1918年〜 田園都市株式会社から東急不動産独立までの35年
東急不動産ホールディングスの業績推移:単体
- 1918年 前身・田園都市を設立
- 1953年 東急不動産設立
- 1955年 不動産賃貸業に参入
- 1956年 東京証券取引所市場第二部に上場
- 1961年 提携住宅ローンを発表
- 1961年 東京証券取引所市場第一部に指定
- 1970年 東急コミュニティーを設立
渋沢栄一の理想を五島慶太が事業化するまでの空白
東急不動産の源流は、渋沢栄一と中野武営らが理想的な住宅地開発の必要を唱え、1918年に設立した田園都市株式会社にある。1921年に経営中枢へ加わった五島慶太は、田園都市開発と鉄道建設を一体で進める方針をとった。田園調布の街区では総面積の18%を道路・公園に充て、電灯・上下水道を完備し、建築規則で住環境を保全した。同社は1928年に同一資本の目黒蒲田電鉄と合併し、1939年には目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄と合併した。戦時下では住宅建物等価格統制令が公布されて田園都市事業は開店休業に追い込まれ、戦時統合で東京急行電鉄に組み込まれて休眠が続いた。 [1][2][3]
- 東急不動産90年史
- [1]1918年に田園都市株式会社が設立された
- [2]1939年に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄と合併した
- [3]戦時統合で田園都市事業は東京急行電鉄(大東急)に組み込まれた
戦後1948年6月、東京急行電鉄から京浜急行・小田急・京王帝都の3社が分離した。沿線開発に本腰を入れる経営環境はしばらく整わなかった。戦後の混乱が一段落し、五島慶太が公職追放を解除されて会長へ復帰すると、田園都市事業を不動産専業会社として復活させる構想が動き出した。1953年12月、資本金3億円で東急不動産が設立され、会長に五島慶太、社長に五島昇が就いた。鉄道本体から沿線以外の不動産開発を担う事業を切り出した形で、東急電鉄の田園都市事業(沿線開発を除く)を継承する建付けとした。私鉄系ディベロッパーとして、沿線資産の価値向上と沿線外の郊外宅地開発を一体で担う原型がここで定まった。設立2年後には独自で分譲地の造成販売に踏み出し、早期自立の体制を固めた。 [4][5][6][7][8]
- 東急不動産90年史
- [4]1948年6月に東京急行電鉄から京浜急行・小田急・京王帝都の3社が分離した
- 有価証券報告書
- [5]1953年12月に東急不動産が設立された
- [7]東急不動産の設立時に会長へ五島慶太、社長へ五島昇が就いた
- [8]東急不動産は東京急行電鉄の不動産開発事業(田園都市事業)を継承して設立された
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]東急不動産の設立時資本金は3億円だった
- 東急不動産90年史
- [1]1918年に田園都市株式会社が設立された
- [2]1939年に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄と合併した
- [3]戦時統合で田園都市事業は東京急行電鉄(大東急)に組み込まれた
- [4]1948年6月に東京急行電鉄から京浜急行・小田急・京王帝都の3社が分離した
- 有価証券報告書
- [5]1953年12月に東急不動産が設立された
- [7]東急不動産の設立時に会長へ五島慶太、社長へ五島昇が就いた
- [8]東急不動産は東京急行電鉄の不動産開発事業(田園都市事業)を継承して設立された
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]東急不動産の設立時資本金は3億円だった
提携住宅ローンと津田山ニュータウンが固めた総合不動産の骨格
設立から3年後の1956年4月に東京証券取引所へ株式を上場し、同年12月には渋谷営業所を設けて仲介業へ本格参入した。1961年6月には日本初の提携住宅ローンを発表し、住宅取得層の資金調達を金融機関と組み合わせて取り込む販売体制を整えた。1962年4月の津田山ニュータウン分譲は、田園都市株式会社の住環境思想を引き継いだ郊外住宅地として支持を集めた。戦後日本における「ニュータウン」という街づくり概念の原型を作った事例と、日本会社史総覧(1995/11)に記される。郊外宅地開発が同社の幹となり、住宅供給を中心とする総合不動産経営の骨格がここで定まった。私鉄沿線の住宅地開発を、提携ローンと一体で売り切る販売モデルが、戦後型ディベロッパーの原型を成した。 [9][10]
- 有価証券報告書
- [9]1956年4月に東京証券取引所へ株式を上場した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [10]津田山ニュータウンは戦後日本の「ニュータウン」概念の原型をつくった事例とされる
開発の一方で業態拡張も行った。1955年4月の外人向け代官山東急アパート、1966年3月の注文住宅「東急ホーム」、1967年4月の中高層住宅「東急ドエル」、1969年9月の再開発複合ビル「赤坂東急ビル」と、住宅から商業まで領域を広げた。1970年ごろには「デベロッパー東急」と呼ばれる総合不動産会社の地位を固めた。1970年4月にはマンション・ビル管理を担う東急コミュニティーを、1970年8月には大阪支店を開設し、1972年3月には不動産仲介専業の東急エリアサービス(現・東急リバブル)を設立した。住宅開発・管理・仲介という3事業の骨格が短期間で揃い、後年の持株会社体制を支える基本構造を先取りとなった。 [11][12][13][14]
- 有価証券報告書
- [11]1955年4月に外人向けの代官山東急アパートを開設した
- [12]1970年4月にマンション・ビル管理を担う東急コミュニティーを設立した
- [13]1970年8月に大阪支店を開設した
- [14]1972年3月に不動産仲介専業の東急エリアサービス(現・東急リバブル)を設立した
- 有価証券報告書
- [9]1956年4月に東京証券取引所へ株式を上場した
- [11]1955年4月に外人向けの代官山東急アパートを開設した
- [12]1970年4月にマンション・ビル管理を担う東急コミュニティーを設立した
- [13]1970年8月に大阪支店を開設した
- [14]1972年3月に不動産仲介専業の東急エリアサービス(現・東急リバブル)を設立した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [10]津田山ニュータウンは戦後日本の「ニュータウン」概念の原型をつくった事例とされる