿島工場を新設してフルオロカーボンガスとフッ素樹脂を作り始め、1984年8月には超真空用ポンプのクライオキャプチャーを売り出して極低温・超真空の分野にも踏み込んだ。1983年11月期は猛暑に恵まれて経常利益56億1000万円と9年ぶりに最高益を更新し、1984年11月期には89億1000万円に達した。

  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [60]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
    • [65]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
  • 日経新聞(1983年8月12日)
    • [61]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
    • [64]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [62]1980年の冷夏による業績不振を契機に、機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業への転進を実現した
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [63]1982年11月 コンピュータ・グラフィックス分野に進出(COMTECシリーズを発売)、1983年4月 鹿島工場新設(フルオロカーボンガス・フッ素樹脂の製造工場として稼動)、1984年8月 極低温・超真空分野に進出(超真空用ポンプ「クライオキャプチャー」を発売)
参考文献[53]-[65]
  • 日経産業新聞(1978年4月17日)
    • [53]小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を図るため、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [54]1978年9月 堺製作所臨海工場を新設(コンプレッサーの製造工場として稼動)
    • [63]1982年11月 コンピュータ・グラフィックス分野に進出(COMTECシリーズを発売)、1983年4月 鹿島工場新設(フルオロカーボンガス・フッ素樹脂の製造工場として稼動)、1984年8月 極低温・超真空分野に進出(超真空用ポンプ「クライオキャプチャー」を発売)
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
    • [55]経常利益は1977年11月期3.5億円、1978年11月期15.2億円、1979年11月期44.8億円。売上高は1978年11月期1037億円
    • [60]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
    • [65]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
  • 日経産業新聞(1979年6月1日)
    • [56]空調機器・油圧機器でマイクロコンピューターを採り入れた機種の開発が進んだため、各部門ごとの研究開発体制を一本化して効率化を図る
  • 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
    • [57]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
    • [58]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
    • [59]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
  • 日経新聞(1983年8月12日)
    • [61]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
    • [64]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [62]1980年の冷夏による業績不振を契機に、機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業への転進を実現した

1985年〜タイ・米国への生産移転と多角化の行き詰まり

足元で全天候型への転進を支えたのは、残業制限の撤廃を含め、職場ごとの実情に応じて個別に取り入れた労務管理で、労使の合意も予想以上の早さで整った。その背景として、一族の枠にこだわらず、下から意見を積み上げて決める姿勢を貫いてきたことが組合の理解を得ていたとみられる。社員が出した案も、たいていはまず試させた。部下に任せられる判断や決断はできるだけ部下に委ねるという決裁の決まりもあった。後継者の選び方について、山田稔社長は『山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ』と語ったことがある。創業家出身の社長が自分の手で世襲を終わらせたことは、意思決定を人ではなく仕組みに預けるこの会社の姿勢を表す出来事でもあった。

  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [66]全天候型企業への転進の成功のカギの一つが、残業制限の撤廃など各職場の実情に応じた個別の労務管理の導入で、労使間の合意は予想以上にスムーズに進んだ
    • [67]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
    • [68]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
  • 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
    • [69]部下で判断でき決断できることはできるだけ部下にまかせ、その決断を支持する側に回るべきで、上司が細かいことまで相談を受けないと機嫌が悪いようでは人が育たない

輸出で伸ばした欧州の次に置かれたのは、現地で作る拠点だった。1990年2月、タイ王国に空調機器の生産子会社としてダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッドを設立し、翌1991年1月にはアメリカ合衆国へフッ素化学製品の製造販売子会社のダイキンアメリカインクを置いた。空調は東南アジアで作り、フッ素化学は北米で売るという、分野ごとに地理を割り当てる配置である。ベルギーで踏んだ現地化の三段階を、今度は事業の性格に合わせて国ごとに分ける配置へ広げたことになる。売上高は1989年3月期の2759億円から1991年3月期の3440億円へ、当期純利益も102億円から145億円へ伸び、国内の空調に集まっていた収益源は地理と分野の両方で分散した状態に達した。

  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [70]1990年2月 タイ王国に空調機器の生産子会社「ダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッド」を設立、1991年1月 アメリカ合衆国にフッ素化学製品の製造販売子会社「ダイキンアメリカインク」を設立
  • 会社四季報(ダイキン工業)
    • [71]売上高は1989年3月期2759億円・1991年3月期3440億円、当期純利益は1989年3月期102億円・1991年3月期145億円

1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円を頂点として、業績は下り坂へ入った。1992年3月期は売上高を3681億円へ伸ばしながら純利益は129億円へ減り、1993年3月期には売上高3420億円・純利益54億6000万円と、2年で利益が3分の1近くまで減っている。分散させたはずの事業は、景気の後退局面では揃って沈んだ。主力の空調は精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあるという評価が、1994年に社長が交代する時点で外から下されている。1975年の赤字を人員整理なしで凌ぎ、余った人を営業へ充て、電子と化学へ分野を広げてきた20年の設計は、ここで一度立ち止まることになった。需要の振れを分野の数で埋める組み立ては、振れが同時に来る局面では効かなかった。

  • 会社四季報(ダイキン工業)
    • [72]1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円
    • [73]売上高は1992年3月期3681億円・1993年3月期3420億円、当期純利益は1992年3月期129億円・1993年3月期54.6億円
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [74]主力の空調事業が精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあると評された(1994年10月の社長交代時点)
参考文献[66]-[74]
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [66]全天候型企業への転進の成功のカギの一つが、残業制限の撤廃など各職場の実情に応じた個別の労務管理の導入で、労使間の合意は予想以上にスムーズに進んだ
    • [67]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
    • [68]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
  • 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
    • [69]部下で判断でき決断できることはできるだけ部下にまかせ、その決断を支持する側に回るべきで、上司が細かいことまで相談を受けないと機嫌が悪いようでは人が育たない
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [70]1990年2月 タイ王国に空調機器の生産子会社「ダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッド」を設立、1991年1月 アメリカ合衆国にフッ素化学製品の製造販売子会社「ダイキンアメリカインク」を設立
  • 会社四季報(ダイキン工業)
    • [71]売上高は1989年3月期2759億円・1991年3月期3440億円、当期純利益は1989年3月期102億円・1991年3月期145億円
    • [72]1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円
    • [73]売上高は1992年3月期3681億円・1993年3月期3420億円、当期純利益は1992年3月期129億円・1993年3月期54.6億円
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [74]主力の空調事業が精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあると評された(1994年10月の社長交代時点)

第3章 1994-2005 (気が向いたら執筆します!) 空調抜本改革計画と中国での本格展開、パナソニック・トレーンとの提携

第4章 2006-2010 (気が向いたら執筆します!) マレーシアOYLとロテックスの買収、格力との提携と15年ぶりの減収減益

第5章 2011-2023 (気が向いたら執筆します!) R32冷媒特許の開放と米Goodman買収、十河政則体制の世界空調首位

第6章 2024-2026 (気が向いたら執筆します!) 竹中直文社長の就任と創業100周年、エリオットの自社株買い要求

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歴史年表 1924〜2026年

ダイキンの沿革1924〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1924〜1970年軍需から民需への業態転換大阪金属工業所を設立★
山田晃大阪金属工業を設立。住友と資本提携★
山田晃フロンの開発に成功★★
山田晃堺製作所を新設★
山田晃淀川製作所を新設★
山田晃敗戦により生産縮小・1.6万名を解雇★★
山田晃大阪証券取引所に上場★
山田晃砲弾でつかんだ資金を元手とする、化学と冷熱機器への業態の組み替え

終戦で軍需を失い無配に転落した大阪金属工業(現ダイキン)が、朝鮮戦争で到来した米軍の迫撃砲弾特需に社内の慎重論を押し切って踏み込み、その利益を砲弾ではなく冷凍機・空調・フロンという民需へ再投資して業態転換を果たした経営判断。

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★★★
山田晃三フッ化樹脂を開発し発売★
山田晃東京証券取引所に上場★
山田晃ルームエアコン事業に参入★
山田晃社名を「ダイキン工業」に変更★
1971〜1993年需要変動を分散する多角化山田稔ベルギーに欧州拠点ダイキンヨーロッパを設立★
山田稔空調事業の販社を設立★
山田稔経常赤字23億円に転落。700名を人員整理★★
山田稔電子技術センターを新設★
山田稔長期経営計画「ビジョン60」を開始★
山田稔ココム違反により家宅捜索へ★★
山田稔新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成★
1994〜2005年空調抜本改革計画と中国での本格展開、パナソニック・トレーンとの提携井上礼之多角化の中止と、主力一本への経営資源の集中

1994年、業績が伸び悩むなかで社長に就任した井上礼之氏が空調抜本改革計画を立案し、多角化路線を止めて空調事業への集中投資へ着手した経営判断。3期連続で赤字の商品から撤退し、翌年に生産・開発・販売を統括する組織改革と商品戦略会議の設置を進めた。

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井上礼之中国での業務用高価格帯への集中という差別化戦略

1995年に上海のミシンメーカーとの合弁で中国へ入ったダイキンが、家庭用の価格競争を避け、官公庁・オフィス向けの業務用高価格帯に的を絞った差別化戦略。設計施工から保守までを一貫して担う体制で、後発ながら独自の位置を築いた。

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井上礼之製造販売に本格投資・買収で販売網を形成★★
井上礼之パナソニックと業務提携契約を締結★
北井啓之トレーンと包括的グローバル戦略提携に合意★★
2006〜2010年マレーシアOYLとロテックスの買収、格力との提携と15年ぶりの減収減益岡野幸義OYL社を買収★★
岡野幸義中国格力とインバータエアコンで業務提携を締結★
岡野幸義ロテックスを買収し子会社化★
岡野幸義15年ぶりの減収減益へ★
2011〜2023年R32冷媒特許の開放と米Goodman買収、十河政則体制の世界空調首位十河政則独占を捨てて普及を優先する、微燃性冷媒をめぐる知財戦略

ダイキンが自社の低温暖化冷媒R32に関する特許を競合他社へ無償開放した知財戦略。2011年に新興国向けへ特許を開き、2015年に全世界へ拡大、2019年には特許権を行使しない誓約へ進め、R32を業界共通の技術基盤に押し上げようとした経営判断。

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十河政則十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任★
十河政則買収を足がかりにした北米住宅用空調への本格参入

ダイキンが2012年、北米住宅用空調でトップシェアを占めるグッドマン グローバル グループ インクの議決権100%を取得の対価2,200百万米ドルで取得し、北米で主流のダクト式住宅用市場へ本格参入した経営判断。同社の借入の借換分を含む買収価額は37億ドルで、ダイキンとして最大規模のM&Aとなった。1980年代以来くり返した北米進出の三度目の挑戦である。

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十河政則新冷媒R32を採用したルームエアコンを発売★
十河政則欧州AHTクーリングシステムズを買収★
十河政則戦略売価施策を実行★
2024〜2026年竹中直文社長の就任と創業100周年、エリオットの自社株買い要求竹中直文前任の井上体制から離れる世代交代と、新たな経営体制への引き継ぎ

創業100年を迎えた2024年、ダイキンが竹中直文氏を社長兼COOに昇格させ、十河政則氏が会長兼CEOへ、30年にわたり経営を率いた井上礼之氏が取締役・会長を退任して名誉会長に就任した経営体制の承継。5月10日の決算発表と同日に公表し、6月27日の第121期定時株主総会で発効した13年ぶりの社長交代であった。

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竹中直文創業100周年を迎える★
竹中直文「FUSION30」の資本政策転換

2026年3月期末のダイキン工業の大株主に、エリオット インターナショナル エルピーが3.01%を保有する第4位として現れた。外国法人等の持株比率は前期から上がり、金融機関を上回った。ダイキンは2026年5月12日、戦略経営計画FUSION30の公表とあわせ、3,500億円の自己株式取得と配当方針の変更を決めた。

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出典・参考 20件
出典・参考
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
  • 『(ダイキン・社史)』(1995年)
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
  • 上場会社総覧 昭和36年版
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
  • 日経ビジネス 1974年10月14日号
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
  • 読売新聞(1961年7月19日)
  • 読売新聞(1962年4月21日)
  • 読売新聞(1972年6月16日)
  • 日経新聞(1975年7月12日)
  • 日経産業新聞(1978年4月17日)
  • 日経産業新聞(1979年6月1日)
  • 日経新聞(1983年8月12日)
  • 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
  • 会社四季報(ダイキン工業)

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