1949年に住友財閥は不動産管理のために泉不動産株式会社(1957年に住友不動産へ商号変更)を設立した。
財閥系不動産会社のうち、三菱地所は丸の内、三井不動産は日本橋という東京の一等地を確保していたが、対照的に住友不動産は大阪の住友本社を保有に限られ、相対的に不利な状況であった。
1973年のオイルショックによって住友不動産の経営状況が悪化すると、住友不動産の社長として住友銀行出身の安藤太郎が社長に就任。安藤社長は大阪地区への投資中止と、東京への集中投資によって再建。安藤太郎氏は住友不動産において「中興の祖」と形容され、名物社長として「アンタロー」の愛称で呼ばれていた。
なお、安藤太郎氏は1994年に会長を退くが、その後も取締役として経営への影響力を保持。2008年に健康上の理由(安藤氏は当時98歳)で取締役を退任するまで、住友不動産の経営に対する影響力を保持した。
1976年に住友不動産は大阪ビジネスパークの開発案件から撤退し、東京におけるオフィス賃貸ビル事業への集中投資を決断。1983年までに東京で貸しビルを11棟稼働することで収入を確保。
住友不動産(安藤太郎・社長)は東京都心部における賃貸用不動産(オフィスビル)の開発に注力するため、売上高の80%を占めていたマンションおよび住宅(建売)部門の縮小を決定。経営資源をオフィスビルの新設および都心部土地取得に優先的に投下した
1981年までに住友不動産は賃貸ビルを12棟稼働し、年間101億円の安定的な収入を確保。この時点で、賃貸ビルの所有件数では、1位が三菱地所、2位が三井不動産、3位が森ビル、4位が住友不動産という序列であった。1983年に住友不動産は新宿NSビルを開業し、首都圏での賃貸ビル事業を軌道に乗せるとともに、経営再建を完了する。
バブル崩壊後の1998年に住友不動産は特別損失681億円を計上。住友不動産の株価は206円へ低迷