1907年〜 日英合弁で始まった国産兵器メーカーの拡張と戦時統制下の拡張期
- 1907年 北海道炭礦汽船・アームストロング・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所を設立
- 1915年 本店を移転
- 1919年 北海道製鉄を合併し製鉄・採鉱事業を兼営
- 1920年 広島製作所を買収
- 1931年 製鉄・採鉱事業の分離と輪西製鉄の設立、鋳鍛鋼・兵器・産業機械への集中 銑鋼一貫を保つか、鋼を鍛える工程に絞るか——軍縮期の日本製鋼所が引いた事業の線
- 1935年 横浜工場を起工
- 1945年 敗戦を受け民需品生産への転換を開始
日英3社合弁で生まれた民間兵器メーカー
1907年11月、北海道炭礦汽船・英アームストロング(アームストロング・ウイットウォース社)・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所が設立された。日英同盟下で軍艦の大砲や砲弾の国産化を急いでいた日本政府の要請を受けた形で、伊藤博文・松方正義ら政府要人の支持のもと、本店と工場は北海道炭礦汽船の拠点がある室蘭に置かれた。もともと国家的視野に立っての設立だっただけに、陸海軍の兵器を中心に生産して順調な発展をたどることになる。資本金は当時の民間製造業としては最大級の規模で、出資比率は日本側と英国側でほぼ拮抗し、経営も日英の役員が並ぶ国際色の強い体制でスタートした。英国二社と帝国海軍からの技術指導を受け、民間の兵器メーカーとしては異例の体制で業容を拡大し、1915年には本店を東京市に移し、1918年には大阪市に支店を開くなど、戦前日本で屈指の重工業メーカーへと急成長した。 [1][2][3][4][5][6]
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1907年11月 北海道炭礦汽船・英アームストロング・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所を設立
- [4]日英同盟下で軍艦の大砲・砲弾の国産化を急ぐ政府の要請を受けて設立
- [5]本店と工場を北海道室蘭に置く
- [6]1915年12月 本店を東京市に移転
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]明治40年(1907年)に北海道炭礦汽船と英アームストロング・ウイットウォース社、ビッカース社の三社共同出資で設立された
- [3]国家的視野に立っての設立で、陸海軍の兵器を中心に生産し順調な発展をたどった
1919年12月には隣接する北海道製鉄株式会社を合併して製鉄・採鉱事業を取り込み、輪西工場として銑鋼一貫の兵器複合拠点に再編した。翌1920年11月には海軍呉工廠の軍備拡張に備えて株式会社広島製作所を買収し、広島市外に広島工場を設置する。のちに樹脂機械の主力工場となるこの広島拠点は、当初は海軍向け砲弾の製造拠点として出発したものだった。日英同盟と帝国海軍の軍拡が、日本製鋼所の地理的配置を決めた構図である。創業から十年余りで、室蘭の鋳鍛鋼拠点と広島の砲弾拠点という二極体制が形づくられ、第一次大戦後の不況期にあっても海軍の艦艇拡張計画を受けて受注を伸ばし、1930年前後には戦前の国策兵器産業を支える主軸企業に位置を占めた。 [7][8][9]
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [7]1919年12月 北海道製鉄を合併し製鉄・採鉱事業を兼営(輪西工場として再編)
- [8]1920年11月 広島製作所を買収し広島工場を設置
- [9]広島工場は当初は海軍向け砲弾の製造拠点として出発し、のちに樹脂機械の主力工場となる
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1907年11月 北海道炭礦汽船・英アームストロング・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所を設立
- [4]日英同盟下で軍艦の大砲・砲弾の国産化を急ぐ政府の要請を受けて設立
- [5]本店と工場を北海道室蘭に置く
- [6]1915年12月 本店を東京市に移転
- [7]1919年12月 北海道製鉄を合併し製鉄・採鉱事業を兼営(輪西工場として再編)
- [8]1920年11月 広島製作所を買収し広島工場を設置
- [9]広島工場は当初は海軍向け砲弾の製造拠点として出発し、のちに樹脂機械の主力工場となる
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]明治40年(1907年)に北海道炭礦汽船と英アームストロング・ウイットウォース社、ビッカース社の三社共同出資で設立された
- [3]国家的視野に立っての設立で、陸海軍の兵器を中心に生産し順調な発展をたどった
軍縮下の製鉄撤退と戦時生産への全面転換
1930年前後の軍縮で兵器需要が落ち込むと、輪西の製鉄設備は1931年に別会社として分離され、のちに日本製鐵(現・日本製鉄)に引き継がれて室蘭製鉄所となる。日本製鋼所は製鉄事業から撤退し、鋳鍛鋼素材・兵器・産業機械の三分野に事業を絞ったが、この「軍縮で製鉄を手放した」ことが、戦後に製鉄大手と全く違う道を歩む出発点となった。同じ室蘭の隣地に日本製鉄の高炉と日本製鋼所の鋳鍛鋼工場が並ぶ現在の地理的配置は、この1931年の分離に直接由来するもので、兵器メーカーとしての性格をむしろ先鋭化させる結果を招いた。製鉄事業から解放された室蘭製作所は、以後は大砲の砲身や艦艇用の鋳鍛鋼素材の専業拠点として軍需一色に染まっていき、産業機械事業も砲金や軍用鋳物の派生として扱われた。大艦巨砲時代には室蘭製作所の1万トンプレスの巨大設備に示されるように、民間最大・最新鋭の兵器会社となっていた。 [10][11][12]
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [10]1931年1月 製鉄事業から撤退(輪西工場を分離、のち日本製鉄室蘭製鉄所に継承)
- [11]製鉄撤退後は鋳鍛鋼素材・兵器・産業機械の三分野に事業を絞った
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]大艦巨砲時代には室蘭製作所の1万トンプレスの巨大設備に示されるように民間最大・最新鋭の兵器会社となっていた
1935年11月には神奈川県金沢町で横浜工場を起工、1936年6月に竣工して操業を開始し、1941年には東京・府中に武蔵製作所(のちの東京製作所)を稼働させて陸軍向け戦車の量産を開始する。1938年9月には国家総動員法を受けて陸海軍の管理工場に指定され、室蘭は砲身、広島は各種砲弾、武蔵は戦車という役割分担で軍需生産に全面的に転換した。戦時統制下で事業は伸び、四つの製作所と傘下の協力工場網を束ねる大企業へと膨張し、軍需省指定の基幹工場として国家の戦争遂行の中核を担うに至った。製品は車輪用車軸・船舶用品・電機用品から鉄鋼・化学・各種機械まで重化学工業の必需品をほぼ網羅していた。この戦時拡張で積み上がった過剰設備と労働力は戦後の民需転換期に重くのしかかり、後年80年代から続く長期人員削減と構造改革の遠因ともなった。 [13][14][15][16]
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [13]1935年11月 横浜工場を神奈川県金沢町に起工、1936年6月竣工・操業開始
- [14]1941年 武蔵製作所(東京・府中、のちの東京製作所)を稼働させ陸軍向け戦車の量産を開始
- [15]1938年9月 国家総動員法を受けて陸海軍の管理工場に指定
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [16]戦前は車輪用車軸・船舶用品・電機用品から鉄鋼・化学・各種機械まで重化学工業が必要とするものをすべて供給した
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [10]1931年1月 製鉄事業から撤退(輪西工場を分離、のち日本製鉄室蘭製鉄所に継承)
- [11]製鉄撤退後は鋳鍛鋼素材・兵器・産業機械の三分野に事業を絞った
- [13]1935年11月 横浜工場を神奈川県金沢町に起工、1936年6月竣工・操業開始
- [14]1941年 武蔵製作所(東京・府中、のちの東京製作所)を稼働させ陸軍向け戦車の量産を開始
- [15]1938年9月 国家総動員法を受けて陸海軍の管理工場に指定
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]大艦巨砲時代には室蘭製作所の1万トンプレスの巨大設備に示されるように民間最大・最新鋭の兵器会社となっていた
- [16]戦前は車輪用車軸・船舶用品・電機用品から鉄鋼・化学・各種機械まで重化学工業が必要とするものをすべて供給した