ダイキンの歴史

冷媒の内製化と自前の販売網で高収益を確保。グローバル展開に積極的

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Author: @yusugiura
1924〜1945 - 創業経緯
軍需品の生産で稼いだ利益で、フロン・冷凍機の開発に投資
1924 10月
創業経緯
[*出所1-1]
合資会社大阪金属工業所を設立
1924年に合資会社大阪金属工業所(現在のダイキン)が設立された。資本金は15,000円。創業者は山田晃氏であり、大阪砲兵工廠(軍需工場)に勤務していた経験を生かし、川崎重工向けの飛行機用ラジエーターチューブの製造を開始。創業翌年の1925年には満洲向けの瞬発信管30万発を受注し、軍需企業として業容を拡大した。
1931 10月
顧客開拓
[*出所1-2]
海軍省指定工場
圧搾加工品を海軍に納入。創業間もないベンチャー企業が指定工場の認定を受けるのは異例のことで、技術力が認められる形となった。
1933 04月
顧客開拓
[*出所1-3]
陸軍省指定工場
薬莢・信管を陸軍に納入
1933 11月
技術開発
[*出所1-4]
フロン(冷凍機)の研究開発を開始
海軍から空調研究の依頼を受けて、冷凍機の研究開発を開始。海軍としては潜水艦向けに空調の研究を進めたい意図があった
1934 02月
会社設立
大阪金属工業株式会社を設立。住友財閥と資本提携
【経営の近代化を決意】 1933年の時点でダイキンは、人事労務の面で課題を抱えていた。社員が競合企業を立ち上げて、ダイキンの技術者・技術を引き抜き、顧客も奪還されること...
詳細なレポートを読む ( 735文字)
1936 07月
新製品
[*出所1-6]
鉄道向け冷房を納入
南海電鉄に向けて電車用冷房「ミフジレータ」を納入。1938年には海軍の潜水艦向けに空調設備を納入。空調メーカーとして日本再先発へ。ただし、売り上げの大半は軍需部品であり、空調は新規事業の位置づけ
1937 02月
設備投資
[*出所1-7]
大阪府に堺工場を新設
空調(冷凍機)の工場として1号・2号工場を新設稼働。のちに増設された3号工場では航空機部品の生産を行い、軍需工場として活用
1941 02月
設備投資
[*出所1-8]
大阪府三島郡に淀川工場を新設
フロンの製造拠点として新設。冷房という機械領域と、冷媒という化学領域を、一気通貫で製造する世界でも珍しいメーカーに転身
1945 08月
経営危機
[*出所1-9]
敗戦により全工場の操業停止
1945〜1972 - 業容拡大
終戦直後も砲弾製造が稼ぎ頭。空調事業は育成途上
1949 05月
株式上場
[*出所2-1]
大阪証券取引所に株式上場
1952 08月
資本提携
[*出所2-2]
住友金属工業との資本提携を再開
戦後に途絶えていた住友金属工業との資本提携を復活。住友金属工業から春日弘氏(ダイキン・取締役会長)と土屋義夫氏(ダイキン・専務取締役)が派遣され、ダイキンの経営に従事。ダイキンは住友金属工業のグループ会社としての色彩を濃くした。
1954 11月
マーケティング
[*出所2-3]
冷凍機にダイキンの商標を使用
1956 07月
顧客獲得
[*出所2-4]
在日米軍向けに砲弾200万発を大量納入
朝鮮特需(防衛ラインの強化)により在日米軍から砲弾の大量受注に成功。累計199万発で、金額は68億円
1957 06月
株式上場
[*出所2-5]
東京証券取引所第1部に株式上場
1960 11月
マーケティング
[*出所2-6]
空調設備のテレビCMを開始
1965 01月
社長交代
[*出所2-7]
山田晃氏が取締役会長、土屋義夫氏が取締役社長に就任
1970 11月
設備投資
[*出所2-8]
滋賀工場を新設
冷房の普及(年率+20%の市場成長)に対応して家庭用エアコンの専門量産工場を新設。年産20万台。家電メーカーとの競合に対処。ダイキンは従来から得意だった業務用(国内シェア30%)に加えて、家庭用エアコンへの本格投資を開始した
1972〜1990 - 選択と集中
エアコン販社への投資を開始。ロボットなどの新事業も本格的に遂行
1972 01月
社長交代
[*出所3-1]
経営体制の変更
山田晃氏が取締役相談役(1973年逝去)、土屋義夫氏が取締役会長・山田稔氏が取締役社長に就任
1972 11月
販売促進
[*出所3-2]
空調事業の販社を設立
東京西ダイキン空調と北大阪ダイキン空調の2社を設立。エアコンの営業活動を本格化
1975 11月
業績低迷
[*出所3-3]
経常赤字23億円に転落。700名を人員整理
オイルショックによる業績低迷により、累計約700名を解雇。余剰となった工場勤務の従業員はエアコンの販売会社に配属転換して対応
1976 08月
資産売却
[*出所3-4]
堺工場を閉鎖
1979 06月
技術開発
[*出所3-5]
電子技術センターを新設
金岡工場内にエレクトロニクスの研究拠点設置。エレクトロニクスによる制御技術の研究を開始した。この研究によって、ダイキンはエアコン向けのインバータの内製化で世界最先発の企業に踊り出た。
山田稔(ダイキン・当時社長)
産業能率 = Industrial efficiency. (332)
1980 01月
経営方針
[*出所3-6]
長期経営計画「ビジョン60」を開始
1982 07月
新事業
[*出所3-7]
新事業展開のために2部署を新設
ロボットシステム部および電子機器部を新設
1983 02月
設備投資
[*出所3-8]
鹿島工場を稼働
フッ素樹脂プラントの稼働
1985 01月
経営方針
[*出所3-9]
長期経営計画「ビジョン65」を開始
1988〜2003 - 業績低迷
訴訟問題を抱えて化学事業が低迷。新事業からの撤退を本格化
1986 02月
株主総会
[*出所4-1]
総会屋により株主総会の運営に支障
特殊株主(総会屋)の妨害活動により、株主総会の開催時間が5時間58分。
1987
訴訟問題
[*出所4-2]
デュポンからダンピング提訴
フッ素製品の米国輸出が中止へ
1988 12月
訴訟問題
[*出所4-3]
ココム違反により家宅捜索へ
ソ連に軍需品としてフロン製品を輸出した疑いで、ダイキンの課長だった社員2名が逮捕。ダイキンの企業イメージが低下。役員4名を処分へ
1990 05月
経営方針
[*出所4-4]
長期経営計画「ビジョン95」を開始
1991 06月
事業撤退
[*出所4-5]
食洗機・製氷機から撤退
1991 06月
設備投資
[*出所4-6]
鹿島工場で新冷媒HFC134aの製造を開始
1993 08月
設備投資
[*出所4-7]
新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成
オゾン層の破壊に配慮した冷媒を開発。量産体制を構築。化学事業の再建に大きく寄与する冷媒となった。ダイキンの空調機器と冷媒の一貫生産を持続させる原動力に
1994 02月
北米事業
[*出所4-8]
アメリカ現地生産を開始
ダイキンアメリカ社のディケーター工場を稼働
1994 03月
業績不振
[*出所4-9]
連結経常赤字39.4億円に転落
1994 05月
中国事業
[*出所4-10]
中国に上海連絡事務所を新設
中国現地のミシンメーカーと合弁会社を設立。出資比率はダイキン60%・現地メーカー40%。当初は空調メーカーと合弁予定だったが米キャリア社が契約を締結しており、後発ダイキンが手を組む余地がなかった。ただし、ミシンメーカーは北京政府との関係が強く、のちにダイキンが高級エアコンの販売網を形成する際に大きな力になったと推察される
1994 06月
社長交代
[*出所4-11]
経営体制の変更
山田稔氏(1995年逝去)が取締役会長、井上礼之氏が取締役社長に就任
1994 10月
経営方針
[*出所4-12]
空調抜本的改革計画を立案
業績低迷を打破するために改革計画を立案。3期連続赤字の商品から撤退する方針を決定。これに基づき、翌1995年1月に組織改革を実施。生産・開発・販売の強化に即した組織に改編し、商品戦略会議を設置。また多角化を中止して、空調に集中投資を行う姿勢を打ち出した。
1995
事業撤退
[*出所4-13]
ロボット事業から撤退
累積100億円の赤字を出していたロボット事業から撤退。社内向け産業用ロボットの製造が主体で売り上げが伸びず
1996 01月
経営方針
[*出所4-14]
戦略経営計画「フュージョン21」を開始
1996 01月
経営方針
[*出所4-15]
機構改革を実施。グローバル戦略本部を新設
1997 04月
事業撤退
[*出所4-16]
住宅用暖房機から撤退
1997〜2006 - 選択と集中
中国での空調に投資。グローバル化の成功事例1号へ
1997 05月
中国事業
中国展開を本格化。高価格帯エアコンの販売網を強化
【中国では高価格帯エアコンに絞って販売攻勢。官公庁を狙う】 ダイキンは中国で高価格帯のエアコンを販売するために、400社がひしめく競争の激しい家庭向けエアコンではなく、...
詳細なレポートを読む ( 530文字)
1998 12月
事業撤退
[*出所5-2]
真空ポンプ事業から撤退
1999 05月
業務提携
[*出所5-3]
米デュポン社と冷媒特許のクロスライセンス基本契約を締結
1999 11月
業務提携
[*出所5-4]
パナソニックと包括提携契約を締結
空調事業においてグローバル包括提携契約に調印。前年に東芝が米国キャリア社と提携しており、キャリア社のグローバル展開に対抗する狙いがあった
2002 02月
経営方針
[*出所5-5]
空調部門で「技術のダイキン宣言」を実施
2003 09月
業績好調
[*出所5-6]
国内ルームエアコンでシェア1位を確保
2003年度の国内シェア1位(16.9%)を確保。
2003 02月
中国事業
[*出所5-7]
中国のサービス会社を100%出資
既に進出していた中国での販売体制を強化。100%出資によるサービス会社を3社(大金空調技術北京有限公司・大金空調技術広州有限公司・大金空調技術広上海有限公司)を設立。高価格帯の業務用エアコンへの投資を継続
2004 01月
災害事故
[*出所5-8]
鹿島工場で爆発事故が発生
2004 03月
事業撤退
[*出所5-9]
極低温冷凍機事業を売却
売却先は住友重機械
2005 02月
グローバル
[*出所5-10]
グローバルSCM推進部を新設
2005 11月
事業撤退
[*出所5-11]
油圧式立体駐車装置事業から撤退
2006〜2022 - 海外展開
グローバル展開を継続。巨額買収で売上高を拡大
2006 04月
経営方針
[*出所6-1]
戦略経営計画FUSION10を策定
2006 05月
企業買収
[*出所6-2]
OYL社を2320億円で買収
グローば大手空調メーカー
2007 05月
資金調達
[*出所6-3]
公募増資で1200億円を調達
OLY買収資金に充当
2008 03月
業務提携
[*出所6-4]
中国格力とインバータエアコンで業務提携を締結
2008 09月
企業買収
[*出所6-5]
ロテックス社を買収
ドイツの暖房機メーカー
2009 03月
業績不振
[*出所6-6]
15年ぶりの減収減益へ
14期連続増収増益の記録が途絶へ
2009 04月
不正会計
[*出所6-7]
不適切な会計処理が発覚
2009 07月
資金調達
[*出所6-8]
1000億円を社債で資金調達
2010 04月
経営方針
[*出所6-9]
戦略経営計画FUSION15を策定
2010 11月
企業買収
[*出所6-10]
北米グッドマン社を2970億円で買収
北米の住宅向け空調メーカーを37億ドルで買収
2012 11月
新製品
[*出所6-11]
新冷媒R32を採用したルームエアコンを発売
新冷媒R32の本格展開を開始。第一弾として「うるさら7Rシリーズ」としてルームエアコン向けに展開
2014 06月
社長交代
[*出所6-12]
経営体制の変更
十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任。井上礼之氏は代表取締役会長兼任CEO
2020
プライシング
[*出所6-13]
戦略売価施策を実行
世界的なインフレに対応して平均4〜5%の値上げを実施。利益を確保
1934
Report

大阪金属工業株式会社を設立。住友財閥と資本提携

会社設立

経営の近代化を決意

1933年の時点でダイキンは、人事労務の面で課題を抱えていた。社員が競合企業を立ち上げて、ダイキンの技術者・技術を引き抜き、顧客も奪還されることに悩まされていた。

そこで、ダイキンは組織体制を近代化するために、住友財閥の住友伸銅所との資本提携を締結することを決めた。当時のダイキンの企業規模に対して、住友財閥は比較できないほどの大企業であり、異例の資本提携となった。

ダイキンは住友から銅やアルミといった材料を仕入れており、両社ともに大阪に拠点を置いていたという縁があった。住友財閥としてダイキンの高い技術力に期待した。

ただし、資本政策において、ダイキン側は経営の支配権を譲らない姿勢をとり、住友財閥に条件提示した。具体的には、①株式の保有比率は、創業者の山田晃氏の持分に対して、住友財閥の持分が超過しないこと、②住友財閥は取締役の過半数をダイキンに派遣しないこと、③住友財閥はダイキンの経営方針に関与しないことを条件として提示している。

住友財閥はこの条件を承諾し、ダイキンは住友財閥との資本提携による株式会社設立を行った。

業容の拡大

1933年時点のダイキンは従業員数約300名であったのに対して、1941年の時点で10,000名を突破。約7年間で30倍に急拡大を遂げた。

背景としては、軍需品に対するニーズが高まったことや、資金調達によって大規模な設備投資が可能になったことが挙げられる。1930年代後半は日本で海軍と陸軍が軍備拡張を図った時代であり、ダイキンは時代の波に乗る形となった。

すなわち、戦前にダイキンが中小企業から大企業へと発展する上で、住友財閥との資本提携は重要な決定事項であったといえる。

1997
Report

中国展開を本格化。高価格帯エアコンの販売網を強化

中国事業

中国では高価格帯エアコンに絞って販売攻勢。官公庁を狙う

ダイキンは中国で高価格帯のエアコンを販売するために、400社がひしめく競争の激しい家庭向けエアコンではなく、官公庁や銀行などのカスタマイズが必要な業務用空調の顧客開拓に集中した。1997年に政府機関が集積する北京に事務所を新設。技術セミナーの開催や、積極的な営業(販売店開拓のための飛び込み営業)、卸を介さない直売代理店の整備(2003年までに150店)、空調システムの個別提案によって、ダイキンブランドの浸透を狙った。

ダイキンの営業方針は、中国市場では後発参入であったために、まだ開拓されていない高価格帯という市場しか残されていなかったという事情もあった。これらの戦略は、田谷野憲氏(2014年にダイキン副社長就任)が主導する形で行われた。

中国事業で高収益・高シェアを達成

この結果、1999年から2003年にかけてダイキンは中国事業で「売上高利益率20%超」の高収益を達成。また、資金繰りの面では、手形決済ではなく前払いによるキャッシュフローを実現した。2003年時点で、中国における業務エアコンのシェア60〜70%を確保し、中国事業はダイキンの収益源に育った。

川村郡太郎(ダイキン・当時中国担当専務)

先進技術に対してカネを惜しまない市場が中国には確実にある。国や地方政府が威信をかけて作る建築物や、通信などのインフラ関係、外資系を含む全国チェーン店などだ。財政支出などから確実に予算がつく優良需要を抑えられることが高収益の秘訣

2003/3/17日経ビジネス

参考文献・出所

0 References.
[*4-2]
2011/10/29
[*5-1]
2003/3/17