1962年〜 「安全はタダ」の国に警備を売り、人手から機械へ切り替える
セコムの業績推移:単体
- 1962年 セコム創業——巡回ガードマンから日本初のオンライン警備「SPアラーム」へ 「安全はタダ」とされた日本で、酒問屋を出た29歳・飯田亮氏は、戸田壽一氏との民間警備会社をどう機械警備の事業へ育てたか
- 1964年 東京オリンピックの選手村警備を単独で担当
- 1966年 人海警備から機械警備へ——日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」 需要が人手の限界を超えたとき、飯田亮氏はなぜ「無人警備以外の注文をとるな」と号令したか
- 1974年 東京証券取引所市場第二部に上場
- 1975年 世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立
- 1977年 東京電力・関西電力・中部電力との合弁で日本原子力防護システムを設立
- 1977年 安全機器を自社生産するセコム工業を設立
産業として存在しない市場へ、前金で売る
1962年7月7日、飯田亮氏と戸田壽一氏は日本警備保障株式会社を東京に設立した[1]。資本金600万円、社員5名の陣容で、飯田氏は29歳だった[2]。当時の日本では治安の維持を警察が無償で担う通念が根強く[3]、企業が代金を払って安全を買うという発想は浸透していない。飯田氏は赤坂の酒問屋「岡永」の三男[4]で、家業では代金の回収が長期にわたる。前金で対価を受け取れる業態を条件に独立先を探し[5]、欧米で既に機能していた民間警備に行き着いた[6]。飯田氏は独立の動機を「わたしが日本警備保障を設立した動機は、何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心からである[7]」(日経ビジネス 1973/8/6)と振り返っている。創業初年度は法人顧客の開拓が難航し[8]、売上はごく小さい水準にとどまった。
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [1]1962年7月7日 日本警備保障株式会社を設立
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [2]飯田亮氏 1933年生まれ(創業時29歳)
- [3]治安維持を警察が無償で担う通念が根強く民間警備という業態が未確立
- [4]赤坂の酒問屋「岡永」の三男に生まれ家業へ入った
- [5]前金で代金を受け取れる業態を条件に独立先を探し民間警備という未開拓領域に行き着いた
- [6]欧米で機能していた民間警備の事例に着目し戸田壽一氏を共同創業者に誘った
- [7]独立の動機を「何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」と回想
- [8]創業初年度は法人顧客の開拓が難航し売上はごく小さい水準
1964年10月の東京オリンピックで、日本警備保障は選手村などの警備を単独で担い[9]、創業から2年で国家的行事の警備を任された。請け負える民間警備会社がほかにほとんど存在しなかった[10]事情も、単独受注の背景にあった。日本の警備業は同社が1962年に創業したことに始まり、東京オリンピックによって業界は一挙に拡大している[11]。1965年末には法人からの「警戒」注文が殺到[12]した。ところが警備員を常駐・巡回させる人手警備は、契約が増えるほど警備員を増やさねばならず[13]、人件費が売上に比例して膨らむ。1966年末の人員は約790人[14]まで増えており、採用が需要の伸びに追いつかなければ成長が頭打ちになる構造を抱えていた。
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [9]1964年10月 東京オリンピックの選手村などの警備を単独で担当
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [10]請け負える民間警備会社がほかにほとんど存在しない事情が単独受注の背景
- [13]警備は人海作戦が必要という従来の考え方が根強く、人手警備は契約増が人件費増に直結
- [14]1966年末の人員 約790人
- 証券アナリストジャーナル 1998年6月号(36巻7号)「東洋テック」
- [11]日本の警備業は日本警備保障の昭和37年創業に始まり東京オリンピックで一挙に拡大
- 読売新聞(1965年12月23日)
- [12]1965年末 法人からの「警戒」注文が殺到
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [1]1962年7月7日 日本警備保障株式会社を設立
- [9]1964年10月 東京オリンピックの選手村などの警備を単独で担当
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [2]飯田亮氏 1933年生まれ(創業時29歳)
- [3]治安維持を警察が無償で担う通念が根強く民間警備という業態が未確立
- [4]赤坂の酒問屋「岡永」の三男に生まれ家業へ入った
- [5]前金で代金を受け取れる業態を条件に独立先を探し民間警備という未開拓領域に行き着いた
- [6]欧米で機能していた民間警備の事例に着目し戸田壽一氏を共同創業者に誘った
- [7]独立の動機を「何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」と回想
- [8]創業初年度は法人顧客の開拓が難航し売上はごく小さい水準
- [10]請け負える民間警備会社がほかにほとんど存在しない事情が単独受注の背景
- [13]警備は人海作戦が必要という従来の考え方が根強く、人手警備は契約増が人件費増に直結
- [14]1966年末の人員 約790人
- 証券アナリストジャーナル 1998年6月号(36巻7号)「東洋テック」
- [11]日本の警備業は日本警備保障の昭和37年創業に始まり東京オリンピックで一挙に拡大
- 読売新聞(1965年12月23日)
- [12]1965年末 法人からの「警戒」注文が殺到
府中3億円事件と、無人警備への一本化
1966年6月、日本警備保障は日本初のオンラインによる安全システム「SPアラーム」を開発・発売した[15]。センサーが異常を検知し、専用電話回線で監視センターへ通報し[16]、駆けつけ要員が現場へ向かう仕組みで、警備は契約先に社員を常駐させる方式と機械的に監視する無人化警備とに分かれた。飯田氏は機械化したのちも保証金とレンタル制を採り[17]、契約が続くかぎり利用料が積み上がる収益の仕組みを設計している。創業当時は業種がサービス業で担保もなく、銀行からの融資が厳しかったため、創業時から前払い制を採っていた[18]。学校・銀行・店舗など夜間の無人時間が長い施設が初期の顧客となった[19]。
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [15]1966年6月 日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [16]契約先に社員を常駐させる警備と専用電話回線で機械的にチェックする無人化警備に分かれていた
- [19]学校・銀行・店舗など夜間無人時間の長い施設が初期顧客
- 週刊東洋経済 2002年1月19日号「不屈の経営者21人の神髄 キャッシュフロー経営を徹底追求 セコム 飯田亮取締役最高顧問」
- [17]機械化後も保証金・レンタル制を採用しキャッシュフローを生む仕組みを作った
- [18]創業時は業種がサービス業で担保がなく銀行融資が厳しかったため前払い制を採用
1968年12月に東京府中で3億円事件が起きる[20]と、機械では犯行を防げないという批判が向けられた。飯田氏はむしろ機械警備への確信を強め、1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな[21]」と社内へ指示した。人手警備の新規受注を断つ号令であり、当時の無人化警備はまだ売上の0.5%[22]にすぎない。号令の後、無人化警備は1972年に全売上の55%、1973年には60%近くへ広がった[23]。1972年からは大会社・大工場向けに人と機械を併用した大規模警備システムも投入している[24]。創業10年で売上は約82億円、人員は5,500人規模[25]に達した。
- 読売新聞(1969年4月8日)
- [20]1968年12月 東京府中で3億円事件が発生
- [21]飯田亮氏 1969年「今後は無人警備以外の注文をとるな」と社内へ指示
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [22]1969年時点で無人化警備は売上の0.5%
- [23]無人化警備 1972年に全売上の55%・1973年に60%近く
- [24]1972年から大会社・大工場向けに人と機械を併用した大規模警備システムを投入
- [25]創業10年で売上 約82億円・人員5,500人規模
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [15]1966年6月 日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」(日経マグロウヒル社)
- [16]契約先に社員を常駐させる警備と専用電話回線で機械的にチェックする無人化警備に分かれていた
- [19]学校・銀行・店舗など夜間無人時間の長い施設が初期顧客
- [22]1969年時点で無人化警備は売上の0.5%
- [23]無人化警備 1972年に全売上の55%・1973年に60%近く
- [24]1972年から大会社・大工場向けに人と機械を併用した大規模警備システムを投入
- [25]創業10年で売上 約82億円・人員5,500人規模
- 週刊東洋経済 2002年1月19日号「不屈の経営者21人の神髄 キャッシュフロー経営を徹底追求 セコム 飯田亮取締役最高顧問」
- [17]機械化後も保証金・レンタル制を採用しキャッシュフローを生む仕組みを作った
- [18]創業時は業種がサービス業で担保がなく銀行融資が厳しかったため前払い制を採用
- 読売新聞(1969年4月8日)
- [20]1968年12月 東京府中で3億円事件が発生
- [21]飯田亮氏 1969年「今後は無人警備以外の注文をとるな」と社内へ指示
上場と、機器内製・原子力防護への広がり
1972年12月、株式の額面金額を変更するため、日本警備保障はエスピーアラームシステムズを形式上の存続会社として合併した[26]。登記上の設立年月日が1923年4月4日と記される[27]のはこの合併によるもので、実質上の存続会社である日本警備保障の設立は1962年7月7日にあたる。1974年6月、同社は東京証券取引所市場第二部に上場した[28]。上場した年、全国250カ所に警報基地を持ち、従業員3,300人、年間売上110億円・経常利益11億円[29]を計上し、年30%を超える成長率を保った。
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [26]1972年12月 株式額面金額変更のためエスピーアラームシステムズ(形式上の存続会社)と合併
- [27]登記上の設立年月日1923年4月4日は株式額面変更目的の合併によるもので実質上の存続会社の設立は1962年7月7日
- [28]1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 読売新聞(1974年10月2日)
- [29]1974年時点 全国250カ所の警報基地・従業員3,300人・年間売上110億円・経常利益11億円・年30%超の成長
1975年3月、日本警備保障は世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立した[30]。1977年7月、日本警備保障は東京電力・関西電力・中部電力との合弁で、原子力防護の専門会社である日本原子力防護システムを設立し[31]、警備の対象を民間施設の外へも広げた。同年10月には安全機器を自社で生産するセコム工業を設立している[32]。機械化セキュリティーの機器は売り切らず、5年契約のレンタルで貸し出す形をとり[33]、契約が続くかぎり利用料が積み上がる。
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [30]1975年3月 世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立
- [31]1977年7月 東京電力・関西電力・中部電力との合弁で日本原子力防護システムを設立
- [32]1977年10月 安全機器を自社生産するセコム工業を設立
- 日経ビジネス 1992年2月24日号「セコム『本業』と会長への依存に決別 専任役員決め新規事業加速」
- [33]機械化セキュリティー事業は5年契約のレンタルでストック収入を生む仕組み
- セコム 有価証券報告書 第63期(2025年3月期)【沿革】(当時社名 日本警備保障)
- [26]1972年12月 株式額面金額変更のためエスピーアラームシステムズ(形式上の存続会社)と合併
- [27]登記上の設立年月日1923年4月4日は株式額面変更目的の合併によるもので実質上の存続会社の設立は1962年7月7日
- [28]1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [30]1975年3月 世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立
- [31]1977年7月 東京電力・関西電力・中部電力との合弁で日本原子力防護システムを設立
- [32]1977年10月 安全機器を自社生産するセコム工業を設立
- 読売新聞(1974年10月2日)
- [29]1974年時点 全国250カ所の警報基地・従業員3,300人・年間売上110億円・経常利益11億円・年30%超の成長
- 日経ビジネス 1992年2月24日号「セコム『本業』と会長への依存に決別 専任役員決め新規事業加速」
- [33]機械化セキュリティー事業は5年契約のレンタルでストック収入を生む仕組み