1949年〜 後発デベロッパーの東京都心集中と安藤太郎の決断
住友不動産の業績推移
- 1949年 泉不動産として設立
- 1963年 住友本社を吸収合併
- 1964年 初のマンション分譲
- 1994年 バブル不況からの再建——高島準司氏の現場再建と都心ビル路線の継続 孝行息子の賃貸ビルが不況に沈むなか、後発デベロッパーはどう傷を負いながら立て直したか
- 1994年 組織のスリム化と再建に着手
- 1996年 「新築そっくりさん」事業に参入
- 1999年 国内初の商業用不動産公募証券化を実施
三菱・三井に東京一等地を取られた状態からの出発
1949年12月、財閥解体に伴い住友本社の不動産部門を継承する第二会社[1]、泉不動産として設立された。住友本社は400年以上の歴史を持つ住友家の事業を母体とし、戦前は住友コンツェルンの中枢を担っていたが、財閥解体で解散した。その清算段階で不動産部門の受け皿として泉不動産が生まれた。三菱地所は丸の内、三井不動産は日本橋[2]という東京の一等地を持っていた。これに対し、住友不動産が引き継いだのは大阪の住友本社ビルを中心とする物件群で、拠点は東京・神戸・京都に保有するオフィスビルの賃貸にとどまった(出所:日本会社史総覧 1995年版)。1957年5月に住友不動産へ商号を変更し[3]、1963年4月には清算中の住友本社を吸収合併[4]して戦後処理を終え、住友グループ中核の不動産会社としての法的整理を終えた。1964年4月には大阪支店を開設し[5]、関西の拠点整備も並行して行った。
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年12月 財閥解体に伴い住友本社の不動産部門を継承する第二会社(当時の社名 泉不動産)として設立
- [3]1957年5月 泉不動産から住友不動産へ商号変更
- [4]1963年4月 清算中の株式会社住友本社を吸収合併
- [5]1964年4月 大阪支店を開設
- 日本会社史総覧 1995年版(東洋経済新報社, 1995)
- [2]三菱地所は丸の内、三井不動産は日本橋を保有という業界配置(本文の出所は日本会社史総覧 1995年版)
1962年に調布で宅地分譲[6]、1964年に神戸で初のマンション分譲を始め[7]、住宅事業を始めた。1970年に東証・大証第1部に上場して資金調達力を得ると[8]、1974年3月に新宿住友ビルを竣工させた[9]。新宿副都心の超高層ビルとしては草分けで、都心ビル賃貸を本格化する出発点だった。しかし同年、第一次オイルショックで不動産市況が急変し、住友不動産は赤字に転落した。1974年6月には本社を東京住友ビル(千代田区)[10]から新宿住友ビルに移し、新宿副都心の超高層ビルを拠点とする態勢へ切り替えた。後発の財務脆弱が高度成長期の勢いを呑み込み、会社の生き方そのものが問われた。これが安藤太郎体制の始まりを決定づけた。
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [6]1962年 調布で宅地分譲を開始(住宅事業)
- [7]1964年 神戸で初のマンション分譲(浜芦屋マンション)
- [8]1970年 東京・大阪証券取引所第1部に上場
- [9]1974年3月 新宿住友ビル竣工(新宿副都心の超高層ビルの草分け)
- [10]1974年6月 本社を東京住友ビル(千代田区)から新宿住友ビルへ移転
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年12月 財閥解体に伴い住友本社の不動産部門を継承する第二会社(当時の社名 泉不動産)として設立
- [3]1957年5月 泉不動産から住友不動産へ商号変更
- [4]1963年4月 清算中の株式会社住友本社を吸収合併
- [5]1964年4月 大阪支店を開設
- [6]1962年 調布で宅地分譲を開始(住宅事業)
- [7]1964年 神戸で初のマンション分譲(浜芦屋マンション)
- [8]1970年 東京・大阪証券取引所第1部に上場
- [9]1974年3月 新宿住友ビル竣工(新宿副都心の超高層ビルの草分け)
- [10]1974年6月 本社を東京住友ビル(千代田区)から新宿住友ビルへ移転
- 日本会社史総覧 1995年版(東洋経済新報社, 1995)
- [2]三菱地所は丸の内、三井不動産は日本橋を保有という業界配置(本文の出所は日本会社史総覧 1995年版)
「ボロ会社」から賃貸ビル12棟への逆張り集中投資
1974年、住友銀行副頭取から転じた安藤太郎氏が社長に就任した[11]。当時はオイルショックで高度経済成長が終わり、全国の地価が暴落して不動産業界全体が苦境にあった。住友グループ内でも泉不動産時代を引きずる経営体力の弱さが目立ち、住友の名を持つ会社のなかで最も体力の弱い存在と見られていた(出所:証券アナリストジャーナル 1981/02)。1973年3月には都心の小学校で卒業生数十人という空洞化が報道されるほど、都心人口の周辺部への流出が進んでいた(出所:読売新聞 1973/03/25[12])。郊外宅地が脚光を浴びる時期に、安藤氏は1976年に大阪ビジネスパークの開発案件から撤退し、経営資源を東京のオフィスビル賃貸へ振り向ける逆張りに踏み切った。
- [11]1974年 住友銀行副頭取から転じた安藤太郎氏が社長に就任
- 読売新聞(1973年3月25日)
- [12]1973年3月 都心小学校の卒業生数十人という空洞化報道(本文の出所は読売新聞 1973/03/25)
1982年にマンション・住宅分譲部門を縮小し、売上高の8割を占めていた住宅部門の経営資源をビル新設と都心土地取得に振り向けた。1982年10月に本社を新宿住友ビルから新宿NS[13]ビルへ移し、新宿副都心の自社保有ビルを中核にオフィス賃貸事業を運営する態勢を整えた。1982年9月の新宿NSビル竣工時点で[14]、住友不動産は首都圏で賃貸ビル12棟を稼働し[15]、年間101億円の安定収入を生み出した。安藤氏は森ビル・三菱地所を目標に据え、賃貸ビルこそ安定収入・安定収益の柱であると明言して拡充を行った。ビル所有棟数では三菱地所・三井不動産・森ビルに次ぐ4位だったが、新宿副都心という立地での先行が後年のポートフォリオ拡大の土台となった。
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [13]1982年10月 本社を新宿住友ビルから新宿NSビルへ移転
- [14]1982年9月 新宿NSビル竣工
- [15]新宿NSビル竣工時点で首都圏に賃貸ビル12棟(安藤社長が証券アナリストジャーナルで12棟と発言)
安藤氏は『中興の祖』と呼ばれ、1994年に会長を退いた後も2008年に98歳で取締役を退任するまで経営への影響力を保った。就任当時の住友不動産はオイルショック後の赤字と財務基盤の脆さを抱える後発企業で、安藤本人も後年、就任時の心境を『ボロ会社』と振り返ったほどだった[16]。安藤氏は後年も新橋から日比谷、原宿から赤坂にかけての地域にビルを建てれば借り手はいくらでもいると語り、新橋[17]・浜松町・新宿副都心への集中出店を行った。都心ビルへの集中投資と住宅部門の縮小という二段構えは、以後約30年の基本路線となり、バブル崩壊後の1997年からの中期経営計画体制の下でも仁島体制の下でも引き継がれた。
- 日経産業新聞(1982年3月5日)
- [16]安藤太郎氏は就任時の住友不動産を「ボロ会社」と振り返った(日経産業新聞 1982/03/05 の発言)
- 日経産業新聞(1985年5月29日)
- [17]安藤太郎氏が新橋〜日比谷・原宿〜赤坂のビル需要を語った発言(本文の出所 日経産業新聞 1985/05/29)
- [11]1974年 住友銀行副頭取から転じた安藤太郎氏が社長に就任
- [15]新宿NSビル竣工時点で首都圏に賃貸ビル12棟(安藤社長が証券アナリストジャーナルで12棟と発言)
- 読売新聞(1973年3月25日)
- [12]1973年3月 都心小学校の卒業生数十人という空洞化報道(本文の出所は読売新聞 1973/03/25)
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [13]1982年10月 本社を新宿住友ビルから新宿NSビルへ移転
- [14]1982年9月 新宿NSビル竣工
- 日経産業新聞(1982年3月5日)
- [16]安藤太郎氏は就任時の住友不動産を「ボロ会社」と振り返った(日経産業新聞 1982/03/05 の発言)
- 日経産業新聞(1985年5月29日)
- [17]安藤太郎氏が新橋〜日比谷・原宿〜赤坂のビル需要を語った発言(本文の出所 日経産業新聞 1985/05/29)
「高層住宅のパイオニア」評価と関連会社網の形成
ビル賃貸への集中と並行して、住宅事業でも商品力を引き上げた。1964年の神戸での初のマンション分譲以降、東京・大阪近郊で事業を広げ、都心ワンルームから郊外の数百戸規模のファミリー物件まで商品企画の幅を広げて『高層住宅のパイオニア』と評された(出所:日本会社史総覧 1995年版[18])。1982年11月の広尾ガーデンヒルズ(共同事業)[19]は都心高級マンション市場での地位を固めた。1963年の香港進出を皮切りに海外事業に踏み出し[20]、1972年5月には住友不動産カリフォルニアを設立[21]して米国に進出、1987年8月にはニューヨークでティッシュマンビルを取得して海外でも賃貸事業に参入した。1973年7月の住友不動産建物サービス設立[22]、1975年3月の住友不動産販売設立など[23]、グループ関連会社の創設も1970年代前半に集中した。
- 日本会社史総覧 1995年版(東洋経済新報社, 1995)
- [18]「高層住宅のパイオニア」と評された(本文の出所は日本会社史総覧 1995年版)
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [19]1982年11月 広尾ガーデンヒルズ(共同事業)分譲開始
- [20]1963年 香港進出(初の海外進出)
- [21]1972年5月 住友不動産カリフォルニア設立(米国進出)
- [22]1973年7月 住友不動産建物サービス設立
- [23]1975年3月 住友不動産販売設立
1980年代には管理(住友不動産建物サービス)、リフォーム(住友不動産シスコン)、[24]注文住宅(住友不動産ホーム)、フィットネス(住友不動産フィットネス)と関連会社を相次いで設立し[25]、総合生活産業への拡大を図った。1984年12月設立の住友不動産ファイナンスはグループ[26]の資金管理を担った。1975年に分社化した住友不動産販売は全国150の直営店舗で仲介実績業界首位の規模に育ち、グループの販売基盤を固めた。バブル崩壊後にはこれら周辺事業の多くが縮小し、ビル賃貸と住宅の2本柱に事業構造が収斂した。1980年代の多角化はそのままの形では残らなかったが、ビル管理やリフォーム事業の一部はグループの基盤サービスとして残った。仲介の住友不動産販売、ホテル事業のヴィラフォンテーヌ、フィットネスのエスフォルタとあわせ、現在も都心ビルと住宅事業を下支えしている。
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [24]住友不動産シスコン(リフォーム会社)は1980年8月設立
- [25]住友不動産フィットネス(現エスフォルタ)は1986年9月設立
- [26]1984年12月 住友不動産ファイナンス設立(グループの資金管理)
- 日本会社史総覧 1995年版(東洋経済新報社, 1995)
- [18]「高層住宅のパイオニア」と評された(本文の出所は日本会社史総覧 1995年版)
- 住友不動産 有価証券報告書【沿革】
- [19]1982年11月 広尾ガーデンヒルズ(共同事業)分譲開始
- [20]1963年 香港進出(初の海外進出)
- [21]1972年5月 住友不動産カリフォルニア設立(米国進出)
- [22]1973年7月 住友不動産建物サービス設立
- [23]1975年3月 住友不動産販売設立
- [24]住友不動産シスコン(リフォーム会社)は1980年8月設立
- [25]住友不動産フィットネス(現エスフォルタ)は1986年9月設立
- [26]1984年12月 住友不動産ファイナンス設立(グループの資金管理)